戦争体験者の声や戦争の歴史から考える 戦後とは、平和とは

今年2月末にロシアによるウクライナ侵攻が始まり、ニュースなどでその様子が連日報道されています。日本では戦後77年ということもあり、戦争を知らない世代が多くなっていますが、この報道によって若年層の戦争への関心も高まっています。本特集では、そうした状況下だからこそより深く知ってほしい、日本の戦争の歴史と、戦後の今も続いている援護行政についてお伝えします。


<援護行政を知るうえで押さえておきたいキーワード>

戦没者
太平洋戦争において亡くなられた方々(約310万人で、うち軍人・軍属は約230万人)。

遺骨収集
海外戦没者(硫黄島、沖縄を含む)の遺骨のうち、未だ収容できていない遺骨を収容して、日本に送還すること。

戦没者遺骨のDNA鑑定
太平洋戦争で亡くなられた戦没者の遺骨に残るDNA情報とその遺族のDNA情報を基に、遺骨の身元を特定する方法。
※DNA鑑定に必要な費用は、国が全額負担

戦傷病者戦没者遺族等援護法
軍人・軍属等であった方の公務上の傷病および死亡等に関し、国家補償の精神に基づき、障害を負った本人には障害年金を、亡くなられた方の遺族には遺族年金・遺族給与金や弔慰金を支給するための法律(1952年4月制定)。なお、軍人については基本的には恩給法の対象となる。軍属とは軍に雇われた工員の方など。

慰霊巡拝
旧主要戦域や遺骨収容のできない海上において戦没者を慰霊するために、遺族が現地を巡り追悼式や献花を行う。

戦傷病者特別援護法
軍人・軍属等であった方が公務上で傷病にかかり、今なお一定程度以上の障害を有する場合や療養の必要がある場合に、戦傷病者手帳を交付して、療養の給付、補装具の支給、戦傷病者相談員による相談・指導等の援護を行うための法律(1963年8月制定)。

硫黄島の戦い
1945年2~3月、小笠原諸島の硫黄島(東京都)において、日本軍とアメリカ軍の間で行われた戦い。日本軍の戦没者は約2万人。

ペリリュー島の戦い
1944年9~11月、西太平洋のパラオ諸島のペリリュー島(現在のパラオ共和国)において、日本軍とアメリカ軍の間で行われた戦い。日本軍の戦没者は約1万人。


硫黄島における遺骨収集事業の歩み

遺骨収集や慰霊巡拝などは今もなお続いている事業です。戦後に始まったこれらの事業をなぜ行うのか、なぜ続いているのかについて、硫黄島での遺骨収集事業を中心に担当者に聞きました。

社会・援護局 事業課課長補佐 小沼利男 (写真左)
社会・援護局 事業課事業推進室 室長補佐 藤井津如 (写真右)
 

硫黄島の戦い

日本本土爆撃の基地として硫黄島に着目した米軍は6万人余りの兵力で上陸。日本軍の守備隊約2万人余りが激しい抵抗を展開しましたが玉砕しました。硫黄島での主たる戦闘は1945年2月19日に始まり、組織的な戦闘が終わったのは同年3月26日とされています。

東京都から南へ約1,250kmのところに位置する小笠原諸島の火山島。面積は22km²で、品川区と同じくらいの広さ。戦前は約1,000人の島民が生活していましたが1944年7月に疎開させられ、現在は、海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、島民はいません


●遺骨情報が減るなかでの遺骨収集事業の変遷

海外戦没者概数は240万人、終戦時の復員や引き揚げの際にもご遺骨が持ち帰られましたが、太平洋諸島の島々では日本兵の遺体が数多く放置されている状況でした。

政府は、サンフランシスコ平和条約発効後に遺骨収集事業を開始し、1952~1957年に主要戦域となった各地を船舶などで巡行し、ご遺骨の一部を「象徴遺骨」として持ち帰りました。これが第一次遺骨収集事業です。高度経済成長に伴い、日本人が海外旅行に普通に行けるようになり、ご遺族や戦友の方が現地に行って慰霊をしたいという話も出てきました。また、「ここに遺骨がある」という情報が寄せられるようになり、1967~1972年に第二次遺骨収集事業を行いました。

1972年に、戦争終結を知らずジャングルに潜んでいた旧日本兵の横井庄一さんが発見され、これがきっかけになって、旧日本兵の捜索と合わせて1973~1975年まで第三次遺骨収集事業を、1976年以降もそれまで相手国との事情でできなかった地域などで継続的に遺骨収集事業を実施してきました。

2006年以降は遺骨情報がかなり少なくなり、収容が困難になってきましたが、民間団体の協力を得て海外未収骨の情報に基づいて遺骨収集事業を行っています。

2016年には、「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」が成立。同年度から2024年度までを集中実施期間と定めて、遺骨収集事業に力を入れて取り組んでいますが、2020年の初めから2021年の12月頃まで新型コロナウイルス感染症の世界的な流行もあり、海外への派遣はできませんでした。2022年1月から、マリアナ諸島(サイパン、テニアン島)を皮切りに事業を徐々に再開していますが、まだ入国制限が厳しい国もありますので、全面的に実施できている状況ではありません。




●戦地・硫黄島に残る1万人余りの遺骨

硫黄島における日本の戦没者概数は2万1,900人で、戦後の遺骨収集事業により、これまでに戦没者の約半数の1万539柱のご遺骨が収容されています。戦後、硫黄島は米国の施政権下におかれ、1953年に主要戦域となった太平洋の島々(米国管理地域)を船舶で巡行するなかで硫黄島での最初の遺骨収集が行われたものの、本格的な遺骨収集の始まりは1968年に小笠原諸島が返還されてからになります。終戦後すぐに硫黄島に行けていれば、もっと多くのご遺骨が帰還できたのではないかと思います。厚生労働省職員として、硫黄島での遺骨収集には何度も行っていますが、米軍の土木工事により当時と地形が変わっているところもありますし、現在も活発な火山活動により島全体が隆起しています。そのようななか、ご遺骨を探し収容することは容易ではありません。




 

●戦争体験の労苦を伝え続け繰り返さないように……

硫黄島に限らず遺骨収集は各地で実施しており、情報が少ないなか、ご遺骨を収容できた際には、派遣団として参加しているご遺族をはじめとする団員とともに喜びを分かちあい、やはりやりがいのある仕事だと思います。

厚生労働省では遺骨収集事業とは別に、戦没者を慰霊するための慰霊巡拝を、旧主要戦域や遺骨収容のできない海上において実施しています。肉親のご遺骨が戻ってきていないご遺族が多数参加され、なるべく戦没地点に近い場所にご案内しています。現地で追悼式を行いますが、その際、日本から遠く離れた異境の地で亡くなられた戦没者の無念やご遺族の心痛を思うと胸に迫る思いです。

以前、傷痍軍人の援護担当をしていたことがあります。戦闘で腕を失った方や失明した方など、戦争に行き障害を抱えた後の話を直接お伺いしました。戦争がなければ、そういったご苦労もなかったはずです。戦没者のご遺骨の多くもご遺族の元に帰れなくなってしまっているので、援護行政を担当していて、「戦争はあってはならないもの」と日々痛感しています。

戦中・戦後のさまざまな労苦を伝え、繰り返さないことが、戦後も続く援護行政の役割の一つです。一柱でも多くのご遺骨が帰還できるよう遺骨収集事業に取り組むとともに、戦傷病者、戦没者遺族への援護にも引き続き取り組んでまいります。


DNA鑑定
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000137645_00006.html

 

広報誌『厚生労働』2022年8月号
発行・発売:(株)日本医療企画