HIVの過去40年と経験者の声から学ぶ 病気と差別の歴史と正しい知識

広報誌「厚生労働」2024年1月号とびラボ企画

2023年10月20日開催の「とびラボ企画~病気と差別の歴史と正しい知識」と題した勉強会では、日本で約40年前に感染者が現れたHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に対する誤解・偏見・差別の歴史を、感染者の方々を通して学びました。



<とびラボとは?>
厚生労働省では、職員が今の担当分野にとらわれず、自分自身の関心で新しい出会いや学びを求めてチャレンジすることを応援する提案型研修・広報制度があり、通称「とびラボ」(とびだす“R”ラボ)と呼ばれています。

これは、職員が関心のある政策分野に継続的にかかわること及び厚生労働行政の政策分野における現場の支援者、当事者などと出会い、現場での実践に関する学びを深めることを支援することで、職員の厚生労働行政に関連する幅広い実践的な知識の習得および職務を行う意欲の向上を期待するものです。とびラボでは、職員が企画したこのような活動を発信しています。

<企画提案者の思い>
差別についてちょっとでも考えるきっかけになれば


小川浩司
医薬局医薬品審査管理課


私が子供の頃、HIVパニックが起き、その時の恐怖は今も鮮明に記憶に残っています。
あれから年月が経って、HIVについて聞くことはほとんどなくなりました。しかし、まったくなくなったわけではありません。私の知人にHIV陽性者の方がいて、その知人が勇気を振り絞って告白してくれたときのことを私はよく覚えています。

その知人の気持ちを私は理解することはできませんが、想像することはできます。「怖かっただろうな。でも、病気そのもの以上に周囲の目がもっと怖かったのではないか」と。
普段の生活ではあまり考えることのない差別について、この企画に触れた人が、ちょっとでも考えるきっかけになってくれればいいな、と思います。

<講演>
HIVとHIVに対する差別の歴史

日本エイズ学会理事を務め、長年、HIVに関する誤解・偏見・差別の研究をしてきた井上さんが、HIVとその差別の歴史を語ります。


井上洋士さん
株式会社アクセライト放送大学客員教授
いのうえ・ようじ 2004年、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。博士(保健学)。千葉大学看護学部助手、三重県立看護大学看護学部助教授等を経て、2008年に放送大学准教授、2010年に同大学教授。現在、株式会社アクセライト調査研究コンサルティング・シニアリサーチャー&コンサルタント、放送大学客員教授、日本エイズ学会理事、特定非営利活動法人日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス理事、HIV Futures Japanプロジェクト代表

マスコミ報道で起きた「エイズパニック」

現在も続く、HIVに対する誤解・偏見・差別の起源は1980~1990年代の出来事にあります。
1982年6月、米国疾病予防管理センター(CDC)が5人のカリニ肺炎の患者を確保し、7月に「エイズ」という疾患として定義しました。

日本で初めての関連報道は毎日新聞の7月20日付の記事でしたが、この記事中に「エイズ」という言葉はなく、「免疫性を壊す奇病が米で広がる」と記されていました。その後、1985年に日本初のHIV陽性者が認められると、「エイズパニック」と呼ばれる現象が引き起こされます。たとえば、翌年11月に、母国に強制送還されたフィリピン女性がHIV感染者であると報じられると、公衆浴場が外国人の入浴を拒否したり、感染者が住んでいた松本ナンバーの車を避けるなどの行為が起きました。

当時の週刊誌では、「悪魔の伝染病、エイズ」などと、今では到底使われない言葉が用いられています。
さらに1990年代初め、エイズ予防財団がつくったHIV予防ポスターが、コンドームを使って「薄くてもじゅうぶん厚い」といったセックスワーカーの方を揶揄するようなデザインであったり、パスポートを使って「行ってらっしゃい エイズに気をつけて」とのコピーで海外の疾患と印象づけたものだったことも、HIV差別や偏見の温床となりました。

感染者の寿命は延び感染者数も減っているが……

HIVの歴史の転機は「薬害HIV感染」です。1980年代前半、血友病などの治療に使われていた米国由来の非加熱濃縮血液製剤にHIVが混入していて、危険性が明らかであるにもかかわらず、国や製薬企業は回収せず使われ続けたことから、1433人がHIV感染。しかも、それら患者に告知されていなかったために、彼らの妻やこどもへの二次・三次感染も引き起こされました。

これら薬害HIV感染者の半数が亡くなり、生存者数は697人と報告されています(2022年)。1989年、国と製薬企業5社を被告とした裁判が行われ、1996年3月に和解が成立。国、製薬企業は和解を受け恒久対策を確約しましたが、なかでも「医療体制の整備」と「HIV感染者に対する身体障害者認定」が肝でした。

前者は当時、患者が安心して治療を受けられる医療機関がないので、国立国際医療センター(当時の名称)内にエイズ治療・研究開発センターをつくり、それをトップに医療体制を整備するというもの。後者は、医療費軽減を図ることが狙いでした。

HIV感染症は1980年代、延命治療のみでしたが、1990年代半ばに副作用が多く服薬頻度も高い多剤併用薬が登場。2000年代半ばには1日1~2回の内服で副作用も少ない薬が台頭し、今では2カ月に1回の筋肉注射で済む薬も登場しています。その結果、先進国における20歳のHIV陽性者の余命は2010年時点で55年と、HIV陽性でない方とほぼ同じになりました。

一方で、初期のイメージを引きずった差別的対応も存続し、医療者ですら差別的な対応をすることが少なくないという印象です。

<HIV陽性者が語る本音>
家族や会社、社会からの誤解・差別・偏見の実態

今回のとびラボ会場にはHIV陽性の当事者3人の方が実際に足を運んでくださり、それぞれの経験を直接、厚労省職員に語ってくれました。

【家族とHIV陽性者】
家族と同居することで突き刺さる言葉を浴びる
ケイタさん(仮名)


私は2011年にHIV陽性が判明し、現在、3カ月に1度の通院と毎日の服薬治療を行っています。

幼少期から家族との関係は良好でしたが、実家を出て会社勤めを始めてから自分はゲイ(同性を好きになる男性)だと自覚、体調を崩して検査を受けたらHIV陽性でした。思い悩んだ末に「自分はゲイでHIV陽性だった」と両親に告げると、「まず体調を治そう、お前とは仲良くしていきたいから心配しなくていい」と言われました。

しかし、生活のため両親と兄家族が住む実家に戻ると、お酒を飲みに出かける私に「そんなところに出入りするから感染したんじゃないか」と言い立てる父がいました。私は空気が乾燥すると鼻血が出やすく、居間で鼻血を止めていると、その横を甥や姪が歩き回ります。すると父に呼ばれ、「HIV陽性者でも共に暮らすことを許容してくれている兄家族に気を使わないのか」と。

告白しなければ、こんな言葉は浴びないが、一人で苦しむことになる。そのジレンマのなかに日々の生活があるのです。

【会社とHIV陽性者】
役員から「責任が取れないから辞めてくれ」の言葉
カトウさん(仮名)


私は2002年にHIV陽性を告知され投薬治療を開始、現在、3カ月に1度の通院で治療を継続中です。告知当時は正社員として食品加工工場で働いていました。現場はギリギリの人数で回していて、1人欠けると迷惑がかかる状況でしたが、会社には真実を告げたほうがいいと直属上司に知らせました。

上司は好意的に受け止めてくれ、「仕事を続けてほしい」と言ってくれましたが数日後、役員から「問題が起きたら責任を取れないので辞めてほしい」と言われました。

そこで私が人権問題に明るい弁護士と共に交渉しようとすると、会社側は「我々は辞めてほしいと一切言っていない」と弁明。「あなたの身体が心配なので、ほかの部署に異動してほしい。ただし、待遇は変わらない」との条件つきでした。

与えられたのは簡単な仕事で、一人パーテーションのある角部屋に入れられ、ほかの社員とコミュニケーションが取りづらいなかで働き続けました。6年後、自分の意思で退職。これは昔話ではなく、今現在でもあることなのです。

【社会とHIV陽性者】
あなたはHIV陽性者に対する生の声をどう感じるか
ケンゴさん(仮名)


私は2003年にHIV感染症と診断され、2006年より投薬治療を開始。治療と並行して2008年より、東海地方のHIV陽性者支援団体「LIFE東海」の立ち上げと運営にかかわってきました。

HIV感染症やHIV陽性者に対して「差別を受けた」「偏見がある」ということには、とてもグレーな部分があり、ハラスメントの判断に通じるようなところがあります。「する側」「される側」、さまざまな要因が関係してきます。

私のX(旧Twitter)のアカウントは、誰でも見ることができコメントもできるのですが、先日、私がXにポストした投稿に寄せられたHIV陽性者に対するコメントを見ると、一般の媒体には載せられないような文言がたくさん並んでいます(笑)。

しかし、それはHIV陽性者に対する社会の生の声です。その意味でも私は、それを非HIV陽性者の方々にそのまま読んでもらって、どう感じるかを体験してほしいと思っています。私のXのポストに寄せられた生のコメントに直面して、皆さんがどう考え、どう行動に移していくのか。それを問いかけたいのです。

<企画委員から>



 

出典 : 広報誌『厚生労働』2024年1月号 
発行・発売: (株)日本医療企画(外部サイト)
編集協力 : 厚生労働省