コロナ禍を経て再開する 海外での「戦没者遺骨収集」と「慰霊碑巡礼」

厚生労働省は戦没者遺族への援護行政として、第2次世界大戦の「戦没者遺骨収集事業」を実施しています。
そのなかで「海外での戦没者遺骨収集事業」は、コロナ禍やウクライナ情勢の影響で進捗が遅れていましたが、2022年1月から再開されました。

本特集では、サイパン島の隣にあるアメリカ自治領「テニアン島」と、アリューシャン列島の西端にあるアメリカ・アラスカ州「アッツ島」での遺骨収集事業と、海外に15ある戦没者慰霊碑の建立秘話にスポットを当て、海外での遺骨収集と慰霊碑巡礼の様子をお伝えします。

<Part1>
「海外遺骨収集」の現在・過去・未来

【テニアン島(アメリカ自治領)】
サイパン島の隣島に残る5,000柱の遺骨 立ちはだかる岩山地形を乗り越える


社会・援護局 事業課 事業推進室 室長補佐
手塚直樹


●約40回の遺骨収集により1万500柱を収容
テニアン島は、アメリカ軍のB29爆撃機が原爆を搭載して日本へと飛び立った場所であり、現地には今でも広島・長崎に落とされた原爆を格納したピットが残っています。同島は当時の日本にとって南方進出の拠点とした島であり、米国にとっては、日本本土への爆撃機が十分な給油をすれば往復できる距離にある島だったことから、終戦前の1944年7月、日米両国による激しい戦闘が行われます。

同島はサンゴが隆起してできた岩山で、近隣のグアム島やサイパン島と比べると平地が多いことから、戦前は工場が多くつくられていました。さらに、サトウキビなどを栽培して農業を営む日本人も住んでおり、米軍進攻当時の現地在住の民間人は1万6,000人近くに。日本軍は陸海軍合わせて1万700人でした。しかし、日米の激戦の末、民間人も含めた大勢が亡くなられたのです。

そんな同島で遺骨収集が始まったのは、1952年発効のサンフランシスコ平和条約がきっかけでした。日本の主権が回復したことで海外地域などに残存する戦没者遺骨の収集および送還などに尽力することが決まりました。同年から約40回の収集が実施され、亡くなられた1万5,500人のうち、1万500柱を収容、5,000柱が未収容という状況にあります。

今後、残りの遺骨を一柱でも多く収集することが目標となりますが、その道のりは決して容易ではありません。



●関係者と協力しながら残りの遺骨収集に取り組む
遺骨収集における大きな問題は、地形です。戦闘時に「見つかりにくい」という理由で身を隠した高地や岩陰、洞窟で亡くなられた方が大勢おられます。
テニアン島は平地が比較的多いとはいえ、サンゴが隆起した岩山で、道路などの整備も進んでいません。土地の高低差はさほどありませんが、岩でできた島ですから足場が悪く、その苦労は相当なものです。

また、戦争直後は戦闘で樹木が焼けて岩肌が露出していたので、米軍が緑化のために種をまいたことにより、現在は木々がうっそうと茂っています。遺骨収集の現場では、地元の協力者にブッシュナイフで木々を刈ってもらいながら、道なき道を行かなくてはなりません。

そのほかの問題としては、遺骨を見分けることの難しさです。同島にはかつて先住民族のチャモロ人が住んでいました。住居や墓地は平地につくりますが、まれに山岳地帯で亡くなった方もいるわけです。

近くに古代の遺留品が発見されれば先住民族の遺骨だと推定できますが、それらは長い歳月のうちに風化して、ほぼ残っていない場合もあります。そのため、テニアン島での遺骨収集にはさまざまな専門家や現地の方の協力が欠かせません。現在は、北マリアナ諸島歴史保存局と連携をとり、遺骨鑑定に関しては形質人類学や考古学の専門家の協力を得ながら、遺骨の送還を進めているところです。

国内においては2016年に「戦没者遺骨収集推進法」が施行され、遺族団体や戦友団体、学生のボランティア団体などで構成される一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会が発足し、遺骨収集事業の委託が行われています。現在テニアン島で遺骨が残っているのは険しい場所ばかりですが、同協会が現地関係者と連携をとりながらしっかり取り組んでいるところであり、確度の高い情報を集め、遺骨収集を進めていく考えです。

【アッツ島(アメリカ・アラスカ州)】
無人島化と酷寒による困難も 米国との粘り強い交渉に活路を見いだす


社会・援護局 事業課 事業推進室 室長補佐
羽田憲司



写真、地図提供:厚生労働省

●初めて「玉砕」した島 思うように進まぬ遺骨収集
第二次世界大戦中、アッツ島は激戦が繰り広げられ、初めて「玉砕」という言葉が公式に使われた場所です。同島での戦闘は1943年5月に行われ、約2,600人の方が亡くなりました。
今年はちょうど80年の節目の年にあたります。新聞でも取り上げられましたので、ご覧になった方もおられるのではないでしょうか。

2007年と2008年には当省職員が島に上陸し、遺骨収集の事前調査を行いました。その成果に基づき、2009年から本格的な事業展開を考えていましたが、次のような理由から思うように実施できていないのが現状です。

1つ目の理由は、同島が無人島であることです。以前はアメリカ沿岸警備隊が常駐しており、日本が遺骨収集するときは道路をはじめとしたインフラを使わせてもらっていました。
ところが、2010年に撤退。その後は滑走路の維持管理がなされておらず、どれだけ使えるかがわからない状態です。遺骨収集の目的地までの橋も朽ち果て、宿舎もありません。

アッツ島は、アラスカ州のアンカレジからも約2,400km離れた場所にある島です。遺骨収集を行うためには、大がかりなインフラ整備が必要な状況です。
さらには、島全体がアラスカ海洋国立野生生物保護区に指定されており、簡単に立ち入ることができず、地面を掘削することも困難な状況となっています。

2つ目の理由は、濃霧や雪に覆われている厳しい気象条件のなか、1年のうち本格的に調査や収集活動ができる時期は夏場の7~8月に限られていることです。
これまでに政府による遺骨収集で320柱のご遺骨を収容しましたが、それ以外のご遺骨は未収容の状態です。

●アッツ島上陸は難しく機上遙拝を計画
事業推進を模索するなかで、並行して行っているのが慰霊巡拝です。終戦後、アメリカ軍によって236柱のご遺骨がアンカレジに埋葬され、1953年に日本政府派遣団により日本に送還されました。
その後、アラスカ在住の日本人有志の方々によって同地に慰霊碑が建てられ、今も慰霊が行われています。
直近では2019年に国の政策として、アッツ島への慰霊巡拝を実施しました。上陸は難しいため、同島上空を旋回し、拝んで祈りを捧げる機上遥拝を計画しました。ご遺族を中心に当省からも職員が参加し、14人で現地へ向かいました。



●600km離れたガレロイ島上空で苦渋の決断
まず、アラスカ州のアンカレジを拠点として、アメリカ海空軍の基地があるダッチ・ハーバーで給油し、1泊します。
ところが、アッツ島へ向けた出発の朝になって、アッツ島周辺の天候が急変。雨風を伴う大型の低気圧が接近し、さらに悪化するとの連絡が入りました。

それでも、セスナ機に乗って出発し、途中、同州最南端のアダック島に給油のため着陸します。しかし、同島到着時点で雨が土砂降り状態であり想定以上に天候が悪化していたことから、アッツ島への到達は困難との現地協力者からの判断が下され、アッツ島から約600km離れたガレロイ島上空まで行き、戻ってくるという苦渋の決断をせざるを得ませんでした。

●慰霊巡拝を行いながら本格的な収集実施をめざす
この2019年の慰霊巡拝には、私自身も担当者として参加していたのですが、アッツ島上空まで行けなかったことに対して、ご遺族は当然ながら非常に残念なご様子をしておられました。と同時に、気象条件が大変厳しい島であることを、ご遺族自身も強く心に感じることとなりました。
さらには、「そうした場所だからこそ、何とか遺骨収集を実現させてほしいという気持ちを新たにした」というお声もいただきました。

アッツ島での遺骨収集は、アメリカの協力なしには進めることができず、気象条件も厳しいため、実現には困難が伴います。
ですが、何よりご遺族の思いをかなえられるよう、粘り強く交渉を続けているところです。アメリカの了解を得ることができれば、速やかに遺骨収集を進めていきたいと考えています。

<Part3>
海の向こうの「戦没者慰霊碑」建立史




 
出典 : 広報誌『厚生労働』2023年8月号 
発行・発売: (株)日本医療企画(外部サイト)
編集協力 : 厚生労働省