特集

終戦から75年
改めて考える戦没者慰霊


特別対談

援護行政と戦没者遺骨収集事業
~継承されていく戦争の体験・記憶~


 厚生労働省が誕生した背景には「戦争」が大きくかかわっています。医療や介護、労働のイメージが強い厚生労働省がなぜ、戦争に関連した事業「援護行政」を担い、戦後75年経つ今も援護事業に取り組み続けているのでしょうか。


 町亞聖/フリーアナウンサー
まち・あせい●埼玉県さいたま市出身。立教大学文学部を卒業後、日本テレビにアナウンサーとして入社。さまざまな番組を担当した後、報道局に活動の場を移し、記者、キャスターとして活躍。主に厚生労働省担当記者として多種多様なテーマを取材してきた。2011年6月、フリーへ転身。




 岩楯信和/厚生労働省社会・援護局 援護企画課中国残留邦人等支援室長
いわだて・のぶかず●埼玉県戸田市出身。1980年厚生省入省。援護局援護課、庶務課、大臣官房国際課、社会・援護局援護書記、援護企画課長補佐、事業推進室長補佐、援護企画課総括補佐などを経て、2020年4月より現職。




強い兵士をつくり
家族を支援する厚生省の誕生


町●今年は終戦から75年目ということで、厚生労働省が担っている援護事業について伺いたいと思います。私は、2000年まではテレビ局のアナウンス部にいました。その後、報道部に異動して、医療と介護がやりたかったので、自分で志願して厚生労働省担当になりました。
 私が驚いたのは、戦後の援護行政を厚生労働省が長く担っているということでした。厚生労働省というと、どうしても医療と介護のイメージが強いですから。最初に援護事業に触れたのは、中国残留孤児の方たちの取材でした。当時から彼らの高齢化は進んでいたのですが、厚生労働省の会見室で、口々に「もう亡くなっているかもしれないけど、お父さんお母さんに会いたい」「日本の故郷の地を踏みたい」と訴えられていました。その後、かろうじて親戚が見つかった方もいましたが、本当にギリギリのときだったかもしれません。
 そこで改めて、どうして厚生労働省が援護事業を担っているのかを教えていただければと思います。

岩楯●厚生労働省の前身の話になるのですが、内務省から衛生・社会両局が分離して「厚生省」ができたのが1938年1月です。
 前年7月に日中戦争が始まり、「戦争に勝つには強い兵士をつくらなければいけない」「兵士を送り出したら、残った者(家族)には軍需工場などに働きに行ってもらうために、労働力を確保しなければならない」という課題が出てきました。加えて当時、結核が不治の病として非常に流行しており、戦争に兵士を送り出しても、行った先で、多くの兵士が結核に罹患してしまうことがあったと聞いています。そうした病気の疾病対策も必要になり、厚生省が立ち上がった、という歴史があります。

町●なるほど、兵士を強く健康に、という狙いがあったのですね。そのほかにも、国に残って銃後を守っている人たち(女性や子ども)の支援も行っていたと聞いています。乳幼児の死亡率も高かったため、その減少対策もしていたとか……。

岩楯●そうですね。当時は人がいくらいても足りない、「子は宝」という時代でした。産めよ、増やせよではないですが、子どもをたくさん産み、人口を増やしていく、そういう国の方向性に従って、厚生省の施策も進められていきました。


日本への引き揚げ支援が
厚生省の大きな役割に


町●健康分野を担って強い兵士(国民)づくりをすることが厚生省の出発点でしたが、戦争が終わったあとも、帰ってくる兵士や、ご主人や息子さんなどの家族を戦争で亡くされた方の支援もしていますね。

岩楯●まず、戦争が終結して海外に、軍人軍属と一般邦人がそれぞれ330万人ほどおり、全体で660万人くらいの方を日本に帰還させるという壮大な事業がありました。
 軍人軍属はもともと陸軍・海軍に分かれていましたが、戦後は解体されてしまったので、陸軍については第一復員省、海軍については第二復員省が組織を引き継ぎ、引き揚げ業務を行っていました。一般邦人については厚生省の社会局が担い、舞鶴や横須賀、函館など全国各地に、引き揚げ施策を進めるための援護局をつくりました。
 その後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から、軍人軍属も一般邦人も、引き揚げについてはまとめてやるべきだという指令を受け、厚生省が引き揚げの中央責任官庁に指定されたという経緯があります。

町●引き揚げ後の日本での生活を支援するという意味で「援護」の言葉が出てきて、現在の厚生労働省の社会・援護局につながっていくわけですね。

岩楯●終戦で帰国した兵士や戦傷病者はもちろん、戦災孤児と言われる戦争で亡くなった方の孤児や、戦災未亡人と言われる戦争で亡くなった方の配偶者の生活や就労の支援も、厚生省が担ってきました。

町●私の祖母も、満州から引き揚げてきた一人でした。そうした人たちの帰国後の生活を支えていたのですね。もっと当時の話を聞いておけばよかったなと、今になって思います。


全国戦没者追悼式など
戦後も続く5つの事業


町●話は変わりますが、現在の援護行政にはどんな事業があるのでしょうか。

岩楯●戦後処理というのは100年かかるとよくいわれています。今は戦後75年で、これが「もう75年」なのか、「まだ75年」なのかはわかりませんが、現在、援護行政で行われている事業は大きく分けて5つあります。
 ①戦没者の慰霊、②戦中・戦後の労苦の継承、③戦没者遺族などの援護、④中国残留邦人などの支援、⑤旧陸海軍資料に基づく履歴証明など──です。
 ①については、海外主要戦域での戦没者の遺骨収集や慰霊巡拝といった事業です。この事業の一環として、毎年8月に全国戦没者追悼式という大きな慰霊事業を行っています。これは政府主催ですが、実際に事務を行っているのは厚生労働省で、今年も準備しているところです。

町●私もテレビ局で厚生労働省担当のときは毎年、取材をさせていただきました。車いすに乗ったおばあちゃんとお孫さんが一緒に参加されていて、お二人の話を聞いたことがあります。

岩楯●②については、戦争の悲惨さを次世代の方に伝えていくことが大事な仕事であるため、「昭和館」や「しょうけい館」という施設で戦中・戦後の労苦の資料展示や企画展の開催などを行っています。そのなかでは、委託事業として「語り部」事業もやっています。

町●私も、「語り部」に応募してみたいと思いました。

岩楯●③では軍人軍属であった者で戦傷病者に障害年金、そのご遺族に遺族年金、戦没者のご遺族などに各種特別給付金などを支給しています。
 ④では、中国残留邦人の帰国援護や帰国後の自立・生活支援を行っています。最後に⑤としては、旧陸海軍から引き継いだ人事関係資料を活用して履歴証明業務などを実施しています。旧ソ連やモンゴルでの抑留中死亡者の方の身元特定も、⑤の事業の一つです。


国ごとの壁があるなかで
地道に遺骨収集事業を継続


町●一緒に厚生労働省を担当していた記者が遺骨収集をする派遣団の密着取材をしたのですが、戦争では海外で240万人ほどが亡くなって、半分くらいがまだ戻ってきていないという事実を知りました。そういうなかで、今も地道に遺骨収集の作業を続けていますね。

岩楯●私も入省後、最初に社会・援護局に配属されたとき、ヘルメットに作業着といういで立ちで遺骨収集に参加したことがあります。この事業は今もなお続いています。
 ただ昨年報道されたように、過去のロシアでの遺骨収集で、日本人ではない遺骨と指摘を受けた事例がありました。国民の皆さまにはお叱りを受けると同時に、信用をなくすことをしてしまい、大変申し訳なく思っています。こういうことが二度と起こらないように猛省し、職員一同新たな気持ちで遺骨収集に取り組んでいきます。しかし、今年はまだ新型コロナウイルス感染症の拡大で外に出られないという厳しい状況下にあります。

町●今は渡航が制限されていますものね。
 この事業を調べていたら、技術が発展し、遺骨収集もDNAで検査できるようになって格段に進歩していることや、国による遺骨や死に関する文化の違いを知りました。そういうことを知ると、国ごとの壁があるなかでの遺骨収集は大変な事業といえますね。

岩楯●国ごとのそれぞれの対応というのがありまして、ある国では遺骨そのものに文化財的な意味合いがあったりします。そういう状況を踏まえて何とか交渉しなければならないので、なかなか大変です。


戦争の体験を継承し
戦争の記憶を風化させない


町●遺骨収集に参加した大学生のインタビュー記事を読ませてもらったのですが、戦争を体験していない世代がこういう形で戦争を感じる機会は非常に貴重ですね。

岩楯●遺骨収集には、ご遺族とか戦友の方が参加していますが、学生などの若い人にも支えてもらっています。戦争を感じてもらうとともに、労力面でもご尽力いただいており、とても助かっています。

町●ぜひ、そういうボランティアの力を借りながら、これからも遺骨収集を進めてほしいですね。

岩楯●ご遺族の高齢化がどんどん進んでいるため、ご遺族から「遺骨収集をなんとか早く進めてほしい」という声があり、2016年に「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」でこの事業を国の責務として明記して、2024年度までの集中実施期間を設けました。

町●そういう面では、戦争の体験・記憶の継承も難しくなってきているので、昭和館やしょうけい館にもぜひ足を運んでほしいと思います。

岩楯●そうですね。地方展なども行っているので、次世代継承のためにも、ぜひ多くの方に来ていただきたいですね。

町●戦後75年が経ち、こうした援護事業を続けていくうえでの課題はありますか。

岩楯●戦争体験者も年々減ってきており、戦争の記憶の風化が進むことが一番恐れることです。とはいえ、まだ体験者がいますので、歴史認識を持って事業を進めていきます。
 一方で、科学や技術の進歩に伴い、かつてはわからなかったことがわかるようになってきました。そうしたものを取り入れながら、これからも援護事業を続けていかなければならないと肝に銘じています。

町●私は、「戦後」がずっと続けば良いなと思います。戦後が続いているということは、平和が続いているということだからです。そうした意味では、戦後の援護事業には終わりがない、戦後を守ることも援護事業なのだと思います。
 本日は、あまり知られていない厚生労働省の誕生の背景から、戦中・戦後の支援・援護事業まで幅広く教えていただきました。この機会に多くの方にこうした組織の成り立ちや、事業への思いを知っていただき、戦争の記憶の風化を防いでいきたいですね。



 

出  典 : 広報誌『厚生労働』2020年8月号 
発行・発売: (株)日本医療企画(外部サイト)
編集協力 : 厚生労働省