伝説の医系技官

- 長與 專齋
- ながよ せんさい
「衛生」の名付け親
長與專齋は、1838(天保9)年に肥前国大村藩(現長崎県)で藩医の家に生まれました。1854(安政元)年、16歳で大坂の適塾に入門し、のちに福沢諭吉の後任として、塾頭となりました。その後、1860(万延元)年、22歳で長崎に赴き、ポンペについて蘭医学を学び、1871(明治4)年には、33歳で上京し、文部少丞となり岩倉遣欧使節団に随行して渡欧、西欧の医学教育を視察・調査しました。
1873(明治6)年に帰国後、文部省医務局長となり、1875(明治8)年に医務局の内務省への移管に伴い、衛生局の初代局長となりました。日本には当時「衛生」という語がなく、長與が考案したとされています。衛生局は、後に社会局とともに内務省から分離し、厚生省となりました。長與の局長在任は19年にわたり、司薬場の建設、医制の制定、防疫・検疫制度の導入など、わが国衛生行政の基礎を築きました。晩年は、元老院議官、貴族院議員などを歴任しています。
