伝説の医系技官

北里 柴三郎
きたさと しばさぶろう
北里 柴三郎

~ もしも北里博士が、
今どきの医系技官だったら ~

医師になるまで熊本から東京へ

博士の場合

嘉永5(1853)年に肥後国北里村に生まれました。寺子屋、藩校等を経て18歳で古城医学校に入学し、生涯の友人、緒方正規(後に東大衛生学初代教授)と出会います。同校を3年で卒業し、翌年、東京医学校に進学、7年余りかけ30歳で卒業します。当時の制度では、同校の卒業者は医術開業試験を免除され、無試験で医師になれました。

今ならば

多くは6―3―3制を経て大学受験を迎えます。医師国家試験の受験資格は、医師法で「大学において医学の正規の課程を修めて卒業した者」となっていて、この課程は6年制となります。よって最短で24歳で医師になれます。

厚労省に入った!臨床ではなく行政へ

博士の場合

卒業の8日前に、内務省衛生局に採用されます。当時の内務省は大手町にありました。このタイミングでもう一つの人生の節目があり、卒業・入省に合わせて結婚します。なお岳父は、明治政府の官僚から第6代の日銀総裁となった方です。

明治18年の辞令
明治18年の辞令

今ならば

2年間(歯科は1年間)の臨床研修を修了してからの受験となります。採用試験は年に2回ありますが、早期の入省をおすすめしつつ、臨床だけでなく様々な業務経験を積んだ方も歓迎しています。もう一つの特徴は、出身大学も多様なことです。
詳しくはこちら(Q&Aページへ)

新人の頃行政に加え研究も

博士の場合

最初の配属先では、外国文献の翻訳や医術開業試験の実務を担当しました。衛生巡視の出張もあり、秋田では地元紙の犬養毅記者(後に第29代の首相)から衛生市民講義を求められたという逸話も残っています。2年後、東京試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)に異動し、偶然にもそこで、ドイツ留学から帰国し東京大学に復帰した旧友の緒方と再会します。

今ならば

最初の配属先は、採用試験や経歴を考慮した職場が基本です。「新人」に対しては、職種を超えた上司・同僚が、とっても配慮してくれます【複数の省庁での勤務経験がある筆者の実感】。最初の人事異動でも、面談等を踏まえ「成長」を意識した配属となります。詳しくはこちら(Q&Aページへ) 

念願の留学だ!日本から世界へ

博士の場合

2ポスト目の東京試験所での活躍が認められ、入省から4年目の33歳でドイツに留学します。内務省の官費留学制度が適用された最初の2名の一人で、もう一人はジョン・万次郎の息子の中浜東一郎でした。派遣期間の3年は、研究に没頭してまたたく間に過ぎました。大臣許可を得て2年延長してもらいますが、ここで人生の分岐点を迎えます。1年余の更なる延長を御下賜金を得ることで金銭的にはクリアして留学継続となりましたが、帰国の年の1月に休職期間の満期を迎えたため、内務省を免官となってしまいました。

今ならば

留学するためには人事院の試験に合格する必要がありますが、国や大学は自ら選べ、原則2年間、学業に専念できます。加えて、米国CDC等への約半年の短期研修の精度や、国際公務員としてWHO等に勤務したり、外交官として大使館に勤務したりと、グローバルに活躍の場があります。詳しくはこちら(Q&Aページへ) 

そして再び内務省で
人脈も得て多方面に活躍

博士の場合

6年半に及ぶドイツ生活から39歳で帰国した後、半年で内務技師として復職します。既に世界的な研究者となっていたため、実際の活躍の場は、福澤翁らの支援を得て開設された大日本私立衛生会(現・財団法人 日本公衆衛生協会)の研究所に主軸を移し、所長となります。
2年後に41歳で、所長業務に専念するため内務省を依願免官しますが、明治32(1899)年に同研究所は内務省に移管され「国立伝染病研究所」になったことに伴い、46歳で三度(みたび)内務省職員になります。
大正3(1914)年、研究所が内務省から文部省に移管されたのを機に、61歳で内務省を依願免官し、北里研究所を設立します。その後も社会に貢献し、63歳で大日本医師会(現・公益社団法人 日本医師会)初代会頭、64歳で貴族院議員になります。
その後またも内務省と縁があり、同省の今でいう審議会にあたる中央衛生会の会長に、67歳で就任します。
そして昭和6(1931)年78歳で、江戸・明治・大正・昭和と駆け抜けた人生を閉じます。

今ならば

平坦な道のりばかりではありませんが、人々の命を守り社会に貢献するという唯一無二の価値を実感していくキャリアを形成していくことになります。これに伴い、政府内外そして世界に多くの仲間が増えていくことも、大きな魅力です。詳しくはこちら(活躍するフィールドページへ)

あとがき新しい千円札に思うこと

令和6(2024)年7月3日に、日本銀行券が生まれ変わります。

表面の北里博士の肖像画:風格や品位があり、学者としての地位が確立し、働き盛りで充実した様子が伺えるため、50歳代の写真を参考として描かれたそうです。ちょうど内務省の伝研所長の頃ですね。
裏面の浮世絵:葛飾北斎の代表作で知名度も高く、世界の芸術家に影響を与えた「富嶽三十六景(神奈川沖浪裏)」を描いているそうです。角度からすると、ちょうど横浜検疫所のあたりからの眺めでしょうか。

旧・千円札に描かれている野口英世は、明治31(1898)年に伝染病研究所に務めますが、翌年、北里所長の計らいで横浜検疫所での職を得ます。
この明治32(1899)年に既述のとおり伝研が内務省に移管されましたが、このときの内務省の衛生局長は、かつて伝研の設立委員長だった長谷川泰であり、同年、検疫所の業務を定めた海港検疫法を帝国議会で成立させています。
長谷川は内務省の医系技官になる前の明治9(1876)年に済生学舎を創設していて、ここで学んだ野口は、医術開業試験に合格し、伝研に勤務することになりました。
さらに人のつながりがあって、長谷川は越後長岡の長谷川家第11代ですが、13代の妻は日本医師会の11代会長の武見太郎の妹です。その武見は、北里大学に東洋医学総合研究所を設立する際の世話人代表に名を連ねています。なお日本医師会長の在任期間は、武見が1位(25年)、北里が2位(15年)です。

新しい千円札の表(肖像画)
新しい千円札の表(肖像画)
新しい千円札の裏(波の絵)
新しい千円札の裏(波の絵)

(資料協力 独立行政法人国立印刷局 / 学校法人北里研究所北里柴三郎記念博物館)