伝説の医系技官

石原 修
いしはら おさむ
石原 修

工場法を施行せよ!

30年かかった工場法の成立。渋沢栄一も反対に

工場法は、1882年に制定の検討が始まってから制定に至るまで30年もかかった明治期最大の政策立法です。制定時の担当局長は、「工場法の条文は僅か25条にして、規定の内容も極めて簡短な小法律だが、制定に至るまで実に30年の星霜を積み、主務大臣の更迭23回、主任者の局長を換えること15人、草稿を改めること実に百数十回に及んだものである」と述べています。
工場法は1911年に公布されましたが、施行期日は勅令で定めることになっていました。農商務省は1913年から施行する予定でしたが、法制定後も根強い経営者の反対があり、また財政難から大蔵省が予算を付けなかったことから、施行されずに宙ぶらりんの状態だったのです。大河ドラマの主人公の渋沢栄一も工場法に反対の立場でした。

石原の調査結果が世間を揺るがす。
工場法を施行せよ!

石原は、明治42(1909)年より内務省や農商務省の嘱託となり、工場法の準備のための工場衛生に関する調査を実施しました。工場内の衛生状態だけでなく、農村出身女工の帰郷後の健康状態を追跡調査も行っています。
大正2(1913)年にまとめたレポートでは、以下のような事実を指摘しました。①紡績女工の約30万人は20歳未満。大部分は寄宿舎生活。②労働時間は14~16時間。機械を休ませないために2直制の連続徹夜業。夜業は12~13歳の少女が多い。蒸し暑く、粉じんの多い長時間作業で、女工の体重は減少し、正常な発達を妨げている。③寄宿舎は、女工1人に畳一畳。照明・換気が悪く、夜具は2人に1組。十分な睡眠・休養を取れない。④帰郷女工の6~7人に1人は重い病気で国元に帰る。その4分の1は結核で、故郷での家族・近隣への感染源となる。⑤帰郷後の死者約9千人のうち、7割が結核。工業の繁栄の陰に隠された犠牲者で、人道上からも見逃しえない重大問題である。

大学教授となった石原

石原の調査は、1916年の工場法の施行を推進する役割を果たしたと言われています。
大阪大学での石原は、衛生学の教授として現場見学をまじえた労働社会衛生学や、大気汚染調査などの実践的調査を取り入れた環境衛生学は、医学生に大きな影響を与えたと言われています。亡くなる前には、労働基準法の成立にもかかわっています。