伝説の医系技官

- 後藤 新平
- ごとう しんぺい
百年先を見通した男
後藤新平は、1857(安政4)年に胆沢郡塩竃村(現岩手県奥州市)水沢藩士の家に生まれました。須賀川医学校(福島県立医科大学の前身)を卒業し、1881(明治14)年、24歳で愛知県病院長兼愛知医学校長となりましたが、長與に認められ、1883(明治16)年に内務省衛生局に入り、ドイツ留学をへて1892(明治25)年に衛生局長に昇進しました。1898(明治31)年には児玉源太郎台湾総督により民政局長に抜擢、のち民政長官となりました。
1903(明治36)年、貴族院議員に勅選され、第2次、第3次桂内閣で逓相、鉄道院総裁、寺内内閣では内相、外相等を歴任し、シベリア出兵を推進しました。1920(大正9)年に東京市長となり、第2次山本内閣内相兼帝都復興院総裁として、大震災後の東京復興計画を立案しました。また、ソ連との国交樹立にも関与しました。
亡くなる際に、「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。」という言葉を残したとされています。
