硫黄島の摺鉢山山頂にて、硫黄島戦没者顕彰碑の前に立つ「戦後80年 記憶の継承作文コンクール」受賞者9名。
「戦後80年 記憶の継承作文コンクール」受賞者が見た硫黄島
東京の南方約1,250kmに浮かぶ硫黄島は、先の大戦で日本軍の戦没者約21,900名を数えた激戦地です。上陸した米軍にも、これを上回る約29,000名の戦死傷者が出ました。令和8年(2026年)7月18日、昨年実施した「戦後80年 記憶の継承作文コンクール」の受賞者9名が、入間基地から空路でこの島に降り立ちました。いずれも作文を通じて戦争と向き合ってきた若い世代です。戦没者慰霊特集の後編では、資料や映像で学んできた受賞者たちが初めて激戦地に立ち、何を感じ、これからどう伝えようとしているのかを紹介します。
※受賞者の年齢は、令和8年7月18日時点です。
硫黄島に降り立つ、その朝
令和8年7月18日、受賞者9名を乗せた輸送機が、硫黄島の滑走路に着きました。亜熱帯に位置しながらも、気温は熱帯を思わせるほど暑く、最高40度近くまで上がる日もある島です。
作文で戦争と向き合ってきた高校生や大学生が、初めてその足で激戦の地を踏む一日が始まりました。ターミナル到着後に硫黄島の概況説明を受けたのち、一行は天山慰霊碑での拝礼へ向かいます。
現地で初めて知る戦場
天山慰霊碑は、正式名称を「硫黄島戦没者の碑」といい、厚生省(当時)が昭和46年(1971年)に建立した「政府建立慰霊碑」です。一行がのちほど訪れる天山壕の上に位置するため、通称「天山慰霊碑」と呼ばれています。この慰霊碑の上部には天窓が設けられており、暗い地下壕の中で日光にあこがれ、飲料の雨水を激しく求めた兵士の心境を暗示しています。また、中央には遺骨箱をかたどった石碑が置かれています。
石碑横の壁にある碑文には「さきの大戦において 硫黄島で戦没した二万余名の将兵をしのび その霊を慰めるため 国民の追悼の思いをこめて この碑を建立する」と記されています。
拝礼では、コンクールの最優秀賞である厚生労働大臣賞に選ばれた弟子丸香里奈さん(17)が代表として献花し、柄杓で水を捧げました。その後、優秀賞受賞者8名も白菊を献花しました。
天窓から光が差し込む慰霊碑の前で、黙祷をしたのち、献花・献水が行われた。柄杓で水を捧げる弟子丸さん(2枚目)。暗い地下壕で、兵士たちは日光と飲料となる雨水を激しく求めたという。
その後向かったのは、天山慰霊碑の下に位置する、天山壕です。海軍硫黄島警備隊の指揮所だった場所で、火山島特有の地熱の影響により、中の温度が48〜50度あったため、入壕は出来ませんでしたが、一行は入り口近くまで立ち寄り、その熱気を肌で感じました。
草木に覆われた斜面に口を開ける天山壕。壕の入り口に残された瓶は、雨水を貯めて飲み水を確保するために使われたといわれている。
続いて向かったのは、陸軍小笠原兵団長の栗林忠道中将が指揮所を置いた兵団司令部壕でした。兵団司令部壕は、天然壕で入り口は狭いですが、中には多くの横穴や当時の鉄筋コンクリート造の部屋が残っています。栗林中将は、島での戦闘の終わりにこの壕を出て、最後の突撃をしたといわれています。
狭い入り口から、ヘッドライトを頼りに岩の重なる壕の奥へ進むと、中には、栗林中将が執務していたといわれている鉄筋コンクリート造の部屋がいまも残る。一行は、蒸し風呂のような暑さの中、全身から汗を流しながら、壕の熱気を体感した。
壕を出たあと、弟子丸さんはこう言葉にしました。
「正直、驚きました。作文を書いて自分なりに考えていましたが、実際に足を運ぶと、様子も気持ちも資料で見てきたものとは違いました。水もなく、こんな厳しい環境で過ごした人たちがいた。実際に体験したら本当に暑くて、5分いただけでも耐えられませんでした」
南国の厳しい日照に加え、水蒸気が出るほどのすさまじい地熱。その暑さは、弟子丸さんの心に強く残ったといいます。
暑さと過酷さは、多くの受賞者が口をそろえた実感でした。当時の戦いを重ねた受賞者もいます。
「こんなところで30日以上もいたのだと感じました。戦争を追体験できました」(植山夏帆さん(17))
現地に立ったことで、戦争との距離が変わったと語る声もありました。
「壕に入って、本当にここにいたのかと信じられませんでした。作文を書いているときは、自分は他の人より身近に感じているつもりでした。でも今日の体験は、やっぱり違いました」(植中和葉さん(18))
「同年代は戦争をどこか他人ごとのように遠ざけている。でも硫黄島に来て、一気に自分ごととして捉えられました」(大西皆実さん(18))
壕をあとにした一行は、遺骨の調査現場にも立ちました。これまでは地下壕を調査し、遺骨を確認していましたが、近年は地表面から収容される遺骨が増えていることを踏まえ、昨年度からは樹木等を伐開して、地表面を掘削し、遺骨の有無を確認する調査を本格的に始めています。
伐採し、掘削し、目視で確認して収容する。炎天下、埃にまみれながらも調査を続ける作業員は、こう語りました。「絶対にご遺骨を見逃してはいけないという思いで、毎日作業しています。自分たちの前に出てきてくださいと、心の中で思いながら作業しています」。毎日探し、できる限り見逃さず帰してあげたい、とも続けます。熱風と埃を何度もかぶりながらの作業が、毎日続いています。
遺骨調査の現場(1枚目)。ブルーシートの下は、ご遺骨が見つかった箇所だという(2枚目)。現場を見た植山さんは、曽祖母や祖母から聞いた戦争の話を振り返り「語り継ぐうちに、話はどんどん形を変えていく。その変化も含めて、自分の言葉でつないでいきたい」と話した。
一編の作文から、硫黄島へ
受賞者たちをこの島へ導いたのは、それぞれが書いた作文でした。弟子丸さんの「戦後の歩み」は、小学生のころに大正生まれの曽祖母から聞いた話から始まります。作文には、こう記されています。
“曽祖母は、空襲で空が赤く染まったこと、防空壕に隠れて耳をふさいでいたこと、食べ物がなくていつもお腹がすいていたことを、静かに話してくれた。泣きながら話すのではなく、淡々と話す姿はとても印象的であった。”
その数年後に曽祖母は亡くなり、その話はもう直接聞けなくなりました。戦後80年という節目は、戦争体験を語れる人がいなくなる時代が迫っていることを意味しています。弟子丸さんが今回応募したきっかけは、戦後80年だからこそ記憶をどう継承するかが大切だ、という思いでした。
弟子丸さんの故郷・鹿児島は、この島と縁の深い土地でもあります。硫黄島の戦いには主に鹿児島で編成された歩兵第145連隊も参加し、鹿児島をはじめ各地の若者が故郷を離れて本土防衛の最前線に立ち、その多くが還りませんでした。
滑走路の西側で見つかった集団埋葬地は、米国立公文書館の資料をもとに約2千名の埋葬が判明し、1,263柱が収容された。
家族や身近な人の証言から戦争を見つめ直した受賞者は少なくありません。曽祖父のシベリア抑留を題材にし、同じ抑留体験者のもとを訪れて話を聞く活動をしている受賞者は、残されているご遺骨への思いを口にしました。
「ここで亡くなられた方々の遺骨をこのまま残しておくのは申し訳ない。一柱でも多く戻っていただかないと」(小田島誠慈さん(17))。
昨夏に97歳の被爆者から話を聞いた受賞者は、その重みをこう表現します。
「当人から聞くのは全然違いました。生の声は強く印象に残っています」(池田晃輔さん(17))
聞く側から、伝える側へ
巡拝の終わりに訪れたのは、島の西端にそびえる摺鉢山でした。山体内部はかつて砲台陣地があった場所で、山頂には、昭和43年(1968年)の日本への返還後に民間の有志によって建立された硫黄島戦没者顕彰碑や、終戦直後に建てられた米側の記念碑などが並んでいます。日米それぞれの記憶が、同じ頂で静かに並んでいます。眼下に広がる黒砂の海岸は、81年前の2月、米軍が上陸した場所です。
移動中、島の近くで雨が降っていることから、天気が心配されました。しかし山頂に着いても空は明るいままで、島影と海がはっきりと見渡せました。その眺望を前に、朝から緊張の面持ちだった9名も、いくぶん表情がやわらいでいるように見えました。
山頂で弟子丸さんは、「私たちにできることは、この戦争への考えを深め、次の世代に伝えていくことだと思います。平和への歩みを国全体、世界規模で行ってほしい」と静かに語りました。
摺鉢山山頂で語る弟子丸さん(1枚目)と「慰霊」の碑(2枚目)。摺鉢山の眼下に広がる黒砂の海岸と緑の島影に、81年前の激戦の跡が刻まれている(3枚目)。
摺鉢山の中腹で、いまも海側へ砲口を向ける水平砲台。受賞者たちは朽ちた砲尾に顔を寄せ、この地で行われた戦争に思いを馳せた。
聞く側から、伝える側へ。受賞者たちの思いはいっそう確かになっていきました。その継承の形は、受賞者それぞれで違います。小学校教員を志す受賞者は、身近な場所から歴史を手繰り寄せる学びを作文で書きました。
「地元にも海軍基地があり、疎開児がいました。身近なところから広げると、遠い場所のことも自分の中に落とし込めます」(恒松大輝さん(22))
広島で育った受賞者は、故郷で学んだ戦争とは異なる戦場をここで知ったと語りました。
「広島に戻ったら、灯籠流しやピースボランティアで、広島以外の戦争についても発信していきたい」(碓井愛美さん(19))
国を越え、若い世代への継承を見すえる声もありました。
「日本人でも硫黄島を知らない人が多い。若い人が追体験しやすい継承をしていきたいし、アメリカの友人とも話していきたい」(西井智央さん(18))
小学校教員を志す恒松さん(1枚目)と、広島で平和学習を受けて育った碓井さん(2枚目)。
まとめ
硫黄島には、戦没者約21,900人のうち、いまだ11,110柱が島の地下に眠っています(令和8年7月末現在)。作文を通じて戦争と向き合い、この島でその過酷さを身体で知った9名は、それぞれの言葉で伝える側へと歩き出しました。
◾️もっと知りたい方へ
- 記憶の継承作文コンクールについて:「戦後80年 記憶の継承作文コンクール」の受賞者を決定しました |厚生労働省
- 戦没者遺骨収集事業について:戦没者遺族等への援護 |厚生労働省
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