国立療養所菊池恵楓園

熊本とハンセン病の歴史

希望の塔

  熊本には、熊本城を築城した加藤清正を祀っている本妙寺があります。清正公をハンセン病の神様と崇め全国から本妙寺にこの病気のものが集まったと言われています。

  本妙寺参道で物乞いするハンセン病者を見て、彼らの救済の為に回春病院を開設したのが、イギリス聖公会のハンナ・リデル女史で明治28年のことでした。本国からの寄付が途絶えると運営に支障を来し、時の総理大臣大隈重信らの前で演説し支援を貰います。これがきっかけとなり国内で法律「癩予防ニ関スル件」が制定されます。この法律をもとにして、明治42年全国5カ所に公立療養所が開設されますが、そのうちの一つが菊池恵楓園です。

  また同じ頃カトリックのコール神父がやはり本妙寺周辺のハンセン病者をみて驚き、市内に待労院を開設します。ここは現在も引き継がれて元患者達のお世話をしています。

  最初の法律は主に浮浪している者を対象にしたものでしたが、昭和6年に制定された「癩予防法」は全てのハンセン病者が対象になっていきます。国内の収容目標は1万人で、この拡張政策は戦後も続き、菊池恵楓園は全国最大の規模で病床も2,200床まで拡張されました。しかし、昭和18年米国でプロミンの治療効果が発表され、国内でも次第に有効性が確認されるようになり、この時今後のハンセン病対策として専門家の話を聞いて、昭和28年「らい予防法」が制定されますが、内容は前の予防法と殆ど変わらず隔離を中心にしたものでした。

  昭和29年に龍田寮児童通学拒否事件が起こりました。(親がハンセン病者ですが、病気ではないその子供達が、就学年齢になったので校区の小学校へ入学しようとしますがPTAの一部が強固に反対した事件)

  平成8年に「らい予防法」は廃止され、同時に元患者達の入所生活等を保障した「らい予防法の廃止に関する法律」が制定されます。しかし平成10年「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」が熊本地裁に提起され、3年後原告勝訴となります。和解に関する基本合意が締結され、謝罪、検証そして退所者への支援等が盛り込まれます。

  平成15年、熊本小国のホテルで入所者の宿泊を拒否する事件がありました。当初、宿泊を拒否するホテルへの非難が起こりますが、その後ホテル側の謝罪を拒否した入所者自治会への誹謗・中傷が激しく続きました。病気への理解不足、偏見が残っていることを見せつけられた事件でした。

  今、日本ではハンセン病者の発生は年間数名で、ほぼ根絶された状態だと言えます。しかし本人がかつて病気であったことを素直に話せない状況は今も続いています。このことを一人一人が考えねばならないと思います。