パパゲーノ効果って何?死にたいほどつらい気持ちを乗り越えた物語に耳を傾ける

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2024.02.21

interview
企画・制作 朝日新聞社メディア事業本部

筑波大学医学医療系 災害・地域精神医学 教授

太刀川弘和(たちかわ・ひろかず)さん

精神科医として自殺予防や災害時のメンタルヘルスを研究する。DPAT(災害派遣精神医療チーム)メンバーとして、熊本、能登半島地震の被災地支援にも参加。著書に「つながりからみた自殺予防」、訳書に「メディアと自殺」など。

「パパゲーノ効果」という言葉をご存じですか?つらい問題を抱えて死にたいと考えている人が、自殺を踏みとどまったエピソードなどに触れることで、自殺死亡率が低下するという学説です。どんな効果が期待されるのか、自殺予防にメディアが果たす役割について、筑波大学の太刀川弘和教授にうかがいました。

オペラの登場人物にちなんだ自殺の抑制効果

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「パパゲーノ効果」とは、ウィーン医科大学公衆衛生センター社会医学研究所准教授のトーマス・ニーダークローテンターラー氏らが2010年に発表した自殺の抑止効果のことです。オーストリアで半年の間に報道された自殺関連の記事497本と自殺死亡率の関係を調べたところ、自殺を考えていた人がその危機を乗り越えた報道記事と自殺死亡率には負の相関があることがわかり、死にたいような厳しい状況下でも前向きな対処法を紹介する報道には、自殺を思いとどまらせる可能性があると結論づけました。

これをモーツァルトのオペラ「魔笛」の登場人物になぞらえて「パパゲーノ」効果と名付けました。「鳥刺し」のパパゲーノは、愛する女性を失い絶望のあまり自殺を試みますが、彼の前に現れた3人の童子から魔法の鈴を使うよう勧められます。その鈴を鳴らすと女性が現れ、自殺をやめるというエピソードにちなんだものです。

それまでメディアの報道と自殺の関係では、パパゲーノ効果とは反対に、メディアの報道によって自殺者が増えるという「ウェルテル効果」が先行して知られていました。これはアメリカの社会学者デビッド・P・フィリップス氏が1974年に提唱したもので、新聞に掲載された自殺の記事量と全米の自殺統計を比較したところ、自殺報道によって模倣自殺などが増え、自殺死亡率が上昇することを発見しました。こちらは、主人公をまねて自殺する若者が急増して社会問題になったゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」にちなんで命名されたものです。

ウェルテル効果についてはその後、多くの実証研究がなされ、メディアの報道内容が影響を与えることは定説となっています。そうした知見に基づき、2000年にはWHO(世界保健機関)が「遺体や遺書の写真は掲載しない」「詳細な自殺方法や単純化した原因を報道しない」など、メディアに対する自殺報道に関するガイドラインを発表しています。

「自殺については報道の負の側面が強調されてきましたが、ニーダークローテンターラーは、報じ方によってはメディアが自殺を減らせるという前向きなメッセージを主張したことで、世界的にも注目を集めました」と太刀川さんは評価します。

ラップのヒット曲が自殺者数を減らした!?

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2021年には彼らの研究チームがアメリカのラッパー、ロジックのヒット曲 「1-800-273-8255」(2017年)によって、アメリカ国内の自殺者が減少したことを報告し話題になりました。曲名の数字はアメリカ版「いのちの電話」である自殺予防ライフラインの電話番号です。曲の内容は「生きていたくない」「きょう死にたい」「すべての命は大切だというが、誰も自分の命には興味はない」と歌う主人公に対し、「暗闇の中にも光は見つけられる」と女性ボーカルが語りかけ、葛藤を抱えながら主人公は「生きたい」「きょうは死にたくない」「もう死にたいとは思わない」と前向きな気持ちに変化していく過程が歌われています。

研究チームが曲の発売前後からのライフラインへの電話相談件数と自殺者数、曲に関するSNSへの投稿数の関係を調べたところ、曲が注目を集めた時期には相談件数が予測より1万件近く増加し、SNSへの投稿が多かった同期間では自殺者数が予測より5.5%減少したことがわかりました。

歌詞は、複雑な家庭環境で育ったアーティスト自身の実体験だといわれ、自殺の危機にあった主人公が、電話相談によって生きる希望を回復したと解釈できる構成になっています。SNSや動画再生サイトには、「この曲によって救われた」といったコメントが数多く残っています。実際に自殺を考えている人に、この曲がどんな意識や行動の変容を起こさせたのか因果関係まではわかりませんが、「これもパパゲーノ効果の一例といえるでしょう」と太刀川さんは指摘します。

同じような境遇にある人の希望と回復の物語に学ぶ

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太刀川さんによれば、臨床の現場で有名人の自殺のニュースや、災害報道などに触れると心身の不調を訴える患者さんが増えることは明らかで、ドラマや映画を見て「元気が出た」と聞くことも少なくないといいます。「人は刺激的な情報に影響を受け、社会的に学習していく存在です。自殺といったネガティブな情報を学べば死にたくなる。だとすれば、逆にポジティブな情報を学習できれば、がんばろうという気持ちになれるのかもしれません」

太刀川さんは、一例として実名で自殺未遂体験などが紹介されているアメリカの大学生向け自殺予防サイトを挙げます。「実名の体験談なので心に迫りますが、あまり深刻なトーンでは語られない。その方が自分と同じような境遇の人が、どうやって危機を乗り越えたのか共感しやすい効果があると思います。日本では自殺未遂者へのスティグマ(偏見や差別)がまだ強いので、そのまままねることは難しいかもしれませんが、参考になると思います」

重要なのは、パパゲーノ効果といっても、「魔笛」の魔法の鈴のように、鳴らせばすべての問題が解決し、死にたい気持ちが消えてしまう万能のものではないということです。「パパゲーノ効果は自殺リスクが高い人よりも、漠然と生きづらさを感じている人の方が影響を受けやすいという報告もあります。ハイリスクの人には、医療的な支援がつながるように、専門家とも連携しながら、希望と回復の物語を共有できるメディアやつながりを作ることが重要だと思います」

「死にたい」ほどつらい気持ちとは、どう向き合えばいい

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──最後に「死にたい」という気持ちに気づいてしまったら、どうすればいいでしょうか。

「一生のうち4人に1人は、死にたい気持ちを抱くといわれています。残念ながら我々の人生は苦労するようになっていて、ハッピーな人生というのはなかなかないのです」と太刀川さんは言います。言い換えると、誰もが「死にたい」という思いを抱くことはあり得るし、「死にたい」と考えている人が身近にいることは、決して特別なことではありません。

「昔は自殺という言葉を口にすることをためらう空気がありましたが、社会全体の取り組みもあって、少しずつ変わってきました。自殺について考えることや、死にたいほどつらい悩みを誰かに相談することが当たり前の社会になって欲しいですね。身近な人がしんどい思いを抱えていれば、見て見ぬふりをせず、声をかけ、話を聞き共感し、適切な支援先につなげる『ゲートキーパー』という役割もあります。誰もができる範囲でサポートできるつながりが作れるといいですね」と太刀川さんは話します。

「人生は振り子のようなもので、危機がずっと続くとは限りません。ずっとつらい中で生きてきても、ある時『でも、まあよくやってきたよね』とか『なんだかんだがんばってきたな』と思える瞬間が来るかもしれない。何度も自殺未遂を繰り返してきた私の患者さんが最近、『海の見える喫茶店に行って、コーヒーを飲んでいたら、ふと“生きててよかった”と思えたんです』と話していました。ささいなことかもしれない、人生の中に隠れているそうした思いをどうやって見つけるか。そういう瞬間があるから、とりあえずみんな生きているのかもしれません」