百年先を見通した男後藤 新平
1857(安政4)~1929(昭和4)
後藤新平は、1857(安政4)年に胆沢郡塩竃村(現岩手県奥州市)水沢藩士の家に生まれました。地元の医学校び医師となり、24 歳で愛知県病院長兼愛知医学校長となりましたが、「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」という信念から、内務省衛生局に入り、ドイツ留学をへて1892 (明治25)年に衛生局長に昇進し、公衆衛生行政の基礎を築いていきました。1898(明治31)年から台湾総督府民政局長を務め、産業の復興や鉄道の育成を図り、破綻寸前だった台湾をよみがえらせました。
その後満州の都市づくりなどの実績を残し、1920(大正9)年に東京市長となり、大震災後の東京復興計画を立案しました。新平の都市復興構想は、今後何度もやってくるであろう地震に備え公園と道路を作るという、100年先を見据えた壮大な計画でした。医師として、政治家として、生命と健康を守る都市づくりは、日本の公衆衛生医師の模範となる仕事として語り継がれています。
(資料:「近代日本人の肖像」国立国会図書館、「後藤新平ゆかりの人々」後藤新平資料館 他)