公衆衛生医師とは?

公衆衛生医師の仕事は、地域の住民全体の医療や健康レベルの維持向上のための仕組み・ルール・システムづくりなどを通じて、大きな達成感ややりがいを感じることができます。

携わる業務は、感染症、生活習慣病やがんの予防、母子保健、精神保健、難病、食品や環境などの生活衛生、医療・薬事といった事業や、地域包括ケア、健康危機管理など、多岐にわたり地域の人々の保健を支えています。

  • 疾病予防や保健の施策にたずさわり多くのひとの健康を守ることができる
  • 医学の知識を生かし、医療や保健について見識を広めることができる
  • 災害や感染症などによる健康被害の拡大を防ぐことができる
  • 組織や制度など社会全体に影響する仕組みを動かすことができる
  • 他職種の仲間とともに仕事に取り組む充実感を得ることができる
  • ワークライフバランスを維持しながらキャリアアップが目指せる

公衆衛生医師は、公務員としての採用なのでワークライフバランスに配慮した制度があり、福利厚生制度が充実しているという点も、公衆衛生医師という仕事の特徴のひとつです。

公衆衛生医師の歴史

後藤新平後藤 新平

百年先を見通した男後藤 新平

1857(安政4)~1929(昭和4)

後藤新平は、1857(安政4)年に胆沢郡塩竃村(現岩手県奥州市)水沢藩士の家に生まれました。地元の医学校び医師となり、24 歳で愛知県病院長兼愛知医学校長となりましたが、「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」という信念から、内務省衛生局に入り、ドイツ留学をへて1892 (明治25)年に衛生局長に昇進し、公衆衛生行政の基礎を築いていきました。1898(明治31)年から台湾総督府民政局長を務め、産業の復興や鉄道の育成を図り、破綻寸前だった台湾をよみがえらせました。

その後満州の都市づくりなどの実績を残し、1920(大正9)年に東京市長となり、大震災後の東京復興計画を立案しました。新平の都市復興構想は、今後何度もやってくるであろう地震に備え公園と道路を作るという、100年先を見据えた壮大な計画でした。医師として、政治家として、生命と健康を守る都市づくりは、日本の公衆衛生医師の模範となる仕事として語り継がれています。

(資料:「近代日本人の肖像」国立国会図書館、「後藤新平ゆかりの人々」後藤新平資料館 他)

Shinpei Goto