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国立療養所邑久光明園の歴史

【English】

 【おことわり】
 ハンセン病はらい菌(きん)、の感染(かんせん)によりおこる病気で、以前は「癩(らい)病」、「ハンセン氏病(しびょう)」とも呼ばれていました。ハンセンとは、1873年(明治6年)に「らい菌」を発見したノルウェイの「アルマウェル・ハンセン博士」の名をとって、現在はハンセン病と呼びます。
 文中に「癩」または、「らい」という言葉が出てきますが、法律用語や医学用語、施設名は変えることが出来ないため、そのまま用いています。


外島保養院から長島へ

○1907年(明治40年)3月18日(3月19日官報掲載)に法律第十一号「癩豫防(らいよぼう)ニ關(かん)スル件」が公布され、第1条では診断医師の届出が明記され、第二条では、その家の消毒が指示され、第3条においては、「療養の途がなく、かつ、救護者のない時は療養所に入れて救護すべし。」とされました。そして、第4条で「主務大臣は二つ以上の道府県を指定し、この道府県内に患者収容のための療養所の設置を命ずることができる。」とされ、この道府県は、同年7月22日内務省令第二十号「道府県癩患者療養所設置区域」により、次のとおり定められました。

第一区域:東京府(伊豆七島、小笠原島を除く)、神奈川県、新潟県、埼玉県、
     群馬県、千葉県、茨城県、栃木県、愛知県、静岡県、山梨県、長野県
第二区域:北海道、宮城県、岩手県、青森県、福島県、山形県、秋田県
第三区域:京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県、福井県、
     石川県、富山県、鳥取県、和歌山県
第四区域:島根県、岡山県、広島県、山口県、徳島県、香川県、愛媛県、高知県
第五区域:長崎県、福岡県、大分県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県


○1908年(明治41年)、第三区域の療養所は、大阪府西成郡川北村大字布屋(ぬのや)(現在の西淀川区中島)に2万坪(当時:2万9千円)の土地を買収し、大字を新設、「外島」と地名を付け、施設の建築を開始しました。

○1909年(明治42年)4月1日、大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、三重、滋賀、岐阜、福井、石川、富山、鳥取の2府10県(第三区)による大阪府主管の公立ハンセン病療養所として、収容定員300名の「第三区府県立外島保養院」が開院し、同年4月20日から患者入院が開始されました。なお、当時の院長は医師ではなく、警察署長であり、職員の多くは警察官だったそうです。

【第三区府県立外島保養院の概況】
・ 敷地面積2万坪。収容定員300名

・ 北西は左門殿川、西南は大阪湾で、敷地が海抜0m地帯であったため、四方が堤防と土手で囲まれ、その上が道路となっていました。

・ 建物敷地として、堤防と土手とに囲まれた海抜0mの敷地内の土を更に掘り、その土を盛り上げて造成し、その結果、敷地内には大きな池が数カ所できることとなり、大潮の日の干潮時以外、敷地内の水は海に流れ出ることはなかったということです。そして、このことが後日大きな災害を招くこととなりました。

・ 敷地の4/10は官舎地帯(別名:無毒地帯)、3/10は患者住宅地帯(別名:有毒地帯)、残り3/10は農地だったそうです。また、敷地の四隅には、逃亡を防止するための監視所が設けられていたそうです。


   建物:男子棟/8棟(1棟は2室で1室27畳)
      女子棟/4棟(1棟は4室で1室8畳)
      礼拝堂/1棟(57坪)
      大正4年に4棟、昭和3年に6棟増設
   照明:自家発電で、1室に6燭(ローソク6本分の明るさ)の電灯1個大正14年以降に
      電灯線が引き込まれ上水道が整備された。
   飲料水:塩からい水/大正初期は胃腸病の死亡者が多かった。


○1931年(昭和6年)、その後の収容患者数の増加に対応するため1,000名の収容施設に拡張することを目標に、新たに4万坪の土地を買収し、拡張工事が開始されました。

○1934年(昭和9年)9月21日、拡張工事の完成を目前にしたこの日、「室戸台風」により「第三区府県立外島保養院」は壊滅してしまいました。


【被害状況】
  ・患者死亡者数…173名(男性107名/女性66名)
              (死亡確認男性104名/女性58名計162名)
              (行方不明男性3名/女性8名計11名)
       ※災害当時の在院患者数…597名(男性452名/女性145名)
  ・職員死亡者数…3名(看護師1名、炊事夫1名、炊事婦1名)
       ※災害当時の職員数73名
  ・職員家族死亡者数…11名
  ・その他拡張工事関係者…9名死亡/重傷者4名
  ・使用中であった在来建物被害額… 49,000円
  ・拡張工事建物(未使用)被害額…591,534円66銭


○1934年(昭和9年)9月24日~10月21日にかけて生存者416名は、以下の施設(現在の名称で標記)にそれぞれ分散委託されました。
   松丘保養園(まつおかほようえん)(青森)50名
   栗生楽生園(くりうらくせいえん)(群馬)98名
   多磨全生園(たまぜんしょうえん)(東京)70名
   長島愛生園(ながしまあいせいえん)(岡山)78名
   大島青松園(おおしませいしょうえん)(香川)70名
   菊池恵楓園(きくちけいふうえん)(熊本)50名



所在地
所在地


入院舎地区
入院舎地区


配置図
配置図


惨状その1
惨状その1


惨状その2
惨状その2

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長島からの出発

○1935年(昭和10)年8月6日
 大阪府は「外島保養院」の復興地について内務省及び関係府県との会議を繰り返し、既に国立ハンセン病療養所の第1号である「長島愛生園」が設置されていた岡山県の「長島」西端部が復興地として決定され、この小さな島にハンセン病の療養所が二つ存在することとなりました。

○1938年(昭和13年)4月1日「第、三区府県立外島保養院」は、復興施設の名称を「第三区府県立光明園」と改め、現在地(当時は岡山県邑久郡裳掛村大字虫明長島)に再建され、4月27日に落成式典が挙行されました。
  ※ 敷地面積: 52,038坪(171,923㎡)
   (内訳):長島島内/庁舎38,178坪、宿舎13,162坪
        対岸虫明(塩屋)/車庫273坪、宿舎425坪
    注)数値は、1941年(昭和16年)大阪府から国への所管換えデータによる。

○1938年(昭和13年)6月20日~7月9日にかけて、復興まで全国各地の国公立施設にそれぞれ分散委託されていた生存者416名のうち、そのまま委託施設に残られたり、委託施設で退所された方及び委託施設で亡くなられた方を除く309名がこの間に次々と帰園されてきました。

 【帰園者内訳等】
   6月20日:松丘保養園(20名)    7月7日:多磨全生園(51名)
   6月29日:栗生楽泉園(74名)    7月8日:菊池恵楓園(38名)
   7月 5日:長島愛生園(65名)    7月9日:大島青松園(61名)

※ 復興後、直ぐに帰園にならなかったのは、当時各療養所に流行していた「疥癬かいせん」を警戒し、その消毒設備が設置されるのを待ったためであると言われています。
※「疥癬(かいせん)」…疥癬虫(ヒゼンダニ)の寄生によって生じる伝染性皮膚病

○1941年(昭和16年)7月1日、大阪府主管の「公立癩療養所」であった「第三区府県立光明園」は国に移管され、「国立らい療養所邑久光明園」と改称され、大阪府の敷地となっていた52,038坪(172,027㎡)の敷地も、国(厚生省)の所管となりました。

○1942年(昭和17年)、国立療養所長島愛生園が管理していた敷地(国有地)の一部、35,192坪(116,337㎡)が邑久光明園の管理となり、邑久光明園の敷地は、87,230坪(288,364㎡)となりました。

○1943年(昭和18年)4月、ハンセン病は、以前は、天刑病又は遺伝病とも云われ、一般に排斥されていたため、看護師の採用には、明治42年の開設以来、多大な困難がありました。このため、昭和17年10月看護婦規則による「私設看護婦養成所」の指定を申請、開設承認となり、これにより県知事施行の検定試験を受けられるようになり、看護婦の自給自足的な養成がはじまりました。

○1944年(昭和19年)、国立となった当園の定員は人員の削減が行われ、定員職員15名(うち、医官は園長含め5名)、傭人71名で運営することとなりましたが、実際には、戦争による応召(13名)のため、医師2名(園長を含む)、看護婦長1名、看護婦6名、見習看護婦7名の計16名で、1,100名の患者さんの治療に当たっていました。一人当たりでみれば、医師一人で550名、看護婦等は一人で約80名の患者さんのお世話をしていたことになります。

○1945年(昭和20年)8月~冬近くまで、園内に「赤痢」が発生し過去最高の213名(年度当初の患者数1,134名の18.8%)の死亡者が出ました。

○1946年(昭和21年)4月25日、「長島」全島が、農林省(現:農林水産省)から厚生省(現:厚生労働省)に移管されました。農林省から移管された土地は、164,704坪(544,477㎡)で、当園の敷地面積は、251,934坪(約832,840㎡)余に拡大され、開園当初の約5倍の広さとなりました。

○1946年(昭和21年)11月4日、「国立癩療養所邑久光明園」の名称は、「癩」の字がはずされ「国立療養所邑久光明園」と改称され、現在の名称となりました。

○1950年(昭和25年)3月、この2年前に制定された保健婦助産婦看護師法により看護婦制度の画期的な向上が図られましたが、この法律に対応できなかった当園の看護婦養成所は閉鎖となり、再び看護婦の採用に困難な状況となりました。

○1953年(昭和28年)8月「、癩予防法」は、「らい予防法」となりました。

○1954年(昭和29年)4月1日、新たに制度化された准看護婦制度化による当園附属の准看護婦養成所が認可され、ようやく看護婦採用難が解消されました。



監禁室
監禁室


納骨堂
納骨堂


准看護婦養成所
准看護婦養成所


展示資料室 夫婦部屋再現
展示資料室より
~夫婦部屋再現~

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邑久長島大橋開通から現在へ

○1988年(昭和63年)5月9日、二つの療養所がある長島と本土とは、わずか30mの距離でしたが、潮の速い海峡で隔たれており本土への往き来は船や手漕ぎの舟を使用しなければならず、非常に不便、かつ不自由で、この海峡に橋を架けることは長島愛生園と当園の入所者や職員にとって長年の悲願でした。この日、通称「人間回復の橋」とも言われる「邑久長島大橋」が完成し、両園は陸続きとなりました。このことによって当園は、大きく様変わりしました。

○1996年(平成8年)4月1日、「らい予防法」が廃止され、新たに「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されました。長年にわたり入所者はすべて「患者」と称され、施設の出入りも制限されていましたが、この法改正により「入所者」と称されるようになり、当然の権利として施設を離れることが出来るようになりました。しかし、入所者の高齢化やハンセン病の後遺症による視力障害や四肢機能障害を有し、また、社会のハンセン病に対する差別、偏見も未だにきびしく、社会復帰は困難な状況が続いています。

○1997年(平成9年)3月31日、高学歴志向の高まりとともに看護師養成所や看護大学が増加し、看護を提供する場も病院から地域社会へと拡大し、さらにリーダーシップの発揮できる看護師が求められるようになり、「准看護師の将来を考えるとき、将来は決して明るくなく、このまま准看護師を育てるのはかわいそうだ」また、「国が准看護師を育成すべきではない」との考えから、開校以来43年間、538名の卒業生を送り出した当園附属の准看護婦養成所は、この日をもって閉校となりました。

○2009年(平成21年)4月1日、「らい予防法の廃止に関する法律」が廃止され、新たに「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」(通称:ハンセン病問題基本法)が施行されました。

○2009年(平成21年)6月19日、明治42年「第三区府県立外島保養院」開院以来、創立100周年を迎え、「創立100周年式典」が挙行されました。最後に、予防法が廃止されたからといって、ハンセン病に対する差別、偏見がすぐに無くなるわけではありません。未だに根強いものが存在しています。現在、ハンセン病に対する差別、偏見を無くすために、各地方自治体や多くの団体とともにハンセン病を正しく理解していただくための啓発活動を行っています。


みんなで、差別、偏見のない明るい社会を築いていこうではありませんか。


邑久長島大橋
邑久長島大橋

しのびづか公園
しのびづか公園

展示資料室
展示資料室

展示資料室 内部
展示資料室 内部

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