トピック:アジアの通貨・金融危機と各国の対応
1 概況
東南アジア及び東アジアの国々は、1980年代後半以降95年までのほぼ10年間、日本等先進諸国からの直接投資を背景に、輸出主導による高成長を享受してきた。その典型が、96年にOECD加盟を果たした韓国であった。ところが、96年に入り、アジアNIEs、ASEAN諸国では、主要輸出品目である半導体の市況の悪化と主たる輸出先である日本の円高是正の影響により、輸出の伸びが大幅に低下、景気の鈍化と経常収支の悪化により対外債務が拡大した。
さらに、97年半ば以降、タイ通貨の為替制度の変更を契機に、タイ・バーツが大幅に下落し、これによる対外債務額の大幅増から金融危機が発生し、その影響はインドネシアに拡大した。また、輸出不振の影響による財閥系企業の倒産で信用不安が起こっていた韓国も、これによる対外債務の返済の滞り懸念等から、大幅な通貨下落に見舞われ、通貨・金融危機が発生した。通貨・金融危機が最も深刻であったタイ、インドネシア及び韓国では、IMF等の金融支援を受け、緊縮政策に転換したが、国内消費や投資が落ち込み、97年の半ばから後半にかけて、経済成長は急激に減速し、98年は大幅なマイナス成長となった。
国内景気の低迷により、企業の倒産、失業率の上昇等労働市場にも影響が生じている。タイでは、96年には1.5%、97年には2.2%であった失業率が98年には4.0%に上昇し、インドネシアでは、97年の4.7%から98年には5.5%に上昇した。韓国では、97年までは2%台で推移していた失業率が97年末の通貨危機以降急上昇し、98年は6.8%という高水準となった。
また、通貨・金融危機は、危機前の高成長期にめざましかった「貧困の解消」を逆行させ、企業の倒産等に伴う失業及び解雇を巡る労使紛争を増加させるなど、社会面に大きな影響を与えてきている。さらに、通貨・金融危機は、程度の差はあるものの、マレイシア、香港等近隣諸国にも拡大し、98年に入ってから、ロシア金融危機や、ブラジルに代表される中南米の通貨不安にも波及するなど世界規模での拡大をみせた。
2 アジア通貨・金融危機の背景
今般の通貨・金融危機の背景で最も注目すべきことは、東南アジア及び東アジアに流入してきた外国資本の形態の変質である。これらの国々に対する資本流入は、当初は直接投資が過半を占めていたが、一部の国を除くと直接投資は90年代初めにピークを迎えた後、不動産・証券投資等の非実物セクターへの投資が主流となり、その量も急増した(注1)。危機が深刻であったタイ、インドネシア及び韓国への資本流入の動きに注目すると、特にその傾向が強かったといえる。直接投資の拡大ペースが鈍化し短期的に移動する外国資本の流入が拡大していくなかで、東南アジア及び東アジアの国々は、脆弱な金融システムの改善・強化を怠り、もっぱら外国資本の流入規制を緩和していった。この資本取引に対する規制緩和は更なる外国資本の流入をもたらしたが、この動きを事実上固定されていた為替レートが一層助長した。これらの国々は、大量に流入する外国資本を、為替リスクを考慮することなく受け入れることが可能だったためである。
このようにして流入した短期の外国資本の少なからぬ部分は、非実物セクターである不動産・証券投資等へ向かい、又は楽観的な需要予測に基づいた過大投資に向かった。しかしながら、タイ・バーツの為替制度の変更を契機に、信用リスク・為替リスクを回避しようとする海外投資家がタイへの投資を急速に引き上げた結果、タイ・バーツの大幅な下落を引き起こした。タイ・バーツの下落により、同様の状況にあったインドネシアでも通貨の大幅な下落に直面するなど、その影響は他の東南アジア及び東アジア諸国にも拡大していった。通貨の急落は、米ドルなど外貨建てで借り入れをしていた金融機関や企業の対外債務を増大させ、また、外国資本の急速な流出により不動産・株式の大幅な下落をもたらし、これによる不良債権の増加と対外債務の返済懸念から金融危機を引き起こしたのである(注2)。
また、アジア諸国における「身内主義的資本主義」も、通貨・金融危機を引き起こした要因の一つと考えられている。市場における広範囲に及ぶ政治的介入、政府の身内や関係企業との不正取引等は、行き過ぎた不適切な投資が行われるという問題を引き起こし、この結果、投資効率の低下を招いたのである。
(注1) | 急激な資本流入が生じた理由としては、以下の3点が指摘されている。
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(注2) | 中国、香港、台湾、シンガポールにおいては、今回の通貨・金融危機による影響は軽微であったが、これらの国・地域では90年代に抑制的な金利政策を採用していたこと、対外純債権国であるか又は対外債務の規模が小さかったこと、外国資本の利用に関しては直接投資を中心に利用していたこと等が共通点として指摘されている。 |
3 ロシア・中南米等の新興市場への波及
アジアの通貨・金融危機の影響により、これまで対外資金の流入が増加していたロシアや中南米の新興市場に対する先行きが不透明になり、これら新興市場に流入していた資金が、いわゆる「質への逃避」という現象に言い表されるようにアメリカの債券市場等の先進国の市場に大幅に流出した。これに対し、中南米では、ブラジルで、97年10月に通貨の売り圧力がかかったが、当局は通貨防衛のための金融引き締めを実施するとともに、財政赤字縮小計画を発表したことから売り圧力は低減し、また、アルゼンチン、メキシコ、チリでも、同11月以降通貨の売り圧力の強まりのなかで、当局による短期金利引き上げ等により事態の悪化が回避された。他方、ロシアでは、97年の秋以降、当局は為替・債券市場で介入等の措置を採ったものの、98年5月に為替・債券市場において売り圧力の強まりと同時に株価も下落し、その結果、金融危機に見舞われ、同8月には通貨切り下げを余儀なくされた。
これらの地域では、通貨防衛のための金利引き上げ政策等により、景気及び労働市場に少なからず影響が出ている。金利引き上げ政策は、自国への資金流入を促し、自国通貨の増価をもたらす一方で、設備投資を中心とする国内投資の抑制等により国内景気の減速、これによる失業率の上昇等をもたらしているのである。これらの地域の実質GDPの成長率をみると、ロシアでは、96年3.5%減の後、97年には0.8%増と回復したものの、98年は4.6%減と景気は後退している。ブラジルでは、96年2.8%増、97年3.2%増と安定成長を続けていたが、98年に入り、第I四半期0.9%増、第II四半期1.5%増と景気は減速している。メキシコ、アルゼンチンにおいても、景気拡大のペースは鈍化している。景気の減速は労働市場にも影響を与えている。ロシアでは、95年には8.3%であった失業率が97年には10.8%に上昇し、98年に入り11.8%となった。ブラジルでは、96年5.4%、97年5.7%であった失業率が、98年には7.6%と上昇している。アジアに端を発した通貨・金融危機は、ロシア・中南米の新興市場にもその影響が波及し、これらの市場に対する投資国であり、これまで比較的堅調に景気拡大を続けてきた欧米先進各国の懸念材料にもなっている。
4 各国の対応
危機発生後の雇用情勢、対応策、労使関係の動向等については、「1997年海外労働白書」第1部及び本書第1部の関係部分において詳述しているが、各国政府の雇用対策等の状況を概観すると次のようになる。
(1) 韓国
韓国では、97年10月下旬より株価とウォン・レートの急落が始まり、韓国政府は、11月21日にIMFの資金支援を仰ぐことを決定。12月3日には総額580億ドルの資金支援が決定された。資金支援に当たっては、緊縮財政運営、金融産業の構造改革、財閥の財務制度の改革、労働市場の柔軟化といった厳しい条件が課されることとなった。
イ 労使政委員会の発足
97年12月18日の大統領選に勝利した金大中氏は、経済危機を打開するため、緊縮財政、財閥・金融改革と並んで労働市場改革を新政権の課題として掲げた。金大中氏及び政府側はIMFとの合意事項である労働市場の柔軟性向上について法制化を図りたい一方、労働側がそれに強行に反対していたため、労使政協議体において労働市場柔軟化方策の導入のあり方について協議することで労働側の理解を得ようとし、98年1月15日、「労使政委員会」が発足した。労使政委員会での合意を経て、2月14日には、勤労基準法改正案(整理解雇条項を含む。)など18の関連法案が国会を通過・成立した。
ロ 失業対策の実施
政府は、雇用情勢の悪化に対処するため、3月の補正予算等によって失業対策の全面的な拡充を発表した。その主要な内容は、1)中小企業の経営安定等の支援策による失業発生の最小化、2)失業者を吸収する新規雇用創出策、3)職業訓練及び職業紹介体制の拡充策、4)失業者に対する生活支援策に注力すること等。
さらに政府は、8月10日、98年下半期(8〜12月)における失業対策案を発表した。その主要な内容は、1)失業者を吸収するための就業機会の拡大(インフラ整備、公共事業等)、2)中小企業の経営安定等の支援策による雇用安定策、3)職業訓練及び職業紹介体制の拡充策、4)雇用保険の適用拡大及び失業者に対する生活支援策に注力すること等。
ハ 構造改革の実施
金大中大統領は、従来の政府主導型の経済政策によって経済全般に構造的な脆弱性が累積されたとし、政府・公共部門、金融部門、企業部門の構造改革を推進した。しかしながら、このような果敢な構造改革は、各部門の不採算部門を急激に整理する過程において大量の失業者を生み出すこととなり、雇用を巡り、公企業、銀行、大財閥製造部門等で、労使紛争が多発した。
(2) タイ
98年2月、政府及び労使団体は、通貨危機下において労使関係の安定を図り、社会的混乱を避ける必要があるとして、81年にILOの協力の下で作成した「労使関係の円滑な推進に関する行動規範」を、通貨危機に対応した内容に改訂した。さらに、労使紛争を解決するための政労使三者構成による組織(「経済危機下における労使紛争の防止・解決委会」)を創設した。
また、98年8月には、政府は、財政支出の拡大、外国投資の促進等を盛り込んだ98年後半を対象とした景気刺激策を決定した。
(3) インドネシア
政府は、経済危機下における失業対策として、98年1月、ジャカルタ特別州及びその周辺地域における雇用プロジェクトを行う旨発表した。同プロジェクトは、労働省が国家経済開発庁及び大蔵省との共同で、総額330億ルピア(約3.3億円、1ルピア=0.01円(98年2月))を用いて、ジャカルタ特別区、西・中部・東ジャワの4州で30のプロジェクトを実施するものであり、同3月末まで80日間実施された。
(4) マレイシア
マレイシアは、経済危機発生後、タイや韓国のような総合的な雇用政策を発表していないが、外国人労働者が多いことから、外国人労働者の抑制を図りマレイシア人の雇用を図っていることが特筆される。すなわち、マレイシアでは、労働力人口約870万人のうち、合法外国人労働者が約120万人、合法、非合法を併せた外国人労働者の数は約200万人にも登るといわれており、もっぱら労働力の不足している産業で外国人労働者を受け入れてきた。ただし、最近では経済危機に伴う景気の悪化により、使用者がコスト削減のために賃金の安い外国人労働者を優先的に雇用し、マレイシア人を解雇する傾向が見られる。人的資源省によると、98年上半期の失業者全体の89.1%にあたる35,199人がマレイシア人である。このため政府は、98年1月9日、国内労働者に職を供給するための措置として、サービス業及び建設業に従事する外国人労働者の労働許可証更新を打ち切り、プランテーション及び一部の製造業への配置替え措置を決定した。また、同8月1日より施行された改正雇用法でも、国内労働者の雇用確保のために、マレイシア人労働者の先発解雇が禁止された。また、解雇労働者に対する救済措置として、職業訓練分野でも施策を講じた。
参考文献: | 経済企画庁「海外経済データ」 |
経済企画庁「アジア経済1998」 | |
日本貿易振興会「通商弘報」 | |
さくら総合研究所「RIM アジア・太平洋ニュースレポート」 | |
時事通信社「世界週報」 | |
日本貿易振興会「アジアは活力を取り戻せるか」 | |
日本労働研究機構「海外労働時報」 | |
日本ILO協会「世界の労働」 | |
IMF「International Financial Statistics」 | |
IMF「World Economic Outlook Dec.1997」 | |
タイ労働社会福祉省「Year Book of Labour Statistics」 | |
タイ国家統計局「Labour Force Survey」 | |
インドネシア中央統計局「Statistik Indonesia」 | |
インドネシア労働省資料 | |
韓国統計庁「Monthly Statistics of Korea」 | |
韓国労働部、通商産業部資料 | |
ILO「The Social Impact of the Asian Financial Crisis」 |