楽泉園の沿革
施設沿革
昭和 6年 | 3月9日 | 第59回帝国議会で癒患者療養地設定費12万円が可決 | |
同 | 6月4日 | 温泉工事(測量)を開始 | |
同 | 10月7日 | 温泉の導引契約が締結された | |
同 | 10月9日 | 草津温泉導引について草津町長から内務省大臣官房会計課長あて収第1,025号により承認 (取入口内径7寸、使用料無料)(源泉は、町の中心にある「湯畑」より約3km導引) |
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昭和 7年 | 6月28日 | 草津療養所(仮称)の地鎮祭を挙行 | |
同 | 9月25日 | 水道工事着手(水源は「道の駅」先、約5km導引) | |
同 | 10月21日 | 内務省告示第258号告示により「国立らい療養所栗生楽泉園」設置 | |
同 | 11月 | 栗生会館(現 青年会館)開設(入園者の集会所・図書室・売店・娯楽施設として使用) | |
同 | 11月16日 | 国立(内務省所管)のハンセン病療養所として創設 | |
同 | 11月28日 | 外来診療開始 | |
同 | 12月28日 | 第1号の入園者を迎える。この年の入園者数3名 | |
昭和 8年 | 4月15日 | らい予防協会立栗生保育所開所(経営は救世軍日本本営に委託) | |
同 | 10月1日 | 草津小学校栗生分校設置(S8.9.30 教発第397号 群馬県指定) | |
同 | 12月 | 監禁所設置 | |
昭和9年 | 10月5日 | 9月21日室戸台風により潰滅した外島保養院(大阪)より委託患者44名を収容 | |
同 | 10月20日 | 外島保養院入所者54名を更に受入 | |
昭和10年 | 1月1日 | 五日会(自治会の前進)発足 | |
同 | 11月15日 | 事務本館が竣工した | |
昭和12年 | 8月12日 | 本年看護員養成所創立(群馬県指令第517号) | |
昭和13年 | 6月28日 | 外島保養院(邑久光明園)委託患者74名が帰園 | |
同 | 12月 | 特別病室(重監房)建立(ハンセン病患者を対象にした懲罰用建物) | |
昭和16年 | 3月13日 | 群馬県が草津町字湯ノ沢部落移転の交渉を開始 | |
同 | 4月30日 | バルナバ医院閉鎖に伴い44人患者受入 | |
同 | 5月7日 | 群馬県は湯ノ澤部落に解散命令を発出 | |
同 | 5月18日 | 湯ノ澤区は部落解散式を挙行 | |
同 | 5月19日 | 湯ノ澤部落解散に伴う受入を開始。この年の入園者数1,071名 | |
昭和17年 | 12月31日 | 元湯ノ澤部落住民の受入完了。この年の入園者数1,263名 | |
昭和18年 | 2月1日 | 草津郵便局湯ノ澤分室園内移転。 | |
昭和19年 | 入園者数1,335名ピークを迎える | ||
昭和21年 | 12月 | 「高原」が創刊された | |
昭和22年 | 特別病室(重監房)廃止 | ||
昭和23年 | 監禁所廃止 | ||
昭和24年 | 4月1日 | プロミン注射が一般化した | |
昭和26年 | 3月31日 | 本園看護員養成所閉鎖 | |
昭和27年 | 4月1日 | 本園付属准看護学院第1回生の入学式を挙行 | |
昭和28年 | 12月3日 | 事務本館火災により全焼 | |
昭和29年 | 4月1日 | 草津町立草津中学校第1分校及び第2分校が開校した | |
昭和30年 | 3月15日 | 事務本館が新築落成した | |
同 | 4月1日 | 保育所及び分校の学童全員が本校通学となった | |
昭和34年 | 9月15日 | 食事運搬車による配食を開始 | |
昭和37年 | 4月1日 | 組織改正により、本園に事務部が設置された | |
昭和41年 | 3月31日 | 栗生保育所閉鎖 | |
昭和60年 | 3月31日 | 准看護学校閉鎖 | |
平成8年 | 4月1日 | らい予防法廃止。らい予防法廃止に関する法律施行 | |
平成19年 | 3月28日 | 胎児慰霊碑「命カエシテ」建立 | |
平成21年 | 4月1日 | らい予防法廃止に関する法律廃止 ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法)施行 |
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平成21年 | 11月 | 社会交流会館(現・栗生楽泉園歴史館)開館 | |
平成26年 | 4月30日 | 当園隣接の重監房資料館(特別病室)開所 | |
令和元年 | 11月15日 | 人権の碑建立 | |
令和4年 | 5月 | 新治療棟完成 |
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