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群馬県吾妻郡草津町大字草津乙647番地
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楽泉園の概要

施設概要


 草津の湯は古くから万病に効くと言われ、江戸時代の全盛期には浴客数毎年1万数千人が訪れていました。とりわけ皮膚病に効果があると伝えられたためこの頃からハンセン病を病む湯治客も相次いで集まりました。


当園下地区のルーツである昭和初期の「旧湯ノ澤部落」

 この時代は男女混浴、健病同宿、健病混浴でありましたが、明治時代に入り草津温泉が新しい反映をみるにつれ、草津町は健病同宿、健病混浴を避けるため明治20年、草津の東のはずれの崖と狭い谷、そこを流れる湯川の流域で大部分が熊笹の生い茂る未開地であった「湯ノ沢」地区に患者を移転させました。
 湯ノ沢の患者たちは、荒地をきり拓き新しい村づくりに意欲を燃やし、患者による患者のための”自由療養村”建設をめざしました。

 大正5年イギリス人コンウォール・リー女史が、湯ノ沢部落に聖バルナバ病院を開設したので、温泉とともに治療施設があることから、全国各地から患者が部落に集まり多い時には800人を超えたといいます。
 ここでの患者の生活は、温泉と点灸の効果を信じて療養生活を送り、そのかたわら旅館、飲食店、質屋等の生業を営み独立した社会生活を維持していました。

 湯ノ沢部落があまりに温泉街に接近しているので草津温泉の発達を阻害するばかりでなく、温泉街との交通も自由であり、その境界も無いに等しい状態のため、らい予防法を徹底するため県としては湯ノ沢部落の移転を目的とした楽泉園の設立が計画されました。 
また、草津町も再びハンセン病患者の隔離を考え、温泉街から3km離れた滝尻原を予定地として国から払い下げてもらいました。 
大正14年この一角に三上千代は鈴蘭園を開きました。 

昭和6年第59回帝国議会は「草津療養地区設定予算」として、滝尻原東南の私有地買収費120,000円を可決。翌年から民有地を次々と買収し工事に着手。翌7年11月に第1期工事を完成、同年11月16日に患者の移転が開始されるとともに外来診療を始め、長島愛生園につぐ二番目の国立ハンセン氏病療養所栗生楽泉園(くりうらくせんえん)が誕生しました。 
当初定床15床、職員は園長以下数名の陣容であり極めて小規模な療養所でした。

 当時から自家水源を持ち、園内二ヵ所に草津町湯畑から温泉を引湯しました。当園は他の療養所と異なり、療養地区及び自由地区に分かれており、療養地区は一般の国立及び道府県立療養所と同様でしたが、自由地区は有資力患者を移住させ、患者は自己資金で住宅を建築し、食費及び日用品も自己負担であり、治療のみが無料でした。

 当園はその開所にあたり、湯ノ沢部落の患者より収容しましたが、その過半数は盲者又は重症者でした。また当園の開所を聞き遠く九州、北海道方面から来て入園を希望する患者がおり、開所以後一時その収容整理に忙殺されました。
 湯ノ沢部落の移転は、群馬県の仲介により昭和16年5月7日交渉が円満に解決し、開設からおよそ10年後の昭和17年末には当初の目的であった移転を多くの障害を乗り越えてすべて完了しました。

 しかしその一方、病気のまま社会生活を余儀なくされている患者の入所業務を併せて行い、数々の変遷を経て今日に至ったのです。
 過去の実績によれば、昭和19年の年度末患者数1,335名をピークとして、その後の治療薬等の開発により、新発生患者の減少、社会復帰の増加等の影響で年々患者数は激減しています。

 当園では入園者の高齢化が進んでおり、後遺症による身体障害あるいは長期間社会からの隔離などのため、社会復帰は難しいのが現状です。
 従って障害を持った超高齢者の集まりと考え、福祉・医療の充実を図り、また、啓蒙啓発、社会復帰の支援も務めとせねばならないと思っております。



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