歴史探訪

以下は、当時の後藤正道園長による当園史跡の紹介です。現在、当園には様々な史跡がありますが、史跡見学の前後に一読されることをお勧め致します。それぞれの史跡についての理解を深めて頂き、当園の歴史に少しでも触れて頂ければ、幸いに存じます。

園長 山元隆文

 

敬愛園歴史探訪

その1  楓公園(かえでこうえん)
その2  敬愛橋
その3  初代火葬場跡
その4  友愛記念碑
その5  星塚敬愛園正門設計の思い出
その6  旧納骨堂
その7  水源地
その8  林文雄碑(朝の祈)
その9  大島園長碑
その10 公会堂
その11 看護学校跡
その12 水不足と給水塔(高架水槽)
その13 むつみの時計台
その14 収容門
その15 鹿児島事務連絡所(敬和寮)
その16 つれづれの御歌碑

敬愛園歴史探訪 その1 楓公園(かえでこうえん)

楓公園をご存じのかたは少ないと思います。敬愛園の記録を読むと、入所者作業によって完成した楓公園の落成式が昭和13年に行われており(星光・昭和13年1月号と7月号)、昭和15年の楓公園の写真には日曜搭と池が写っています(70周年記念写真集・p.36)。現在の一般舎の三報寮の北を下った場所、沢山の紅葉が植えてある斜面(写真左)とその北側が、古い写真に写っている楓公園になります。写真に写っている階段状の部分には楓や桜などの大木が茂っていますが、冬になると見渡すことができます。池は最初は養鯉池で昭和58年頃には金魚がいましたが、現在は涸れています。また、北側の丘(健児ヶ丘)の上には日曜搭(児童作業室)の土台の石積みも残っていて(写真右)、分校跡地の表示板があります。別の経路としては、敬愛園の西門から入って職員駐車場に車を停め、官舎の南側を通る道を東に歩いていくと、下り坂になって森の中に入っていき、そのまま進むと楓公園です。図書室にある資料や写真を元に、かつての楓公園を想像しながら歩いてみてください。

後藤正道 記
(2009.8.14)

夏の楓公園(三報寮の北側斜面)

夏の楓公園(三報寮の北側斜面)

日曜搭の礎石(分校跡地)

日曜搭の礎石(分校跡地)

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その2 敬愛橋

 敬愛橋といっても、敬愛園に橋があるのだろうかと疑問を持つ人も多いかと思います。公会堂から東口に向かって歩くと、途中の左側に畑のある谷がありますが、その谷間の奥のほうに、東側の畑地区と西側の高千穂寮方面をつなぐ盛り土の「橋」があり、これが敬愛橋です。星光の昭和15年3月号によると、2月から入所者(開拓振興隊)作業によって、紀元2,600年記念事業として敬愛橋の建設工事が始まっています。この谷には敬愛園の三分の二の地域の水が集まっていたため、梅雨時や台風時の大雨では橋も上手に水がたまって土塁が崩れることがあり、難工事だったようです。3年をかけてやっと昭和18年の2月に竣工式と渡り初めが行なわれています。当時の星光には「これは職員入園者一千が一塊々々の土を運んで築いたものである。これは職員と入園者を結ぶ橋である。我等の生涯忘れることの出来ない橋である。」と記されています。
今から10年ほど前に土手が崩れてきたために、平成12年6月に建設業者によって修復が行われ、現在の姿になっています。古い写真に写っている人々に思いをはせて、この橋を渡ってみて下さい。

後藤正道 記
(2009.12.8)

竣工式の敬愛橋(昭和18年)

竣工式の敬愛橋(昭和18年)

現在の敬愛橋

現在の敬愛橋

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その3 初代火葬場跡

 前回にご紹介した敬愛橋を東から西に渡ると、右手に赤いれんが造りの遺構が見えてきます。高千穂寮の東側になります。ここが今回ご紹介する(初代)火葬場跡です。敬愛園に長い間入所していた作家の故・島比呂志氏がその作品に「奇妙な国」という題をつけたように、かつてのハンセン病療養所はそれ自体が国のようなもので、その中には社会生活に必要なほとんどの施設が備えられていました。火葬場もその一つで、昭和10年の開園当時から昭和24年まで、園内で亡くなられた入所者はここで火葬され、園内の納骨堂に埋葬されました。赤いれんが造りは焼却炉で、当時はその上に屋根が付いていました。
鹿屋市の火葬場(大隅中部火葬場)が使用できるようになったのは平成14年からで、昭和24年から58年までは二代目の火葬場、それ以降は現在も建物が残っている旧火葬場が使用されました。平成8年までは入所者が火葬業務に従事していました。
人はみな死に行く運命にあるのですが、亡くなられた後にも社会に戻ることができなかった入所者に、思いを馳せてみてください。

後藤正道 記
(2010.4.30)

往時の火葬場(昭和16年)

往時の火葬場(昭和16年)

現在の初代火葬場跡

現在の初代火葬場跡

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その4 友愛記念碑

 今回は、敬愛園の外にある記念碑を紹介しましょう。敬愛園で使っている水は、園の南に見える横尾岳の中腹にある水源地から引かれていることはご存じだと思います。このための送水管を設置するにあたって地元の協力を得たことを感謝して、昭和11年6月に「友愛記念碑」が造られ、同年8月5日に永田良吉代議士、山口衛生課長、森田大姶良村長ら30数名が出席して除幕式が行われました。
この友愛記念碑は、南町の山下(やまげ)公民館にありますが、石造りで正面に「つれづれの友となりても」の歌が刻まれ、側面には「救癩によせられたる好意を記念して 昭和11年6月25日」と彫られています。送水管の通っている地域の方々に水を使ってもらうため、当初は噴水があったそうですが、現在は水道栓が取り付けられています。
実は、この記念碑のすぐ横に受水槽も設置されていて、昔は水をためて地元の人々が利用していたそうですが、最近は利用されずに危険があるためにしっかりした蓋を取り付けてほしいとの要望がありました。現地に行ってみたところ、この友愛記念碑があることに気付きました。近くですので、一度行ってみてはどうでしょうか。

(参考文献 星光 昭和11年7月号、9月号)

後藤正道 記
(2010.8.13)

現在の友愛記念碑(昭和11年建立)

現在の友愛記念碑(昭和11年建立)

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その5 星塚敬愛園正門設計の思い出

平成23年4月28日 友清 貴和

【正門設計の経緯】
星塚敬愛園の正門は私と友清研究室の学生とで設計をしました。イメージスケッチを私が学生に示し、設計図に起こすことと模型の制作は学生たちがしてくれました。平成12年の秋に、当時の事務部長村山さんから依頼され、イメージスケッチを始め、最終基本設計案ができたのは平成13年1月、それから実施設計、工事と続き完成が同6月です。村山さんは平成12年の夏頃に、地元の業者に正門の設計を依頼されたのですが、和風でいかにも薩摩の○○屋敷の門をまねしたようなデザインだったため気に入らなかったようです。その結果、当時つき合いのあった私に依頼されたという次第です。
残されているデザインコンセプトの文章は、村山さんが書かれたものです。私は基本設計を持参した時に、「高さの異なる七つのフレームを両側に並べるデザインのイメージと、古い石造りの正門を残す意味」を村山さんに説明しただけです。コンセプトの文章に書かれた「入り来る時は遠く高隈山系の・・・、出て行く時は横尾岳の・・・」の文言は村山さんのものです。後ほどこの文章を読ませて頂いた時、私は村山さんに「私がコンセプトを書いたとしても、80%はこんなことを書いたはずです」と申し上げました。敬愛園に対する二人の思い入れは、それほど似通っていました。夜間のライトアップは、暗い夜道になるとどこが出入り口か分かりにくい、ということで村山さんが発想されました。本当はまずいのでしょうが、礎石に「設計 鹿児島大学・・・友清研究室・・・」と填め込まれたのも、村山さんの独断でした。学生たちも喜び私も非常に感謝していますが・・・。

【村山さんとの出会い】
私は昭和60年に九大の助手から鹿児島大学の講師として鹿児島大学に移り、同61年に助教授になり、建築の教育研究に携わっていました。私の研究分野は建築計画学ですが、狭い意味の専門は病院建築・病院管理学・地域医療計画です。平成6年に福岡在住の病院関係者(医師・看護師・医療事務)等で九州医療病院管理研究会を立ち上げることになり、当時南九州病院の庶務課長をなさっていた村山さんから、建築関係者がいないから(九州で病院建築の研究者は私一人)私に発起人として参加するように依頼があり、その時から特に親しく付き合うようになりました。・・・ちなみに発足時の研究会会長には、当時福大脳外科教授である朝永正道先生にお願いしました。研究会は現在も続き、これ以来現在も私は研究会建築設備部門の世話人をしています。

【敬愛園への思い】
平成8年5月にMBCで放映された「星塚敬愛園」の番組を見て、私は医療福祉施設建築計画研究者の立場から、盛んに報じられていた差別の問題とは別次元で、ハンセン病施設の歴史と現状を淡々と記録に残すべきだと思い始めました(戦前のサナトリウムの記録は、ほとんど残っていなかったことを知っていた反省も含め)。平成11年に村山さんが敬愛園に事務部長として赴任されたことを知り、夏過ぎた頃になって彼に連絡を取り、私の思いを告げ互いにしっかり共感し合い、彼に全面的に協力して頂くことになりました。
しかし、学生はハンセン病や歴史の記録などにはほとんど興味を示さず、卒業論文や修士論文にしようとする学生は、平成12年度には誰もいませんでした。このため、私一人で鹿屋に行ったり村山さんと鹿児島で会ったり、いつも二人で焼酎を飲みながら、私の研究への思いと村山さんの敬愛園への思いが、さらに二人を親密なものにしました。このような中で、村山さんから私に正門設計の依頼があったというのが経緯です。
その後やっと平成13年4月から、大学院の2年生と1年生を説得し、敬愛園の施設の記録を整理することになりました。とはいえ最初は、当時倉庫に残っていた設計図等もぼろぼろで、丁寧にしわを伸ばしたり破れを修理したりし、コピーを作成することで精一杯で、論文というような記録にするのはほど遠いことでした。

【敬愛園と村山さんとハンセン病施設と】
淡々と敬愛園の施設の記録を残す・・・という作業は、その後友清研究室の多くの学生の協力を得て、取りあえず平成14年2月に、当時大学院修士課程2年生であった「西室田 周作」君が修士論文としてまとめてくれました。この論文をほとんどそのままの状態で、かなりの部数を村山さんが印刷し、いろんな所に記録として配布されました。そして同年3月25日、村山さんと当時の看護部長たちさらには学生を交えて、焼酎を酌み交わし彼の退職のお別れをしました。退職後は阿蘇に作られた村山さんの別荘「蘇水庵」で会う約束をしながら、一度も会わずに時が流れ、会ったのは福岡太宰府の実家に飾ってあった村山氏の遺影でした。ハンセン病施設に関する研究は、その後研究室の学生と一緒に、沖縄県名護市の愛楽園の調査をやりましたが、現在は後進に譲っています。

正門オブジェ

正門オブジェ

↑TOPへもどる

敬愛園歴史探訪 その6 旧納骨堂

 歴史探訪の3回目に初代火葬場跡を紹介しました。今回は、その北にある旧納骨堂をご案内しましょう。敬愛橋の東側から北西方向に道を下って行くと、右側に大きなイチョウの生えている広場があり、その奥の杉山の山腹を削って、ギリシャ建築に似た円柱を持つ、旧納骨堂がひっそりと佇んでいます。夏でもひんやりとする場所です。初代園長の林文雄先生が、吾平山陵を模して設計したといわれています。
林園長は、園内で亡くなった人の遺骨の引き取り手がいないために納骨堂を造りたいことを、西本願寺鹿児島別院の暉峻(てるおか)康範師などに話していたそうです。その願いがかなって、西本願寺鹿児島別院を中心とした寄付金と、入所者の労働奉仕によって造られました。昭和14年3月13日に、春季慰霊祭を兼ねた敬愛納骨堂落成式が行われ、161柱の遺骨を持った親戚知人が列を作り、楓公園の池を左に見ながら杉林の中を進んでいったそうです。それから72年余りがたち、納骨堂も園の中央に移りました。

(参考文献 星光 昭和14年4月号)

後藤正道 記
(2011.9.13)

現在の旧納骨堂(昭和14年竣工)

現在の旧納骨堂(昭和14年竣工)

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その7 水源地

 歴史探訪の4回目に、山下公民館にある「友愛記念碑」を紹介しました。これは敬愛園で使う水を横尾岳の水源地から引く際に、地元の協力を得たことを感謝して作られたものです。今回は、水源地そのものを紹介しましょう。
以前から行ってみたいと思っていたのですが、昨年の6月に初めて訪れました。南町にある山下公民館の前の道を南に進み、公園の近くから右折して林道をしばらく歩くと、左側にステンレスの貯水槽が見えてきます。その直ぐ先を左折して細い足場の悪い山道に入って渓流の左岸を登って行くと、渓流をせき止めた古い石組があります。その上のちょっとした平地には、表に「水神」と刻まれ、裏に「昭和10年10月31日竣工・星塚敬愛園」と記された苔むした石があります。この日付は、敬愛園の創立から3日後ということになります。ちょうど職員による清掃作業が終わった後で、お神酒(焼酎)を振りかけて、これからも水源が枯れないように皆で祈願をしました。回りは広葉樹林で、ひんやりとした空気に包まれています。
私たちが敬愛園で使っている水のほとんどは、この水源地からのものです。敬愛園の開園当時の記録を読んでみますと「横尾岳の麓、樹木鬱蒼たる豆漬渓谷 そこに我等の水源地がある。自然の湧水四時涸るるを知らず。星塚数千の病者を養ふに足る。」と書いてあり、この地に決まったのは豊富な水を近くの山から引けることも大きかったようです。

参考文献:星座 第一輯 建設篇 p.16〜24、名もなき星たちよ p.13〜14

後藤正道 記
(2012.5.1)

水源地の石碑(昭和10年建立)

水源地の石碑(昭和10年建立)

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その8 林文雄碑(朝の祈)

 今回の歴史探訪は、林文雄先生の記念碑をご紹介しましょう。林文雄先生は、昭和10年10月5日から昭和19年2月9日まで初代の敬愛園長を務められました。光田(レプロミン)反応として知られるハンセン病の病型決定のための皮内反応を完成したことでも知られています。
宗教会館の前の植え込みの中に、林先生を記念した石碑がありますが、その中央には、家族が揃って祈っている様子を描いたブロンズが埋め込まれています。これは林先生のお父様でクリスチャンだった林竹治郎画伯がご自分の家族を描かれた「朝の祈」の油絵を元に作られたもので、左下の一番小さな男の子が後の林文雄先生だそうです。
林先生は明治33年に札幌でお生まれになり、北海道大学を卒業後、東京の全生病院(全生園)、長島愛生園を経て、35歳で敬愛園の園長になられました。結核で体調を崩され、8年余りで辞職されましたが、開園の頃の「星光」や年報を読んでみますと、林先生の開拓者としての意気込みが感じられます。その後、47歳で亡くなられています。敬愛園50周年記念誌「名も無き星たちよ」には「初代園長林文雄」という項目があります。ぜひ読んでみて下さい。

後藤正道 記
(2012.10)

林文雄碑

林文雄碑

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その9 大島園長碑

 納骨堂の正面に向かって左手に植え込みがありますが、その中に昭和60年11月1日に建立された石碑が立っています。星塚敬愛園の第6代園長で、在任中に亡くなられた大島 新之助先生を偲ぶものです。
大島先生は大正3年に京都でお生まれになり、昭和14年に大阪高等医学専門学校卒業後すぐに大島青松園に赴任されました。奄美和光園長を経て、昭和50年(1975年)12月31日に敬愛園長として赴任されました。当時は医師不足が進み、昭和54年には約840名の入所者に対して常勤医師3名という状態になってしまいました。医師を確保するために、自治会と一緒になって身を粉にして全国を奔走されました。その甲斐あって、鈴木副園長の着任と鹿児島大学からの常勤医師の確保へとつながり、現在の敬愛園医療の基礎が作られたといっても過言ではありません。闘病生活の末、昭和58年11月1日に逝去され、同24日に職員・入園者による合同葬が行われました。一生をハンセン病のために捧げられた、柔和で温厚誠実なかたでした。俳句を趣味とされ、句集「星塚」を残されています。私が昭和58年4月に赴任した時、古い木造の事務本館で大島園長に辞令を頂いたことを今でも思い出します。

参考資料 姶良野1984年新年号「大島新之助園長追悼特集」

後藤正道 記
(2013.4)

大島園長之碑

大島園長之碑

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その10 公会堂

 今回は、皆さんにおなじみの敬愛園公会堂について紹介しましょう。園の中で多くの人が集まることのできる建物として、昭和15年に礼拝堂ができました。これは現在の宗教会館の場所にあった大きな木造建築でしたが、入所者席と職員席が分かれていました。その後、昭和37年12月に現在の公会堂の起工式が行われ、昭和40年10月28日の開園30周年記念式典で落成式が行われました。平成4年に模様替えがなされていますのでそんなに古くは見えませんが、今年で築48年になります。
落成式前後にはバレーボール大会、卓球大会、東家浦太郎の浪曲、都城工業高校吹奏楽部の演奏などがあり、落成式では入所者と職員が同席する中、テレビタレントによるアトラクションと映画上映が行われたと記録されています。なお、壁に貼られている年表や写真は、創立70周年の時に設置されたものです。

参考資料 星光264号、姶良野1965年11,12月号「創立三十周年記念特集号」

後藤正道 記
(2013.10)

公会堂

公会堂

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その11 看護学校跡

 今回は、正門を入って左側に建っている白い平屋の看護学校跡と、その左にある3階建の看護学校寮跡について紹介しましょう。敬愛園が開園した翌年の昭和11年には「附属看護人・看護婦養成所」がつくられ、昭和14年には看護婦養成所になりました。昭和28年になって附属准看護学院が開校しましたが、この建物は、現在の事務本館のすぐ北側にありました。昭和54年からは2年課程の進学コースの附属看護学校となって現在建っている位置に移りました。昭和28年以来、980名の卒業生を送り出してきましたが、看護学校の統廃合に伴い、平成13年3月に学校としての47年の歴史に幕を閉じました。
私もここで閉校まで17年間病理学を教えましたが、高校の衛生看護科を卒業したばかりの学生と、実地経験のある学生が一緒に学ぶ環境は、とても良かったと思います。現在でも附属看護学校の卒業生は敬愛園はじめ多くの医療機関で活躍しています。
なお、附属准看護学院の初代の教務主任だった河野和子先生は、後に「らい看護から」という、今でも日本の看護を語る時に欠かせない名著を書かれました。現在も障がい者施設の新樹学園の顧問をされています。
現在でも看護学校跡は職員宿舎の町内会の会合が開かれたり、職員の自主学習会などに使われています。

参考資料 47年の歩み・閉校記念誌国立療養所星塚敬愛園附属看護学校 2001年

後藤正道 記
(2014.5)

看護学校

看護学校

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その12 水不足と給水塔(高架水槽)

 歴史探訪の7回目で、横尾岳にある水源地を紹介しました。昭和10年10月の開園時からこの水源を使っているのですが、正面玄関を入ってすぐ右側に立っている敬愛園のシンボルともいえるコンクリート製の給水塔(高架水槽)がいつ頃に出来たのかは知りませんでした。戦前の記録などを読んでみると、敬愛園に行くために高い煙突を目ざしたと書いてありますが、給水塔のことは書いてありません。そこで50周年記念誌(名もなき星たちよ)の年表を繰ってみたところ、昭和33年12月に「水源池湧水量不足のため消防車により池湧水を揚水導入作業実施」「70年来の日照りつづきで水源池枯渇のため本館南側に井戸を試掘」という記録がありました。翌昭和34年1月には「水源池湧水量最低を記録」書いてあり、この年度に本館南側に深井戸を掘って「第二水源」としてあります。
給水塔は、このような水不足の中、昭和35年(1960年)3月31日に完成しました。高さは26メートル、容水量は120トンで、敬愛園が水不足に悩むことはほとんどなくなりました。「ほとんど」と書いたのは、その後に横尾岳水源地の湧水量が減少したことがあったからです。
近年、日本列島は短期間で局所の大雨による被害が問題になっていますが、再び渇水が起きないという保証はありません。きれいでおいしい水をいつも飲めるように努力してきた先輩たち、いつも整備してくれている職員に感謝しながら、水を大切に使っていきたいものです。

注)文中では水源地と水源池の両方を使いました、園の公式記録にも地と池の両者があります。50周年記念誌では池を採用してありますが、実際は池ではありません。

後藤正道 記
(2014.9)


注:なお、上記給水塔は令和3年1月に老朽化のため解体。その役目を新しい高架水槽に引継ぎました。これまで長い間、大変お疲れさまでした。有り難うございました。

(山元隆文)

旧高架水槽(昭和35年完成)

旧高架水槽(昭和35年完成)

→
新高架水槽(令和3年完成)

新高架水槽(令和3年完成)

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その13 むつみの時計台

園内を東西に走っている本通りを本館から東に向かい、治療棟を過ぎた左手に、高さ約3mで、3面に時計が設置されているレンガとコンクリートの時計台があります。時計の下には「むつみの時計台 鹿屋市長 平田準」と記してあります。これは昭和45 (1970)年に創立35周年記念事業として設置されたもので、同年12月29日に除幕式が行われました。当時は、現在の場所よりも約20m西にありましたが、治療棟の増築工事に伴い、平成21年に現在の位置に移設されました。
昭和45年といえば、内之浦から初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられ、大阪の万国博覧会があった年です。園内では、敬愛青年団が解散して高齢者会が発足しています。入所者数は984名と記録されています。
昭和58年に私が赴任した時に、3面に設置されている時計の時刻がかなり違っていたので、そのことを誰かに話したところ、「敬愛園の現状を象徴しているなあ」と言われました。敬愛園を運営する幹部、現場の職員、そして入所者が、お互いにあっちの方向を向いていると言いたかったのでしょう。
今年は時計台が出来て45年になりますが、最近は3つの時計の時刻はピッタリと合っています。今の時計のように、園幹部、現場の職員、入所者ができるだけ同じ方向・目的に向かって仕事ができるように、夢を語り、舵を切るのが園長の努めです。これからもみなさんのご協力をよろしくお願いします。

後藤正道 記
(2015.4)

むつみの時計台(昭和45年完成)

むつみの時計台(昭和45年完成)

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その14 収容門

今回は、盲人会館とカトリック教会の西にある道路に残っている「収容門」をご案内しましょう。
敬愛園が開園した昭和28年10月28日には、まだ入所者はいない状態でした。最初の患者が入所したのは11月2日と記録されていて、鹿児島県から7名、宮崎県から3名、福岡県から12名の患者収容がなされています。
開園当時の収容門(写真右上)を丁寧に見ていくと、門柱は3本あって、向かって左の2本の間は広くて車用で、右のほうは狭い通用門です。福岡と宮崎からの患者さんは、博多・小倉・宮崎・東串良を鉄道で移動し、東串良駅からこの自動車で運ばれたと「星座・建設篇」に記録されています。
さて、収容門の場所は最初から現在の位置、つまり盲人会館のすぐ西側だと私は思い込んでいましたが、敬愛園は昭和12年に拡張工事がなされています。それに伴い、昭和10年の配置図(写真左)と比べて、13年の配置図では、収容門の位置が100mほど南に移って、現在の場所になっています。そこで、現在残っている2本の収容門(写真右下)を良く調べてみると、東側(写真の右側)の門柱には左右に門扉受けの金具があります。外側の金具は無用の長物ですので、昭和10年の門柱を昭和12年に、現在の位置に左右逆にして移設したものだろうと推測しています。なお、同じような構造の門柱が、西門と職員宿舎の北門にも残っています。
皆さんも、昔の写真や配置図と現在の収容門を見比べて、その移り変わりを推理してみて下さい。そして、どうか80年前にここを通って収容された方々の気持ちを想像してみて下さい。

後藤正道 記
(2015.12)

写真左 昭和10年当時の配置図の一部を改変。治療室は現在の外来治療棟、重病舎は現在の第一病棟の位置なので、収容門は現在の位置よりも北側にあることがわかる。

写真右上 昭和10年11月の「最初の患者収容」。米国のパッカード社製のトラックが収容門を入るところで、矢印の下には3本のコンクリート製の門柱と観音開きの門扉が見える。

写真右下 現在の収容門を外側(南側)から見たもので、後ろには不自由者棟バラが見える。2本の門柱が昭和12年にこの場所に移築されたものと考えられる。

配置図(昭和10年当時)

配置図(昭和10年当時)

最初の患者収容

最初の患者収容

現在の収容門

現在の収容門

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その15 鹿児島事務連絡所(敬和寮)

今回は、かつて鹿児島市の鹿児島中央駅西口近くにあった、星塚敬愛園の鹿児島事務連絡所をご紹介しましょう。昭和30年に、当時の国立療養所鹿児島病院(現在の鹿児島医療センター)が分院として使っていた土地と建物を譲り受けて、敬愛園の鹿児島事務連絡所が設置されました。当時の使いみちははっきりしませんが、敬愛園の入所者が遠方の家族と面会する場所として使ったり、職員の出張や遠方からの来客が鹿児島に到着の際に中継地として使ったようです。また、敬愛園付属看護学校の学生が県立鹿児島保養院(現在の県立姶良病院)で臨床実習をする際にもここで寝泊まりをしていました。園内にあった学生寮の清和寮に対して「敬和寮」と呼ばれていたそうです。
建物は約100坪の木造平屋建ですが、玄関だけは少しモダンなデザインでした。看護学校の閉校後はほとんど使われなくなり、平成19年に建物は解体されて、翌年に鹿児島財務事務所への引き継ぎが完了しています。現在は民間のマンションが建っています。当時の看護学生以外はほとんど知る人のいない、敬愛園の飛び地でした。(施設管理の中禮氏と元会計課長の鶴田氏から貴重な情報を得ました。)

後藤正道 記
(2016.5)

玄関

玄関

鹿児島事務連絡所

鹿児島事務連絡所

↑目次にもどる

敬愛園歴史探訪 その16 つれづれの御歌碑 (星光16号2016.10原稿)

 今回は、敬愛園の中央道路の東端で、小高い丘に建っている、御歌碑(おんかひ)について紹介します。貞明皇后(ていめいこうごう)(1884〜1951年)は大正天皇のお妃です。昭和になって皇太后(こうたいごう)となられ、ハンセン病対策に尽力されました。1931年にはその下賜金をもとに「癩予防協会」(現在の藤楓協会(とうふうきょうかい))が設立されています。翌1932年11月に開かれた歌会で詠まれた「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれに代わりて」(そこに行くことが難しい私の代わりに、ハンセン病者の友となって慰めて下さい)は、「つれづれの歌」として知られています。多くのハンセン病療養所でこの歌を刻んだ石碑(歌碑)が建立されました。
「名もなき星たちよ」によると、敬愛園でも1938年に歌碑建設が企画され、翌年の1月から、職員と入所者合同の奉仕作業として歌碑建設の土盛作業が開始されました。しかし、この作業で手足に傷をつくった入所者も多かったそうです。1939年10月28日の創立4周年記念日に御歌碑完成式典(除幕式)が行われています。

後藤正道 記
(2016.5)

(写真説明)
左は、除幕式の様子を描いた絵。右は現在の御歌碑で、裏には寄付を行った「鹿児島県全女学生」が刻まれている。

除幕式の様子

除幕式の様子

御歌碑

御歌碑

↑目次にもどる