ホーム> 政策について> 審議会・研究会等> 健康局が実施する検討会等> 日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会> 第3回日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会 議事録(2013年10月21日)




2013年10月21日 第3回日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会 議事録

健康局がん対策・健康増進課栄養指導室

○日時

平成25年10月21日(月)
10:00~12:00


○場所

厚生労働省専用第22会議室


○出席者

構成員<五十音順・敬称略>

宇野 薫 (株式会社タニタヘルスケア/ネットサービス推進部 管理栄養士)
大竹 美登利 (東京学芸大学 理事・副学長)
岡村 智教 (慶應義塾大学医学部 衛生学公衆衛生学 教授)
幣 憲一郎 (京都大学医学部附属病院 疾患栄養治療部 副疾患栄養治療部長)
生源寺 眞一 (名古屋大学大学院 生命農学研究科 教授)
鈴木 一十三 (株式会社ローソン マーケティングステーション 部長)
高田 和子 (独立行政法人 国立健康・栄養研究所 栄養教育研究部 栄養ケア・マネジメント研究室長)
高戸 良之 (シダックス株式会社 総合研究所 課長)
武見 ゆかり (女子栄養大学 食生態学研究室 教授)
田中 延子 (公益財団法人 学校給食研究改善協会 理事)
中村 丁次 (神奈川県立保健福祉大学 学長)
原田 信男 (国士舘大学 21世紀アジア学部 教授)
伏木 亨 (京都大学大学院 農学研究科 教授)
藤島 廣二 (東京農業大学 国際食料情報学部 教授)
藤谷 順子 (独立行政法人 国立国際医療研究センター病院 リハビリテーション科 医長)
八幡 則子 (パルシステム生活協同組合連合 事業広報部 商品企画課 主任)
渡邊 智子 (千葉県立保健医療大学 健康科学部 栄養学科 教授)

事務局

佐藤 敏信 (健康局長)
椎葉 茂樹 (がん対策・健康増進課長)
河野 美穂 (栄養指導室長)
芳賀 めぐみ (栄養指導室長補佐)

○議題

1.開会
2.議題
 (1)日本人の長寿を支える「健康な食事」について
    <食文化、食品領域>
 (2)その他
3.閉会

○議事

○河野栄養指導室長 それでは、定刻となりましたので、ただいまより「第3回日本人の長寿を支える『健康な食事』のあり方に関する検討会」を開催いたします。

構成員の皆様方には、御多忙のところ御出席いただきまして、ありがとうございます。

なお、本日は、江頭構成員、佐々木構成員、田中啓二構成員、田村構成員におかれましては、御都合により御欠席です。

それでは、お手元の資料の確認をさせていただきます。

検討会の議事次第、構成員名簿をおめくりいただきまして、資料1、原田構成員提供資料の「料理・共食の意義と日本食文化の歴史」。

資料2といたしまして、伏木構成員提供資料「日本人の食嗜好」。

資料3として、渡邊構成員提供資料「日本の食品成分表からみた食品の特徴」。

また、資料4として1枚紙「日本人の長寿を支える『健康な食事』の概念整理に向けた枠組み(案)」となっております。

以上が資料ですが、よろしいでしょうか。

先生方のお手元に配付しております黄色のファイルには第1、2回検討会の資料を配付しております。

本日の検討会終了後、回収させていただきます。

それでは、これ以降の進行につきましては、中村座長にお願いいたします。

○中村座長 皆さん、おはようございます。

 それでは、今回は日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方について、食文化、食品領域からということで、原田構成員、伏木構成員、渡邊構成員に話題提供いただきます。

資料の最後に資料4として、これから「健康な食事」の概念整理を行うに当たり、各構成員から話題提供いただいた要点を前回に引き続き整理しております。赤字で示した箇所が今回追加したものであります。これらも参照いただきながら、お一人ずつ御発表の後に質疑の時間をとりますので、御自由に御質問をいただければありがたいと思います。

では、最初に「料理・共食の意義と日本食文化の歴史」というテーマで、原田構成員に御発表をお願いしたいと思います。

○原田構成員 原田です。よろしくお願いいたします。

 私のやってきたこと、あるいはきょうのお話が、日本人の長寿を支える健康な食事というものとどう関係してくるのか、私自身にもちょっとよくわからないところがあるわけですけれども、それでもいいから話をということなので、どちらかというと食事の原則論みたいなものとか、日本の食文化がどういうふうに成立してきて今日に至っているのかという話を大まかにさせていただきます。

 初めに、「食とは何か——なぜ食べるのか」ということでメモしておきましたが、先生方を前にこんな話をする必要はないとは思うのですが、あえてさせていただきます。

 私たちは活動するためにカロリーというものが必要であるということ。

私たちの体そのものをつくるのに必須アミノ酸というか、たんぱく質が必要であるということ。

我々人間のさまざまな器官、体のそれぞれの部分をより理想的に動かしていくためにもビタミン、その他の栄養バランスが必要であること。

これは当たり前のことなのですけれども、意外と一般の方は漠然としか御存じないから、ダイエット食品などを見ていても、カロリーをとらなければいいだろうということで、たんぱく質まで落としてしまう。食の根本に対する理解のなさみたいなものが、日本人の長寿を支える健康な食事のあり方ということで考えれば、最も根っこのところにあるのかなと思っております。

 この問題はそのくらいにさせていただきます。

 次に、「料理とは何か」ということです。

これも原則論でありますけれども、非常に難しい問題でもあります。先ほど申しましたカロリー、たんぱく質、ビタミンをとっていれば人間は生きてはいけますが、では、生きているということの意味は何なのか、食べるということの意味は何なのかということです。

皆さん、想像しておわかりのように、もしカロリー、ビタミン、たんぱく質みたいなものを点滴か何かで補わされるとしたら、我々にとっては苦痛です。

なぜ苦痛かというと、人間というものは記憶、文化の中で生きているものですから、我々が身につけてしまってきた文化、記憶というものは消し去ることができない、そういう存在でありますし、記憶や文化というのも絶えず社会、あるいは個人そのものの中でも発展、展開していくものなのです。

 ですから、単に栄養その他をとるということだけでいったら、これは人間の一番重要な文化とか、その根っこにある記憶というものをまるで無視するようなことにもなりかねないわけです。

 私たち人間は料理を楽しむという文化を歴史のある段階で身につけてきてしまっている。個人的にも身につけてきてしまっている。これを否定することはできないわけです。

 ですから、特別な病気にでもならない限り、程度の差はあれ、あれが食べたい、これが食べたいとか、何がおいしかったとか、これはちょっとまずかったとか、そういう評価を無意識のうちにやってきている。

そして食べるための努力、どう食べるかということで、知識や料理の技術、食品や料理に対する知識をそれぞれの地域ごとに築き上げてきているわけであって、これを「料理文化」と呼ぶことができると考えております。

どのように食べるかというところで、焼いたり、煮たり、蒸したり、揚げたり、さまざまな加熱法、あるいはどう切ったらいいのか、どう味つけしていけばいいのか、そのための調味料。さらには、味そのものが変わらなくても、いただくときにどんなふうに盛りつければおいしく見えるのか、料理が楽しくなるのか。そういうさまざまな付加価値を料理そのものにつけ加えてきている。

 つまり、繰り返しになりますが、記憶を消すことが不可能であるように、そうした過去の積み重ねというものを無にするということは、我々の歴史に反するというか、歴史を否定することにもなりかねません。

ここで最近印象に残った話をさせていただきますと、私の昔からの研究仲間が今、介護の仕事をしていまして、『驚きの介護民俗学』という本を出しておられます。これは民俗学者なのですけれども、介護をやりながら老人たちから聞き取りをして、それを介護の中に生かそうという試みをやっている女性です。

彼女が介護をやっている施設で何をやったかというと、皆さん、料理には興味がありますし、関心もありますから、そうした施設では割と取り組んでいます。例えば、親しみやすいテーマで郷土料理をつくりましょうということが多いのですが、彼女は自分の思い出、記憶に残っている料理をみんなでつくりましょうというテーマでやっているわけです。

 郷土料理というと、うまい、下手とか、体面を気にしてしまうのだけれども、結局、自分の記憶の中にある料理をみんなで手伝いながらやることによって盛り上がり方が非常に違う。これも、古くから申していますように、人間は記憶で生きている存在だということですが、もちろん思い出の味、味覚を完全に思い出せとか、それを表現しろというのは非常に難しいことではあるのですけれども、しかし、みんな漠然と記憶する味というのは確実にあるわけです。その実体はおぼろげであっても、そこのところは間違いなくあるわけであります。そういう形で、人間の存在の根幹に料理というものがかかわっているということが言えるのではないかと思います。

次に、「どう食べるのか」。先ほどの「どう」は、焼いたり、煮たりという話でしたけれども、そうではなくて、共食という問題をちょっと考えてみたいと思います。

共食というのは、皆さん御存じのように、共同飲食なわけで、ただ、これも意外と誤解されていまして、私のほうは歴史なので、歴史の大先生が私にちょっと食事の話を書けと言ったときにつくってくれたペーパーで、なぜ一人で食べることからみんなで食べることへ進んだのかという話を書けとおっしゃったのですが、これはとんでもない誤解であります。

人間が一人で食事をするようになったのは、つい最近のことです。これも社会的なシステムによって支えられている。人間は共食をする動物であった。

食文化の大先生である国立民族学博物館の館長を務められました石毛直道先生が、「人間は料理をする動物である。人間は共食をする動物である。」というテーゼを出されましたけれども、これは非常に重要なテーマであります。

では、なぜ共食をするのかというと、人間というものは個人では生きられない。つまり、動物的な身体能力でいったら、動物の中で人間というのは極めて低い順位にしかあり得ません。手の力、足の速さにおいても人間よりもはるかに上回る動物がいるわけであって、身体的にはかなり能力の低い動物であるということです。

そのかわり何を持ったかというと、二足歩行によって2本の手を使う。つまり、技術を行使する。その技術を行使する命令を出す、あるいは記憶を蓄積する頭脳というものを持った。この頭脳と手によって人間はほかの動物を圧倒してきた。

一番最初は、採集の経済もあるのですけれども、肉食という問題を考えてみた場合に、逆に言ったら、肉食の発達が我々の頭脳の発達を支えているわけでもありますから、その意味で、肉食をどう行ってきたかが問題となります。その理由は人間の運動能力は低いですから動物を捕らえることができない。それまでは死んだ動物の肉をあさったり、そういう生活をしていたわけです。それが狩猟という行動を起こして動物を捕らえるというとき、一人ではできません。逆に、だから言語を発達させたのだという考え方もあるくらいでありまして、人間は共同でしか生きられない、集団でしか生きられないということになります。

集団で食料を確保するということになると、今度はそれに分配、あるいはそれをどの単位で料理して食べるかという問題になってまいります。

そこで、その最小単位が家族ということになってきて、男性も、女性もとってくるでしょうが、そういう労働によって得た食料というものをまさにみんなでどう食べるかということで、人間は実際は共食というものから自由ではありません。

ただ、社会が進んで農耕が発達したりしてくると食料の手に入り方が安定してまいります。そうすると、社会が非常に複雑になってまいりますので、逆に個人あるいはばらばらで食べるということもあり得るわけですけれども、それでも特別なお祭り、あるいは冠婚葬祭、正月、さまざまな儀式、そういうときにある特定の集団で同じものを共食するというのは、先ほどの料理とは違った意味で人間に必要な行動だということになってくるわけです。

共食の一番シンプルな形で言えば、男女が知り合って仲よくなってくれば食事をする。つまり、同じ時間に同じ場所で同じものを食べるということが心と心をつなぐ。「一味同心」とか「同じ釜の飯を食う」という言葉がございますけれども、そういう意味で、人間はほかの人間と一緒に食事をする存在であったということです。

ただ、今日みたいに農耕の文化どころか、社会が非常に複雑になってきて、食事を提供する場所というものがさまざまにふえてくると、その段階で初めて孤食というもの、つまり、人間が一人で食べるということがあらわれてくる。

しかし、それは本来的な食事のあり方ではない。孤食は今、やむを得ませんけれども、しかし、食事をするときに、人間は一人では生きられない、集団の力によって生きているのだということを認識する必要があるだろうと原則的には思っております。

ですから、特別な共食、きょうは祭りだとか、何とかの儀式であるというときには、どういう順番でどのように食べるかとか、そういうことにうるさくなるわけです。それは人間が積み上げてきた文化であるということ。この点は食事をするときに本来忘れてはならないことなのだろうと考えております。

人間の食事というのは、それぞれの地域によって大分違います。温帯、熱帯、寒帯とか、その気候によってとれるものが違いますし、保存、料理法も違ってまいります。もちろん、同じ温帯といっても、その土地の雨の降り方とかいろんな問題が関係してきて、食文化というのは、実際には世界の各地あるいは日本の各地でもそれぞれ微妙に異なっているものだということです。

きょうは、異なるほうの場合はちょっと置いておきまして、日本という地域で考えて、日本の食文化史というものを次に考えてみたいと思います。

では、日本人にはもともとどのような食文化があったのかということです。

食事の問題というのは、2つややこしい問題があります。

1つは階層差ということです。階層によって食べているものが大きく違うということ。

どんな階層であってもハレとケのけじめというか、このバランスがあるわけです。ですから、日常の食事と儀式でやる正式な食事というのは違ってくるわけでありまして、これからの話は、むしろハレのほうの、日本人あるいは日本の歴史がつくり上げてきた食文化の理想的な一つのスタイルという意味での日本料理史ということで、私はこれを「料理様式」と呼んでおりますけれども、料理様式の変遷の話を若干させていただこうと思います。

一番古い日本の料理様式は、実はわかりません。つまり、これは文字で書かれることが非常に少ないわけです。ただ、考えられる一番古い日本の正式な料理は、恐らく神とともに食べる食事、神饌であっただろうと思われます。

ただ、神饌は現在変わってきてしまっています。もともとは人間が神様にお願いをして、そのために食べ物をささげる。そして神に食べてもらった食べ物を人間が食べる。つまり、先ほどの言葉で言うと、神人共食、神と人間が共食をすることによって神の恩恵を得ると同時に、神への感謝を示すという料理ですから、これが最高の料理形式であったと思われます。

ただし、明治になって国家神道になったときに、祭式を改めて以降、神饌は全部生饌、生のものに改められました。そのように神社庁が指導したわけです。

しかし、もともとは熟饌、料理したものを上げていたはずです。でないと、人間がすぐ食べられません。神様も食べられません。神が食べた後に食べるということが重要なわけでありまして、直会というのがそれに当たって、神道の儀式の中で非常に重要な意味を持つわけですが、ただ、先ほど言ったように、わからない。

現在残っている神饌について資料に上げておきましたけれども、これは春日大社の神饌です。これは中国大陸の影響を受けております。まず、色がついている。さまざまなものを盛り上げている。これは中国大陸からの影響です。

日本の神は素木、色をつけないのが本来です。色をつけるのは仏教の影響です。春日大社は神社であるけれども、興福寺との関係で色をつけているわけです。したがって、現在残っている神饌料理からかつての神饌料理のあり方はわからないということになってしまいます。

その次が大饗料理です。これは平安貴族などが天皇たちをもてなすための料理であって、台盤、テーブルが出されて、そこに料理が並びます。

この料理は、後で数えていただくとわかるのですが、膳組みが偶数仕立てです。偶数仕立てということは、中国料理の影響です。

そして、手元のところに白い皿があって、その横に箸とスプーンが置かれているわけです。スプーンも中国料理で、朝鮮半島まで参りましたけれども、日本には入っておりません。したがって、これはかなり中国料理の影響の強いものであるということです。

 さらに言うと、大饗料理には料理の原形が示されております。それはどういうことかというと、ここには生ものとか干物とか、そういうものが並んでおるのですが、味つけは自分でするのです。手前に四種器という4つの器がありまして、そこに酢とかお塩とか、醤だとか、そういう調味料が盛られておりまして、白いのはとり皿であって、ここに並んでいるものをとって、自分なりの味つけをして食べるということです。実はこれが料理の原型なのであります。

例えば東南アジアのタイなどに行って料理屋、食堂に入ると、いろんな香辛料が置いてあって、それをそれぞれにかけて食べます。

 あるいはギリシャあたりのレストランに入りますと、ワインビネガーとオリーブオイルと塩とこしょうが出ているだけです。つまり、ドレッシングは自分でつくれと。自分の味つけにするということ。自分で味つけをするというのが料理の古いスタイルで、大饗料理においてはこれが見られるわけです。

ところが、その後、精進料理という料理法が日本に入ってまいります。

ちなみに、大饗料理は中国の影響が強いのですが、1つだけ日本的な特徴があります。それは何かというと、切るということです。皆さん、切るというのは料理でないと思われるかもしれませんけれども、刺身は立派な料理なのです。

刺身のどこが料理かというと、片刃の薄い包丁で魚の肉の細胞を壊さずに切るということです。つまり、肉汁が逃げない。あれを西洋料理とか中国料理の包丁で切ったら、あの刺身の味は出ません。

 そういう意味で、日本は、切るという料理技術を物すごく重視し、発展させた文化です。それはこの大饗料理の中にあります。

 ですから、庖丁人というのはこのころから使われておりますけれども、「包丁」という言葉が料理の代名詞になるということであります。

その次は精進料理です。精進料理も中国の禅院から伝わったもので、いかに植物性のものを動物性のものに見せるかということです。動物性のものに見せるためには、粉食、小麦粉とかいろんな粉を強烈な調味料、つまり、ゴマ油とかみそとか、そういうもので特別な味つけをして肉の味に近づけさせるということですから、これは先ほどの大饗料理みたいに自分で味をつけるということではなく、要するに、料理人が徹底して味つけをする、調理するというのが示されたのが精進料理で、これが鎌倉時代に日本に入ってまいります。しかし、これも中国文化の影響でありまして、日本独自のものとは言いがたいことになります。

 そうした日本文化の中で日本料理というものがいつ成立するかというと、室町期なのです。

 料理に限らず、今日的な日本の伝統文化というものは室町時代に成立しております。お茶、生け花、香道とか、能とか、大体伝統的な文化は室町時代に発達し、日本料理もそのときに発達してきている。

それまでも日本料理のだしとして昆布とかつおは用いられていましたが、特に昆布などの場合は食べるだけでありまして、それをだしとして用いるようになるのは遅かった。かつおは初め、堅魚煎汁という形で煮出してだしをとっていたわけですけれども、それをかつおぶしという形で今日的なだしをとり、それに昆布を合わせる。これが成立したのも室町時代の話であります。

そして、これでつくり上げられたのが将軍の御成の際に出される本膳料理という料理様式であります。本膳料理は、まさに膳であります。膳を使っているのは東アジアの中では日本と朝鮮半島と沖縄だけです。そういう意味で、日本的な膳を使う料理文化というものがまさに室町時代に生まれた。しかも、膳組みは七五三の本膳組みです。ですから、今日の奇数組みの日本料理にここで初めて変わった。ある意味で言えば、室町時代に日本料理が成立したと言っても過言ではありません。

それと同時に、それまでは宮廷を中心とした大饗料理などの料理流派であった四條流が主流だったわけですが、ところが、室町時代にかなりの数の武家の庖丁流派というものが生まれてくる。生間流とか進士流とか大草流とか、そういう庖丁流派が生まれてきて、さらに日本の食事文化の発展というものが基礎づけられ、そしてそのものを秘伝として残す料理書、つまり、何とか流料理書というものが室町時代にたくさん成立を見てくるわけです。そういう形で日本料理が成立するわけです。

しかし、戦国時代、中世までの社会と近世の社会では大きく異なります。

最後に、本膳料理を発展させたものとして懐石料理が出てくるわけです。まず、千利休が大成するわけで、これが戦国時代のことであります。これは本膳料理のいいとこ取りをして、なおかつ、茶の湯には一期一会という考え方がありますから、どうやって最高のもてなしをするか、それが茶会の理想であるという形で、もてなすためには、そのときそのときの1回の出会い、季節感をいかに大切にするか、盛りつけをどうするか、部屋のしつらえをどうするか、そういう中で今日代表されるような、世界にも通じる料理としての懐石料理が戦国時代に成立しております。

しかし、戦国時代、中世までの料理というのは、食べられる場所と人間が決まっていた。茶会に招待される、あるいは将軍、貴族の儀式に参加できる人間は限られております。場所も時間も限られております。

ところが、江戸時代、近世になると、これは封建時代というふうに皆さんは考えられているかもしれませんけれども、かなり発達した時代で、近世になって初めて自由な料理が成立したと思っております。つまり、料理屋の成立です。料理屋があるから、そこに行けば、もちろん予約することがあるかもしれないし、ふらっと行くこともできますけれども、そういう形で、いつでも好きなときに、お金さえ出せば誰でも料理が食べられるようになった。

先ほど申しました秘伝の巻物として伝えられた料理書が、江戸時代になると出版されます。秘伝書が出版されるということになってきてしまうわけであって、これによって料理法も金で買えるという形になった。江戸時代になって料理の体系そのものは変わらないのですが、それが非常に浸透し、普及していったのが江戸時代。

なおかつ、さらにそれに磨きがかかった。特に宝暦・天明期から文化・文政期、18世紀の後半から19世紀の前半にかけて料理文化というものは著しい発達を見ます。まさに江戸では八百善だとか、聞いたことがあると思いますけれども、そういう会席料理。これは「会席」で、料理屋で食べる日本料理です。これが非常な発達を見る。

ところが、料理文化というのは、どうも政治と逆の関係にありまして、享保の改革、寛政の改革、天保の改革のときには発達しない。むしろその間の時期に発達している。宝暦・天明期、文化・文政期というのは、まさにその間です。

文化・文政期に物すごい発達をするのですが、それはやがて天保の改革以降、明治維新に直進しますから、その後、料理の発達はそんなに見られないことになります。

そしてそのまま明治維新を迎えて、それまで国家の正式な晩さん料理であった日本料理から、明治天皇が主催する晩さん会では西洋料理、フランス料理に変わってまいります。実は肉食を禁止しましたけれども、明治4年に天皇は肉食再開令を出しまして、みずから進んで肉を食べるということをやっているわけです。

これも細かいことは省きますが、しかし、そう簡単に西洋料理が広く受け入れられるわけではありません。

もちろん、すき焼きというのは江戸時代からあって、まさに農具のすきで焼く料理でした。江戸時代のすき焼きは鳥と魚だったわけです。ところが、それに肉を使って牛鍋という形とかで肉食が入ります。しかし、明治の後半、30年代、女学校の料理教室で教えていたのは何かというと、西洋料理と日本料理の間に折衷料理というのがありまして、牛肉のかす漬けだとか、カレー粉入りの味噌汁だとか、まさに今日的なコラボレーションの料理ではあるのですが、今の我々からすると、えっと思うような、まさに和洋折衷の料理を苦心して女学校で調理の時間に教えております。

やがて大正ぐらいにると、洋食がかなり普及してくる。その後、戦争の間、日本の食糧事情は物すごく落ちますから、食文化の料理も衰退してしまいます。

 戦後になって、高度経済成長の波に乗って再び日本料理がかなり身近なものになる。もちろん、これにはコールドチェーンの発達、要するに、冷凍技術とか施設・設備のもので今日的な食文化、まさにグルメブームが出てくるわけです。

ただ、注意していただきたいのは、日本人は米を食べてきたと言われていますけれども、日本人が腹いっぱい米を食べられるようになったのは1960年代のことであります。

逆に60年代に何が起きているかというと、米の排斥、米食はよくないという形、米偏光、是正というような形での運動も起きている。

30 分ですので簡単に述べましたけれども、日本料理の成立というのはそんなに古いことではない。しかも、その後、さまざまな変遷があった。つまり、私に言わせれば、和食とか日本料理というものは時代によって概念が変わるものであるということ、この点にも注意していただきたいですし、この検討会などで言えば、そのときそのときに相当した食事のあり方自体も何度か変わっておりますし、そういう意味での幅広い視野からの見直しということが、食生活、食文化というものを考えていく上で必要なのではないかと考えております。

以上で話を終わらせていただきます。

○中村座長 ありがとうございました。

では、少し御質問を受けたいと思いますが、御質問はございますでしょうか。どうぞ。

○武見構成員 ありがとうございました。

 前半の共食のところで2つほど御質問をしたいと思います。

もともと共食ということは、人間が食料獲得のための共同作業ということでスタートしてきて、今はそれがだんだん変わってきたということなのですけれども、現在でもハレという部分で共食は残っていると思います。が。実際には孤食の問題はケの中で起きていると思うのですけれども、ケの部分での共食が減ることの問題について、子供に関しては、例えば食物摂取とか体重コントロールの関連とかは栄養学のほうにはあるのですが、先生のお立場から見て、ケの共食が減ることの問題点はどういうことかということが1つです。

もう一つは、共食に関して言えば、身体活動が低いということで共同作業が必要だったということを考えると、例えばライフステージ、子供のように身体能力、いろいろな力の未発達な場合、高齢者のような老化してきた場合、そういうライフステージによっても共食の意味というのは違うのか。いずれも先生のお立場からこれについて意見を聞かせていただきたいと思います。

○中村座長 どうぞ。

○原田構成員 ケの共食という問題ですが、これを意識的に捉えることは難しい。家族での会話とか、食事のしつけとかマナーとか、そういうことがよく言われていますけれども、ところが、実際に考えてみたら、昔は食事中に話をすると怒られたわけで、一家団らんの食事というのは、逆に言えば新しいことであるわけです。

ですから、先ほど共食の原理原則みたいなことを話しましたが、これも時代によって変わってきている。

ただ、これは食料だけの問題ではなくて、人間が一人では生きられないという基本的な認識を持っていない方が非常に多いわけで、むしろそういう根本の問題、共食の問題を通じて、食の場そのものよりも、もともと人間はどういう食事をどうやってしてきたのか、そこのところの共通認識を持つということ。

ですから、今、盛んに食育が言われていますけれども、残念なのは、そういう食の原点にかかわる部分の認識、あるいはそこのところの知識の普及というものが非常に弱い。

人間が集団でしか生きられないということは、食生活に限ったことではなく、我々自身だって、現在、会社なり企業なり集団の中でしか生きられないわけですから、そこのところをより自覚的に持っていくということが重要であって、これは食の問題に限らないところの大きな課題だと思っております。

ライフステージのほうの問題は、まさしくおっしゃるとおりでありまして、子供のうちは自分で食べることができませんし、子供でも逆にそうやって食べ方あるいは調理の仕方を学んでいくわけであって、そのときは家族というものが一つの重要な最小単位の集団ということになりますし、もちろん、家族以外のところでも学ぶわけであって、そういう集団の中での食ということ、それを助け合う、教え合う。教え合うというのは、むしろ初期の子供の場合は必要である。

最後のライフステージ、高齢者になると、当然自分ではできません。ですから、介護という問題が必要になる。

味だけに限って言えば、いろんなものをミックスして、口の中にチューブみたいなのを詰め込んでもその味が味わえるという技術が発達しており、それはそれでいいことではあるのですけれども、やはり欲求としては食べたいというところがあって、これはその人の体の調子に合わせざるを得ませんが、老後の生活においても、なるべく食の楽しさみたいなものを共同で助け合いながら味わわせていくというのは、人間の幸せとかいうことを考えた場合、やはり必要なのではないのかなと私自身は思っております。

○中村座長 ありがとうございます。

ほかにございますか。どうぞ。

○岡村構成員 多分時間の関係ではしょられたのだと思うのですけれども、食事とアルコールの関係についてですが、私は個人的にもアルコールと循環器系の関連について研究をしていて、食事と飲酒の問題は切っても切れない関係が非常にありまして、喫煙がユーラシアに入ってきたのは数百年前ですけれども、多分メソポタミアの辺から飲酒については記録がある。日本食とアルコールとのかかわりというのがどの辺から入ってきて、また、どういう扱い方をされてきたかというのが健康問題とかかわりがありそうなので、その辺について御教示いただけたらと思います。

○原田構成員 この問題は、申すまでもなく非常に古い。酒を知った段階からです。酒が縄文時代にあったか、なかったかという議論がありますが、私は縄文時代にもあり得たと思っております。

酒に限らず、実はお茶もそうなのです。お茶会というのは、お茶そのものに一種の酩酊作用がありますから、もともとはいい気持ちになる会なわけです。

いい気持ちになるということは、逆に言えば、人間の喜びみたいなもので、抑制の問題はありますけれども、ある程度精神的に開放させる、和ませる、喜ばせるということがありますから、当然これは神様へのささげ物、先ほど言った神饌。逆に言えば、神饌の3つの重要なものは、餅と酒と米です。

ですから、酒というのは、そういう意味で言うと、非常に古くからあって、欠かせない存在であった。ただ、食べ物そのものもそうだけれども、食べ過ぎたらおかしくなるし、飲み過ぎてもおかしくなる。

 先ほどはしょったのは、人間が食料を得るというけれども、これは物すごく大変なことであって、それが今はいとも簡単に手に入るようになってきてしまっている。食べるときに感謝しなさいというのを、ただ言葉での感謝ではなくて、結局、我々はどうやってこれだけ豊かになってきたのか、かつてどうだったのかということを認識していくことが重要だと思います。

私も酒を飲みますから、大きなことは言えませんが、酒も食事もほどほどにというところが大事だと思います。そのためには、人間は食べるまでにどれだけ苦労してきたかというその歴史をきちんと知って、そのことへの感謝ということ。感謝というと、わけのわからない言葉だけの感謝みたいになっていますけれども、そうではなくて、そういう歴史を踏まえた上での食事への感謝というか、そこの認識が重要だと考えております。

○中村座長 ありがとうございました。

ほかに。どうぞ。

○藤島構成員 共食と孤食ということで、大変興味深いお話だったのですが、ちょっとわからないこととして、例えば学校給食などは共食というところで捉えてもよろしいのかなと思うのですが、病院などで各人が一人一人で食べている病院給食などの場は、孤食に入るのか。あるいはレストランなどでも一人で行くものについては孤食という視点でお考えになるのか。その辺をちょっと教えていただければと思います。

○原田構成員 これは非常に難しい問題でありまして、概念的に物理とか数学的な形で、単純にここからが共食、ここからが孤食というわけにはいかない問題。人間社会にはそういう境界領域の問題が多いと思うのです。

例えば学校給食にしても考え方は非常に難しいわけで、あれは孤食がたまたま集まっているだけという考え方だって成り立つわけです。

ただ、そうでなくて、クラスで先生を中心に一体感を持つために給食で一緒に食べるという観点に立てば、これは立派な共食でだと思います。

ですから、孤食と共食の一つ大きな違いは、場の違いなのです。例えば最近、ラーメン屋でも区切ってやっている場合がありますけれども、あれなどは孤食の象徴みたいなものです。ラーメン屋のテーブルで食べていれば、壁があろうとなかろうと孤食には違いないわけですが、あれこそまさに孤食の象徴みたいなものであります。

つまり、集団として心を通わせる人間と同じ場所、同じ時間で食事をするというのが共食の定義だと思っておりますし、微妙な部分というのは、場面場面でいろいろなケースがあり得るのではないかと考えております。

○中村座長 ありがとうございました。

あとお一人にします。どうぞ。

○生源寺構成員 文化あるいは記録という意味で、室町時代に料理の書物が出て、江戸時代には出版されるという話があったのですけれども、私は農業が専門で、農書については、日本はかなり豊富に蓄積されている国という評価があるのですが、料理の記録については、ほかの国と比べて、ある程度評価というのがあるのでしょうか。

○原田構成員 実は私はもともと農業、村落史が専門でありまして、農書はかなり読んでまいりました。

農書と料理書に限らず、江戸の出版文化というのは、ほかに類を見ません。というのは、一つには文字文化が日本では格別に発達したということ。

ただ農書も料理書も江戸時代以降です。室町には部分的にありますが、出版されません。写本も非常に少ない。そういうシステムになっていないわけです。

これが江戸時代になって広まっていくのは、一つは江戸幕府が支配方式として村の役人に管理させた。そこでは文字が非常に重要な役割を果たします。ですから、文書主義という形で文字の普及というものが始まっていきますから、これが農民、特に村役人の間に入って、それが農書の発達につながってくる。

同じ連中が料理書も買って読んでいたり、貸本で借りて写したりしてその知識をかなり蓄えております。

それと、そうした本が木版で簡単に刷れるということ。これは日本の出版技術の問題とも絡んでまいります。

そういう意味で、日本の近世社会というのは、料理書、農書に限らず、出版文化というものがかなり特異に発達して、その中の問題として農書、料理書もパラレルな関係にあると思っております。

○中村座長 ありがとうございました。

後半でまたやりますので、御質問があればお願いします。

では、引き続きまして、「日本人の食嗜好」というテーマで伏木構成員から御発表をお願いいたします。

○伏木構成員 伏木でございます。

先ほど原田さんのほうから食べ物の中の楽しみとか文化という話がありましたが、食べ物をなぜ食べるかという意義に関しては、大変多様性がある。多様な意義というのは近年ますますふえてきたように思います。

そういう多様な意義を持っている「食べる」ということに対して、一つは健康のためという目的を設定したわけですが、そうすると、当然ながらほかの意味、意義とどういうふうに折り合いをつけるかということが問題になろうかと思うのです。

私は、この話題提供、プレゼンの中で、先ほど楽しみという話がありましたが、食嗜好と健康という2つの大きな問題はどのように折り合っていくのかということについて話をしたいと思います。

表紙に書いてあるのは、イギリス人が書いた「Age Watch」というホームページから持ってきたものなのですけれども、こういう感じなのだなと思います。長寿のための理由。なぜ日本人はこれだけ長生きするのかというのは、各国から見て非常に興味のあることらしいのです。それは食べ物かもしれないし、医療制度かもしれない。

ここで書かれているのは、食べ物に関しては、魚や豆類や野菜をたくさん食べている。これは疫学的なたくさんのデータを踏まえているのだろうと思います。

それから運動の話、あるいは社会のつながり、個人のボランティア的な活動、そういうのが全て日本人の長寿に何らかの形で寄与しているだろうということで、割と正確な捉え方だと思うのです。

その後で、イギリス人は、喫煙を避けましょう、塩辛過ぎる食品を避けましょう、深酒も慎みましょう。しかし、これは日本人には当てはまらないのだけどねという言葉を言っている。

つまり、どれが日本人の長寿のために大事なことかというのはわからないというのが正しいと思うのです。

次のページに参ります。

少なくともいろんな疫学的な研究がありまして、それぞれは確かに意味があると思います。一つ一つの食品成分に対して介入していく、あるいはそれを調べるということは、明らかに幾つかの結論を出しているし、それは信頼できる情報であると思うのですが、しかしながら、食品成分というのは単独で存在しているわけではございません。しかも、ある食べ物はこのような料理をするとか、これとこれはいつも一緒に出てくるとか、これとこれは一緒にならないということで、非常に複雑な相互関係を持っているものですから、単独の食品成分がそれぞれよいとか悪いとかということは、サイエンスとしては割ときっちりと出てくるにしても、では、それを料理にどう持ってくるかというところでかなり複雑な話が湧いてくる。食品成分同士の相互の深い関連というのが見落とせない部分であろうと思います。

したがって、食品成分一つ一つを取り上げると、はっきりとした答えは出るでしょうけれども、ただし、食事として捉えた場合には大変複雑な問題に発展していくということになろうかと思います。

もう一つ、食事、食品成分、その下に栄養素とありますけれども、栄養素として捉えると単純化されてわかりやすくなりますが、複雑な話になろうかと思います。

幾つかの疫学的な調査を見ると、塩分のとり過ぎは余りよろしくないということは、もうコンセンサスだろうと思いますが、例えば長生き率といいますか、死なないというのを指標にして調べると、塩分は確かに寿命を短くするような方向に効果があるけれども、漬物はそうでもないみたいだという例外が出てきてしまう。これはどうしたものだろうという疫学者の話があります。

みそは、もちろん塩分濃度が高いですけれども、悪いとばかりも言えない。

こうすると、食品成分あるいは料理と栄養素もまた複雑な相互関係があるかもしれない。みそを食べている人は日本的な食生活をしているから、トータルとしてはいいのかもしれないという解釈も可能である。この辺の論文にはそういうことがたくさん書いてあります。

そこで、今、言えることは、前回にも出ましたように、今の日本の食事というのは、それほど悪くないのではないかというあたりが少なくとも言えることだろうと思うのです。

もし日本人が非常に悪い食事を積み重ねてきたとしたら、これほど長寿が継続できているとは思えない。でも、何がいいかというのはよくわからない。

そうすると、今、我々が食べている食事というのはそれほど悪い食事ではないだろうということが言えるのではないかと思うのです。

日本人は一体何を食べてきたのか。今、日本人が食べているものが多分我々が積み重ねている食の文化の歴史の現代版であろうと思われます。

細かいことは、時間がないので資料として残しておいて、省きます。

3ページにはフランスと日本とアメリカの代表的な文化を持っている人たち、文化が違う人たちが何を食べているかというのは、これを見るとかなり違います。

日本は圧倒的に魚をたくさん食べているし、カーボハイドレートの摂取量の中で穀類が多いですし、極めて特徴的です。我々の食べている食事を見ればこういう感じですが、フランスとかアメリカでは必ずしもこうではないということがはっきりと言えると思うのです。

次のページに行きます。

これは2000年に味の素社がやった5,000人の全国調査です。これは非常にきっちりとした、お金のかかった調査で、バイアスもかかっていないし、信頼できる調査であろうと思います。

2000 年の時点で「好きな主食」というと、これを見るとちょっと意外ですが、やはり「ご飯」なのです。2000年の時点では、少なくとも日本の人は、御飯大好きという昔からの食べ方が何ら変わっていない。

ここに「カレーライス」とか「ラーメン」というのが顔を出しますが、主食と言えば「ご飯」であるというのが2000年にちゃんと確認されている。

「好きなおかずベスト10」も、御飯に合うものという視点で見れば、非常に納得できるようなものが並んでおるわけです。

これからすると、2000年の時点では我々はそれほど食の欧米化もしていないし、基本のところではいわゆる伝統的と言えるようなものを食べ続けているし、食べたいと思っているということが見てとれるのではないかと思います。

 魚介類については省略します。

食の分類も、我々はこのようなものが食事の成分であると認識しているという意味で、ただ並べだけでなくて、統計学的に分類したもので、日本人の食というのはこんなものですというときには、かなり便利なものであろうという意味で掲載しました。

これは2000年ですが、この場合は何歳の人がどういう嗜好であるかということ、性別も含めて細かく解析されております。

ただ、1つ問題点としては、これは年齢層の問題なのか、この人たちの食の歴史の問題なのか。つまり、戦後から大分時間がたったといえども、高度経済成長、いろんな経済の変化がありまして、当然ながら食べられる食材、あるいは経済のレベル、いろんなものが変わってきましたから、そういう時代背景の問題なのか、あるいは単に年をとるとこういうものが好きになるのかという2つの問題は、2000年ではまだよくわからないと思われます。100年たっても時代が余り大きく変化しなければ、純粋に年寄りはこういうのが好きで、若い人はこういうのが好きだという言い方ができますが、この時代では時代の流れというのがかなり色濃く反映しているように思います。

これは、2009年に朝日新聞社がアスパラクラブという読者を対象にしてざっくり調べたもので、よく雰囲気を捉えているということで意味がある。

この調査は、「カレーライス」と「ラーメン」は当然好きですけれども、そのほかに何が好きですかという言い方です。「寿司」「そば」「うどん」「おにぎり」「みそ汁」「コロッケ」「ハンバーグ」、2000年から10年たちましたが、そんなに変わっていないという感じがいたします。

次のページです。

2008 年に朝日新聞社が1万5,000人のアスパラクラブの人たちを対象にして、何が食べたいか、あるいは食べたいのだけれども、もうつくれないなというものを調べています。それほどびっくりするようなものでなくて、どの調査を見ても日本人が食べようとしているものは大きく変わらないというのが結論でした。

御飯が好きで、それに合うものをうまく工夫している。それから単品で食べるようなもの、丼のようなものもどんどん顔を出してきているという感じがいたします。

最後の7ページに非常に興味を持ったのは、2000年の味の素の調査の中で、いろんな世代別に分けて「特に好き」から「嫌い」あるいは「わからない」まで答えさせているのですが、「特に好き」と「好き」というのは、積極的な嗜好性を持っているという意味です。

各年齢層の人で「好き」及び「特に好き」というのがどのくらいあるかということを調べたものです。もし全く食べ物に興味がなかったら、「特に好き」とか「好き」という言葉は余り出てこないと思うのです。

これを見ると、一番下の「7579歳」は、40%の人が「特に好き」あるいは「好き」なものがあると答えています。40%のものを「特に好き」というランクでランクづけしている。この数字は、ほかの年代層と比べると、多少は減っていますが、それほど変わらない。ということは、80歳になってもまだ食べたいものがいっぱいあるということで、しかもそれは若い人たちとそれほど変わらないかもしれない。

そうすると、年寄りの食というのを特別に、年寄りだからこういうのを食べさせましょうとか、あるいはこういうのが好きなのではないかというのは多分間違っていて、年寄りも食に対してぎらぎら嗜好性を持っていて、この人たちの代弁をするならば、若いときと同じような食べ物をできるだけ食べたい、食べられなくなったら諦めるけれどもということなのではないか。ということがこれから感じられることです。

それは老年の人たちに対してどういうふうに対処するかということの一つの形かもしれません。私は、老人だからといって特別なことをするよりは、むしろ若いときと同じようなものをできるだけ最後まで食べ続けるという方向がいいのではないかと思いました。

さらに、日本人の伝統的な食というのは、最近、和食の無形文化遺産の登録などのこともあって大変話題になってきておりまして、こういうことがよく取り上げられますが、「伝統的な日本食のキーワード」ということを考えると、このようなものが必ず出てきます。

基本的には「一汁三菜」。ここに書いてあるとおり、これは納得できることではないかと思うのですが、こういうものが多分日本食にまつわるイメージとキーワードであろう。

特に日本食で一番大事だと思われるのは、だしの味であろうと思います。

だしというのは、世界各国、どの国にもありますが、ヨーロッパとか中国のだしというのは、数時間かけて食材をぐつぐつ煮て、洗いざらい全部引っ張ってくる。こういうだしの出し方をします。一種のスープです。

日本のだしは、干した昆布を60度ぐらいでさっと出して、かつおに至っては90度ぐらいの温度で1分ほど。一番だしだったら一、二分ぐらいです。つまり、あっさりと出している。

2時間かけて出すだしと1分のだしの違いは、余計な雑味をつくらない。余計な雑味を出さないということは、ほかに使ったときに別の素材を生かす、素材の味を邪魔しないということに徹底しています。

それに対して、数時間かけて出して、さらに濃厚なソースに仕立て上げたものなどは、自分のソースで素材をやっつけてやろう。こういうのが欧米人あるいは中国の人の考え方だろうと思いますが、日本のだしの典型というのは、素材をいっぱい発掘してきて、探索して、そしてその味を極めてピュアなうまみだけで仕立てる。

そういう意味では、日本の料理の伝統というのはこの辺に一番大事なところがあって、これは食素材を大切にするということとつながっていると思うのです。ですから、いろんな食物をいただくということをやる一つの料理の形としては、余計な雑味のある深いあるいは余り濃過ぎる味をつくらないで、ピュアなうまみだけで料理をすることによって、素材そのものを尊敬しているという感じなのかもしれませんが、そういう形が日本の料理だろう。

これが今、多くの人が食べているだしの味をベースにした料理の一番大きなキーワードであって、もし文化ということが意義の一つだとしたら、このだしの味は生かしていかなければならないと思います。

日本料理の中でだしの位置というのは、まさに今、申しましたように、日本料理はいろんな変遷を経て、強いて言えば、いろんな影響を受けている一汁三菜というのが近いような気がします。

別に副菜が3つだという規定はどこにもありませんし、「一汁複数菜」と言うほうがいいのかもしれませんが、ただ、ベースとしては、御飯があって、汁物があって、お漬物も当然あって、そのほかに魚、だしで煮た野菜とか、あるいはあえものとか、そういうものをつくるというのが一番よくやられているし、これをつくっておけば満足もできる。何となくそういう形ができ上がっているような気がします。

栄養関係の方が多いでしょうけれども、大きな御飯を食べて、低カロリーで、かつ繊維が多くて脂肪が少ない、こういう利点のある御飯を食べて、そしてそれをおいしく食べるための汁物と香の物がちゃんとある。おかずというのは、世界各国の料理から御飯に合うものを集めてきて調理されているという意味で、大変よくできていると思います。日本のこういう形が残っていくのだろう。

マクガバンの話は、1970年代の上院議員のマクガバンの政府への提言ですが、上院はこれを政府へ提言として出していますが、ざっと見たら、今の日本あるいはアジアの料理というのは、これにぴったりだろう。ただし、これによると、日本は7番の塩だけは多過ぎています。だから、アメリカ人にとっての理想的な食の中で、我々はかなりのところそれに沿った形を自然に持っている。少し塩を減らせばぴったりではないか。ただし、大きく減らし過ぎる、1つのものを変えると全体の食の相互作用が変わりますから、余り大きな変化を起こすと全体ががたがたっと崩れてしまうということは、前回も申し上げたとおりです。

食の相互作用というのは非常に大きくて、ここから塩だけを減らすという都合のいいことができないというのが、どうも食の問題の一番大きなところであろうと思います。少し減らすのはできるだろうけれども、ひっくるめて日本の食というのを大事にしていくべきだろうという感じがいたします。

油がおいしいというのは、私は実験科学者ですので、こういう動物を使った実験をしているということを後ろにつけましたが、実験的な裏づけ、だしと油とは、うまみ、おいしさという意味で対抗できる。だから、だしを中心とした食を日本の人は大事にしてきたわけですけれども、これは、ある意味では食の過剰な欧米化をとめる役目を果たしている。だしの味、うまみがあることで、油あるいは砂糖がなければ生きていけないというような食にならないという意味では大変大きいし、これからも大事にしていくべきではないかと思いました。

以上で終わりです。

○中村座長 ありがとうございました。

では、御質問を受けたいと思うのですが、いかがでしょうか。どうぞ。

○高田構成員 伏木先生とあわせて、原田先生にも一言コメントをいただけたらと思うのですが、食文化とか食嗜好というのは、もちろん政治とかいろいろな社会情勢の影響も受けるとは思うのですが、基本的に快適とか楽しいとか、そういう方向に流れていっているのではないかと思うのです。

そうすると、健康教育の中では、どちらかというと制限するとか、それを無理に抑えるような提案もたまに出てきてしまうのですが、そういう部分というのは、文化とか嗜好というほうから考えると、元も子もなくなってしまうかもしれないのですが、そういうことをやってもその流れはとめられないというものなのか、それも含めて社会とか政治という意味の一つになると考えていいのか。どうお考えでしょうか。

○伏木構成員 私の個人的な見解でありますが、食嗜好というのは、生きるために非常に大事な脳の働きでありまして、そして大切なものを食べるということをうまくコントロールするために快感がある。それに対して、悪いものを食べたら嫌な味がしたり、罰回路が働く。

そういう意味では、食嗜好というのは、生きていくための基本的な食物選択に関係していると思うのです。ただし、社会の形によっては、物すごくカロリーの高いものがたくさん手に入ったり、いろんなことがあって、少しコントロールする必要がありますが、基本的に人間はベーシックな食嗜好を失うと、何を食べていいかわからなくなって、多分生きていけないと思います。

そういう意味で、食嗜好は大事にすべきだ。

もう一つは、何かを指導したいときに、ある意味では規律という言い方がされるかもしれませんが、それと食嗜好とが合わない場合どうするかという話だったと思うのですが、私は、人間の食嗜好を大きく離れた命令なり指導というのは実行されないと思います。

アメリカのマクガバンは、こういう形で脂を40%から30%に減らしましょうとか、いろんな大事な提言をしていますが、全然実行されていません。

そういう意味では、実行不可能なことが幾らいいことであっても、それが人間の食嗜好を大きく外れたら多分実行されないし、空念仏に終わるというふうに個人的には考えます。

○原田構成員 基本的には今の伏木さんの考え方のとおりだと思うのですが、私ども歴史のほうの立場からすると、それ自体も非常に長いスパンの中では変わっていくだろうと思っております。

では、それを主体的にどう変えていくかというところの問題になってくるかと思うのですけれども、これは社会のシステムの問題と教育、その人が接し得る機会というか、全体的な環境をうまくサポートしてやるということが重要なのだろう。

 少し抽象的な言い方になりましたけれども、個人的な体験で言うと、私が教えている学生などの話を聞くと、天丼と言ったら、セブン-イレブンの天丼しか知らない。だから、あれが一番うまい天丼なのだと思い込んでいる。もちろん、年齢の問題もありますから、やがて社会に出て自分で食べるようになればまた変わっていくのだろうとは思うのですが、我々人間を取り巻く環境というのは、実は大きいようで狭いわけであって、それはいろんな社会のシステムとか、収入の問題とか、あるいは消費の仕方の問題とか、いろんな要素が絡んでおります。

逆にフランスなどでは子供のうちからフランス料理のいいものを食べさせる。まだ味わったことのない味覚みたいなものを新たな一つの記憶というか、文化として仕込むことによって、おのずといい意味での選択の余地が広まってくる、新たな可能性が見えてくる。そういう状況づくりというか、これはなかなか難しいですけれども、そういうことも必要なのではないかと思っております。

○中村座長 ありがとうございました。

 ほかに。どうぞ。

○武見構成員 今のことに関連して、栄養教育を専門とする立場から一言言いたいのですけれども、決して今の健康教育や栄養教育、高田先生はそういう意味でおっしゃったとは思わないのですが、制限する方向が成功するとはこれっぽっちも思っていないし、そういうやり方を決して推奨していないと思います。

ただ、食嗜好の中でも、大きくは変えられないけれども、バッファー的に少しは変えられる部分があって、そこと健康という要素をどううまく折り合いをつけていくか、あるいは本人が納得して受けられるような方向にするかということが今の教育の方向だと思っています。

 もう一つは伏木先生に質問です。先ほどだしの文化ということをおっしゃったのですが、日本食の特徴ということで、全く同意なのですけれども、このだしというのは、もともとは家庭で昆布とかかつおぶしを調理してとっていくものだったわけですが、今は非常に簡便な形でそれに代替するものがたくさん増えてきていると思うのですけれども、それは全く同じと考えていいのか、その辺についての御意見を伺いたい。

○伏木構成員 2つの面から。

1つは、動物実験的には、いわゆる顆粒だしも、朝からせっせと手で引いた昆布とかつおを使ったやつも全く変わりません。

ただし、人間の嗜好的には、上等のかつおぶしと利尻の特級の昆布で出したほうがおいしいという座標軸はでき上がっているみたいです。

ただし、余りハードルを高くすると、せっかくの日本の文化が廃れてしまうということがあると思いますので、年に数回ぐらいは自分でだしをとって、おいしいのを食べる。それがわかれば、普通の顆粒だし、あるいはもう少し簡便なだしでも十分日本の食を楽しめるのではないかと思うのです。

1つの例としては、物すごくストイックに、あるいはこうでなくてはならないというだしのつくり方をつくってしまうと、多分多くの人はついてこられないと思うのです。それは廃れるもとだ。

フランス人でも、物すごく高級なワインをみんなが飲んでいるわけではなくて、たまに飲むと、ほかの普通のワインがおいしく飲める。

これと同じように、だしもお正月ぐらいはいいだしをとる。そうすると、普通の食事はもう少し簡単なだしでも十分日本の文化をやっていけると思っています。

○中村座長 ありがとうございました。

 あとお一人だけ。どうぞ。

○幣構成員 伏木先生にお伺いしたいのですが、病院の食事でも、今、先生がおっしゃったみたいにいろんなだしを入れながらおいしくつくっていくということをいろいろやっていて、世間でも非常に進んできていると思うのですが、食嗜好で、先生は主食をしっかり食べていくために、日本の文化としてだしをうまく使ったような料理が発展してきたと。脂肪に対してのメリットというのは、先生の研究をいろいろ見せていただいているのですが、糖質というか、炭水化物という表現がいいのか、甘味、甘みに対してのだしの効果というのは、先生のお考えの中ではどのように捉えていけばよろしいのでしょうか。

○伏木構成員 人間が食事をするときは、多分高度な満足感が必要だろうと思うのです。一番高度な満足感を簡単に出してくれるのが高濃度の油であろうと思われます。

そのような指標で例えば実験動物などを見ると、油が飛び抜けていて、次に砂糖水があって、その次にある程度のカロリーを持っているだし溶液、香りのついたうまみ溶液、その3つがどうも動物の報酬系を介した大変高度なおいしさをつくっているように思うのです。

だから、だしのきいたものでも油に代替できると思いますが、砂糖のようなものに対して、うまみも満足感という意味ではメカニズムが全く一緒ですから、料理法、調理法、あるいは加工法によっては対抗できると思っています。

○中村座長 田中さん。

○田中(延)構成員 先ほどの栄養教育の関係なのですけれども、大人になってからの食嗜好を大きく変えることはなかなか難しいなと思っているので、健康教育に携わっている者としては、なるべく幼いうちにきちっとした教育をしていくことが、今の流れを変えることができるのではないかなと思っております。

確かに日本人は長寿にはなってきているのですが、健康寿命という点で言うと、10年ほどの差がありますので、10年というものを縮めていくためにも、きちっとした健康教育が必要だろうと思っていますが、子供に対しては、何歳ぐらいまでにきちっと教育をすれば、大人になってもその食嗜好を変えないでいけるのかなということです。

○伏木構成員 この数字を出すのは大変難しいと思うのですけれども、大人の食は、子供食が前段階にあって、その前に離乳食があります。どこからが大人食、どこからが子供食というわけでなくて、ずっとつながっているわけです。

ですから、食事を始めてからできるだけ早い時期に最終的なゴールをにらんだ形をつくるのが合理的だろうと思うのです。ただし、中学校とか高校の年代になってくると、物すごくカロリーが必要な年代があるでしょう。彼らには何を言っても聞かないと思うのです。とにかく高カロリーのものをひたすら食べる。でも、それが終わって40代、50代になってくると、小さいときに食べたものが懐かしくなるだろうし、そのベースがあればそこに戻れると思うのです。

見かけ上、成長期の若い人はまず置いておいて、中学生ぐらいまでに伝統的な和風の食べ物が一番いいと思っているのです。離乳食、幼稚園ぐらいから始めていただいて、そこから来たら、続けなくても、おいしいだしはすごく印象的だし、それを経験すれば割といけると思うのです。

○田中(延)構成員 ただ、低学年ほど親はきちっと手をかけるのですが、だんだん中学生、高校になると手をかけなくなっていってしまうので、我々としては、給食のある義務教育のところまでで何とかちゃんと教育をしていきたいなと思っています。

○伏木構成員 そうでしょうね。自分でお金を出して物を買える年齢になってくると、好きなようになってしまいますね。また、体も成長期は大きく要求しますから、あの時代は特別だろうと思います。

 でも、幼稚園ぐらい、あるいは小学校ぐらいは。

○田中(延)構成員 幼ければ幼いほどいいですね。

○伏木構成員 いいと思います。

○田中(延)構成員 ありがとうございます。

○中村座長 ありがとうございました。

では、続きまして、「日本の食品成分表からみた食品の特徴」というテーマで、渡邊構成員から御発表をお願いいたします。

○渡邊構成員 渡邊でございます。

 それでは、発表させていただきます。

 食品成分表を長寿を支える健康な食品という視点で考えたことがなかったので、今回の課題をいただき自分なりに考えてみました。

お手元の資料の1ページ目は、食品成分表の歴史的な経緯を公表年度と食品数、成分項目で示したものです。

青いところが一般的に食品成分表と言われているエネルギーや一般成分、ビタミン、ミネラルが収載されているもので、成分表2010まで6回の改訂を経ています。アミノ酸成分表は3回、脂肪酸成分表は2回改訂を行っています。

次のページのグラフをごらんください。

上段はそれぞれの成分表の食品数の変遷です。下段は、それぞれの成分表の成分項目の変遷です。

食品数の変遷は、三訂成分表から四訂成分表で2倍になっています。

成分項目は、四訂成分表から五訂成分表で約2倍になっています。

このように食品数が急激に増加した成分表と、成分項目が急激に増加した成分表は改訂時期が違っています。

それはなぜかを次に説明させていただきます。

日本の食品成分表の歴史的経緯を見ると、昭和25年に国民食糧及び栄養対策審議会が初版の食品成分表を公表しました。

初版の成分表は、非常に短期間でつくったので、栄養研究所のデータ「食品栄養価要覧」を文献として使っています。

この成分表では分析方法が統一されていないので、データ的には少し不備があるという記載があります。

続いての改訂成分表でも同様に「食品栄養価要覧」を利用しております。また、鉄とリンの定量方法が確立したので、その数値を全面的に見直した結果、初版と大きく違う値ですと記載されています。

改訂版では、初めて料理した食品として「七分つき御飯」と「精白米御飯」だけが収載されています。このことは、「御飯」という言葉が御存じのように、「飯」そのものと食事全体をあらわす言葉であり、日本人にとって食事の中の飯の重要性が理解されていたため、「七分つき御飯」と「精白米御飯」だけが調理した食品として収載されていると考えられます。

続いて、改訂された三訂成分表では、この時期に食料生産や消費に著しい変動が見られたので約200食品を追加したこと、分析方法が進歩したことと食塩とビタミンDを収載するようにという要望がありそれに対応したと記載されています。

食品の増加は、ここに示したように、加工食品としてコーンフレークなど141食品が収載され、輸入果実、ハム・ソーセージ、チーズなどが細分化されて収載されています。つまり、三訂成分表作成当時にこれらの食材が一般家庭でも利用されるようになってきたと考えられます。

また、エネルギー換算係数が初版と改訂版では、4、9、4、いわゆるアトウォーターの係数を使っていましたが、この三訂成分表からは、FAOの食品個々のエネルギー換算係数を使っています。分析方法については、統一できていないので、今後いろんな成分について統一する必要があるということも記載されています。

調理した食品は、改訂版の七分つき御飯、精白米御飯に加え病院食の栄養計算のためと考えられる、おかゆと重湯が収載されています。さらに、行事食という意味での赤飯、お餅が載っています。しかし、肉、魚、野菜の料理は収載されていません。

三訂成分表に続き四訂成分表ができました。四訂成分表は改訂作業に6年を費やし、いわゆるバブルのころを経ているので、非常にふんだんな予算を使い、精度の高い分析方法を行い作成されました。定量方法も検討され、主な食品についてはほとんど全成分の分析を行っています。この成分表では、調理した食品として、魚の水煮とか焼き、野菜のゆでるなどが収載されました。

御飯は、このときに初めて電気釜で炊く調理方法を行い、魚の焼きはガスこんろの上に焼き網を乗せて、直接そこで加熱するという方法をとっています。四訂成分表の焼き魚の鉄の量は、生の魚の鉄に比べて平均で2倍の値を示しています。

 こういったようにこの成分表では調理した食品を収載していましたが、これらの成分値が栄養計算に使われている状況ではありませんでした。

また、エネルギー値については、日本人のエネルギー換算係数を検討する必要があるということで、米や大豆など、日本人にとって主要な食品について人試験を行い、日本人のためのエネルギー換算係数を算出し、その値をエネルギー換算係数として使っています。

昭和62年から平成6年には、四訂成分表で収載されず、食事摂取基準に収載されている脂溶性成分、ミネラル、食物繊維、ビタミンD、ビタミンK、B、B 12 について、フォローアップ成分表が策定されました。ビタミンDは三訂および四訂成分表で収載されていましたが、この時期に精度の高いビタミンD定量法が確立されたことから新たにタミンD成分表が策定されました。ビタミンDは食品によるばらつきが大きいので、食品成分表では初めて変動係数を算出し、それを変動幅として記号で示しています。

その後、そういったことは行われていません。

次いで、平成12年に成分表2010の基礎となる五訂成分表ができました。

このときにフォローアップ成分表の成分や、食事摂取基準に収載されていて成分表に入っていなかった成分値が収載されました。食品の調理方法をみると、御飯は、IH炊飯器で炊く方法を用いています。焼き魚は直火で焼いている方は、ほとんどいない現状を踏まえ、間接加熱のグリルということを考え、電気とガスとを比較検討し火加減の調節が容易な電気魚焼き器を使っています。

電子レンジ調理についても検討を行いましたが、収載には至りませんでした。収載食品の増加は、流通が増加した冷凍食品あるいは養殖魚、食品の細分化等によるものです。

また、食品番号は、食品成分のデータベース化や栄養計算をコンピュータで行うことに対応できるようにとのことから、をこれまでの枝番方法をやめ5桁の番号に変更されています。

その後、五訂増補成分表ができまた。ここでは食事摂取基準でビタミンAの計算式とビタミンEの基準が変更(α-トコフェロール効力値からα-トコフェロール)になったので、それとの整合性をとっています。

現在、使われている成分表20102010年に公表されました。この成分表では、食事摂取基準との整合性をとるためにヨウ素、セレン、クロム、モリブデン、ビオチンが収載されています。

また、FAOの「好ましい方法」に従って、たんぱく質についてはアミノ酸組成からのたんぱく質、脂質についてはトリアシルグリセロール当量を収載しています。

このように食品成分表は変遷を重ねているわけですが、先ほど出てきた「食品栄養要覧」について少し話をさせていただきたいと思います。

「食品栄養要覧」は、国立栄養研究所が公表している成分表で、昭和21年につくられ、昭和26年、31年に改訂されています。

31 年の増補新版というものを見ますと、第1表として、5ページの下に示してある成分が収載されています。

また、食品の数も、ここに示したように、19の食品群で1,267ですから、当時の食品成分表の収載食品をかなり上回っていることがわかります。

第2表は次の6ページに示した調理食品栄養価表です。ここでは調理した食品が130種類の食品で、849の料理が収載されています。これは今の成分表よりも料理としては多く収載されていることになります。

 例えば「なまさけ」を見てみると、「塩茹」「塩焼」「味噌焼」「そぼろ」があり、「から揚げ」はラードを使い、バターでベークした料理も載っています。

また、3表は一般食堂食品栄養価表です。第1表、第2表は100グラム当たりでが、第3表は1人前当たりとして27の料理が収載されています。

それを見ると、飯類として稲荷すし、炒飯、鰻丼、親子丼、開花丼(牛丼)、カツ丼、カレーライス、天丼、のり巻きずし、ハヤシライスと、今でも食べられているものが載っておりますし、麺類も、ここに示したようにうどんかけから、もり、かけそばと現在も定番の料理だということがわかります。

その他として、オムレツ、カツレツ、コロッケ、サンドイッチ、茶碗むし、ビフテキ、ミンチカツ、ロールキャベツ、野菜サラダ、これはポテトサラダで、キュウリとかトマトも添えられています。

このように昭和31年に収載されているものが今も食べられているということがわかります。

 昭和21年、26年の「食品栄養要覧」を見ても、第1表、第2表の食品は1つの表にまとめて収載されておりますので、栄養研究所がかなり力を入れてこの表を作ったと推察されます。

 次のスライドをご覧ください。「食品栄養要覧」の基礎となったデータは、昭和12年に栄養研究所の所長の佐伯先生がつくられた主要食品についての「調理食品成分照鑑」です。

これを見ると、いろいろな食品について、例えばニンジンを乱切りに茹でる、輪切りにしてゆでる、そしてそれぞれ何分ゆでたか、てんぷらにした場合など、調理条件を替えた食品が収載されています。料理は、栄養士が作り医師と、薬剤師、栄養士がともに、その栄養価を分析していることがわかります。

このように、昭和12年の段階で既に日本人が何を食べて、その栄養価がどうであるかを医師と栄養士が一生懸命検討していたということがよくわかりました。

続いて、7ページ、諸外国の成分表と日本の成分表の比較を行ってみました。

食品の収載数は、第1回で事務局から説明がありましたように、収載食品の数はアメリカ、イギリスはとても多いので、それぞれ全収載食品に対する食品群に含まれている食品の数の割合を算出し示しました。ピンクがアメリカで、青がイギリスで、黄色が日本です。

穀類については、日本は非常に少ない割合になっています。アメリカやイギリスはパンの種類が非常に多く、さらにコーンフレークなどのシリアルも多く食べられていますが、日本では米、うどんとか、そばが主で、料理は炊くとゆでるの簡単な料理です。そのため日本の穀類の食品の割合は少ないことがわかります。

 次に、副菜になる食品の野菜類をみると、イギリスやアメリカでは野菜類の中にキノコも海草も芋も含まれておりますので、日本の食品についてもそれを一緒にして割合を算出しました。

アメリカに比べてイギリスと日本では野菜類、いわゆる副菜の割合が多いということがわかります。

主菜の食品である肉類、魚介類を見ると、日本では肉の割合が少なく、魚介の割合が多く収載されています。

ここで示した4つの食品群の割合の相違が諸外国と比べた日本の食品の食べられ方の特徴と考えられます。

7ページの下にはほかの国の成分表の特徴を記載しましたので、これは後でごらんください。

8ページに日本の食品成分表の食品群別の食品数の変遷を示しました。

下の図に成分表2010の各食品群の食品数が初版の成分表に対す比べ何倍になったかを示しました。

調味料及び香辛料類は初版から収載されていないので、これが取り上げられた改訂版とで、調理加工食品類も四訂を基準に算出しました。

食品の数がかなり変化してきています。特に調味料及び香辛料類の増加が著しく、これは多様な調味料及び香辛料類が流通しそれを使っていろいろな国の料理を日本人がアレンジして取り入れているための増加と考えられます。また、五訂成分表で、抽出した(料理した)だしとして、かつおぶしのだし、昆布だし、混合だし、煮干しのだし、しいたけだし、洋風だし、中華だしを初めて収載しています。

次に9ページをごらんください。

実際に私たちが食べている料理である調理した食品が食品成分表にどれだけ載っているかを示したものです。これをごらんになってわかるように、野菜類に調理した食品が非常に多いことがわかります。野菜類では、生の料理の塩漬け、ぬか漬け、加熱した食品のゆでるなどが収載されています。

魚類では煮る、焼くが収載されています。

次に、食品成分表にはいろんな食品が収載されていますが、成分を変動させる要因についてグラフで示しました。

9ページの下に生育環境の相違として、「たい」の天然と養殖を示しました。脂質の量がこのように違いそれがエネルギー量にも反映されるので、成分表では分けて収載されています。

食品成分表全体を見ると、魚は養殖で脂質量がふえており、それは餌に由来しています。仮に私たちが望むのであれば、天然に近い成分の魚も養殖されていくのではないかと思っています。

「さば」のが品種の相違です。品種が違うだけで脂質量に差があり、それがエネルギーに反映していることが分かります。

「さけ」も品種によって脂質量が大きく異なりますが、主菜からとりたいたんぱく質は意外と一定していることもこのグラフからわかります。

次の10ページは収穫期の相違として、「かつお」の初がつおと戻りがつおを示しました。私たちはそれぞれのおいしさを楽しむわけですが、これも両者で脂質量が大きく異なり、脂質量によってエネルギーの相違が見られます。

収穫時期の相違として「ほうれんそう」について示しました。全ての成分を分析して、収穫時期によって大きな相違があった栄養素がビタミンCだけだったので、ビタミンCのみが区分され収載されています。

調理方法による成分の相違として、うどんとパスタ類の塩分量の相違を示しました。

うどんは、製造時に塩を小麦粉に入れてつくる食品です。

パスタは、製造時に塩を入れないでつくる食品です。乾物で見ると、塩分はうどんが多い値です。しかし、うどんは水でゆでますし、パスタは塩を入れてゆでるので、最終的にでき上がった食品の塩分はほとんど変わらないということがわかります。

次に廃棄部位の相違として、にんじんを例に示しました。ニンジンに外皮がついているか、ついていないかで、ビタミン類や食物繊維に相違があることがわかります。

 食品成分表でニンジンの皮をむくようになったのは、五訂成分表からです。策定同時に皮をむくか、むかないかを検討し、主要な食品なので両方載せることになりました。

10 ページの下に野菜類の調理方法の相違による重量変化率を示しました。重量が変化しているということは主に水分が流出し、それに伴い水に溶けるさまざまな成分が流出することがこのグラフからわかります。

その次のグラフは、豚ロース100グラムを調理すると重量が変化し、それに伴い調理した後、成分が変化するとことを示したものです。

 これらのことから、摂取する栄養量は生で考えるのではなくて、調理した値で栄養計算をするということの必要性がわかります。

11ページをごらんください。

食品成分表全体では肉類は7食品しか料理をしていません。「ゆで」と「焼き」でそれぞれの成分の残存率を計算すると、「ゆで」と「焼き」では成分の残存率、つまり残っている割合がこのように違うことがわかります。

下のグラフは、食品成分表に収載されている野菜類83食品の「ゆで」た食品の成分残存率を平均したものです。ほとんどの成分は減少していますが、カルシウムは、水道水に含まれる水が吸着するため増加しています。

その下の図は、「ぬかみそ漬」についての成分残存率です。ぬかの成分が食品に吸着しているといることがわかります。

 四訂成分表では「ぬか」が載っていましたが、五訂成分表では収載していません。今回、成分残存率等を見ると、それらの収載も必要ではないかと思います。

このように、食品成分を変動させる要因として調理は重要な要因であることがわかります。

 こういった今までのグラフ、表などを踏まえて、「日本食品標準成分表からみる日本の食品の特徴」をまとめてみました。

1.日本の食品成分表は、食事区分に対応した食品群に分けて配列しています。

食事を、主食、主菜、副菜に分けて考えるのに便利なように配列されています。

2.主食の穀類は、飯、うどん、そばなど、素材の味や栄養素を生かした料理が行われ、それが収載されています。したがって、主食から脂質を摂取するということがありません。

3.芋類、キノコ類、藻類を野菜類として区分はしていません。

したがって、芋類の成分的な特性は飯に近いので、そういった食べ方ができるということがわかり、キノコ類は植物性食品で唯一ビタミンDを含む食品なので、キノコ類を食べる意味も理解できるようになっています。藻類はビタミン、ミネラル、食物繊維の供給源ですが、塩分量が多いという特徴があります。したがって、これらの各食品群の特性が理解でき、それを食事にどう活用するかを考えることができるようになっています。

4.日本のだし、先ほどもお話がありましたが、かつお、昆布、シイタケは、乾物を用いるため、少量の材料と簡単な調理操作でおいしく香りよくでき上がります。これを汁物、煮物に使ってさまざまな料理をおいしく仕上げています。

5.大豆加工品である納豆、豆腐、油揚げ、煮物は栄養価が高く、食品自体が小さい単位ですから、100グラムでみでも成分的にその食材のばらつきが少ない食品です。魚100グラムといっても、おなかの部分を食べた方と尻尾の部分を食べた方ではその摂取栄養量が違いますが、大豆加工品は成分のばらつきが少なく栄養価も高い食材です。また、これらは安価で、調理も短時間で行える食材であるため、日常食には便利に利用できる主菜になる食品です。

6.みそ汁は、地域のみそと旬の野菜などを用いて簡単に調理ができます。香りもよく、おいしいみそ汁は食欲をそそり、副菜の一品にもなり、地域のみその利用は食文化の継承にもなります。

7.みそ、しょうゆ、みりん、酢、酒など醸造食品は栄養価が高いだけではなくて、味も香りもよく、組み合わせると短い調理時間でおいしいさまざまな和風のソースができます。例えば三杯酢、二杯酢などがあります。それらによって料理の種類が広がり食事を豊かにします。

8.野菜、魚介類を生(刺身)と簡単な調理、煮る、焼きで収載されています。

日本は、海に囲まれているため地域の魚、野菜が豊富で、過去の成分表では「野草」ということでも収載されています。日本ではこれらの食品の素材のよさを生かし、簡単でおいしい料理を食べてきました。

9.塩、しょうゆ、みそ、砂糖などを利用した漬物、つくだ煮を伝統料理として収載しています。これらの食品は、食品の腐敗を防ぎ、副菜の一品として食卓を豊かにしてきました。

10.外国の料理や食材を時代に応じて収載しています。

学校給食によって外国の料理が家庭へ普及していき、それが家庭でも食べられるようになっていき、そしてまたそのことが成分表にも反映してきていると考えられます。

11. 菓子類には和菓子に加えて洋菓子も収載されています、和菓子は油をほとんど含まないため、菓子類摂取による脂質の過剰摂取の要因になってこなかったということがわかります。

12.菓子パン類は菓子類に収載され、主食にならない食品であるということがわかるように構成されており、食事指導に活用されています。

13.調味料及び香辛料類の増加から、諸外国の料理に関心を持って、そしてそれを作る(食べる)状況であると考えられます。

14、玉露、煎茶、番茶の浸出液100グラムと抹茶1グラムを紅茶やコーヒーと比べてみると、鉄、カルシウム、葉酸、パントテン酸、ビタミンC、食物繊維を多く含んでいます。

仮に水分をこれらから摂取し、1日の摂取量が多ければ、食生活への寄与も大きいと考えられます。

15.油を使う料理を「食品栄養価要覧」ではラードやバターを用いていましたが、成分表では植物油を使っています。日本人は調味料の油脂として植物油を常用しているということがわかります。

16.調理した食品の収載が行われ栄養価計算の方法が明記されています。

厚労省の食品成分表2010の取り扱いの留意点でも、食品成分表の調理による成分の変化量に留意して使うようにと記載され、実際に摂取した栄養量が栄養計算によりある程度わかるようになっています

以上が食品成分表から見た日本の食品の特徴と考えています。

最後に、「まとめ」として、食品成分表の変遷から日本で常用されている食品と食生活を見ると、伝統的な食品を基本に、その時代に応じて新たに流通した諸外国の食品を加えた食生活を行ってきていると考えられます。

考えられる詳細は、先に述べた1から16に示したとおりです。

現在、成分表2010の改訂が行われています。炭水化物成分表の作成、アミノ酸成分表、脂肪酸成分表の改訂、本表としては、最近流通し始めた食品の収載が予定されています。

複雑な料理として、例えば切り干し大根の煮物、ヒジキの煮物などや、常用される食品の収載として、てんぷら、トンカツ、空揚げなど収載も目指しているところです。

今後の成分表への提案として、利用者の要望を反映するということはとても大切なことですし、調理した食品や新しい食品の充実、さらに料理食品を手づくり食品にするか工業的食品にするかの検討も必要と思います。

さらに、利用しやすい成分表にするために栄養価計算方法も明記する、エネルギー密度で食品を考えるために100kcal成分表も合わせて策定するなどが考えられます。

以上で発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。

○中村座長 どうもありがとうございました。

 ちょうど10分残されているので、御質問を受けたいと思います。藤島先生、どうぞ。

○藤島構成員 2点ほど教えていただきたいのですけれども、1つは、最後のところで手づくり品か、工業製品か、その検討が必要だということで、私もそのとおりだと思うのですが、特に最近は輸入物もふえておりますので、輸入物と国産の違いというのは余り考える必要がないのかどうかというところのお話をお伺いできればと思います。

あと一つは、成分の分析につきましては、これは製造段階、あるいは収穫段階で行うものなのか、実際に食べる、摂取段階のところではしなくてもよいものなのかどうか。

と申しますのは、特に高齢化が進んできますと、高齢者の方々は、先ほどの調理食品、中食品などもそうなのですけれども、購入して冷蔵庫にしまっておいて翌朝食べるということが結構あるだろうと思うのです。そういった点で成分の変化はないものなのかどうか。そのあたりを教えていただければと思います。

○渡邊構成員 工業食品か、家庭用食品というのは本当に悩ましいところです。総菜については、現在は、工業的食品、給食会社さん等のデータを参考にと考えております。成分表のニード調査をみると、例えば病院給食は、委託会社の場合、昨日まで食べたヒジキの煮物と、今日から給食会社が違ったからといって違う味になると、食べる人に混乱が生じると考えられるためか、各社のヒジキの煮物の変動幅が非常に少なかったのです。そこで、複雑な煮物は工業的なものを試料とすることで検討しているところです。

てんぷら等については、実際、家庭で料理する方は少なくなっているのですが、食品成分表では、原則として調理前後で成分がどう変わるかということも一緒に見ております。例えば生とゆでとを同じ食材を使って試料を作りそれを分析して、調理後に成分がどう変わるかということを見ています。それを踏まえると、トンカツ、てんぷら、空揚げは家庭(小規模)調理を行い、成分変化を見ることのなろうかと思います。また、参考データとして市販食品も幾つか分析するということになるのではないかと思います。

いつの段階の食品かということですが、消費者が一番入手しやすい形ということを想定しておりますので、例えばマーケットに行って野菜を買うとか、そういった食材が現在は試料になっています。

冷蔵庫に入ってどうなのだとおっしゃることも確かにわかりますけれども、そういったことの変化というのは、調理による変化に比べれば比較的少ないので、買ってきた食材をできるだけすぐに分析することになっています。

○藤島構成員 輸入と国産の違いというのはどうですか。

○渡邊構成員 輸入と国産は、必要があれば分けて分析しています。例えば大豆は、日本産、中国産、アメリカ産、ブラジル産を分析しております。分析結果をみて、分ける必要がないと考えられれば分けないし、分けたほうがいいと判断されれば分けるというような方針をとっております。

○中村座長 藤谷先生。

○藤谷構成員 1つ質問と、もう一つは、伏木先生からもあわせて御意見を伺いたい点でもある、感想です。1つは食品成分表をどうやって生かすかということです。例えば菓子パンが主食ではないというのは、私たちは全然知らなかったのです。食品成分表で、菓子パンは主食に入れず菓子のところに入れたから、つまり主食とはなりえない程度のものなので、菓子パンは主食にしてはだめよと言っても、これはすごく静かなメッセージで、食品成分表を精読しないとわからないところですね。

そのように、食品成分表の中にいいメッセージがあっても、それを一般の人にどうやって届かせて、生かしてもらうのか、ということがあるかと思います。

それから伏木先生のときも、油脂の魅力恐るべしと感じましたが、食品成分表でも養殖すると、油脂の多いものが増える、「脂の乗った」ということが一つのおいしさの基準となり、日本食もだんだん脂っこくなってきているのではないかと思いました。

例えば回転すし屋などでも、とろサーモンとかああいうほうに子供の人気が集まっていますね。それに加えて、どうしても油脂の満足感を利用する場面が多くなっています。例えばお店屋さん、この間もローソンさんから話があったように、だしの満足感より油脂の満足感のほうが工業製品としては提供しやすいために、だんだん油脂に席巻されていくのではないかなという感じがある。

かつ、みんなが丁寧に食品成分表を読むのではなく、地中海食とかいうのをちょっとマスコミで紹介する、オリーブオイルをとるといいのだという情報が入って、今はまだ油脂の摂取量が少ないからいいのですが、いずれ適正量を通り越して過剰な油脂の摂取にならないかなと非常に不安に思いました。

○中村座長 ありがとうございました。

 何かコメントがありますか。

○渡邊構成員 パンは成分表のどこに入れるかということで、日本パン科学会に相談しましたら、ブドウパンまでは主食だという御判断で、ブドウパン以上にいろんなものが入っているものは菓子類になっています。栄養士としては納得しましたが、確かにメッセージとしては全然届いていないのはよくわかります。いろんなメッセージが成分表から届いていないというのは実感しています。

例えば刺身が成分表に載っていないという苦情もあります。また、成分表では調理食品として、卵類に卵焼きがあり、おむすびが穀類にあるなどいろんなところに調理食品が収載されているのですが、そういった認識もされていない現状です。現在、成分表の委員会としては、何とかメッセージとしてわかるようにしたいということを考えております。

大学、養成施設で教育をしている立場としては、管理栄養士になったらこれらのことをわかりやすく伝えてほしいと重々話しています。また、だしについても、勤務校では調理実習では毎回手づくりをさせており、残った後のかつおと昆布もつくだ煮にして食べさせています。だしの美味しさなどを伝えるようにしています。

メッセージが届かないということは本当に大きな課題だと感じておりますが、養成施設にいる者としては、管理栄養士、栄養士に頑張ってほしいし、また、管理栄養士、栄養士だけではなくて、食品に携わるいろんな方たちと連携してどうやって伝えていけばいいのかということを考えたいと思っています。

養殖の魚は、今、脂が多いということになっていますが、実際にこれだけの科学技術があれば、天然の鯛のような鯛をつくれるのではないかとか、天然のものに近いものをぜひつくっていただく工夫をしていただきたいなと思っています。

○中村座長 ありがとうございました。

 どうぞ。

○伏木構成員 私は、食品成分表が割とメッセージ性が高いように思うのです。

○渡邊構成員 ありがとうございます。

○伏木構成員 例えば魚がすごく多いでしょう。こんな魚の種類の多い食品成分表を持っているところはないと思うのです。つまり、国民が一体何を食べているかということを割と的確にこれに反映しているというところはすごくいいと思うのです。

ただ、これが何かを言うかというと。

○藤谷構成員 どこまでそのメッセージが届くか、ですね。誰が読むか、という点が問題だと思います。

○伏木構成員 きっちりと物の物質量をはかって、きっちりと表現しているというところが一番大事なところで、それがここにあるということは、まずは大変いいと思うのです。

 そこのメッセージを伝えるのは食品成分表の役目でないような気がします。あとは、それをどう使うかという使う側の役目である。ここにきっちりと量があるということは大変心強いと思っています。

○中村座長 ありがとうございました。

渡邊先生、1つだけお聞きしたいのですが、この食品成分表の分析方法とか収載方法というのは、国際的に標準化されているのですか。

○渡邊構成員 成分表について FAO/INFOODSで各国の食品成分表のハーモナイゼーションを勧めています。現在は、日本ではできるだけ世界的に通用する方法を選択し定量法を決め行っています。分析マニュアルも公表しています。現在はほぼ、世界的にみて不都合はないのではないかと思います。

○中村座長 そうすると、サンプリングの方法も国際的な標準があるのですか。

○渡邊構成員 サンプリングについても、現在は各国独自で行っています。今後合わせていかなければいけないということも言われておりす。日本では、四訂成分表は予算が豊富であったため、ほとんどの食品が個別分析でした。五訂も前半はそうでしたが、予算がだんだん限られ、コンポジットサンプルが主になってしまいました。コンポジットサンプルはデータが1つしかないので、いろんな食品のばらつきがわからなくなる欠点があります。主要な食品については、ぜひ個別分析をして、地域による差、輸入、国産の差などがわかるようにしていただきたいとお願いしているところです。

○中村座長 そうすると、サンプル数とか内容は予算に依存しているということですか。

○渡邊構成員 そうですね。

○中村座長 国のほうで予算をしっかりとっていただければ精度が高くなるということですか。

○渡邊構成員 そう思います。

○中村座長 ほかにございますか。では、あとお一人。

○鈴木構成員 ローソンの鈴木と申します。よろしくお願いします。

 聞いていて衝撃的なというか、初めて知ったみたいなのがあって、すごく興味があるのですけれども、弊社も農業について真剣に取り組んでいて、四訂と五訂のニンジンに関してのカロテン量というのは減っている。それに対して何をしていくかというと、土壌を改良していかなければいけない。化学肥料をたくさんやってどんどんやせていった土地があるから、それを戻していくのだという考え方に基づいて今、取り組みを始めているところなのですが、そういうのがいまいち知られていない。弊社はたくさんのお客さんがいらっしゃいますので、一緒になって伝えていく。わかりやすければ、皆さん、反応していただける。

今であれば、弊社はブランという小麦の外皮を使った商品とか、要は、糖尿病の方々が3,000万人いる中で、どうやって改良していったらいいのかということで、低糖質のパンとかに取り組み始めているところなのです。

それも発売した当初は全然売れなくて、店にも置いていないし、お客さんも、これ、何だろうみたいな感じだったのです。

今までカロリーカロリーで、カロリーが低ければいいみたいな感じのやつとか、ダイエット方法についても、リンゴだ、バナナだといろいろブームのように去っていく中、こういう皆様方の見地を生かしたもの、認められるようなものであれば、お客様も取っつきやすいですし、これを取り入れる一つの材料にすれば全然変わると思うのです。

質問というよりもお願いなのですが、わかりやすい、これをやったら少しはいいよとか、これをやると少しはあれですよというのがここにいっぱい詰まっていたと思うのです。魚を食べましょうとか、塩分は気をつけましょうというのがあるので、それをぜひ一緒に取り組んでいければなと思いました。

よろしくお願いします。

○中村座長 ありがとうございました。

時間がもう二、三分過ぎてしまって、これで大体終わりにしたいと思うのですが、今、お話があったように、農業生産方法が物すごく変化し始めたり、加工食品がたくさん出たり、食生活の行動が多様化している中で、食品成分表をどう表現していくかというのは、国家として本当に取り組まなければいけないような大きな課題だろうと思うので、渡邊先生、ぜひ御努力ください。ありがとうございました。

○渡邊構成員 ありがとうございました。

○中村座長 きょうは、とても多様な御意見が出て、私自身、座長を忘れて聞き入っていたのですが、とてもいい勉強になりました。

では、これで今回の「健康な食事」のあり方に関する検討会を終了したいと思います。

どうもありがとうございました。


(了)

ホーム> 政策について> 審議会・研究会等> 健康局が実施する検討会等> 日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会> 第3回日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会 議事録(2013年10月21日)

ページの先頭へ戻る