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広報誌「厚生労働」

特集2
風化させない戦争の記憶
戦後の今、私たちにできること

<厚生労働省の援護行政とは>
厚生労働省では、遺骨収集事業や慰霊巡拝事業、戦没者遺族への補償など、戦争によって残された多くの問題の解決を担っています。終戦とともに、海外の軍人軍属、一般邦人の帰国の受け入れが重要な事業となり、厚生省はその中央責任官庁として引揚者対策に取り組むこととなりました。そこで1946年に、厚生省の外局として引揚援護院が設けられ、その後、変遷を経て、1961年に援護局となり、1992年に社会局と統合し、現在は社会・援護局が行うこととなったのです。

海外に眠る戦没者たち…遺骨収集事業

2024年度までを集中実施期間と定める

 第二次世界大戦中、日本軍は中国、東南アジア、オセアニアで戦いました。その結果、海外で約240万人が亡くなりました。これまでに収容できた遺骨は約128万柱※で、未収容の遺骨は約112万柱に上ります。そのうち海没遺骨が約30万柱、相手国事情により収容が困難な遺骨が約23万柱、そのほかの未収容遺骨が約59万柱です。こうした未収容遺骨を日本に帰還させ、遺族に引き渡すために、遺骨収集事業が行われています。
 その歴史をたどると、戦後すぐから国は遺骨収容に着手しています。戦争が終わり、陸海軍部隊の復員時や引き揚げ時に約93万2,000柱が送還されました。1952年から1957年にかけては、旧主要戦域となった各地を船舶で巡航して遺骨を収容していました。その後も、遺族や戦友が独自で遺骨収容を続けてきました。
 まだ収容できていない遺骨が多くあるという指摘や、旧戦域を開発した際に遺骨を発見する例が増えたことを受け、国は1967年から6年計画で、航空便を利用したり、現地住民を雇用したりして遺骨収容に当たりました。1973年度からは3年計画で遺骨収集事業の充実・強化を図るとともに、遺骨収容を行っている民間団体に対する補助事業を実施し、民間の力を借りながら遺骨収容を進めました。
 さらに遺骨収集事業を推し進めるため、2016年3月に「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」が成立し、同年5月には基本計画が策定されました。これにより、2024年度までを集中実施期間として、地域の状況に応じた計画的・効果的な遺骨収集を進めることとなったのです。この法律に基づいて、事業実施団体である一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会が厚生労働大臣から法律指定法人に指定されました。ここには、一般財団法人日本遺族会など12団体が所属しています。

※遺族に引き渡す前の魂を柱と呼びます。


ソロモン諸島での遺骨収容の様子

DNA鑑定を行い遺族に引き渡す

 遺骨収集は次の流れで行われます。まず、戦友などから情報を集めたり、交戦国であった各国の資料を調査したりします。現地調査も行っており、昨年度は現地調査団を、東部ニューギニアに5回、ビスマーク・ソロモン諸島に6回、パラオ諸島に3回、ミャンマーに4回、マリアナ諸島に6回派遣しました。集められた遺骨情報をもとに、相手国政府等と調整のうえ、遺骨収集実施計画を立てます。
 そして、遺骨収集団が現地で遺骨収容作業を行い、人種鑑定を踏まえ日本の戦没者の遺骨であることが確認できれば、日本に送還します。
 送還された遺骨は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われる遺骨引渡式で、厚生労働省に引き渡され、省内霊安室に仮安置されます。
 遺留品や埋葬者名簿、部隊記録などの資料から戦没者をある程度特定できる場合は、当該戦没者に関係すると思われる遺族に呼びかけを行い、DNA鑑定を実施します。身元が判明すれば、遺族に遺骨を引き渡します。身元を特定できなかった遺骨は、皇族御臨席のもと、毎年5月下旬に行われている千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式で、同墓苑に納骨しています。

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