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広報誌「厚生労働」

特集
工場法施行から100年
今だから学びたい労働基準法の成り立ちとその意義

労働者が安心して働けるように、就業時間や休息などについて定めたのが、労働基準法です。その前身ともいえるものが、1916(大正5)年に施行された工場法で、ここから日本の労働者保護の歴史は始まりました。工場法施行から100年目に当たる今、あらためて工場法成立の背景や狙い、労働者保護の歴史を学び、その大切さについて考えてみましょう。

特別寄稿
工場法施行百周年に寄せて

菅野和夫
独立行政法人労働政策研究・研修機構理事長(東京大学名誉教授・日本学士院会員)

工場法が施行された背景や意義について、独立行政法人労働政策研究・研修機構理事長で、東京大学名誉教授の菅野和夫氏に解説してもらいました。

工場法施行百周年

 「工場法」は、明治44(1911)年に制定されたわが国初の本格的な労働保護立法です。同法は、大正5(1916)年の工場法施行令によって同年9月1日に施行されましたので、今年は工場法施行100年目に当たります。
 工場法は、その後大正12(1923)年に重要な改正を施されるなどして、第二次世界大戦前における最も重要な労働保護立法でありました。戦後の改革立法として昭和22(1947)年に制定された労働基準法の前身といえます。労働基準法は、その後何度か重要な改正を重ねて、最低賃金法、労働安全衛生法などと共に一大労働基準法制に発展しておりますが、工場法はその先駆的立法ともいうことができます。

工場法の概要

 工場法の適用範囲は、常時「15人」(大正12年改正で「10人」へ)以上を使用する工場と、事業の性質が危険または衛生上有害な一定の工場とに限られていました。ほぼ全業種にわたる事業を列挙し、それら事業に(規模を問わず)適用する、と規定された戦後の労働基準法に比すれば、ごく限定的な適用範囲だったといえます。
 また、保護の内容も、工場法本則では、[1]最低入職年齢を12歳としたうえ、[2]15歳未満の者および「女子」について、最長労働時間を12時間とし、深夜業(午後10時から午前4時)を禁止し(例外と長期の適用猶予あり)、休憩の基準(6時間を超えるときは30分、10時間を超えるときは1時間)および休日の基準(毎月2回以上)を定め、一定の危険有害業務への就業を制限し、[3]工場における職工の安全衛生のための行政官庁の臨検・命令権と、[4]職工の業務上の傷病・死亡についての事業主の定額の扶助責任を定めました。そして、施行令において、[5]賃金の通貨払いや毎月1回以上支払いの原則、[6]常時50人以上使用の工場における就業規則作成・届出義務(大正12年改正)などを定めました。
 つまり、工場法は、工場労働について、児童・年少者や女子の保護を主要内容とし、職工一般の保護は、安全衛生のための行政監督権限、労災に関する事業主の扶助責任、賃金支払い原則の一部、就業規則作成義務、などに限られていました。戦後の労働基準法が、労働者全般について8時間労働制、週休制、年次有給休暇制、賃金支払い諸原則、休業手当、等々の国際水準の労働基準を樹立したこと、年少者・女子に関する保護内容も充実させたことなどに比すれば、初期の過渡的な労働保護法でありました。
 しかしながら、工場法は、それまでは国家的な規制がなかった雇用関係の内容につき、当時特に必要と考えられた労働保護を強行的な基準として法定し、行政監督の仕組み(工場監督官制度)を樹立した最初の法律であり、国家的な労働保護システムの制度化それ自体に基本的意義を見いだすことができます。

工場法制定までの道のり

 明治政府は、近代国家建設の過程において、英国等先進国に倣って早々に工場法の制定をめざし、明治30(1897)年より帝国議会への法案提出を開始しました。以後、工場法案を何度か帝国議会に提出しましたが、経済情勢、日露戦争、そして紡績業界の反対などにより、明治44(1911)年まで成就しませんでした。この間、工場法制定に邁進する政党もなく、また当時の労働組合の工場法期成運動も強い推進力とはなりませんでした。
 このような経緯に鑑みると、工場法が成就した大きな要因は、政府自身が明治33(1900)年に大規模な全国的工場調査を実施して、工場労働の客観的問題状況を世に明らかにし(農商務省商工局『職工事情』明治36年)、また民間の有識者も職工保護の必要性を事実をもって世に訴えたことが(たとえば、石原修「衛生学上より見たる女工の現状」大正2年国家医学会雑誌322号)、世論を動かしたことにあるといってよいように思われます。

女工の結核問題

 それら文献が当時の深刻な社会問題として特に訴えたのは、繊維業女工が過酷な工場労働によって結核に侵されている状況でした。たとえば、上記『職工事情』は、当時の紡績業における休憩が少なく深夜業を伴う長時間労働の様相を諸事例で示しつつ、「夜業部における就業は所謂徹夜業なり、即ち紡績職工は幼少者なりと婦女とを云わず悉く徹夜業をなすは一般の事実なりとす。……徹夜業の衛生上有害なるは言を待たず是少しく紡績工場に経験ある技術家・医師等の斉しく唱道する所にして……紡績工女中肺病患者の極めて多数にしてその原因が綿塵を呼吸すると徹夜業をなすとにあるは、亦工場に経験ある者の認める所なり」(平仮名化)と指摘しています。
 また、上記の石原論文は、上記の明治33(1900)年調査の結果(繊維産業関係)を分析し、職工名簿に記載された寄宿女工の死亡率は1000人当たり平均8人内外であり、結核性疾患を原因とする者がその5割(肺結核3割)であるが、疾病のまま解雇された者が多数あり、その約5割がやはり結核性疾患であること、また工場よりの帰郷者のうち肺結核の者の割合1000人中66名、結核の疑いある者の割合1000人中194名であり、疾病による帰郷者の死亡(帰郷者1000人中24人)の4割は肺結核、3割は結核の疑いある疾患による、と推計しました。同論文掲載雑誌の序文は、「本邦現在の工人八十万、中五十万は実に女工たり、而て其中約三十万は尚ほ発育期にある未成年の少女たるなり。…本邦工業の大半は此等可憐の工女に依て支持せらるものと謂ふも敢て過言にあらざるなり。然れば今之が衛生状態を検索するは単に工業経済の根本問題たるのみならず、実に亦人道上、人種衛生上の大問題なり」(平仮名化)と論じています。
 こうして、工場法は、当時の工場で通常の現象であった女工の深夜業の禁止を主要テーマの一つとし、それ故に法の制定・施行まで長い道のりを要したとみられます。

戦後労働法制に通じる意義

 ひるがえって、戦後の労働基準法をみますと、同法は、労働関係の民主化という戦後改革の潮流に乗り、しかも労働組合界の労働保護法制定の強い要求に後押しされ、新憲法(草案)の「労働条件の基準法定」の理念をも受けて、比較的短期間に制定され施行されました。工場法の長く困難な制定過程とは対照的な過程だったといえます。もちろん、労働基準法の制定過程が、工場法のそれと同様、社会改革の情熱に燃えた関係政府職員の精力的な努力に支えられたことは、特筆すべきです。
 しかしながら、労働条件の強行的な最低基準を法定し、行政監督によってこれを遵守させるという労働保護システムが、戦前の工場法によって限定的ではあれ樹立され、運用の経験を積んでいなかったならば、戦後の労働基準法が一気呵成に制定できたかは、一考を要するように思えます。そして、時々の労働関係の問題現象に立ち向かい、その克服に努めるという労働保護立法の使命が懸命に追求されたことも、工場法の現代に通じる一つの意義であると思われます。

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