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子どもの権利

福武 公子

 遅くなりましたが、子どもの出自を知る権利について、私の意見を述べたいと思います。

結論 ・・・ 個人を特定できる情報を含めて開示する。

理由
 「出自を知る権利」という場合、人種、髪の色、目の色、身長、体重などをしっても親を知ったことにはならない。これは出自を知る権利を否定することと同義である。「精子提供や卵子提供により出生した子である」と伝えることと同じ程度の意味しかない。自己の出自に疑問を持った子に「精子提供や卵子提供により出生した子である」であると知らせることは必要だが、そこでとまるのは知らせないのと同じである。

 昭和48年に菊田医師事件が起きたが、同医師は「実子特例法」の制定を求めていた。子どもを産んだ夫婦と育てる夫婦の間の養子縁組ではなく、初めから育てる夫婦の実子にしようということであった。「わらのうえからの養子」というやり方がそれまで用いられていたが、それと同様に戸籍に虚偽を記載することをもとめたのである。このような実子特例法をつくらずに、特別養子制度をつくったのは、戸籍には虚偽を記載できないと言う理由が大きかったと思う。その上で、子どもの利益と育てる親の利益のために実親との関係を断絶する方法をとったと思う。
 当時は、現在ほど「子どもの権利」は主張されていなかったが、結果としては、子どもは実親を知ろうと思えば知りうる方法がとられたと考えられる。

 精子や卵子の提供を受けて妻が出産することと、妻または夫の遺伝子を引き継ぐ生まれたばかりの赤ちゃんを育てることとのあいだにどの程度の違いがあるのかを考える必要がある。子どもにとってそれほどの違いはないのではないか。

 精子や卵子の提供をうけて子どもを産むことは、医療とか不妊治療とかとは全く別の次元の問題だと思う。つまり、医療の問題ではなくて、「社会的な制度の問題」である。AIDについて現実が先行してきたからと言って、社会的に新しい制度をつくる際にそれとつじつまをあわせる必要はないと思う。子どもの出自を知る権利といっても、今後このような方法で子どもをうむ場合の問題だから、現に生まれている子供にまで適用することではない。

 遺伝情報が乱れ飛ぶ時代に、戸籍上の親子であることに疑問をもつ子は、簡単にDNA鑑定で結果をだせるのだから、子どもの「遺伝上の親はだれだ」という疑問がでたときに、その疑問に答えられない社会制度を人為的に作ることは避けるべきだと思う。実子であるという戸籍の記載が虚偽だと言うことを知って、実親がわからないという方が子どもにとっては、「闇をつくる」ことにならないか。

 日本人に戸籍を大事にしたいという気持ちはよくわかる。実際に、夫が離婚に応じなくて別居している妻に子どもが生まれたときに、その子の出生届けをだすかどうかもめるケースを散見する。夫は戸籍を「汚したくない」から離婚届けに判をおすが、嫡出否認手続きまでをしないから妻が親子関係不存在確認の裁判をやって、それから出生届けをだしている。これは戸籍が夫婦単位だから問題になるのであって、個人単位となれば、もう少し、考え方もかわってくるようにも思われる。
 日本の戸籍制度は、精緻すぎて、血縁主義を支えすぎているように思われる。


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