インタビュー

 
米田功さん

「ケガのリハビリ中は、こころと向き合う時間。
同じ悩みを持つ選手から、こころの元気をもらいました」

バレーボール選手
栗原 恵 さん

バレーボールを始めたきっかけ
Q1:
中学・高校生の頃からバレー選手として素晴らしい戦績を残されていますが、バレーボールを始めたきっかけと、バレーボールの選手としてやっていこうとこころに決めたときのことについてうかがいたいのですが。
A:
両親の影響で、小学校4年生からバレーボールを始めました。
バレーボールがうまくなりたいと、中学2年のときに生まれ育った島を離れ、 他県にあるバレーの名門中学に転校する話が持ち上がりました。

毎日、家族で話し合いました。
「私はバレーボールがしたい ! でも、家族や気心の知れた島の友達と離れてひとり暮らしができるんだろうか」と思うと不安で泣いてばかりいましたね。

そんなある日、父親からは「そんなに泣くくらいなら、転校なんてしないほうがいい ! 」と言われました。
そして母親からは、「転校しても後悔するし、転校しなくても後悔するというのなら、どちらの後悔に納得がいくのか、自分で決めなさい」と言われました。
この母親の言葉で「同じ後悔するなら、チャレンジしてからがいいのかな」と、バレーボールの選手としてやっていこうと決めたのです。
ひとり暮しの中学生の頃
Q2:
中学2年生で転校してのひとり暮らしは、相当なストレスだったと思いますが、学校生活はどんなふうに送っていましたか?
A:
中学の近くにマンションを借り、友人の家族にお世話になりながらの学校生活が始まりました。
これまで助けてくれた両親や相談に乗ってくれた兄がいない生活ですから、それは大変でした。

その上、転校先の中学のバレーボールのレベルが想像以上に高くて、ついていくのに必死でした。
バレーボールがしたくて自分で望んだ転校だったのに、監督は「勝つバレー」を目指していたので、バレーボールが楽しいなんて思えなくなって……。

あの頃の私は、笑うことを忘れて無表情になっていたと思います。バレーボール選手としてやっていくには、「バレーが好き ! というだけでは続けていけないんだ」ということを、中学生のときに初めて強く感じたのを覚えています。

そんなつらい練習にも耐えられたのは、友達がいたからだと思います。
プライベートではつらい気持ちをほぐしてもらうなど、友達にずいぶんと助けてもらいましたね。
家には絶対に帰らない !
Q3:
つらくて家に帰りたい ! と思ったことはありませんでしたか。
A:
米田功さん それはもう、ありましたね。母親からは、「いつ家に帰ってきてもいいからね」と言われていましたし……。

でも、そう言われると「家には絶対に帰らないぞ ! 」という気持ちになって、バレーボールを続けていました。

私って、負けず嫌いの性格なんです。自分の中でこうと決めたらなかなか曲げない、がんこな部分が頑張らせたんだと思います。
コンプレックスのかたまりだった中学時代
Q4:
中高生の頃は、どんなことで悩んだりしていましたか?
A:
中学生のときと高校生のときでは、悩んでいたことが違いましたね。中学生の頃は、他の人はバレーボールがとても上手に見えて、自分はコンプレックスのかたまりでした。というよりも、バレーボール部にはほんとに上手な人ばかりで、他人がうらやましくてしかたなかった。それに比べて「自分はなぜできないんだろう」。そればっかり考えていましたね。

できない自分がとにかく大キライ。でも、そんな自分のことを認めてあげられるようになりたい。自分が好きになれるように頑張りたい !

あの人はどうしてうまくなったんだろうと考えながら、やっていたような気がします。後になってみると、できない自分を何とかしたい、克服したいと思う気持ちがモチベーションになって、バレーボールを続けられたんですね、きっと。
プレッシャーに押しつぶされそうだった高校時代
Q5:
高校では、日本一を目指してバレーボールをしていた栗原さんですが、相当なプレッシャーの中で生活していたのではありませんか?
A:
高校1年生のときからレギュラーとなり、先輩と一緒に試合に出るようになりました。

高校2年のときまでに4冠を獲得して、いよいよ5冠目のタイトルがかかった試合の最中のことです。
ストレスから、コート内で体がけいれんして動けなくなってしまったんです。

結局、自分のせいで試合に負けてしまったことが、その後ずっとトラウマになっていました。
いま思い出 しても、つらい体験ですね。

自分からこの話ができるようになったのは、つい最近になってからなんですよ。
何とか話せるようになった今は、失敗した自分を受け入れられるようになったということですね。
母親の手紙をこころの支えに
Q6:
そんなつらい気持ちを、わかってくれている人はいましたか?
A:
やはり家族ですね。私の場合は中学2年生のときから家族と離れて暮らしてきましたから、実家に帰ったときに両親や3歳上の兄に相談したりしていましたね。

家族に話すと、気持ちが安らぎます。
でも、家族に電話できるのは1日5分間というバレーボール部の規則があったので、母親はよく手紙を書いてくれました。
「メグは頑張ってるんだから、これ以上頑張りすぎなくていいからね」って書いてあったんです。

練習することが不安で仕方なくなるくらい、大きなプレッシャーに押しつぶされそうな日々でしたから、母親の手紙を読んでは練習に望みました。

全文をソラで言えるくらい何度も読み返しましたね。
そんな母親の手紙が、くじけそうな私を支えてくれていたと思います。
家族は何も言わなくても気持ちを悟ってくれる大事なこころのよりどころだと思います。
近くにいてくれるだけで安心できる存在です。

友達から「両親がうざい ! 」なんて聞かされると、
「なんてぜいたくなことを言っているんだろう。もったいないことをしているな」と思います。
家族と離れて暮らしていたから、家族の大切さが余計わかるのかもしれませんね。
自分のこころと闘う日々
Q7:
社会人となり、オリンピックやワールドカップ、Vリーグなどの代表メンバーとして出場するようになってからは、どんなふうに乗り切っていったのですか。
A:
社会人としての責任が出るので、自分を制御できるようになることが大事になりますね。
怠けようと思えばいくらでも怠けられるし、練習していても、自分で手加減すればいくらでもぬくことができますよね。
ライバルに勝ちたいというよりは、自分をどこまで制御できるか、まさに自分のこころとの闘いだと思います。

プレイしていれば、スパイクに失敗してもディフェンスだったりサーブだったりで、チームの勝利に貢献できます。
でも、ケガをしているときは自分と向き合う時間が長くなりますから、凹みますよね。
同じ悩みを持つ選手から教えられたこと
Q8:
ケガで大事な試合に出場できないときには、自分のこころとどのような向きあい方をしていますか。
A:
ケガをしている間は自分自身と会話する時間が長くなるので、深刻に悩んでしまうほうかもしれません。
悩むときはとことん悩む方です。
自分のことを友人に話すことは苦手なんですが、よく相談は受けます。
自分ではどうしようもなくなったときには、母親に話を聞いてもらいます。
つらい気持ちをただ聞いてもらうだけで気持ちが楽になるというか…。

でも、今回は同じケガをしている他の競技選手といっしょにリハビリをして、たくさんのことに気づかされました。
自分以上に重いケガをしている選手でも「絶対復帰するぞ ! 」と思って、あきらめずにリハビリしているんです。
復帰したいという気持ちをもつことが大事だということを教えられましたね。

そして、マイナー競技の選手からは「バレーボール選手がうらやましい」と言われ、自分はほんとに恵まれているなと思いました。
自分を支えてくれる人がたくさんいることに、感謝しなければならないって……。
リハビリで同じ悩みをもつ人の話を聞けたことは、こころのメンテナンスをするいい機会になったと思っています。
友達や先輩の話に耳を傾けてみよう
Q9:
こころの悩みを抱えている中学生や高校生に対して、アドバイスをお願いします。
A:
中高生の頃はいろんな種類の悩みがあると思いますが、自分が信頼できると思う人に話してみるのがよいと思います。
でも、私みたいに自分のことを表現するのが苦手な人は、まず友達や先輩や両親とおしゃべりをして、みんなの話に耳を傾けてみるだけでも、解決の糸口がつかめることもあると思うんです。  

私の場合、バレー部の友達とずっと一緒に生活していたので、悩みを抱えていると「いつもと違うな」って、お互いに感覚でわかるんです。
そんなときは相手を察して、アドバイスをしたり、さりげなく接したり…。
つらいときに友達や母親からさりげなく接してもらったことが、うれしかったですね。
それから、同じ悩みをもつ人から話を聞いてみるのも、とてもいいことですよね。
つり輪床運動跳馬
パイオニアレッドウィングスのエーススパイカーとして活躍する栗原恵さん。
米田功さん
サイン
●プロフィール
栗原恵(くりはら・めぐみ)さん

1984年生まれ。広島県江田島市能美島に生まれ、両親の影響で小学校4年生のときからバレーボールを始める。

中学2年のとき、バレーボールがうまくなりたいと兵庫県姫路市の中学に転校。
山口県の高校に進学し、1年生のときにインターハイ、国体、春高(全国高等学校バレーボール選抜優勝大会)、2年生のインターハイの4冠を達成。
高校3年生のとき全日本の代表メンバーとして2004年アテネオリンピックに出場(5位入賞)、2008年北京オリンピック出場(5位入賞)し、日本のエーススパイカーとして活躍。

2004 年からパイオニアレッドウィングスに所属。