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第1回ハンセン病問題に関するシンポジウム

第1回 ハンセン病問題に関するシンポジウム

平成17年3月14日(月) 13:30 ― 17:15
都道府県会館 101大会議室(1階)

1.主催者挨拶  尾辻厚生労働大臣

2.基調講演
 「最先端のハンセン病医学」  長尾榮治 国立療養所大島青松園長
 「これまでの国の政策を含む歴史について」 牧野正直 国立療養所邑久光明園長
 「患者・元患者の視点から」 曽我野一美 全国ハンセン病療養所入所者協議会会長

3.パネルディスカッション
司会: 金平輝子 ハンセン病問題に関する検証会議座長
パネリスト: 関山昌人 厚生労働省健康局疾病対策課長
 山野幸成 法務省人権擁護局人権啓発課長
 鈴木康裕 栃木県保健福祉部長(代理 小林 勲)
 平沢保治 多磨全生園自治会会長
 野原  晃 全日本中学校長会理事・埼玉県中学校長会会長
 小野友道 国立大学法人熊本大学理事・副学長
 小原健史 全国旅館生活衛生同業組合連合会会長
 江刺正嘉 毎日新聞社社会部編集委員


○司会
 それではお待たせいたしました。ただいまより第1回ハンセン病問題に関するシンポジウムを開催いたします。今回のシンポジウムは、ハンセン病に対する偏見差別を解消し、ハンセン病患者、元患者の名誉回復を図るため、本日の御来場の皆々様方をはじめ、広く日本全国の皆様方に対しまして、ハンセン病問題に対する正しい知識の普及に努めることを目的として開催しております。
 本日は「最先端のハンセン病医学」としまして、長尾榮治国立療養所大島青松園園長の方から、また「これまでの国の政策を含む歴史について」につきまして、牧野正直国立療養所邑久光明園園長、患者、元患者の代表としまして、曽我野一美全国ハンセン病療養所入所者協議会会長、以上3名の方々に基調講演を行っていただいた後、パネルディスカッションを予定しております。
 今回お集まりのパネリストの方々から各分野におけます普及啓発の取り組みなどを御紹介いただきながら、自由に御議論いただくことを予定しております。
 また本日会場にお越しの皆様との意見交換も用意しております。その他、御来場の際にお配りしましたアンケートにつきましては、ご記入の上お帰りの際に出口にて回収させていただきますので、御協力をお願いいたします。
 それでは開会に先立ちまして、主催者を代表しまして尾辻厚生労働大臣からあいさつをお願いします。

○尾辻厚生労働大臣
 第1回ハンセン病問題に関するシンポジウム開催にあたりまして一言ごあいさつ申し上げます。厚生労働大臣の尾辻秀久でございます。
 熊本地裁判決から早4年が経とうとしておりますが、厚生労働省としましては、その間、ハンセン病問題の対策として、啓発普及事業等を充実させてきたところです。
 しかし、昨年度(平成15年11月)に熊本県のホテルにおいて、ハンセン病療養所入所者が宿泊を拒否された事が起きました。そして、更に追い打ちを掛けるように、ハンセン病療養所入所者に対しまして、一部の国民の方々から心ない誹謗中傷が寄せられたと聞いています。
 そして、こうした事柄が2度と起きないよう、これまでの普及啓発活動を一層強化するために、今回のシンポジウムを開催することとなったものです。
 今回のシンポジウムは、国主催のハンセン病の普及啓発シンポジウムとしては初めてのものであり、また、厚生労働省のみならず、法務省、文部科学省とも十分連携をして実施するものであります。
 ハンセン病問題を解決していくためには、私どものこうした取組はもとより、国民一人一人がこの問題を真剣に受け止め、過去の歴史に目を向け、将来に向けて努力をしていくことが必要です。
 今回のハンセン病問題に関するシンポジウムが、国民の皆様方一人一人にとって、ハンセン病に対する偏見・差別を解消し、ハンセン病患者・元患者の方々の名誉回復が図られ、さらには今後のハンセン病問題対策の推進に大いに役立つことを期待しまして、私の挨拶とさせていただきます。今日もどうぞよろしくお願いを申し上げます。(拍手)

○司会
 ありがとうございました。それでは基調講演を始めさせていただきます。まずお一人目は、長尾榮治国立療養所大島青松園長に「最先端のハンセン病医学」につきまして講演をお願いいたします。長尾様よろしくお願いします。

○長尾
 みなさんこんにちは。国立療養所大島青松園の園長をしております長尾と申します。私の方からハンセン病の医学的な部分について御説明をさせていただきます。
 私は瀬戸内海にあります国立療養所大島青松園の基本科と申しまして、ハンセン病の基本的な治療の担当をしておりますが、現在私の園では入所者の方たちは全員治療が終了しておりまして、私は現在失業中なのでこのような場所に来られておるのかなと思っております。日本では患者さん・治療中の人は20名前後ぐらいではないかと思っております。
 このハンセン病でございますが、平成8年に「らい予防法」が廃止をされ、そのときまで呼んでおりました「らい」という言葉、それが多くの患者さん、は家族の方に多大な苦しみを与え、また根強い偏見が続いたということがありまして、半ば差別用語になっていることがありましたので、その後は「らい」という言葉を使わないと申し合わせをいたしました。そして、医学用語もできるだけ「らい」という言葉は使用しないと決めております。
 ハンセン病の本態は、それまで遺伝する病気であるとか、血の病気であると誤解をされ間違われていた。そういう病気に対して1873年にノルウェーのアルマウェル・ハンセン氏が「この病気は細菌の感染症である」と解明をいたしました。その名前をつけて「ハンセン病」と呼んでおります。英語におきましても、Hansen's diseaseというように、やはり同じような呼び方をしております。しかし、この原因細菌の名前につきましては、通常は人の名前をつけませんので、医学的用語であります「らい菌」と呼んでおります。この病気につきまして、原因菌のらい菌の性格と関連してお話をさせていただけたらと思います。
 現在らい菌のDNA全体の構造、鎖の骨格が全部わかっております。それを見ますと、結核菌なんかと比べて非常に短くて、しかもいろいろな機能、生きていく上のいろいろな機能が不完全な、人間等の細胞の中ぐらいでしか生きていけない菌だということがわかっております。そのゆえでしょうか、まだ現在も人工培養ができない状態でございます。 そういう弱い菌ですので、人から人へうつっていくことは非常に難しい、なかなか人から人へうつっていくことができない菌であろうと考えております。もしこの菌が体の中に入ってくると、通常どうなるかといいますと、私たちの体の中には免疫能、つまりいろいろな細菌あるいはばい菌、あるいはごみ等が体の中に入ってきたときに、それを無毒化したり中和をしたり殺したりする力、あるいはがん細胞を殺すような力、それを免疫機能と一般に呼んでおりますが、その免疫機能が通常ございますので、この菌が体の中に入ってきたときにはそのまま即座に壊して取り除いてしまう。これが、菌が入ってきても病気にならないほとんどの人の状態でございます。
 ところが、何かのことで体の中のらい菌に対する免疫機能が欠けている場合、菌がどんどん増えてくることになります。皮膚は菌が増えてきたので非常に厚くなって、いろいろな所がふくれてくることが起こってまいります。
 この免疫機能が非常に弱い、少ない場合にはどうなるかというと、この菌との闘いが続くことになります。この菌との闘いは、どこで行われるかということですがあるいは末梢神経の中でそれが行われます。喩えを持って説明しますと、この部屋の中が細胞で、私が免疫機能として皆さん方がらい菌といたしますと、皆さんがこのように座っているというのは私に全く免疫機能に力がない状態ということになるわけでございますが、もし私の力があれば、皆さん方との闘いが開始されます。そうしますと、この部屋はむちゃくちゃな状態になってしまう。そういう状態が体の中で起こってくることになります。つまりハンセン病というのは、体の方の免疫機能が全く無くて菌が増えるに任せているか、あるいは菌との闘いが続いている、そういう状態を病気の状態ということになります。
 もう1つの特徴は、抗酸菌と申しまして、病原菌では結核菌と同じ仲間になります。結核もかつては不治の病と言われてなかなか治せなかった病気でございますが、この結核を治すことができるようになってハンセン病も治すことができるようになりました。現在WHOが行っております、これは1981年からこのような提唱がされて、それから何度も方法を変えてきたのですが、現在の内容を少し御紹介させていただきます。
 WHOの治療の仕方は、治療方法によって病気の型・種類を分けております。病気の型と言うよりも、病人の方の分類をしております。今まで治療は臨床症状がなくなって治療が終了ということでございますが、WHOは一定の期間お薬を飲ませれば後は自然に何もしなくても菌が壊れ、そして菌が体から排除されて治っていくだろうという考えのもとに一定期間だけお薬を飲ませるというやり方をしております。
 まずその1つは、こういうお薬を飲ませます。これは結核で使いますリファンピシン、オフロキサシン、ミノサイクリンの3種類の薬でございます。この薬を飲ませる患者は、皮膚に1個だけしか発疹がない場合、病期で言えばごく初期になりますけれども、その方にはこのお薬を飲ませます。このお薬を一回飲んでいただいて治療は終了になります。このタイプの患者は、治療しなかった場合どうなるかと言いますと、治療しなくても5人に4人、あるいは4人に3人は自然に治ってしまうタイプでもございます。日本ではこういうタイプの方は非常に少のうございます。
 もう1つのタイプは、皮膚に4つ以内しか発疹がない場合に飲ませる薬でございます。緑が大人用で青色が子供用になります。治療を開始するときにここから上のリファンピシンと、DDSの飲み薬でありますダブソンを病院で飲んでもらいます。なぜかというと、副作用が出ること等がございますので、その管理の意味も含めて病院で飲んでいただく。ここから下はお家に持ち帰ってもらいます。この裏に2から28までの番号が打ってあります。これは2日目から28日目までという意味で、持って帰っていただいて番号の日にその薬を飲むことになります。1日に白い玉一錠飲むだけのことです。当然隔離も必要ありませんし入院する必要もない。また、必ずしも家で飲んでいないといけないというわけではなくて、旅行先であろうがどこであろうが、これを1日1回飲めばいいということになります。これは約1ヶ月分ですが、これを6回繰り返します。つまり大体6ヶ月間この薬を飲んでいただいて、治療は終了になります。このタイプの患者さんは日本では2割ぐらいでございます。インドではかつてこのタイプの方が8割ほどおられました。
 このタイプの人は治療しなかったらどうなるかというと、治療しなくてもだいたい3人に1人は自然に治るタイプでもございます。
 それから最後のタイプですが、皮膚にたくさん出ている場合、こちらが大人用でこちらが子供用になりますけれども、この薬をやはり先ほどと同じように、ここから上3種類の薬、リファンピシンとクロファジミンとそれからDDSを病院で飲んでもらいます。そしてここから下は持って帰っていただく。同じようにナンバーを打っておりますが、この方は白い玉と茶色い玉を1日に1回飲むだけということになります。WHOは、この治療も6回繰り返せばいいだろうと言っておりましたが、1年間やっている国が多いようです。日本ではだいたい8割の患者さんがこのタイプでございます。反対にインドでは2割ぐらいでした。
 このような治療、これはパックにしているものですが、開発途上国等で病院の数が少ない、あるいは患者さんが医療機関にかかるのが困難である場合に使っておりまして、日本では使っておりません。皆さんにお見せいたしますのでどうぞ後ろへ回していただいたらと思います。
 らい菌の3番目の性格でございますが、この菌には毒がありません。無毒でございます。体の中で最も菌が増えた場合にはどのくらい増えるかと申しますと、皮膚1グラム、1グラムというと私の小指の爪の半分から先ぐらいかと思いますが、その中に多いときは1兆個近くの菌が見つかります。非常にたくさんの菌が増える患者さんがいるわけですが、その患者さんに「どうですか」と伺うと、「少し体がだるい」という程度ぐらいしか訴えがありません。すなわち、このらい菌というのは毒がない。O−157のように体に100万個近く増えれば人が死ぬことがある菌と比べますと、全く異なる、毒のない菌だと考えられております。したがいまして、この菌で患者さんが亡くなることはないということでございます。
 それから次に、この菌が活動しやすい、至適温度と言っておりますが、温度がどのくらいかというと、摂氏30℃から33℃ぐらいの間と言われております。私たちの身体は脇の下で測りますと標準的には36度5分ですが、口の中ですと36度7〜8分、直腸肛門等で測りますと37度1〜2分と言われております。すなわち、私たちの腹とか胸の内臓というのは37℃以上の環境になります。したがいまして、らい菌は内臓の中ではとてもじゃないけど増えられない、そういう環境にあるということが言えるかと思います。 それでは、身体で30℃から33℃ぐらいというとどこかというと、皮膚の特に手足、腕、足、顔、耳たぶというところが低いところになります。それと眼の、コンタクトレンズをあてます角膜、ここは光を通すために血管がありません。しかも外気に接しておりますので温度が低い。ここにらい菌が入ってきて増えることになります。そのためにこのハンセン病は、皮膚・末梢神経だけではなくて、眼の視力を障害してしまうおそれがあります。私の勤務しております施設で2割近い方が視力障害の一、二級を持っているという状況に在ります。この視力障害は単に角膜のところに菌が入ってきたということではなくて、顔面の神経がおかされるためにまばたきができないので、眼を痛めてしまうということが大きな原因になっております。
 5番目のらい菌の特徴でございますが、らい菌は末梢神経の中に入ってまいります。末梢神経というのは、イメージとしては電線を思い浮かべていただいたらいいわけですが、電線は筒の中に線が何十本、何百本と入っているわけですが、同じように末梢神経には神経鞘という筒の中に神経が何千本あるいは何万本と通っております。神経はシュワン細胞という細胞に囲まれているわけですが、この中にらい菌が入ってくる。そして先ほど最初に申しましたように、菌が増えていきますと、内の神経は首を絞められたような状態になって、神経の働きが悪くなってくる。また菌との闘いがあれば、巻き添えを食って神経も壊されてしまうことが起こってまいります。
 末梢神経がおかされますとどのようになるかということですが、末梢神経は3つの神経がある。感覚神経、運動神経、自律神経という神経がございます。感覚神経は、触ったとか痛いとか、あるいは熱いとか冷たいというようなことがわかる神経でございますが、これは私たちにとって非常に大切な働きで、自らの危険を感じそれを回避する、つまり自分を守っていく大切な働きをするわけです。これがおかされてしまうといろいろな問題が出てまいります。
 例をお話いたしますと、ある入所者が朝外来の方にまいりまして、診ましたら片方の足がとても腫れて真っ赤になっている。「どうしたのですか」と聞きますと、「今朝足が腫れた」。「いつから変になったのですか」と問うてもよくわからない、いろいろと調べましたら足の裏にガラスの破片が入っていた。私たちですとガラスの破片を踏んだ途端にもう動けなくなる、またそこで解りますが、感覚神経がおかされますと、解らず、化膿して膿が出るような状態まで放置されてしまうことが起こってまいります。
 また、ある女性の方が手のひらと指の腹のところに大きな水ぶくれを作って来られた。昨夜寝るまではなかったけれども朝このようになっていたということでした。それで、推察されるのは、「食事の後スポンジに洗剤をつけて食器を洗って寝た。湯気が出ていたからお湯だとは思うけど、どうも非常に熱いお湯を使って食器を洗ってしまった、多分そのためにやけどをしたのであろう」と、推測でございますが、そのようなことが起こってまいります。
 運動神経がおかされますと、例えば手ですと、筋肉がおかされますのでこういう変化(猿手)が起こってくる。つまんだりするということが難しくなる。ひどくなりますと手首を上げることが難しくなってまいります。足にそのようなことが起こりますと、正常な歩き方ができません。私たちは歩いて地面につくところはクッションを作っているわけですが、そうではない所も叩きつけてしまうことがあって、皮膚を壊したり、あるいは骨、関節を壊してしまったりすることが起こります。
 このように、末梢神経の能力が低下する、あるいは壊されてしまいますと、生活上大変な困難が伴ってまいります。先ほど申し上げましたように、らい菌は毒がありませんので人を殺すことはございませんけれども、末梢神経をおかしてしまうとその人の生活を奪ってしまいます。末梢神経がいったん壊されますと、残念ながら現在この破壊された神経を元に戻す技術というのはまだございません。したがいまして、できるだけ早く発見をし早く治療する、そしてこの病気の範囲が狭いあるいは浅いうちに治療することができれば、生活に支障をきたすことなく治癒することができると考えられております。
 残念ながら現在おられる入所者の方で、プロミンというほとんどの患者さんに有効であった薬、1943年にアメリカで報告をされ、そして日本には昭和二十二年、三年、四年という期間に多くの人を治療することができたわけですが、残念ながらそれまでに病気をしてしまった、発病時にはいい治療法がなかったという方が入所者の約半数おられますし、先ほどお見せしましたリファンピシンというお薬は、動物実験的な報告ではございますが、1日分飲みますと二、三日うちに身体内の菌が全部壊れてしまうようでございます。そういう非常に有効な薬ができ、1970年頃から使われ始めましたが、リファンピシン治療を最初から受けられなかった方が入所者の方の8割ぐらいおられるようでございます。
 皆さんにお回しいたしましたWHOのMDTと申します、いくつかの薬を組み合わせて飲んでいただく治療法を、病気になった最初から受けることができた人は1%に達するかどうかという状況が日本の患者さんの状況でございました。したがいまして、入所者の多くの方が末梢神経の障害を残しておられます。そういう意味で、生活には十分な注意と観察またサポートが必要な方々でございます。ハンセン病の治療というのは、単にらい菌を殺すためだけの基本治療だけではなくて、後遺症を残さないように治療していくことができてから、患者さんにとって満足できる治療になるのではないかと思っております。
 現在このハンセン病の治療は保険適用となりまして、一般の病院等で治療ができるような体制になっておりますし、私たちがインターネット等を通じましてその治療のサポートをする体制のためにホームページ等を開いております。昨年は日本において新しい患者さんは1名もまだ見つかっていないようでございますし、それから一昨年は1名だけというふうになりまして、日本においては公衆衛生的な対応をする必要のない病気になっておりますが、まだまだ世界におきましては約50万人が1年間で見つかっておる疾患でもございます。しかしながら、世界どこでもこの患者さんが見つかっているというわけではなくて、その新しい患者さんの約8割はインドの方でもございます。非常に偏った地域の方がまだその対策を必要としているということになります。
 このように、現在は日本においては、もう医師も今後ハンセン病の治療をすることはまずないと言っていいほどの状況になりましたが、ハンセン病にまつわるたくさんの誤解あるいは偏見、そしてその差別ということによりましてたくさんの悲劇が生まれてまいりました。非常に多くの教訓を残してまいりました。私の個人的な感想でございますが、このような中で自らの人権の獲得のためにずっと闘ってこられた尊敬すべき集団の人たちでもございますし、また、たくさんの苦労をしたからこそ、それだけ幸せになる権利を持っていらっしゃる方であると私は思っております。
 限られた時間でございますので非常に大まかな説明でございますが、ハンセン病の一部について御説明させていただきました。ありがとうございました。(拍手)

○司会
 長尾先生どうもありがとうございました。
 それでは次のお二人目でございますけれども、牧野正直国立療養所邑久光明園長に、これまでの国の政策を含む歴史につきまして講演をお願いいたします。牧野様よろしくお願いします。

○牧野
 皆さんこんにちは。国立療養所邑久光明園の牧野でございます。今長尾先生がとてもわかりやすく、しかも準備周到にハンセン病の話をされまして、私次に出てきて何をしゃべったらいいか本当に迷ってしまうのですが、ちょっと声の調子も悪いようで申し訳ありません。
 私は「これまでの国の政策を含む歴史について」、こういう演題をいただいたのでありますが、これは100年近い歴史があるわけでありますが、それを30分でしゃべれ、これは到底無理なことで、本当にきょうの午前中新幹線の中でも何をしゃべろうかと本当に迷いながら来たのでありますが、ここに立ってしまえば普段から考えていること以外何もしゃべれないな、そういう覚悟をいたしました。
 ハンセン病の歴史、今度の検証会議でも随分いろいろな資料が出てきて、いろいろな人がいろいろなことを研究され、私が出る幕ではないと重々知っておりますが、1994年に「日本らい学会」という学会で、「らい予防法見直し検討委員会」、こういうものを作りました。先ほどお話しされました長尾先生もその委員でして、私も委員でした。
 このときの座長が全生園の名誉園長である成田先生でした。成田先生はつい最近『歴史評論』の中で、「ハンセン病と隔離の歴史を問う」という題で非常にいい文章を書いておられるので、これを読んでいただくと本当に私が言いたいようなことが書いてあるなと思うのですけれども、それは後で見ていただくことにいたしまして、そういうような関係で私が歴史の話を少しさせていただきます。
 検証委員会の中でも先ほど申しましたが、江戸時代のことに関しましては鈴木則子さんという方がとてもいい論文を書いております。ぜひ検証委員会の文章を見ていただいて、江戸時代どうであったのか、こういうことも知っていただきたいと思います。長尾先生もおっしゃいましたが、江戸時代はこの病気は血の病気とか血縁の病気、家系内の病気、こういうふうに言われていたわけです。簡単に言いますと遺伝病だと思われておりました。ですから江戸時代ではかなり共存できていた、こういう気がいたします。
 しかし、明治時代になりますと、なぜかハンセン病の人たちが巷間にあふれ出てくる、こういう現象が起こっているのですね。これは江戸時代にもそういう現象があったのか、あったけど問題にならなかったのか、本当に明治時代になってそういう人たちが増えてきたのか、そういうところはまだはっきりいたしません。しかし、そういう人たちがたくさん出て社会の問題になったのは明治時代でございます。そういうことがわかっているわけですね。 明治20年代はそういう人たちを救済するためにヨーロッパ諸国、欧米諸国の宗教家たちが救済をしてくださっているわけであります。そういうようなハンセン病の人たちが放浪しはじめられますと、これは現代のホームレスでありますから、いろいろな問題を醸し出すわけですね。それで、こういう人たちをどうかしなければいけない、こういう機運が高まってまいりました。 そのときに光田健輔というドクターが出まして、日本のハンセン病を深く考えるようになっていくわけですね。ライフワークにしようとこういう決意をされるわけでありますが、私はその1994年にらい予防法見直し検討委員になったときに、このハンセン病の問題はこの明治40年にできる「癩予防ニ関スル件」、こういう「らい予防法」の源になる法律でありますが、この法律の成立が徹底的に悪い、こう思っていたのですね。これを誘導したのは光田健輔であるから、これが非常に悪いのだ、こういうふうに非常に単純に考えていました。しかもどういうふうに考えたかと申しますと、光田健輔、彼はハンセン病をよくわかっていましたから、あまり感染しないということをその当時もよく認識していたと思います。その彼が、これが隔離が必要な病気なのだ、こういうことを言い出したことに非常に問題があったのだ、こういうふうな立場で、このことをどうかして証明したいな、そんな気持ちでしばらく歴史なんかをかじったりしたのでありますが、どうもこの考え方には無理があるのですね。今ではなかなかそうは思えません。 いろいろな事情からこの「らい予防法」というのが成立してくるわけでありますが、その背景にはいろいろなことがあります。大きく言って2つのことがあるのではないかなと思います。1つは、先ほど長尾先生がおっしゃったように、ハンセンという人物が1873年にらい菌を発見いたしまして、感染症である、こういうような概念が徐々に日本に伝わってまいりました。おそらく明治30年ぐらいになりますとこれが確立してくるのではないかなと思います。光田健輔もそのころ回春病室というのを東京養育院の中に開いていくわけですね。それで隔離が必要である、こんな考え方を実践していくわけでありますが、そういう状況があるわけであります。 それともう1つ、明治時代というのは私いろいろ思ってきたのですが、富国強兵、こういう政策を日本政府は取るわけであります。その中に特に強兵というところに注目していただきたいのでありますが、日本の兵隊というのはですね、ヨーロッパの西欧の軍隊に比べましたらかなりひ弱に思えたのですね。一番はやはり体格ではないかと思うのです。そうですね、ゲルマンとかアングロサクソンなんていうのはものすごく大きな体をしているわけでありますから、それに対しまして東洋人というのは本当に貧弱に思えたのでしょう。 国もこういう体質論というのをすごく強調していくのです。健康である、健康な人、私たちハンセン病の療養所に行きますと、外から来る人たちをハンセン病の方々は「壮健さん」と言うのです。おそらく強壮であって健康であるから「壮健さん」とこういうふうに言うのではないかなと思うのですが、そういうような「壮健」、こういうようなものが非常に明治時代注目され要求されたのではないかなと思います。そんな中で、体質ということが非常に重要視されるわけですね。感染ということと体質ということは両方からまって、ハンセン病の問題に影響を与えてきたのではないかな、こんなふうに考えております。 そのような体質論というのが誰によって唱えられるかといいますと、まず有名なのは福沢諭吉ですね。この人たちが非常に体質論、こんなことを言ったかどうかわかりませんが「健康な精神は健康な肉体に宿る」、本当に壮強な壮健な肉体というのを求めるようなバックグラウンドがあります。 その中でハンセン病はどうかと言いますと、これは虚弱な体質になってしまうわけですね。そういう体質論の人たちから言いますと、このハンセン病の人たちは不必要なのであります。子孫を残すべきではない、こういうふうな考え方に陥ってくるわけであります。ですから今までかなり感染論ということがハンセン病に関しましても強く押し出されておりますが、体質ということもその当時随分考えられたのではないかな、そんな考えになってまいりました。 成田先生の文章にも書いてありますが、明治40年の「癩予防ニ関スル件」の成立には、1897年にドイツで開かれます第1回のらい国際会議、これが非常に強い影響を与えている、こういうふうに言っております。私はその会議の結論そのものではないかなと思います。もっと強く影響されていたのではないか、こんな気がいたしているのですが、その会議に日本から誰が出たかと申しますと、1人は、ちょっと名前を忘れてしまいました。名前はおきまして、そういう会議が開かれます。日本から2人参加いたします。1週間ぐらい会議があるわけですが、その中で非常にいろいろな知識を得てくるわけであります。そして日本に帰ってそのことを広めていくわけでありますが、ここでもう1人重要な人が出ます。これは山根正次という人ですね。これは山口県の医師会長をやったり、最終的には警察医になったりする方であります。その方、山根正次がやはり日本に帰ってきて、この方はその会議には出ておりませんが、やはり影響を与えるわけです。それからもう1人私は「らい予防法」の成立に非常に強く関連してくるのは北里柴三郎だと思います。おそらくこの3人が日本の「らい予防法」の学問的な基本を導いていったのではないかな、こういう感じになってまいりました。 こういう人たちの3人の共通の点はどういう点があるかというと、皆東大の医学部を出ているのです。それでその当時世界の超一流というか、最も進歩していたドイツ医学を学んでくるわけであります。ですから今私たちがアメリカに目を向けているのと同じように、その当時はドイツに皆目が向いていたわけであります。ドイツはどういうふうに考えていたかというと、やはりハンセン病に関して絶対隔離ということを主張しているのですね。しかも、絶滅ということを言っております。この考え方を「らい予防法」に持ってくるわけであります。 それから、学者だけで法律はできません。では官僚では誰がこの「らい予防法」に関与してきたかと申しますと、窪田静太郎、こういう人がおるわけでありますが、この方がやはり「らい予防法」の関与に強く関与しております。それからマスコミでは島田三郎、こういう人も関与しています。それからもう1人代議士で斉藤寿雄、これは群馬県が生んだお医者さんの代議士でありますが、こういう方々が「らい予防法」の設立に非常に関与しています。それともう1人、渋沢栄一ですね、それから大隈重信、こういったあたりがおそらく強い力を持って「らい予防法」の成立に関与していったのではないか、こういうふうに思います。 そういう状況の中で、とにかくドイツ医学の中からそういう強い影響を受けた、それはなぜわかるかと申しますと、もし感染論だけであれば、「らい予防法」の中、「癩予防ニ関スル件」の中に、感染論であればいずれ治る疾患でありますから退所規定というのが当然設けられるべきなのですね。ところが、この「らい予防法」の中では全く退所規定が考えられていない。審議されたこともありません。ということは、建前は感染論でありますが、このハンセン病の患者さんたちの持つ虚弱な体質の家系を絶やす、こういうことが大きな主眼だったのではないかな、こういうことがうかがわれるわけであります。 「らい予防法」は、当時の医学的常識から考えますと、やはりなんとなく仕方がなくできてしまったという感じがいたします。私も検証委員をやって、現代から見れば当然あの時代にあんな法律はよくないとわかるのでありますが、当時の医学的知識で果たしてそれがどうであったかということをいろいろ検索しますと、どうしても否定できない面も出てくるのですね。おそらくいたし方がなかったのではないかな、こう思います。 明治40年に「癩予防ニ関スル件」が成立されるのですけれども、そのときに日本は、もう皆さんが御存知のように日露戦争の後なのです。それで日本はかなり経済的に逼迫しているわけであります。法律は作るのであります。法律の中で隔離ということを規定しているわけですから、たくさんのベッド数が必要になってくるわけです。大体1,000ぐらいが必要だ。成田先生の論文の中にはその根拠がきっと書いてありますが1,100床ぐらいをめどに作ろう、こういうような法律になるわけでありますが、ところがそのお金すらない。なかなか実行できない。 そのときに、どういうことが起こるかと言いますと、ドイツからあの有名なロベルト・コッホ、彼が来るわけであります。そして日本で演説をするわけです。そしてその中で何を言ったかというと、コッホはハンセン病に関してもかなり見識があるのですね。論文をいくつか書いております。その中でどう言ったかといいますと、「日本はおそらく数万人の患者がいるだろう」、こういうふうな結論を下しているのですね。「せっかくらい予防法を作ったのだから、これをちゃんと施行しなければおそらく日本のハンセン病は悲惨な状況に行くだろう」、こういうことを言うわけですね。そういたしますと日本政府はあわてて明治42年に全国を5つのブロックに分けて、その1つ1つにハンセン病の療養所を作って、1909年、明治42年に開所するわけであります。 それで日本の政策が始まるわけでありますが、この1909年、これは私は非常に重要なポイントではなかったかなと思います。おそらく1907年の法律は若干いたし方なかったなという面もあるのですが、その2年後の1909年の施行に関しましては大変疑問といいますかを感ぜざるをえません。と言いますのは、1909年に世界ではハンセンが招集いたしましてベルゲンで第2回の国際らい会議、これが開かれているのですね。その中の結論といたしましてハンセン病の隔離というのが少しやはり言われているのですが、そのときにどういうふうに表現しているかというと、その人たちの収容されるコンディションはcan be voluntarily accepted、こういうふうに言っているのです。すなわち、収容される人たちの意志が尊重されるべきである、こういうような結論が既に第2回のベルゲンの会議で言われている。かなり人権に目が向いたような結論が出されているわけであります。ところが、おそらくこのベルゲンの会議には日本から誰も出席していないのではないかなと思います。 その後、日本はだんだん国際的な潮流からはずれていくのです。それが決定的に違ってくるのは、第3回のストラスブールの会議ではないかなと思います。この会議には光田健輔は出ております。そして世界の潮流の中では先ほど長尾先生のお話にありましたが、今で言う少菌型の患者さんたちはうつす可能性があるから隔離は必要ない、しかし多菌型の患者さんは隔離をしてもいい、こういうような結論に分かれてくるわけでありますが、日本はそこでもう間違って全員を絶対終生隔離にしてくる、こういうふうな流れになってきて、これからだんだん我が国の政策は間違った方向へ行ってしまったのではないかな。ですから私の考えでは、1909年、これが非常に大きなターニングポイントであったなと。それを決定づけてしまったのは1923年ではなかったかなと思います。 こういう話をしていますといくらやってもきりがないのでありますが、30分しかしゃべれないのでこのへんでお話を切らなくてはいけないのですが、こういう流れの中で、私ずっとハンセン病の歴史を見てまいりまして、ハンセン病の歴史を語るときに医療史として語って、例えば「癩予防ニ関スル件」が成立した明治40年とか、それが「旧らい予防法」に代わる昭和6年とか、それから昭和28年の「新らい予防法」とか、こういうような時点で物事をとらえて、いろいろなことを区分して第1期、第2期、第3期とか、そういうふうに分けて考える考え方をよくやっておられるのですけれども、私自身もそういう分け方をしていたのですけれども、これはどうもやはりまずいのではないか、こういう気になってまいりました。 こういう医療史というのは当然国の流れの中の歴史であります。やはり国の動きの中で私はハンセン病医療も翻弄されるわけですね。やはり戦争というのが大きな契機になっているのではないかなと私は考えるようになってまいりました。ですから第1回はやはり日露戦争、これが大きな影響を及ぼした。そして日露戦争の結果、日本という国がロシアに勝って一等国だ、こういう自負心が若干わいてくるわけですね。そのときに巷間にたくさんいるハンセン病の方々、これが邪魔になるわけです。「対面」というふうに言っておりますが、体面上非常に問題になってきた。こういうようなとらえ方ができるのではないかと思います。 それから第一次世界大戦、これも日本は、私たちの国は一応戦勝国に入るわけであります。本来でしたら第3回のストラスブールの会議は、10年後といいますと1919年とか18年、このころに当然開かれるべきなのですけれども、結局第一次世界大戦の影響だと思いますが、この会議が1923年、4年ぐらい遅れて開かれるようになるのですね。その中で日本は一応の戦勝国ですから、日本もかなり自分の意見が言えるようになってくるのではないかなと思います。そして、自分たちのハンセン病観というのが正しいのだと少しずつ思ってくるわけです。光田健輔を頂点においたピラミッドがもうすでにできつつあるわけです。だんだんそれを主張していって、それから1933年には国際連盟を脱退するわけです。だんだん世界の潮流から私たちは離れてもいいのだ、大丈夫なのだ、こういうような感じを日本のハンセン病学会は持ってくるのではないかな、こういうふうに思います。こういうふうに、やはり日本の国全体の流れの中で物事をとらえていく必要があるのではないか、こういうふうに思います。 時間が迫ってきたのですが、私は歴史の中でずっと見ていただいて非常に重要なことは、やはり「無らい県運動」というのが起こっているということが、ひとつこれから勉強される方はこのことを絶対見逃してほしくない、こういうふうに思います。これは昭和4年に愛知県から起こった、こういうのが通説になっておりますが、このへんはまだきちんとしたデータは見つかっておりません。しかし通説としては昭和4年愛知県から始まった、こういうふうに考えられているのですが、これは全国に広がっていくわけであります。その中でいろいろ悲しいことが起ってまいりました。こういうことはきちんと、ハンセン病の歴史の中でおさえてほしいことはたくさんあるのですけれども、これも1つだと思います。 それから私は、この検証委員会の中で、今日も来ておられますが谺さんという方が入所者の代表でこの検証会議に出られたのですが、遺伝病だという考え方が随分最後まで作用したのではないかハンセン病の。私もそのときにあまり谺さんを支援できなかったのですが、私はやはり谺さんの言うとおり、体質とか遺伝病である、こういうふうな考え方にずっと日本的にはとらわれてきているのではないか、感染論だけではいろいろなことが納得いかないのですね。例えば療養所の中で、この検証会議の中で見つけられたたくさんの胎児の問題とかこういう問題は、感染症の問題としてでは解釈できません。おそらく遺伝という概念が、体質という概念がいつまでも残ってきた証拠ではないかな、こういう気がいたしております。こういう問題も非常に重要ではないかなと思います。 歴史の話はこれくらいで、現在ハンセン病の療養所邑久光明園という、長尾先生の大島青松園とは対岸にいるわけでありますが、らい予防法見直し検討委員、これは厚生省の諮問委員に選ばれまして、今日もいらっしゃいます金平座長と一緒にこの委員を務めたわけであります。「らい予防法」を廃止しなさいという勧告をしたわけでありますが、事実「らい予防法」は廃止されました。 その当時、私たちの園には350人ぐらいの入所者、もうちょっといたでしょうかね、400人ぐらいいたでしょうか、全国では5,500人おられました。現在3,500人ぐらいであります。すなわち3,000人この9年間にいなくなっているのです。では3,000人が「らい予防法」が廃止されたから皆社会復帰できて今楽しい社会生活を送っておられるか、決してそうではないのです。このうち社会復帰できたのは少ないです。園によって、おそらく曽我野さんか誰かがおっしゃると思いますが、そのうちの2,000人以上の方は亡くなっているのです。光明園で見ましても、らい予防法廃止以降、退所できたのは5人ぐらいしかいません。正式な形で退所できたのは。これは本当に悲しいことなのですが。 ではなぜ現在私たちの園、もう「らい予防法」がなくて全員社会に戻ってもいいのに戻れないのか、これは第一は高齢化です。平均年齢が私たちの園で78.2歳であります。大変な年齢であります。それと、先ほど長尾先生がおっしゃったように、2割ぐらいがもう視力がない。重ねて手足の非常に強い変形がある、手足、顔の非常に強い変形を持っておられる。こういうような、しかも78才ですから、生活習慣病もどんどん押し寄せてくるわけであります。そういうような状態の方々を社会に戻す、これは大変至難の技であります。社会にはまだまだ偏見があります。そういうのをなかなか認めてもらえません。一昨年の11月ですか、黒川温泉事件、これは明らかになったものでありますが、私たちの園でもささいなことではまだまだたくさんあります。出られない、非常に強い偏見がある。 4番目は家族であります。家族がまだノーなのですね。といいますのは、家族も同じぐらい自分たちの家族にハンセン病の患者がいたことによって強い差別とか偏見を受けた、こういう経験を持っているわけです。そういたしますと、今こういう人たちが私たちの家族に戻ってきてもらうとこれは大変だ、こういう感覚があるのです。家族の方々がまだ認めてくれない。これも大変大きな問題であります。 最後にしかも最も、私たち療養所の所長として運営する者としての痛手は、やはり断種ですね。断種によって受け皿となるべき子供がないのです。いかに日本のハンセン病の政策は途中からいろいろな面で曲がってしまっておかしいものになってしまったかよくわかるのではないかなと思います。 私は長尾先生なんかと一生懸命、社会復帰というのが正しい、療養所にハンセン病の人たちを入れている限り、これは特殊な場所です。特殊な場所にハンセン病を押し込んでいる限り、いくら長尾先生がハンセン病はごくありふれた感染症だと皆さん方に説明いたしましても、日本に来てハンセン病の元患者さんはどこにいるのだ、「元患者」という言葉もよくないのですが、時間の短縮上使っちゃいますが、どこにいるか、やはり療養所なのですね。これは特殊な場所に入れている限り、ハンセン病は私は特殊性を免れないとすごく思います。ですから全員が社会復帰されて社会に戻って、自分たちの本当に幸せな生涯を送っていただきたい、こういうふうに思うのですが、これは先ほどから申しますように至難の業です。私たち、全療協の方々もきょういて、牧野園長は追い出すことばかり言うとか言われてしまうと大変ですけれども、もちろん残られた方に対して私たちは本当に誠心誠意この人たちのこれからが本当に幸せになるように守っていかなければいけない、こういうふうに思っておりますが、でも日本という国を考えたときは、やはりこういうものがあってはおかしいなと思います。 もう1つの考え方といたしまして、これも何年か前に私が少し言い出したことなのですが療養所の社会化ということです。もし特殊な場所でなくしてしまえば、療養所はもう特殊な場所でないのだから一般と一緒になれば、これはそういうような差別偏見の面から見ても解消されるのではないか、そういうような考え方、社会化ということが最近叫ばれておりますが、こういうこともなかなかいい方法、手段が見つかりません。現在私たち園とそれから入所者、それからいろいろな方々と新しい方策を考えているところですけれども、できれば本当にいい案ができて、このかつてハンセン病を病まれた方々が本当に幸せになれるような、そういう将来ができるようにしていきたいなと思っております。 なんとなく30分しゃべってしまいましたが、どうも乱暴な理論で話で大変申し訳ございませんが、お許し願いたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

○司会
 牧野園長、どうもありがとうございました。
 それでは基調講演の締めくくりとしまして、曽我野一美、全国ハンセン病療養所入所者協議会会長に患者・元患者を代表しまして講演をお願いいたします。曽我野会長よろしくお願いします。

○曽我野
 御紹介いただいた曽我野でございます。入所者の立場から健常者の皆さん方に訴えるという側面のお話をさせていただきたい、そう思います。
 日本が国としてハンセン病対策に手をつけたのは、1907年、明治の年号で申しますと40年のことであります。「癩予防ニ関スル件」という法律を制定して以来のことであります。その法律に基づいて2年後に全国に5ヶ所の公立の療養所が設立せられたわけであります。その5ヶ所というのは、青森それから東京、大阪、香川それに九州の熊本であります。大阪というのは昭和9年の室戸台風で壊滅的な被害を受けましたので、そこを廃所にして岡山の長島愛生園の隣の邑久光明園として再スタートしたわけであります。
 当時の背景として、時代の背景としてどういうことがあったかというふうに調査をしてみますと、2つのことが挙げられるというふうに言われておるわけであります。1つは、当時明治も30年代、40年代に入ってまいろうとする時期には、日本の国としては世界の列強と肩を並べる強い国に一日も早く仕上げていかなくてはならないという一番大きな前提で取り組んでいたというふうに言われておるわけでありますけれども、そのための一番大事なことは、強い軍隊を持たねばならないということだったわけであります。そこで徴兵制度をしいて、毎年日本国籍を持つ男子であって満20歳に達したならば、徴兵検査を受けなければならないという制度を作った。その徴兵検査を毎年行うときに、20歳の男子の中から多い年で600人ぐらいのハンセン病の新発患者が発見された。少ない年でも300人ぐらいが発見された。それが何年か続いたという時期があった、ということであります。これは放置できない、ハンセン病が日本を滅ぼしてしまうという「ハンセン病亡国論」というのまで出る、そういう時代があったということであります。放置するわけにはいかない、これが1つ。
 それから、もう1つの問題としては、当時30年代後半、40年代に入ろうとする時代になりますと、外国の政府から賓客が日本を訪れるという頻度が非常に高くなってきていた、というふうに言われておるわけであります。国と国との交渉が非常に多くなってくるので、その用件を持った人たちが日本を訪れる。その用件を済ませた後で日本の国の政府の役人が、特に東京を中心とした近くの神社仏閣あるいは名所旧跡だろうと思うのですがそこに案内をする。そうするといつ行ってもそこに10人とかあるいは15人とか、私どもの先輩たちがそこを訪れる人たちにものを乞うという形で生活をしているのにぶつかる。外国の賓客に一番見せたくないものがいつ行ってもそこに存在するということで、これは何とかしなければならないという問題が政府間の中に非常に強く出ていた、そういう背景があったというふうに伝えられておるわけであります。
 そういう問題がありましたために「癩予防ニ関スル件」という法律が制定せられたわけでございますけれども、今から98年の昔になるわけでございます。明治42年、法律ができてから5ヶ所の療養所が設立せられたわけでありますけれども、公立という形で作られた療養所はそれではどういう内容で経営がされていたかというと、今のように国立ではありませんでしたので、例えば大島青松園の場合を例に取ってみますと、中四国8県連合立だったというふうに言われておるわけであります。四国は高知、徳島、香川、愛媛なのでありますけれども、その上に中国の岡山、広島、山口、島根、この4つが加わりまして中四国8県連合立という形で経営がなされたというふうに伝えられておるわけであります。
 入所者に対する待遇というのは、あるいは処遇というのはどういう形で行われていたかというと、私は戦前のことはよく存じません。海軍に入っていたときに昭和18年に発病いたしましたので、戦後昭和22年に国立療養所に強制収容せられた立場でありますので戦前のことはよく知りませんけれども、詳しい古老の話を聞く、あるいは資料を見る、そういうことを通していろいろなことを知る機会があったわけでありますけれども、本当に人間扱いをしない、すごい形態で療養所が経営されていたというふうに伝えられておるわけであります。職員から入所者に話をしかける場合、「おい、こら」から始まるというふうな形でずっと私の今生活している大島青松園は経営がされていた。その話だけ聞いただけでもどういう内容であったかについてはあまり詳しく説明する必要のない、そういう内容をわかっていただけるのではないかというふうに思うのですけれども、人間扱いしなかった。
 例えば新入所患者が収容されてくるという場合に、私のところは高松から船で大島青松園まで、今の船の速力で言いますと約25分ぐらいかかるのでありますけれども、その船の本船に新入所者を乗っけなかった。ロープで伝馬船を引っ張ってその伝馬船に患者を乗っけて島まで連れてきた。波が静かなときだったらいいけれども、少し波のあるときにはものすごいしぶきをかぶる。本船に乗っていると部屋の中に入ったようにガラス張りの船室に入るわけですから全然そういうことはないわけでありますけれども、職員だけがこの本船に乗って、収容される新入所患者というのは伝馬船に乗っけられたものですから、島に着いたら潮、しぶきでびしょぬれになって上がってきた、そういうふうに伝えられておるわけでございます。本当にすごい経営がされていたというふうに言われておるわけでございます。
 例えば入所者同士でいさかいがあった、あるいは職員に対して少し失礼な、あるいは暴言を吐いたというふうなことで、何の調べもろくにしないで、当時3mぐらいのコンクリートの塀で囲んだ監禁室があったわけであります。中は全然見えない。中に入ってみないと見えないのですが、普通の人間が中をのぞくことはできない。中に家が建てられておりまして、こんな大きな格子で十文字に組んだ障子もガラスも何もなくて、その格子だけで冬でも夏でも、板の間でふとんをしいて生活をさせる監禁室というものがあったわけでありますけれども、鉄のドアがあっていつも錠がかかっていて、当時は「文官」と言ったのですが文官の人がこれを管理をするというふうな形であったわけでありますけれども、ちょっとしたことをするとすぐ監禁室に3日4日というふうに放り込まれた。なにも裁判のようなことをしないでそれを施設長の判断で行うことができた。秩序維持規定というのがありまして、それを適用したというふうな歴史が長いことあるわけであります。
 住宅にいたしましても今は私どもの要求、戦後の要求が非常に熾烈を極めまして、厚生省当局に何とかしてもらいたいというふうなことで要求をして今は個室になっておるわけでありますけれども、私が入所した昭和22年当時は24畳の大広間に13人か14人の雑魚寝生活でございまして、プライバシーも何もあったものじゃない。全然隠し事のきかないそういう部屋に放り込まれて、冬なんかになりますとこたつ1つがありまして、寒い、ほかに暖房も何もないものですからそのこたつに入ろうとする。そうするとその部屋に入っている人の中の一番古い人が一番いいところにどんと構えまして、あと十二、三人いるわけでありますけれども、1つのこたつですから足だけしか入れることができない。腰なんか入れることができない、遠慮しそういう暖を取るというふうな状況が長いこと続いたわけであります。古老の人たちの話を聞くだけでなくて、私もそういう体験をいたしてまいったわけであります。
 そこで私は昭和22年に入りましてから青年団活動をどんどんやりまして、そんなことをやったつけが来まして、26年から自治会の副会長をやらなければならないというふうな形になって、それが現在に続いてしまったわけで、今悔やんでもどうしようもないことだというふうなことを思っているわけでありますけれども、長い自治会活動に携わってまいっておるわけであります。何とかこういう事態を改善しなければいかんということで、昭和26年頃から全国13の国立療養所にそれぞれ自治会があるわけですから、県でばらばらにそれまではやっていたわけでありますけれども、何とかこれを全国組織に糾合しなければならない。そして厚生省に乗り込んでいって大臣にも直接会って要求ができる、担当の局長あるいは課長にもしょっちゅう行って要請ができる、そういう体制を作らなければどうしようもないということでいろいろ議論をいたしまして、非常に時間がかかったわけでありますけれども26年の2月にようやく全国の国立ハンセン病療養所入所者協議会、それを作り上げることができたわけであります。そしてその第1回の闘いというのが、「らい予防法」を何とか変えなければ俺たちの人権の確立というのはなんとしてもできないと、あの法律を何とかしない限り我々は人間扱いされないぞということで、「らい予防法」の改正要求の闘争を立ち上げたわけであります。 私は当時大島青松園の自治会の副会長をしておったものですから、東京の方に出向いてまいりまして中央交渉団で約3ヶ月半、参議院前の座り込みから最後の厚生大臣の部屋の前の座り込みまで3ヶ月半の闘いを、多磨全生園の協力を得てあそこを基地として使わせてもらって闘ったわけであります。私どもの要求が完全に通ったというふうな成果を上げることができなかったわけでありますけれども、しかし私どもの単独でもなんとか国に対してアピールする、私どもの要求を突きつけていくということをやろうと思えばできるのだという確信をあのときにつかむことできたのではないかというふうに思っているわけでありますし、今の私どもの闘いというのはそういうところから立ち上げることができてきたし、盛り上がりをすることができてきたというふうに思っておるわけでございます。そういう闘いがなければ私どもの今日の生活というのはあり得なかったというふうに思いますし、「らい予防法」の廃止問題あるいは熊本の予防法違憲国賠訴訟の問題等も起ってくる可能性はなかった。ああいう闘いがあって、そういう取り組みをずっと続けてきたからそこにまで続いていったのだというふうな評価をしなければならないというふうに思っておるわけであります。 長い患者運動の闘いの中でいろいろなことを考えましたけれども、日本のハンセン病対策ほど貧しい国はほかにはないのではないか。こんなにいろいろな問題を抱えたハンセン病対策、ハンセン病療養所の経営というのはほかの国にはないのではないか。なんとかひとつよその国の療養所を2つか3つくらい見て、そこでいいことをやっておればそれを持ち帰って厚生省交渉のときに材料として使う、そういうことができないかというふうなことをずっと考えていたわけでありますが、外部の友人たちともそういう話をいたしまして、そういった方々の御協力もいただいて、私は10数年前からあちこちの国の療養所を見てくる機会を与えられたわけであります。 一番最初に出向きましたのは、10数年前に東南アジアのタイに出向いてまいりまして、タイの療養所を見てまいりました。その後ハワイのモロカイ島の療養所、あるいはインドの療養所、中国の療養所、それから韓国の療養所、5つの国の療養所を見る機会を与えられたわけであります。そこで感じましたこと、日本と大体同じくらいの形で経営されているという療養所はハワイのモロカイ島の療養所、それからもう1つは韓国の小鹿島の療養所、この2つだということを自分の目で確かめてまいりました。 ハワイのモロカイ島というのは行かれた方も多いと思うのですけれども、台地でありまして、海からとんと立ち上がった台地の島なのですが、その片方に山がある。それがずっと続いていて、この台地からは山を越えられないという状況になっていて、その山を越えたときに、その下にかなりの広い敷地がある。そこにハワイの療養所が作られているのを私は見てきたわけでありますれども、本当にハンセン病を象徴するような島だと思いました。行ってみて、やはりこういうところでないと療養所は作れないのかということを思います。そしてその療養所もつぶさに見せていただいたわけでございますけれども、もう1つは韓国の小鹿島の療養所、船で5分か10分、10分までかからないで渡し船で渡ると小鹿島に着くわけでありますけれども、その小鹿島の中にほとんどハンセン病の療養所で使い切ってしまっているというところなのですけれども、そこの療養所を見てまいりました。 ハワイの療養所と小鹿島の療養所というのは、日本の療養所とそんなに変わらない、非常にうまく経営されているというふうに思います。ただしかし日本の方がもう少ししっかりした経営をしていただいておるというようなことを感じたわけでありますけれども、タイとか中国とかインドとかそういうところの療養所を見てみますと、例えばインドの療養所は、自分たちで山から木を切ってきて四本柱を立てて屋根をふいている。その屋根をふいている材料というのはやしの葉っぱを何重にして屋根をふいている。壁の部分もやしの葉っぱを二重ぐらいにして壁の部分を作っている。外から中を見ると、中が暗いものですから中の様子は見えないのですが、中に入って外を見ると人が歩いているのが丸見えになるような、そういうやしの葉っぱの壁であるわけであります。中は土間、そして生活している人たち自身がはだしで生活をしている。ですから人間の体の脂が、足の皮膚を通して土間に伝わるのでしょう、黒光りに光っているのを見てぞっとしたのですけれども、トイレはどこにあるのかと聞くと、裏側に穴を掘ってあって、そこで小さい用は足すということで、それで大きな用はどうするのですかと言うと、50mぐらい離れたところにこんなに高い草むらがあって、その草むらに出向いていってところどころで大きな用を足すというふうな説明をされております。本当に大変気の毒だというふうに思います。日本の状態からものすごく離れておりまして、同じ病を患う人を何とかできないのかなというふうな思いを大変強く持たされたわけであります。 建物も、中国にしましてもインドにしましてもタイにしましてもすごいところでございまして、できればよその国の療養所を見て、いいことをやっていればそれを持ち帰って材料として使いたいというふうな思いで出向いていったのですが、無惨に崩されてしまいました。とんでもない。日本よりも相当苦しんでおられるということを確認させられる、そういう思いであったわけであります。 いろいろなことを経験してまいりましたけれども、今までお話しいたしましたことを前提にして、現状について経過等を総括してみたいというふうに思うのですが、現在の私どもの生活、あるいは国の政策というのがどういう形で行われているかというふうな形のとらえ方について考えてみますと、最大の要因というのは、身勝手なことを言える立場ではありませんけれども、私ども入所者の懸命な要求行動、要請活動、それをあげることができるし、もう1つはやはりその要求活動とか要請行動というものをまともに受け止めてくれて実行に移してくれた国の実行力といいますか、そういうものが今日のハンセンの療養所というものを形作って経営がなされておるというふうに言わなければならない。私は外国の療養所を見るまではそこまで考えることができなかったわけでありますけれども、外国の療養所を見て、そこで大変な生活をしている人たちがおられるというのを実際この目で見てまいりまして、日本の療養所のありがたさというものを、まだまだいろいろな意味で私どもの要求を満たしてくれていない部分はあるにはあるのですけれども、よその国の療養所と比較をして考えてみますと天と地の違いがある、そのことを確認せざるを得なかったわけであります。本当にありがたいことだというふうに思って帰ってまいったわけであります。 そこで、最後の問題といたしまして、現在のハンセン病の状況という事柄について先ほどの2人の所長の方からお話がありましたので、私なんかから申し上げるまでもないことだというふうに思いますけれども、入所者の立場から見たハンセン病の現状というものについて少し触れておきたいと思うのであります。 私は昭和20年、海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練を受けているとき18歳で発病いたしましたからもう60年も昔の発病になるわけでございますけれども、海軍病院の隔離病棟に収容されました。鹿屋の海軍航空隊、鹿児島におりましたので霧島の海軍病院の隔離病棟に入れられまして、ろくなことではないなというふうに思ったのですが、案の定戦後高知に帰りまして検診を受けたところハンセン病ということになりまして、22年に大島青松園に収容せられたわけでありますけれども、入所しましたときに自然治癒をしているから一切治療をしなさんな、医者にこう言われたわけであります。 昭和20年に発病いたしまして22年、ですから1年半ぐらい経過をしておったわけでありますけれども、顔がものすごく発病当時はれあがりました。ものすごい痛みに襲われました。左手が肩のつけ根から指先まで、これまた顔と同時に痛みます。2ヶ月半激痛に悩まされてほとんど夜も眠れない、本当に苦しい思いをいたしました。その2ヶ月半が過ぎましてぴたっと止まって、それ以後何の変わりもないわけです。痛みも何も全然覚えなくて60年暮らしているわけでありますが、この痛みが取れたときに顔に神経系統をおかされた後遺症が残りまして、皆さん方のように非常に心地よい笑いをなさる、そういう神経を私は全部失ってしまいました。いつも怒ったような顔しかできない、そういう顔になってしまいました。左手は指、こう握って痛みに耐えていたら、痛みが取れたときには全然伸びなくなっていた。こんな右手と同じようなのが2ヶ月半でこうなってしまいました。 それ以来何も、痛みもかゆみもどこも何ともないわけです。ですから療養所に入ったときに自然治癒をしているから一切治療しなさんなと言われましたので、同時に今後治療はいらんからあんた帰ったらいいよというのがある意味では当たり前だろうと思ったのですけれども、ハンセン病というのはそうはいかない。治療しなくてもいいと言いながら、ハンセン病と名がつけば通常社会から追放するという予防法がありましたので、60年療養所でただ飯を食わざるを得なかったわけであります。ある意味ではありがたかったのかなというふうに思ったりなどもいたすわけでありますけれども、これも私の人生だというふうに今頃は達観することができる、そういう気持ちになってまいりました。58年療養所で生活をすることを余儀なくされてまいっておるわけでありますけれども、私と同じような立場で大島青松園で生活をしている者は相当数おられます。私と同じ立場の人がかなりおられる。全国では相当おられるのではないかというふうに思うわけであります。 ハンセン病に対する特効薬が開発されましたのは1943年、昭和18年、先ほど来お話があったとおりでございますが、大戦中のことでありますのでこれはその当時伝わってまいりませんで、戦後になって日本にも伝わってきたというふうに聞いておるわけでありますが、日本では東京大学薬学部の石館守三教授が昭和22年頃に開発に成功せられまして、それが昭和23年の1月から全国の国立ハンセン病療養所で用いられ始めたわけであります。私は昭和22年の12月に入所いたしましたので、そのプロミンという特効薬が23年の1月から使われ始めるのをずっと客観的に見てまいったわけであります。あんたは治療せんでええと言われたので客観的な立場でずっと眺めてきたわけですが、本当に驚くような特効があらわれました。 私の入ったときには、御存知ない皆さん方にこんなことを申し上げるのもどうかと思うのですが、薬効、特効のあった薬のことを話をするので申し上げなければならないと思うのですが、療養所に入りますと昭和22年当時、私の大島青松園では全身包帯まみれの人が相当おられたですね。22年ですからガーゼ、包帯の品不足がはなはだしいときです。戦後まだ1年半しか経っていないので、ガーゼ、包帯なんか品不足で往生していたときなのですが、その人たちが外科手当てをしてもらって全身にできた結節、それがつぶれて傷になっているから、それをガーゼ、包帯で巻かなければならないのですが、一回外科手当てをするとガーゼ、包帯がないものですから、1ヶ月ぐらい外科手当をしないでそのままいっているわけです。そうすると、下から膿が吹き出てきて黄色くなって固まっている。そういう人がたくさんおられた。本当に気の毒だと思ったのですが、そばに行くのが恐ろしかった。そーっと近くに行きますとにおいがして大変なことだったわけです。 そういう人たちが、私の方の入所者の立場で申しますと、ハンセン病には、2つ型があると、1つは乾性だもう1つは湿性だと。乾く性と湿った性と2つあるというふうに私ども入所者はそんな表現をするわけです。私は神経系統だけいかれるあれでありまして結節なんかができる立場ではない。乾性は「T型」という病系である。もう1つの湿性は「L型」、体の対象にずっとできものができる、それを「結節」というらしいのですが、それが時間が来ると膿をもってつぶれて外科になっちゃう。傷になっちゃう。だから包帯交換が必要になってくるわけなのですけれども、その人たちと2つあるわけですけれども、その湿性の人たちにものすごく特効がある。見ていて3ヶ月ぐらい、当時はプロミンというのは液体でありまして、今は錠剤になって服用しておりますけれども、当時は10ミリグラムずつを毎日おしりの肉の厚いところに注射で打っていたわけですが、3ヶ月ぐらい毎日それを打っていると、驚いたことに全身包帯まみれの人の包帯がどんどんどんどん取れていくのですね。すごい薬ができたのだなというふうに、私ども若い医者の方々と話してそれを眺めていた。半年すると包帯まみれの人が全身から半分ぐらい包帯が取れちゃった。1年すると包帯まみれの人は1人もいなくなっちゃった。すごい特効があるなというふうな驚きを覚えたのですが、それが昭和23年の正月から始まったわけです。 不治と言われたハンセン病が可治に転換が始まったというのが昭和23年の1月からだというふうに、私は自分の目で確認をさせられたわけであります。本当に驚いてそれをずっと見てきたわけであります。1年あるいは1年半すると、結節が出て包帯を巻いてという人は療養所の中に一人もいなくなった。あのときから療養所は変わったわけであります。ハンセン病は不治ではなくて可治という病に転換をした、そのことを皆さん方によく御理解をいただきたいというふうに思います。それは昭和23年から始まった、60年も前から始まったというふうに御理解をいただきたいというふうに思うわけであります。 しかし、ハンセン病に対する世の中の認識あるいはとらえ方というのは旧態依然としてあまり変わっていないというのが、残念ながら現状ではないかというふうに思うわけでございます。従前があまりにもひどかった。私のところなんかも高知の四万十川の河口のところでお遍路道になっておるわけでありますけれども、四国のお遍路さんの中に包帯まみれで歩けなくて、変な馬車を作って犬に引っ張らせてずっと回っておられたというふうな人がおられまして、子供時代によくそれを眺めて逃げ隠れをした、そんな恐ろしい思いを今でも持っておるわけでありますけれども、そういう時代の認識が今もやはり世の中に非常に大きく残っているというふうなことを否定できない、そう思うわけであります。 すぐれた特効薬の出現によりましてハンセン病は不治から可治に転換が始まって、それも60年近い昔からのことなのだということを御理解をいただきまして、正しく御理解をいただきたい、そう訴えまして、私のつたないお話を終わらせていただきます。 ありがとうございました。(拍手)

○司会
 曽我野会長どうもありがとうございました。
 以上3名の方々からなる基調講演、各分野におきます貴重なお話の数々、どうもありがとうございました。
 これで基調講演がとりあえず終了という形で、10分間の休憩時間に入るのでございますけれども、その前にちょっと係の者が資料追加で1枚ほど配布しますので、それを受け取った後休憩時間という形で入っていただければと思います。休憩時間をはさみまして今お手元の時計から10分という形で、3時20分過ぎあたりをめどにパネルディスカッションを始めさせていただきますので、お時間の前までにお座席にお戻りいただければ助かります。それでは休憩という形でよろしくお願いします。

○司会
 それではお時間となりましたので、パネルディスカッションを始めさせていただきます。パネルディスカッションの司会につきましては、金平輝子様にお願いいたします。
 金平様はハンセン病問題に関する検証会議の座長としまして、これまでハンセン病問題について深く携わられてこられました。それでは、金平様よろしくお願いします。

○金平
 今日のこのディスカッションの司会をさせていただきます金平輝子でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 ハンセン病の問題に関するシンポジウムというのが、厚生労働省、法務省も入っておりますが、こういう国によって開催されるというのは全く初めて。私は我が国にとって画期的なことだというふうに思っております。
 これまでハンセン病の問題が社会的な課題ではあっても、広く開かれた場で討議される、討論されるということはまだここ数年のことでありましたし、まして政府によってそのような場が持たれることはありませんでした。先ほどの基調講演では専門家の方たち、また患者・元患者の代表の方から、それぞれの立場から、社会に向けてハンセン病とは、またハンセン病の課題とはという問題提起と、それから歴史的な経過というものをお話していただきました。
 私はこのシンポジウムはハンセン病に関する問題を解決するというだけでなくて、その再発の防止に向けての行政並びに関係の機関、団体の取り組み、そしてまた今後の方向性についての意見を出していただこう、そういうふうに思っております。そしてそういう御意見をいただきながらハンセン病問題の社会的な解決、すなわち、差別、偏見のない社会の創造に向けて大きな力になっていければいいなというふうに考えております。もちろん関係機関の方だけではなく、患者、元患者の代表の方にも御参加いただいております。
 本日はここにずらっと並んでおりますが、私を入れますと9人、シンポジストの方で8人の方々にお集まりをいただいております。まずはそれぞれのお立場からお一人ずつ、現在実施しておられるこれまでのハンセン病に対するいろいろな名誉回復のための取り組みについて御紹介いただければというふうに思っております。その後でパネリストの方たちにより自由な御討議をいただくというふうに一応打ち合わせはしておりますが、ちょっとここのところで御理解いただきたいのでございます。本日のパネルディスカッションはいただいた時間が90分でございます。お一人の方に10分ずつお話、御意見を伺うというふうなことになっておりますので、そうすると80分取ってしまいます。1人ずつが意見を述べた後でディスカッションするというのは大変難しいと感じておりますが、私はこの会が先ほど申しましたように、政府、国の機関による第1回の、今後ハンセン病の偏見をなくすための会合であるということを考えますと、まず一人一人が、ここに並びました8人が、それぞれの立場でしっかりと御自分たちの取り組みを話していただく、そしてお集まりの皆様にそれを聞いていただく、まずそういうところから始められればと思っております。その上で時間のある限りディスカッションもする。もっと欲を言えば、フロアとのディスカッションもしたいところでございますけれども、そこのところは少し様子を見ながらやらせていただくということで、まず最初に御理解いただきたいと思います。
 それでは順番にお願いいたします。お一人目厚生労働省の疾病対策課の関山課長様でございます。ではまず関山さんから国の取り組みについてお願いいたします。

○関山
 関山でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 このパネルディスカッションの目的につきましては、先ほど座長からお話がございましたように、差別や偏見なき社会の形成に向けてということでございます。特に、ハンセン病患者・元患者の方々に対するいわれなき差別や偏見に対しては、これまでも国として様々な施策を通じてこの解消に努めてきたところでございます。しかしながらこのパネルディスカッションのきっかけとなりましたハンセン病療養所入所者に対します宿泊拒否事件が発生したということは大変残念なことでございます。なぜこのような差別や偏見に根ざした事件が起こるのかということについては後ほどパネリストの方々からその分析なども出てくるのではないかと思っておりますが、私なりに原因を考えてみますと、主な原因ということでは、ハンセン病は恐ろしい病気であるといったようなハンセン病という病気自体についての誤った認識、それからハンセン病患者・元患者の方々が今まで置かれてきた境遇を全く理解しないことによる誹謗中傷等様々な要因が考えられるのではないかということでございます。 国としての普及啓発事業を行っても、この差別偏見が行われない行動に至るよう、人の心をどのように回復、または人の心に定着できるように、どのようにハンセン病に対する正しい知識を広めたらよいのか思慮しているところでありますが、国としては今回初めてこの厚生労働省主催で実施するシンポジウムやあるいは学校教育を通じた啓発活動、あるいは東村山市にありますハンセン病資料館の拡充等、具体的には様々な内容の工夫等によりまして、今後も正しい知識の普及を繰り返し繰り返し進めていくことで、それらが人の心をとらえてそして行動を変えて定着できる、このハンセン病患者・元患者の方々に対する差別の偏見の解消に近道ではなくて、こういう地道な努力を進めていきたいと考えています。 本日のシンポジウムでは、先生方から、また皆様方からどのようにすれば差別や偏見が解消されるのかについても貴重な御意見をいただければと思います。 まず私の方からは、ハンセン病施策の概要、特にハンセン病に対する差別偏見を解消し、ハンセン病患者・元患者の方々の名誉回復を図るため施策を中心に、国の現在の主な施策についてお話をさせていただければと思っております。 平成13年でございますが、これはハンセン病患者・元患者の方々にとって取り巻く環境が大きく変化した年でございます。ハンセン病国賠訴訟、熊本地裁判決について政府として控訴しないことを決定し、ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話を発表し、政府声明を閣議決定したという年でございます。そして、同年の6月に、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」が議員立法として成立し、交付、施行、この同補償法では、特にハンセン病の患者であった方々に対しての名誉回復についての規定が盛り込まれているということでございます。患者、元患者の方々と厚生労働省の協議の場としてハンセン病問題対策協議会を設置しまして様々な議論をさせていただきながら、どのような施策がよろしいのかということについて話し合いをさせていただいているわけでございますが、協議会において確認された事項について患者・元患者の方々の名誉回復及び福祉増進を目的とした各種施策を実施しております。本日のシンポジウムも昨年の9月にこの協議会で確認をされております。 ハンセン病療養所の現状でございますが、現在のハンセン病療養所について北は青森の松丘保養園、南は沖縄の宮古南静園まで合計15園ございます。約3,500人の方々が入所されているという状況でございます。年々高齢化が進んでおるという状況でございまして、平均年齢は約77歳でございます。 現在の主な施策でございますが、4つの柱として、謝罪・名誉回復措置、在園保証、社会復帰・社会生活支援、事実検証調査を実施しております。謝罪・名誉回復措置ということについては具体的には、学校教育というのが重要でございますので、中学生向けパンフレットの配布、あるいは、先ほど若干出ておりましたが、ホームページで情報提供していくというようなことなどをやっております。この学校教育の場について早くからやはり差別偏見の心というものをないようにしていくということが重要でありますので、ハンセン病を正しく理解するための中学生向けパンフレット『わたしたちにできること』というものを配布させていただいております。 毎年日本全国約1万1千の中学校に普及啓発のパンフレットを配布して授業で活用していただくよう協力要請をしております。しかしながら、まだまだ私どもの努力も若干不足しているという面もございまして御活用いただいていないところもございますが、本日はこういった場に学校関係者の方々もお見えになっておりますので、御理解を承りそしてより一層活用していただければと思っております。 また、高松宮記念ハンセン病資料館において、ハンセン病の資料の展示保存を行って、ハンセン病に関する啓発普及を実施しております。ここは平成5年に資料館開設以来、年間約1万人来館され、現在まで13万人の方々が来館しております。この資料館につきましてもより一層機能拡充いたしまして、平成18年度中にはリニューアルオープン予定でございます。この資料館をハンセン病に関する中核施設として正しい知識の普及啓発活動を実施していくこととしております。 次でありますが、国民の方々に広くハンセン病というものを知っていただき理解していただくということで、毎年6月に「ハンセン病を正しく理解する週間」というものを設けております。また、ハンセン病に関する様々な情報を厚労省ホームページ等に掲載しております。 以上の主な施策を実施しているわけでありますが、今般この平成8年に「らい予防法」の廃止後もいわゆる宿泊拒否事件という事案が発生したというのは残念であります。あらゆる機会を通じまして皆様一人一人がハンセン病について正しい知識を持ち、差別偏見の解消を図っていくことが必要であると考えておりまして、このため厚生労働省としては、このようなハンセン病問題に関するシンポジウムを今後も各地域ブロック単位で開催していき、それを通じて、都道府県をはじめとした開催を更に促進させていければと思っております。 また、本シンポジウムでは初めて関係者が一堂に会したわけであります。これによって関係者間で問題認識を一として、そして相乗効果を持って普及啓発活動がよりいっそう推進できればと思っておりますし、特に法務省におかれましても、来年度はハンセン病問題に対して熱心な取り組みが行われるということでありますので、私どもよく連携を取って対応させていただければと思っております。いずれにいたしましても、本日お集まりのシンポジストの方におかれましても、各団体に持ち帰って、こういった問題というものをそれぞれでよく考えていただき、そして差別のなき社会形成に御尽力いただきたいと思っております。 また、皆様方におかれましても、こういったシンポジウムで聞いて、あるいは本で読んで理解するハンセン病から、是非ハンセン病療養所に行っていただいて、その目で見てそして五感でもって、入所者の方々と交流を図って体験しハンセン病という問題について御理解を承ればと思っております。私からは以上でございます。

○金平
 どうもありがとうございました。厚生労働省としてもいろいろな取り組みをやってきたけれども、今日ここで皆さんの意見をよく聞いて連携しながら今後やっていきたいということでございました。ありがとうございました。
 お二人目でございますが、同じく国の方から法務省の人権擁護局人権啓発課長の山野幸成様から、法務省の現在の施策について、その話を中心に取り組みをお話しいただきたいと思います。よろしくお願いします。

○山野
 法務省の人権擁護局人権啓発課長の山野でございます。本日はこのシンポジウムに参加させていただきまして、当省の施策について述べる機会を与えられたことに感謝申し上げます。
 皆様方の中に、なぜ法務省がこのシンポジウムに関係しているのか、あるいは、法務省に人権擁護局なんてあったのかと思われる方がたくさんおられるのではないかと思いますので、若干我々の組織の活動を御紹介した後、ハンセン病問題に対する取組についてお話ししたいと思っております。
 まず、法務省に人権擁護局が設置された経緯でございますけれども、皆様方御存知のとおり、戦後公布された日本国憲法は、基本的人権の保障を重要な柱としています。この国民の基本的人権を擁護する事務を所掌する国の機関として、昭和23年に、法務省に人権擁護局が創設されました。これは、アメリカの司法省の中で人権擁護活動を取り扱っていた「シビル・ライツ・セクション(Civil Rights Section)」、人権擁護課というふうに訳されておりますけれども、これを参考にして作られたと言われています。人権の擁護も、広い意味で、法秩序の維持に入ることから、法務省に人権擁護局というのが設置されたと思われます。
 また、人権の擁護は、これは本省の人権擁護局1つだけでできるわけではありません。やはり国民の日常生活に密接に関連していますので、その目的を達成するために、地方の機関、これは皆様方御存知かどうか知りませんけれども、法務局・地方法務局というのが各都道府県に1つずつございます。北海道には4つありますから、全国で50局ございます。これらに人権擁護課、人権擁護部が設置されています。さらに、その下に支局というのが287ヶ所ございます。ここでも人権擁護事務を取り扱っております。
 それから、憲法で書かれていますように、基本的人権は、国民が不断の努力によって保持しなければならないということが書かれておりますので、民間の協力の下、官民一体となって人権の擁護を図ることが望ましいという観点から、昭和23年に人権擁護委員制度というのができました。この人権擁護委員というのは、全国の市町村に置かれ、地域住民の基本的人権を守り、そして人権尊重思想の普及高揚を図ることを任務しております。現在、全国に約1万4千人、女性の方が約5,000名配置されています。社会事業者、教育者、報道関係者、弁護士など、あらゆる分野の方が人権擁護委員になっておられます。
 次に、我々の活動ですけれども、これは大きく分けて2つございまして、1つは、人権啓発活動、国民に人権尊重思想を普及するという広報活動です。それともう1つは、人権侵犯事件の調査処理という活動をやっています。
 人権啓発につきましてはどのようなことをやっているかといいますと、皆さん方御存知かもしれませんけれども、昭和23年に世界人権宣言というのが国連で採択されました。この採択された日は12月10日でございますが,その前後の1週間、12月3日から10日までを人権週間と定めまして、大規模な人権尊重の啓発活動を全国各地で展開しています。そのほかにも、小学校では、総合学習の時間を利用して「人権教室」を開かせていただいたり、中学生では、「全国中学生人権作文コンテスト」なんかもやらせていただき、様々な人権啓発活動をやっています。 それからもう一つの人権侵犯事件ですが、これは、人権が侵害されたという申入れがありましたら、それを調査して適切な救済措置を講ずるという手続でございます。もし調査した結果、人権侵害ありと認められた場合には、法律的なアドバイスをする助言や当事者間の話し合いを仲介する調整、それから重いものでは告発や勧告といった加害者に対する厳しい措置まで7種類の救済措置を講じています。また、この救済の申出等のために、法務局、地方法務局あるいは人権擁護委員の自宅では、人権相談というのを無料でやっています。 次に、ハンセン病問題に関する法務省の取組についてでございます。法務省では、ハンセン病に対する偏見並びにこれに基づく患者及び元患者に対する差別につきましては、かねてから重大な人権問題の1つとして認識していまして、先ほど申しました人権週間の啓発活動の重点事項の1つとしてハンセン病問題を取り上げています。具体的には、国立ハンセン病療養所の園長さんを講師に迎え,ハンセン病についての理解を深めるための研修会を実施するなど、関係機関と連携を図りながら様々な啓発活動を実施してきたところでございます。 特に、平成13年5月の熊本地裁の判決を受けまして、ハンセン病問題の早期かつ全面的な解決に向けての内閣総理大臣談話が出されたことを踏まえまして、法務省では、更に啓発活動を一層強化するように全国の法務局あるいは地方法務局に通達を出したところでございます。具体的にはハンセン病患者、元患者あるいはその家族に対する人権相談の強化や差別偏見をなくすために、様々な啓発活動を全国で展開してきました。
 ところが、皆様方、これも先ほど来いろいろ出ていますけれども、平成15年の11月、熊本県において宿泊拒否事件が起きました。事件は、誠に遺憾なことでございますけれども、この事件は、今まで我々が行ってきた啓発活動、あるいは地方公共団体あるいは関係者の方々が行ってきた啓発活動に対し、大きな冷たい水、冷水を浴びせかけられた事件でございました。我々自身も今まで啓発活動をやってきましたけれども、よかったのか悪かったのか、今までの啓発活動でよかったのかどうかと、反省を投げかけられた事件でございました。
 この事件につきましては、皆様方御存知かもしれませんけれども、我々の地方局であります熊本地方法務局におきまして、先ほど申しました人権侵犯事件として迅速な対応をしまして、熊本地方法務局長がホテル総支配人及び親会社を熊本地方検察庁に刑事告発しました。さらにホテルの総支配人に対して、これは人権侵犯事件では告発に次いで重い手続きですけれども勧告を行いました。また、東京法務局においては、親会社に対して勧告を行うという厳しい措置を取りました。そして改めてハンセン病問題に対する啓発活動の強化を再度地方法務局に対して指導したところでございます。 我々が事件以降実施しました啓発活動は、具体的には、ハンセン病の正しい理解と偏見をなくすことを呼びかける新聞広告の全国紙掲載、それから羽田空港を利用しておられる方は御存知かもしれませんけれども、出発ロビーに大きなテレビがございます。これは、フューチャービジョンと言われていますけれども、そこで啓発を呼びかける広告を出しました。また、療養所が所在する地方法務局においてポスターの掲出、それからチラシの配布などのほか、街頭啓発、ホテル・旅館業組合に対する啓発などを行ってきました。 事件そのものにつきましては、刑事処分あるいは行政処分もそれぞれ決着しましたが、これも先ほど来出ておりますけれども、事件の進行過程で菊池恵楓園の皆さんをはじめとするハンセン病関係者に対し、あからさまな非難や心無い誹謗中傷が多数寄せられました。これは、ハンセン病問題に対する正しい知識と理解が未だ十分でないことに起因すると思いますが、それとともに、90年間続いた強制隔離政策により、国民の間に根強い差別と偏見の意識が作られたという厳しい現実も明らかに示されたと思っております。 我々としましては、今後、今回の事件を教訓としまして、他の機関と協力いたしまして、このような事件が再発することのないようにハンセン病問題に関する啓発活動の取組を更に強化し、ハンセン病患者、元患者、その家族の皆様の人権擁護に努めてまいりたいと思っています。 今後の取組につきましては、先ほど厚労省の課長さんの方からもお話がありましたように、平成17年度予算案におきまして、ハンセン病を含む特別な問題に関する経費として「特別人権問題対策啓発活動経費」というものが約4,300万円認められました。これは法務省では初めての活動経費でございます。平成17年度は、これを使いまして、具体的にはハンセン病の正しい理解を広め、偏見をなくすために、マスメディア等を活用した効果的・効率的な手法により、全国一斉に啓発活動を行いたいと思っております。以上でございます。

○金平
 どうもありがとうございました。山野さんがおっしゃいましたように、熊本のホテルの事件が起こりましたときは、人権擁護局は迅速な対応をなさって、勧告まで出されておりました。地元の熊本県と同様にいち早い行政なりの対応が、やはりハンセン病と人権というふうな問題をもう一回皆の中に意識の中に引き出して、皆の考えるきっかけになったのではないかと思っております。ありがとうございました。
 それではその次に3人目でございますが、栃木県の保健福祉部長さん、鈴木康裕様から地方公共団体の施策についてのお話を伺うことになっております。ところが今ちょうど県議会の開催中で、どうしても今日おいでになることができなかった、残念でございますが、それで鈴木様の代理としまして、栃木県の保健福祉部健康増進課の小林勲様においでいただいております。小林さんの方からよろしくお願いいたします。

○小林
 ただいま御紹介にあずかりました、栃木県保健福祉部の小林でございます。本日は、部長が議会対応ということで、代わって説明させていただきます。
 本県のハンセン病施策ですが、本県には栃木県藤楓協会というハンセン病療養所入所者の支援団体があります。こちらは地元の新聞社、下野新聞社が昭和37年に設立した団体でございます。本県では栃木県藤楓協会と協力いたしまして、里帰り事業や県人との交流事業、そして「ハンセン病を正しく理解する週間」等に合わせました、普及啓発活動を実施しております。
 現在、栃木県出身、38人の方々が全国5カ所の療養所に入所なさっています。入所先といたしましては、北から宮城県の東北新生園、群馬県の栗生楽泉園、東京都の多磨全生園、静岡県の駿河療養所、そして、熊本県の菊池恵楓園となっております。 まず、里帰り事業ですが、以前は、5カ所の療養所すべてが対象となっていたのですが、県人の高齢化、入所者数の減少などにより、現在では、県人の9割を占める、栗生楽泉園と多磨全生園の2カ所を春と秋、交互に御招待し、一泊二日の日程で実施しております。 次に、県人との交流事業ですが、毎年数回、各療養所を栃木県藤楓協会の役員、ボランティア、県の行政関係者が訪問し、懇親を図っております。県人の希望にもよりますが、療養所内の宿泊施設を利用し、里帰り事業の見学先等の希望や、説明などを行うなどしております。 そして、普及啓発活動ですが、本県では、6月下旬の、「ハンセン病を正しく理解する週間」に合わせまして、ハンセン病の正しい知識の普及啓発と差別・偏見の除去、さらには里帰り事業等に要する資金を創成するために、「ハンセン病募金活動」を実施しております。県内各所の協力者をはじめ、医療機関、官公庁、民間企業、そして教育機関など、さまざなところに普及啓発パンフレットと募金振込書を同封し、ハンセン病に対する正しい知識の普及と、募金への御協力をお願いしております。 毎年200万円を超える浄財をいただいておりますが、これも県民をはじめとした皆様のハンセン病対策への御理解の賜と思っております。 また、里帰り事業等に際しましても、栃木県にいらっしゃる家族や友人知人の同行や宿泊希望など、県人からの意向を確認し、事業を実施しておりますが、一部ではありますが、宿泊先となるホテルで御家族、御兄弟、友人知人の方々と会食なさったり、御家族や御兄弟の御自宅へ宿泊なさる方々や、翌日の行程に同行なさる方々もいらっしゃいます。 私は、平成13年度からこのハンセン病対策を担当しておりますが、そういう家族の方々の実家に泊まったり、また、お墓参りをしたり、また、友人知人の方が見学先を一緒に回ったりなどというケースが増えておりますので、家族やふるさとのつながりという点では徐々にですが回復されており、差別や偏見というものもしだいになくなってきているのではと実感しております。 最後になりますが、人権、教育ということに触れまして、多磨全生園に隣接しているハンセン病資料館への県民、又は教育関係、医療関係者を対象とした見学会を実施しております。 今年度につきましては、県教育委員会の人権教育主管課と多磨全生園栃木県人会の御協力を得まして、ハンセン病資料館への見学とともに県人と小中学校の先生方との懇談会を実施いたしました。30名ほどの先生方が、県人会長の貴重な講演を聞き、県人会の方々と懇親を深めておりました。多磨全生園に向かうバスの中で、私が、ハンセン病についての一般的なことと、本県の施策について説明いたしましたが、県人会長の講演や資料館見学を通じて、ハンセン病問題について更に理解を深めたようでございます。 懇談会は、県人会長からの御助言で、時間を決めず、自由な意見交換をしていただきましたが、会場内、いくつかのグループが形成され、自身のこと、郷土のことなどを話しながら、成功裏に閉会することができました。 翌日が、里帰りという御多忙な中、県人会長をはじめ、御協力をいただいた県人の方々には大変感謝しております。 参加なされた先生方は、栃木県の小中学校教育の中枢を担う方々ばかりですので、今回の経験を通じて、ハンセン病問題について正しく認識されたことと思っております。その方々が小中学校に戻りまして児童生徒に対し、学校教育の中で、ハンセン病問題を題材として取り上げてくださることを期待しております。 さて、前述の研修会は今年度から実施し、今後も継続していこうと思っておりますが、本県では、以前より、栃木県藤楓協会の役員に就かれております小中高の校長会長を通じて、各学校にパンフレットを配布し、普及啓発活動を実施ております。ある学校では、人権同和関係の方が講師として、ハンセン病についても触れていただいたことがございます。 栃木県のハンセン病への施策については以上のとおりでございますが、これは担当の個人的な見解となりますが、今までやってきて困難に感じたことは、療養所に入所なさっている方、県人の方々が今、何を必要としているのかということが分からなかったことです。行政として、こうした方が、ああした方がと検討しても、それは行政からの押しつけになってしまうのではと自問したこともありました。良かれと思い、言ったこと、実施したことも押しつけでは、県人の意に沿ったものではなくなってしまいます。 私としてはできる限り、自然に触れ合いながら、療養所の方々の意を介することなどまだまだでございますけれども、県人の気持ちを汲んだ事業をということで頑張っております。 また、上司や前任者からも、「ハンセン病というのはデスクワークじゃない。机上で考え込んでいても、なにも分からない。」と指導されてきました。電話連絡等で里帰り事業や県人との交流事業などについて協議しても、電話で済ませただけでは、県人会の気持ちを理解することは不可能で、対面で直接話し合った方がいろいろと得るものもあるはずだと思って、この事業に従事しております。会長をはじめ、県人会の役員の方々にはいろいろと教えられることも多く、本当に遣り甲斐のある仕事と思っています。特に、多磨全生園の県人会長には懇意にしていただき、本県のハンセン病対策に対し、いろいろと御助言をいただいております。年に数回ほど、療養所を訪問すると言いましたが、多磨全生園につきましては、栃木県から近距離であることもあり、それ以外に3回から4回ほど、会長の御自宅を訪れております。会長の御迷惑になっているのかもと思いながらですが。 誠にお聞き苦しかったのではと思いますが、本県のハンセン病施策は以上でございます。

○金平
 どうもありがとうございました。いいえもう、お聞き苦しいどころか大変よくわかりました。さっき最初のパネラーであった関山疾病課長が、やはりハンセンの問題は読むとか聞くではなくて、実際に療養所に行ってほしいとおっしゃいましたけれども、今の栃木の取り組みはまさにそういうところで、また自然な中で触れ合っていこうと御努力なさっている御担当のあれがよくわかりました。
 ちょっと1つだけですけど、これ募金をしてやっていらっしゃるのですか。里帰り事業に。

○小林
 すべての経費を募金に頼っているのではありません。栃木県や栃木県共同募金会からの助成金で賄えない部分に募金を充てていると表現した方が良いかもしれません。

○金平
 募金をする際には当然何か啓発的な資料を作るとか。

○小林
 はい。普及啓発のパンフレット、これは市販されているものなのですけれども、パンフレットにボールペンやシャープペンといった普及啓発物品を添えて、協力者等に配布しております。

○金平
 非常に具体的な事業を御報告いただきました。また国と違って地方自治体はきめ細かな地元のいろいろなお取り組みをしていらっしゃるということがよくわかりました。ありがとうございました。
 それでは4番目でございますけれども、患者、元患者と申し上げていいのでしょうか、それを代表して多磨全生園の入所者の自治会長さんでいらっしゃる平沢保治さんから、そのお立場からのお話をお願いいたします。

○平沢
 10分間でということなので、何をお話ししようかなと考えてきたのですけれども、やはり私たちはハンセン病と宣告されたことによって、肉親やふるさとを失った。この肉親やふるさとを追われたその名誉をどうして回復するか、そのために私たちは何をすべきなのか、こういう観点で提言をし要望も申し上げたいというふうに思っております。
 1つは療養所でございますけれども、先ほど曽我野会長からお話がありましたように、療養所の入所者はあの戦前過酷な何の収入もないところで、自分の身をすり減らして、重い病気の中で生きるために働き、そして後遺症を残しました。そういう人たちが私たちの多磨全生園でも104歳を先頭に高齢化集団になっています。
 そういう人たち、例えば医療や看護の面におきましても、社会にあるならば臨終の時には肉親に看取られる、そういう人たちから見ればそう感じないと思いますけれども、それを奪われているものにとっては、やはりたとえ一声でもいいから肉親にねぎらいを受けて、声をかけてもらってこの地上を去りたい、こう思っているのが大半であります。 これはお金や何かに勝る人間としての当然のものでありますけれども、そういう状況にある療養所の医療や看護をやはり肉親に代わって対応してくれる体制を作ってほしい。それでこそやはりそういう人たちの生きてきたことに対する1つの方向づけをちゃんとすることなくして真の私たちの人間回復はあり得ない、このように考えております。一般の老人ホームやその他のところから見れば、医療費はいらないしあるいは電気代もいらないし、食事もただだし、このように現れた条件について言えば、先ほど曽我野会長が言ったような条件が結論にもなると思いますけれども、私は目に見える形での内容だけが本当の人間回復の道につながっているとは言えない。 先ほど外国の例を曽我野会長が申しておりましたけれども、私も6ヶ国の外国に足を踏み入れました。でも、確かに貧しいです。でも子供がいます。あるインドの私が伺った療養所の方は、「平沢さん、あんたは背広を着てネクタイをしてちゃんと来たけれど、私たちと違った。幸せはつかんでいない。実は私の息子に嫁が来て、今この嫁のおなかに子供がいる。おなかを触ってください。あんたはそういう思いを味わうことができないではないか」、こう家内と2人で言われたとき、真の人間の幸せというのは何なのかということをそこで学ばせていただきました。そういう点でぜひ全国の13ヶ所の療養所を築き上げてきた、そういう高齢の人たちの対策に目をもう少し向けていただきたい、これは入所者の代表として関係者に提言しておくわけであります。 2つ目は啓発活動であります。私は3月9日、実家の生まれたところから700mのところで講演の依頼がありました。私の生まれ故郷茨城県は、橋本知事を先頭に啓発活動には大変力を入れてくださっています。どんなに忙しくても私が県に帰ると知事は会ってくれます。そういうことで、茨城県には840の小中学校があります。この小学校に私のつたない創作童話をおととし送りました。子供たちはそれを読んで、段ボールに宅急便で送られるぐらい、「平沢保治おじさんをふるさとへ帰そう」という作文を書いて、そして水戸でも発表会をしてくれました。 でもそういうこともあって、私の生まれた町から、平沢さんはどうもうちの生まれらしいからということで、講演が教育委員会からおととし来ましたけれどもこれは断りました。今回は県の方のたってのお願いですので、受けることにいたしました。でもテレビや新聞に公然と名前を出している平沢保治では行けませんでした。ペンネームの三芳晃、そして駅のホームに35年ぶりに足を踏み降しました。お話の最後に、いつの日か必ず子供たちに言われるように、本名の名前でふるさとで講演ができる日のために、私はありとあらゆる努力をするということで講演をしめましたけれども、これがらい予防法が廃止になり、裁判で勝った私たちの置かれている状態であります。 こういうことを解決するために、私は10数年前から、小学校中学校の児童人権教育に心を寄せてまいりました。でも当初は、地元の小学校から、「平沢さんが来ると子供に感染する」。「ハンセン病は幼児期に感染する」という学説があったために、なかなか学校に行くことができなかったわけであります。でもようやく十二、三年前から学校へ行くようになりました。厚労省から発行しておりますこのリーフレット、残念ながら現場ではこのリーフレットが大半が活用されていない、こういう実態にもぶつかりました。 そこで私は関係者に要望しておきます。子供たちに私たちがハンセン病の実態を学ばせる前に、ぜひ教員の状態で、東京都やあるいは神奈川県や千葉県、茨城県では教員の研修にハンセン病問題を取り上げるようにということで取り組んでおりますけれども、ぜひハンセン病の実態を語れる先生方を育成してほしい、このことなくしていくら書類をいろいろ送ったとしても、それはこういうものがあった、読みなさいと言って子供たちに渡したとしてもそれはなかなか受入れられない。教える側が、教師の立場でハンセン病問題をちゃんと理解して子供たちに教える。 私は近くの子供たちに全生園の3つの宝物、そして1つの約束ということを小学4年生からずっと話させていただいておりますけれども、1つはこの広い土地、2つ目はいろいろ差別は受けたけれども、ここに木を植えて「人権の森」として皆さん方に残していく。3つ目は、人間は両親を選んでこの地上に生を受けることはないけれども、両親からいただいた命をどう生きるかという、この命の大切さ、人を愛する大切さ、こういうものを子供たちに話して聞かせております。子供たちはわかったよ。 この11日にも杉並の中学校に行ったら、作文を書いて帰りに持って行ってほしいということでよこされましたけれども、小学校、中学生の子供たちは真剣に私たちのことを聞いてくれようとしています。そして最後に、私は悪いことをしたのではないけれども、一生懸命生きるためにこの両手は火の中水の中に入れても、痛いか冷たいか熱いかわからない、でも一生懸命で生きているのだ、命というのはこういうものなのだ、そうして200人ぐらいいれば50人ぐらいの子供たちと握手をさせていただいております。握手をできない子供は校長室まで追いかけてきて「平沢さん握手をしてください」、こう言ってせがまれますけれども、「あまり大勢やると手が痛くて夜眠れなくなるからだめだよ」と言って、そんな話をしながら子供たちにハンセン病の歴史と生きる大切さを教えているのですけれども、ぜひそうした状況の中で、一日も早く、冒頭申し上げたように、肉親の待つ生まれた家に帰る、このことが私たちの最大の望みでありそして希望である、そのことを実現するために関係者の皆さん方の一層のお力添えをいただきたい、このことを結びまして私の報告を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

○金平
 どうもありがとうございました。平沢さんは今自分を語り部としてあちこちで話しているのだといつか私にも話してくださいましたけれども、その一端を今日ここでお話くださいました。子供にわかってもらう前に、教員の研修もというふうなことがございました。
 その次にお願いしておりますのが実は5人目、教育関係者を代表いたしまして、きょうは全日本中学校長会の理事であり、埼玉県の中学校長会会長の野原晃様でございます。教育の場での啓発普及についてお話をお願いいたします。

○野原
 はい。お世話になります。今平沢さんのお話を伺いながら、もう課題をいただいて私の話すことは結論が出たような感じがするのですが、各界からということで全日本中学校長会でありますけれども、全日本中学校長会としてお話ができる状況にありませんので、代表ということで、校長会の会長として本県の状況をお話をまずしていきたいというふうに思います。
 その前に、いまだにこのハンセン病の問題が解決しない、いまだに差別偏見が残っている、差別偏見が現実にあるということに対しまして、学校教育に携わるものとしてまず深く反省をしたいというふうに思っております。
 私どもの現状でありますけれども、手元に今持ってまいりましたが、埼玉県の場合は世界人権宣言、日本国憲法あらゆる法的な答申等を踏まえまして、平成16年の3月に『人権教育ハンドブック』というものを教育局の方で作ってくれました。 中身は、1つは大きく、普遍的な差別、法のもとの平等、あるいは個人の尊厳といった普遍的な差別について、もう1つの柱は、個別的な視点ということで敢えて挙げますと、女性問題に関する課題、子供に関する課題、高齢者に関する課題、障害者に対する課題、同和問題に関する課題、外国人に関する課題と、7つ目にハンセン病患者に対する人権課題を代表とするアイヌであるとか、HIV感染者であるとか、インターネットによる人権侵害であるとか様々な課題についてハンドブックとしてまとめてございます。 300ページにわたっているのですが、そのうちのハンセン病にかかわる課題に対する資料集は10ページにわたっております。歴史的なもの、法的なものをるる述べてありますが、こんなものを題材に人権教育の中でハンセン病問題の教育を行っているところであります。子供たち向けの教材といたしましては、先ほど来紹介がありましたこのリーフレット、パンフレットをもとに、さらに埼玉県として『にじいろぱれっと』という人権教育の啓発資料を作っております。 その中に1つずつ、今3集が出ているところなのですが、1つずつハンセン病患者、ハンセン病問題に関する資料を用意してもらっています。1つは、「一輪の花」という啓発資料集でありまして、先ほども牧野園長さんからもありましたけれども、私どものところには名前が出てきました渋沢栄一の生誕地がありまして、その渋沢栄一の母親、えいさんという方が近所のハンセン病患者をお風呂に入れて湯あみをさせている場面であるとか、そんなものをエピソードに取り上げた資料、もう1つは、「はじめてあったたけしくんのおじいちゃん」といって、療養所から帰郷を果たした元患者さんのエピソードにハンセン病のQ&Aをくっつけている。もう1つは、もう母に一生会えないと、16歳で入所した元患者さんの話をエピソードとして出した上で、ハンセン病の基礎知識というものをつけ加えたいわゆる啓発資料、これなどを使って指導をしているところであります。 恥ずかしながらその実態を見てみますと、こういったハンセン病問題に関する資料をもとに学校でどのくらいの割合でこれを取り扱ったかというふうに言いますと、学校で取り扱った中の何%かということでありますけれども、中学校の場合は15%を切るような状況であります。 それから、実践例の中から子供たちの感想を持ってきていますので、どんな状況か御紹介をしてみたいというふうに思います。 これは、厚生労働省からいただいた『わたしたちにできること』というパンフレットと、やはりパンフレットだけではどうも子供たちにわかりにくいということもありましたので、「見えない壁を越えて」という記録映画御存知だと思いますけれども、「声なき者たちの証言」というサブタイトルがついている約1時間50分ぐらいの記録映画ですが、これを同時に見せて子供たちに問いかけた実践例がありますので、その紹介をいたします。 中学3年生の生徒たちであります。結論で言いますと、ハンセン病というこの病気あるいはこれに対する差別について知っていたという子はどのくらいいるか、中学3年生の段階です、53.8%という状況であります。 ちょっと読んでみますと、「知らなかった。そんなに怖い病気ではないのに、健常者はやりすぎだ。もっと大勢の人にハンセン病について知ってもらうべきだ。これからは差別や偏見をなくして助け合える世の中にならなければ」という感想。「初めて知った。壁がなくなった後差別を受け、とてもひどいと思った。政府はしっかりと考えていたのか。国民一人一人がしっかりと知るべきだ」「言葉だけは聞いたことがあったが本当にはよくわからなかった。知らなかった。こんなにひどい差別はどう考えてもおかしい」「同じ人間が同じ人権を持っているはずなのに、一生療養所で閉じ込められるなんて到底おかしいことだ」「ビデオを見て初めて差別や偏見の怖さを知った」「初めにハンセン病の病院を建てたのが日本人ではなくフランス人やイギリス人などの外国人であったことにはがっかりした。またなぜ日本人は患者を助けなかったのかと外国人に文句を言われるなんて情けない」「何も悪いことなどをしていないのに、ハンセン病になっただけで差別してしまうなんてひどすぎる。本当に心が痛くなる。なぜ日本人は政府など人の考えに流されてしまうのか。どうにかしてあげようと思う人はいなかったのかと思うととてもいやな感じになる」「最も肝心なのは健康な人の心だ。私たちがハンセン病の患者さんを受入れることができなかった心の弱さが一番問題だ。放っておいても、誰かが何とかしてくれるという私たちの一人一人の心の弱さがハンセン病問題を生んだのだ」「変わらなければいけないのは私たちだ。患者の皆さんともっともっと歩み寄ることが大切だ」「国の政策に愕然とした。何も知らずに生活していた自分を恥ずかしく思う。今回の授業でハンセン病のことについて学べて本当によかった。今ではハンセン病は不治の病ではなく、感染することもほとんどない病気だとわかったけれども、昔は家族にも会えなかったり村の人から家族まで避けられていたのはつらかったと思う」「今やっとハンセン病の正しい実態が伝えられるようになった。中学生の僕たちにできることはハンセン病の正しい知識と理解を伝えることだ」というような子供たちの感想であります。 実践例の中に道徳の指導案の実践例も資料として県教委の方で出してくれています。これはNHKの「にんげんドキュメント 津軽・故郷の光の中へ」というドキュメントVTRですね。ちなみに道徳の指導のねらいがどうなっているか御紹介をしたいと思いますが。

○金平
 少し時間が経っておりますので。

○野原
 ごめんなさい。では失礼します。長くなって申し訳ありません。 結論的に1つだけ、やはり百聞は一見にしかず、体験や先ほど平沢さんがおっしゃったような交流、それから、読む資料だけでなくて視聴覚資料を使った啓発活動がこれからもっと必要になってくるのだろうというふうに思っております。失礼をいたしました。

○金平
 どうもありがとうございました。先ほど平沢さんが教育の問題に触れていらっしゃいましたけれども、その実践例をいろいろとお話くださいまして、ちょっと途中で私の方で切ってしまって申し訳ございません。
 それではその次に、本来でしたらプログラムとしては小野さんにお願いするところでございますが、ちょっと事務局の方でパソコンのトラブルの問題があるそうで、先に全国旅館生活衛生同業組合の連合会会長である小原健史様から、宿泊拒否事件を踏まえた対策について、このお話をお願いしたいと思います。ちょっと順番を替えましてよろしゅうございますか。お願いいたします。

○小原
 全国旅館生活衛生同業組合、長い名前でございますが全旅連と申しますけれども、会長の小原と申します。本日のシンポジウムで発言の機会を得ましたことを大変ありがたく感謝申し上げます。
 熊本県の温泉地で起こりました宿泊拒否事件につきましては、我々業界にとりましても本当に大変な問題でございました。このような事件が旅館ホテル業で起きましたことについて業界の会長として国民の皆様、また直接被害に遭われた関係者の皆様には大変申し訳なく思います。まことに残念遺憾でございます。今後このようなことが二度とないように、私どもの業界でもいろいろ対策を取っているところでございます。
 あの事件の後、平成15年の11月19日に、厚生労働省の担当の課長さんより御指導を正式にいただきまして、同日全国の旅館組合の理事長さん、47都道府県ございますが、それぞれの責任者の方に情報を流して、二度とこのようなことが起きないように指示をしたところでございます。現在全国旅館組合は2万軒ちょっとの旅館がございますが、我々がその2万軒に直接伝達するすべを持っておりませんで、そのへんがまだまだ心配なところでございますけれども、各県の旅館組合を通じて徹底をしているところでございます。
 もう1つは我々が『全旅連マンスリー』という独自の機関誌を数千部発行しておりますが、その当時の12月号に『マンスリー』でもこの問題を取り上げたところでございます。それからあと各県ごとに生活衛生同業組合、飲食とか美容、美容、クリーニングとかいろいろな、中央で16団体、地方だと8団体とか10団体とかございますけれども、保健所に営業許可をいただく業界では、それぞれの都道府県でシンポジウム、セミナーをやっているところでございまして、私九州の佐賀県出身ですが、あした1時半から佐賀市の図書館で、生活衛生業8団体、県の指導で、正しいハンセン病に対する認識とお客様としての対応についてのセミナーを開くところでございます。
 旅館業を営む上で権利と義務がございます。保健所にお願いをしまして正当な資格があれば誰でもやれるわけで、許可をとれば旅館業を営む権利がございますけれども、義務として、すべてのお客様の利用申し込みを受けなければいけない訳です。その中に3つだけ回避できる、お断りすることができる状況がございまして、1つは物理的に満員の場合、満室の場合、もう1つは旅館、ホテル内で違法行為、例えば賭博とかこういう可能性のあるお客様、3つ目は伝染性のある疾病のお客様ということでございます。どうも今回の事件はこのようなところを全然伝染性がないということを、誤解してそういう元患者の皆さんに対して大変な誤解と過ちを犯してしまったのではないかと思います。 公衆浴場法についてもしかりでございます。実はこの旅館業法が、旧法が昭和23年にできまして、第1条、この法律をもって旅館業を取り締まるという大変強圧的なものであったのですが、これを七、八年前に我々は旅館の二重課税で差別した、特別地方消費税の廃止運動の中で、旅館業法も一緒に厚生労働省の御支援を受け、国会議員の先生方にお願いをして改正をいたしました。そのときに、取り締まり立法から、業界の振興と、あまねく広く国民の福祉の利益に寄与するということで改正をしたにもかかわらず、私もその責任者であったのですけれども、にもかかわらず、我々の旅館の一部の中でこういうことが起きたことを全く恥ずかしく、また残念に思うところでございます。 あまり時間もないようですので、もう1つだけぜひ御報告したいことがございます。全国でどれくらいあるか数字は全然つかんでおりませんが、私の関係します旅館で、実はきょう発表になりました施設の方が、当然なんとか園と名乗ってお見えになりまして、看板も堂々と出して、「堂々」という言葉は申し訳ございません、当然のことでございますが、お泊まりいただいて、大変愉快に、何の問題もなく、ほかのお客様から何の問題もなく大変喜んで帰られた事実もあります。多分1件2件ではないと思っております。このことも全国の旅館でそういう、当然のことでありますが、お客様として当然のようにおこたえをし、大変喜んでお帰りいただいた例もあるという事実も皆様にお知りおきいただきたいと思います。 何はさておいても、私もさっきからお話を聞いておりまして、大変心が締めつけられるような思いがいたしました点もたくさんございまして、きょうの私自身の研修をもとにさらに業界に徹底をして、二度とあのような事件のないように致したい。ただ私が今でも不可解なのは、旅館業専業であればいろいろな、このような事件を起こしても、命がけで商売をしておれば、閉鎖をしたり、建物ごと倒すことはしない。先日黒川温泉に行って現場を見てまいりましてけれども、跡形もなくなっておりましたが、あれについては非常に後味の悪い、なぜなのだろうと。逆に本業の旅館業のあるじや女将であれば、一生を通じて御迷惑をかけたことに反省をし、そういう姿勢を見せながら営業を続けるのが本当ではないか。それが旅館の本当の姿ではないかなと私は思いつつ、現場を見て非常に寒々しい思いをして戻ってまいってきたところでございます。以上御報告を終わります。

○金平
 はい、ありがとうございました。ちょうど私がかかわっておりましたこのハンセン病問題の検証会議、その検証のさなかに黒川の事件が起こってしまいまして、しかし今いろいろなその後の業界の対応を伺いまして、今後どうぞよろしくお願いします。
 ちょっと伺いますけれども、さっき2万軒くらいある中でいろいろとお取り組みをなさっている、全体にいろいろなものを発信していらっしゃるけれども全体をカバーできないのが残念ということでしたけれども。

○小原
 はい。ここで言うのもちょっと申し訳ない中身のことですが、全旅連の正式会員は47人だけなのですね。その傘下に2万数千軒おるということでございまして、今実は直接この事件も1つのきっかけで、直接情報を発信するシステムを考えています。一回情報を発信するのに経費が四、五百万円かかるものですから、いろいろな問題もございまして、まだファックスやパソコンも使えない、本当におじいちゃんおばあちゃんでやっている旅館もございますので、全国すべての旅館への情報伝達は難しい、そういうところでございます。いずれにしましても大変業界が御迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。

○金平
 その後のお取り組みにこれからもまた期待したいと思います。ありがとうございました。
 それではパソコンのトラブルが直ったそうでございますので、大変どうもすみませんでした。今度は医療関係者を代表しまして国立大学法人熊本大学理事であり、副学長の小野友道様から、ハンセン病の医学的な側面および医学教育についてのお話を伺いたいと思います。小野様は日本医師会および日本皮膚科学会の御推薦をいただいております。
 それでは小野様よろしくお願いいたします。

○小野
 ご紹介ありがとうございました。スライド次お願いします。
 私は皮膚科医でありまして、1年前まで皮膚科の教授をいたしておりました。ハンセン病とのかかわりは皮膚科医として患者さんを診察した経験と、また菊池恵楓園に若い頃診療の手伝いに行っておりました。一番重要なのは、熊本に住んでいるということであります。いろいろな形でハンセン病にかかわりができました。次お願いします。
 日本皮膚科学会ですが、ハンセン病への取り組みは患者さんの診察機会等を含めていろいろありましたけれども、患者さんの苦しみの理解とかあるいは行政への提言などという点では、これまで極めて活動が少なかったと言わざるを得ないと思っております。中には敢然と学会と渡り合った有名な小笠原登とか、あるいは強制隔離や優生保護法に批判的で、外来でハンセン病患者の診察を行っていた太田正雄東大教授、ペンネーム木下杢太郎ですけれども、しかしいずれにしてもそれらの声が学会レベルでの動きにはなりませんでした。
 もちろん現在もハンセン病療養所で真摯に診療にあたっている皮膚科学会会員はたくさんいますし、学会としても講演セミナーなどは毎年継続的に行っておりますけれども、そのほとんどは皮膚科医に対するものでありまして、世間への発信ではありませんでした。ただ一昨年、日本皮膚科学会の白書を刊行し、関係者に配布いたしました。その中でハンセン病についても記載してはおりますれども、今回もうすぐできますが改訂版にはその歴史も含めております。
 ともかく、日本皮膚科学会は、早い時期にハンセン病学会が設立された関係もありまして、ハンセン病はハンセン病学会という図式になっていってしまいました。それで会員の関心、意識が低下していったのだと思っています。そしてハンセン病の治療が隔離政策にのっとって、もっぱらハンセン病療養所に任せてしまったのが大きな要因でもありました。スライドお願いいたします。
 村上國男先生は、病気が偏見、差別の対象になりやすい条件として、このような10項目を挙げております。皮膚病は(5)あるいは(6)などがしばしば伴うことでありまして、ハンセン病ではさらに多くの因子が重なりました。ともかく皮膚病の歴史は差別の歴史と言っても過言ではない面がございます。次お願いいたします。
 皮膚病は人に見られるという点で、極めて大きな精神的な苦痛があります。世間と深く関わってまいります。安部公房は、「人間の魂は皮膚にある」と言います。太宰治はすばり、『皮膚と心』という小説を書いています。フランスの皮膚科医で精神科医でもあるダニエル・ポメレは「皮膚の病変の深刻さは、心的な打撃の深刻さに比例」するとも述べています。このような観点からも皮膚科医、あるいは皮膚科学会としてもう少しハンセン病患者の視点に立った活動をすべきではなかったかという反省が必要であろうと私は思っています。スライドお願いします。
 これは、このシンポジウムに先立ちまして、ハンセン病教育についてのアンケート調査をさせていただきました。各大学医学部皮膚科教授に回答いただきました。皆さんのパンフレットに「81」と書いてありますが「80」と直しておいてください。
 すでに15の医学部では、現在ハンセン病についての学生への講義は全くしておりません。まして研修医に対しては皮膚科自体が必修科目ではないこともありまして、多くの施設で教育がなされておりません。若い皮膚科医に対しても、たまたまハンセン病の患者さんの診察機会があったり、鑑別診断でそれが必要なときに折に触れて指導がなされている程度でありました。しかし、一方で、各教授とも学会レベルでの教育を望んでおりました。スライドお願いします。
 こちらは石井先生の論文からですが、横浜市医師会の調査結果です。380人の回答のうち、ハンセン病を診察した経験のある医者はわずかに11人にすぎません。144人の方は、患者さんが来られたら一生懸命診察はするけれども、その約半数はハンセン病の診断をすることができないだろう、自分の力ではできないだろう、と答えています。これが現状であります。次お願いいたします。
 もちろんやむを得ない点もあります。現在日本ではまずハンセン病患者を医師が診察する機会がありません。年間数名の新規患者で、日本人2004年が4名、外国人8名程度です。2003年には日本人は1名しかいないという現状であります。次お願いいたします。
 つまり、若い教授を含めまして、ハンセン病患者を診たことがないということ、ぎっしり詰まった医学部学生のカリキュラムの中でハンセン病を教える時間が削られ、まして歴史などに触れる授業がなされていないだろうということがあります。その結果、このまま行きますとハンセン病を診療できる医師の育成がなされないことになります。おそらく、現在ハンセン病の専門医といえる医師の数は日本全国で30名足らず、いやもっと厳しく言えば20名以下ではないかという仲間もおります。スライドお願いいたします。
 私は厚生労働省のバックアップをいただきながら、ハンセン病学会と皮膚科学会が共同で患者さんの皮膚の病変などのCD−ROMを作り、そういったものを早急に作成し、研修指定病院などに配布させていただき、医学生、研修医、看護師レベルなどでハンセン病を学んでほしいということを要望したいと思います。私自身、それを積極的に取り組みたいと今回のアンケート結果で強くそう思いました。またこの中では、歴史を踏まえて倫理観、あるいは人権という視点でも学んでいかなければならないと思っています。スライドお願いいたします。
 また加えて、若い皮膚科医には国際的視野に立ったハンセン病を考えてほしいと願っています。教材もその視点で作成されなければならないと思っています。スライドお願いします。
 WHOにおられた湯浅先生は、ハンセン病のない世界とは公衆衛生学的に、つまり世界のハンセン病の患者さんの数が減少すること、それから臨床医学的、個々の患者さんが完全に治癒すること、後遺症も治癒する、この2つに加え社会問題つまり偏見差別がなくなること、この3つがなくなったときにハンセン病のない世界と言えるのだけれども、21世紀いっぱい社会的な問題はかかるだろう、と私たちに挑戦状を投げつけておられます。次お願いします。
 柳田邦男さん、ジャーナリストの方は、O−157の問題を論じた中で、「伝染病流行に伴う昔からある危険な社会心理の傾向」「特定な人々に対する苛酷な排斥と迫害」が、これはまたいつの時代でも異なった病気で同じことが起こる。風評パニック、風評被害が起こる可能性があるということであります。次お願いいたします。
 ハンセン病問題そのもののためにも、また、そして同じ過ちがほかの病気で起こらないためにも、このハンセン病問題を風化させてはならないと思います。それには今ある施設と資料の利活用、啓発活動の継続、先ほどから言っている医師への教育がありますが、次お願いいたします。
 国民の啓発には、本日行われているようなシンポジウムを繰り返し行うこと、あるいは歴史を学ぶことが大切であります。先ほどから言われておりますように、何よりも小中学校生徒さんへの啓発、それには先ほどの平沢さんのような元患者さんは人生の達人でありました、そういう方にまたいろいろ接触する機会を与えていただければと思っております。次お願いします。
 これは医学部の教員のFDなんかでよく使うのですが、「DALEの円錐」と言います。一番上の方へ行けば普通の講義です。そういうものよりも下に行くほど啓発の活動の効果、教育の効果が大きいと言われています。一番下は直接的にその療養所を訪ねる、ひながた体験、劇化された体験、少なくとも展示や見学などを入れないとあまり効果が上がらないということは、このハンセン病の啓発でも同じだと思います。次お願いいたします。 その1つで、恵楓園の近くの中学では、恵楓園を訪れたのをきっかけに入所者の方も協力していただいてハンセン病題材の創作劇で、大きな効果をあげておられました。次お願いいたします。
 歴史を学ぶことはとりわけハンセン病については重要であります。私は熊本には多くの施設があり、多くの重要な出来事がありましたので、「熊本ハンセン病歴史回廊」と勝手に呼んでおります、これらの施設を利活用して修学旅行コースなどもできればいいと考えています。現に東京の正則高校の皆さんは毎年恵楓園を学習旅行で訪ねていただいています。最近これらの施設を訪れる人が非常に増えているということであります。
 ハンセン病の資料を東京に集中するのも、学問的観点あるいは医学教育の観点からは極めて重要であると思います。一方で療養所のあるその地でハンセン病の歴史に触れる、目で耳でそして肌で触れることが、若い人の啓発に極めて大切なのは先ほどからのお話でありました。ハンセン病を風化させないためにも、歴史を刻んだその場の意義を考え、将来とも少なくとも三、四ヶ所、啓発の拠点を全国に分散すべきだろうと私は思います。しかしその他の地域におきましては、毎年講演会などとともに、これらの各拠点からの資料を巡回展示する方策を提案したいと思います。次お願いします。
 熊本県は平成13年から15年まで、ハンセン病資料収集を肥後医育振興財団に委託し、私が代表でその仕事を行っておりますが、現在も財団で細々と続けております。これらのガラスの大きな写真乾板、次お願いいたします、古い明治の時の写真なども残っています。このようないろいろな資料、やはりきちんと保存すべきであります。若い人に臨場感あふれる現場でそれを見てほしいと思います。最後のスライドお願いいたします。
 最後のスライドは、偏見、差別をなくす「薬」は、私は若い世代に対する啓発活動、そして正しい知識の普及、しかしこれだけではどうにもなりませんで、私たち一人一人が教養を磨くしかないと思っています。一橋大学の元の学長の阿部謹也先生は、「教養があるというのは他人の生き方を理解し、そしてそれを認めることだ」と言っております。そうでなければ、人に優しく接することができないのではないでしょうか。
 御清聴ありがとうございました。(拍手)

○金平
 本当に先生はいろいろと資料を整理して私たちに提示していただきましたし、いろいろ提案を招いていただきました。本当にありがとうございました。
 それではちょっと急ぎまして、最後になりましたけれども報道関係者を代表しまして、毎日新聞社の編集委員の江刺正嘉様にお願いしたいと思います。報道の立場からでございます。実は江刺さん、先日3月1日に私どもの検証会議の報告書を発表させていただきました。随分各紙が取り上げていただきました。私のところにいろいろな人から反応があったのですけれども、やはり「知らなかった」という声が非常に大きくて、「もうとっくに終わっている問題と思った」とか、それから「こんなにまでひどいと思わなかった」とか、いろいろなものがございました。やはり「新聞にも書いていなかったから知る機会がなかった」とか、それはちょっとその人の怠慢であろうかと思いますけれども、そういう声もございました。報道の立場からお願いいたします。

○江刺
 はい。ただいま御紹介いただきました毎日新聞の記者の江刺と申します。今、金平座長がおっしゃいましたとおりに、この検証会議の報告書で相当にマスコミの責任、特に報道してこなかったことでものすごくハンセン病療養所の実態を国民が知る権利を奪われた、あるいは、先ほど曽我野会長がおっしゃったような、患者運動を外に伝えるようなことを全くしてこなかったということで、厳しく指摘されております。そういう点も踏まえて、お話ししたいと思います。
 ただし私は2001年の熊本判決が違憲状態と指摘した1960年、昭和35年の生まれであって、新聞記者を20年やっていますが、残念なことに6年ほどしかハンセン病にはかかわっておりませんので、とてもこれまでの実践ということではないのですけれども、自分の反省も込めて、これまでの取材の経緯とか自分が考えていることを述べたいと思います。
 私がハンセン病にかかわったのは、実はハンセン病の患者の方はなくて、元HIVの患者の方との出会いがきっかけでした。それは私は1985年大分県に新聞記者として赴任した際に、そこに後に川田龍平君と同じように名前と顔を出してHIVの偏見と闘った草伏村生さんという方がおられまして、ちょうどそのころHIVの問題が起こり始めて、エイズ予防法とかそういう法律ができるということでその患者に対する差別ということで、その草伏村生さんがものすごく、ほかの血友病患者のためにも命を削って一生懸命闘っておられた、その患者を支える弁護士さんであるとか支援者の方に共感して、こういう人のために記事を書きたいと思ったわけですけれども、その後いろいろ転勤して、私はそういう記事から遠ざかっていって、草伏さんとの出会いが生かせなかったということをものすごく後悔していました。 そのときにあるとき、その支援者たちが熊本で、実はハンセン病の裁判をやっている、ところが熊本で裁判をやっているので元厚生省の幹部の方とかが、国に責任があるとか、次々と重要な発言をしている中でほとんど東京では報道されていない、この問題をなんとかやってくれないかということがありまして、自分も草伏さんとかと出会ったことがあったので、私はそれで、熊本の裁判が98年7月で、そのあと半年遅れて99年の3月に東京で同じような国賠訴訟が起こされまして、99年の暮れごろだったと思います、初めて東京地裁の一番大きい100人が入る法廷に行きましたけれども、通常であればそういう大きな裁判であると白いカバーがかかったマスコミ専用の席があるのですけれども、全くそこにマスコミの席はなくて、裁判所の事務員さんに聞いてみたら誰もマスコミは傍聴していないということでした。 私も唖然としてその法廷を傍聴しましたが、原告の方が意見陳述をされていて、本当に後遺症で曲がった手を裁判長に見せて、隔離政策の被害であるとか患者の園内作業でこういうふうになったということを本当に涙ながらに訴えられているのを見て、何とかこれを記事にしなければいけないということでこつこつこつこつ小さい記事ですけど書いていきました。 当時マスコミは、編集のサイドでも、96年のらい予防法廃止で、「もうハンセン病なんか終わっているだろう。なんでこんな記事書くんだ」ということをかなり会社の内部からも言われましたけれどもなんとか記事にし、それでこの2001年の判決、そして控訴断念というところで元患者の皆様と喜びをほんのちょっとでもそこの現場にいて分かち合えたというのが、私の新聞記者としての一生の財産だと思います。 ところが、その判決後、やはり判決でもうハンセン病問題は終わったのではないか。私の会社、私も含めて、記事を書こうとしてもやはりなかなかそういう問題について大きく扱われない、また記事のスペースがない。ハンセン病判決の時は療養所に足を運んだ記者の仲間たちもなかなか足を運ばなくなった。そういう中で起こったのがまさに先ほどから出ている、2003年11月の熊本の黒川温泉の宿泊拒否事件だと思います。これはまさにマスコミが本当の意味できちんとした問題の本質をとらえるような報道をしてこなかったということを、いみじくも象徴したような事件になったと思います。 この事件は、元患者の方が宿泊を拒否されたということとともに、大きな問題は、ホテル側が形式的な謝罪をしたことを、「こんなことでは謝罪になっていない」ということで謝罪を拒否した菊池恵楓園の自治会の人に対して心ない抗議が殺到したということこそが本来問題で、この金平座長がまとめられた検証会議の報告書ではこのように述べております。「ハンセン病の回復者たちが控えめに暮らすかぎりこの社会は同情するが、強いられている忍従に対して立ち上がろうとすると、社会はそれに理解を示さない。同情を裏切られたなどと受け取る。差別意識のない差別・偏見といえよう」、まさにこれは私たち、特にマスコミがきちんとしたハンセン病の報道をしてこなかったということを厳しく指摘されている問題だと思います。 先ほど言ったように、このハンセン病の検証会議ではマスコミがハンセン病の患者たちの闘争であるとか、療養所の中で行われてきたことをほとんど報道しなかったことがこの問題の解決を遅らせた大きな原因があるということを厳しく指摘されていますが、先ほど私が言ったような報道の取り組みの姿勢、例えば大きな法廷でもマスコミが誰も見ていない、その現実は実はハンセン病問題だけでなくて至るところにあります。今回の問題はマスコミの本質をものすごく厳しく指摘されたものだと思って、報道にかかわる人間の1人として重く受け止めなければならないと思っています。 それではどうすればいいのだろうか。それは当然こつこつ療養所に足を運ぶ。そして先ほど平沢自治会長がおっしゃったように、平沢さんのようにあちこちハンセン病のことを伝えようとしている人たちのことをもっともっと伝えなければいけない。特に私はやはり当然ハンセン病問題の検証会議が出されたいろいろなマスコミの問題も含めて、そういうことが今後どう生かされていくのかというのを、記者として当然その後もウォッチしなければいけませんけれども、より具体的に差別と偏見をなくすための取り組みとしては、やはり学校現場、特に学校現場で若い子供たちにハンセン病の元患者の方と直接触れ合うようなそういう機会をもっともっと設けてもらうべきだし、そういうことをもっともっと推奨するような記事を書いていかなければならないと思います。 去年の10月に亡くなられたハンセン病の駿河療養所という静岡の御殿場の療養所の元自治会長をされていた西村時夫さん、この方はその2ヶ月前の金平座長がやっている検証会議において、「ハンセン病に対する偏見と差別だけは残ってほしくない。ハンセン病回復者の人権が回復されて私は死にたい」と言いながら、その2ヶ月後の去年の10月に亡くなりました。私はたまたまその西村さんのお通夜には行けませんでしたけれども、葬儀に参加することができました。そこで西村さんの友人がおっしゃっていたことがとても印象に残りました。西村さんがまだハンセン病の訴訟も何もそういうふうになっていないときに、こつこつこつこつ学校を回ってハンセン病問題に対する啓発をずっと繰り返していた、その話を聞いていた子供が、実は私が行った葬式の前日お通夜に何人も駆けつけて、ものすごく西村さんの死を悲しんでくれた。まさに西村君がまいた種が少しずつ芽生えようとしている。私たちに求められているのはそういう、元患者の方と特に若い人とのふれあいを支援するような報道であると思います。 先ほど配られたのは、私のつたない「人ものがたり」という記事のA4のコピーがあると思います。これは難病の子供さんと草津の栗生楽泉園というところにおられる浅井あいさん、この「わたしたちにできること」のパンフレットの6ページを御覧いただければ、浅井あいさんのことが紹介されていますが、この子供さんと文通を、両方とも目が不自由なのですけれども、この目が不自由な9歳の子供さんが浅井あいさんの励ましによってくじけずに生きていけたということを書いた記事です。実はこの子供たちより大きな子供たちのことがこの6ページの記事に書いてあって、ちょうどハンセン病の判決の時に初めて浅井あいさんは里帰りすることができて、そのときに支援をしていろいろ文通をした小学校6年生の生徒が、あしたあさって中学校を卒業して、再び浅井あいさん、浅井あいさんは今こちらの会場にも来られている谺雄二さんが一生懸命支援されていますが、ちょっと体が弱くなってなかなか外には出られないので、その谺さんとその支援者の方々が、浅井あいさんの写真集を20日の日ですが金沢で中学校を卒業された子供に手渡すそうです。私もぜひそこに取材に行って、その子供たちが浅井あいさんと出会ってどんなことを今思っているのか、ぜひ取材して報道したいと思います。理屈よりも、まず私たちは、とにかくハンセン病に限らずに、患者の方とか社会的弱者の方と私たち健常者がどうやって共生をしていくかということが、まさに私たちの報道いかんにかかっていると思いますので、有言実行でやっていきたいと思っています。どうもありがとうございました。(拍手)

○金平
 江刺さんどうもありがとうございました。これまでの反省にも立ちながら、しかし江刺さんがどんどん今御自分の行動で、いろいろな方にお会いになって、そしてそこから今新しい提言をどんどんしてくださっているように思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、これで全員の方の御発表が終わりました。冒頭に申しましたように、これからちょっと横のディスカッションとそれからフロアとのディスカッション、それには時間がなくなってしまいました。もしも5分だけ延長をお許しいただくことができるならば、よろしいでしょうか、1人だけこのフロアの方からも、こちらの方の誰かに御意見をおっしゃってくださるか、御質問でもいいですが御意見になればそれでありがたいですが、どうでしょうか。5分延長していただけますか。
 司会としてはやはり時間を守らなくてはいけないと思いながら、もしフロアの方からお声を出していただければと思って提案いたしました。特に反対のお声がないので、勝手に5分延長させていただきます。よろしゅうございますか後ろの方も。
 それではお1人だけどなたかお手をお挙げくださいますか。そして最後に、もう時間がなくなったので横のあれができなくなりましたので、小野先生がおっしゃったのかな、元患者さんは人生の達人だと、この中には達人が平沢さんなので、平沢さんが最後にみんなのこのパネリストの話を聞いて、達人の立場から一言コメントをいただいておしまいにしたいと思います。
 それではお1人どなたかございますでしょうか。御意見おっしゃってくださる方か御質問か。ないですか。
 わかりました。それでは今申しましたように平沢さん、皆の話を聞いて、これからそれぞれの立場で再発防止と申しますか、普及啓発を通してこの差別偏見をなくそうという努力がこうやって続けられていることをお聞きくださった御感想を述べていただけますか。

○平沢
 私は人生の達人でも何でもなくて、13歳でハンセン病として63年生きてまいりました。
 この63年が私の財産です。この財産を、21世紀を背負う子供たちに、人間は先ほど言ったようにいろいろな形で生まれてきているけれども、苦しいときにハンセン病の歴史を心にとめて、少しでも強く優しく正しく生きてほしい、こういう思いで学校教育に全国を飛び回らせていただいているところであります。
 特に小学生はよく聞いてくれます。そういう点でもうあと少しで78歳になりますれども、きょうもショキが来ていますけれども、6月台までいろいろなところからあってうれしい悲鳴を上げている、こういう状況が生まれている中で、今パネリストの先生方がいろいろな角度からハンセン病問題を真の解決のために、それぞれ具体的に提案をなされました。特に熊本の状況やそして毎日新聞の江刺さんからの提言等も大変参考になって、確かに肉体的に体力的につらいです。でもやはり私がそういう仕事を喜んでできるのも、学校へ行ったとき子供たちが励ましてくれて、「平沢さんがんばりなさいよ。私たちがついてるよ」、さっき西村君の話がありましたけれども、自慢するわけではないですけど東村山にある7つの中学校と15の小学校、私立と合わせると30近くあります。この子供たちが駅頭や何かで、「きょうはどこへ行くの」、こう言って挨拶してくれます。
 私は昭和25年に、医者でもない人間に、優生保護法で、自分の子供や孫を持つことができなかったですけれども、今数多い孫たちや子供たちに「がんばっていきなさい」、こういう励ましを受けているところであります。卒業の論文にマスコミとハンセン病、あるいは教育とハンセン病、10年前に教えた子供たちがそういう論文を大学で書いたといって送ってくれる。そういうことを考えたとき、肉親はいなくてもやはりそういう人たちに励まされて残された人生を生きられるということは大変幸せじゃないかと。さっき曽我野さんも言いましたけれども、そういう思いで好きでやらせていただいているところであります。
 私が今から7年前に会った、今は亡きブラジルのワクラーというハンセン病の回復者は、私にこういうことを申し上げました。「顕微鏡でのぞけばやっとわかるらい菌に人間が負けてたまるか」。そして「1人で見る夢は消えるけれども、みんなで見る夢は必ずあしたがあるのだ」こう言い残してがんで亡くなりましたけれども、世界ではIDEAと言って国や政治や宗教は違っても、ハンセン病で苦しむ人たちが手を携えて生きようとしています。これは世界の平和にもつながるのではないかと思いますし、WHOはハンセン病は医学的に解決したと、でも昨年、人権小委員会でハンセン病問題は人権として取り上げよう、こういう決議もしています。
 遅れましたけれども、私たちはこれからの仕事が待っています。それにどうこたえていくか、そのこたえ方によって、国民から本当のハンセン病の現実を知っていただくというふうに思います。人間だけにある心、この心を大切にしながら、お互いに交流を深めていくために、きょうのシンポジウムは私にとって大きな励ましになったし、諸先生方の提言は、これから全国の13ヶ所の約3,400人、そして社会復帰者二千数千人の大きな財産としてきょう築きあげられたというふうに受け止めて、心から感謝と敬意を申し上げたいというふうに思います。
 どうもありがとうございました。

○金平
 平沢さんどうもありがとうございました。これで予定いたしましたパネラーの方のお話は全部終わりました。
 熊本の地裁判決からもうすぐ4年が経とうとしています。判決の後で、国が設置いたしましたハンセン病検証会議は、3月1日に最終報告書を厚生労働大臣に提出いたしました。私ども検証会議は、まもなくもう2週間ほどで解散と申しますか、その任務を終えます。資料も入れますと1,500ページにも及ぶ検証報告を出しました。
 ただ検証の作業にかかわってみて思ったことでございます、これは最後の会議の時に検証会議メンバーがこもごも話したことでございますけれども、私どもこのハンセン病の隔離政策、そしてその被害、そしてその結果人々に植え付けた差別感情、偏見の意識というふうなものはまだまだ残っているということ、そしてその意味では検証というのはまだこれからだということを皆で話しました。検証会議としての検証は終わったけれども、検証せねばならないことはたくさんある。まだ出発点だ。
 そういう意味できょうお話にも出ましたけれども、私たちの社会では、差別をなくすために不断の努力ということが今後とも必要なのかと思っております。きょうは大変各界の方たちがそれぞれの取り組みをしていらっしゃるのを伺って、大変僭越ですけど司会をさせていただきまして大変心強く思いました。再発防止は政府とか自治体だけではなくて、それぞれの立場でそれぞれできるところからやっていかなければならないだろうと思います。政府の方には、検証会議からもその再発防止の提言をさせていただきました。それをなくすための工程表、すなわちロードマップを作って、解決への政府の努力をお願いしたところでございます。
 私はきょうここに集まりました各界の皆様たちとともに、各機関、団体をはじめ、社会の一人一人がこれからは内なる差別に向き合いながら差別のない社会を作る、そういう決意と行動が必要ではないかと思います。
 きょうは司会をさせていただきましたけれども、大変時間がなくなりまして、もっともっとやりとりができればと思いましたけれども、そういうことができなかったことをお詫びしながら私の司会を終わらせていただきます。どうもきょうはありがとうございました。
 どうも皆様方ありがとうございました。

○司会
 皆様大変お疲れ様でございました。本日のこの貴重なお話の数々が今後の我が国のハンセン病に関する正しい知識と理解の普及啓発に寄与することを願いまして、本日のシンポジウムを閉会させていただきます。
 厚生労働省といたしましても、引き続き普及啓発活動に努めてまいりたいと存じます。また、各都道府県をはじめ、本日お集まりの方々におかれましても、今回のシンポジウムの趣旨などを御理解いただきまして、ここでまかれた種をそれぞれで持ち帰ってまた普及活動をそれぞれにおかれましても特段の配慮をお願いできればと存じております。
 また冒頭申し上げましたとおり、アンケートの御協力をお願いいたします。長時間にわたりまして本日はどうもありがとうございました。(拍手)(終わり)

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