施設紹介
園内に所在する
モニュメント
面会室
2012年(平成24)に復元 室内は壁によって2つの区画に分けられ、面会は壁越しに行われた。職員立ち会いの下、面会が行われることもあり、隔離されていることを実感する場面となった。また、面会後の履き物の消毒など厳重な管理下で行われ、面会者に恐ろしい病気であるかの印象を与えた。
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面会室。右手に患者地帯と職員地帯を隔てていたコンクリート塀が見える(沖縄愛楽園自治会所蔵)
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開園時の正門付近(「国頭愛楽園写真年報 昭和十三年」)
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現在の面会室
コンクリート塀跡
園内は、コンクリート塀や丘、鉄条網などで仕切られ、在園者と職員・来園者の場所が分 けられていた。それぞれを患者(有菌)地帯、職員(無菌)地帯と呼び、その境界を在園者 が無断で越えると監禁処分となった。また、家族への手紙など、物が越える場合は消毒が施 され、急病人が出たときでさえ拍子木を鳴らして職員へ連絡する必要があった。
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消毒室(「国頭愛楽園写真年報 昭和十三年」)
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「境界門」から退園者を見送る(『沖縄救らいの歩み-沖縄愛楽園開園25周年記念誌-」)
准看護学校跡
全国的な看護師不足を背景として、1973年(昭和48)に開校 学校長は愛楽園園長が兼務したが、当時の愛楽園は医療危機が何度も叫ばれる状態で、講義や臨床実習は県立名護病院(現、県立北部病院)の協力のもと行われた。2001年(平成13)に28年の歴史を閉じ閉校となったが、787名の卒業生を世に送り出した。
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学校の玄関前で(『心のかぎり看護する 閉校記念誌』)
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生徒も参加して行われた体育祭(鈴木幹雄撮影)
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准看護学校跡地に建つ校歌碑
祈りの家教会
1939年(昭和14)に園内最初の宗教団体として発足した“光生会(後に聖公会に帰属)”を母体とする教会で1953年(昭和28)に米国聖公会などの寄付により建設 教会の名前は、宗派に関係なく誰でも祈れるようにという願いを込めて付けられた。
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MTL相談所時代の集金。正面中央、服部団次郎、右端青木恵哉(『沖縄から筑豊へ-その谷に塔を建てよ』)
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建設当時の祈りの家教会(沖縄愛楽園自治会所蔵)
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現在の祈りの家教会
監禁室跡
1916年(大正5)に癩予防ニ関する件の法改正で療養所長に懲戒検束権が附与され、療養所内に監禁室が設置された。園長の権限で監禁室は使用され、処罰は減食、監禁などであったが、その基準は曖昧なもので、在園者から恐れられた。准看護学院建設により撤去されるまで存在していた。
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沖縄県癩予防協会から寄贈された監禁室(「昭和十五年年報」国頭愛楽園)
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撤去される前の監禁室(沖縄愛楽園自治会所蔵)
水タンク被弾跡
愛楽園は、沖縄戦時下、米軍の空襲や艦砲射撃により徹底的に破壊されたため、開園 当時の構造物で現存するのは水タンクと職員官舎などの塀だけである。弾痕は、水タ ンク南側や職員官舎の塀に残っており当時の状況を生々しく伝えている。米軍が沖縄 戦時に作成した戦略地図に一度だけ愛楽園の場所はBARRACKS(兵舎)と記されており、 軍関連施設と考えていた可能性がある。
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米軍の戦略地図。屋我地島の北端、愛楽園の場所は「BARRACKS」と表記されている。
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空襲で破壊された愛楽園。事務本館は玄関部分のみが残り、官舎は基礎だけになっている(沖縄県公文書館所蔵)
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現在も残る水タンク
済井小中学校跡
幼少期にハンセン病を発症し、親と引き離された子供たちのため開園翌年、私設 の学校「愛楽学園」がつくられ、その後1951年(昭和26)群島政府立「済井初等 中等学校 附設若竹幼稚園」として開校した。他校への転入学や進学など様々な 場面で病歴が影響を与え、今でも多くのものはハンセン病回復者であることを隠 して生きている。碑は卒業生を中心に建立され、校歌の一部が刻まれ、授業の開 始や終了を知らせた鐘が下げられている。
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1958年の授業風景(『広報琉球』)
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1970年代になると生徒数は10名以下となった(鈴木幹雄撮影)
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澄井小中学校之碑
聖フランシスコ・ザベリオ教会
ザベリオ教会は、熊本県の私立療養所徒労院で療養経験があり、同院でカトリック の洗礼を受けた天久佐信を中心に設立された。教会敷地を求める要望書が自治会に 提出されていたが、1968年(昭和43)に各区常会と運営委員会の賛同が得られ、 1970年(昭和45)に献堂式が行われた。
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ホセ神父と聖母絵を囲んで(沖縄愛楽園自治会所蔵)
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献堂式(沖縄愛楽園所蔵)
「希望と自信の鐘」鐘楼
愛楽園の戦後復興に尽くしたスコアブランド博士の故郷ドイツから寄贈された「希望 と自信の鐘」を下げるため、園内外から寄付を集め、在園者の手で鐘楼がつくられた。 鐘は時刻を告げる時鐘として使われていたが、在園者の高齢化により鐘打ち作業が難 しくなり、2008年(平成20)丘の下に移された。
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在園者による鐘打ち(鈴木幹雄撮影)
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那覇港に陸揚げされた「希望と自信の鐘」(沖縄愛楽園自治会所蔵)
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スコアブランド博士を称え建立された銅像
早田壕
1944年(昭和19)早田 皓園長の下、園内の戦時体制化が進められ、横穴壕づくりが行 われた。貝殻の化石が堆積する地層を鍬やつるはしで掘る作業は、ハンセン病の末梢 神経障害で痛みの感じにくい在園者にとって傷の発見の遅れや悪化などで指や足の切断 につながるなど過酷なものだった。空襲でなくなったのは1名であったが、栄養失調や マラリア、赤痢などによる死者(1994年9月から翌年末まで)は、289名にのぼった。
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愛楽園上空を飛ぶ米軍のグラマン戦闘機
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壕から出た在園者は焼け残った板などを集めて掘っ建て小屋をつくり、生活を始めた(「愛楽園被爆始末記」)
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現在の早田壕
火葬場跡
開園時に火葬場はつくられた。葬儀に関する棺や骨箱の制作、火葬や納骨などを初め として、不自由者の付き添い、炊事、屎尿処理などが在園者の手によって行われてお り、患者作業と呼ばれた。1962年(昭和36)に現在の霊安棟南側に新たに建てられた が、1963年(昭和37)からは園外の火葬場を利用することとなった。
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火葬場(国頭愛楽園写真年報)
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園外での仮葬(鈴木幹雄撮影)
声なき子供たちの碑
ハンセン病療養所で暮らす男性に対する不妊手術(断種)は、1915年(大正4)光田 健輔医師によって始められたが、法的根拠はなく違法なものだった。1948年(昭和23) の優生保護法により不妊手術は合法とされたが、米軍統治下の沖縄では1972年(昭和 47年)の本土復帰まで違法状態が続いた。2007年(平成19)、奪われた子供たちを供 養する“声なき子供たちの碑”が建てられた。
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納骨堂に安置されている「幼児の霊」と書かれた骨壺(沖縄愛楽園自治会所蔵)
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声なき子供たちの碑除幕式(沖縄愛楽園自治会所蔵)
納骨堂
開園時、園内に死者を祀る施設はなく、引き取り手のない遺骨の扱いに苦慮していた 塩沼英之助園長は沖縄MTLに依頼、沖縄MTLは1940年(昭和15)現在、青木恵哉 顕彰碑の建つ場所に納骨堂を建てた。沖縄戦により多数の弾痕の残る納骨堂は1969年 (昭和44)の建て替えを経て、1988年(昭和63)開園50周年を機に現在の納骨堂へと 作りかえられた。
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納骨堂竣工式(沖縄救らいの歩み-沖縄愛楽園開園25周年記念誌)
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慰霊祭(沖縄愛楽園自治会所蔵)
愛楽園発祥の地
1938年(昭和13)11月に臨時国立療養所として開園した愛楽園は患者立療養所と言わ れることがあるが、それは青木恵哉や大城平八らハンセン病を患うもの自身が手に入 れた土地が愛楽園の礎となったことに由来する。1935年(昭和10)12月、羽地内海の 無人島ジャルマ島から青木恵哉ら15名が大口浜へ上陸し生活を始めた場所であり、こ の場所は愛楽園発祥の地と呼ばれている。
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屋部の隔離小屋前に立つ青木恵哉(「日本MTL長島支部パンフレット№2」)
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MTL相談所開所まで生活していた小屋(「国頭愛楽園写真年報 昭和十三年」)
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愛楽園発祥の井戸跡
青木恵哉頌徳碑
愛楽園の礎を築き「沖縄救癩の先駆者」と呼ばれた青木恵哉を顕彰する碑。青木 の死去翌年より愛楽園自治会による建立計画が始まり1971年(昭和46)に除幕式 が行われた。青木の出身地の徳島県より青石が寄贈され、真ん中が青木、側の二 つが病者をイメージしている。土台には青木らが偏見と差別を受けながら回った 各集落の石がはめ込まれている。
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1971年4月作成の頌徳碑建立趣意書の一部。当初、在園者のアンケートによりスコアブランド公園が敷地とされていた。
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頌徳碑除幕式(愛楽園自治会所蔵)