99/10/05 第8回生殖補助医療技術に関する専門委員会議事録 第8回 厚生科学審議会先端医療技術評価部会 生殖補助医療技術に関する専門委員会 議 事 録 厚生省児童家庭局母子保健課 第8回厚生科学審議会先端医療技術評価部会 生殖補助医療技術に関する専門委員会議事次第 日  時  平成11年10月5日 午後 1:30〜 3:29 場 所  メルパルクTOKYO 郵便貯金会館 5階 瑞雲 議 事    議題1  生殖補助医療技術に関する有識者からの意見聴取         (対象者)         ・加地伸行氏 大阪大学名誉教授(中国哲学史、日本思想史、儒教)         ・中野東禅氏 曹洞宗教化研修所講師、大正大学講師(仏教教化学)    議題2  その他 ○椎葉課長補佐  それでは定刻になりましたので、ただいまから第8回厚生科学審議会先端医療技術評 価部会生殖補助医療技術に関する専門委員会を開催いたします。本日は大変お忙しい中 お集まりいただきましてまことにありがとうございます。  本日は全員の委員の先生がご出席いただいております。また、本日の議事1でござい ます有識者からの意見聴取においてお話をお伺いいたします大阪大学名誉教授の加地伸 行先生と、曹洞宗総合研究センター教化研修部門講師の中野東禅先生にもご出席をいた だいております。  議事に入ります前に、事務局に8月31日付で人事異動がございましたので、この場を おかりいたしましてご紹介いたします。 本日所用で欠席しておりますが、児童家庭局長に真野章が、また科学技術児童家庭担 当審議官に堺宣道がついております。また母子保健課長でございますけれども、小田に かわりまして藤崎清道が、課長補佐には、北島にかわりまして私、椎葉がついておりま す。 まず母子保健課長の藤崎からごあいさつ申し上げます。 ○母子保健課長 8月31日付で母子保健課長を拝命いたしました藤崎でございます。 どうか先生方よろしくお願い申し上げます。 私、この専門委員会には本日初めて出席させていただきます。これまで7回の専門委 員会のご審議をいただいているということでございます。昨年の10月21日からというこ とですので約1年経過をいたしたわけでございますが、大変にむずかしい、しかし大変 重要な問題につきまして先生方、中谷委員長をはじめ大変にご尽力いただいているとい うことを、この場をかりて厚く御礼申し上げます。  本日の委員会を含めまして、これからさらに精力的に先生方のご審議をお願いするこ とになろうかと思いますけれども、どうかよろしくお願い申し上げます。  また、本日は加地先生、中野先生においでいただきまして、それぞれの専門分野のお 立場から貴重なご意見を賜るということでございます。どうぞよろしくお願い申し上げ ます。 ○椎葉課長補佐  それでは議事に入りたいと思います。中谷委員長、議事進行よろしくお願いいたしま す。 ○中谷委員長  本日は雨もようのお天気になってしまいましたけれども、皆様おそろいでご出席いた だきましてまことにありがとうございます。  きょうは特に加地伸行先生、遠路はるばるご出席いただきましてありがとうございま した。中野東禅先生にもわざわざご出席をいただきましてまことにありがとうございま した。皆さんご意見を承ることを大変楽しみにして参りましたので、どうぞよろしくお 願いいたします。  それでは、当委員会を始めますに当たりまして、議事に入ります前に事務局から、き ょうの資料の確認をお願いいたしたいと思います。 ○武田主査  それでは資料の確認をさせていただきたいと思います。お手元にある資料、まず議事 次第がございます。次に資料2でございますが、中野東禅先生のご意見でございます。 本日は加地先生のご意見もお聞きすることになっておりますが、加地先生につきまして は資料のほうは特にございません。次に参考資料の1でございますが、インターネット 等で寄せられた生殖医療に関するご意見でございます。  その次に机上配付資料でございますが、生殖補助医療技術の各国比較について、アメ リカの生殖医療の研究をやっているところが出された資料でございまして、こちらのほ うは中谷先生からご提供のあった資料でございます。次に机上配付資料の2でございま すが、ドイツ医師会の生殖医療に関するガイドラインでございます。次に机上配付資料 の3でございますが、こちらはクローン関係の資料でございまして、机上配付資料2, 3ともに中谷先生から提供のあった資料でございます。机上配付資料の4でございます が、こちらは三菱生命科学研究所の島先生からご提供のありました、生殖医療とバイ オエシックスに関する諸外国の状況の資料でございます。  そのほかに、先生方のお手元には前回の議事録を配付させていただいております。  資料のほうは以上でございます。 ○中谷委員長  ありがとうございました。それでは次に議事1の「生殖補助医療技術に関する有識者 からの意見聴取」に入りたいと思います。事務局から、加地先生と中野先生のご紹介を お願いいたします。 ○武田主査  本日ご意見をお聞きします加地伸行先生でございますが、昭和11年にお生まれになり まして、現在、大阪大学の名誉教授でございます。ご専門は中国哲学史、日本思想史、 儒教でございまして、文部省のクローン関係の専門委員会の委員をされております。本 日は加藤先生のご紹介によりましてヒアリングをお願いした次第でございます。 次にヒアリングをさせていただきます中野東禅先生でございますが、昭和14年にお生 まれになりまして、現在、曹洞宗総合研究センター教化研修部門講師でございます。こ のほかに大正大学、武蔵野女子大学におきましても生命倫理学等の講師をなさっており ます。 専門は生命倫理学や仏教教化学でございまして、医療と宗教を考える会の世話人をされ ております。中野東禅先生につきましても、加藤先生のご紹介により本日出席をいただ いております。 以上でございます。 ○中谷委員長 ありがとうございました。それでは早速、加地先生のご意見を承らせていただきたい と思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。 ○加地氏 生殖補助医療ということにつきまして、これはもちろん現代の問題でありますが、私 は先ほどご紹介いただきましたように中国哲学史、わけても儒教関係につきまして研究 してきた者でありますので、東南アジアは含まずに、東北アジアの伝統的な生命観につ いて申し上げることが、皆さん方の生殖補助医療に関するご検討に役立つかと思われま すので、それを述べたいと思います。 中国思想には大きな流れが幾つかございますけれども、その中で私は儒教的立場につ いて特定して申し上げたいと思います。まだそのほかにも老荘的立場とかございますけ れども、儒教的立場というものが中国人に圧倒的に支持されてきましたので、中国人の みならず、これから申し上げますように朝鮮民族、日本人においても支持されてきたと 思われますので、儒教的立場に限って申し上げたいと思います。 生命観は同時に死ぬことを含んでおりますから、死生観とセットになっているもので ございます。そういう形でお話ししていきたいと思います。 そこで図式的に、最初は幾つかの点について、他の文化との違いを申し上げておきた いと思います。 他の文化はたくさんございますけれども、代表的なものとしましてキリスト教文化、 インド文化、それから私が申し上げます儒教文化、この三つに絞らせていただきまし て、幾つかの点での大きな相違をあらかじめ申し上げたいと思います。 まず精神についてでありますけれども、これは3文化ともにもちろん認めているわけ でございます。ただ、精神の次に身体の問題になりますと大きく違ってまいります。  キリスト教文化では、身体というのはご承知のように、人間の身体は泥でつくったも のでありますから、死ねば土に戻るだけのことでございます。インド文化の場合は大き くは輪廻転生していきますので、ある生命が終わりますと、次はどういう生命になるか はわかりません。ですので、身体は問題にしないわけであります。つまりお墓がつくら れないというのはそこにあるわけです。キリスト教でつくっていますお墓と申しますの は、最後の審判で天国へ行けるときに乗っていくロケットみたいなものですので、われ われのお墓とは全然違うわけであります。  儒教文化の場合は身体を大事にします。精神と同様に大切にいたします。これがまず 大きく違うところであると思います。  その結果、体と心との関係におきまして、いま申しましたように、キリスト教文化や インド文化では精神を重んじますから、精神と身体とは分離されているわけですが、儒 教文化ではこれは一体化されております。  今日のわれわれの科学の常識から言えばおかしいかと思われますけれども、たとえば 伝統的な儒教文化の医学に対する考え方で申しますと、精神は頭とか心臓にあるのでは なくて体全身にめぐっているというふうに理解しております。皮膚の表面の血気とか精 気とか、そういうものも精神の表現として見るものでありますので、精神は身体じゅう に流れているという考え方が生まれてくるわけであります。まずこのへんが大きく違う ところであろうと思います。  次に時間の問題でありますが、キリスト教文化もインド文化も時間は無限ということ になっております。もちろんこれは絶対者をつくっているわけですから無限ということ になりますが、儒教文化は無限ではございません。時間は有限です。  ですので、たとえば人間の始まりといいますときには、キリスト教ではもちろん神が 創造されたわけですから、果てしなく遠い遠い昔になるでしょう。インド文化は輪廻転 生してめぐっておりますから、これも循環的でありますから無限、どこから始まったか わからないということになる無限だと思います。  ところが儒教の場合は、人間の始まりは何かいたんでしょうけれども、そういう意識 ではないんです。自分の家とか一族とかの始まりというところから時間のスタートをす るんです。その始まりのことを始祖と申します。だれだれから始まっているという意識 なんです。これが人間の生活の時間の有限ということであります。  ですから、東北アジアの人間は、自分はどこから始まったかというときに、天地創造 なんて話はありますけれども、そういうものはほとんど関心がございません。自分の家 はだれから始まった、そういう意識が強烈であります。  そうしますと、これは有限でありますから、始まりはあったとしても、この後続けさ せていくということにはすごく努力が要るわけなんです。努力して命を続けさせていく ということが、そこに意識として出てくるわけであります。放っておくというわけには いかないわけであります。ここが大きな違いかと思われますので、あらかじめそのこと を申し上げたいと思います。  あえて申しますならば、生命の連続ということについて努力していくということが、 東北アジアの儒教文化の生命観であります。このことを初めに申し上げたいと思いま す。  私はあえて東北アジアと申しましたのは、東南アジアとずいぶんと違うからでありま す。そのことを次に申します。  われわれの東北アジアには、ある生命観があったんでしょう。それを抽象化してシス テムとしてつくり上げた大きな文化が儒教であります。たぶんたくさんいろんな文化が あったんだろうと思いますけど、皆消えていきまして、結局儒教が残ったわけですね。  日本におきましては神道がそういうものを、ある生命観を持ちながら続いてきている と思います。日本における神道とか、中国で発生した儒教というのは東北アジアの、あ る死生観、生命観というものをベースにしてつくり上げた文化であるわけです。これが まず第1であります。  本日も仏教のお話が出るかと思いますけれども、いま一つ仏教との関係について大筋 だけを申し上げておきたいと思います。  ご承知のように仏教はインドで生まれましたけれども、ヒマラヤ山脈という物理的な 障害がありましたために、仏教は南と北とで伝わり方が二つできたわけであります。  南のほうはいわゆるミャンマーとかカンボジアとかラオスとか、東南アジアへ向かっ ていくわけでありますが、ここには仏教に対抗できるだけの文化がなかったと思われま すので、仏教が広がります。その仏教は、後ほどもご説明があるかと思いますけれど も、われわれがいわゆる小乗仏教と申しております東南アジアの仏教は原始仏教にきわ めて近いものであります。ですから、仏教の原形が大体東南アジアに残っていると考え てよろしいかと思います。  一方、ヒマラヤの北からめぐって中国に入ってきました仏教のほうは、ここで儒教と 激突するわけであります。文化対文化の衝突であります。  そこでどうなったかと申しますと、西暦1世紀に仏教が中国へ入ってきまして、その 途中通りましたチベットは対抗する文化がありませんでしたから、原形的なものが残っ ていっていますけれども、1世紀に仏教が中国に来ますと、これを最も批判したのは儒 教側であります。  時間がありませんから省略いたしますが、まず激しい論争が始まりますが、ここが東 北アジア人の性格かもわかりませんが、中国人の仏教者が、その仏教をそのまま述べた のでは中国人に通じないということで、儒教的なものを取り入れていくわけでありま す。つまり折衷していくわけです。これが広くは大乗仏教と言われているものでありま すけれども、とにかく儒教的なものを取り入れていったわけであります。具体的に申し ますと、お墓がそれでありますし、葬式がそれでありますし、位牌がそれであります し、法事、先祖供養皆そうであります。  これを取り入れましてミックスしてでき上がったのが中国仏教と言われるようなもの で、大体西暦7世紀から8世紀にかけてはほぼ折衷的なものができ上がったわけだと思 います。  それが日本に伝わってくる。もっとも、早く伝わったのもありますけれども、いろん な人が勉強に行ったのも7、8世紀ごろからでしょうから、日本仏教は初めから儒教が 入っているんです。ここのところが大事だと思います。  仏教という言葉は正確ではありません。やはりインド仏教とかチベット仏教とか東南 アジアの小乗仏教とかあるいは日本仏教、そういう言葉で言うべきだと思いますので、 仏教という言葉で議論されている方が多いですけれども、私はだいぶ違うと思います。 ですから、日本仏教の場合はインド仏教と異なって儒教的な影響が非常に大きいとい う、このことを抜きにすることはできないと思います。これが大きく、初めにご理解い ただきたいという図式でございます。  続いて儒教そのものについて申し上げたいと思います。儒教の根源的な宗教意識は一 言で言えます。それはシャーマニズムであります。亡き霊魂を呼び戻すという、ちょっ と粗雑な定義で失礼いたしますけれども、魂を招き、現世の遺族と出会わさせる、魂を 戻す、そして死者と出会うというシャーマニズム、それが儒教の根本でございます。  ですので儒教では、自分の亡くなった祖霊を呼び戻すということが最も重要な儀式と なるわけです。われわれの言葉では祖先祭祀と申しております。これは日本仏教では先 祖供養という言葉で表現しております。  その場合、ごく簡単に申しますと、先ほど申しました精神と身体の両方を大切にして しかも精神と身体と重なっているのです。  そこで儒教ではこういうふうに申します。精神のほうを抽象化したものを魂(こん) と申します。肉体のほうを抽象化しましたものを魄(はく)と申します。魂と魄とが一 致しているときが生きている状態である。これが儒教の生命観であります。死とは何で あるかというと、魂と魄とが分離することであります。分離後、魂は天に、魄は地下へ と行くわけですけれども、先ほど申しましたように時間は有限でありますから、空間も 有限となります。感覚的に。  ですから、たとえば天と申しますと、この部屋で申しますと、壁があって、天井があ って、壁があります。この目に見える範囲内、これが天なんですね。その外はありませ ん。 ですから儒教では、天という意識は、感覚で見える範囲内が天でありますから、キリス ト教が言う天国とか、インド仏教が言う極楽とかは信じません。それから地獄も信じま せん。土といっても掘れるところまでしか信じませんから、そんな地下深くのところに 地獄があるなどというのはだれも信じなかったわけであります。  ですから、魂はずっと上がりましても天井に当たりましたらそこでストップしまして 外へ行かないんです。天井の向こうへ抜けられないわけですね。天空にフワフワと浮い ているということであります。浮いておりますから呼び戻すことができるという仕掛け になっているわけであります。  魄のほうも手で掘れる範囲内に置いておきますね。それの管理場所がお墓でありま す。われわれのお墓というのは魄の管理場所でございます。  管理してある魄を呼び出し、浮いている魂を呼び出して、魂と魄を一致させましたら 再び生き返ることができる、再生するという思想であります。  ですから、魂を呼び、魄を呼ぶというのが儒教の祭りでありまして、それを行ってい るのが祖先祭祀ということであります。これが仏教に取り入れられまして先祖供養とな りますが、さすがに仏教は骨を拝むということは許されなかったわけですね。それは根 底的にインド仏教の否定になりますから、中国仏教も日本仏教も骨を拝むということは 拒否し続けてきたわけですね。  ですから、われわれの場合、たとえばこの間の彼岸でもお盆でも、お仏壇の位牌とい うのは祖霊の帰ってくる場所でありますが、そこへは魂だけ呼んでいるわけですね。家 族は後ほどお墓参りして魄と出会っている。セパレートになっているわけであります。 本来は儒教なら一致して一緒にやるんですけれども、わが日本仏教では、先祖供養とお 墓参りとは完全に分かれているわけですね。本来は一緒だったわけです。  魂と魄とが戻ってきましたら、それでこの世に帰ってきたことになりますので、遺族 が出会う、家族が出会う、子孫が出会うということになるわけであります。過去の死に 対して、死者を呼び戻すという重要な観念でございます。  もう一つあります。これは生きている者の未来の問題であります。亡くなった人、過 去、これは祖先祭祀によって呼び戻すわけでありますけれども、未来、生命のほうはど うであるかというと、儒教に重要な概念がございます。  それは、古い文献、西暦前の文献に載っている、『礼記』という重要な古典に載って いる言葉でありますが、遺体という言葉であります。現代日本語では、遺体というのは 死体という意味とほとんど同じような意味に使っておりますが、元来そんな意味ではご ざいません。遺体というのは残した体という意味であります。残した体だから死体とい う意味に使われるようになったんでしょうね。遺体、残した体である。  これはどういうことかと申しますと、子どもは父母の遺体である、子は父母の遺体で あるという重要な概念があるわけです。ありていに申しましたらコピーということであ ります。  私はあえて偶然という言葉で言わさせていただきますけれども、私は自然科学はよく わかりませんが、今日の生物学が言うところのDNAが、乗りかえ乗かえて生きていく という、それと同じことに近いですね。子は父母の遺体である。個体は消滅しますけれ ども、生命が乗り継ぎ乗り継ぎしていっているんだ、こういう観念であります。これが 生命に対する重要な基本的な概念となっているわけであります。この二つでございま す。東北アジアにおける生命観の根本は。  亡き死者、過去の死に対しては魂魄を呼び戻して出会う。一方、生きてある、個体と してある生命のほうは遺体という形で残っていくべきだということであります。  ですから、儒教では、祖先を祭ることは子孫がするわけですね。子孫がふえていくこ と、この場合あえて申しますが、子どもという意味ではありません。子孫、一族であり ます。ここのところが重要なことなんですね。ですから、自分に子どもがなくても構わ ないわけですね。そのかわりおいやめいを愛するということになるわけです。一族だれ かが生き残っていけばいいという考え方なんですね。  しかし、過去の亡くなった人は目に見えません。未来の子孫も目に見えません。見え るのは現在だけですから、現在の親子というものが、実は親は将来の祖先であり、子は 子孫へのスタートであるということで、親子の関係というものをさらに広く、祖先祭祀 と子孫、一族という形でとらえていく。これが儒教の考え方であります。  そうしますとこういうことになるわけですね。ご承知のように、血の連続ということ を意識するわけでありますので、生命の連続ということを儒教は最も大事にするわけで ありまして、儒教の本質はこの言葉に尽きると思います。  生命の連続の実現の場所が家庭である、そして生命の連続の実現者が家族であるとい う思想なんです。ですから、体は個人のものじゃないんです。個体と言ってもいいんで すが、個体のものでなくて家族の所有であります。  最近ありましたような臓器提供の問題にしましても、体は家族のものであるという観 念が非常に強烈であります。私の体は私の体、個人がどうしてもいいんだというふうに はならない観念がそこに出ているわけであります。ここのところが重要であるかと思い ます。  そこで先ほど申しましたように、亡き魂魄との出会いといったようなことに、われわ れは生活の一つの中心的なものを置いているところがあるわけですが、ただ、血の連続 ということを言いましても、中国と朝鮮半島と日本とではだいぶ様相が異なります。血 の連続を一番強く意識するのは中国人であり朝鮮民族であると思います。  たとえば養子という場合ですけれども、養子はもちろん広く中国、朝鮮半島、日本で 行われておりますが、日本における養子と、中国や韓国における養子とはだいぶ違いま す。  今日、中国の場合は社会主義国家になったということもありましてだいぶ様相が変わ っているわけですが、韓国は伝統的な儒教形式を残しておりますので、その例を取り上 げるのが一番よろしいかと思います。  養子という場合、われわれ日本人の感覚だったら、来てくれる人がいたらだれでもい いという感覚ですけれども、韓国の養子はそういうわけにいきません。まず第1はその 一族でなければ絶対だめなんですね。法的にもそうなっていますね。とにかく血が一族 のものでないとだめなので、名字を異にする、異姓の者は入ることはできないわけです ね。同姓の一族の者から選ぶということが第1、絶対条件でありますが、まだ第2条件 があるんです。  たとえば私が養子を迎えるとしましたら、私は選ぶ範囲は絞られてしまうんです。私 が、たとえば私の兄の子ども、私のおいですね、そのまた子どもがいるとしますが、そ の兄の孫を私の養子に迎えることはできないんです。というのは世代が狂ってしまうわ けですね。だから、私がもらえる範囲は、私のきょうだいの子ども、つまりおいやめい でしかないわけです。あるいはおいやめいでなくとも、親戚の、私の世代の次の世代の ところからだったら構いません。世代が並んでいきますので。だから、私の次の世代の 中から選ばなければならないというわけであります。  いまNHKが「元禄繚乱」というドラマを放映しておりますが、吉良上野介の子ども (養子)は孫でしょう。吉良上野介の子どもが上杉のお殿様で、その子どもを養子にも らっているわけです けれども、あんなことは儒教的にはあり得ないことであります。日本的だと思います。 ですから、同世代で、しかも血がつながっているという限定、これは韓国はいまでも守 っておりますので、養子というのは非常にむずかしいんです。ですから、養子をとると きには大変な苦労がいるわけであります。  ところが日本の場合は、極端な場合は入り婿入り嫁などと言って、全然血のつながっ ていない人が入ることがありますね。日本では家というものを法人格のような感じで受 けとめているからだと思うんですね。だから、だれが入っても組織としてやっていくん だという、ここのところは中国、朝鮮民族とだいぶ違うと思いますね。  ところが、中国人や朝鮮民族の場合は男系が中心でありますけれども、日本では江戸 時代には、たとえば男の子と女の子がいて、男の子がぼんくらで女の子がしっかりして いましたら、ぼんくらはどこかにそれこそ養子に出してしまって、賢い娘に、しっかり した男性を婿に入れるということはありますね。しかし、これは血がつながっていって いるわけであります。血は連続していって、女の子のほうから血がつながっているわけ ですね。  ですから、養子という場合に、血の連続をどこまで強調するのかということがかなり 大きな差になってくるのではないか。私はそのように思っておりますが、今日の日本に おきましては儒教的なる血の連続という意識がどういうふうになっていくのか、これは 現況を見る以外にないかと思います。  ただ日本では、先ほど申しましたように、朝鮮民族や中国人ほど強烈な絶対の条件、 血がつながり世代がこうだというようなことはなくなっているかと思います。  今日、中国人のほうもどうも世代は崩れていっているようであります。これは友人か ら聞いている話ですが、世代は崩れていっている。しかし、やっぱり血の連続はどこか で、一族ということはやはり要求するようだということであります。  ちなみに養子に行くということは中国人は嫌うわけであります。ですから、相手に対 する行為をあらわす表現の一つとしましては「あなたの養子になってもよろしいよ」と いうことがありますが、これは最大のプレゼントなんですね。それぐらい養子になるこ とはあまり好まれていないということがあるわけであります。  非常に限られた30分という時間でありますので、大ざっぱに申し上げましたのは以上 でございます。  つまり東北アジアにおきましては精神と身体というものがきわめて密接でありますの で、精神だけを取り出すとか、精神だけを取り出すというような観念が実はないという ことと、血の連続を意識しますが、始まりがだれであって、あとは続けて、努力して、 生命の連続ということを考えていく努力を行うというところがあるというところであり ます。それを具体化したものが祖先の祭りであり、子孫、一族に対する期待ということ であるかと思います。 それともう一つは遺体という概念、これは重要であります。遺体ということがありま すので、体は個人の所有でなく家族のものであるという意識がきわめて強い。少なくと も感覚的にはそれはあるということであります。 もう一つは民族によって、同じ儒教文化圏といってもニュアンスの違いがあると思い ます。日本は特にそのへんが、中国や朝鮮民族よりは血の意識が少し低いのではない か。こういうふうに思われるわけでございます。 ですから、これで儒教文化の全体的なことを申し上げたんですけれども、一言だけ申 し上げますと、先生方からいただきました「生殖補助医療技術についての意識調査結果 の概要」の中の「用語の解説」というのがありまして勉強させていただきました。 これで何割等と出ておりますけれども、私がいま述べましたようなことから申します と、この中に幾つも、儒教的なものでつながるものがあると思います。ただ、これはこ ういうような形で物的に卵子とか精子という話をしたのでは日本人はわからないと思い ますので、やはりこのへんは自然科学の用語と文化的、歴史的な用語とは違うかと思い ますので、このへんはもう少し歴史的、文化的用語でおっしゃったらいいんじゃないか と思います。 この中で借り腹というのがございますけれども、これは儒教ではしょっちゅうのこと でございますので、私は何ら抵抗は感じませんでしたということでございます。そのほ かも、とにかく生命、一族がふえればよいというのが一番根底にございます。 ですから、たとえば道徳問題にしましても、今日の個人主義の中の男女平等、そして 権利とか義務というものが法的に保障されている社会ではもうなくなりましたけれども 儒教文化的には男性に第2夫人、第3夫人があっても、別にそれは道徳的におかしいと いうことはなかったわけでありますね。  これは生命をたくさんふやすという意味においてだったんですけれども、それは今日 儒教道徳というものが社会的なところで、あえて申しましたが、現代的な意味での道徳 や権利意識のところからは外されておりますので、それはいけないことになっているん でしょう。  しかし、かつてでありましたら、何人もの女性との間に子どもが生まれたということ はごく普通のことでありました。それは一に不道徳とか道徳という問題じゃございませ んで、一族がふえること、血が連続していくということを第1に置いた、そういう時代 のころの出来事である。このように思っております。  私の意見は以上でございます。 ○中谷委員長  まことにありがとうございました。皆様から質問などがあると思いますが、それは中 野先生のご発表を伺った後で伺わせていただきます。  では、引き続きまして中野東禅先生から30分ほどご意見を伺いたいと思います。よろ しくお願いいたします。 ○中野氏  中野東禅でございます。こういう重要な研究に意見を述べるようにというご指名をい ただきまして、大役を果たせるかどうか心配しておりますが、お送りいただいた資料を 拝見いたしまして、問題の大きさ、それから問題点をよく整理してくださって、本当に 私自身も勉強になりました。ありがとうございました。  まず最初に、いま加地先生から家族の問題を伺って、以前、加地先生の論文で拝見し たのがさらによくわかりまして、血の問題で生命観がよくわかりまして、仏教の立場も よく整理していただいて大変ありがたいと思っております。  まず仏教のほうで、こういう問題に対して答えになるような資料というか、ヒントが どんなものがあるのかということでございますけれども、基本的には、生命の発生とは 何かとか、死とは何かという資料はあるんですね。インドは原始仏教、アビダツマ仏教 といいまして、西暦紀元ころから3世紀ぐらいにかけての仏教では、そういうことは丹 念にやっております。  ですから、胎児の発生とか、死にゆくときの意識の問題とかというのは克明に研究し ておりまして、アーユル・ベーダというインド医学も実は仏教と関係してできるという くらい、そのへんは詳しいわけです。ところが、実際に人間がそこに人為的に介入する 問題に対してどう答えているかということになりますと、これは行動のあり方という形 でしか答えが出てこないわけでございます。  これはまた後ほど3番目のところで申し上げるといたしまして、最初のところに結論 としてまとめておきましたのは、1と2と二つにまとめておきました。  まず「結論」として、 (1)生殖補助医療技術は人間家族の問題であるから自由主義社会、あるいは今日の日 本では基本的には、そのニーズに社会的な規制を加えることは困難であろうと思われま す。  ところが、人間にはそれに対して規制や節度というのが必要ですが、それがこういう ニーズの方々に規制や節度というのはどういうときに実現するのか、可能なのかを考え ますと、第一に、患者自身の身体的限界と技術的な限界があれば人間はあきらめるわけ ですね。これがまず1番だと思います。2番目に、社会とか家族とか個人の宇宙観倫理 観あるいは宗教観も含めて、これがあれば、ある人はあきらめがつく。  たとえばエホバの証人の輸血拒否のような、あれぐらい極端でなくても、ああいうよ うな、一つの自分の生命観と合わないというときにはあきらめがつくと思うのです。  3番目に、結果もたらされた子どもの尊厳、家族の愛などのトラブル、そういうこと に対する知識があれば、それに対していろいろ勘案をいたしまして自制心を持つことが できるということになろうと思います。  したがって、この生殖補助医療技術は医療者側の倫理規制としては、生まれてくる子 どもの身体に影響があった場合に責任を明確にできるのかどうかということです。これ は同時に医療者へのそれだけの自主規制を促すことになると思います。  次に、十分な患者教育を医療者側が施すということですね。患者教育といっても、実 際にどれくらい、どういうふうに行われているか、具体的なことは知らないわけですけ れども、おそらく医療技術的な患者教育だろうと思うんですね。産婦人科で行われるの は。  そうではなくて家族論から、それから女性や、あるいは妻や夫の精神的な負担やトラ ブルという問題にまで立ち入った患者教育、つまり知性をどうつくるかという問題で す。  患者側の規制としては、aとして正式な婚姻関係の夫婦、これも非常に現代は問題に なっていますけれども、こういうような範囲に、ある程度、現在では持っていかなきゃ ならないんじゃないか。それからb将来にわたる生児への責任。先生方の論議を拝見い たしまして、やっぱり責任の問題をどうきちんとするかということが、患者側に対する 教育で非常に重要じゃないかと思いました。  (2)といたしまして、第三者の卵子や精子の提供による出産ないしは借り腹も含め るのでしょうが、これについては上の(1)で述べたのと同じような理由で、倫理的な 自主規制なり何なりが必要だと思いますが、さらにつけ加えれば、生物的な親子関係よ りも、こういうものがもし必要であり、必要を認めるならば、望んだ親の責任をきちん と認めて、つまりその後の養育費などの拒否とか、そういう問題に対してどう対処でき るのかという問題をもっと明確に、事例を集めて教育に取り組まなければいけないんで はないかということでございます。そして、望んだ夫婦の子として、特別養子制度のよ うな形にでもしていかなければいけないんじゃないかなという気がいたします。  このご審議の中に、イギリスであった情報の管理ということがありましたが、やはり 何らかの形で、情報の管理をキチッとどこかでしておかないと、子どもの人権、特にい じめとか、あるいは脅迫とか、さまざまなトラブルのもとになるということで、これは やっぱりキチッとする必要があるんじゃないかなというようなことを感じました。  これが一応結論でございまして、その理由を下に書いてみましたのですが、まず一、 「問題の背景」でございます。その1番目としてポスト・モダンと言われる時代で、つ まり価値多元化の時代でございます。いろんな価値観が同居する時代、そしてそれを認 めざるを得ない時代ということになってまいりますから、生殖欲求というものを認めな きゃならない。  ところが、医学というのは医学的な倫理を持たなきゃいけないし、同時に医学は患者 を保護する義務というようなものを持っている。そういう意味では近代合理主義で、モ ダンの考え方に属すと思うのですね。  モダンの考え方とポスト・モダンの時代の価値多元化の対立ということが、ここのと ころに先鋭的に出てきていると思うので、そういう視点から対応するしかないんだろう と思います。  2番目に多様なニーズというのは、aとして、社会性を無視した個人的なニーズと家 的なニーズがあるようで、これは調査の中にも跡継ぎという形で、生殖補助医療のニー ズが出てきている。アメリカのように、結婚したくないけど子どもは欲しいというよう なニーズはまだないようでございますから、そういう意味では家的なニーズのようでご ざいまして、これについては新聞にもこちらの報告が報道されまして、よくわかったわ けでございます。  3番目に欲求実現の技術過信。つまり患者のニーズと、技術があるというのは患者側 が過信しておりまして、そして患者のニーズが絶対化、つまり患者のニーズに対して、 それは少し自制心を持ったほうがいいよと言えない社会なんですね。これが自然の限界 というのを忘れてまいります。  ところが、それは当然挫折いたします。子どもができないとか。挫折したときにあき らめが困難になるわけですね。そのために私たちはやっぱり、挫折とあきらめというと ころに対する焦点を合わせた情報提供というのが、いま患者に対して必要なんじゃない か。  特に、妻としての劣等感、夫としての劣等感というよう なものが、生殖に関しては非常に重要な、後々の夫婦の問題とか、そういう問題をもた らしますから、そういう教育、情報提供というものもいたしませんと、カウンセリング というものは不十分になるんじゃないかという気がいたします。  そこで4番目、期待と錯誤が生まれてくる。つまり技術が何でもできるんだという形 で期待が大きくなってしまう。それが結局錯誤をもたらすんじゃないか。  (1)医療や制度、保険や何かによって守られる制度というのは父権主義、つまり守って くれるんだというような父権主義というものに対する甘えを、患者や国民側のほうは漠 然と持っているわけです。  そうすると、これが実現しないと責任を転嫁する。特に障害の胎児などができたとき に、これが医療訴訟という形にならないとは限らないと思うのです。そういう意味で、 甘えというものをどれだけ自制するかというのは情報と知性だと思うのです。  (2)生殖医療における利己的な欲求、行動がふえて、制度や社会と葛藤が増加する。家 意識と、個人的なニーズとの葛藤もそこには入っております。  (3)に、科学技術の予見能力が進歩して、不安回避のための胎児選別という欲求が、技 術があればあるほどそれが増強されてくる。この問題に答えを出さなきゃいけない。  (4)といたしまして、意思決定方法の錯誤というのがあります。自己決定主義というも のに対して、社会的安定とか、社会が患者や家族を保護しなきゃいけないという社会の 保護義務と、自己決定主義の家族・人間のわがままというか、そういうものとの葛藤が 家庭の中で起こってくる。  そうすると、まず一番先に出るトラブルは家族の間の、夫と妻の間や、舅・姑と嫁と の関係とかというところであらわれますから、結局この問題に関しては、そういう問題 に対するカウンセリング、そういう視点からのカウンセリングというのが非常に重要視 されていいんじゃないかということでございます。  そこで二に、生じる文化的、宗教的な対立。1番に、生命への畏敬の喪失です。a、 自然の摂理とか、仏縁とか授かり物とか、キリスト教的神の御心とか、そういったよう な自然の摂理に対する人間の自制心ということですが、そういう意識と利己的な合理主 義との分裂が患者によってはかなり激しいように思いますし、拝見した資料でもそうい う感じがいたします。  ところが一方で、そういう欲求が強くなればなるほど、障害児などを受け入れる余裕 というのが失われていくんじゃないかということを感じます。  2番目に、家族のあり方が混乱をしてきている上にさらに混乱するだろうと思うので す。離婚とか事実婚などの自由な中で、子どもの所有物化というものが進んでおりまし て、子どもは授かり物というような態度ではなくなってまいります。  極端な言い方をしますと、現在の幼児虐待のようなものも、子どもの所有物化が感情 的な形で出ているんじゃないかというふうに、子どもを一つの尊厳ある生命体として見 ることができない、そういう余裕のない親ということになりますので、そういう意味 で、家族のあり方というのは論理的な意味だけでなくて、感情やそういうところで出て くるという意味で、やっぱり自制心を持って、なるべく自然の摂理の中で子どもを授か るというような方向、その中での人間的努力という形にいたしませんと、あとの夫婦や その他の心の問題がうまくいかないんじゃないかということでございます。  3番目、異常への恐怖は変質しつつ連続している。これは宗教学のほうで、霊魂観念 のことを着せかえ人形論といいます。縄文時代の霊魂観念がそのまま着せかえ人形のよ うに出てくるのが霊感商法だというようなことを、東洋大学の西山茂先生などが指摘し ているのですが、私は恐怖心というのは着せかえ人形と同じで、場面が変わってもいつ でも出てくると思うのですね。これが異常なる者への、つまり部落差別にいたしまして も、そのほか障害児差別にいたしましても、いつでも異常への恐怖という形で出てまい ります。  そうすると、生殖補助医療によって生まれてくる赤ちゃんは当然、将来的にそういう ような対象にならないという保証はないわけです。そこまで配慮した上で対応しなけれ ばいけないんじゃないかという気がいたします。  4番目に、多様性の共存感覚というのはこれからどんどん進むと思いますけれども、 一方でいつでも一元的価値観、村社会的な一元的価値観とか、そういうようなものがま だまだ当分続くと思いますから、そうすると個人の自由な形の妊娠、出産に関するの と、古いと言っちゃ悪いんですけれども、基層文化にあるような家意識というものとの 葛藤、対立というのは、生殖を場としてますます進むであろうと思います。  そういう意味で、国なり何なりの指導する側はそういうようなことを意識した上で、 人間の自由化というものに対応していくという視点が必要だろうと思うんです。  次に、三、対立防止ということに、仏教の立場からヒントがあるだろうかということ を考えますと、いま加地先生が、儒教の生命観、それから東北アジアの生命観等でお話 しくださいましたが、仏教の生命観が抜けておりますので簡単に申し上げますと、仏教 の生命観は、日本仏教じゃありませんで基本の仏教ですが、仏教の基本で言えば身心一 如といいます。仏教の場合は体という字が先に来て、心という字が後に来ます。肉体が あるから精神活動が発生するというのが基本です。ですから、死体になったら精神は宿 らないものでございます。  じゃ、精神と肉体は分離するかというと、基本の仏教で言うと、心というのは霊魂と は違いますので、生きて主体的に活動しているときが、その人の生きている証ですか ら、つまり主体的に生きていること、そのこと自体が生命体であり心でございますか ら、よりよく生きるということです。よりよく生きている状態を生命と言うわけです ね。よりよくということは、つまり苦しみや愚かさを繰り返さないという意味です。  こういうのが仏教の生命観、簡単に言えばそういうことになりますが、そこで仏教的 な視点から、こういった問題に対するトラブルを解決するためのアトバイスがあるかと いうふうに見ますと、1番といたしまして和という考え方です。これは聖徳太子の十七 条憲法にも出てくるわけですが、和というのを現代ふうに言いあらわせば、これは信頼 性ということでございます。  信頼性ということは対立の防止ということで、a、愛と信頼の形成を補助すること。 つまり夫と妻や、姑と嫁との対立を防止するという視点なんですね。これは不妊治療の カウンセリングに重要視していいのではないかと思うわけです。  b、感謝とか謙虚。これは無我と仏教では言うんですが、感謝とか謙虚というものに よる欲望の抑制ということですね。これも教育に基づくと思います。  それからc、参加と協議と公開、これが社会の信頼性ということになります。和とい うことの中身はこういう形で表現できるんじゃないかと思います。  2番目に如実知見と言いまして、事実を事実のままとして受容するやわらかい心とい うんですね。自分が不妊である、あるいは夫の側なり妻の側なりに何らかの原因がある ということをまず事実として受け入れる。それがすぐにトラブルにならないで、事実と して認められるということがまず非常に大事なことだと思います。  3番目に、業というふうに仏教では言いますが、これは行為という意味ですが、この 行為の中には、責任を引き受けるとか、過去を背負っているとかというさまざまな意味 を持っておりますが、業というのを主体的に言えば、いま生きている、ここを大切にす るという意味です。  ですから、不妊であったら不妊、あるいは何らかの理由があって、自分ががんになる とか、さまざまなものがありますが、そこを大切に生きていくしかないということで す。  その次に解脱と書いてありますが、ここがこのテーマに対する中心になります。解脱 というのは、霊感商法などの民間仏教では霊魂が解脱するとか何とかというふうに言う んですが、お釈迦様のレベルで言えば愚かさを繰り返さないという意味なのです。愚か さを繰り返すことを輪廻と言います。輪廻からの解放ということですから、愚かさや苦 しみを繰り返さない。そうすると、親の不妊や出産の要求が、後の夫婦の問題や、子ど もに苦しみをもたらさないということです。  そういう意味では、生殖補助医療は妊娠の問題よりも、妊娠を希望する人間の問題と いうことですね。そっちを重視していただきたいと思うわけです。そうした対応策が必 要じゃないかと思います。  4番目に慈悲という言葉が出てきますが、患者の痛みというものは当然エゴが含まれ ています。当然煩悩が入っています。そういうものを社会は許してあげなきゃいけな い。しかし同時に、エゴへの批判眼を持たなきゃいけない。そうすると、エゴを許し、 エゴへの批判眼を持つということは、これはやっぱり教育だと思います。不妊カウンセ リングの中に相当この役割があると思います。  それから5番目が同事。これはお釈迦様が言った言葉ですが、事を同じくするという のは相手の立場になるという意味なのです。これは専門家の義務ということです。専門 家や強者や、大人が子どもに対してとか、導く者が導かれる者に対する義務ですね。  そうすると、ここでもって私たちは、不妊治療を要望する患者さんに対して、専門家 にはそれをよりよく導く義務がある。そういう意味では、これが医学的な義務だけでな くて、もっと幅広い人間論的な義務をわれわれは背負っていると解釈したほうがいいん じゃないかというふうに思うわけです。  四、ご審議の成果を読ませていただきました点から、いまの私の意見をさらに補足す るならば、1、不妊治療そのものが医原性ですね。つまり医療があるから起こる問題。 であるならば、患者教育も医療に義務づけというか、そういう必要があるんじゃない か。  aといたしまして、最初の動機は素朴であって、患者側は非常に素朴ですが、ところ がb、排卵誘発剤を使用したり、体外受精の戻しとかで多胎が発生したり、こういう問 題が起こってくると、結果的に素人である患者、まだ十分知識や情報というものが得ら れないうちに事態がどんどん進んでいって、非常に先鋭的な矛盾状態に追い込まれてい く。そうすると、それに追いついていかないためにトラブルが起こるというふうに思わ れますので、そういう意味で、知性を一緒に成長させていくという教育というものをも っとやっていただかなきゃいけないんじゃないかと思うわけです。  その(1)ですが、不妊カウンセリングやインフォームドコンセントと言われるものが、 過剰な期待へのブレーキ、限界へのゆとりある態度というものを育成する。  (2)に倫理委員会が、参加とか協議、公開、評価等を積極的に確立していってほしいし その中に倫理委員会の審議の中で、患者重視というところもチェックするような形の倫 理委員会にしていただきたい。  (3)に、行政と提携する委員会による「ガイドライン」を提示していただかないといけ ないんじゃないかという気がいたします。  (4)に凍結胚の保存、廃棄の問題ですが、ドナーの記録保存などを統合的に、安全に 進めるための統一的機関なり何なりというのはやっぱり必要かもしれない。  そして5番目に、以上の取り決めなどを法によって保護するというようなことが、あ りきたりなことですけれども、もうすでに十分ご審議いただいていることですけれど も、やっぱりこういう形しかないんじゃないかという気がいたします。  2番目として、患者教育において事例、情報が不十分なために、後からのトラブル、 負い目が多いと思います。多胎児の減数術や選別というのは、一部の子の生存権を確保 することになるけど、同時に減数される子の生存権の剥脱という矛盾を持ちます。  これを母体保護法の人工妊娠中絶の許容との関係での議論を拝見いたしますと、現場 の医師の「排出でないから中絶ではない」という議論も、こういう考え方もあるんだと 思いまして。現場にいたらそういうふうに言いたくなるのかもしれませんが。早い段階 ほど罪意識がないという産婦人科の先生のご発言もなるほどなあと思ったわけでござい ますが。  しかし、母親にもいろいろな人柄があって、やっぱり発生した生命を人為的に消滅さ せたことに違いはないわけですから、人によってはかなり負い目を持つ人がいるわけで ございます。このへんを黙認という形にするにいたしましても、やっぱりもう少し中絶 の問題と絡めて、人間の「心の傷」に対する答えをつくらないといけない時期に来てい るんじゃないかと思います。  三番目に、親の人間関係を過信しないほうがいいのではないかというのが、私が読ん でいてつくづく、夫婦というものをあんまり信用しないほうがいいんじゃないかと思い ました。夫婦というのは非常にうつろいやすい状態でございますから、年間25万組離婚 なさるそうですが、そういうわけで、希望した夫婦の責任というものを将来的にも担保 するシステムなり考え方というのをどうつくっていただけるかということだと思いま す。それはいまの方法で十分だとも言えるかもしれませんが、そのへんを何らかの形で 明示していただきたいと思います。 4番目に、子どもの親を知る権利とドナーの秘密保持の対立でございますが、戸籍的 には嫡子にする。特別養子制度のような形で、ご審議の中にもある、イギリスかどこか であったような形、もちろんこれはそうなればそうなったで問題が、公的機関で管理す るといえば、それなりの問題もまた出てくるのかもしれませんけれども、やっぱり何ら かのそのへんの研究をしていただきたいなというような感じがいたします。  先生方がご審議した内容からあまり出られませんで、せいぜい私としてはこの程度の 意見しか申し上げられないような次第でございます。  以上でございます。 ○中谷委員長  どうもありがとうございました。それでは加地先生と中野先生のお話についてご質問 やご意見がおありでしたら、ご自由にご発言いただきたいと思います。  お二人の先生も、生殖補助医療の全般にわたって詳細に勉強してこられて、しかも非 常に深遠な思索の跡をお示しいただきまして、私はびっくり仰天しながら拝聴いたしま したが、委員の先生方からどうぞご自由にご発言いただきたいと思います。 ○加藤委員  加地先生に伺いたいんですけれども、韓国では女の子の出生に対して、男の子の出生 が、政府の発表で 113という数字で、この間、柳美里さんという小説家の発言を聞いて おりましたら、現在では 100に対して 130の男の子の出生だという話を聞きまして、出 生に関する先端技術が、男の子だけを選んで産むという方向に向かっているのではない かと思われるわけです。これは儒教的に見るとよいことというふうに言えるんでしょう か。 ○加地氏 抜きがたい男系尊重の観念はあると思います。ですので、いま先生がおっしゃられた ように、意識的に男子のほうを選択していっているんだと考えられますね。 ただ、韓国の場合はそれほど深刻になってきますのは、娘さんだけであると、先ほど 申しましたように養子というのは非常にむずかしいわけです。事実上ほとんど養子はむ ずかしい。それで、娘さんだけであると家が絶えるという、その恐怖心がやっぱり大き いんだと思います。ですので、これは感覚の問題だと思います。論理的というよりは。 ですから、男子がふえていくということは意図的なことはあり得ると思います。また それを受け入れる社会でありますね。男性優先ということを。 ○中谷委員長 中国がもっとひどいんじゃないんですか。特に中国の農村地帯がそうですね。女の子 だと労働力の点で大変困るものですから、どう考えても何か操作があるということがわ かるような、男女出生比がひどいんですよね。 ○吉村委員 韓国のことでお伺いしたいんですけれども、儒教の精神、親を思う気持ちというのは 非常によくわかるんですが、血の連続の実現の場所、家庭をそういうふうにしてとらえ るというのに、そこでは男性のことしか考えていない。 先ほど先生がおっしゃったように、借り腹は儒教の精神から言えば是だとおっしゃっ たんですが、それは要するに遺伝的に両親の子どもであれば、だれが産んでもいいとい うことでしょうか。 ○加地氏 済みません。これは間違えまして、昔、腹は借り物と言っているので、代理母のほう です。伝統的借り腹という意味です。代理母のほうです。 ○吉村委員 そういう場合に、代理母でもいいんですけれども、血の連続という場合には、父親と 母親がいるわけです。そういう場合、儒教の精神からは、たとえばだれを妻にしてもい いという先ほどのお話ですが、そうすると男性のことを考えていけばいいという、儒教 はそういうお考えなんですか。 ○加地氏  そういうことですね。私は別に儒教の弁護をするわけでも何でもないんですけれども 歴史的に言えばそういうことでございます。 ○吉村委員  日本はまだ非配偶者間の体外受精というのは許されていないんですけれども、韓国と いうのはエクドネーションも許されていますし、精子によるトゥネーションによる体外 受精も許されています。儒教の精神からいうと非常に合わないところがあるわけです ね。他人の血が入ってきても全然構わない。それを韓国の一般の社会の人たちはそれを 受け入れているわけですね。そのへんについては先生、どういうふうに考えたらよろし いんでしょう。  儒教の精神というのが一般の方には、もうなくなってしまっているのではないでしょ うか? ○加地氏  私も韓国のことはよく知りませんけれども、一般的にはなくなっていないと思いま す。  じゃ、なぜそこまで血の連続、同族を意識するのかといいましたら、ただ単に精神的 な問題だけではないんです。これは生活とか経済的な意味とか、そういうものも非常に 含んでいるわけなんですね。  ですから、そういう家族というのは単なる精神的なつながりじゃなくて、生きていく 物的な意味も含んでいるというところの団結もあるわけなんです。  たとえばお金の貸し借りですね。ちゃんと社会的な信用度もあり、どこの銀行からも 貸してくれるという人々ばっかりじゃないですよね。そして、銀行からは貸してくれな い人であっても、一族のところへ泣きつけば必ず借りられる。そういうようなことが実 はあるわけですね。  また韓国ではご承知のように、親しい者、親戚同士で講というものをつくってお金を 掛け合って、お互いに助け合っているという面もあるわけです。ですから、単に精神的 なものだけではないと私は思っております。  それから、いまおっしゃられたように、近代的なものが入っているじゃないかとおっ しゃられれば、それはいくらでもそういうことはあると思います。たとえば韓国はあれ だけ儒教の国であるにもかかわらず、キリスト教はずいぶんふえているわけですね。し かし、キリスト教の実態はと思って見てみると、やっぱりそこに折衷案が入っているわ けですね。儒教的なものが。  これはキリスト教から見れば異端だと思いますけれども、それでも現実にはそういう こともあるわけですから、先生のおっしゃられるそれも私は直接は知らないわけですけ れども、どこかでつながっていると思います。折り合いをつけているんじゃないかと思 います。儒教的なものと。 ○中谷委員長 生殖補助医療でいろんな試験的なことを、先端的なことをなさっていらっしゃいます よね、韓国では。でも、それが社会一般の意識とマッチしているか、それはどうかわか らないんじゃないでしょうか。私は医療技術だけが先行しているような印象を持つんで すけれども。ですから、そういう点からいうとちょっとむずかしいですね。 ○吉村委員 韓国の産婦人科医と話しても、あまりそういうことが一般社会で問題になったとか、 やる上で障害になったとか、そういうことをあまり聞きません。リベラルに、韓国では 日本なんかと比べると何でも早くできるというところがあるので、一般的な社会の儒教 精神というのは最近本当にあるのかなと思ったりしたんですが。 ○辰巳委員 両先生にお伺いしたいんですが、儒教的に、それから仏教的に見まして、不妊治療を 行うということはどういうふうな意味を持っているのでしょうか。たとえばただ単に、 子どもができない二人の希望を満たしてあげるだけのものであるのか、あるいは不妊治 療によって子どもが生まれてきた場合、その子どもはきっと不妊治療なしには生まれて こなかったという意味では、一人の子どもを救っているというふうにもとらえられるわ けですね。それから儒教的に言えば、一族を絶やさないという面もあるかもしれない。 不妊治療を行うということ自身が、儒教的に、仏教的にどのような意味を持っている のかということをお聞きしたいと思います。 ○加地氏 実際と科学者のやっていることは別だと思いますけれども、たとえば先ほど申しまし た祖先を祭るということとか冠婚葬祭につきまして、日本ではみんな勝手にやっている わけですけれども、韓国ではちゃんと儀礼準則というのを政府がつくっているんです。 冠婚葬祭をどういうふうに扱うかということを政府がガイドラインをつくっていまして 皆それに沿ってやるというようなお国柄なんですね。 ですから、先端技術は進んでいるんでしょう。けれども、それが具体的なところにな るとどうなるかはまた別問題でしょうし、たぶん政府がかんでくると思います。おそら く規則もつくるんじゃないかと私は思いますが。 それから、儒教はもちろん生殖補助医療の前に生まれているものですから何も答えは ありません。ただ、生命の連続ということを強烈にあらゆる形で主張しているのが儒教 でありますから、基本的には賛成だろうと思います。自分たちの生命がふえていくとい うことを助けるもの、バックアップするものであれば、私はこれは基本的には間違いな く合っていると思います。 ただ幾つかネックがありますね。血の連続といったら、だれでもふえればいいかとい うとそうじゃなくて、自分の一族がふえるということですね。そうしましたら、自分の 血というのはファミリーネームの姓ですね、これの意味の血ですね。それがふえること を期待するわけですから、それを第三者との折り合いをどうつけるのかというところが 私にもわかりません。これは密室じゃないんでしょう。はっきりと夫婦は了解するわけ ですね。そうすると、そのへんからは私にはわかりません。 先ほど失礼しました。借り腹で申しました、この用語の解説の第3番目の第三者の卵 子を用いた体外受精の場合と代理母、この二つは昔からあったもので、私は少しも不自 然に思いませんでした。 ○中野氏  不妊治療についての意味ということでございますけれども、仏教でどうなんだという と、仏教ではそれについては明快な答えがありませんで、そこでもってどう行動するか 愚かさを繰り返さない生き方をするということが中心なんですが、日本仏教というのは いま加地先生がおっしゃったように、日本社会の、しかも儒教的な、それから神道的な そして日本社会の家意識という構造に乗っていますから、そちらのほうから言えば、家 的な場にいらっしゃる夫婦の不妊と、核家族も通り越して単身家庭も非常にふえていま すが、そういう人々の不妊では全然意味が違ってきますので、不妊の問題というのは非 常に社会的な問題だと思います。  ところが、その手前にあるのが夫婦の問題ですね。産める産めないということは、相 手に対する疑いという、テレビの見過ぎかもしれませんけれども、そういうような夫婦 の葛藤の問題が出てくるので、これは場の問題と同時に、どう自分の体の自然と折り合 いをつけるかという哲学的な、精神的な問題だと思います。  そこで、自分のほうでつけ加えては失礼ですけど、韓国の問題がございましたが、日 本宗教学会のほうで、ある若い女性学者が報告した事例ですが、韓国ではここ6、7年 前から水子供養がはやり始めたそうです。カトリックを中心にいたしまして。  水子供養という考え方は日本にしかないと言われていたそうですが、カトリックのあ る信者の中年の姉妹がマリア様の声を聞いて、中絶される、つまり掻爬される胎児の苦 痛の声を語るんだそうです。そして、持っているマリア様が血の涙を流すというので、 それがきっかけになって水子供養というのがはやり始めて、カトリックがやっているそ うです。  これは要するに経済成長と関係があるんです。経済成長で中絶を始めた。しかも、一 人しか育てられないなら男の子ということから中絶が始まって、こういうことが。大体 20年近くたつと中年になって病気が出てきますから。そういうことが起こっているそう ですから、やっぱりここに女性の負い目の問題をわれわれは意識しなきゃいけないんじ ゃないかということを感じましたので。 余計なことですが参考までに。 ○中谷委員長 それは先ほどおっしゃられたトラウマの問題ですか。 ○中野氏  はい。 ○田中委員 非常に貴重なお話ありがとうございました。端的にお聞きします。この委員会ができ て1年になりますけど、一番の発端は僕は根津問題にあると思います。根津先生が、こ れはルール違反とかそういうことを抜きにしまして、卵ができないから、妹さんなりき ょうだいの卵を提供してでも子どもをつくった。この行為ですよね。これは日本産婦人 科学会という機構と関係なくして、一つの不妊の治療として、これは受け入れられるん でしょうか。  こういう委員会ができたということは、いろんな人の意見を聞いて、これをどうする かということだと思うんです。ですから、両先生方の立場からいって、この治療方法を 行ったということに対してどのようにお考えになるのか教えていただければと思いま す。 ○加地氏  もちろん儒教におきましては、子どもがないことは最大の親不孝であるということは 言い切っています。しかし、それはあくまでも儒教原理主義的な立場にすぎないと思う んです。現実には子どものないおうちだってたくさんあったわけですね。中国におきま しても過去にたくさんあったわけです。  ですから、儒教ではこう言っているわけですね。子どもがあるにこしたことはない、 しかし子どもが、もしないときには構わないんだ、そのかわりにおいやめいを愛しなさ い、自分の血のつながる一族の者を愛しなさいということを言い続けているのが儒教な んです。  たとえばどういう愛し方があるか。それはいろいろありますね。何も返ってくるもの を期待するようなそんなものじゃなくて、一例を申し上げますと、たとえば日本にいる 中国人が、自分の一族のために奨学金を送っているわけですね。これはだれといって特 定して送っているわけじゃないんです。向こうの本宗といいまして御本家ですね。最も 中心的なおうち、その御本家へ送っているわけです。その人が、一族の中で貧しくて、 しかしがんばって勉強している者に奨学金を与えているわけですね。だれに与えられて いるか知ろうともしないでお金を送っている。これが、つまりおいやめいに対する愛情 なんですね。  ですから、いまは核家族というようなきわめて少数の者だけが住んでおりますから、 子どもがあるとかないとかということが大議論になるんだと思いますけれども、かつて のように一族という意識でありますならば、別に子どもがなくたって構わないわけです ね。そのかわり、その分その愛情を何らかの形であらわせばいい。  のみならず、今日では社会保険で老後のさまざまなものを支えておりますけれども、 かつてはそんなものはありません。だれが支えたかと言えば、老人は一族が支えたわけ ですね。ですから、一族に対する愛情というのは、同時に、自分の老後もみんなに愛さ れるということの意味でもあったわけですね。ですから、社会構造が違うと思います。  けれども、私は気持ちの上でそれは生きていると思いますので、自分に子どもがない から何が何でもつくらねばならぬというのは伝統的なものじゃないように思います。き わめて核家族という極限された中で起こっている一種の、そして意識は以前の意識で、 現実は二人っきりだからということで、何が何でも子どもが欲しいというところへ走っ ている悲劇があるんじゃないか。私はそのように理解しています。 ○中野氏  根津先生のあの考え方は言ってみれば、根津先生だけの考え方じゃないんですけれど も、卵子をもらっての妊娠という問題は、あるいは養子ということのずっと前の変形な のかもしれないとも考えられなくはないわけですよね。  ただし、養子の場合にはキチッとけじめがついていますけれども、そうでないという ところがまた複雑なわけでございます。  そこで、仏教でそういうものに対して答えがあるのかというと、仏教は基本的に人間 の欲望に対する批判眼というのが非常に重要と考えますから、そういう場において人間 が努力をする。努力をしなきゃ人間は生きていけないわけです。努力をして、それがあ る程度の限界になったときに、あるいはその努力がかえって欲望や自我というものを増 幅しているときに、それに対する自覚というものが伴ってこないといけないわけです。 その上で、そこでもって自制心を持ってほしいということが一つです。  ところが、それでなおかつ技術があるから、それをやりたいという場合には、その愚 かさを繰り返さないための基本的な周りの援助があった上で、なおかつ周りが許し、本 人もそれを希望するといったときに、技術があるならば案外、これはもう現代の社会で は認めざるを得ないのかもしれません。  そういう意味で、仏教のほうからいったら教育的な、患者を教育する、そういうよう な程度の補助というところでもって患者の自制心を育成するというしかないんじゃない のかなという感じがします。これを一律にいけないとも言えないし、いいとはもちろん 言えないし、現代の技術の社会ではこういう言い方しかできないのかなと思っておりま すけれども。  ですから、当然それに対する十分な論議や、経験によって出てきたトラブルとか何か を提供していく、情報を提供する、その中でやるしかないんじゃないのかなという気が いたします。  こういう問題もやっぱり流れとしては認めざるを得ない方向に来ているんじゃない か。  ただし、その場合にどういうブレーキが可能かということは、やっぱり仏教的に言え ばトラブル防止という視点からしか言えないんじゃないか。法律的にとか家制度という 形での答えは、いま歯車が合わないんじゃないかという気がいたしております。 ○加地氏  補足させていただいてよろしいでしょうか。 ○中谷委員長  どうぞ。 ○加地氏  現代の意識とは違うわけですけれども、伝統的にはこういうことだったということを 申し上げたいんです。  それは、なるほど生まれた自分は実父と実母の子どもである。しかし、父とか母とい うのは、実を申しますとグループを指していたわけなんです。父族、母族と言ってよろ しいかと思います。ですから、今日でもおじという言葉をあらわす場合に、ナンバーを あらわします伯とか叔というのがついておりますね。あれはナンバーなんですけれど も、そういう父なんですね。ですから、自分の父は父族の中の実父なんですよ。ですか ら、おじさんも父なんですよ。はっきり申しましたら。おばさんも母なんですね。そう いうグループと見ているわけなんです。  ですから、たとえばいとこ同士の関係といいますのは、それぞれの家に所属していま すけれども、大きくはナンバーをつけているわけですね。生まれた順番にナンバーをつ けているわけです。そういう形で、子族といいますか、そういうようなグループとして みなしてきたわけです。  昔だって実際に単位には5、6人が住んでいたんですよ。しかし集まるときには一族 が集まるので、お互いによく顔見知りになるということなんですね。それが今日ではき わめて希薄になっておりますから、おじとかおばといっても非常に親しい関係でもなく なってきつつあるのが今日の状態ですね。これは事実だからやむを得ないと思っており ます。  それだけのよけい、自分に子どもがなければ、俗な言葉ですけど、非常にさびしいと いう感じになるんでしょうね。いっぱいいてワイワイ走り回っていたらむしろうるさい ぐらいに思いますけれども、そこが核家族というものがもたらしてきたプラスもありま したけれども、やはり私はマイナスじゃないかと思っております。 ○矢内原委員  大変感銘深いお話を伺いまして、加地先生と中野先生に一つずつお伺いをさせていた だきます。  加地先生は生命の連続の場は家庭であって、生命の連続のあらわれが子であるという ことから、次に結婚観は何かとお伺いしようと思いましたら、いわゆる代理母で代表さ れるように、男としては何人もの女性と、生殖に関しては容認的な考え方があるという ことをおっしゃいました。  私、男性でございますので、カイロ宣言とか北京宣言で、女性の生殖に対するリプロ ダクティブ・ライツということがとても気になります。女性は自分の意思で子どもを産 むわけですから、自分の意思で、好きなときに好きなだけの子を産んでよろしいという ことが女性宣言の中にうたわれているわけです。  そこで儒教的に考えたときに、いま伯と叔のようにナンバーがついているとおっしゃ って、つまり家というものが、つまり父親の家名が非常に大切にされているとおっしゃ いましたけれども、それでは結婚の相手または自分の生殖の相手の、つまり女性の家の 条件というものは考えの中に入っているんでしょうか。 ○加地氏  それは昔もいまも一緒ですよ。それぞれによって皆違うわけですから、それはあまり 特に不自然に思いませんけれども。 ○矢内原委員  相手の女性の家柄と言っちゃおかしいですけれども、そういうような条件ですね。女 性ならだれでもいいというんじゃなくて、女性の権利そのものが。 ○加地氏  正夫人ですか。 ○矢内原委員  正夫人でも第2夫人でも結構でございます。 ○加地氏  それは伝統的な感覚で、それこそちょうちんとつり鐘という感覚で、やっぱりバラン スのとれたものにしていったと思います。それはごく常識的なものだったと思います。 やっぱり一種の通婚権というものはかつては存在していたと思います。 ○矢内原委員  田中委員の質問に関連して、卵子の提供と精子の提供はどれだけの重みづけがあるか ということが、具体的にわれわれに降りかかってくる問題だったのでお伺いをいたしま した。  それから中野先生、個人の自由な意思というものとしての生殖というものと、それに 対立するものとして、社会がそれをどういうふうに受け入れられるかということの間に 葛藤があるということを最後におっしゃいました。  これは最近私どもが行いましたアンケート調査に非常によくあらわれています。つま りこういう技術があって、人間は個人的に自由なんだから、それを自由に使うのは勝手 です、どうぞおやりください、しかし私は嫌ですよというのが、国民の一般的な生殖医 療技術に対する考え方なんです。  ただ具体的に、どういうところがどういうふうに嫌かというところの設問がなかった ので自由記載になってしまったんですけれども、いま行われている生殖補助医療技術 で、施行する側、受け入れる側、そして実際にそれを求める患者、それからそれを受け 入れる社会という三つどもえの中で非常に苦しむことが多いんですけれども、その葛藤 の中で、それを受け入れられない者の中に、差別的な意識が背景にあるということにな りますね。  この教育、患者に対する教育、コンサルテーション、社会に対する理解というものが 必要になってくるんですけれども、実際にこの解決方法としては何が一番よろしいので ありましょうか。 ○中野氏  それは希望する人は自由にやったらいいでしょう、しかし私はというのはあんまり当 てにできないことだと思います。というのは、その場に追い込まれなかったら人間はそ うならないということです。  ですから、結婚して子どもができないとか、あるいは親から跡継ぎがどうとか言われ たときに果してそういう回答をするかどうかというのは疑問だということです。  しかも、これは少数者でございます。多数者の側の立場じゃないわけですね。そうい う意味で、多数者の意見というのはあんまり当てにならないという前提でもってアン ケートを読まないといけないので、むしろやった人たちをもっと丁寧に調べる必要が次 に出てくるかもしれません。希望した人たちの調査が次にあったらもう少し明確になる かもしれません。  そういうようなことでございまして、そこで、教育というのはやっぱり情報の提供だ と思います。事例をどれだけ集めて、そこにおける葛藤、夫婦の間の葛藤とか、親子の 間の葛藤とかさまざまな問題があると思いますが、それをどういうふうに提供するかに よって患者が賢くなっていく。そしてまた、周りの姑とか、そういう人たちのほうにそ れが影響していくということが前提だと思います。  非常に平凡な形ですけれども、やっぱりそれが一番大事なことじゃないかと思いま す。調和のとれた形にするということが目的ですから、行う人がいてもいいし、あきら める人もいてもいいわけですが、問題はそこでどう解決するかということになると、解 決というのは納得すること、そしてそこでよかったと言えるということが解決だと思い ます。行うにしても行わないにしても、よかったと言えることが解決で、よかったと言 えない無理があると、これがさまざまなトラブルを起こします。  そういう意味で、いまの日本の諸状況を見ると、さまざまな要因があったにいたしま しても、よかったと言えるようなものが成立していない中で家族が形成されるからさま ざまな問題が起こるわけです。そういう意味では、正常な生殖という医学的なところ に、そこだけに目を奪われないで、その周辺部の人間論を研究していただくことが大事 じゃないか、患者に対する親切じゃないかなという気がいたします。 ○中谷委員長  まさにその点が矢内原委員が希望しておられたんですよね。そういう点を明らかにし たいということ。  それと矢内原委員のほうで調査されたアンケート調査、世論調査ですけれども、これ の中の意見を見ますと、おそらく欧米には出てこないような意見が出てきまして、それ は私は加地先生、中野先生のお話で、やはり日本だから、こういう調査結果の中にそう いう意見が出ているんだなと思われる節が幾つかありまして、大変私は興味深く両先生 のお話を承りました。ありがとうございました。 ○高橋委員  加地先生にお伺いしたいのですが、儒教社会では父系のほうが重きを置かれるという ことはよく理解しましたが、具体的に、たとえばこういうときはどうするのでしょう か。  娘がいて、男の子がいない。そのときに男性を養子にもらいますね。そういうことは あり得るでしょう。 ○加地氏  あり得ます。 ○高橋委員  そのような夫婦で子どもがいない場合、養子のほうの姪とか甥とか、そういう人が第 1に選択されるのか、あるいは娘さんのほうの、母系のほうの方が選択されるのか、そ ういうときはどうなるんでしょうか。 ○加地氏  おそらくそういうときは養子のお父さんのほう、その人の血のつながる人を養子に入 れるんじゃないかと思います。娘さんまではつながっていますね。しかし子どもがあり ませんから、そうすると父親、第1代としますと、それから娘がいて、婿養子が入って きましたね。その人に子どもがないわけですね。そうすると、第1代から見たら、第2 代までは続きましたけど、第3代目がないわけですね。この第3代目はおそらく第1代 目と同じファミリーの者から選んでくると思います。 ○加藤委員  婿養子さんのほうじゃなくて。 ○加地氏  はい。そして続けるか、いわゆるオモの、中心のご本家じゃなくて端々でしたら、あ るいはそこでやめてしまうかもわからないと思います。それは構わないんです。  と申しますのは、祖先祭祀は各所帯がするんじゃないんです。一族がいたしますので 家ごとにする必要は全くないんです。ですから、そこの家は絶えましたけれどもご本家 が続いていますから問題ないわけです。ですから、養子がなければそれで絶えるでしょ う。 絶えるといっても形式的に絶えただけであって、ご本家では祭りは続いていますから、 それは大丈夫なんです。  いま日本ではご本家というものがほとんどなくなりましたから、各家々で祖先祭祀を しなければならないからよけいややこしい話になってきているわけですよ。御本家があ って、一族の問題がそこでいろいろやってもらうとまた変わってくると思いますね。日 本だってかつてはそうだったんですから。それがいまは解体していっているのが現実だ と思います。  一つだけ。先生方のご研究、非常におもしろく読ませていただきましたけれども、私 中国の歴史とかそういうものをいつも見ておりまして感じるんですけれども、大体子ど もがたくさん生まれるのは貧しい家なんですよ。これははっきり言って生命の連続の危 機感じゃないかと思うんですよ。  金持ちで何も生活に苦しみがなかったら、別に子どもを産まなくたって自分の生命は 大丈夫ですよね。けれども、子どもを産み続けるのは、貧しいから子どもを産むという ほうに、ちょっと逆説的ですけれども、それはあり得る。  ですから、全世界を見ましても、貧しい国ほど子どもがたくさん生まれているわけで すね。豊かな国ほど子どもが少なくなってきているわけですね。腹が減っているほうが 子どもを産むということがあるんじゃないかと思うんですよ。だから、日本における豊 かさが逆に生殖補助という学問を生み出しているんじゃないかというふうに私はちょっ と思ったんです。  ですから、経済的な面での調査とか、そういうことも一遍なさる必要があると思いま すね。貧乏人の子だくさんというのは真実ですよ。 ○中谷委員長  ありがとうございました。私は8人きょうだいの一番末子ですので。 ○加地氏  一般論です。 ○中谷委員長  お待たせしました。石井委員からご質問だそうで。 ○石井(美)委員  大変勉強になりました。3点、はじめの2点は加地先生に、3点目は両先生にお伺い したいと思います。  まず、儒教で男系が重視されるということは現実的におっしゃることもよくわかりま すけれども、儒教の本来的な考え方から、それは、即出てくるのですか。男子でなけれ ばならないというのは儒教の本質から出てくるものなのかというのが、加地先生に対す る質問の1点目です。  2点目は、現代との調和ということをどの宗教もすると思うのですが、現代の男女平 等という中で男系主義を、儒教はどう取り扱おうとしているのかということが加地先生 への2点目です。  3点目として、両先生にお伺いしたいのは、カソリックなどは新しい問題について宗 教として回答すべく、いろいろな会議というか協議というか検討をされているようです が、儒教や仏教では、一つの答えを出すのはむずかしいかもしれませんが、何らかの検 討を行っていらっしゃるのか、もし何かあればどのような議論をされているのかという ことを、お二人の先生にそれぞれお伺いしたいのです。 ○加地氏  えらいむずかしい問題ですね。まず最初のところですけれども、これは遠い遠い昔の ところに問題があったんです。  先生方医学者の方がたくさんいらっしゃるからおわかりのように、同じ血の者同士が 結婚しましたら、これはあまりよくないんですね。違う血の者同士が結婚する。これは たぶん古代人は知恵で知っていたと思うんですよ。ですから、中国ではそれを制度化し まして、同じファミリーの者同士は結婚しない、同姓の者は結婚しない同姓不婚という 一つのルールをつくったわけです。これはたぶん健康上の問題が一番大きかったんじゃ ないかと思っているんですけどね。  しかし、一たんでき上がった社会制度というものはなかなか崩れません。それで続い ていくわけですね。そうすると、人間は結婚をしますときに、男性も結婚しますが、女 性ももちろん結婚するわけですね。ところが、女性の場合は大半は、はっきり申します と食べていくのが大変だったわけですね。一人で生きていくのは。どこかで協力して生 活をしなきゃならない。生活のほとんどは農耕です。中国の場合 100%農民だったと思 いますけれども、そうすると農地を耕すということが生産の主力にならざるを得なかっ たわけです。事実上。これはやっぱり力の強い男性が中心になります。 そうすると、その男性のところに女性が、俗に言うお嫁入りというやつですね。向こ うへ行くわけですね。そういう形で結婚するという形にならざるを得なかったと思うん ですよ。ですから、男性は残り、女性は同姓不婚でありますから、よその姓のところへ 行かざるを得ない。これがあったと思うんですね。こういうものから儒教というものが だんだんと体系化されていったんじゃないかと私は思っているんです。初めから男子が 優先とか女子が優先ということはなかったと思います。そういう事実、経験に基づいた ものじゃないかと思っております。同姓不婚はいまでも生きております。 その次は、いまの現代どう思うかとおっしゃるわけですね。これは怖い言葉でして、 私は儒教主義者ではありませんので、儒教のことはいろいろ言っていますが、儒教主義 者ではありません。これは現代の感覚でやっていただかないと、私たちは答えようもあ りませんし、私は儒教の代表者でも何でもありませんので。 それから、ある問題が起こった場合に、儒教ではどうするかというのがなぜ出てこな いかとおっしゃるんですが、これは仕方ないんです。 儒教と申しますのは、私は祖先を祭るという意味での宗教だと思っておりますが、そ れは家ごとの宗教なんですよ。その家、その家なんですね。ですから、キリスト教や仏 教のように、ある特定の場所に皆が集まってするという宗教形式じゃないわけですよ。 各家が行っている宗教で、しかも儒教はいまでは日本仏教とミックスされております ね。ですから、儒教というものが一つのまとまった団体で、ある種のことを議論すると いうことは、組織的にもありませんし、何もないと思います。 ただ、儒教に基づいて何らかの考えを持つ者が意見を述べるということになるかと思 います。それが現実です。 ○中野氏 仏教でそういう対応があるのかということでございますけれども、日本の仏教という のは各教団単位でしか動いていないわけですね。ところが、その教団というのは人々の 苦悩に対する対応をしようというような組織立ったことをしておりません。 というのは、いま加地先生がおっしゃったような中国の儒教に乗っかり、神道に乗っ かった上での日本の仏教なものですから、そういう意味で、スポンサーである檀家さん が一番希望しているのは結局先祖まつりと祈祷というまつりでしかないものですから、 スポンサーがそうですから、ほかのほうにはお坊さんたちも関心を持たないわけです ね。こういう構造になっております。 そのために脳死問題とかさまざまな問題にもほとんど回答が出てこない。やっと少し ずつ出てくるんですが、ほとんどわけがわからない回答ばっかりでございまして、なぜ かというと、キリスト教では結婚というのは非常に重要な神のわざなんです。仏教は基 本的に愛欲というのは批判の対象なんですね。それに苦しんだ人の救済で出発していま すから、もともとは苦しんだ人のほうにしか興味がないわけです。苦しみのない人にあ んまり関心がないんですね。 ですから、仏教では婚姻とか出産に関してはあまりないんです。そこへもってきて、 日本仏教になりますと死者の祭りが中心になったから、中絶胎児の水子供養には関心が あるけれども、人工妊娠中絶に対して論議しようとはしないという状況です。 ですから、脳死問題になぜ反対するかというと、死だから反対するのであって、患者 を生かすためには何も関心がないんですね。そういうような日本仏教の悲しい、あるい は日本人のと言っていいかもしれません。日本人の精神構造がかかわっているというふ うに思っております。 ですから、まことに申しわけないんですけれども、教団を挙げてこの問題に言及して いるのはおそらく新宗教系だけだと思います。「生長の家」などの仏教系ではそういう ことはなかなか動きが鈍いということです。できている委員会も少しはあるかもしれま せんが、表立ってまだ、生殖に関しては意見は出ていません。 以上でございます。 ○中谷委員長  時間がだんだん迫ってまいりましたけれども、もうお一方、法律家の先生からご質問 がおありだそうですので。 ○丸山委員 根源的なところからいろいろお教えいただいて非常に勉強させていただいたんですけ れども、最初のほうで加地先生が、キリスト教あるいはインドとの対比で、生命観のと ころを浮き上がらせてご説明いただいたので、その後のほうの話で、儒教的には子ども は父母の遺体である、生命を引き継いだ者である、そういうところから血縁関係のある 跡継ぎを一族として求める態度が儒教で強いということをおっしゃったかと思うんです が、最初のようにキリスト教、インド的な視点からは、この点はどうなるのか。 主たるご専門とは異なるかもしれませんけれども、お感じのところがあればお教えい ただきたいと思うんですが。 ○加地氏 生命の連続ということですか。 ○丸山委員 そうですね。子どもを、儒教であれば血縁関係のある者を一族として求める。その点 についてキリスト教とかインドの考え方についてお感じになったところを教えていただ ければと思います。 ○加地氏 私は本当に門外漢で、キリスト教のことをよくわかりませんので、こういう重要なと ころでは差し控えたいと思います。キリスト教のいろんな考え方というのはあると思い ますので。 ただ言えますことは、キリスト教というのは何といったって、やはり唯一神に対する 信仰ですよね。それと個人との関係というのが一番大事なのでありまして、その間にお ける家族とか社会とか国家とかそういうものは、いわば神に比べればとるに足らないと 言ったらあれですけれども、そういうものだと私は思っております。ですから、個人と 神との関係、そして個人の救済ということが一番の重きを置くことだろうと思います。  ですから、たとえばこういうふうなことを申しますよね。神がすべてを創造し、すべ てを支配なさっているわけですから、たとえば阪神大震災がありましたときに、唯一絶 対者の神というのを信じるということにおいては、キリスト教徒はそれを守りますから あのすごい大災害の中で、これは神が与えたもうた試練であるというような形で答えて いましたよね。ですから、子どもがあるとかないとかということもそれは神のおぼしめ しということで生きていけるんだろうと思います。 しかし、あの阪神大震災のときに、クリスチャンでない者はどう言ったかというと、 神も仏もあるものかと言って恨んでいたわけですね。これは唯一信仰のないわれわれで ございますので、だから、子どもがなきゃ何とかして産みたいというふうになってくと 思います。神のおぼしめし、仏のおぼしめしとは思わないんじゃないでしょうか。そう いうふうに思いますけれども。 ○丸山委員 もしよろしければインドについても、何かお感じのことがございましたら、中野先生 お願いしたいんですが。 ○中野氏  インド仏教なり何なりがどう考えるかということですけれども、基本的には、日本の 言葉で言えば仏縁、縁でしょうね。だから、いまの神のおぼしめしに当たるのが、仏教 で言えば縁なのです。 ですから、仏縁というふうに言いますけれども、仏様の授けてくれたものとか、もち ろん仏教の場合は仏だけじゃなくて、そこに人間の行為や主体的なかかわりが入ってき ますから、そういうのを総合して仏縁と言うわけですが、そういう意味では縁ですね。 それをもっと変なふうに受け取ると、いわゆる業とか因果と言うわけですよ。 ですから、そういう形で、因果というのは、縁という言葉の、条件の調和という意味 の行為にかかわる言葉ですので、何も障害児が生まれたから先祖の因果がというふうに だけ使うんじゃなくて、すべては因果であり縁なんですね。そういう意味では、子ども が授からないというのも縁なのです。 ですから、子どもは授かり物という言葉の中には、すでに授からないという条件も含 まれている言葉だと私は思います。  仏教的に言えばそういう答えになるだろうと思いますが、よろしゅうございましょう か。 ○中谷委員長 キリスト教が前提となっておりますスウェーデンの人工授精法、体外受精法をつくる ときの委員会の見解というのを私、その当時もらったんですけれども、不妊というのは 一つの神の過誤、誤りといいますか、手落ちである。それを人が、本来、神がなし与う ところの子どもが生まれるということについて、人間的にそれを補助して何かするとい うのにはおのずから限界があるだろう。人工授精まではある程度容認されるけれども、 人工授精も、外国から精子とか卵子とかを輸入してまで行うのはいけない。体外受精に 至ってはいろんな可能性があるので、特に体外受精は正式な婚姻夫婦だけに限って行う べきで配偶子のドネーションなどは認められないという、非常に単純な3ヵ条からなる 体外受精法をつくっているんですね。私、それを読んだときに、あっと思ったことがあ りました。  そういう意味でも、きょう本当に両先生にいろんな根元的な重大なことを教わりまし た。大変貴重なご意見を感銘深く承ったわけでしたけれども、この両先生のご意見も踏 まえまして、今後、当委員会の意見をまとめていきたいと考えております。今後ともい ろいろとご指導いただければ大変ありがたいと存じます。  ちょうど時間でございますので、ここで終わりにさせていただきたいと思います。あ りがとうございました。 ○武田主査  次回でございますが10月15日でございます。1時半から開催する予定でございます。 場所は霞が関ビルの東京会館のほうになっておりますので、よろしくお願いいたしま す。  以上でございます。 ○中谷委員長  傍聴くださいました方たちもありがとうございました。ご意見を伺うことができませ んで申しわけありませんでしたけれども、これで閉じさせていただきますので、またこ の次の機会にもぜひご出席いただきますように。                                    −了− 照会先  担当:児童家庭局母子保健課         椎葉 茂樹         武田 康祐  内線: 3173、3179