98/04/24 第8回厚生科学審議会先端医療技術評価部会議事録      第8回厚生科学審議会先端医療技術評価部会議事録 1.日 時:平成10年4月24日 (金) 14:00〜16:00 2.場 所:共用第9会議室(中央合同庁舎第5号館26階) 3.議  事:生殖医療に関する意見聴取 4.出席委員:高久史麿部会長 (委員:五十音順:敬称略)     軽部征夫 木村利人 柴田鐵治 寺田雅昭 (専門委員:五十音順:敬称略)         入村達郎 加藤尚武 金城清子 廣井正彦 松田一郎 山崎修道 ○事務局  それでは、定刻になりましたので、ただ今から第8回厚生科学審議会先端医療技術評 価部会を開催いたします。  本日は、森岡委員、曽野委員が御欠席でございます。なお、交通事情によりまして、 若干の委員の方がお遅れになっていらっしゃるようでございます。  また、今回は、議事を公開で開催することといたしております。  最初に、本日の配付資料につきまして事務局から御説明申し上げます。本日の配付資 料は6点ございます。資料1といたしまして、「生殖医療に関する見解の概要」という ことで、本日御出席の3名の専門家の方々から御提出された資料を配付しております。 それから、資料2といたしまして「各関係団体からの要望・意見書」ということで、第 6回の当部会に御出席いただきました日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会から、厚生科 学審議会に対する要望書ということで補足の意見書を後日提出いただいております。も う1点、全国「精神病」者集団という団体の方から出生前診断に関しまして御意見を頂 戴いたしておりますので、併せて団体からの御意見・御要望ということで、前回までに 提出しました資料に追加するものとして提出させていただいております。それから、資 料3といたしまして、インターネットで御意見を公募しておりましたが、インターネッ トで寄せられました個人の方々からの御意見を16名の方からいただいておりますので、 それを取りまとめまして提出させていただいております。それから、資料4といたしま して、関連資料でございますが、日本医師会の生命倫理懇談会の『「高度医療技術とそ の制御」についての報告』という報告書がありますので、それを私どもの方で入手いた しまして提出させていただいております。それから、資料5といたしまして、WHOの ガイドライン(草案)の関係につきまして有識者の方から御意見を頂戴いたしておりま して、その関係についてその方の発表された御意見も付いておりますので、それを併せ て提出させていただいております。それから、資料6といたしまして、松田委員から 「出生前診断の実態に関する研究」の報告書につきまして、詳細な報告書はまだ先と伺 っておりますけれども、研究班の報告がございましたものですから、その簡単な資料を 1枚お付けしております。それ以外に、説明用参考資料といたしまして、今日御出席の 北村先生、島崎先生から資料を頂戴いたしておりますので、併せて意見発表の際の資料 として提出させていただいております。以上でございます。もし欠落等ございましたら お申し出いただければと思います。  それでは、部会長、よろしくお願いいたします。 ○高久部会長  それでは、本日の議題に入らせていただきます。今日は、生殖医療の問題につきまし て、専門家の方々をお招きして御意見をお伺いすることになっております。専門家の皆 さん方、お忙しいところ御出席いただきまして、どうもありがとうございました。  では、早速、事務局から本日の出席の方々の御紹介をよろしくお願いします。 ○事務局  本日は、社団法人日本家族計画協会クリニック所長、北村邦夫先生、それから身体障 害者キリスト教伝道協力会、島崎光正先生、それから大正大学文学部教授、藤井正雄先 生、以上の3名の方々にお越しいただいております。時間の関係もございますので、申 し訳ございませんが、それぞれ20分程度で御意見をよろしくお願いいたします。その後 一括いたしまして委員との間におきまして質疑等を行いたいと思いますので、よろしく お願いいたします。 ○高久部会長 それでは、まず日本家族計画協会クリニックの北村邦夫先生から御説明をよろしくお 願いします。 ○日本家族計画協会クリニック所長  北村邦夫 北村でございます。本日は、このような場で発言の機会を頂戴することが 出来まして感謝しております。 発言に入る前に、添付資料を御紹介させていただきたいと思いますが、1つは、IP PFという組織がございまして、国際家族計画連盟と日本語で言っております。イギリ ス・ロンドンにある組織で、世界で赤十字社に次ぐ第2番目のNGOであると言われて おりますが、私どもは、ここの科学的な情報などをもとに、我が国で家族計画運動を展 開している団体でございます。そこが、最近、性の権利、生殖の権利とは何かという 「性と生殖の権利に関するIPPF憲章」というのを出しておりまして、私どもがそれ を翻訳させていただき、関係各位に御送付させていただいておる訳でございます。ちな みに、12ページをご覧いただきますと、第10章「科学的進歩の恩恵を享受する権利」と いうのがございます。その10−1には「すべての人は、不妊、避妊、人工妊娠中絶のケ アを含む、リプロダクティブ・ヘルス・ケア関連の技術を、それを使わなければ、健康 やウェル・ビーイングに悪影響を及ぼすであろう場合は、利用し、その技術の恩恵を受 けられるべきである」、また、10−3には「性とリプロ・ヘルスに関するサービスを受 けるすべてのクライエントは、安全で受容しうる、すべての生殖技術を利用する権利を 有する」と記載されております。この憲章などをもとに本日の見解を述べさせていただ くことになります。  私自身は、この分野の専門家というよりも、むしろ避妊、家族計画をテーマに、長年 にわたって我が国のリプロダクティブ・ヘルスの実現に向けて取り組んできた者であり ます。低用量経口避妊薬や活性型子宮内避妊具(我が国で使用が認可されている子宮内 避妊具には薬剤が付加されていませんが、諸外国では大半が銅や黄体ホルモンを付加し た子宮内避妊具が使用されており、これら薬剤が付加されているものを活性型子宮内避 妊具といいます)など、世界で広く使用されております近代的避妊法が認可されていな い我が国の現状に常々怒りを覚えてまいりました。意図しない妊娠を、安全かつ効果的 に回避し得る手段を国民は当然の権利として提供されなければならないのに、それを国 家が厳しく規制するという前近代的な姿勢に対する憤りであります。避妊にとどまらず 我が国におけるリプロダクティブ・ヘルス・ライツはどこまで重視されてきたのか、疑 問を抱かずにはおれない現実を随所に認めるのであります。  その1つが、本日の主題になっております不妊に関してであります。生殖医学、中で も最近の不妊医療の進歩は驚くほどです。かつては、卵管が障害されているような場合 には絶対的な不妊と言われていましたが、今では体外受精・胚移植によって妊娠を可能 としました。男性側の不妊の原因として挙げられる精子欠乏症や無精子症には、他人の 精子を授精する方法がとられています。非配偶者間人工授精、いわゆるAIDがそれで あります。倫理的な問題を含んでいるとはいえ、世界的には卵子提供、代理母なども出 現し、不妊のカップルにとっては大きな福音であるかのようにも見えます。  しかし、それがために、ますます強迫的な妊娠願望を抱かされている女性がいます。 妊娠に一縷の望みを抱く女性と、生殖医療の進歩に賭ける医者とのゴールの見えない不 妊医療のマラソンが始まるのであります。勿論、不妊医療を否定するものではありませ ん。妊娠・出産を望むカップルのために、日夜、研究や臨床に励んでいる医師仲間がい ますし、生殖補助医療技術の恩恵を受けて子どもをもうけ、幸福な人生を営んでいるカ ップルも少なくないからであります。しかし、その陰で女性は産むことが当たり前と言 わんばかりの社会の犠牲になっているとしたら問題です。産めない女性、産まないこと を決めた女性にもやさしい社会であることこそ、成熟した社会の証ではないかと思って います。  かつて、出会った不妊女性から聞いた言葉が今も鮮明に私の心に残っています。彼女 は、10年近く連れ添った夫とひょんなことから離婚することになった。子どもが出来な かったことが理由ではありません。でも、離婚がささやかれ始める頃から、休みなく通 い続けていた不妊外来にパタッと通わなくなりました。というよりも、行く必要がなく なったのであります。同時に、それまで自分にのしかかっていた不妊という重圧からも 解放されました。離婚によって彼女は突如として不妊ではなくなったのです。不妊の持 つ一側面を私たちに教えてくれる話であります。私があえて「不妊症」と言わず「不 妊」と表現するのは、この経験が一因となっています。  さらに、不妊症には病気というイメージが強いことを問題にすべきです。子どもが出 来ないことは病気だろうか。病気の概念からしたら、治療せずに放っておいたら死に至 るものとも言うべきです。としたら、不妊は病気とは言えません。子どもが出来ないか らといって死ぬ訳ではないからであります。勿論、精神的な苦痛に耐え切れずに自殺す るとか、不妊をつくり出している感染症や子宮内膜症などで死に向かう危険性がないと は言えませんが、これは極めて例外的なことです。このような意味もあって、「治療」 ではなく「医療」という言葉を努めて使おうとも心がけています。  現在行われております不妊治療は、必ずしも不妊そのものを治す訳ではありません。 1人目の子どもが治療によって生まれても、それは例えば体外受精・胚移植の結果であ って、次に妊娠を望む際、自然な排卵とともに受精し、妊娠に至る訳ではないのです。 時には、第1子出産の後にさらに不妊の悩みが広がる可能性もあります。「2人目はま だ」、「老後のことを考えると娘がいた方がいいわよ」などの言葉の暴力を受けるので す。そして、幾ら治療を繰り返しても妊娠・出産に至ることの出来ないカップルが現実 にはいるということを忘れる訳にはいきません。  1997年1月から、厚生省が推進します生涯を通じた女性の健康支援事業の一環として 私どもは『不妊ホットライン』を開設しました。本日の私の添付資料の中にその1年間 のまとめを入れさせていただいておりますが、当初、相談員としては医師、助産婦、心 理相談員などの専門家を置くように計画しておりました。しかし、不妊の悩みは子ども が出来ることで癒される訳ではなく、その後も新たな悩みを抱えたり、いかなる治療を もってしても妊娠・出産に至ることの出来ないカップルがいることを思うと、出産を不 妊医療のゴールとして捉えかねない医療関係者を相談員とすることに一抹の不安を覚え ずにはおれませんでした。そのため、行政からの補助を受けての事業としては異例であ ることを承知で、悩みを共感出来る不妊の当事者を相談員としたホットラインをスター トさせたのであります。2人の相談員が応対できる件数は、1日たったの40件程度。そ れに対し、全国各地から1日に向けられるコール数が4,000件を超えたときがありました これでは、話をすること自体が宝くじを当てるほどに難しいことになります。毎週火曜 日、午前10時から午後4時まで受け付けているこのホットラインで昨年1年間に受けた 相談は926件を数えました。この結果がピアカウンセリング(不妊の当事者を相談員とし たカウンセリング)の成功を物語っていると言えます。 相談内容を見ますと、資料の中に相談内容などが分類されておりますけれども、5 ページの(10)、(11)、(12)が相談内容を具体的に示したものでございます。「治療への 迷い」が35.1%。第2位が「病院に関する情報を知りたい」、19.3%。第3位が「不妊 である自分と自分の人生の悩み」、16.6%。第4位が「不妊にかかる検査について」、 12%。第5位が「不妊医療機関への不平・不満」、11.4%の順となっています。中でも 「治療への迷い」に関する相談は高率であり、「いつまでこの治療を続けるべきか」な ど、先の見えない不妊医療への不安・疑問が渦巻いているように思われます。「医師に よって言うことが違う」、「医師に聞いても適当にあしらわれているような感じがす る」、「病院がお役所的で人間の心を大切にしない」など、医師や医療機関に向けられ た不信に満ちた率直な声。「夫はまだがんばれと言うが、自分はもう休みたい」、「自 分はこのままあきらめてもいいかなと思うが」と治療への迷い。「墓守りを早く産んで ほしい。孫がいなくては死に切れない」、「子どもをつくれないとはうちの嫁として失 格だ」など、舅、姑からの厳しい仕打ち。不妊の当事者の尽きない悩みを身近にいる夫 兄弟、親だけでなく、不妊医療に関わっている医療関係者がどう受け止め、助言を与え ているのか、問題が山積していると強く感じずにはおれません。 私は、『不妊ホットライン』で受けた相談内容を集約し、次のような結論を得ました まず第1に、不妊の悩みというのは、家族や周囲からのプレッシャー、社会的抑圧、夫 婦関係、本人の生育歴から生まれた家族観、人生観などがないまぜになったものとして 表出するものであって、それは決して不妊治療に対する悩みにとどまるものではないと いうこと。第2に、誰が妊娠し、誰が妊娠しないかの最終的な見通しは医師にも分から ず、その見通しのない治療の中で心身を疲弊させている患者が少なくないということ。 第3に、医師に全幅の信頼を寄せながらも、十分なインフォームド・コンセントが行わ れないままに続けられる検査や治療に不安や憤りを感じている人が大勢いるということ 第4に、治療期間が長引くにつれ、「治療への迷い」が増加し、体外受精・胚移植など 生殖補助医療への関心が高まっていくということ。第5に、「不妊の悩みを癒す」とい うのは、子どもが出来れば解消するとの誤解がありますが、現在の不妊医療が不妊その ものを治す訳ではないので、妊娠が必ずしも不妊からの解放にはつながってはいないと いうこと。第6に、現実には、幾ら不妊医療を繰り返しても子どもが授からないカップ ルがおり、不妊相談を「子どもが生まれること」への援助を目標としてしまったら、彼 らは取りこぼされてしまうことになるということ。  これら不妊の当事者の声を直接間接に耳にしながら、生殖医療に係る生殖補助医療技 術、出生前診断などについては、それを提供する医療側、あるいはそれを利用する不妊 の当事者が遵守すべき基本的な事項は以下の3点であると考えています。  第1に、生まれた子どもが幸せに生きることが出来る医療であることを挙げたいと思 います。出生児が健康で幸福に生きるために、双方とも最大限の努力を払わなければな りません。また、親が誰であるか論争を呼び起こしているような代理母は選択すべきで はないと考えます。今日、急速に普及していく生殖補助医療技術は、社会の需要の大き さを併せて考慮すれば、一般的には有効な医療であることが認知されているとするのが 妥当であります。1995年時点では、日本産科婦人科学会の調査によれば、生殖補助医療 技術を実施している施設は約 340施設に及びます。この数は、近いうちに440施設を超え るだろうと推測されています。しかし、生殖補助医療技術を施行している施設の大部分 は民間医療機関であり、これらの医療機関が技術の発展に果たした役割は大きいと言わ ざるを得ませんが、世界的な普及を考えてみますと、大学病院など主要医療施設が生殖 補助医療技術を取り入れ、有用性を確認しつつ、末端の医療機関へと普及していくこと が望ましい姿であると考えられます。今日の我が国における生殖補助医療技術において は、この逆であり、常に建前が先行し、患者本位の医療に取り組めない我が国の現状を 憂えずにはおれません。このような事態が生殖補助医療技術を巡る諸問題の根幹にない とは言えません。同業者批判とも受け止められかねませんが、産婦人科医の場合、安全 な妊娠・出産の管理には熱心であっても、出生児が幸せに生きていけるかという点につ いてはとかく無関心であるように思われます。したがって、高度な生殖補助医療技術を 駆使して子どもが生まれたら、その後は小児科医に預ければという安易な姿勢がないと は言えません。そのような意味からは、つくることに手を貸す側が、育てる側にまで目 を向けた生殖補助医療技術のあり方を考えるとともに、小児科、中でも周産期医療体制 の不備の改善が急務であります。 第2に、第三者の苦痛やリスクを伴う生殖補助医療技術は用いるべきではありません 卵子の提供を目的とした卵巣刺激と採卵、あるいは妊娠・分娩を代行する代理母は認め られるべきではありません。卵巣刺激・採卵はある程度リスクを伴うものです。妊娠・ 分娩にも苦痛と予期せぬ異常をもたらし、健康を損なうこともあります。このような問 題が起こり得ることを第三者に託すべきではありません。これは善意の協力の範囲を逸 脱するものと考えます。妊娠・分娩というのは、母体にとっては非常に多くのリスクと 苦痛を伴うものです。このリスクに耐え得るのは実母において初めて可能であります。 したがって、代理母として他の女性に妊娠・分娩を依頼するということは難しいと言え ましょう。仮に代理母が許可されるのであれば、商業主義を取り入れざるを得ないのは 諸外国の例を見ても明らかです。例えば姉が妹のために、母が娘のためにというように 身内が代理母になるというようなことも考えられます。しかしながら、たとえ身内であ っても、そのリスクを負わせることにおいては同様です。代理母を志願した身内は、金 銭を要求せず、多少の苦痛をも辞さないと言うかもしれません。仮に百歩譲って、身内 が代理母になることを容認することになったとしたらどうでしょうか。それが高じて、 子どものために親ならば肝臓移植に協力して当然だというような風潮を生むことにはな らないでしょうか。このような形で普遍化することは困難であるというべきです。  第3に、生殖医療に商業主義を取り入れるべきではありません。生殖医療は善意の範 囲で行われるべきで、営利目的の精子銀行や商業主義的代理母あっせんは認められるべ きではありません。卵子の提供に関しては、倫理的には精子の提供と同様であると考え られますが、採卵について見ますと、提供者に過剰な負担をかけると言えます。精子の 提供に関しては、社会的に認められる範囲の謝礼の授受が行われていますが、もしこれ が卵子の提供ということになれば、社会的に認められる範囲ではおさまらない可能性が 諸外国の例を見ましても推測されます。また、生殖補助医療技術の発展とともに、多胎 妊娠が大きな問題となっています。多胎妊娠は、胎児にとっても母体にとっても大きな 負担となります。それは、出産後の生活にも影響を及ぼすことは当然です。家族形成権 は当事者にあり、決して医師や国家にある訳ではありません。日本産科婦人科学会では 多胎妊娠は望ましくないということを明確に認識していながら、その対応として、単に 「多胎を防ぐための努力をすべきである」というような抽象的なことしか述べていませ ん。また、胚移植数を3個にすべきであるという手段を提案しているのみです。ところ が、3個移植してよいということは、3胎が起こるということを是認していることにな ります。今日までの内外のデータを見ます、3胎に伴う児の障害、あるいは周産期の諸 問題は依然として解決されておらず、さらには未熟児出産に伴う多大な経済的負担も看 過出来ない大きな問題です。勿論、多くの有識者が指摘されますように、多胎妊娠を回 避する生殖補助医療技術を検討することが最優先すべき課題ですが、3個移植した場合 の妊娠率は30%、2個ですと15%にとどまるということからは、患者の心身並びに経済 的負担などを考慮した場合に、臨床的にどうしても3個移植にこだわらざるを得ないと いうのが現状のようです。その結果起こる危険性の高い3胎妊娠をどう捉えるのか。こ のマッチポンプのような事態に、減数手術の可能性を含めて、今後積極的に検討してい かなければならないと思われます。  以上、『不妊ホットライン』の経験を通して、私どもの生殖補助医療技術に関する見 解の一端を述べさせていただきましたが、論点にすべて答える形にはなっておりません 後ほど委員各位からの質問に対し、補足的に発言をさせていただきたいと存じます。あ りがとうございました。 ○高久部会長 どうもありがとうございました。それでは、引き続きまして島崎光正先生からお話を お伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。 ○身体障害者キリスト教伝道協力会会長  島崎光正 ただ今御紹介にあずかりました島崎光正でございます。ただいま松本平の 一隅、塩尻市という市に編入になっておりますが、その農村地帯から上京して参った者 であります。  今回、このような場所にお招きにあずかりました趣旨につきましては、宗教の立場か ら先端医療技術に関してどのように考えているかという課題が浮上してきたのではない かと思う訳でありまして、その意味で、私は1人のキリスト者として、私なりにお答え を申し上げたく参ったのでございます。  そもそも先端医療技術は「医療」という言葉が入っておる訳ですが、そのような医療 そのものに関しましては全くの素人でございまして、十分な勉強をしている訳でもない したがって、その方面に関して十分な御説明は出来ないだろうというふうにあらかじめ お許しをいただきたい訳であります。  最初に、私自身の障害につきまして御紹介を申し上げた方が話に膨らみが出てくるの ではないかと考えておりますが、それは後に回すことにいたしまして、まず、今日、 「見解の概要」の15ページ目に印刷をしていただいております文章にもとづいてお話し 申し上げたい訳であります。 さて、先端医療技術に関し、一キリスト者の立場より、また特に出生前診断において は、その時点から予知が可能の範囲となったと言われる二分脊椎の障害を負い続けてき た当事者の一人としても、意見を申し述べてみたいのであります。まず、聖書に盛られ た人間の命の創造につきましては、その基本として次のように記されております。これ は『旧約聖書』の創世記2章7節からの引用であります。「主なる神は土のちりで人を 造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」と記されてあ ります。ここに見える命の息の「息」とは「霊気」とも訳されている言葉でありまして 他の地上における被創造物とは異なった、目に見える外にあらわれたものの如何によら ない霊的な存在として、人間は最初から捉えられております。  したがって、出生前診断においては、その前の遺伝子診断を含め、治療の行為を決し て否定するものではありませんが、命そのものの存在を脅かし、冒すことは許されない のであります。要は、人間の次元に属する医療技術と、神の領域との接点をいずこに置 くべきかに帰するのではないかと存じます。しかし、現実的には、出生前診断の開発は その方法の簡便な移行とも絡み、出生後の処置に関し、特に肉親の当事者としての気持 ちの揺れ動くことは当然と言わねばなりません。その揺れ動く背景にありますものは、 出生後の医療処置を含めた育児に対しての種々の不安であり、更には現代の日本におけ る人間の価値観が大きな要因をなしているものと思われます。  敗戦後の日本も半世紀を経過し、著しい経済成長とあらゆるテクノロジーの進歩によ る生活の変化は、人間の価値観の規準を知らず知らずにこれに合わせようとする。した がって、この規準に合った者を出来るだけ世に送り出そうとし、それにそぐわないケー スはここより排除しようといたします。まさに障害児(者)はこれに該当する者として あってはならぬとしがちであり、いや、その恐れは十分にあるのであります。けれども 神はあらゆる存在をそのありのままの姿において創造し、霊を分与したものとしての尊 厳を宿らせ、この地上に置いているのであります。もとより、繰り返すまでもなく、人 間の手による治療への努力は決してやぶさかであってはならないものの、この多様性を 認め合うことは極めて大切であります。  弱き肢体の混在こそ、社会にとってのノーマルな姿であり、お互いの優しさと労り合 いの喚起のために、この存在は用いられ役立っているのであります。このことは、現代 日本の高齢化社会における該当者の処遇の在りようにも通ずるものであり、互いに重荷 を担い合う価値観の転換をこれからの日本は図っていかなくてはならないと思います。  このことは、地元の長野における今回の冬季オリンピックに引き続いたパラリンピッ クの観戦の現場において実証出来たことを終わりに強調しておきたいと思います。そこ では、身体に、また心に何らかのハンディを負った者こそ人間の善意をかき立て、人間 そのものへの回帰をあらゆる人々に教え示していた出来事であったからであります。こ こに「実証」と書きましたけれども、私がこのパラリンピックを実際に観戦して学んだ ことを一言具体的に付け加えさせていただきたい訳であります。  私は、先ほど申し上げましたように、今、松本平の一隅に住まっておる者であります が、パラリンピックの最後の日でありました3月14日に、一番近い長野オリンピックの 会場であります白馬へ出かけて観戦をいたしました。そのときに私が実際にこの目で見 耳で聞いた実証と申しますのは、そこで障害者自身がお互いに労り合いながら、競技と いうよりも、そこで本当の意味でのスポーツをしていたということ。そして、具体的に 申しますと、そのときにスキーの選手がペアを組みまして、ガイドを務める選手が先に 滑ってまいりまして、実際に視覚に障害を負う選手がその後をついて滑って行くという スポーツの仕方でありました。ここで既に選手自体が労り合いの実証を私どもに見せて くれた訳でありますけれども、そこに観戦に来ておりました、私もまた車椅子に乗った 1人の障害者でありましたが、多くのと申し上げるべきでありましょうか、もっと重い 障害者と言うべきでありましょうか、本人が、あるいは家族の腕に抱かれて、そのス ポーツの観戦に参っておりまして、熱心に応援をしておりました。そして、私と妻がそ こに参ったのでありますけれども、白馬の駅に着きますと、そこで直ちにリフト車が迎 えに参っておりまして、ボランティアの方々が競技場まで運んでくださる。こうして既 に人間の善意が喚起されていたという出来事が起きまして、更に競技場において一層そ のことが実証されていたということ。つまり、弱い肢体が存在することによりまして、 人間の善意、労り合い、優しさがそこにいかんなく発揮されたという事実を私はそこで 見ることが出来たということであります。  そして、私自身の御紹介が遅れましたけれども、私は昨年、ドイツのボンに参る機会 がありました。それは、今、日本で二分脊椎症児(者)を守る会というのが発足して四 半世紀を過ぎている訳でありますが、その有志の方々とツアーを組み出掛けて行きまし て、二分脊椎の国際会議に連なることが出来ました。この会自体はクリスチャンの趣旨 において催された訳ではありませんけれども、ドイツという土地柄、そこに当然、キリ スト者の講演の方が加わっておられまして、ある神学者も講演者の1人でありました。 通訳を通して伺っておりますと、その方は出生前診断のことにも触れていたのでありま すけれども、その時点において、通訳によりますと、大変きつい言葉でありましたけれ ども、「人間の手を加えてこれを殺す」という言葉を使っておりました。「殺すことは 決してしてはならない」、そのようにこの神学者はそこで話しておりました。  そして、実は私は、その2日目のことでありましたけれども、多少の時間をいただき まして、短い時間でありましたが、スピーチをさせていただいたのであります。勿論、 これは日本語によるものでありましたけれども、英語、ドイツ語、フランス語の同時通 訳があり会場に流されました。その内容につきましては、今日御用意いただきました私 の参考資料の最初の1ページ目でございます。それをそのままここで朗読させていただ きます。 「『私の願い』 島崎 光正 私はこの度、日本のチームの一人として車椅子に乗りな がらドイツにやってまいりました、二分脊椎の障害を負った七十七歳となる男性です。  もちろん、私は生まれた時からこの障害を負っていました。そして、両親と早くに離 別をしたためにミルクで養ってくれた祖母の話によりますと、三歳の時にようやく歩め るようになったとのことです。  七歳となり、すでに足を引きながら、村の小学校に入学しました。やがて、市の商業 学校へと進みましたものの、間もなく両足首の変形が急にあらわれましたために通学が 困難となり、中途退学をしなくてはなりませんでした。それからは、日本アルプスへの 登山客の土産品である白樺に人形を刻むことを職業とするようになりました。同時に、 その遅い歩みの中から詩を綴ることを覚え今日に至っております。  今、私がもっとも関心を抱いておりますのは、日本におきましても進んだ医療技術の 一つと言われている出生前診断のことです。そして、二分脊椎の障害を負った胎児も、 その段階において、こうした診断により見分けのつく時代を迎えているものと見られて います。もちろん、診断以後のことは両親の判断にゆだねられているにせよ、全体の流 れにおいて安易な選別と処置につながることを恐れる者です。  たしかに、二分脊椎に限らず、障害を負って生まれてきたことは、人生の途上におい て様々な困難をくぐらねばならないことは事実です。私の七十七年の歩みのあとを振り 返ってもそう言えます。けれども、それゆえに、この世に誕生をみたことを後悔するつ もりは少しもありません。それほど、神様から母の陣痛を通してさずかったいのちの尊 厳性は、重いものと考えられます。  このような皆さんとの出会い、また日本でのわが家の庭の、朝露に濡れた薔薇との出 会いの喜びは、何よりもそのことを証ししています。  身に、どのようなハンディを負って生まれてこようとも、人間は人間であるがゆえの 存在の意味と権利は、人類の共同の責任において確保され尊重されてゆかねばなりませ ん。そこに、まことの平和もあります。そのことを、こうした場所と機会において訴え たいと思います。  終わりに、この会場で綴ったいちばん新しい詩をご紹介したいと思います。          自主決定にあらずして          たまわった           いのちの泉の重さを          みんな湛えている  ご静聴ありがとうございました。」  これは、実は障害者の自主決定、特に二分脊椎のハンディを負った者の自主決定とい う主題で講演された方がございまして、その言葉をそのままここに取り入れさせていた だいた訳であります。これが5分間スピーチの内容でありまして、英独仏による同時通 訳がなされました。  それから、最後の日にライン下りを兼ねたドイツの地元の会の送別のレセプションが ございまして、船に乗っておりましたときに、見知らぬ外国の方が突然握手を求めてこ られました。それは、二分脊椎の子どもを連れて来られたスウェーデンのお母さんであ りまして、帰国後暫くたちましてから便りがまいりました。字引を引きながらその便り を読んだ訳でありますけれども、あなたの話に大変励まされた、その感動が今も続いて いる、そういう趣旨の便りをいただきました。  これが5分間スピーチでございましたが、ここで話さなかったことを一言付け加えま すと、私は二分脊椎によるハンディにおきましても、ご存じのように内反足という症状 がどうしても青年期に両足首に出てまいりまして、その手術のために信州から松葉杖を 突きながら上京し、当時、東京の新宿区戸山町1番地にありました国立身体障害セン ターという施設で足首の手術を受けました。この足首の手術そのものは成功したと私は 思っておりますけれども、今も、そのもとになっております二分脊椎の肉の刺は背中に 負い続けておりまして、いつか70歳を大分越えてしまったということでありますが、先 ほどもお話ししましたように、私はこの世に生を受けたこと、生まれてきたことを少し も後悔するつもりはありませんし、母は早くに亡くなりましたけれども、心から母に感 謝をしている者であります。 それから、私は手術の後、思わず30年間、東京に留まりまして、キリスト教の雑誌な どの編集に携わるということをしていたのでありますが、この間にそちらで妻にも恵ま れまして、今日ここに一緒に付き添いに来てくれております。45歳のときに初めて結婚 をいたしました。そして、少しあからさまなことを申し上げる訳ですけれども、私ども 二分脊椎のハンディを負っておりましても、男性としての機能を失っている訳ではあり ません。そして、結婚して間もなく家内につわりの症状が出てまいりました。「これは 子どもができたかな」と。そのときに、一体丈夫な子どもが生まれるかしらと、私は子 どもが授かった喜びよりも、そのことが真っ先に心に浮かんだことであります。しかし この喜びもつかの間で、それは単なる仕事の上の疲労であったということが分かって、 そういうことはその後二度とありませんでしたけれども、そういうことがありました。 今、結婚してから既に30年以上たっておりますが、子どもはありません。 そこで、また一言だけ付け加えたい訳であります。子どもが出来なかった、子どもに 恵まれなかったということも実は神様の恵みであります。子どもに恵まれなかったとい うことの時間、多くの子どもと言いますと見下したような言い方でありますが、私は多 くの信仰を同じくする友が与えられております。子ども以上の友が与えられております それで、不妊もまた神様の恵みであろうと考えております。そのことを一言付け加えま して、何か御質問がありましたらお答えしたいと存じますけれども、今日の私の話にさ せていただきたいと思います。 ○高久部会長 どうもありがとうございました。それでは、藤井先生、よろしくお願いいたします。 ○大正大学文学部教授 藤井正雄 ただ今の島崎先生のお話はキリスト者という信仰の立場でございまして、私も実は仏 教を信仰している立場の者ですが、この席におきましては、各教団ないしは教義を言う のではなくて、むしろ日本人の底辺に潜む文化宗教(参考資料1)と先端医療とがどう 関わりを持つかということを話してほしいということでございました。 昨年6月に、医学界の特別シンポジウムがございまして、そのときに「心の教育」と いうテーマでたまたま金城委員と御一緒になりました。そのときに、日本では「間引 き」が行われていた。そして、日本は一番早く世界に先駆けて中絶を合法化した国であ る。そういった中で、歴史的な「間引き」と現代の生殖医療とがどう関わり合うのかと いうことを話し合ったことがございます。実は今回も、特定の宗教を離れてそういうお 話をして、皆さんの御参考になればと思って出席した訳でございます。  このレジュメに沿いましてお話を申し上げたいと思いますが、「間引き」とは一体ど ういうものかといいますと、大きく分けまして2つのタイプがございます。都市型と農 村型です。ここに書きましたように、農村型の「間引き」というのは、ご存じのように 農業を主とした日本の文化にありまして、「間引き」をしなければ植物が育たない。そ ういう意味で慢性的に訪れてまいります飢餓状態、いわゆる飢饉が日本では年じゅう起 こっておりました。日本災害史を調べてみましても、しょっちゅう飢饉が訪れた。そう いう意味で、赤子の「間引き」をせざるを得ない社会環境に置かれていた。そうすると そういった社会環境に置かれている中で、宗教がどういったそれに対する精神的な支え となっていたか、これが問題になってくると思うんです。  そこで、ここに書きましたように、具体的には、鹿児島県下や伊豆七島の御蔵島など では「子どもは3人以上産んではならない」というのが不文律になっていた。そういっ たことから、四人目の子どもが生まれようとする際に、産婆が主人公と目配せをして、 生まれてくる子どもを、和紙に水をつけて、それを赤子の口にあてて即死状態にさせた それからまた、授乳する際に、両方の乳房で圧死する。あるいは、額のへっ込んだ部分 を指で押して間引きする。こういったことが行われ、さらに、石臼で圧殺したという記 録もございます。そういう意味で、非常に悲惨な状況があった。これは、今、こけし人 形が郷土玩具になっておりますけれども、「こけし」というのは子どもを消すという悲 しい出来事の玩具で、嬰児殺しをした子どもを偲んで「子消し」人形が出来た、こうい うふうに解釈する場合もございます。そういったことから、農村におきましては、なか ば常習的なものでありましたけれども、ただ、これは飢饉に際しての緊急避難的なもの でありまして、決して常習的なものではなかった。しかし、各藩が、農業を行う際に、 人口の疲弊ということで堕胎禁止令というものが度々出ておりますし、また、困窮者に は赤子養育料といったものを出すというおふれも出ておりますので、そういう意味では かなりいろいろな側面がうかがわれるかと思います。  そして、障害児に関しましても、一番嫌いましたのは双子でございます。それから、 三口や兎唇、ほかに障害がある場合に、もしそれが村じゅうに知れ渡ると、家系の恥と なり、何の因縁かと噂されると、それは差別のきっかけをつくるということで、黙って そのまま嬰児殺しに走ったという記録が残っております。  一方、都市型におきましては、ここに書きましたように、特に元禄文化の際には、 「自由丸」とか、あるいは「ややおろし」に関しましてのいろいろな堕胎薬がございま した。そしてまた、「朔日丸」とか、「月水早流し」とか、そういう丸薬が常時売られ ていたという記録がございます。そして、都市の場合には、享楽的ないわゆる不倫行為 による堕胎ということが行われた。この際に、どういうふうにして堕胎が行われたかと いうと、例えば井原西鶴の『浮世栄華一代男』の中に出てまいりますのは、「腹取り上 手」という言葉がございます。要するに、産婦の腹を圧迫する堕胎術、こういったこと が行われていた。そしてまた、青森県の中津軽郡では、ホウズキの根を3日間ぐらい陰 部に差し込む形で堕胎を図ったということが行われた。そうすると、私、ここに都市型 と書きましたけれども、必ずしも都市だけではなくて、農村においても嬰児殺しのほか に中絶行為もなされていたということが事実として存在いたします。  しかし、ここで考えなければならないのは、こういう事実というのは必要悪であった 都市におけるタイプの場合には現代の性の乱れと相通ずる面がございますけれども、 「見解の概要」の2)に「『間引き』の文化的・宗教的背景」と書きましたように、実 は「間引き」のことを「もどす」、「かえす」、あるいは「うみながす」という表現が ございます。これは、子どもは神からの授かりものだと。かつては「子どもが授かる」 という表現が一般的でありましたけれども、最近は、ラジオやテレビでも、アナウン サーが新婚の夫婦を捉えて「何人子どもをつくるか」という表現を使います。ここに完 全に昔の共同体の持っていた世界観は崩壊したという感が非常に深いのであります。神 にかえすということは、神からの授かりものであって、沖縄などで墓地の調査をしてみ ますと、「今度生まれてくるときは、いいときに生まれてこいよ」という形で遺体を葬 ったといったこともございますし、また、例えば「熊祭り」というのがアイヌにござい ますけれども、生け捕った小熊を飼育して大きくなるとその霊を神の国に送りかえす (アイヌ語でイ・オマンテとは送るという意味)祭礼です。決して熊そのものを殺して いるんじゃなくて、神にその霊をかえすんだという考えがあるからこそ、祭りが今日ま で伝えられてきた、ということがあります。  また、生まれた場合には、妊娠・出産・育児の各段階ごとに非常に細かな習俗が集中 していたということは、やはり大事に育てるという気配りが存在した。ということは、 同時に、出産から育児にかけて共同体の支えがあった。そして、「間引き」を支える精 神的な世界観というものがあった。いわば信仰に支えられてそういった行為がなされた  そういうことを考えますと、昭和45年から全国的に展開されてまいります水子供養の ブームとどこが違うのかというと、やはり共同体が崩壊し、そして子育てが地域社会か ら離れてしまって母親個人の問題に転化されたところに問題が出てくるのではないか。 そして、そういう状況の1つの契機になったのは、死生観の多様化という側面を無視す ることは出来ない。では、かつての死生観というのはどういうものであったかというと 18ページの参考資料を見ていただきたいんですが、レジュメのところにも書きましたけ れども、実は生死を循環するものとして考えていた。したがいまして、かつての世界観 におきましては、亡くなるということは死から次の生へのリミナルなステージ(移行段 階)であって、ターミナル(終末)ではない。いわゆる境界領域であって、亡くなって から先祖の国に生まれる、これが「往生」という表現になります。「往生」というのは 「往(ゆ)き生まれる」。ですから、この生を終わって、そして来世に生まれるんだと いう考えから、葬送習俗には非常に厳しい細かいタブーがありました。これは、出産・ 育児についても同じことが言えた訳です。  ところが、これが崩壊してくる発端になりましたのは、明治期に制定された医師法に よって、死の判定は医師の専権事項であると定められた。死というものが、心臓死に表 現されるように、心臓と肺臓と瞳孔散大、言葉を変えて言えば、複雑な神経の死という いわゆる内臓の死ということが法律上決められた。ただ、これは単に社会的な約束事で あったんですけれども、そこから類推して、生というものが見えなかったけれども、内 臓の分化をもって生命の始まりとしようとする産婦人科の胚に関する見解などが出てく るのもそれではないか。要するに、死というものが内臓の死であるならば、内臓が分化 するときが生の発端であるという考え方が出てくる。それは死生観から言えば、人生と いうのはこの世きりであるという直線的な世界観を生み育てていく結果になったのでは ないだろうか。そうすると、そこに従来の伝統的な死生観との間に相剋が起こってくる  しかも、現代人の死生観は多様化して、伝統的な死生観が消滅したのではなくて、併 存した形で存在している(参考資料2)。そこに極めて対立的な問題が出てきた。ここ が、私が書きました人工妊娠中絶においては、一方を生かすために他方を犠牲にしなけ ればならないという矛盾対立が出てきた。そして、優生保護法が2年前に母体保護法に 変わって、事務次官通達によって満22週というのが定められて、それ以後は変更がござ いませんけれども、22週以前は母親に権利があり、22週を過ぎると、今度は胎児の人権 が優先されるということになった。そうすると、なぜこういったことが人為的に決めら れるのか。宗教の立場から言えば、着床前診断にいたしましても、受精卵が命なのか、 あるいはモノなのかという論議もやはり必要だ。それで、出生前診断によって異常がな いと分かった場合に、その受精卵を母親の子宮に戻せば子どもが生まれてくる訳ですか ら、そういった連続性ということを考えた場合に、それは命ではないだろうか。例えば 癌の告知の問題が一番よくあらわれていると思いますけれども、癌の告知がイエスか ノーかという二者択一の問題ではない。その人の状況によって、イエスでもノーでもな い、どちらとも言えないという第3の答えがやはり必要になってくる。それを哲学の分 野では「相対主義」と言いますけれども、私が先ほど申し上げましたように、宗教学の 立場からいくと、単に相対主義ではなくて、命という絶対性というものを照らした相対 主義というものがなくてはならないのではないだろうか、これが私の見解でございます  以上、お話申し上げた中で、旧来「間引き」が必要悪として行われたという条件を考 えてみますと、それを支える世界観があったということ。そして、共同体の支えがあっ た。これを現代的に考えてみれば、共同体をそのまま復活するのではなくて、障害者と 共に生きる環境の整備ということを第一に考えなければならない。そうでなければ、障 害者を生んで育てるということは出来ない。ですから、そういう条件の整備ということ が必要であろう。同時に、相対主義に立つ倫理観、それを私は「状況倫理」という言葉 で説明しておりますけれども、そういう状況倫理で、イエスでもノーでもないといった 状況を加味した、しかも、それは状況の変化に合わせて答えが変動するというのではな くて、命の絶対性という1つの基準に照らしての相対主義というものが現代において要 請されてくるのではないだろうか。  そういう意味で、AとBの対立ではなくて、中間のCを認めることが大事である。そ れには、先ほども申し上げましたように、失われた共同体を復活するというのではなく て、そういう社会環境づくりをすることと、障害者と共に生きる、そういう命の絶対性 ということも考えて、審議会の皆さんにおきましては、是非慎重な対応をしていただき たい。これが私の願いでございます。  まだ数分残っておりますけれども、参考資料を説明するには不充分です。いずれ御質 問がありましたらお答えしたいと思います。これで終わりたいと思います。御静聴、ど うもありがとうございました。 ○高久部会長  藤井先生、どうもありがとうございました。今、3人の方々からお話を伺った訳であ りますけれども、この会議は4時まで予定されております。最後の5分間ぐらい、松田 委員からの御報告をお伺いしたいと思いますので、約50分ぐらい時間がございますので 委員の皆様方からいろいろ御質問をお受けしたいと思います。また、今日お話しいただ きましたお3人の先生方には、随時、御追加などをしていただければと思いますので、 よろしくお願いいたします。どなたか、御質問おありでしょうか。 ○木村委員  それぞれの先生方から大変に感銘の深いお話をお伺いすることができまして感謝にた えません。それぞれの先生方に質問があるのでございますけれども、一番最初に北村先 生のお話の中でございました、いろいろな形で生殖医療に国がコントロールしているよ うな状況、ピルの解禁について非常にネガティブであるというような状況。そういうこ とで、国に対するいろいろな問題点の御指摘がございまして、その一方で、民間主導型 といいますか、簡単に言うと、民間で野放しでいろいろな生殖医療関連のことが行われ ているという状況にある訳で、これについて何らかの意味のある一定の枠組みが必要で はないかというようなことも考えられる訳です。それと同時に、現行法上は、いろいろ な法律の形式と内容が女性の生殖医療に関する自己決定権を正面から受け止めていない つまり権利の展開としての女性の自己決定という発想になっていないということもござ います。先生としては、国といいますと仮に厚生省ですけれども、アシスティッド・リ プロダクティブ・テクノロジーについて一種のガイドラインみたいなものを今後つくっ ていくことについては、もしそういうことになるとするとどういうことになると先生は お考えでしょうか。 ○北村所長  先ほど私が申し上げましたのは、今の生殖補助医療技術などは、まさに倫理問題が絡 む部分があるものですから、そういう意味で非常に公的な性格を帯びた大学病院や公立 病院などがやや取り組みづらかったというのが現状にあるだろうと思います。その一方 で、倫理観が欠落しているという言い方を私はするつもりはございませんけれども、諸 外国の経験などを積極的に取り入れた民間の医者達が生殖補助医療技術を積極的に取り 入れていったという経緯があるだろうと思うんです。しかし、結果的に、民間が行う以 上、そこに商業主義を取り入れざるを得ないという現状があるものですから、伺うとこ ろによりますと、かなり高額な金銭授受がいろいろな場面で起こっているということを 聞いております。  しかし、そういう意味で、私が問題にしたいのは、本来は、大学病院などが科学的な 技術を駆使して、あるいは高めて、いわゆる先端医療に対していろいろ指導するという か、情報提供するという形が私は非常に理想だろうと思いますし、しかも、そこに商業 主義が極力加わらないような形で行うということが理想であると考えておりますので、 そういう意味で、先ほど木村先生が言われましたような形で、学会などを中心として、 ある程度きちんとしたガイドラインをつくって、時には商業主義に走り、あるいは生命 倫理にもとるような行為に対しては罰則規定をつくるような方向を探っていくことが必 要ではないだろうかという気がする訳であります。  ただ、そこで果して国が一体どこまで介入するのか。あるいは、どこまで規制を加え るのかという部分については、今日の議論の中でも繰り返し行われているような生命の 尊厳というものを踏まえた議論を展開していかなければいけないのではないだろうかと 思っております。 ○柴田委員  今のお答えをもうちょっと詰めたいんですけれども、今現在、いろいろな学会でもガ イドラインを出していますね。それから、おっしゃるように、代理母とか商業的な利用 はだめということは既に言っていると思うんですけれども、それと今の罰則規定をとい うのとちょっと矛盾すると思うんです。勿論、学会のガイドラインでは罰則規定までは いかないと思うんですけれども、その辺はどちらに重点がおありなのか、その点だけ明 確に。 ○北村所長  私自身もこの分野の専門家ではありませんので、もし補足いただければ廣井先生に補 足いただけたらとは思いますけれども、私の聞くところによりますと、いわゆる学会と してのガイドラインがある程度一般的な形で提示されてはいても、末端の医療機関での 対応が必ずしもそれに準じた形で行われていないのではないだろうかという声が漏れ聞 くところでございます。それは、私どもが行っております『不妊ホットライン』におい ても、その医療に関わっているクライエント(相談者)などの言葉の端々に実はあらわ れてくる事実でございます。そんな意味で、どういう罰則規定を入れたらいいのかとい うことについて私は申し述べるほどの力はございませんけれども、要するに、そのガイ ドラインが一般的に認め得るような、安全性、あるいは有効性、そしてさまざまな視点 から、それが妥当であるというような形のものであるならば、極力それに準ずる形での 医療が行われるということが理想であって、それを逸脱するような場合には、相応の罰 則をどうするかということについては私は言葉を持ちませんけれども、そういうものを 考えていく必要があるのではないだろうかと私などは素人ながら考えてはおりますけれ ども、廣井先生はいかがでしょうか。 ○廣井委員  御指名を受けましたので簡単に追加させていただきますと、学会では既に何回も会告 を出して、それに対するガイドラインも出している訳ですけれども、北村先生が御指摘 されましたように、大学病院は、医師だけではなくて、いろいろな識者が入った倫理委 員会を通すためには、基礎的な研究、あるいは内外の文献などを紹介して、こういうこ とをやるということになってきますと、大学での倫理委員会を通るまで相当時間がかか ってしまう。ところが、そういう患者のニーズがあるということを理由にして、いわゆ る倫理委員会などの厳しくない施設ではこのような先端医療技術を早期に臨床応用にふ みきることが出来ます。これが好ましいか否かは難しい問題ですけれども、そういうこ とで大学病院などの方が遅れてしまうというのが現状です。したがって、日本での生殖 医療の先端医療技術は、むしろ民間開業医主導型にいっているといえる部分も確かにあ ります。  前にも日本産科婦人科学会や、あるいは日本母性保護産婦人科医会の先生方の御意見 をお聞きする機会がありましたが、学会では罰則が馴染めません。会告としてこれを守 ってくださいという訳で学会誌に提示されます。例えば体外受精に対して他人の精子を 用いてはいけないとなっています。これも非常に矛盾しているんですけれども、一方で は不妊症で夫の精子がない場合に他人の精子を使う非配偶者間人工授精(AID)が既 にやられています。ところが、体外受精でどうして他人の精子を使ってはいけないんだ ということになります。学会では夫婦間に限るとしている訳ですから、当然、夫婦の中 でも例えば妻に卵管の障害がある、夫が精子がないという場合、体外受精で他人の精子 を使って子どもを産まなければ産めないという状況がある訳です。そういうような患者 に対して、他人の精子を使ってはいけないということは矛盾がある訳ですけれども、体 外受精そのものを社会で認知する、あるいは、それがどの程度成功率があるかとか、障 害のない児が生まれるかというような日本での成績がないということで、まず、他人の 精子を使わないということからスタートしている訳です。ところが、ニーズがあるとい うことで他の人の眼の厳しくない施設でやることも可能な場合があります。また、尾っ ぽが出てくる前の状態の円形精子を睾丸より取り出し、卵細胞質内精子注入法(ICS I)により受精させることも可能になりました。しかし、この方法はまだ基礎的研究が 不足していることから、学会では、まだ研究段階で臨床応用は時期尚早であるとしてい ます。大学病院などの大きい施設ではまだ臨床応用にふみきっていない現状にあります しかし、一部の施設では既にやっているというような噂があっても、実態は不明で罰則 規定がありません。  ですから、やはり何らかの対策を学会でも考えなければいけないのではないかと、検 討中のようです。国が法的に規制するというよりも、まず、我々自身できちんとした会 告をつくって、それを守って、もし守れない場合には除名をしたり、そこに出かけて行 って実態を調査したりするというような方向に今動いているやに聞いております。 ○木村委員  今いろいろお話をお伺いしていて分かった訳ですが、結局、一番最初にお読みいただ いたIPPFのCharter on Sexual and Reproductive Rights のところを見ますと、 「性とリプロヘルスに関するサービスを受けるすべてのクライエントは、安全で受容し 得るすべての生殖技術を利用する権利を有する」ということが書いてある訳で、今、御 指摘いただいたように、安全かどうかということも含めて、これは国家レベルで基本的 に押さえていかなければいけない問題、つまり非常に野放しの、安全性も分からない、 倫理的にも問題があるにもかかわらず、民間の医療施設が先走ってやっている。しかも そこにコマーシャルなことが絡んで、それが女性の経済的、社会的、身体的ないろいろ な害悪をもたらしているということになってきますと、これは学会レベルでよりも、国 でいろいろな規制を考えなくてはいけないという点もあるかと思われるんです。 学会自体が、先ほどお話しのように、いろいろなプロフェッションの方々を含めた開 かれたガイドラインをつくっていれば、それなりに意味があると思うのですが、どちら かといいますと、やはり専門家の立場に立って、専門家の方々の学会がそれなりのガイ ドラインをつくる訳ですね。そういう意味で、安全性と倫理的な問題については、私は 国によるある程度の方向づけというのも考えていかなくてはいけないというふうに思っ ています。それが1つ。 それから、島崎先生へ質問させていただきたいのですけれども、先生御自身の二分脊 椎ということも含めまして、先生御自身が、胎児診断の技術が非常に進歩して、先天性 の障害が胎児のうちから分かるということになると、これが悪用されて、選別がその時 点から起こってきはしないだろうか。それは、かつてのナチの政策にも相通ずるという ことで大変に厳しい指摘をされましたが、私はこれに全面的に賛成です。イギリスでは 二分脊椎で極めて大きな障害がある場合には、積極的に介入しなくてもやむを得ないと しているドクター・ローバーという人の、これは20年にわたって二分脊椎の方のフォ ローアップのケーススタディをされた方がおります。基本的には、医療の専門家のバリ ューがいいかどうかは問題です。医療の専門家のバリューからすると、積極的に介入す ることが生命の尊厳につながらないということもあり得るのではないかということを言 っている人もいるようです。先生御自身は、いわば医療側の価値観、先ほど77歳まで先 生御自身生きてこられて、今まで誕生して生きてこられたことに自分としては何の不満 もなかったというふうにおっしゃられた訳です。医療側が積極的に介入しないことが、 生命の尊厳に本当につながっているのだろうかというような問題点につきまして、もし コメントがございましたら、一言お伺いしたいと思います。 ○島崎会長 一体どこまで介入するかしないかというのは、非常に微妙な問題じゃないかと思うん です。これは素人の耳で聞いたことでございますけれども、これは二分脊椎に限らず、 本当に非常に重度な子どもをお母さんが身ごもった場合には流産をしてしまう。これは やはり神様の1つの摂理だろうということをおっしゃった方がありますけれども、しか し、そこまでならない重度なお子様を身ごもった場合もある訳ですね。そのあたりの微 妙なことになりますと、私、今ここではっきりしたお答えをしかねる気持ちもございま すけれども、私は、ともかく母体に人間の生命が宿った以上は、これを徹底的に尊重し て、そしてこれが治療なら構いませんけれども、途中から命に関わるところまで介入す る、そちらからの「不介入」の「介入」の意味ですけれども、これは神の尊厳を冒すこ とではないだろうか。 今、そういうことが非常に問題になっている根拠には、私、先ほどちょっと触れたん ですけれども、今の人間の価値観というものが非常に曖昧模糊といいましょうか、しっ かりした捉え方が出来ていないところからそういうことが起こってくるんじゃないだろ うか。それ以前に、そういう障害を負った子どもが出生した場合に、これをどういうふ うに保育をし、そして、それをさらにずっと子どもとして育てていくか。そういうこと に対して、まだいろいろな意味で社会自体がフォローアップ出来ていない、あるいは研 究不足な面があるから、出生前以前に処理してしまうということが起きがちではないだ ろうか。私はそういうふうに考えているんです。 それで、繰り返しになりますけれども、障害者がこの世にあるということが、今、物 が豊かになり、あるいはテクノロジーの進歩、その中に医療技術も含まれる訳でありま すけれども、それに適応出来ない障害者は悪だというふうな観念にどうしても流れやす い風潮が、今、日本といわず、世界的にあるのではないかということを私は非常に危惧 しているんです。  そういう意味で、弱い肢体がこの世に誕生し置かれているということが、非常に貴重 な役割を担ってこの世に誕生してきている。それをお互いに共同体の中で認め合って、 そして、そのような多様性のある社会こそ実はノーマルな社会であるということをこれ から徹底していきませんと、特に日本の場合、これからは高齢化社会で、人間はどうし ても高齢化になると、ボケたり、身体的にもいろいろなハンディが出てくる訳ですけれ ども、これにどういうふうに対応していくか。これは、これからますます切実な課題に なってくると思いますけれども、そこにおきましても、単なる重荷を負ってしまったと いうことでなくて、やはり人間の尊厳性というものをお互いに認め合っていくというこ とを、特に日本の場合は徹底していきませんと、本当の意味での長寿国と言われるにふ さわしい国づくりというものがこれから危ないのではないか、そのことを非常に危惧し ております。 ○高久部会長  北村先生にちょっとお伺いしたいんですが、私、不勉強で申し訳ないのですが、生殖 補助医療技術には体外受精と人工授精がありますね。今、どれぐらいの割合で行われて いるのかご存じですか。これは廣井先生の方がよくご存じかもしれませんが。 ○廣井委員  細かい数字は分からないですけれども、人工妊娠中絶は年々減っておりますけれども いかがでしょうか。 ○高久部会長  生殖補助医療の中で、人工授精と体外受精の割合がどれぐらいか。主に体外受精が問 題になっているのかということですが。 ○廣井委員  人工授精というのは、人工的に精子を子宮の中に入れる方法をいいます。精子を授け るという字を書きます。わが国では古くから行われてきました。体外受精というのは、 自然に体外で卵子と精子をかけあわせて受精させるものをいいます。配偶者間人工授精 を除けば今は圧倒的に体外受精の方が多いんじゃないでしょうか。 ○高久部会長  この生殖補助医療を商業主義に持ち込むべきではない。おっしゃるとおりだと思いま すが、現実には体外受精は当然、保険の対象にならないから、みんな直接お金を取って やっている訳ですね。日本では、全部商業主義になっている訳ですね。そういうふうに 理解して良いのですか。 ○北村所長  商業主義の部分でも、許され得る範囲をどこまで捉えるのかというのはとても難しい ところではあると思いますけれども、先ほど私の見解の中で、当面、AIDのような精 子提供という部分で、そこで支払われるお金というものは社会の通念上許される範囲か なという認識の中で発言をさせていただいたんですけれども、これが卵子提供というこ とになりますと、諸外国の例を見ても、かなり多額な金銭の授受が、勿論、これが代理 母になれば法外なということになるのかもしれませんけれども、そういう授受があると いうことを伺っております。 ○高久部会長  夫婦間の体外受精でも、施設によってはかなりのお金を取っていますね。それはどう いうふうにお考えですか。 ○北村所長  金額というか、私は『不妊ホットライン』の中で、体外受精を受けたクライエントか ら幾らぐらい取られたとか、取られたという言い方はおかしいけれども、請求をされた とか、そこで今それを受けるかどうか戸惑っていますというような声がありますけれど も、あるところは30万円であったり、あるところは50万円であったり、先週受けた電話 では「60万円というお金が具体的に出されたけれども、私はいろいろな本を見ているけ れども、どうも30万円か40万円ぐらいで何とか対応出来るという施設もあると聞く。ど うしたらいいだろうか」という相談を受けました。私どもは「そのあたりの情報を十分 入手して選択をされたらいかがでしょうか」という回答になる訳です。私は実際に体外 受精・胚移植に関わっている医者ではございませんが、いわゆる必要経費という部分で は、これは廣井先生の方がご存じでしょうが、15万円、20万円という金額がかかるとい うことを伺っております。 ○金城委員 それに関連して。やはり商業主義というのは医療として考えるのはどうしても排して いかなければいけないと思うんですけれども、しかし、現実には体外受精はまさにお金 を払わなければ出来ないということで、受ける人にとっても非常に不公平ですよね。お 金持ちはいいけれども、若くて余りお金に余裕のない人は受けられないというようなこ ともある訳ですね。保険の適用ということについては、北村先生はどうお考えでしょう か。 ○北村所長 どこまでをもって保険の適用にするかという議論は内部では時折りやっておるんです けれども、たとえば体外受精・胚移植などについては、大変乱暴な話ですけれども、電 話によりますと、実はもう既に30回やったとか、私はAIDを80回行いましたと、こう いうようなことが現実に電話の中に挙がってくる訳でありまして、保険適用というのは 限られた国家予算の中で考えていく訳ですから、この回数の制限をどこで加えるのかと いうことは1つ大きな問題になるだろうと思います。それを良識のある委員会などで検 討されることはとても重要だろうと思います。  医者仲間の間では、すべてを保険適用にすることが仮に困難であったとしても、例え ば、いわゆる卵巣刺激とか、採卵とか、そういうツー・メディカルな部分のところでは 早速保険適用にしてもよろしいんじゃないだろうかと。このあたりについては恐らく学 会でもいろいろ議論をしておるところでございますので、廣井先生に補足をいただけた らと思います。 ○廣井委員  保険適用については、先ほど北村先生からお話がありましたように、これは初めから 保険がない。出産も保険適用されていない。限られた財源からということですし、新し い先端技術であるということから保険が適用されていないんですけれども、例えば、 我々が大学でやっているときには、我々職員の給料は国からもらっている訳です。それ で、体外受精だけを専門にやっている訳じゃないということですから、極めて安くとい うか、数万円ないしは十数万円で出来るはずです。ところが、それを専門にやっている 開業の先生方は、そのために何人か職員を雇わなければいけないし、検査技師も雇わな ければいけないということで、人の計算をすると、やはり何十万円になってしまうらし いんです。ですから、もう少しこういうやり方を公的な病院が積極的にやりながら、あ る面では回数も3回とか5回ぐらいまでは保険適用でやった方が患者さんのためにもい いんじゃないかと思うんです。 ○高久部会長  他にどなたか。 ○松田委員  先ほど藤井先生が胎児の「子消し」というお話をなさって、「間引き」の話もされま して、その当時、日本の国の国情からすればやむを得なかったのかなという気持ちにも なります。また、優生保護法というのも恐らくそういった歴史の中で一時的に役割を果 してきたというふうに思いますけれども。そのお話の中で、先生はたしか胎児というの は、命というのはいつから始まるのかというお話をされまして、これは非常に大きな問 題で、いろいろな人がいろいろな説を出していらっしゃると思います。そこで、先生が 22週というのにどういう線引きをするのかというお話もしましたけれども、これは、21 週以前に産まれた場合には、われわれが幾ら手を尽くしても医学的に生かしていくこと は出来ない。それがギリギリの線である。かつては、もう少し長くて24週だったのは、 医学の進歩によって、もうちょっと短くても生かしていけるということがあって、その 週を選んだということになっています。そのことだけ付け加えたかったんです。つまり どういう根拠でそういうことを線引きされたかという先生のお話に対して、そのことだ け付け加えておきたいと思います。 ○藤井教授 次官通達で22週と決められた、その年の翌年でしたか、北九州市にある産業医科大学 病院で、満21週で、体重が確か398gぐらいで産まれた女児が無事育って退院したという ニュースが伝えられました。ですから、それはあくまでも人為的な線引きにすぎないん じゃないかということが私の発想でお話しした訳です。 ○松田委員  そういうエクセプショナル(例外的)なケースを持ち出せば、幾らでも出てくるだろ うと思います。ですから、ジェネラルに我々の現在持っている医療という立場でものを 考えていかないといけないという意味で、私はそういうふうに思っております。  それから、先ほど北村先生の方からリプロダクティブ・ヘルスの問題が出ましたけれ ども、私は小児科の医者ですが、一番困っているのは何かというと、体外受精をやられ て、しかも多胎で生まれて体重が小さい場合障害をもって生まれてくることが一般に比 べて多くなります。場合によっては一生施設の中で暮らさなければならないという、実 に我々としては堪え忍びないような状況で事が起きてくる訳です。300gで命長らえるか もしれないけれども、果して命を長らえるということと、一生両親の顔も知らないとい うか、レコグナイズ(確認)しなくて一生施設の中で暮らすということに対して、我々 としては大変つらい立場にある。先ほど北村先生は、産科の先生は生まれた後は小児科 に渡すからいいんじゃないかと言われて、我々の方はそれを受ける立場として、本当に どこまで医療の手を尽くしていいのだろうか。この子どもは将来どういう生き方をして いくのだろうか。島崎先生のように本当に喜びをもって生きていってくれるのだろうか 我々は絶えずそのジレンマにさらされている訳です。そういう我々小児科の医者として の苦しみというものを、そういうところで何を考えていくか、絶えずその問題にさらさ れている訳です。そして、Aがいいのか、Bがいいのか。  つまり、そこで問題になってくるのは、ある状態を同じ病名で区切ることは出来ない ということです。例えば二分脊椎という病気だけで先生はおっしゃっていただいたけれ ども、実際には先生のようにしっかり生きていらっしゃる方もいる。しかしながら、も っとひどくなってくると、同じ疾患のうちに入る訳ですけれども、無脳症になってしま う訳です。そうすると、無脳症の子どもが生まれてすぐ亡くなってしまう。もしくは、 残ったとしても、一生何も知らないというか、ただ点滴で栄養だけ供給されて、場合に よっては人工呼吸器を付けて一生その中で過ごさなければいけない。果してこれが本当 の人間なんだろうか。われわれはいつもそういう状態にさらされている訳です。そうい うところもこの話の中に入っているということを付け加えておきたいと思います。 ○高久部会長  この前も廣井委員からお話があったのですが、日本産科婦人科学会でいろいろなこと を決めても、強制力がないといいますか、守らなくても特に罰則がないという問題、こ れは大きな問題だと思います。廣井先生あるいは北村先生、どちらからでもいいのです が、例えば今、産婦人科の先生方はみんな認定医にはなっておられる訳ですね。今は 色々な問題があってすぐには出来ないけれども、認定医をもたないと標榜出来ないとい う体制になる可能性があります。そうすると、認定医は学会が認定するものですから、 学会の言うことを聞かない産婦人科のドクターは認定を取り消す。そうすると、標榜出 来ない。そういう体制になればの話ですが。例えば弁護士の場合はそうですね。弁護士 会の方で除名をすると弁護士活動は出来ないと同じような形で、認定医と標榜というこ とが将来結びついた場合には、学会のガイドラインがかなりの拘束力を持つようになる のではないか。これは単なる思いつきですけれども、その点は廣井先生はいかがでしょ うか。 ○廣井委員  当部会第3回のヒアリングのときに、日本産科婦人科学会の会長も罰則はなじまない 親睦団体が中心なのでという話だったんですけれども、その後、社会のいろいろな変化 とか、この間、公聴会があったようですけれども、先日、学会でお会いした倫理委員の メンバーの方々といろいろお話しした範囲では、罰則といっても、我々は除名ぐらいし かない訳で、あるいは認定医の取り消し、そういうようなことを含めて検討すると言っ ておりました。ですから、国が介入しなくても、かなり自主的に我々の方でまずやって いこうという段階に今きているようです。 ○高久部会長  どうもありがとうございました。他にどなたか御質問、御意見おありでしょうか。 ○金城委員  藤井先生にお伺いしたいんですけれども、日本の民間信仰といいますか、仏教を基底 に置いた民間宗教ということになると思うんですけれども、そういう中では命の絶対性 を踏まえての相対主義だというふうにおっしゃいましたね。そういうことで、私は日本 の命をめぐる論議というのは、外国に比べると非常に寛大な感じがあるんです。ただ、 脳死をめぐっては非常な議論が行われました。ところが、誕生をめぐっては日本では余 り議論が行われていない。現に人工妊娠中絶を合法化したときも、宗教者の団体から反 対はほとんど出なかった。それは、やはり日本の民間の人たちの命の考え方が、命は大 切にするんだけれども相対的だということもあったんじゃないかと思うんです。  しかし、外国などでは、やはり命の初めというのが非常に重要なことで、ですから先 端医療技術の中でも、体外受精とか人工授精をめぐってはものすごい議論が行われる。 日本ではそうではない訳ですね。でも、脳死では行われる。そういうことについて、日 本で人々がこういう問題について余り関心を持たない。それはどこいら辺にあると先生 はお感じでいらっしゃいますでしょうか。 ○藤井教授  大変難しい問題ですが、たまたまキリスト教関係の方もおられるものですから。キリ スト教と仏教で代表される西洋と東洋の違いというのは、やはり目を向けなければいけ ないと思うんです。というのは、これはずいぶん昔の説ですけれども、加藤玄智という 先生が、西洋、特にキリスト教に根ざした文化というのは、人間と神との関係を考えた 場合には隔絶していると。要するに、神は創造主であって人間は被造物であるから、そ こに断絶がある。人間は死んでも神になれない。こういう一つの文化的伝統というもの が存在するんだと。それに対して、日本は仏教を中心にして世界観を築き上げた。そう すると、人間と仏というものを見た場合、これは連続性がある。ですから、例えば鈴木 大拙は「非連続の連続」という言葉を使った。これは加藤先生の方が詳しいかもしれま せんけれども、そういう意味で、西洋においては、神があるから人間がある。だから、 人間観というのが非常に進んできた。ところが、仏教を中心としたというよりも、東洋 全体の世界観というのは、人間が神そのものになれるんだということから、そこに明確 な区分がなかった。そこに神の観念がない訳ですから、人間観というのも育ち得なかっ た。  それから、もう1つ考えられることは、江戸時代の方針として、これは寺社奉行で一 括して神道も仏教も一緒であった。ですから、そういう意味で区別する伝統がなかった ですから、自分のところはどこどこの菩提所で、自分はどこどこの菩提所のお檀家であ る。あるいは神社の氏子であるという感覚で、別の宗教を考える必要がなかったと同時 に、江戸時代においては、宗教を立てることは禁止されてきた。そういった側面で、民 間信仰という形で定着してきた。それが仏教と民俗信仰との混交というものが日本人の 大きな宗教心になってきている、こういうことになろうかと思うんです。  それから、死というものは見える存在であるし、死というのはこの目で見ることが出 来るけれども、いつ生まれるかということは見えなかった。そこに死というものに重点 が置かれてきて、生の問題が考えられてこなかった。ところが、現在の医療の進歩によ って、見えない生というものが見える生に変わってきた。そこに、これから議論が起こ ってくるのではないかと思います。それから、戦前は別として、優生保護法が戦後の昭 和23年にできたときに仏教婦人会が反対運動を展開しましたけれども、いつの間にやら 線香花火のように消えてしまいました。これも、先ほど言った理由を引きずっているの ではないかと思います。その意味では、仏教者として反省しなければならないんじゃな いかと思います。失礼いたしました。 ○高久部会長 藤井先生にお伺いしたいのですが、先生は、江戸時代には子どもを村で守ると。現代 は、国といいますか、周りの人が障害者を助けるという体制をつくって村の代わりをす べきだというのはおっしゃるとおりだと思います。私が、この委員会でヒアリングをず っとさせていただいて、いつも疑問に思っているのは、日本に比べまして、ヨーロッパ アメリカもそうだと思うんですが、障害者に対する支援体制は日本よりはずっといいと 多くの方がおっしゃる。私自身は余り勉強していませんが、アメリカでは障害者の方が 日本よりは過ごしやすいといいますか、生活しやすい体制が出来ているというふうに私 も理解しております。それからこれらの国々は恐らくキリスト教が非常に強い社会だと 思います。一方日本では優生保護法の場合も、母体保護法の場合でも、「胎児条項」が いつも問題になる。西欧諸国では既に「胎児条項」が入っている訳ですね。日本では、 いろいろな方の御意見をお伺いすると、「胎児条項」には非常に強い反対がある。なぜ 西欧では「胎児条項」が存在しているのに、日本では非常に強い反対があって入れられ るような状況ではない。この相違がなぜ起こってきているのか。先生個人のお考えでよ ろしいのですが、教えていただければと思います。 ○藤井教授 また非常に厳しい問題でして、最近、ピーター・シンガーが『生と死の倫理』という 本を出版して、はっきりと望まれる子どもの命の選別を主張していますけれども、日本 ではそういった話題は出てこなかった。私、たまたま用がありまして講演会には出ませ んでしたけれども、かなり批判もあったそうです。日本でなぜ「胎児条項」に対して反 対があるのかというと、西洋に比して、先ほどお話しした日本的な特徴ということのほ かに、せっかく優生保護法の中で優生思想部分を削ったのに、また胎児の命ということ を法律で決めるということは許せないというのが本音だと思います。宗教の立場から言 えば、線引きということに対してはやはり反対しなければならない。ただ、そうやって 宗教の教条主義的な立場に立っても問題は一向に解決しない。要するに、対立というも のをどうやってアウフヘーゲンするかという問題は、やはり人間主義に立って条件設定 をしたのでは解決は出来ない。むしろ命の絶対ということを規準にしてインフォーム ド・コンセントを重点的にやらないといけないんじゃないだろうか。 ということは、先ほどから出ておりますように、重篤な障害として一生病院で過ごさ なければならない障害者もいる。しかし、それに耐えていくだけと母親が希望をするな らば、私は産んで一向に構わないと思うんです。そこで中絶などをした場合には、恐ら く母親に心の痛みとして残っていく。ですから、その心の痛みをどうやって解消し得る か。あるいは、闇に葬った子どもと共に生きていくかというところに実は宗教的世界が あるのであって、本日、朝日新聞に出ておりましたが、厚生省の委員会の中で、病院の インフォームド・コンセントに関して事前に相談したというケースが10分以内というの がほとんどだったと。30分以上はほとんどなかった。私は、ここが大きな問題になるだ ろうと思うんです。なぜそういう精神的な支えになるような、あるいは情報開示をして どういう状況なんだということを十分に説明した上で、母親が痛みとしてずっと中絶に 耐えていけるか。あるいは、障害者と共に命の授かりものということで一生病院にいて も暮らしていくという決意があるのかどうか、そういった相談というのはあって然るべ きだ。それがなければ、これはいいとも悪いとも言えない。ただ、私の立場からいけば やはり命の線引きは出来ないんじゃないだろうかと思うんです。ですから、そういう意 味で「胎児条項」ということに関しては、これは優生思想の復活につながっていくので はないかと思って、私個人の意見では反対でございます。 ○高久部会長 いろいろどうもありがとうございました。それでは、残りました時間で松田委員から 「出生前診断の実態に関する研究」について御報告いただきたいと思います。松田先生 よろしくお願いいたします。 ○松田委員 資料が添付されていると思います。非常に短いのですが、実は私どもの「出生前診断 の実態に関する研究」の研究班が昨日持たれまして、その席上でいろいろ数字の上での 問題とか、文書の言い回しとか、そういった問題でディスカッションが行われました。 この実態を踏まえて、将来どういうふうにこの問題を考えていかなければいけないか、 どういうふうに対応しなければいけないかという問題までディスカッションいたしまし た。したがって、それにつきましては、まだ出来上がっておりません。実際には、連休 明けてしばらくしてからになると思いますが、文書の形で厚生省の方にすべてを報告い たしたいと思いますし、また、機会があれば、この席上でもっと詳しいデータを報告し たいと思います。今日お話しするのは、ここに書いていますように、実態に対する研究 を行って、そして得られた要約だけがここに出されておりますが、そのことについて御 説明申し上げます。 侵襲的な出生前診断に関しましては、ここに書いていますように、166の施設に送りま して136から返事をいただきました。この166というのは、大学病院、周産期の研修の病 院として指定されている産科婦人科の病院です。出生前診断は81.9%で行われていまし て、年間100件を超える検査数を行っているところが11.8%です。診断総数は5,748件、 羊水穿刺で行われているのが5,577件、絨毛で行われているのが107件。絨毛は1993年よ りも少し減少しています。臍帯穿刺が77件、胎児の組織生検が5件ということでござい ます。このうちのほぼ90%が染色体異常を一義的な目的としているということです。羊 水穿刺の場合の異常検出率は3.9%、絨毛穿刺の場合には22.0%。これは、その状況によ って出てきている訳で、方法論によってこうなったというのではなくて、どういう状況 で行ったかということによっての差の出具合です。これは、これから出されるレポート の方には詳しく書かれてあります。  インフォームド・コンセントにつきましては、サイン入りのが76.9%、これは出生前 診断です。サインのない事前説明が19.2%、残りの3.9%は検査時の同意書で対応してい たということが分かっています。それから、説明に10分未満が30.1%、10〜29分が30.1 %、30分以上かけている施設は余り多くなかったということです。ここが今、藤井先生 が問題になさっているところだと思いますが、私どもも、いろいろな状況があると思い ますけれども、遺伝カウンセリングというものの内容をもう少し重みを持って見ていく べきではないかというふうに考えています。ただ、その制度が日本にないということは 非常に大きな問題ではありますけれども。 母体血清マーカーテストに関しましては、1,288の施設にお送りいたしました。これは 上に書いてあります136の施設に加えまして、さらに日本母性保護産婦人科医会という組 織にお願いしまして、全部ではありませんけれども、開業の先生方も含んでいます。そ れで、332の施設で行われているということが分かりまして、件数が1万4,682件。35歳 未満と35歳以上が別々に書いてありますが、年間100件を超す施設が29施設、8.9%にな ります。ここで分かったことは、全体の件数の74%が僅かに8.9%の施設で行われていた これが我々が得たデータで驚いております。これは新聞にも一部載ったと思いますけれ ども、そういう状態でありました。サイン入りのインフォームド・コンセントをとって いるのは35.4%、サインなしの事前説明は57.1%ということになっています。 このほかにも幾つかデータがありますので、この問題につきましてはこの次にいたし たいと思います。 ○高久部会長 どうもありがとうございました。そろそろ時間がまいりましたので、これで閉会させ ていただきたいと思います。本日は、北村先生、島崎先生、藤井先生、この部会に御出 席いただきまして、いろいろ貴重な御意見をいただきましてありがとうございました。 心から感謝申し上げます。特に島崎先生は、御不自由なところ、ありがとうございまし た。 それでは、事務局の方から次回の日程の連絡をお願いします。 ○事務局 その前に、遺伝子治療臨床研究計画の関係につきまして一言報告を申し上げます。 北海道大学医学部附属病院で、アデノシン・デ・アミナーゼ欠損症に係ります遺伝子 治療臨床研究実施計画を行っているところでございまして、昨年3月以後、遺伝子の導 入を一時中断いたしまして経過観察に移り、一定の治療効果が持続していることを先般 の本部会でご報告申し上げたところであります。また、本年2月には臨床研究の総括責 任者が変更したということで届出がありましたものですから、その件も報告申し上げた ところでございますが、当初のこの計画の実施期間は本年の3月末ということでござい ましたけれども、引き続き経過観察等を行う必要がありますので、北海道大学医学部附 属病院から研究実施期間の延長をしたいという旨の御相談がございまして、近く文書に て正式に申し出をいたしたいということでございます。詳細は次の部会で御報告申し上 げようと思っておりますが、とりあえず本日の状況として、そのような申し出が既にご ざいましたことを報告いたしたいと思います。  引き続きまして、次回の日程でございますが、次回は5月21日木曜日午後2時より厚 生省特別第1会議室にて開催を予定いたしましております。  以上でございます。 ○高久部会長  どうもありがとうございました。それでは、これで終わらせていただきます。 問い合わせ先 厚生省大臣官房厚生科学課 担 当 坂本(内線3804) 電 話 (代表)03-3503-1711 (直通)03-3595-2171