添付一覧
○社会保険における慢性胃炎、胃十二指腸潰瘍の治療指針
(昭和三〇年八月三日)
(保発第四五号)
(各都道府県知事あて厚生省保険局長通知)
慢性胃炎の治療
慢性胃炎は最近臨床的に甚だ重要視されるに至つたが、その主なる理由として次の点をあげることが出来る。即ち、本症は(一)病理解剖学的にしばしば証明される変化であること、(二)上腹部症状を訴えるものの多数(約三〇%)に胃鏡学的に本症を証明すること、且つ、(三)胃潰瘍、胃癌或は貧血(悪性貧血を含む)の前駆状態となり得ること等である。
従つてその診断及び治療は甚だ重要な意義を有する。しかし本症自体が重篤な胃症状を呈することが比較的に少ないために、且つ又その診断が多くの場合に於いて甚だ不確実極まるために、かえつて本症の診断を妄りに附す傾向がある。本症の症状は甚だ漠然としており、これと形態学的変化或は分泌機能等との間に一定の相関をみ出し難い。従つてその診断は多くの場合、除外による診断を主とするものであり、就中胃症及び胃、十二指腸潰瘍、更には肝臓及び胆道疾患を除外してはじめて本症と診断するのが一般的である。
現今本症を臨床的にほぼ正確に診断し得る方法は胃鏡検査のみであるが、それには特殊な施設及び技術を必要とするので一般的には普及しがたい欠点がある。
本症を前述の除外によつて診断する場合には、レ線検査の必要であることは云うまでもないが、機能的には胃液検査が比較的に有用な診断根拠を与える。
次に本症と精神々経要因による機能的障害との区別は時として困難なこともあるが、出来るだけ後者を除外しなければならない。
又他の疾患、例えば、肝臓及び胆道疾患、血液疾患、循環器疾患、ビタミン症欠乏が原因となり、或は誘因となつて本症の増悪乃至再燃を起すこともあるが、これらは主疾患の治療に含まれるので、ここには原発性の慢性胃炎を対象とした治療について述べることにしたい。
一 分類
本症の分類には、原因的、症候学的、機能(分泌)的、レ線学的、胃鏡学的並に病理解剖学的等によるものがあり、臨床的には胃鏡所見に組織学的所見を加味した米国派の分類(第一表)と胃分泌機能による独国派の分類(第二表)が行われているが、その当否については議論がある。
表について簡単に説明しておく。表層性胃炎とは胃鏡学的にのみ診断し得るものであるが、炎症が表在性に胃粘膜に限定されるもので、従来の概念による胃カタルに相当するのである。萎縮性胃炎とは腺細胞の破壊消失を来し粘膜が菲薄となるもの、そのあるものは上皮細胞の増殖により萎縮性過形成性胃炎となる。
肥厚性胃炎とは腺構造の減少なくして粘膜の厚くなるもので上皮細胞の増殖を来すものが最も多く、間質の細胞浸潤の強く来るもの及び腺構造の増加するものの三つを組織学的に区別
表一 米国派による分類
(胃鏡検査を主とするもの)
一 原発性
(一)表層性
(二)萎縮性→過形成性
(三)肥厚性
イ 間質性
ロ 増殖性
ハ 腺性
二 随伴性
(一)胃腫瘍(癌)
(二)胃、十二指腸潰瘍に伴うもの
(三)手術胃
表二 独国派によるもの
(胃分泌機能を主とするもの)
(一)過酸性胃炎
(二)酸性〃
(三)低酸性〃
(四)無酸性〃
(五)粘液性〃
(六)液性〃
(七)絶対無酸性胃炎
している。これら胃炎の諸型は夫々独立したものではなく、特に表層性から萎縮性への移行がしばしばみられ、同一層にこれら三者が混在することもしばしばである。又萎縮性胃炎とされるものの中には必ずしも炎症性変化でなくて諸種栄養素の欠乏による退行性変化と考えられるものもあり、このことは治療上しばしば問題になる。
随伴性胃炎については形態的に原発性のものと本質的な差異はない。
胃分泌機能を主体とする分類については、特に説明を要しないと思うが、これは粘膜の形態的変化とは必ずしも一致しない。多くの場合に於いて低酸乃至無酸を示し、これらは萎縮性胃炎に於いて著明である。肥厚性胃炎のあるものは過酸を呈するものがあり、表層性胃炎では両者の中間の態度を示すものが多い。又絶対性(ヒスタミン抵抗性)無酸性は萎縮性胃炎に多い。しかし逆に粘膜の形態的変化から分泌障害の程度を評価することはむづかしい。
なおレ線学的な胃炎の診断乃至分類は多くの場合に於いて真実性に欠ける。
しかしこれらの分類にしても実地医家にとつては甚だ頻雑な検査を必要とするので、次項に於いて夫々の主徴候について解説し、それらの概念の把握に便利ならしめ、ひいては本症の診断及び治療に一応の体系を与えたいと思う。
二 症状
これについての意見は未だ論争のある所で、この意見を相反する二つに分け得る。その一つは本症を症候学的に独立した重要疾患であるとみなし、他は本症自体を無症状で臨床的に意義のない疾患と考え、たとえ症状が伴つても胃粘膜変化とは直接関係がなくむしろ神経性の訴に過ぎないと解釈するものである。ここには前者の立場をとることにしたい。
臨床的に本症の診断を最も正確に行い得るのは胃鏡検査のみであるから、本症の症候学は胃鏡検査を基礎として明らかにされつつある。以下主徴候について解説する。
(一)疼痛
本症の大多数は心窩痛を訴える。その疼痛の性質には種々あるが、早期痛、持続痛を主とするものが多いが、又晩期乃至空腹痛を訴えるものもある。特に前者は表層性乃至萎縮性胃炎に多くみられ、後者は肥厚性胃炎に多く、十二指腸潰瘍の如く食餌乃至アルカリで疼痛の軽減するものもある。しかし一般的には疼痛の性質から本症の諸型を分類し得ない。
(二)食欲不振、嘔気、疲労脱力感等
萎縮性胃炎に多くみられ、低酸乃至無酸を伴うものに多い。
(三)胸やけ、げつぷ、胃圧迫感等の溜飲症状
これらは胃炎型と形態的及び機能的に特に一定の関係はないようであるが、比較的に肥厚性胃炎に、或は過酸を示すものに多いようである。
(四)出血
胃炎から出血することはすでによく知られているが、特に大出血については比較的最近認められたことである。どの型にも起りうるが、肥厚性胃炎でエロジオンを伴うものに多いとされる。胃出血は潰瘍又は静脈節によることもあるので、これらの原因疾患の鑑別には慎重であらねばならない。
(五)下痢
所謂胃性下痢として胃分泌障害ある場合に問題になるが、これは二次的な胃炎の合併も考慮する必要がある。
三 治療
A 内科的療法
本症の診断は多くの場合に於いて特殊検査を行う以外には不可能であることは前述の通りである。従つてその治療に当つてもどの方法をとるべきかも仲々決定し難い。しかし記述の便宜上、胃鏡的な分類或は分泌機能的にみた分類等を利用することにした。
本症の治療は、その原因療法が不可能であることが多く、その主なるものは食餌療法、薬物療法、理学的療法及び外科的療法である。以下治療上必要な事項を述べる。
(一)原因の除去
本症の真の原因は多くの場合に於いて不明であるので、原因療法は行い得ないのが普通である。しかし胃粘膜に対して有害であると思われる諸種の因子を除去し、本症の増悪乃至再燃を予防しなければならない。又直接に胃粘膜を障害しなくとも、間接的に有害な影響を与える肝臓及び胆道疾患の予防、病巣感染の本症に対する原因的役割を考慮に入れて扁桃腺炎、副鼻腔炎、歯牙疾患、虫垂炎、附層器炎等の治療も行うがよい。
(二)安静
本症の増悪乃至再燃の際には一定期間の安静、出来れば臥床するとよい。これにより疼痛が軽減することもしばしばである。又大出血ある場合には二~四週間の安静が必要である。必要以上の長期の安静はかえつて害がある。
(三)食餌療法
この目的は胃粘膜の機械的及び化学的刺戟を出来るだけ少くし、しかもカロリーとビタミン類を十分に与えることである。この意味に於いて含水炭素食を主体とし、エキス分の少ない肉類、少量の脂肪等を加える。但し胃・十二指腸潰瘍の如く厳重な食餌療法を必要としない。本症にみる疼痛の多くは胃の機械的伸展による所謂伸展痛に帰せられるので食餌の量は少量づつ回数多く与えるのが常道であり、大食を一般に禁じ、粗い副食、果実類も避ける。経過に従つてなるべく早く完全に戻す。徒に長期にわたる制限食餌は栄養の低下を来たし胃粘膜変化の回復を妨げるものである。
エロジオンを証明する場合、或は大出血時には胃・十二指腸潰瘍に準じて厳重な食餌療法を行うが、あまり長期間にわたるを要しない。
なお本症は咀嚼を十分にする習慣を養うことも大切である。
(四)アルコール、煙草、その他刺戟物の節制
アルコール、コーヒー、濃い茶等は原則として禁じ、特に濃度の高いアルコールは絶対に禁止する。表層性乃至肥厚性胃炎が存在する場合に、飲酒が症状を悪化させ大出血の原因となることもしばしば経験される。例外として萎縮性胃炎に対してはあまり厳格にすることなく、食慾亢進の目的で少量の赤酒、日本酒を食前に与えることもある。
煙草についてはアルコール以上に制限するのが一般的で、特に肥厚性胃炎の場合には禁止するがよい。その他胃粘膜を刺戟する薬物(サルチル酸剤、ヨード、下剤等)、非常に冷たいもの、反対に熱いものは適当に控え、又硬い菓子、果実類も避けた方がよい。
(五)肝臓、ビタミン類、鉄等の補充
本症の原因には栄養の不足状態が関係していると思われることもしばしばであり、特に萎縮性胃炎の場合には補充療法を系統的に行わねばならない。萎縮性変化の強い(多くの場合低血球素性貧血を合併する)例には、肝臓製剤、鉄剤、各種ビタミン類(B複合体、C)の併用によつてよい結果を得ることもある。一般的に胃粘膜変化の改善、特に萎縮性変化か改善するか否かについては未だ十分な検討がないが、少なくともこれら栄養素の欠乏によるものは回復の見込がある。萎縮性胃炎の高度なものは悪性貧血に特有であるが、その治療法についてはここに述べない。
(六)薬物療法
本症の対症治療法としてしばしば薬物を必要とする。それには粘膜変化又は分泌機能障害に対応して行うことも理想とするが、症状の軽快に対する薬物の効果は必ずしも理論通りには行かないこともある。次に一般に行われる万法を述べる。
a 塩酸、ペプシン及びその他の酵素
著しい分泌障害(低酸若しくは無酸)がある時には塩酸、ペプシンを投与する。特に萎縮性胃炎の高度な場合には長期にわたつて投与する。その塩酸の量は正常の塩酸分泌量を補うのが目的でなく、これより塩酸分泌を促進せしめるためである。投与法としては稀塩酸一・〇、含糖ペプシン〇・五~一・〇、水一〇〇(所謂人工胃液)を一日量として食前に服用せしめ、更に濃厚なものが必要な時には塩酸(稀にあらず)二〇・〇、乾燥ペプシン二〇・〇、水一〇〇とし、その大匙一杯を砂糖水に入れストローか、ガラス管で食前に服用させる。
しかし無酸症であつても塩酸により食欲その他の症状が軽快せず、はるかにアルカリ剤が奏功することもある。これは持に本症の増悪又は再燃の際に起り易い。
なお、胃性下痢と考えられるものには当然塩酸の投与を必要とする。ペプシン及び膵臓酵素その他については、特にそれらが欠乏しているという証拠ある場合に限り使用し、唯漫然と使用するのは避けるべきであろう。胃運動機能の亢進の目的で硝酸ストリキニーネ(〇・〇〇五~〇・〇一)、ホミカエキス(〇・〇三~〇・〇五)を与えることもあるが適応の選択には十分に注意する必要がある。
b 鎮静・鎮痙剤
本症の初期に於いて疼痛の比較的強い場合は鎮静剤としてフェノバルビタール(〇・〇九~〇・一二)が好んで用いられる。攣縮或は緊張亢進による胃痛がある場合には鎮痙剤として硫酸アトロピンの注射或はロートエキスの内服(〇・〇六~〇・一を数回に分服)が用いられる。又最近の自律神経遮断剤も奏功する。これらの鎮痙剤は何れもある程度の分泌抑制効果を有するものであるから、胃液分泌過多を伴うもの、特に肥厚性胃炎によく用いられる。
c 制酸剤
一般に溜飲症状がある場合には、その分泌機能の如何に拘らず使用されるが、特に肥厚性胃炎の如く分泌過多を示す場合に少量のシッピイ末(重曹・カマ)、硅酸アルミニウム、水酸化アルミニウム、硅酸マグネシウム、過酸化マグネシウム等を単独に或は鎮痙剤を添加して用いる。その他粘膜を被覆保護する意味において蒼鉛剤、粘液(ムチン)製剤を用いて有効であることもある。
以上の如く薬物療法には種々あり、その選択には諸検査所見に基いて行うことが望ましい。又同じ薬物を無批判的に長期連用し、その治療の科学性に欠けることは厳に戒めるべきであろう。
(七)変調療法
これには種々の蛋白体療法、輸血或は瀉血療法、減塩食餌、胃液吸引療法等があげられる。これらの有効である場合もあるが、その理由は胃分泌過多に対する胃液吸引療法の合理的であるのを除けば、その他は何れも根拠が薄弱である。従つて一般的には行うべきものではないであろう。
(八)理学的療法
a 温罨法 心窩痛乃至圧迫感に対してよく奏功することがある。
b 胃洗滌 古くより行われるよい方法である。
洗滌液の選択には胃粘膜変化を考慮する方がよく、肥厚性胃炎には〇・二五~二%の硝酸銀液又はタンニン酸液を使用し、粘液乃至膿性分泌物の附着が多い時には〇・五~一%の過酸化水素液を用いる。
その他カルルス泉塩、重曹、食塩水等も使用される。これらは症状の軽重に応じて起床時と就寝時、又は起床時だけ施行するが、その奏功には暗示作用も加わるものと考えられる。
c レ線照射 肥厚性胃炎の中、他の方法で症状の軽快しないものに対して施行され、よい結果を得ることもある。但しこのために萎縮性胃炎が新に起ることもあり、一般的にはあまりすすめられない。
d 体操、スポーツ
一般に胃弱として胃機能の減退を中心とするものがあるが、これらは必ずしも胃粘膜の炎症性変化によるものでなく、単に体質性或は精神々経性に現われた一つの症候群とみなし得るが、これらには漸次積極的な鍛練によつて強壮療法を行うことも必要である。
B 外科的療法
(一)外科的療法の意義
経過の長いもので内科的治療に抵抗する慢性胃炎では、殊に幽門洞部に於ける粘膜の肥厚又は萎縮、腺構造の消失、粘膜間質の高度の細胞浸潤、固有筋層の変性、離解、壁内神経叢の変性等著明な退行性変性があつて、保存的療法ではしばしば修復不能と考えられる場合がある。又固有筋層の著しい肥厚を来す事があり、手術時すら癌との鑑別がむつかしい事がある。従つてこれ等のあるものには胃幽門洞部を中心とした胃切除術が行われている。又そのあるものでは癌化の懸念が最近注目されてきているので、外科的療法が往々適応となる。
(二)外科的療法の適応
先ず一定時間、内科的治療を行つても胃困難症状が、消失しないか、軽快の模様がないか、或は軽快、増悪を繰り返えす場合には、年齢癌遺伝の素質等に徴し適当な時期に外科的治療を考慮した方が合理的と思われる。
外科的治療の適応を決定するには、胃液検査、出来れば胃鏡検査を定期的に繰り返えし行うを要し、更に外科医との協力の下に胃レ線写真につき検討すべきである。
器質的通過障害のあるもの、悪性変化の疑いあるものは勿論適応であるが、又胃出血を来した場合、萎縮性胃炎殊に胃下垂を伴うもの、たとえレ線検査で胃粘膜に著変を証明し得なくともヒスタミン法で胃液に遊離塩酸を欠くもの、その他経過、症状等を充分考慮精査した上、内科的療法では治癒困難と思われる場合には外科的療法の可否をよく判定して手術を実施すべきである。
(三)術式
慢性胃炎の外科的治療は胃幽門洞から胃体部の一部を含めた胃切除術を行うにある。この際慢性胃炎では漿膜側には殆んど変化を欠くのが普通であることに留意を要する。胃腸吻合術、その他の術式は慢性胃炎の外科的治療の目的に沿わないので行わない方がよい。
(四)病理組織学的検査
切除胃標本については必ず速かに病理組織学的検索を行い、悪性像の有無を確認すべきである。
(五) 効果
適応、手術手技が正しく行われれば慢性胃炎に対する胃切除術の成績は良好で、特に時日の経つ程好転する傾向がある。
胃十二指腸潰瘍の治療
胃又は十二指腸潰瘍の経過は甚だ多種多様で、軽い症状では何等の治療を加えなくともかなり速かに治癒するし、逆に我々が全力をつくしてあらゆる治療を長期にわたつて試みても、いささかの好転も示めさないものもある。
又所謂急性胃潰瘍と称せられる症例の一部に見られるように、病変の極めて速かに進行するものがあるかと思うと、年余にわたつて少なくとも外見上は病変不変のままに推移するものもある。そしてこれらの病変の治療に対する抵抗性、或は自然の進行性又は治癒性を客観的に判断する適当な手段は、現在なお甚だ不満足なものしか無いのであるから、本症に対する治療効果の判定には多少の主観の混じないわけにはゆかない。甲が推奨する治痛法も乙の省みる所とならず、乙が推奨する治療法も丙は採用せずというのが現状である。
事情かくの如き次第故、ここに「胃及び十二指腸潰瘍の治療方針」を記するにも、極めて基本的いい変えれば初歩的な万針を述べるに止めざるを得ない。やや特殊な治療法については根拠のあるもののみを取上げてこれを列記するに止める。
I 診断
成書によれば、本症患者は(一)食餌と関係のある上腹部疼痛、(二)胸やけ(三)嘔吐等を主訴とすると記されているが、これ等の症候は他の疾患に於いてもしばしばみられるもので、決して本疾患に特有なものではない。又他覚的症候中の最も重要なものと考えられるところの潰瘍存在部位の限局性圧痛、緊張等を証明するにはかなり高度の技術を要する場合が多く、その発現率も一〇〇%とはゆかないから、これ等の他覚的症候が発見出来ないからといつて潰瘍を否定するわけにはゆかない。又胃液検査、大便中の潜血反応等の臨床診断の価値を軽視すべきではないが過大に価評してはならない。更に吐血・下血の場合を考えてもみても、これは門脈血圧上昇-食道、胃の静脈管の破れた時、胃癌、胃炎或はある種の血液病等の場合にしばしばみられ、この内でも胃炎による大吐血は一般に考えられているよりも遥かに多く、これと潰瘍出血との鑑別は甚だしく困難となる。
このように考えてくると、本症の診断は我々の指先きだけの診断手技では全く当てにならず、どうしてもレ線検査或は胃鏡検査によらなければならないという結論に達せざるを得ない。レ線検査(或は胃鏡検査)を行わずして本症の診断を下す(或は本症を否定する)ことは慎むべきである。
又潰瘍患者の訴える種々な症状の消長と潰瘍自身の消長との間にはややもすれば大きな隔りがあるから、一般的症状の消滅が必ずしも潰瘍の治療を意味していないこともしばしばあり、このような場合には潰瘍自体を直接に探査するのでなければ疾患の経過の判断に大きな過誤を来すのは自明の理である。しかしてこの際にもまたレ線検査或は、胃鏡検査が必要が欠くべからざる手段となるのはいうまでもない。
以上、述べたところを一括すれば、胃及び十二指腸潰瘍の診断に当つてはレ線検査、(胃鏡検査)を欠くことは出来ない。又その経過を追求する上にもこれ等の検査方法が採用されなければならない。
Ⅱ 治療
A 内科的療法
ここでは、先ず合併症のない胃及び十二指腸潰瘍の内科的治療方針を述べ、次いで吐血・下血時、穿孔時及びその他の合併症を伴う場合の内科的治療法に及ぶこととする。
一 合併症のない潰瘍に対する内科的療法
(一) 安静
肉体的及び精神的過緊張が潰瘍発生に対して、どれ程の原因的関係があるかは容易に決定し得ない問題ではあるが、この種の緊張状態が潰瘍の症状を増悪させ、或は治癒をおくらせることは我々の日常経験するところである。この意味で一般的にいうならば我々は総ての潰瘍患者を原則として入院させ加療すべきである。即ち患者は入院によつて毎日の仕事或は家庭の雑事から来る圧迫より救われ、治療に専念することが出来るからである。しかし潰瘍患者の入院の目的の大部分は前記のようなことにあるのであるから、自宅に於いても十分精神、肉体の安静の保てる環境にある者、或は入院するが為にかえつて経済的その他の心配の増す恐れのある者等を強いて入院せしむべきではなく、要は個々の患者について慎重に考慮しなければならない。
さて、治療を開始するに当つては、少なくとも最初の一~二週間は絶対安静を守らせることが望ましく、この時期には用便もまた床上で行わせる。この処置は潰瘍の治療期間を短縮するに役立つばかりでなく、患者に本疾患の重大性を強く認識させ、潰瘍治療の養生を自発的に厳重に実行させるに有効である。しかしてこの病後の摂生が、潰瘍治療の一つの難問題となるところの「再発」の問題と密接な関連性を持つことはいうまでもない。一体治癒潰瘍患者の何%に再発するかについては、学問的にはむづかしい問題も残されているが、大約その半数以上にこれをみるとの考えが一般である。しかして再発の条件として精神、肉体の過労、食餌の不養上が無視されない以上、潰瘍治癒後も長く十分の摂生を守るように患者を指導するのは医師の義務ともいえる。
(二) 食餌療法
本疾患に対する食餌療法の根本は、胃の運動、分泌機能を亢進させるよう刺戟物を出来得る限り少くし、しかも栄養価の高い食物を与えるにある。しかして治療開始に当つては幾分は後者の面を犠牲に供しても、前者の面即ち胃を安静に保たしめる面に努力しなければならない。
先ず食事時の注意として、摂取の時間を規則正しくし、同時に食物を十分咀嚼せしめる。
多量の食物を一時に胃の内に入れると、胃は強く拡張し食物が胃内に必要以上に長く停溜し、この為に幽門攣縮を発したり或は強い蠕動が誘発させる。その上胃が拡張する為に直接に潰瘍面が強く伸展され、その治癒が妨げられることとなり、又出血、穿孔の原因ともなる。即ち過食はいずれの面でも厳に避けなければならないところであるが、それかといつて胃を余り空虚にし過ぎることも不可である。諸種の実験の結果によれば、胃壁の運動は、胃が強く伸展された時と胃が完全に空虚になつた時とが最も活発となり、運動の面からみて胃が最も安静となるのは、胃内に或る程度の食物が存している時である。しかして潰瘍の治癒には胃の運動を最も弱い状態に保たせることが一つの大きなポイントになるのであるから、潰瘍患者の胃内には常に一定の少量の食物が存していることが望ましい。
しかも又このことは潰瘍治癒に害をなすと考えられるところの胃液内塩酸の作用も或る程度制禦することとなるのである。この意味で最も合目的な食餌摂取方法は、二~三時間毎に平均した量の食物を与えることであるが、これは患者の身になつてみると、入院時はいざ知らず自宅療法では仲々困難であろう。一般には朝食七時、昼食十二時、夕食十八時を少々ひかえ目に食し、一〇時、一五時、二一時に牛乳一合を飲む方法が励行し易いかと思う。
何かの原因で嘔吐した時、例えばタクワンのかなり大きな片が飛び出して来た……というような経験は殆んど総ての人が持つているであろう。もしあのような固い塊が潰瘍面に直接触れたら、これは潰瘍治癒に百害あつて一利のないことは明白である。即ち胃の中で直ちに粥状にならないような食物は総て厳重に禁じなければならない。と、同時に例え固形物ではなくても胃液の分泌を強くうながすような食物、飲物を与えてはならない。例えば各種の酒類、肉汁、スープ、コーヒー等の飲物、ハム、ソーセージ、燻製品、獣肉及びコショー、カラシ等の辛味料等は間違つても食べさせてはならず、生の野菜、果物等も出来る限り少量に止めるべきである。脂肪源として純良バター、オリーブ油等を与えるのは差支えないが、これはなるべくはそのままの姿で与えるべきで、バタ焼き、フライ、テンプラ等は禁じなくてはならない。含水炭素は主食として米或は小麦で十分補給し得る。即ち病状の強弱により、お交り、お粥、炊きかえしの飯等を、或は柔らかく煮たウドン又は焼パン等の形で与えるのであるが、治療開始直後の数日間は合併症のない場合でも薄い粥又はお交り程度として患者の様子をうかがうのが良い。又前記のように、生野菜、生果物はともすれば機械的、化学的刺戟となる故に、これ等は必ず火を通して裏濾しをかけて与えたい。糖分はそれが溶液として用いられる時にもその濃度によつて胃に対する作用がかなり異なる。一般に五~一〇%の濃度のものは刺戟は少ないが、それ以上に濃度が高くなるとかなり強い刺戟となると考えられているから菓子類等もまた害の方が多いと考えておくべきであろう。
以上は潰瘍患者に与えて良い食品、与えてはならない食品について述べたのであるが、潰瘍患者に於いては種々の理由で低蛋白血症の起きる可能性が多く、これが潰瘍治癒に悪い影響を与えることは否定出来ない。そこで近時は特に高アミノ酸食餌療法、高蛋白食餌療法が重要視されだしたのである。即ち、日量として良質蛋白質八〇~九〇瓦、含水炭素三〇瓦、脂肪四〇~五〇瓦を与えることが望ましいとされる所以である。
表三 潰瘍患者献立(最新医学第8巻、第4号、塩谷卓弥氏)
(消化性潰瘍食餌療法より)
|
調理名 |
材料 |
数量 |
蛋白 |
脂肪 |
含水炭素 |
カロリー |
|||
朝 |
全粥 |
米 |
80 |
5.1 |
0.8 |
62.0 |
280 |
|||
|
|
|
|
麩 |
4 |
1.2 |
― |
2.2 |
16 |
|
麩味噌汁 |
|
|
|
|||||||
味噌 |
15 |
2.2 |
1.0 |
3.1 |
25 |
|||||
|
|
ダシ |
2 |
1.2 |
― |
― |
2 |
|||
|
|
|
|
|||||||
ほうれん草 |
ほうれん草 |
50 |
1.5 |
0.2 |
0.7 |
11 |
||||
裏濾 |
|
|
|
|
|
|
||||
|
|
|
|
卵 |
48 |
6.4 |
5.2 |
― |
16 |
|
炒り卵 |
|
|
|
|||||||
|
|
砂糖 |
4 |
|
― |
3.5 |
16 |
|||
|
|
|
|
|||||||
10時 |
牛乳 |
牛乳 |
180 |
5.6 |
5.8 |
8.2 |
110 |
|||
ビスケット |
ビスケット |
10 |
1.0 |
0.6 |
7.2 |
39 |
||||
昼 |
軟飯 |
米 |
100 |
6.3 |
0.6 |
77.7 |
354 |
|||
蒸魚 |
魚 |
40 |
8.2 |
0.5 |
― |
39 |
||||
|
|
|
|
牛乳 |
10 |
0.3 |
0.3 |
0.5 |
6 |
|
ホワイトソース |
|
|
|
|||||||
小麦粉 |
20 |
2.2 |
0.3 |
15.2 |
74 |
|||||
|
|
バター |
4 |
― |
3.9 |
― |
36 |
|||
|
|
|
|
|||||||
|
|
|
|
八ツ頭 |
60 |
1.7 |
― |
12.0 |
65 |
|
八ツ頭裏濾 |
|
|
|
|||||||
|
|
砂糖 |
3 |
― |
― |
2.5 |
12 |
|||
|
|
|
|
|||||||
白隠元裏濾 |
白隠元 |
50 |
4.1 |
0.6 |
26.5 |
152 |
||||
|
|
|
|
砂糖 |
10 |
― |
― |
9.5 |
40 |
|
蜜柑汁 |
|
|
|
|||||||
|
|
蜜柑 |
35 |
0.3 |
0.1 |
3.5 |
16 |
|||
|
|
|
|
|||||||
3時 |
牛乳 |
牛乳 |
180 |
5.6 |
5.8 |
8.2 |
110 |
|||
砂糖 |
3 |
― |
― |
2.5 |
12 |
|||||
夕 |
全粥 |
米 |
80 |
5.1 |
0.8 |
62.0 |
280 |
|||
|
|
|
|
ささみ |
60 |
12.5 |
3.0 |
― |
80 |
|
鳥肉団子飴かけ |
|
|
|
|||||||
砂糖 |
5 |
― |
― |
4.5 |
20 |
|||||
|
|
片栗粉 |
4 |
― |
― |
3.3 |
16 |
|||
|
|
|
|
|||||||
|
|
|
|
豆腐 |
60 |
4.4 |
2.7 |
― |
43 |
|
煮奴 |
|
|
|
|||||||
|
|
砂糖 |
3 |
― |
― |
2.5 |
12 |
|||
|
|
|
|
|||||||
|
|
|
|
甘藷 |
70 |
0.9 |
0.1 |
16.2 |
80 |
|
甘藷裏濾 |
|
|
|
|||||||
|
|
砂糖 |
2 |
― |
― |
1.5 |
8 |
|||
|
|
|
|
|||||||
後8時 |
牛乳 |
牛乳 |
180 |
5.6 |
5.8 |
8.2 |
110 |
|||
砂糖 |
3 |
― |
― |
2.5 |
12 |
|||||
計 |
|
|
|
81.4 |
38.5 |
345.7 |
2152 |