添付一覧
○特別弔慰金支給法第二条の二に規定する生計関係有無の認定について
(昭和四三年三月四日)
(援護第七六号)
(各都道府県民生主管部長・那覇日本政府南方連絡事務所次長あて厚生省援護局援護課長通知)
標記の件に関し、滋賀県厚生部長より別紙(1)の照会に対し、別紙(2)の回答をしたので事務処理上の参考に供されたい。
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別紙(1)
(昭和四三年一月一六日 滋福第七八号)
(厚生省援護局援護課長あて滋賀県厚生部長照会)
左記の請求者に受給権があるかどうか御教示願いたい。
記
1 請 求 者 山崎徳一(兄)
戦 没 者 山崎勝三
弔慰金受給者 山崎よし(母)
父母と兄弟四人、父の農業と商業収入で生活、父は昭和六年、兄(長男)徳一、小学校六年のとき死亡、母が引き続き農業と日雇により、子供を養育してきた。兄、徳一は高等小学校を卒業すると大阪の洋紙の会社に就職、母の農業一反余りと日雇収入は僅かであり、兄徳一は、会社に就職すると、給料の大部分を仕送りし、実家の生計を維持してきた。
昭和十六年徴用で神戸精工所に勤務、其の後、召集があり実家より出征した。その間も実家へ仕送りしていた。昭和二十年八月復員する兄(次男)栄一郎は学校を卒業し、大阪の会社へ住み込み勤務する。母親に対する小遣程度の送金をしていた。終戦当時(勝三死亡後)は、しばらく実家より大阪へ通勤していたが昭和二十二年婚姻して独立生計を営む。
戦没者、勝三は、小学校卒業と同時に志願して従軍、昭和二十年四月戦死した。
四男、四郎は、学生のとき予科練に志願し、昭和二十年十月に復員する。復員後東京の会社へ就職、婚姻する。戦没当時は母一人で細々と生活していた。
兄、徳一復員後、母と実家で農業と文房具販売店を経営している。
2 請 求 者 石井ます(実母)
戦 没 者 橘仁三
弔慰金受給者 橘いと(養母)
養母、橘いとは、父石井九郎右衛門の姉で夫がいと二三歳の時戦死し、子供なくて、一人で石井家よりの援助により暮していた。仁三五歳の時いとと養子縁組したが、戸籍上だけで、実際は実父母のもとで養育され成人した。滋賀師範学校卒業後、金田小学校に奉職したが実父母のもとから通勤し、実父母世帯と同一世帯で同一生計であつた。父が農業と売薬業を営んでいて、その収入とより生計を維持していた。いとは引き続き石井家よりの援助により一人で暮していたが中風になつたため、昭和二十七年頃より石井宅に引き取り世話をする。
昭和二十八年ますの姪和子がいとの養女として入籍されているが、実際は一緒に暮していない。仁三出征中実母より仁三宛送金されている。
3 請 求 者 岩崎利七(実父)
戦 没 者 山田金蔵
弔慰金受給者 山田つる(養母)
父、母、祖父、祖母、兄弟姉妹四人で、計八人が父の玉緒村役場勤務による収入により同一世帯として暮してきた。其後祖父(昭和十八年十二月十八日死亡)祖母(昭和二十年三月四日死亡)は死亡し、長男義男は、学校卒業後、京都の商店に奉公し、召集になり、実家より出征し、終戦後復員してきた。
二男、武八は学校卒業後実家より通勤して、会社に勤務していて、支那事変に従軍、一度復員したが大東亜戦争に召集になり、昭和十九年七月八日戦死した。
三男、金蔵は学校卒業後、京都市の扇屋に住み込み、勤務していたが、京都市に奉公中、山田家の懇望により、山田亀太郎、同妻つると養子縁組し、入籍したが戸籍上だけで実際養子先で養父母と一緒に暮したことはない当時山田亀太郎は妻と二人で農業により生計維持されていた。
本人京都奉公中は、店よりの給料により一人で生活していた。召集になり実家に帰り、実家より出征した。出征中実父が面会に行き小遣い程度は渡していた。葬儀も実父が執行し、霊も実父母が祭つている。
4 請 求 者 徳谷なつ江(姉)
戦 没 者 徳谷 岩 夫
弔慰金受給者 徳谷 ひ て(実母)
兄は、昭和十五年二月死亡し、姉はそれぞれ婚姻し、母、岩夫との二人世帯であつた。(母、農業)岩夫は学校卒業後北海道の叔父の店へ住み込み勤務し、昭和十八年召集がきたため、実家に帰り、実家より出征した。
姉なつ江は、昭和十六年七月十二日島村米太郎と婚姻し、夫が東洋レーヨン愛媛県工場に勤務していた関係で愛媛県の社宅に居住(夫婦で)していたが、昭和十六年に夫が出征したため、社宅をあけ渡し、妻の実家に帰り母と二人で農業と夫の会社の給料が送られてきたのにより生計維持していた。なつ江の夫は、昭和二十二年復員してきて(妻の実家へ)母と三人で同一世帯として同一生計で暮している。(夫、大津東洋レーヨンへ通勤)昭和二十三年夫は母と養子縁組した。
5 請 求 者 藤 田 操(姉)
戦 没 者 藤 田 稔
弔慰金受給者 中 村ミツ(祖母)
父母と兄弟姉妹三人の計五人で農業により生計維持されていた。操は、昭和九年八月二十一日甲賀郡信楽町字小川の杉本参五郎と婚姻、二女八千代も昭和十三年十二月十日婚姻し、父母と稔の三人で生活していたが、稔は学校卒業後京都の商店へ勤務し実家より出征した。操の夫が昭和十八年川崎航空に勤務し、単身社宅に居住したので、姉、操は子供をつれて自分の実家へ帰り、父母と農業を共にし、夫よりの送金とにより、父母と同一世帯にあり同一生計で暮してきた。
稔、出征中は外地のため、稔との仕送り関係はなかつたが葬祭一切は姉が面倒をみた。
昭和二十年十一月夫と共に養子縁組し戸籍上も父母と同じになつている。
6 請 求 者 西村 栄 一(兄)
戦 没 者 西村甚之介
弔慰金受給者 西村栄太郎(父)
父母と兄弟姉妹五人で(兄姉二人は早くに死亡)彦根市西今町で父が農業し暮らしていた。
兄栄一は学校卒業後北海道へ店員として住み込み勤務し、昭和八年独立して呉服店を経営する。
その間、実家の生計を長男として仕送りして支えていた。
戦没者甚之介は、彦根工業学校卒業後静岡県の会社へ就職していたが、現役として従軍、現役除隊後は大阪の会社へ転職したが、六カ月余りで召集になり、実家より出征した。五男、十四雄は学校卒業後国鉄に勤務していて、其後志願して海軍入隊、終戦後復員し、昭和二十六年婚姻し、神戸市で独立生計を営んでいる。
四男、博は学校卒業後、満鉄に勤務していて、徴兵検査で実家に帰り、現役入隊した。病気のため復員、しばらくして海南島で軍属として勤務、終戦後復員死亡した。
終始一家は主として兄、栄一の送金により生計を維持されていて、戦没者入隊中も兄、栄一より戦没者に対して仕送りしていたし、兄、栄一が実家に引き揚げてから死亡公報が入り、兄、栄一が葬祭を執行した。
7 請 求 者 木村ちよの(姉)
戦 没 者 木村孝次郎
弔慰金受給者 木村 志 を(母)
父母と姉四人、本人の計五人が父の商業により生計維持されていた。
姉はそれぞれ婚姻し、出征当時は父母と孝次郎の三人世帯で、孝次郎は長浜の鉄工所に通勤していた。昭和十九年出征し、同年十月二十一日戦死する。姉ちよのは、昭和十七年三月五日後藤晃と婚姻し神戸に居住していたが、夫が徴用で軍需工場に勤務し、弟孝次郎が出征したため、夫と別居のかたちで実家に帰り、彦根市の印刷局に勤め父母と共に暮らし、父母を扶養する。昭和二十年一月より夫とは離婚同様の状態になり、生計依存関係は無くなつている。戸籍上正式に離婚は、昭和二十三年七月二十六日死亡公報が入つたときも実家にあり葬祭も執行し、遺骨も引き取りに行き、霊を祭つている。
8 請 求 者 坂上みゑ(姉)
戦 没 者 坂上茂三
弔慰金受給者 坂上すゑ(母)
父は、大正十三年死亡し、母と姉三人、本人の計五人が同一世帯として暮らしていた。姉三人はそれぞれ婚姻し、出征当時は、母と茂三の二人世帯であり、茂三は、現役入隊まで大阪の会社に住み込み、勤務し、母に送金し生計維持されていた。姉みゑは、昭和六年三月三十日滝川政太郎と婚姻したが昭和十四年二月九日夫が死亡し実家も茂三出征し、母一人となつたため、出征後間もなく子供をつれ、実家へ帰り、日雇等をしながら、母と同一生計で暮らしている。
戸籍上は昭和三十一年六月二十七日復籍した。
9 請 求 者 富永耕治郎(兄)
戦 没 者 富永 義 雄
弔慰金受給者 富永 多 可(母)
父母、祖母、兄弟八人が農業により生活していて姉二人は婚姻、姉一人は早く死亡した。
兄(長男)太一は学校卒業後町役場に勤務していたが、昭和十八年召集になり昭和十九年戦死した。
兄、耕治郎は、学校卒業後すぐ京都で住み込み奉公した。支那事変に従軍し昭和十五年復員した。復員後昭和十五年満州奉天に渡り、会社に勤務していたが、昭和十八年実家に帰り農業に従事する。
昭和十九年三月召集があり満洲に行きシベリヤに抑留され、昭和二十二年復員した。復員後昭和二十四年に兄妻と婚姻している。
戦没者義雄は学校卒業後会社へ実家から通勤していたが、昭和十八年海軍に志願して従軍した。戦没者出征当時は、請求者が農業、戦没者は会社勤務し、生計を共にしていた。
妹正子、弟史良も学生であり、生計を共にしていた。
兄弟出征中は、母が中心で農業に従事生計を維持されていた。
10 請 求 者 塚本正儀(兄)
戦 没 者 塚本勝儀
弔慰金受給者 塚本きよ(母)
父は大正八年に死亡し、母が農業で兄弟姉妹五人と(一人は大正十二年死亡)生計を維持されていた。
姉二人は婚姻し、兄(長男)正儀は学校卒業後農業に従事していたが、現役入隊し昭和十二年四月除隊になり復員同年十一月召集になり昭和十五年まで従軍、昭和十五年現地除隊と同時に南支那の航空会社に入社する。その頃婚姻した。
終戦後引き揚げてきている。兄(二男)庄平は、学校卒業後満洲電電kkに勤務、昭和十八年婚姻し満洲で独立生計を営んでいた。
戦没者勝儀は学校卒業後実家で農業に従事していて台湾の商店にしばらく勤務したが、徴兵検査のため実家に帰り現役入隊し、昭和十九年八月三十日戦死した。
実家は、兄正儀よりの仕送りと農業により生計を維持し、兄正儀が引き揚げてから、死亡公報があり、兄正儀が葬祭を執行した。
11 請 求 者 山本喜代一(兄)
戦 没 者 山本 幸 一
弔慰金受給者 山本まさの(母)
父、母、兄弟姉妹六人が父の農業収入により生計維持していた。父は昭和十三年十一月十四日死亡、兄政次(三男)も国鉄勤務中、昭和十三年死亡した。
兄(四男)喜代一は学校卒業後国鉄米原駅に勤務していたが、昭和十三年、華中鉄道に勤務する。父死亡後は、戸主として、実家に仕送りし、実家の生計を支えてきた。
戦没者幸一は学校卒業後実家より国鉄に勤務中入隊し、昭和十九年十一月十七日戦死した。幸一出征当時実家は母(農業)、幸一(国鉄)、弟芳一(農業)、姉きくの(農業)、姉勇(看護婦)五人暮らしで、兄喜代一からの送金とそれぞれの収入により生計維持していた。兄喜代一は、昭和二十一年三月外地より引き揚げてきた。
別紙(2)
(昭和四三年一月三○日 援護第三三号)
(滋賀県厚生部長あて厚生省援護局援護課長回答)
昭和四十三年一月十六日滋福第七八号をもつて照会のあつた標記のことについて左記のとおり回答する。
記
1 請求者(山崎徳一)について
提出資料の内容からは、請求者は戦没者と生計維持又は生計同一の関係にあつたものとは認められない。
2 請求者(石井ます)について
生計関係申立書等提出された資料の内容からは、実母(石井ます)が戦没者と生計をともにしていたことが認められ、養母(橘いと)と戦没者との生計関係については疑問であるが、若し養母と戦没者と全く生計関係がなかつたものであれば弔慰金の正当受給権者は実母であり、養母が弔慰金の受給権を取得したことに疑義を生ずるので、この点について再調査されたい。
なお、養母に生計関係が全くなかつたことの確証が得られれば、本件については昭和四十一年八月十一日援護第三○二号「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法の運用について(その三)」の問二十五の答により処理することとされたい。
3 請求者(岩崎利七)について
当局保管の遺族年金、弔慰金請求書によれば、戦没者の死亡の当時その者と生計関係を有していた者は養母(山田つる)のみであつたと認められ、又このたび提出された資料の内容からも請求者は戦没者と生計同一又は生計維持の関係にあつたものとは認められない。
4 請求者(徳谷なつ江)について
請求者は戦没者と同一世帯にあつたものではなく、提出資料の内容からは請求者は戦没者と生計同一又は生計維持の関係にあつたものとは認められない。
5 請求者(藤田 操)について
提出資料の内容からは、請求者は戦没者と生計維持又は生計同一の関係にあつたものとは認められない。
6 請求者(西村栄一)について
請求者は戦没者の死亡当時、戦没者と生計関係を有していたものと認められる。
7 請求者(木村ちよの、坂上みゑ)について
提出資料の内容からは、請求者は戦没者と生計維持又は生計同一の関係にあつたものとは認められない。
8 請求者(富永耕治郎)について
請求者は戦没者の死亡当時、戦没者と生計関係を有していたものと認められる。
9 請求者(塚本正儀)について
請求者は戦没者(塚本勝儀)と同一世帯にあつたものとは認められず、提出資料の内容のみでは戦没者との生計維持の関係が認定できないので、さらに次の事項について調査を要する。
(1) 生計関係申立書によれば戦没者の出征前は母と実家において農業を営んでいた旨申し立てているが、実施調査書には徴兵検査のため実家に帰り現役入隊とあり矛盾しているので、戦没者が台湾から実家に帰つた時期及び入隊の時期について調査のうえ、戦没者と戦没者の母が同一世帯にあつたものかどうかを調査すること。
(2) (1)により戦没者と戦没者の母が同一世帯であつたことが確認できた場合は、戦没者と戦没者の母及び請求者が経済的生活関係を同一にしていたことについて具体的状況(生活費拠出の状況等)を調査すること。
10 請求者(山本喜代一)について
請求者は戦没者の死亡当時、戦没者と生計関係を有していたものと認められる。