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平成13年度中国残留日本人孤児公開名簿


(名簿は、「名簿番号」、「名前」、「性別」、「肉親と別れたところ」、「終戦当時の推定年齢」、「日本名・家族構成・父母の職業・避難状況等」、「身体的特徴」、「血液型」、「その他」、「現住市(県)」の順に記載してありますが、不明なものについては、記載してありません。)

1 劉 長慶 男 珠河県 3歳

(現在)
(現在)


 母から「ミツ、ミツ」と呼ばれた記憶がある。
 父は軍人。昭和20年ソ連参戦後、大勢の人達と一緒に、浜江省珠河県珠河街まで避難し、母と同地に残留した。
 昭和21年、母は同地で中国人と結婚したが翌年死亡した。その後、街長を介して、養父「劉桂清」夫婦に引き取られた。さめ肌。AB型。
 黒竜江省撫遠県

2 趙 淑芳 女 鶏寧県 2歳位

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 昭和20年8月、避難途中、東安省鶏寧県大通溝付近で、死亡した女性のそばで泣いているところを「郎」という中国人に保護された。その後、養父「趙 永順」夫婦に引き取られた。保護された時の髪型は「おかっぱ」だった。
 臍の下に3個づつ横2列6個の傷あと。A型。
 黒竜江省鶏西市

3 陳 景雲 女 宝清県 2歳位

(現在) (少女期)
(現在) (少女期)


 昭和20年8月、避難途中の雨の日、東安省宝清県宝清鎮で、養父「陳春林」に保護された。
 左右大腿上部に刃物による傷あと。A型。
 黒竜江省双鴨山市

4 于 淑梅 女 奇克県 1〜2歳

(現在) (少女期)
(現在) (少女期)


 昭和20年8月、黒河省奇克県奇克特の日本人住宅北金寮で、日本人住宅の水汲人夫をしていた「王」に保護された。
 その後、人を介して養父「于省三」夫婦に引き取られた。
 左膝上側面に烙印様のアザ。A型。
 黒竜江省黒河市

5 張 玉梅 女 牡丹江市 1歳位

(現在) (幼児期)
(現在) (幼児期)


 日本名「静子」。
 父は「軍人」又は「軍属」、母。
 昭和20年9月末、母が罹病したため父の知人「高野」が、牡丹江省牡丹江市紫雲街の養父「張福祥」の自宅で養父母に預けた。養父は「※第261部隊」の倉庫係、高野は養父の上司であった。
 当時、白地にピンクの花柄の和服を着て、軍用毛布に包まれていた。毛布には「田中」と書かれていた。
 両眉の間に小さなホクロ。AB型。
 ※第17野戦貨物廠と思われる。
 黒竜江省寧安市

6 張 廷来 男 鶏寧県 7歳

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 日本名「ワタナベミズアキ」。
 母、姉二人、母は終戦前に死亡。父は「軍人」。
 昭和20年8月中旬、東安省鶏寧県哈達河からの避難途中、同県麻山付近で大勢の避難民が死亡後、その現場からもう一人の男の子と一緒に、中国人「朱占山」に保護された。保護された時青色の服を着ていた。その後、養父「張進澤」夫婦に引き取られた。
 哈達河の家は小学校の近くにあり、平屋の煉瓦造りで、床や天井は高く床下に水が流れていた。A型。
 黒竜江省鶏西市

7 李 穎萍 女 林口県 1歳

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 昭和20年8月、避難途中の東安省林口県大盤堂村で戦闘があり、その時死亡した母のそばにいたところを中国人に保護された。その後、養父「李祥」夫婦に引き取られた。
 B型。
 黒竜江省東寧県

8 銭 文博 女 延吉市 1歳

(現在) (少女期)
(現在) (少女期)


 父、母。父は軍人。
 昭和20年秋、間島省延吉市の八路軍衛生所で、入院中の母が父と相談して、看護婦をしていた養母の妹を介して、養父「銭峰山」夫婦に預けた。
 鼻の右側に大豆大のホクロがあったが、13歳のとき除去した。B型。
 吉林省延吉市

9 朱 桂琴 女 琿春県 7歳

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 日本名「三浦」。
 父母は開拓団員。兄、姉4人、妹。
 昭和20年終戦後、避難中に父、母、姉1人、妹は死亡。間島省琿春県琿春街で姉の一人が養父「朱雲祥」夫婦に預けた。
 昭和50年代に姉が捜しに来た。B型。
 吉林省琿春市

10 王 広財 男 敦化県 1歳

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 昭和20年冬、吉林省敦化県大石頭鎮の街路で、養父「王正玉」夫婦に保護された。
 保護された時つなぎのベビー服を着ていた。
 左こめかみに傷跡。B型。
 吉林省延吉市

11 金 銘 男 新京市 3歳

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 父は長春県興農合作社に勤務。
 他に家族がいたらしい。
 昭和20年8月終戦後、吉林省新京市の興農合作社宿舎で、父が同僚であった養父「金恩霖」夫婦に預けた。O型。
 吉林省長春市

12 張 傑暉 女 吉林市 4〜5歳

(現在) (少女期)
(現在) (少女期)


 昭和20年8月、吉林市黄旗屯西大営付近の道端で泣いているところを、養父「張雲亭」に保護された。当時の髪型は「おかっぱ」だった。
 左足の付け根に傷跡。B型。
 吉林省延吉市

13 劉 紅 女 吉林市 2ケ月

(現在) (少女期)
(現在) (少女期)


 日本名「安倍恵子」。
 昭和20年10月10日、吉林省吉林市牛馬行褌档街の養父「劉鳳岐」の自宅で、砂塚貞吉氏の妻と30歳位の日本人女性が養父母に預けた。
 砂塚氏は質店を経営し、古着屋の養父と懇意であった。当時、白いネルの下着、袷の長着を着て、白地に赤い花模様の小さな布団と黄色の毛布に包まれていた。B型。
 吉林省吉林市

14 王 立法 男 依蘭県 3歳
 (旧名 徐 更正)

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 父、母、兄。父は開拓団員。
 昭和20年10月、三江省依蘭県セイコウハで、二人の男の子を連れた日本婦人が、ブリキ屋を営んでいた養父「徐子文」夫婦に本人を預けた。当時6歳だった兄は、菓子屋に預けられた。養父の死亡後、7歳時に王家にもらわれて改名した。A型。
 吉林省遼源市

15 秦 永禄 男 奉天市 2歳半

(現在) (幼児期)
(現在) (幼児期)


 父、母、兄(当時4〜6歳)。
 昭和20年秋頃、奉天駅近くの日本人難民収容所で、養父「秦双臣」夫婦に引き取られた。頭部及び両眉の間に傷あと。A型。
 遼寧省瀋陽市

16 王 懐慶 男 撫順市 2歳

(現在)
(現在)


 昭和21年2月〜3月頃、奉天省撫順市北台の日本人小学校跡の難民収容所で、女性から養父「王立営」に預けられた。
 当時、紐のついた白い上着とズボンをはいていた。A型。
 遼寧省撫順市

17 宣 桂蘭 女 寧安県 8〜9歳

(現在)
(現在)


 父は大工。母、兄、妹2人。
 昭和20年8月、汽車と徒歩で牡丹江省寧安県海林に避難。同地で父は銃弾で死亡。母は負傷。下の妹も死亡した。その後、母は本人を養父「宣培楷」に、上の妹を別の中国人に預けた。A型。
 山東省海陽県

18 魏 清嶺 男 寧安県 4歳

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 日本名「内田袈裟春」。
 終戦後、牡丹江省寧安県木其村で中国人の老人に保護された。9歳の頃、同村に住む、中国名「孟淑文」(日本名「内田百合会」)に姉弟と告げられた。その後、1962年姉からの手紙で日本名を知った。
 唇の左上にほくろ。O型。
 山東省陽信県

19 李 長有 男 奉天市 8歳

(現在)
(現在)


 父、母、祖母。父が単身興安北省満州里市へ渡満後、母、祖母と三人で父の元へ。母は間もなく病死、箱に入れて山の中腹で火葬にした。祖母も避難直前に死亡。
 昭和20年8月終戦後、乳児を連れた二人の日本人女性と四人で奉天市まで避難。駅近くの収容所にいる時、餅売の中国人について行った後、別の中国人と数ケ月生活。その後、養父「李秀田」夫婦に引き取られた。
 日本では、山の中腹の三角形のわら屋根の家に住んでいた。石段や石畳があり、下に川が流れていた。1km位離れた所で木炭を焼いていた。A型。
 河北省景県

20 朱 啓蘭 女 吉林市 4歳

(現在) (青年期)
(現在) (青年期)


 父、母、妹、叔母(?)。父は軍人。母と妹は終戦前に死亡。
 ソ連参戦後、叔母と避難し、吉林市の難民収容所に入った。その後、叔母は中国人と結婚したが間もなく病死した。昭和22年秋、人を介して養父「朱徳新」夫婦に引き取られた。
 終戦前、父と一緒に母と妹の遺骨を日本に持ち帰った記憶がある。
 上唇中央に小さな傷痕と両眉間にホクロ。O型。
 青海省西寧市


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