08/04/24 第4回看護基礎教育のあり方に関する懇談会議事録 第4回看護基礎教育のあり方に関する懇談会 日時 平成20年4月24日(木)15:00〜 場所 虎ノ門パストラル アジュール 委員 井部俊子、尾形裕也、梶本章、田中滋、矢崎義雄(敬称略 五十音順) ○島田補佐 ただいまより「看護基礎教育のあり方に関する懇談会第4回」を開催いたし ます。委員の皆様方、そして本日お話いただきます先生方におかれましては、ご多忙中に もかかわらず、当懇談会にご出席いただきまして、誠にありがとうございます。僭越なが らこの4月1日付で看護課長補佐を拝命いたしました島田でございます。よろしくお願い いたします。  本日は寺田委員が欠席とのご連絡をいただいております。また、外口医政局長は国会用 務により、本日は出席できません。ご了承願います。それでは座長、よろしくお願いいた します。 ○田中座長 本日は委員の先生方、スピーカーの先生方、どうもお忙しい中をお越しいた だきましてありがとうございました。これまで病医院の院長や看護部長などから話を伺っ てまいりましたが、本日は学術の観点からを目的にお二人の有識者の方々をお呼びしてお ります。それぞれのご専門の立場から、将来求められる看護師像とは何か、看護師にどの ような資質が必要であるかに関し、また、そのための教育に関するご提言をご自由にご発 言いただくことをお願いしたいと思います。それではお二人の有識者の方々について、事 務局から紹介をお願いします。 ○小野対策官 まず机上の資料ですが、1頁目に、最初の会議で配らせていただきました本 会の趣旨などについて示しましたペーパーを、改めてご用意させていただいております。 その後、4枚めくっていただきますと、ヒアリング資料に南先生の資料を付けております。  それではお二人の先生のご紹介を申し上げたいと思います。まず、鷲田清一大阪大学総 長でいらっしゃいます。鷲田先生は京都大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程を修了さ れ、臨床哲学・倫理学をご専門とされ、教育・研究にご活躍で、大学受験の課題文の頻出 作家としても著名でおられます。著書は数多く、『現象学の視線』『聴くことの力−臨床哲 学試論』などは医療・看護の分野にも多くの示唆を与える著書として知られております。 教育や看護の現場で起こっている問題に哲学的思考がどのように関われるのか研究してお られます。  次に南裕子近大姫路大学学長でございます。南先生は聖路加看護大学教授、兵庫県立看 護大学学長等を歴任し、看護教育に尽力され、日本看護協会会長としても専門・認定看護 師制度、看護学博士課程設置の確立と普及や、阪神・淡路大震災の際の体験から災害看護 学の分野の発展に貢献されるなど、教育・政策・研究など幅広くご活躍でございます。ま た、日本人で初めての国際看護師協会会長に就任され、国際的な視野で看護の発展にご尽 力されておられます。以上、ご紹介でございます。また、カメラのほうはここまででお願 いいたします。 ○田中座長 ありがとうございました。早速ですが、鷲田先生、よろしくお願いいたしま す。 ○鷲田先生 どうも本日はお招きをいただきましてありがとうございます。想像していた より50倍ぐらい多くの方がいらっしゃるので、ちょっとびっくりいたしました。私は専門 領域が哲学・倫理学ということで、果たして本日の看護基礎教育についての会合の中で、 本当にお役に立てるような提言、あるいは発言ができるのかどうか、極めて心もとなく、 心細い思いでおりますけれども、私自身はもう20年ぐらい前に5年間ほど、看護専門学校 で非常勤で授業をずっとやらせていただいたこともあります。今回準備のために改めてこ の報告書を読ませていただきましたが、その20年前と比べたら、もう看護学のカリキュラ ムといいますか、科目等も随分様変わりしたなと思って、驚いております。  本日は科学あるいは学問の立場からということを申し付けられておりますので、看護の、 あるいは看護学の専門性って一体何なのか、あるいはどういう意味で専門の研究であり、 専門の営みであると言えるのか、その姿勢というか、難しさについて少しお話させていた だければと思っております。  まず、看護学が一体どのような意味で専門科学であり、専門研究であるのかということ ですが、これは私は難しい問題であると思っておりまして、学問として看護学を考えたと きの学問性の根拠、科学性の根拠って一体どういうところにあるものだろうかという問題 がございます。通常は科学というのは学問としての対象と、その学問の方法というところ でそれぞれの科学がそれぞれの対象領域を持ち、固有の科学的方法というものを用いるわ けですが、例えばカリキュラムを拝見しましたときに、ある種の看護学というのは固有の 学問領域というよりも、少なくとも方法的には総合科学的なものではないかという印象を 持っております。医学的な知見、あるいは心理学的な知見、そして最近では政策論的な知 見というのも随分教えられているようです。それからどこか哲学的な視点からくる授業な どもございますが、そういう一種の総合性というものを特徴としています。  しかし、あくまで科学である、学問であるということなのですが、そのときにいろいろ な看護学の潮流というのがあろうかと思いますが、私は現象学という立場から現象学的看 護学などに研究をなさっている方と、よくいろいろ会合を持ったりすることもございます が、そのときの1つの大きな顕著な方向、すべてではありませんが看護学研究の1つの顕 著な方向として、科学主義批判というのがあるように思います。それはいわゆる科学とい うのは自分自身が対象にコミットしないで、対象をできるだけ遠ざけて、距離をもってニ ュートラルな立場で対象について研究するということですが、果たして人間を対象とする、 あるいは人間の存在を対象とするような科学において、そういう人を対象として遠ざけて、 科学的に研究するという俯瞰主義的なアプローチというのが、本当に例えば看護学におい てふさわしいのかどうかという、そういう問題意識を非常に強く研究者の方々から感じる ことが多うございました。  けれども、科学主義批判というのは非常に難しくて、科学主義批判ではあるのだけれど も、科学批判ではなくて、科学主義批判なのですが、その科学主義批判をする看護学自身 もまた1つの科学でなければならない、学問でなければならない、つまり客観的なもの、 あるいは学問として、普遍妥当的なものでなければならないという、そういう一種のジレ ンマみたいなものを、看護学の研究を含んでいるというそういう面があるのではないかと 思ったりしています。  そうすると、看護学は単なるいろいろな科学、医学から哲学から心理学から社会学から あるいは政策科学、そういう異なる方法論を持っている諸研究の総合したものというより も、そういう意味では一種の科学性ということについては、やはり統一なされているとは 言い難く、むしろ看護とかケアというものを対象とする学問が、これまでの単なる客観的 な科学というものと違う、別の学問としての視点を持つという、科学それ自体のあり方へ の批判というところまで作業が突き詰められていき、膨らんでいくと、近代の科学のあり 方全体を変えるような素晴らしい知見というところから、生み出されてくるのではないか と思っております。よく最近はケア学という言葉も使われますが、ケア学の方法とは一体 何なのか、学問としての方法は一体何なのかということを研究者の立場に立った場合には、 やはり突き詰める必要があるだろうと思っております。繰り返しますが、それが何か近代 科学全体のあり方自体を変えるような視点を持つことを、私などは非常に期待しておりま して、同意してきたつもりでおります。  ただいま申しました看護学の専門性をめぐる問題ですが、もう1つ、看護という営み自 体の専門性という問題もあろうかと思います。看護というのは医師、消防士、警察官、教 師、いろいろな人の命の安心、安全にかかわる職業ですから、非常に厳しい国家試験があ り、そして資格認定があって、プロとしての免許を取らないとそういう営みを行うことが できない、非常に専門性の高い営みだと思います。  ただ、難しいのは看護の専門性というのは、少し教師の専門性と似ており、いい教師と いうのは教師という職業性に徹すればいい先生なのではなく、特に教師という職業性を超 えなければならない、あるいははみ出なければならない。そこのところで本当に先生と言 われるものの特質が現れてくるのと同じように、看護という営みの専門性というのは、単 に職業人としての専門性にとどまり続けていれば、むしろ達成されなくて、いわば職業性 を超えるところで看護とかケアというものの重い意味が、立ち現れてくるという面がある ように思います。それは別の言い方をしますと、教育、あるいは介助という事柄と同じよ うに、看護というのは必ずしも専門的知見を持っている人、あるいは専門的技術を持って いる人が素晴らしい看護行為をなさるとは限らないという面にも現れていると思います。 どこか看護という営みには、フランス語でいうメチエというような生活、つまり経験がも のを言うとか、体で覚えるものだといった、何か職人技に近いような経験ということが非 常に重要な意味を持つ営みであろう。そういう意味では単に看護大学を卒業したてのいろ いろな看護学の専門的知識、あるいは技術を持っている人よりも、そういう学習をしたこ とはないけれども、昔でいえば付き添いさんというのでしょうか、病院で資格は特にない けれども、患者のそばでお世話をされてきた、あるいはもっと一般に私たちの身の周りの お年寄りの方などのほうが、はるかに安心できる看護をしてくださるケースもありうるよ うな、そういう特殊な領域だというふうに思います。  そう考えてくると非常に難しいのは看護の、特に看護学の専門性というときに、その知 識としての専門性は本当に科学的な知としての専門性なのか、いま言ったメチエ的な、経 験がものをいうような領域における、技とでもいうべき、メチエなのか、知なのか、それ とも誰もが大なり小なり身に付け得るような人として他者を支える、あるいはケアをする という素質のようなものとしての知として考えるのか、どのレベルに整理して看護という 営みを、そして看護学という営みを考えるかによって、専門性というものの意味合いとい うのは、随分変わってくるのではないかと思います。  ところで、次に専門性ということですが、にもかかわらず、専門性、プロの意識、スペ シャリスト、エキスパート、プロフェッショナルなどいろいろな表現があり、ニュアンス が随分違いますが、一応プロという専門家として専門性の意識、プロの意識というのは看 護のようなある意味、人を相手にして心身ともに非常に過酷な状況にいつも置かれうるよ うな仕事の中では、プロの生きがいというもの、自分は専門家であるということがしんど い営みを支える心の芯のようなものになっていると思います。このプロの生きがいという のはなかなか難しくて、一方ではそういう看護師の人たちを支える軸のようなものであり ながら、それが強過ぎると今度は逆に自分自身への要求が非常に高くなり、それこそよく 言われる燃え尽きとか、共感疲労といったプロとしての使命感が強過ぎるがゆえに、自分 を追い詰めてしまうというような難しさがあるように思います。  とりわけプライマリーケアなどの場合特にそうだと思いますが、非常に長い期間にわた って患者のいろいろな声を聞き、さまざまな体と心の状況に付き合い、そして最後に患者 さんと別れる、亡くなられるというそういう関係の中に入っているときは、どうしてもそ れは身体的な接触の頻度が高いし、それゆえに感情的な関係に自分を巻き込んでしまうと いうことが非常に多うございます。例えば患者が亡くなられ、自分の専門家としての業務 を終わった時点で、通常の看護師とは比べものにならないような深い喪失感、あのときこ うしておけばよかったという後悔で自分をさいなむということもありましょうし、何か感 情を巻き込まないでクールにできるプロの仕事とは少し違う、そういうイメージこそ逆に 自分の業務に、仕事にある種の限定を与えないといけない、ある種の患者との距離間を意 識的に作らなければならない。そういう意味でのプロの意識という部分、私は専門家だか らという意識も、自分の身を助けるためにもこれは必要だろう。そういうように看護師さ んのプロの意識、専門家としての意識は、時に身を支えるものであるし、時に自分をある 種追い詰めることもあるという、これも非常に難しいものだと思っています。  専門職としての看護を考えると、私などは外から見ていまして、例えば集中治療室での 看護に当たられる方、あるいは、がんプロフェッショナルの方々から、地域医療に貢献さ れている日夜取り組んでおられる看護師、あるいは介護施設にお勤めの看護師まで、はた して同じ看護職として専門性を一律にとれるのかどうか、あまりにも多様なので、これも 私などは門外漢として看護の専門性を論じるときに、ものすごくためらってしまう点です。  これまでは学問としての看護学の難しさ、あるいは専門職としての看護という営みの難 しさということばかりを言っていて、問題がちっとも先に進まず哲学者らしいなあと、あ あでもない、こうでもないということばかりを言っていて、ちっとも話が前に進まないで はないかと思われたのではないかと思いますが、少しここで専門であるということと、専 門主義、あるいは専門家主義の危うさについて少し今度は断定的に申し上げたいと思いま す。専門家主義というものの危うさは、ケアを必要とする人を受身にしてしまうというと ころにあるように思います。プロフェッショナルというのは患者に、「私は専門家だから、 あなたの病気がどうしたら治るかとか、どういう心構えでやったらいいか、全部私たちは プロとして大事に正確にやりますから、あなたはじっと私たちの言うとおりにしていらっ しゃって、安心して任せてくださったらいいのです」という言い方です。これはパターナ リスティックな態度なのですが、裏返して言うと、ケアというのを一種のサービス業務の ようにケアサービスとして考えて、私たちはケアを与える人で、あなたはケアをある意味 では消費する人ですから、私たちがいい製品を作りますから、あなたたちはそれを使って いただいたらいいのですという、言葉は軟かいのですが、あなたは消費すればいいのです、 解決法はレシピは全部こちらが持っていますからという、一種の看護する側の専門家側の 一種の万能性のようなものの幻想に、知らない間にとらわれている。そのことによって患 者をどんどん受身に、ただ、言うことを聞いて、言うとおりにされるのがいちばん確実で すという、一種の患者を受身にするという面がある。  もう1つ、一時期日本中の病院で「患者さま」と呼ぶようになりました。そういう呼び 方をすべきなのか、すべきでないのか随分議論があったと聞いています。阪大病院でも「患 者さま」というように放送などでも言っていますが、患者の立場からすると、あまりうれ しくない表現で、これはやり過ぎではないかということで、最近はまた「患者さん」に戻 していらっしゃるケースが多いように思います。この「患者さま」という言い方は、患者 さんを先ほど言ったプロの者が管理する、私たちに任せておきなさい。という管理する、 そういう管理としてのケアの反省から、もっと患者本意に、患者が一体いまどういうこと を望まれているか、そういうことをきちんと聞いて、それにかかわるような看護、あるい は医療を目指さなければならないということで、いわば患者本意で患者を立てているよう に見えるのですね。  けれども、これもある種、落とし穴がありまして、あなたの思いを大切にしますからと いう言い方は、ある意味ではあなたがそう望まれたからという理屈に、一種の裏返しで責 任回避になるような面もあろうかと思います。そういう意味で患者さまという言い方、あ るいはサービスの受け手、消費者として考える考え方というのは、専門家主義の中には知 らぬ間に浸透していって、患者を知らない間に極めて受身の存在、受動的な存在にしてし まうという面がある。これが病気からの回復を考えたときに、それでいいのかと私などは 思います。  というのは、生きるということは一種のセルフケアですから、ケアされるということで はなしに、自らをケアする、例えばこういうものが食べたければ自分でこういうものを探 して買ってくるとか、自分で自分をケアすることです。生きるということは、してもらう ばかりではなくて自分がという能動性を失うと、なかなか立ち直れないという面があって、 そういう意味で患者を受身にしていくということは、ある種、患者を無力化していく面が あるのではないかと思います。  そうすると、看護の専門性というのは非常に難しくて、私に任せなさいという万能性に なってはいけないけれども、かと言って、患者さまという言い方で、相手に全部決断を任 せてしまうような他者本位ということであってもいけない。そういうところで専門性が問 題になるわけです。それは、看護の専門性というのは専門性にこだわらないで臨機応変に 患者の状態に対して対応できるという、非常に特殊な専門性ではないかと思います。  安全ということを考えたときに、専門の医学的な知、あるいは看護学上の専門知をしっ かり看護の場に活かしていかなければなりませんが、あるときには一旦、自分の専門知を ペンディングにして、ここは医療の立場、看護の立場ではなくて患者の思いに耳を傾ける、 あるいは方法が間違っているかもしれないけれども、一旦患者の思うようにしてあげると いうような機会も必要であって、そこを臨機応変にやっていく、何とも難しいこれがメチ エ的な面なのです。だから、これは教育や子育てと非常によく似ていて、教育や子育てで も何でも優しく言ってあげるのがいいのではなくて、もちろん黙って相手の言い分を一切 コメントを付けないで聞いてあげることが会話で大事な場合もあれば、相づちを打ってあ げることが大事なときもある。あるいは逆に否定して、励ますことが大事なときもある。 あるいはときに叱ることすら必要になってくるという、これも臨機応変に使い分けなけれ ばいけないわけです。  マニュアル的にこういう状況ではこれというように言えなくて、顔色を見ながら臨機応 変に対応しなければならない。その人その人に対応しなければならない。また介助とか子 育てにおけるように、何でもその人が苦痛を感じないようにすればいいとは限らないので す。ときにはギリギリまで助けない、自分でできるギリギリまで手を出さないという、特 に看護よりも介助ではそうかと思います。ギリギリこの人は悲鳴を上げるところまで辛抱 して、手を出さないということも必要になってきます。その都度その人の患者の状態の変 化に密着して対応しないで、ある種、遠目でじっと見守ることが必要になったり、あるい は緩急をつける、ときにはじっとその人が動き出すまで待ってあげる。それが本当に子育 てと非常によく似た、教育とよく似た面があります。それを臨機応変と呼んでいますが、 そうなりますと、結局看護を学ぶ、看護で身に付けるべきものというのは、一方で現代の 医学の水準に合わせた専門知、あるいは看護学の現代の水準に合わせた専門知ということ もあるのですが、他方では言葉としては簡単ですが、人としての成熟です。臨機応変に焦 らないで対応できる、何かそういう昔の人はコツを飲み込むとかアヤを知るとか、間合い を取るとか、塩梅とか、何かいろいろな言葉で呼んできましたが、人としての成熟した能 力を同時に求められるのが看護という仕事なのではないか。そうすると、教育の中でそう いう力をどのように身に付けていくかということも考えなければならないと思います。  時間を超えてしまいましたが、もう1点だけ最後に、看護教育を考えるときに、これか らの20年30年を考えたときに、看護教育は決して看護師を対象とするものだけであって はならないと思っています。これは私の非常に特殊な考え方かもしれませんが、これから の少子・高齢化の社会が進行する中で、私は初等教育から中等教育において絶対に教えな ければならない科目、いま教えられていない科目が2つあると考えています。哲学とケア なのです。つまり、哲学というのは要するに何が本当に大事か。何があってもいいけれど も、なくてもいいものなのか。あるいは何があってはならないものなのかという物事の軽 重です。人間社会はすべてのことを理想的なことが全部できるわけではないので、本当に 何から順番にやっていって、何が大事でいまは何は目をつむっていいかという、そういう 判断力が社会運営で必要になってくる。そういう広い意味での哲学の勉強と、少子・高齢 化の社会では、高齢者はケアする人よりケアされる人のほうがはるかに多くなる社会では、 自分の家族をあるいは知り合いをケアするだけではケアは社会の中で成り立っていかなく て、例えば町を歩いているときに擦れ違った人が、車椅子に乗っていらっしゃったら、あ るいはこういう障害を持っていらっしゃったら、あるいはこういう介護を必要とされてい らしたら、それを擦れ違ったときに、あるいは横で見ていてすぐに、いまこの方には何を してあげるのがいいのかという、何が必要なのかということをきちんと、すっとその状況 をよんで、最低限の基本的なケアが子どもでもできるという、そういうケアの教育は初等 教育から、これからは必要になってくるのではないかと思います。  私たちの社会はある意味で命の世話をする、他人のお世話をするというのは、全部プロ が担うようになっているのです。  ご飯を作るのも最後は普通の人はもうチンしただけでいい、料理したものを買ってきた らいい、廃物処理も自分たちでしなくても下水道がしてくれるし、病気になれば看病は病 院が治療や看護をしてくれる。人が生まれるときも家で産むのではなくて病院で出産する ようになるし、亡くなったときは病院と葬儀屋さんに全部頼みます。子育て、教育は学校 に全部任せるというように、生命の世話、ありとあらゆる生命の世話を安全・安心を目指 すために私たちはみなプロに任せてきた。専門職に任せてきた。いわゆるサービスシステ ムに任せてきた。これが近代社会の福祉というものだと思います。  そのことで私たちはすごく安心して暮らせるようになった、身を委ねていいようになっ たのですが、その裏面として自分で隣にいる人の手当をする、看病をする、何かさとす、 もめ事があったら仲裁に入るというような生命の世話、他人の世話を自分でする力が逆に どんどん殺ぎ落とされてきたわけです。  その意味でこれからはかつては家族の中、地域でやっていた簡単な応急処置や介護、あ るいはつぼを押してあげる看護、そういう生命の世話をもう一度、全部プロフェッショナ ルに任せるのではなくて、一人ひとりが最低の基礎的な他人の世話ができる、その技術も 子どものときからもう一度、学び直しておかなければならない、そんな時代がきっとくる のではないか。そう考えますと、看護教育というのは看護師の卵に教えるという営みだけ ではなくて、うんと拡大して看護学の先生は小学校にも行って子どもたちに看護、介護の いちばんの基本を教える、そういう使命もこれからは出てくるのではないかと思います。 時間が延びてしまい申し訳ありませんでした。以上でございます。 ○田中座長 ありがとうございました。昔、大学に入った41年前に、物事を再現性のある 方法論で考えるのが科学であると教わりました。私は経済学分野ですが、そうした科学の 本質に気がついて大いに感激した頃に帰ったようです。もう1つ、考え方を考える学問、 メタレベルで考える学問があると知り、哲学書を読み感動したことを思い出しました。あ りがとうございます。続きまして、南先生よろしくお願いいたします。 ○南先生 本日、このような機会を与えていただきましたことを、大変光栄に思いますと ともに、緊張しております。私は鷲田先生の哲学から大変具体的な話に入っていきますが、 今日の立場は、日本学術会議の会員でもあるということで、学術的なことも含めるように ということですが、言いたいことがたくさんあるので、そちらは大変少なくなるのではと 心配しております。ただ、1点だけ、日本学術会議の看護学分科会において、先ほど鷲田先 生がおっしゃっていた初等教育おける「いのちのケア」というのを、看護学として取り組 んで、提言していきましょうという動きがありまして、井部先生が参加されています。  初等教育で看護を教えるという鷲田先生のご提案は、おっしゃるとおりだと思いますし、 私は個人的には看護学は教養としての看護学というのがあっていいのではないか。だから、 看護学部の入学者は全部看護師にならなくてもいいという発想の転換が必要なのではない かと思っています。ただ、看護学教育では大変看護師が少なく足りないということもあり、 同時に看護師教育にかけるエネルギーの大きさを考えると、やはり資格も取ってもらいた いということがあって、看護学教育現場のジレンマもあると思います。  私は国際的な側面と教育者との視点の側面で大きくは3つお話したいと思います。1つは 国際的にグローバルに考えて行動できる人をどうやって育てていくかという話。もう1つ は看護の範囲、仕事の範囲をどう考えるか。そして看護学教育の問題です。この会では20 年後を考えろと言われていますが、たくさんの変化が起こってくるだろうと思います。地 球規模のヘルスニーズがどんどん起こって、鳥インフルエンザも目前の問題ということに なってきます。日本は島国ですから看護界も大変島国的で、日本のことしか考えていない 傾向が、私も含めてあると思います。アジアだけを見てもASEANではすでに、看護師の 免許の相互認証の問題は動き始めていますし、グローバルに問題を考える時代であるとい う観点で、その話から始めます。  世界の健康問題というのもいろいろあるのですが、非常に人口の増加が目覚ましいこと と、その人口が集中してあるということ。そして、世界の健康格差はすさまじくなってき ているということと、日本の医療従事者の数は、先進国と開発途上国の中間にあって、い つも私たちは大変苦しいところにあるということの結論のバックのデータです。  人口はいま66億5,500人で、これは刻々と変化していて、1年に8,000万増加していま す。2050年には91億になると国連は予測していますが、いまは人口の全体の4割が中国 とインドにある。だから、人口問題を考えていくときに中国とインドに何が起こっている か絶えず私たち自身も自覚する必要があるでしょう。アメリカでさえも3億ですから。  健康の格差という点から、寿命の問題を考えても、日本は最も長寿国の1つで、これだ けの年齢で楽しんでいるのですが、短命の国ではその半分もないと言われています。多く はHIV、エイズの影響ですが、こんな格差があっていいのかという問題意識です。亡くな る原因は三大疾患のほかに、世界では伝染病が最も多いということを認識していくことと、 健康問題の間接的な死亡原因として大きなインパクトを持つ栄養不足の問題、貧困の問題、 また日本の場合も関心があるのですが、たばこの問題や自然環境、社会環境の問題を健康 問題としてどう捉えていくかという点が大事だと思います。  国連はご存じのように2000年にミレニアム開発目標を掲げました。こういうことを 私たち日本の看護者はどういうように取り組むべきなのか。これはよその国の問題ではな い、自分たちの国の問題であるという認識をどのように持ち得ていくのかが1つの問題で はないかと思います。  貧困の問題はいままで日本が終戦後、右肩上がりの経済の中で、貧困からだんだん離れ ていく者で、看護者も看護教育の中で貧困の問題をまともに取り扱ってないと思います。 しかし、世界の大半の国々は貧困の問題は看護教育の中では重要な課題で、15億人が極貧 であり、その日最低食べないとその身体が維持できる食糧が得られないということです。 極貧の人のうちの70%が女性だということです。また、そういう国の人々が発展途上国で すが、病気はほとんどその国で起こっていて、90%がそこで起こっています。しかし、そ の大半の病気を持っている発展途上国が使える資源は10%だけである。このことを私たち はどう考えていくのかということです。  2003年のWHO総会でその当時の事務局長がおっしゃっていたこれらの課題というのは いまもって、大きな課題です。しかしこれは問題であって自分の国の問題ではない、よそ の国の問題といままでは捉えられがちです。特に日本の医療の現状の中の大半はそういっ た発想ですが、これらの中の多くがこれからは我が国が直接的に影響を受けるということ になります。  もう1点は、私たちの看護教育では、通常の状態に対してケアをどうしていくかという ことが中心に行われています。阪神大震災、地下鉄サリン事件以降、日本でも災害への注 目がされていて、教育の中でも取り上げられ、最近の看護課の改定の中でも、災害看護が カリキュラムに組込まれるようになりました。日本では、自然災害というのは非常によく 分かるのですが、世界的に見れば人為的災害が43%。日本だって起こっているので、その 問題がまだ手つかずだなと思います。  なぜ日本の看護界は特に災害を取り上げないといけないかというと、災害の発生率が最 も高いのはアジアであり、日本は自然災害が非常に頻繁に起きている国です。被災者の数 にするともっとすごいのです。被災者の68%はアジアです。  鳥インフルエンザの問題は私はいちばんアジアの会員として頭が痛いし、また、学長と しては大学の中で、どう準備していくかというのが、すごく頭が痛いですね。例えばスペ イン・インフルエンザが1918年に起こったのですが、5,000万人から1億の人が死んだの です。2004年にこれが同じ病気が発生したら世界でどれだけ死ぬだろうかという推測の学 問があるのだそうで、「ランセット」に掲載された論文によりますと、やはり5,100万人の 人が死ぬということが言われています。鳥インフルエンザが日本に発生した場合、65万の 死者が出るという推測が出されていますが、私たち看護界ではほとんど手つかずに、いま いるのだと思います。  人口の高齢化の問題は日本の問題だけではないし、慢性疾患の問題は発展した国だけの 先進の国だけの問題ではないのです。慢性疾患の80%は収入の低い、または中程度の国で 起こっていますので世界の課題です。肥満の人が10億人いると言われていますが、特に子 どもたちにこういうことが発生している。このことをどういうふうにとらえていくか。  こういう世界の問題に対して取り組んでいる保健医療従事者はどれだけいるかというと 5,900万人です。非常に多い割合で看護職が、主な担い手です。しかし、そういう従事者の うち3人に1人はアメリカとカナダで採用されていて、世界では400万不足というふうに 言われています。また、日本の看護師の数が人口対比に対して少ないというのは、新聞等 でも報道されたところです。この数字の持つ意味というのは、私たちは大変厳しくて、こ れは対人口比ですが、対ベッド比だともっと厳しい状況になっています。しかし、先進国 ではそうですが、近隣の発展している隣国と比較すれば、これだけの数字の違いがあって、 これも健康格差を表しているということになります。私たち看護職が日本に入ってくるこ とでディスカッションされている国々は、それぞれの国をどう変えていくのか、数はこれ だけのことなのだという問題があるということです。  いままで述べた地球規模の問題をどう日本の看護職に活かせていただけるかということ ですが、もう1つは、これはもう皆さん議論しているので私は触れることは、あまり言い たくないのですが、長寿を全うする人々を支える保健医療福祉システムは、いま高齢者医 療の問題が大きな話題になっています。私たちは、長寿を全うするということは老人の看 護をですね。老人の看護を究極の看護に生きる仕組みづくりを、老衰をどう定義するかは ともかくとして、看護者が支えていく大きな分野だろうと思います。  先ほど鷲田先生もおっしゃっていたのですが、健康ニーズは個別化していきます。一人 ひとりにその人の生活に合わせた、その人の生きざまに合わせて、その人が選んでいける、 そういうサービスシステムを構築していかなければいけない。いまの福祉の制度は看護職 というのは患者中心の看護をやっていると自負しているのですが、パターナリズムがある と言われても仕方がない部分というのはどうしてもあるのです。私たちは本当に個別化し たサービスが、できているか。この個別化でサービスできる看護教育は何かという課題だ と思います。  20年後というと、もう宇宙時代の感ですが、もう20年後はリアリティーだと思っていま す。ナノ、ピコ等の科学の進化に伴って看護も変わる必要があると思います。看護は脳科 学の10年の時代に遅れましたし、遺伝の医学に対しても看護学はかなり追い着いていると は思えません。最も新しい科学、自然科学系の発展に対しても付いていけていない部分が あって、これらの部分を誰がどうやって教育するのか、実際に私たちも遺伝看護学を科目 として置きたいと思っても講師がいない、脳科学を本当に教えられる講師がいない、それ が看護学の現実だと思います。  ではどういう人を育てて、どんなことを看護界に期待するか、私はグローバルに考えて ローカルに働く人を作っていかなければと思っています。  それと状況の変化を先取りする人、例えば私が40年前の学生時代に高齢化時代はくると 言われていました。それに対して看護界は、長年準備しなかった。メンタル・ヘルスの時 代がくると言われて久しいのに、いま、大学では柱が立っていますけれども、まだまだ十 分ではない。  医学が状況の変化を先取りするのに較べて、看護界でなぜそうでなかったか。私は日本 の看護職は素晴らしいと思っています。大規模災害、社会の危機において、看護職はすご く献身的ですし、意欲もありますし、何かが起こると必ず現場へ真っ先に出かけて行くの は看護者です。特別に準備されていなくても、そこでできることというのはたくさんある。 しかし、準備されていなかったらできないことがたくさんある。そういう意味で大規模災 害等への危機管理、例えば看護系の大学、看護学校がたくさんありますが、看護系大学の 教員は鳥インフルエンザに対する支援の予備軍として登録される仕組みが作られているで しょうか。もったいない。大学院生が全部組み込まれる仕組みが作られているでしょうか。 私は兵庫県の中でやりたいと思っています。こういうことを先取りしていく仕組みづくり が必要なのだと思います。  もう1つは、委員の皆さんにはデータの中ですでに示されている看護職の高齢化。これ は後でお示ししますが、日本の場合には出産と育児で辞めていく看護職が多いから、平均 年齢が30代半ばくらいで、ずっと維持されているのですが、世界は労働環境がよくなって、 出産、育児等で辞めなくなると必ず看護者の高齢化がまいります。看護職はそのときどう いう体制を整えたらいいか。データとしてはアメリカの調査です。看護職の平均年齢です。 1996年代40歳を越えていて、いまは限りなく50歳に平均年齢が近付いてきて、54歳以 上で25%、35歳以下が17%、いまは若くて、元気のある3交替制のできる看護職を基盤 にして看護体制を考えていますが、それができない時代がくる。それを維持していく場合 には、何人整えていけるか。数だけの問題なのだろうかという問題もあります。また、医 療の発展と看護の質の保証のために免許の更新制という、教員の免許の更新制というのは 現実になって文科省ではされていますが、医療従事者の免許の更新制というのは、タイで はもうすでに実際に行われています。免許更新をやられている国々も多いので、日本も考 えなくてはいけないと思います。看護者の役割拡大に本格的取組みが必要である。   社会のニーズはどんどん変化していって、少子・高齢社会におけるヘルスニーズの変化 は皆さんご存じのとおりで、医療経済の見直しは必須と言われています。私たちの立場か ら言えば、医療経済をもっと豊かにしてもらいたいということを、いろいろな組織から言 うべきだと思います。医師の地域偏在、診療科偏在の問題が日本学術会議でもいま取り組 んでいただいていますが、こういう問題は看護職の者に期待されているものとして出てき ていますし、若手医師のニーズは変化しています。昔のように私生活を忘れて仕事をする 医師の割合が、どんどん少なくなってきているし、それは当然というふうに思います。病 院医療と地域医療のあり方も変化してきて、病院から地域へというのは確実に本当は移行 している。それは世界的に見ても同じ傾向です。また、科学や科学技術の発展、そういう ものがあると私は考えています。  そういう中で役割拡大の問題を避けて通れない考えとして、もうすでに厚労省のほうか ら12月28日に出された、それまで私たちがしてはいけないかなと思っていたものをして いいですよ、状況さえ整えばやったほうがいいですよ、という通知があって、私は心強く 思います。認定看護師・専門看護師等のそのことも、役割拡大に確認してもらいたいと思 うし、いまは保助看法の下で専門家の仕組みを作ってきましたけれども、高度実践看護師 の場合は法律の解釈とか厚労省の法律解釈がいろいろなされなければいけないもので、し かし、世界ではもう高度実践看護師というのは動いていけるということだと思います。  では、看護界は準備ができているのかという問題です。看護師等の規則に加え、大学化 がどんどん進んでいますので、基礎教育は向上していると思います。ここで間違ってほし くないのは、私は看護大学を作っていくことを推進している人間だし、私は看護教育は全 部大学化すべきだと思っている人間です。それはなぜかというと、いままでの専門学校を 卒業した看護職の質、それを担保するためには、これからは大学しかないと考えるからで す。決してリーダーを育てるために看護教育は大学化すべきだというふうに言っているつ もりはありません。むしろ終戦直後、高卒3年を看護教育にした段階では、あのとき中学 校から高校への進学率は38%でした。いま高校から大学、短期大学の進学率が女の子でも 50%を超えています。この時代に中学校から高校に進学したそんな低いときでさえも、高 卒3年と設定した教育制度を担保するためには、基礎教育は大学でなければ質のよい人を 看護界に引き付けておけないと思っています。その流れの中で看護大学が増加してきてい ると私は思っています。  一方、卒後教育が加速度的に促進しています。看護系の大学が増えるということは、修 士課程が増える、博士課程が増えるということです。日本でも随分修士、博士が増えてい ますが、世界でもすごく増えてきています。同時に専門官の新認定看護師制度が日本では できましたが、こういうスペシャリゼーションは一般の基礎教育が大学化していく進行度 に比べると、むしろスペシャリストの大学院の成績が世界では驚くほど進んできています。 私は医学が専門医制度でどんどんと人間を臓器別に診ていくという専門医制度の作り方に 関して、ジェネラリストとの関係を明確にしていかなかったその流れについて、疑問を持 っている人間です。日本の専門看護師と認定看護師を作っていく過程の中で、いちばん心 がけたのが一般ナースを支える専門看護師、認定看護師という発想です。  みんなが専門看護師、認定看護師になれるわけではない。スペシャリストになるわけで はない。むしろ患者の前線にいる、国民のそばにいるのがジェネラリストだというのが発 想です。しかし、ジェネラリストが全部の看護の知識を身に付けるわけにはいかない。そ のためのスペシャリスト制度を作っていくというものを、看護界は自らが看護協会や看護 大学協議会、学会、ありとあらゆる組織が一緒になって作ってきています。この制度を看 護協会の制度だからといって、無視してほしくない。きちんと質の担保を随分苦労して作 ってきたということを国も見てほしいですし、看護協会も、そろそろ第三者機構にこの制 度を乗せていかなければいけない時代が来ているのかもしれないと私は思います。  看護師等の個人的向上心のコミットメントの高さは、日本の看護師は世界随一だと私は 思います。看護協会では毎年、いま11学会ですか、行っているのですが、そこに一般のナ ースが満杯状態です。こんなに一般ナースが学会に出て「学会に発表しないといけない」 と言うほどモチベーションの高い看護界が世界にはありません。  それとともに、看護師等個人の向上心が高い。世界的にも向上心は高いのですが、日本 の看護師は放送大学の利用率も高いし、専門学校から大学への進学率も、ものすごく努力 して、高いので、そういう意味で役割を拡大していく背景がかなりあると私は思います。  また、組織の質保証に対するコミットメントも非常に高い。看護協会もそうですが、ほ かの組織も、看護の質を保証したいということで最大の努力をしていると思います。その 他さまざまなことで、看護界全体が質保証、そして私たちの能力を高めていく努力をして きたし、国もそれをバックアップしてきましたし、更にそれができていく仕組みが出来て いると思います。  この後は看護師の方はご存じなのです。専門看護師は大学院修了後、大学院を修了した らすぐに資格をもらえるなどという制度は作りませんでした。臨床家が納得のいく能力が あると認めた人しか認定していない。認定看護師も、そうです。エキスパートナースでな いと認定されませんので、そういう意味では資格の質がすごく担保されていると思います。  なぜ役割拡大と言うかというと、看護職のためではないのです。安全で安心な、そして 納得のいく医療を受けることを促進するために、看護職の役割を拡大することが必要だと 思います。  ちょっと理念的なところも必要かと思います。看護の説明をするときに、私はよくこれ を使います。現象として、人が健康状態を持ちながら環境の中で生活しているという知識 体系です。人の生活と健康状態の接点に働きかけていくのが「キュア」の機能。人の生活 と環境との接点に働きかけていく機能を「ケア」というと思います。キュアはどちらかと いうと、先ほど鷲田先生がおっしゃっていた、自然科学系の学問の中核として発展してき た学問で、ケアの学問は、どちらかというと、人間科学的な発想を基盤にしていると思い ます。そして、看護学はこの両方にまたがる相反する現象を自分の中に取り込んで、客観 性のあるキュアの仕組みを個人のケアとして、アートとしてそれを使っていくことができ るもの。そういうものをどのようにして学問として培われるのか、教育としてそれをどう 伝えていくのか、それを私たちがずっと模索しているところです。そして、こういう2つ の側面を持っている特殊な職種であり、かつ、十分それが高まってきたとき、看護職の役 割拡大ができていくことになります。  医師法がいちばんパワーが強いのですが、医師法では「医業」という定義をしていまし て、医師でなければ医業をなしてはならない、医師以外の人は医業をしてはいけないと言 っているわけです。医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ、人体に危害を 及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為を医行為と呼ぶ。そして、それを反復継続す る意志をもって行うことが医業である、と。これはつまり、職業とするということなのだ と思います。  保助看法は、医師でないとできないことの中の一部を、医師の指示の下で行える行為を 規定するものとして置かれています。37条で「してはいけないこと」が規定されているの ですが、看護界としては大変不自由を感じているところが実際にはあります。臨時・応急 の手当等で一時的にやっていることはかなりあるけれど、恒常的に反復で行えるというこ とに関して、私たちがどこまで、何ができるのだろうか。ここで「してはいけない」と言 われている「診療器械を使用し、医薬品を授与し、医薬品について指示し、その他医師又 は歯科医師が行うのでなければ衛生上危害を生ずるおそれのある」と書かれた表現があり ますが、世界では、ある部分、看護職ができる仕組みになってきています。日本は非常に 具体的に「医療器械を使用し、医薬品を授与し、医薬品について指示し」と規定している ために、医師法ではもっと円やかに表現しています。医師法では「医学的判断及び技術が なければ」と言っているので、医学的判断が必要でない部分のものに関しては、他の人が かなりできるのだと読み取れるところがあるにもかかわらず、保助看法でかなり狭くして いるところがあるのだと思います。  今後を考えていくとき、医師又は歯科医師でなければ、判断・処方・行為をしなければ ならないことはたくさんあると思いますが、医師又は歯科医師の指示があれば、その枠内 で看護師たちが判断し、行為を行うことができる。そういうものとしては、ある患者さん の、すべての処方は医師がするというもの、それから、痛みがあるときはこれをしなさい、 熱が出たらこれをしなさいとかと言って、その患者さんに特定のもので一定の条件下にお ける共通指示があるし。また、患者さんを特定しないで、プロトコルで医師と看護職の間 での同意があって包括指示が全体としてある、という場合も当然あるのです。  しかし、その他のものはないのだろうかということなのです。こういうことを考え続け ていくことを看護界から提案しなければいけないのですが、私の知る限りでは、今まで裁 量権の拡大について看護の組織の中から政府に向かって提言したという経験がないのです。 だから、今後どうしていくかということが大切なのです。  看護教育の世界の動向についてはかなり言いましたから飛ばします。これは日本の看護 教育の中でもかなり考慮されているのですが、ICNとしては、科目で特定しないで能力構 成で特定してカリキュラムを提案していくという仕組みを作っており、それが大きな柱に なっています。専門的、倫理的、法的実践にかなり大きく重きを置いていますし、専門性 の開発として、専門性の強化、質の向上、継続教育を基礎教育の中できちんと押さえる、 そこを強化していくと言っているわけです。これはなぜかというと、看護職が非常に少な い国では、看護職がこういうことをきちんとできていないと、その世界が保てないという ことがあるわけです。  中心になるのがケアの提供と管理です。左側は日本でも多くやられているのですが、右 側の「ケアの管理」、特に委譲と監督の部分は、今の基礎教育の中ではほとんどされていな いと思います。  これはなぜかというと、日本の看護界がスキルミックスの考え方を持っていないからで す。スキルミックスが当然の所、または日本のように今ケアもキュアも多くの職種が仕事 をしているときに、看護職から何を委譲していくかとか、看護職が何について責任をとる かということに対して、ケアの専門家である看護職の判断が、今まで教育の中で示されに くかったと思います。  時間が来ておりますが、もう何点かお話を申し上げたいと思います。18歳人口には限度 がありますから、私たちが看護職の数を確保していくためには社会人を獲得していくとい う本格的な仕組みを作らざるを得ない。そのためには、今までのような固い教育の体制で いいのかということが1つ問題であろうと思います。メソッドとしても、遠隔看護、通信 教育を入れられないのか、年限も3年とか4年とかと限定しないといけないのか等、いろ いろなことを考えないといけないと思います。  基礎教育の中で全部できるようにしておくのが教育なのかというと、そうではないと私 は思います。助産師の場合は10例を取り上げないといけないのですが。免許を持っていな い助産師が独自で8名目か9名目には自分で赤ちゃんを取り上げますが、国民の安全性の 問題から見たとき、こういうことが大丈夫なのかという疑問が一度も出てこない。免許を 持った後にできることと、免許を持つ前にできることとを区別して、医師だけではなくて、 取得直後の研修を課していく。全部に課すわけにはいかないと思うのですが、そういう道 を開いていくべきだと思っています。  看護師の基礎教育は、アメリカの例で言うと1980年代には大半が専門学校で行われまし た。しかし今は短期大学や大学が大半になっています。これは基礎教育ですので短期大学 が多いのですが、次のデータで最終学歴を見てみますと、看護職は大学や大学院修了者が 非常に多いことがわかると思います。アメリカのような所でさえも、看護職は進学意欲が 非常に強い。日本はもっと強いと私は思っています。  大変端折りましたが、結論は、グローバルに考えてローカルに働く。安全監視を保証し、 質の高い看護サービスを提供する。そういうことのできる看護職を輩出したというのが世 界の形だし、日本の形だと思います。ありがとうございました。 ○田中座長 南先生にはグローバルな視点から幅広くレクチャーをいただき、ありがとう ございました。それではお二人の発表に対して質問や意見を募りたいと思います。ご自由 に、どうぞ。 ○梶本委員 鷲田先生、南先生、今日はどうもご苦労さまでした。朝日新聞の梶本と申し ます。私は看護の専門家ではありませんので、いわば素人の立場から質問をさせていただ きます。  看護師の仕事は何かと私なりに考えてみますと、法律では「療養の世話と診療の補助」 とあるので、この2つが基本だと思います。「診療の補助」の先には、更に専門性を強めた ところにお医者さんがいるのだろうし、「療養の世話」というのをもっと一般化したところ に、身体介護や生活支援をする介護ヘルパーの方々がいる。いわば医者の世界と介護士の 世界の間に看護師の仕事があって、医療的な専門知識を駆使する場面と人間的なコンタク トをされる場面の両方をやっていかなければいけない。その意味で、看護教育はそんなに 一律に、簡単にできないなという印象を最近は持っています。  鷲田先生のお話を聞かせていただいて、知識としての専門性、あるいはメチエの経験と しての技、そして誰もが持っている素質のようなものを磨いていくという、かなり複合的 なことを教育が必要だということが分かりました。それを一言で言うと、人間と人間、患 者さんと専門家という関係の中で臨機応変に対応できるということ。これが鷲田先生のお 話の中のキーワードだと思いました。つまり、「人間としての成熟」といわれるようなこと がないと、患者さんとの間で、「私に任せようね」でもないし、「全部あなたが考えてくだ さい」というわけでもない関係がつくれない。その辺の「臨機応変の対応をしていく」と いうのは相当難しく、それを教育の中で本当に教えていけるのかなという感じがしました。  人間としての成熟というのは、学校教育の3年間ぐらいで簡単にできるようなものでも ないと思います。しかし、それを看護師の仕事のキーワードとしておっしゃられたので、 これの教育をどのように考えたらいいのか。学校の中で何を教えたら、そういうことがで きるのかということについて、もうひとつ突っ込んでお話をお聞かせ願えたらと思います。  南先生のお話ですが、看護教育については、「看護職の役割拡大」という視点で考えるべ きだ、という点が非常に印象に残りました。私の受け止め方では、さっきの分類で言うと、 診療の補助というようなところでもっと専門性を身につけて、さらに簡単な診療の中身ま で飛び込んでもいいのではないか、そういうことができるのではないかというものです。 昨今の医師不足を見ていてもそう思いますし、将来的にも、もっとそういうことが求めら れてくるのではないかと思っています。そこは非常に共感しました。他方、鷲田さんのお 話を聞くと、これは療養の世話にも大きく関わるのだと思うのですが、看護師の仕事は人 間としての成熟だとかメチエの部分が絡んでくる。医学の専門性をどんどん身につけてい くという部分、それから経験とか素質みたいなものをどう磨いていくのかという部分は、 どう絡み、その辺のバランスはどうなっていくのかと思ったわけなのですが、南先生にそ のあたりのお話をお聞かせ願えればと思います。 ○鷲田先生 大変難しい問題です。先ほども、看護の問題を教育の問題とパラレルに見る ことができるのではないかと言いましたが、先生にも同じことが言える。本当は、先生と いう仕事を十分にできるためには、人間的成熟が必要なのですが、先生がすべて人間的に 成熟されているとは限らないわけです。未熟な人がこの仕事にあるパーセンテージで関わ っていらっしゃるというのは最初から1つのリスクとして計算に入れた上で、組織の設計 や教育内容の設計をしなければならないと思います。100%全部成熟した人を養成すること は不可能なことだと思います。  そうしますと、結局、個人の能力あるいは個人の素質で100%実現できないこと、それに 全部期待できないけれども、しかし、より良い看護が実現できるように教育に力を入れて いくと考えたときに何をすればいいのか、ということになろうかと思いますが、それは個 人の能力というよりも、看護という専門職の方が立たれるポジション、もし、その人がす ぐ限界に来たら誰かが簡単に交替できるような、そういうポジションが一体何かというこ とが重要だと私自身は思っております。  これはどういうことかというと、教育に絡めるとお分かりだと思うのですが、近代社会 で、教育というのは、教える人と教えられる人、つまり学ぶ人になったわけです。つまり、 学校という場所で教育が集中的に行われて、教えるほうは先生、学ぶほうは生徒という関 係になったわけです。その中で、ちゃんと教えられないで、いろいろな不祥事が先生の側 にも、生徒の側にも起こるのでどうするかというときに、教育のあり方、カリキュラムを どうしたらいいか、先生をどういうふうに養成したらいいかと考える。そっちのほうに解 決策が行くわけですが、もう少しカメラ・アイを後ろにやって考えたときに、より先なる 世代が後の世代を教えるということを本当に教育として考えていいのか。教育といったら 「教え育てる」ということで考えていいのか。  そうではなくて、逆に、子どもというのは教えるもの、あるいは育てるものではなくて、 育つものと考えられないかというのが私の考え方なのです。つまり、大人が教育あるいは 子育てという名前でできる本当のことは育てることではなくて、子どもが勝手に育てるよ うな場とか環境をどう造るか、それが大人の本当の責任ではないかと思うのです。  それと同じことから看護教育でも連想できないかと思っています。というのは、私がま だ子どものとき辺りまでは、育てるというよりも、子どもが勝手に育つ環境というものを 親たちの世代が用意していたということがあります。それは具体的にどういうことかとい うと、先生だけが育てる係り、教える係りではなくて、例えば近所の商店街の方とか、み んなが見ない振りして、ちゃんと子どもたちのことを見ていた。つまり、先生のように真 っ正面で、対面で教える相手でもなければ、私はよその子だから教育には関係ないという ような第3者のポジションにつくのでもなしに、第2.5者といいますか、対面のポジショ ンにつく先生でもなければ、第3者「私は無関係ですよ」というポジションでもない。近 所のおじさん・おばさんが、あの子、このごろ何かおかしいな、ふさいでるな、危うそう だなとかというのを、見て見ない振りして、でも遠目で見ているという「2.5者のポジショ ン」を担ってくれる大人たちがいっぱい地域社会にいた。直接には先生が学校で教えてい るのだけれども、実は、地域の人たちが2.5のポジションで、見ない振りをしながら、ちゃ んと見ていた、あるいは時に諭していた、そういう「2.5のポジション」にいる方がいらっ しゃったと思うのです。  看護も学校の先生と同じように、患者さんに対して「第2のポジション」にいるという のはかなり難しいことだと思うのです。看護が対人の営みである限りは、どんなに立派な プロフェッショナルでも、どうしようもない。反りが合わないとか、「私がこの患者さんの 前に行くと、うまくいかないんだ」というような場合があると思うのです。かと言って、 合わないから無関係、もう私はただの専門的な職業人に徹して、パーソナルな接触はやめ る、などと第3者の場所に引き下がるのでもなくて、「2.5の場所」で、今回私は担当から 外れて、別の人に担当を替わってもらう。でも、自分は2.5の所でずっと見ている。個人の 資質にすべて還元するのではなくて、2.5というポジションで遠目に複数の人間が見ている、 そういう緩い関係にまで戻す。そして、2.5の場所でどういう仕事をちゃんとするかという トレーニングをする、そのことに意味があるのではないかと思っています。  少し比喩的な言い方ばかりになりました。先ほどは、相手に合わせないで自分で全部や るのは駄目だ、第3者の立場は危ないと言いましたが、だからと言って、プライマリーケ アの中で起こってくる感情をも巻き込んでしまうようなディープな関係、パーソナルな関 係でやったら絶対に続かないですよね。かえって、そこにはケアという名前の主従関係、 すごいどろどろした関係にまで嫌でも追い込んでいくという面もあろうかと思います。だ から、おじさんやおばさん的に2.5の場所にみんなが交替で立てるというような、全く責任 をとらないわけではないけれど、全部自分一人で責任を背負うのでもないおじさん、おば さん的な場所というのが看護師、場合によったら医師の資質としても重要になってくるの ではないだろうか。もちろん、手術しなければならないような病気は別個にして、我々が これからの成熟社会の中で直面する病気のかなりの多くの部分というのは「治す」のでは なくて「付き合う病気」、あるいは仕事をしながら、同時に治療もするような病気が多いと 思うのです。透析もそうだし、精神疾患もそうです。そのような、ずっと長く付き合う病 気、仕事をしながら治療をする病気が増えてきたときに、お医者さんも看護師さんも、単 に全部引き受けて治しますよという感じの、2人称の位置ではない、2.5のポジションでじ っと見ているという、そんな関係性みたいなものが必要になってくるのではないかと思っ ています。 ○南先生 フローレンス・ナイチンゲールは、看護教育は大人に対してやる教育だと言い ました。実際、デンマークはそれをかなり長い間守って、15、16年前まで、高校を卒業し て直接進学させるのではなくて、必ず社会人になるということを課していました。大人と いうのは心の成熟だと思うのですが、看護職というのは、それぐらい精神の成熟が必要な 職種だと思います。看護教育はそれをすごく模索してきたし、医学部と比べた看護教育の 特徴は、そこに焦点を置いてきたことだと私は思います。きっと先生も感じていらっしゃ ると思うのですが、現象学だとか、臨床の知だとか、暗黙の知だとか、そういう本当に人 の分かり方を、自然科学ではない分かり方で分かりたいということで、いちばんよく勉強 しようとする職種は看護職が多いのではないかというぐらいに、現場のナースは模索して いるし、教育の中でもそれをやってきたと思います。  具体的に言うと、知識教育は看護教育の一部分です。例えば18歳の学生が入ってきたと しますと、その学生は、18年という人生を背負っていますし、自分の家族があって社会が あり、そこからスタートしています。教育が白紙から始まるなどというのは嘘ばかりで、 白紙からは始まらない。18年の歴史から始まるのです。  しかし、18歳のAさんとBさんは違うので、Aさんがある知識を得たときの感覚とB さんが同じ知識を得たときの感覚は違うのです。  そして、それを教育していくのが実習です。例えば、1人の看護学生が1人の患者さんに 出会うという場面の中で、患者さんの問題を抽出し、解決していくという自然科学的な手 法だけではない。問題があるので、それも必要なのですが、それだけではない。同じ病名 で同じように咳をしていても、患者のAさんと患者のBさんは違う背景の中で咳をしてい る。それに出会う学生も違う感覚を持ち、そこからスタートするというのが実習です。  看護教育は、いままで先生のおっしゃるメチエの世界を随分大事にしてきたと思うので すが、それでありながら、自然科学的なアプローチと人間科学的なアプローチ、私はそう 言っているのですが、人を一人の個別の人として理解し、感じ、そして対応する。その2 つを併せ持っていくというのは難しいことなのです。例えば、私はいま腱鞘炎で痛みがあ るので、いろいろな職種の人に聞いてみるのです。看護職で博士課程に来ている学生、み んなベテランのナースなのですが、彼らに聞いたのです。そうしたら、その人たちがすぐ に聞くのは、何が原因か、どんな症状があるかということだけです。やっているモデルは 医学モデルです。そこから先にやり始めるのは、あなたの左手はどれだけ利くかというこ との生活アセスメントはしますから、生活のアセスメントしてくれるけれども、入ってく るのは医学モデルなのだね、それが鍼灸の人と違うのだというのを実感的に体験している のです。  これは大変難しいことで、看護教育界も努力してきたし、看護職全体でも努めてはいる けれども、このメチエの分かり方というのは伝わりにくいのです。一人ひとりが解決して いかなければならない分かり方なので、なかなか分かりにくいというところがあって、い つも成功しているとは限らない。  しかし、一般に看護職が患者さんに評判がいいのはこのせいだと私は思っています。看 護師が優しくて、と患者さんは言います。私は昔、看護師は優しかったらいいのだと言わ れるのは侮辱的だと思っていたのですが、さっき先生がおっしゃるような意味で、そうで はないということがよく分かるようになりました。つまり、深い意味があると。優しい看 護師になれるのはなぜかというと、看護師一人ひとりが模索しているからだと思っている のです。でも、どう分かっているかという「分かり方の学問」もまだ発達していないし、 それの使い方もできていないと思います。  私への質問は、役割拡大は診療の補助行為への役割拡大かということです。その方法も もちろんありますが、看護職の特徴はキュアとケアをドッキングしたところにあります。 例を申し上げますと、いま産婦人科医がすごく少ない。昔は助産所というのがあったので すが、その助産所の数が少ないので一般の人にはあまりよく知られていない。  いま分かってきたのは、院内助産所というのを作り始めた病院が多い。しかし、院内助 産所で行われている助産行為と産婦人科医が行う助産行為は違うのです。場の設定に関し て違いがあるのです。もちろん、病院によって随分違いがあると思うのですが、例えばど ういうことかというと、助産の考え方で言えば、お産は自然な営みであるから、分娩台に 上がって分娩するというのは分娩ではない。むしろ自然の中で、その人が産みたい場所で 産めるようにする。例えば、お風呂の中で産みたい、階段のような所で産みたいという場 合があるのです。そして、助産所では実際にそれをやっていらっしゃるのです。しかし、 それは日常生活上のケアの理念がないと、できないわけです。自然科学的な今までの形で はできなかったことで、看護師が営々として培ってきたケアの部分と産婦人科医がやって いる部分がある。病院の助産師は往々にして、自分でも取り上げていたのだけれども、今 までの病院は医学モデルでやってきたので、医師が立ち会っていないといけないとか、医 師が最後は取り上げるとかいう条件を付けているのです。しかし、そんなことをしなくて も、ノーマルお産は助産師でできる。それは決して診療の補助行為の拡大ではなくて、診 療の補助行為とケアをドッキングした、特殊な能力を持った専門職として助産師が成長し ているからだと思います。  救急のセンサーで入ってきたときに、トリアージをしますが、そのときにも、命の危機 だけでアセスメントするのか。命を持っているのは一人ですから、当然、それに付き添っ てきた家族がいるわけです。両方の視点がないと、本当のトリアージはできません。今度、 教育を特に受けた人であれば、救急第三次医療の場合でしたか、そこで看護職にトリアー ジ的なことができるようになったというのは画期的なことだと思います。あれはケアと、 もちろん命の蘇生術もできるし、いろいろなことができる。救急救命士の持つような能力 もある程度できる特殊な教育を受けた人だけれど。それは確かに診療の補助行為の拡大な のだけれど、同時にケアもできる。  私たち看護師がトリアージをやると、かなり違ってきます。救急車に乗ってきた患者さ んはパニックになっています。パニックをまず収めるというところから始まらないと、救 急は始まらないのです。それを看護師は今まででもやってきたのですが、それを制度化し ていなかったので、そういうことを認めていただくということだと思います。 ○田中座長 ありがとうございました。尾形委員は、いかがでしょうか。 ○尾形委員 鷲田先生、南先生、ありがとうございました。九州大学の尾形です。折角の 機会ですので、1つずつ質問をさせていただきたいと思います。  まず鷲田先生のお話ですが、哲学という立場から、非常に根源的な考察、深いお話で、 いろいろ考えさせられました。中でも、看護の専門性が学校の教師の専門性に似ていると いうのは、全くそのとおりだと思います。いい教師というのは狭い意味での専門性の枠を はみ出なければならない。実は、私も専門職大学院で教師をやっているものですから、こ れはなるほどと思いました。  私の質問ですが、看護の専門性に関して何点かお話がありました。メチエ的領域におけ る知恵や技なのか、それとも科学としての専門性なのか。それから専門家主義の危うさ、 あるいは臨機応変に対応しうる専門性、それから人としての成熟というお話がありました。 確かにそのとおりだと思うのですが、考えてみますと、いま挙げられたような要素という のは看護だけに求められるものなのかとも思います。広く言えば医療、狭く言えば臨床家 としての医師にも共通した面がたぶんあるのだろうと思うのですが、医師との対比という 意味で、看護職のこれらの問題についての位置づけや特性というものをどう考えたらいい のかという辺りについて、補足的で結構ですのでお話いただければと思います。 ○鷲田先生 その点で私ははっきりしていまして、お医者さんはみんな看護師さんでなけ ればいけない。つまり、看護師さんの素質のないお医者さんに診療を受けたくないという 思いがあります。これは南先生の最後の大きな部分にありましたが、概念として、医療も すべて、ケア行為という大きなカテゴリーの中で、いわゆるキュアというのは1つの特殊 な例として考える。そして、キュアを専門とする人も、素質としては基本的にケア全部が できる、そういう能力をベースに持っていらっしゃらないといけないのではないかと思い ます。  ただし、ケアというのは一人でやるものではなしにチームでやるものです。病院でした ら本当のチームプレーで、みんなで方針を決めて相談し、そして伝達します。地域医療で も、担当者が変わってもうまくいくというような仕組みを作っておかないと、単なるパー ソナルな、この人にはこの人しか駄目だというような関係では動かないと思っています。 だから、そういう大きなケアのチームの中の1つの役割として、お医者さんというのは必 要なのだと思います。  先ほど梶本委員に対してもきっちり答えられなかったのですが、そういうお医者さんも 覚えなければならないメチエをどのように教育していくのかというときに、その教育内容 が気になります。それはあまり哲学的でなくてもいい。専門知識的なものでなしに、もの すごく簡単なコツとか技みたいなものというのは伝えられると思うのです。  私が最近体験した例から言いますと、1月にちょっと入院して、手術の説明というのです か、それを受けました。あなたはこういう故障があって、こういう切除をしないといけな いとかと、お医者さんが3名でしたか、並んで対面で説明されたときに、看護師さんがど こに座られたかという問題です。看護師さんは私の横に座られて、私と一緒に先生方の所 見から何からを聞いている。本当は知っていらっしゃるのです。でも、私の横で、私と同 じ方向を向いて聞いてくださった。それだけで「あっ、この人、一緒に闘ってくださるん だ」と。お医者さんとではなくて、病とですが。自分と一緒に闘病してくださる。それだ けで、どれほど心強かったか、安心したか、それだけのことなのです。  医師についても同じようなトレーニングができるわけです。Simmulated Patientという のですか、模擬患者で医師の面接のトレーニングをする場合でも、例えば模擬患者さんが お医者さんと向かい合わせで話されるとか、90度で話されるとか、いろいろなことをやら れたときに、90度で話すと、いちばん率直に自分の不安な思いまで語れるそうなのです。 これはマニュアルとはちょっと違う。マニュアルというのは融通がきかない。こう言われ たら、こう答える。そういう硬直したものではなしに、こういうやり方もある、こういう やり方もあるということをメチエとして伝えるということは、お医者さんのケア能力に関 しても、看護師さんの技としても使える。  人間というのは形から入るということがすごく大事だと思うのです。人間は心構えがち ゃんとしていたら、あるいは知識があれば全部できるというほど強くないですよね。そう いうときに、この形を守ったら、ある程度いけるよというような経験知というのを伝えて いくようなことは、お医者さんに対しても必要なのではないだろうかと私は思います。 ○尾形委員 次に、南先生に質問です。南先生のお話は国際的な視野を踏まえたご発表で、 大変感銘を受けました。15頁に、看護学校で学ぶことと現場とのギャップが世界の重要課 題、と書かれています。一方「日本の看護教育の未来」で、これは私も非常になるほどと 思ったのですが、社会人入学の拡大ということをおっしゃっています。南先生は、少子化 が進み、18歳人口が減るという観点でおっしゃいましたけれども、ある意味では、これは むしろメディカルスクール構想などにもつながる話でしょうし、先ほどの鷲田先生の「人 としての成熟」ということにも関わりがあると思います。一方で、15頁にある「学校と現 場のギャップ」ということをこの懇談会の検討課題に引き寄せて言いますと、看護基礎教 育の教育内容ということで考えると、どういうところが足りないか、あるいは、どういう ところを改善すべきなのかという辺りについて、ご見解を伺えればと思います。 ○南先生 これは本当に古くて新しい課題です。学校というものが持っている性質と現場 が持っている性質とが基本的に違うので、ギャップがあるのは当然、というのは基本であ る。ただ、医療が素晴らしいスピードで進んでいる、変わってきているという状況の中で、 4年であろうと3年であろうと、たとえそれが6年になったとしても、基礎教育でやれるこ とというのは限界があると思います。  これに対して、世界ではいろいろな工夫をしているのです。例えばヨーロッパのモデル としては、実践の実習を非常に重んじるということで、3年半で6,000時間ぐらいあるので す。学生は、その中の半分は病院の中に住み込んだ形、学校に行かないで、ともかく実習 をやっている、そういうトラディッショナルなモデルであったのです。しかし、これだと 座学教育がしっかりしていないし、自分が経験したことにどういう意味があるか、知識に 対してどうなのかということをリフレクトする、自分で組み直すということがほとんどで きないのです。ヨーロッパでも今、その流れの中で大学化がどんどん進んでいるので、と てもそんな時間はとれません。大学化になればなるほど、実習時間はどんどん少なくなっ ていく。教育学との整合性も出てきますので、どうしても実習時間は少なくなってくるの です。  ところが、聞いてみると、そんなに長い時間実習をした学生が卒業して現場に出てきて 役に立っているかというと、すぐには役に立たないと、みんな言うのです。基礎教育の中 でいくら実習していても、時間数が多くても、やはり、現場に出ていくと違うのだという 発想があるのです。  これはなぜかというと、学校教育が重んじているものと現場が必要としているものとに 違いがあるのです。例えば看護系の教育ですと、世界的な傾向としては、一人の人をどの ぐらい深く理解するかということを重んじるので、実習に行っても、一人の人に付き合う 時間を大変に重んじるわけです。ところが看護師になると、突然1人の看護師が5人も6 人も患者さんを受け持つわけで、5人、6人の患者さんを受け持ちながら1人1人のケアを どうしていくかという発想が教育の中でされていないと、できない。  また、夜勤実習は今の看護学校でもできるようになりつつあるのですが、今まで長い間、 いろいろな意味があってやってこなかったわけです。夜勤というのは少ない数の看護師で 多くの患者さんをどう守っていくか、どうケアしていくかということを学習するのにまた とない機会であるのですが、実際は長い間、世界的にもやられてない。さらに、土曜日・ 日曜日体制は知らないとか。かなり現場と違うことを重要視するがゆえに、その人がどん なに優秀な人でも、看護学校で学んだことが現場に出たときに使えないと現場側が思うわ けですが、それはそうだと思います。  アメリカは非常にプラグマティックな国なのです。それをどう解決しようとしたかとい うと、アメリカの場合は入院期間がものすごく短いですから、患者さんの重症度がすごく 高いのです。そのために、看護技術の水準を高くしていかないと、本当に役に立たないの です。  どうしたかというと、これは日本でも厚労省がやったのですが、臨床家と現場の人が話 し合って、卒業直後に必要な技術をリストアップして、その技術教育をどう教えるかを考 えた。日本の場合は、人間を理解していくという教育と技術教育をドッキングしてやって いく教育カリキュラムなのですが、アメリカはプラグマティックで機能的なので、技術教 育は別に特化した。実習室を充実させ、模擬患者さんもいっぱいいる。患者さんが心停止 になった、患者さんが呼吸困難でおかしくなった等、ありとあらゆる状況を設定し、高額 の人形をたくさん入れて、それで学生1人1人が自己学習できていく。また、それをアシ ストする修士以上を持ったアシスタントが入っているなど、日本では夢のような教育環境 の中で教えていく。だから、出ていったときすぐにそれができるとは思わないけれども、 かなりの水準の技術を持っているという努力があります。  どこの国でもギャップはあるのですが、例えば免許を持った医師がすぐに医師として勤 務できるかというと、そうではないのと同じことです。免許はすぐには役に立たないのが 当たり前、という前提が必要なのではないか。どの程度が許されるのか。どの程度のこと ができることを基礎教育でやって、あとは卒後研修をどのように課していくのか。  例えば、助産師の卒後研修は、特に院内助産をやるような人たちにとっては必修にして います。また、救急救命だとかICU、CCU等急性期はもちろん、精神科などもある意味で 必要だと思うのです。そのような、緩やかに患者さんの状態が推移していくのではない状 況の中にある人で看護師が研修をすることが当たり前になっている。そうでないと、この ギャップはなかなか埋められないのです。実際に世界中の者が集まって知恵を出し合うよ うなことを私どもが2006年にやったのですが、いい案はありません。それが回答だったの です。ルールどおりにやらないといけないと思っただけです。 ○田中座長 矢崎先生、お願いします。 ○矢崎委員 今日はお二人の先生にお話をお伺いしまして、本当にありがとうございまし た。看護の特性、あるいは看護学の専門性についての考え方、将来のあり方について。ま た、看護は特異的なものではなく、医療に携わる者すべての基本であり、医の原点である、 そういうお話を伺ったのではないかと思います。  私は医師なので、看護師とどう違うかというと、患者さんとの近接性といいますか、距 離であり、時間であり、そういうものが医師より看護師のほうが圧倒的に大きいのではな いか。そこが医師と違うかなという感じがしたのです。いま医療は「患者さんの目線に立 った」と言われていますが、看護教育にあっては、極めて近接性の高い視点からの教育。 しかし、それは決して患者さんにのめり込むのではなくて、パターナリズムにならないで 臨機応変に対応する。これには大変な経験が必要で、看護の教育と研修において、それを どう習得させるかをこれから考えていかなければならない、大変重大な課題をいただいた と思います。  我々医師のほうでは、先輩の背を見て育て、自分で学べ、ロールモデルでやれとかと言 ってきたのですが、今後はそういうことではなくて、システムとして行う。素質を持った 者だけがそういうことができるのではなくて、ある程度のものを持った者がしっかり育つ ようなシステムをどうしたらいいかということが、極めて大きな課題ではないかと思いま したので、今後ともお教えいただければと思います。  南先生の、看護師の業務についてということですが、保助看法は行政的な視点から区分 けしているのではないか。医療技術の精度とか、安全度とかと言っているのですが、これ は患者さんが誰にしてもらいたいのかという視点から分けるべきである。侵襲度が大きい から医師がやるとかというのではなくて、誰にしてもらいたいかです。  先ほど助産師の話が出てきましたが、正常分娩で、会陰切開とか、その後の会陰縫合は、 たくさん経験を持った助産師がやっていいのではないか。妊婦さんもそれを望んでいるの ではないかと思うのです。患者さんの目線に立って、誰に、どういうことをしてもらいた いかという基準で看護教育をしっかり分業を立てていいのではないかというようなことを 感じています。  業務拡大、と言うと井部先生に怒られるのですが、私は、いま医師が足りないからそう いうことをやれと言うのではなくて、やはり患者さんの目線に立つ。入院している患者さ んを何時間も待たせた末、医師にやってもらうのか、あるいは熟達した看護師がやってあ げるのか。常に患者さんのそばに立っている人がやってあげたほうがいい医行為というも のがあるのではないか。医師不足だからこれをこうという観点ではなくて、患者さんの目 線に立ってそこを仕分けする必要があるのではないかと思うのです。  一方では、医師不足という観点から、さっきアメリカでやる技術訓練、いまフィジシャ ン・アシスタントと言われていますが、そういうことに看護師さんがちょっと外れていれ ばですね、そういうものをどう育てるかということも、これからは必要なので、その区分 けをどうしたらいいかということがあるのです。  もう1つは、私が言いたいときに文科省の三浦課長が帰ってしまいましたが、日本の高 等教育にかける投資というのがものすごく貧しいわけです。看護大学を作っても、教員の 数が限られて、あれで本当の高等教育ができるかということがある。我が国では諸外国に 比べてインフラ整備が非常に少ないので、やはり教育の充実。もちろんFD(Faculty Development)も必要ですが、その前の段階のインフラ整備が日本では全然できていないの で、これをどうしたらいいかということも、やっていかないといけない。  それから、今どんどん近代医学が発達したために、医療に対する絶対的な期待や過信、 つまり、もう治るということを前提で医療を受けられる。そして、受けられたとか、看護 師さんに見ていただいたというありがたさより、医療を受けたことによってどういう成果 が得られるかという成果主義に患者さんも陥っている。看護師さんに対する暴言の問題が、 全体ではないのですが、今ある。しかし、たくさんケアをしている中でミスがあると、若 い看護師さんが受けるショックは極めて大きいと思うので、そういう意味で患者さんが受 容しないと。ですから、これからは、しっかり医療を受け止めてもらうような教育を、梶 本さんのようなメディアの力を借りて行う。メディアは今まで相当医療不信ということだ った。医療資源は公共財であるので、これはみんなで、社会でしっかり育てていこうとい う機運が最近少しは出てきたように思いますが、もう少しですね、医師が困って大変だと いうところだけではなくて、受療サイドが、医療資源は公共財なので、もう少ししっかり 考えてもらうという教育も重要ではないかと思うのです。  質問なのか、コメントなのか分からなくて申し訳ないのですが、看護師さんの業務とい うのは、患者さんの目線に立った、単に医行為とかいう行為だけではない。南先生のよう なリーダーシップの中で、そういう方向で検討していただければと思います。我々が言う と、これは医師不足対策だと、いつも非難を受けてしまうのですが、看護サイドから、そ ういう視点で業務内容を考えていただければと思います。 ○田中座長 矢崎先生のご質問ならびに感想について井部先生にご発言をいただき、最後 にお二人にまとめをしていただくことにしたいと思います。 ○井部委員 鷲田先生、南先生、今日は看護師として大変知的な、エキサイティングなお 話を聞かせていただいて、ありがとうございました。特に南先生からは世界の動向といっ た視点を提示していただいて、とても刺激的な話でした。  鷲田先生のお話の中で、科学としての看護学という視点と看護の営みという視点を提示 されましたけれども、看護の基礎教育で考えるときに、「看護学としての学習をする場」、 それから「看護の営みをトレーニングする時期」というのを融合しなくてもいいのではな いか、分けて考えるような視点があってもいいのではないか、というのが私の思い浮かん だ発想です。  「人としての成熟」という点には私も大変共感する部分がありまして、10代で看護師に なることができるような制度は考え直したほうがいいのではないかと思うわけです。また、 人としての成熟が非常に重要だとすると、メディカルスクールのように、ナーシングスク ールという構想があるといい。一般の大学を終えた人がナーシングスクールに来て看護基 礎教育を受ける、というような方向も考えられなくはないのではないかと思いました。そ うすると、ナースの高齢化というのが次に出てくるので、いまのような、若い人たちが身 を粉にして働く職場環境を何とかしなければいけないと思います。  鷲田先生のお話の中に、近代科学を変えるのではないかという期待を持ちますという話 がありました。私も以前、看護科学学会か何かの講演で、社会学者の吉田民人先生が、看 護が抱えている困難は、「文理の融合」という学問が持っている学術的な困難性である。つ まり、看護は文化系と理科系の融合した学問体系なので、これまでにない学問の領域を開 発していかなければならず、その学術的な困難が看護の大きな課題になっていくのではな いか、というお話がずっと頭の中にありました。そのことと、近代科学を変えるのではな いかという先生のご指摘が一致するのかどうか分かりませんが、そこが考えていくべき面 白いところだと思いました。これは感想です。私は管理者として、すぐに時間を気にする わけですが、また別の機会にそういう議論ができると面白いと思いました。  南先生が「優しい」と言われると侮辱されたと。マスコミではよく「白衣の天使」と書 きますが、「白衣の天使」と言われると、私も侮辱されているという感じがしました。いろ いろなことを議論したいと思うのですが1点。先生が腱鞘炎になられて、看護職の人が医 学モデルでいろいろ問う。看護モデルで腱鞘炎を見たら、どういうふうに問われるのが看 護モデルなのか、それを披露していただくと、看護と医学の違いがわかると思います。 ○田中座長 矢崎、井部、両委員から、鷲田先生に関しては、どちらかといえば感想でし たし、矢崎先生のご発言は半分が質問という感じでしたが、それに対してお二人から手短 かにお答えいただきたいと思います。 ○鷲田先生 お医者さんの問題で、病院のお医者さんあるいは高度医療のお医者さんとホ ームドクターとでは全然違う。まち医者の方は、看護師さんの素質をたっぷり持っていら っしゃると思います。私が30年来かかっているのは、現在90歳のご夫妻。女医先生も、 男の先生も90歳の先生です。今回私に良からぬものが見つかって手術できたのは、その先 生方のお蔭なのです。機械もろくなものがない。いつもただ「おい、息子、今どうしてる んや」とか、そんな家族の話ばかりして、ろくに体を診てくれないで、薬だけはちゃんと 出してくれる先生なのです。  今回は全然関係のないことで、ちょっとしんどくて行ったのですが、珍しくその先生が 病院に行けとおっしゃったのは、何か医師としての根拠があるのではない。私は人間ドッ クにも行ったことがありませんし、健康診断もろくに受けていなくて、ものすごい医者嫌 いであることをご存じなのです。ところが、後でご夫妻に聞いたら、「あれっ、あいつが何 で今ごろこれぐらいのことで来たんやろう。くそ忙しくなってるはずやのに」と思われた そうです。それで、「ちょっと、一遍受けてみるか」ということで行った検査で、いろいろ なことが分かりました。本当に看護師さん的な判断で対処してくださった。何でも相談で きるので、90歳の方に、亡くなられるまでかかろうと思っています。  教育の問題になるのですが、私は2つ提案したいと思うのです。看護学で、医療の勉強 や技術的なことなど、専門的な勉強がいろいろあると思うのですが、そんな中に、極端な 話として、哲学の授業を8時間入れる。そう言うと、「何、狂ったのか」と言われると思う のですが。  もう1つ「そんなこと」と言われるのは、入学したら、最初の1カ月は看護の知識を学 ぶ前に実習に行きなさいと言うのです。これも、とんでもないことと言われるかもしれま せんが、週8時間哲学をするというのはフランスの高校では当たり前なのです。しかも必 須科目です。ところが、日本で週8時間哲学の授業を必須科目としてやると言うと、学力 低下が今でもひどいのに、ますます落ちると言うのです。しかしフランスでは、高校3年 生で週8時間哲学の授業を受ける。英語や数学の授業よりも多いのです。それはそういう カルチャーなのです。人としての判断力。  それは高校だけではなくて、行政の専門職大学院でも、哲学の論文を書くことが修了要 件になっているのです。行政のプロになり、社会あるいは個人の幸福を少しでも促進する ために公僕として働く人が「幸福とは何か」ということを真面に考えていない。あるいは、 それについて、これまでどんな考え方があったか知らない。そんな人が行政マンなり公務 員になったら、国はえらいことになる、そういう考え方なのです。日本だったら、そんな に勉強したら公務員になれない。受験勉強だけしなければいけないのです。でも、週8時 間哲学をやっていても、学力から言ったら、いまはフランスのほうが日本より上なのです。  同じことが看護学でも言えるのです。哲学などと名前を付けなくてもいいけれども、人 を理解するというのはどういうことなのか、あるいは病気とはどういうことなのだろうか、 そういうことをじっくり考える授業が週8時間あって、ほかの専門の授業を押しのけるよ うなことも一遍は考えてみる必要があるのではないかと思うのです。  実は、最初に実習をするというのは、大阪大学で、ある医師がやっていらっしゃいます。 医学部に入学して、専門課程は1年生の後期から始まるのですが、医学部の入学生を全部 呼んで、1年生の最初に1週間実習をさせるのです。そうしたら、そのときに学生は、もの すごく憤るらしいのです。「病院って、こんなやり方をするのか」とか「先生はあんなこと を言っていいのか」とかと。ところが卒業するころになると先生の味方になって、「患者は あんな態度でいいのか」というふうに変わってしまうそうなのです。でも最初の、病院を 見たときに「あれ、おかしい」と思ったその体験を医師の免許を取る前にもう一回反芻し なさいとおっしゃるそうなのです。  それと同じことが看護学でも言える。看護学の知識を持ってから臨床現場に行かれると いうよりも、最初に1カ月ほど、何の知識もなく現場に身を置く。そのときに怖かったこ と、ヒヤッとしたこと、「こんなこと、私にできるか」と不安に思ったこと、あるいは全然 言葉が出なかった、そういう最初の体験をプロとしての勉強をされた後にもう一度反芻す るチャンスが、意外とセルフラーニングとしてはすごい大きな意味を持っているのではな いだろうかという感じがします。とんでもない提案を2つしましたが、そういうこともあ りうるということです。ちょっと滅茶苦茶なことを言いましたが。 ○南先生 まず、患者さんが選択することが少ないような気がするというのは、おっしゃ るとおりだと思います。日本の制度では、自分が病気になったときに、医師を選択するこ とはできます。自分の近くに診療所がいくつかあったら、どの診療所に行くかは選択がで きます。でも、看護職はクリニックを持ってはいけないので、選択できないのです。  ところがこの間、日本学術会議の看護学分科会で東大の秋山先生からお話を聞いたので すが、自分のプライマリー・ヘルスケアをしているのは看護師だとおっしゃいました。先 生は、自分だけなのだろうかと思って、日本である学会が開かれたときに、7人のアメリカ の仲間が来たので、その人たちに「あなたのプライマリーは誰なの」と聞いたら、7人中5 人までが看護師だったといいます。つまり、アメリカでは看護師が選ばれている。ところ が、選ばれるような制度が日本にはない。それを私の「役割拡大」「裁量権の拡大」とかと いう表現は、適切な表現かどうかも分からないのですが、国民が自分の健康をどのように マネージしていきたいかを自分で決めていく時代だと思うので、選べるメニューの中に、 医師と同じように、看護師も選べるということが重要なのではないかと思うのです。  助産所はそうだったのです。昔、助産所は選べた。ただ、数が少ないから、多くの人が 病院で出産するので、それが安全であるということに定着したわけですが、それをもう少 し戻していきたいというのが私の考えです。ほとんど先生と同じだと思います。  高等教育のインフラ整備のことも、この間見せていただいたら、看護大学では、1大学の 平均教員数は37名ぐらいでしたか。多い所も少ない所もあるのですが、上限でも1大学に 45、46名ぐらい。これで看護師の教育をしようというのは大変難しいと思います。  また、予算も本当にない。その中で、けなげに頑張ってやっているのが実情ですが、こ れは国が、というより国民が、医学部だけでなくて、「すべての高等教育にお金をかけまし ょう」運動を是非してもらいたい。そうでないと、しんどいなと思います。  高等教育にお金をかけるという次の段階で、教育の分野で俗にモンスターペアレンツと 言われますが「モンスター患者」「訴える患者」さんがいると、非常に病院体制のたしなみ になるのではないか。確かにその部分もありますが、患者サイドから見たら、西洋医療で 使っている部分はすごく限られているのです。  例えば、私が腱鞘炎になったときにまず行ったのが鍼灸院なのです。整形外科に行く時 間がないもので、鍼灸院に行ったのですが、そこに行ったら患者さんがいっぱいいるので す。その人たちは全然受診料を保険で払わないで、全部自分で賄っているのですが、いろ いろなメニューが社会にはあるんだな、それを使っているんだなと思います。私たちは、 病院の使い方を知っておくことが必要なのです。  丹波モデルということで、丹波地方の住民が、医師を回さないで、自分の地域の医者を もっと有効に活用できるようにということで住民運動を起こしたということが報道され、 話題になっていたのですが、こういうことは本当に大事です。ですから、是非マスコミに 取り上げていただく。患者学というのは言っていらっしゃる方もおられますが、医療資源 の上手な活用の仕方というのは社会全体が取り入れることだと思います。  私たち看護界が「町保」という仕組みを提案しました。兵庫県の中には今300カ所ぐら い町保があるのです。これはボランティアサークルなので、いまお金は取っていない。し かし、場合によってはクリニックが開けるのではないかと思いますので、そういう仕組み を社会がバックアップしていただきたい。そうすると、選択の幅が広くなっていくのでは ないかと思います。井部先生お尋ねの腱鞘炎の看護モデルのお答えは省略します。 ○田中座長 今日の議事録は、後で教材として使えそうな内容です。是非、将来は同じメ ンバーでシンポジウムを企画していただきたいと思います。本日、このような活発な議論 をつくることができたことに感謝いたします。お二人の先生、お忙しい中ありがとうござ いました。委員会を代表して厚く御礼申し上げます。  次回についてのご説明をお願いいたします。 ○島田補佐 第5回の日程は、5月12日(月)13時30分から。場所は厚生労働省第5階 共用第7会議室での開催となります。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。 ○田中座長 これで第4回看護基礎教育のあり方に関する懇談会を終了いたします。皆さ ん、どうもありがとうございました。    照会先 厚生労働省医政局看護課 福井 小紀子 (内線2599)   福井 純子 (内線2594) ダイヤルイン 03-3591-2206