07/05/21 「中国残留邦人への支援に関する有識者会議」第2回議事録 日  時:平成19年5月21日(木)14:00〜16:04 場  所:厚生労働省「共用第7会議室」 出席委員:貝塚座長、猪口座長代理、金平委員、岸委員、堀田委員、森田委員、      山崎委員 (議事録) ○貝塚座長 それでは、定刻になりましたので「中国残留邦人への支援に関する有識者会議」の 第2回会合を開催いたしたいと思います。  議事に入ります前にあらかじめお断りしておきますが、本日は私が3時から、別の障害者の審 議会というのがございまして、そこがどうしても最後の段階になりますので、途中から席を外さ せていただきます。後は猪口座長代理にお願いするということにしてありますので、よろしくお 願いしたいと思います。  それでは、本日はヒアリングの回でございまして、中国残留邦人及びその研究者の方々からお 話を伺うということになっております。  会の進め方につきまして、事務局から最初に御説明願います。 ○野島援護企画課長 事務局からヒアリング、お話のお伺い方について、御説明申し上げます。  まず初めに、中国残留邦人のお三方に、日本に帰国してお感じになったこと、困ったこと、今、 不安に感じていること、あるいは今後生活していく上で望むことなどについて、お一人5分程度、 最大でも時間の都合がございますので、10分程度まででお話しいただければ幸いでございます。  お三方のお話が終わりましたら、各委員からそれぞれの皆様方に対し、御自由に御質問をいた だければと思います。  本日、御出席いただきましたお三方でございますが、この2月から3月にかけまして、私ども 厚生労働省が開催した意見交換会の中でお話をいただいた方々から、お三方にお越しいただきま した。お名前を御紹介いたします。  池田澄江様。昭和56年に御帰国され、東京都に在住でございます。  初田三雄様。昭和62年に御帰国され、兵庫県に在住でございます。  北野京子様。平成元年に御帰国され、大阪府に在住でございます。  次に、中国残留邦人に関する研究者お一人からお話をいただき、その後、各委員から御質問を いただきたいと思っております。  本日は、京都大学准教授の蘭信三先生にお越しいただきました。  説明は、以上でございます。 ○貝塚座長 それでは、事務局からの御説明にもありましたように、ヒアリングを始めたいと思 います。  最初に池田さん、よろしくお願いいたします。 ○池田氏 先生たち、こんにちは。池田澄江です。お話をする機会をいただき、ありがとうござ います。  私は、全国2,200人余りの中国残留孤児国家賠償訴訟原告団全国連絡会の代表をしています。  私は1987年から1,300人の孤児の就籍の仕事を担当してきました。就籍とは、家庭裁判所で 身元未判明孤児の日本国籍をつくる手続です。私はその中で1,300人の孤児たちの苦難の人生、 今、置かれている状況を詳しく見てきました。  そこで、これからまず私自身の経験をお話しし、その後、今、多くの孤児が何を求めているか ということについて、お話ししたいと思います。  終戦時、私は生後10か月でした。後でわかったことですが、母が逃げる途中でおっぱいが出 なくなり、このまま死んでしまうと、赤ちゃんだった私を中国人の養父母に預けたそうです。そ の後、姉たちと日本に帰ってきた母は、死ぬまで私のことを思い続けて亡くなったそうです。  私は自分が日本人であることを8歳のときに知りました。養父母は私をとても大事に育ててく れましたが、それでも、いつか日本に帰りたい、本当の父母に会いたいという思いは募るばかり でした。  中国では、日本人孤児はだれでも、小日本鬼と呼ばれていじめられました。私もそうです。学 校を卒業して教師になり、優秀教師として表彰はされたこともあったのに、日本人というせいで 山奥の学校に行かされました。  私たちは子どものころから常に、戦争中、日本が中国でした残酷な行いの責任を負わされてき たのです。私たち日本人は、中国では安心して生活ができない。いつか祖国日本に帰りたいと、 いつもいつも思っていました。  でも、やっとの思いで帰ってきた祖国は、こんなに冷たいとは思いませんでした。私はできれ ば教師の資格を生かした仕事をしたいと思いました。日本語はわからないため、それどころでは ありませんでした。  生活のため、掃除の仕事、皿洗い、荷物を運ぶ、何でもしました。職業訓練校で1年間、洋裁 の勉強をしました。資格は得ましたのですが、10か所に面接に行って、日本語がわからないか ら全部断られました。  日本語を一生懸命勉強して、生命保険外交員の試験を受けたんです。日本語は話せないため、 契約はゼロで全然取れません。辞めるしかありません。どうしたら生きることができるか、絶望 な気持ちでした。  このような生活の中で、やむなく生活保護を受けたことがあります。でも、福祉課の人からい つも、生活保護費は国民の血と汗の結晶、あなたも早く働きなさいとか、ぷらぷら遊ぶなとしか られました。  生活保護を受けると病院も指定されてしまいます。あるとき、子どもが重い病気になったので、 大きな病院に連れていきたいと言ったら、自分はお金を払わないため、そんな要求をするなと言 われた。大きな病院にかかることはできませんでした。  ちょっとした収入もチェックされ、息が詰まるようでした。怠け者で生活保護を受けている、 税金の無駄遣いをしているように言われて、本当につらかったです。もう二度と生活保護は受け ないと固く決意しました。  私は、中国では日本人だと言っていじめられました。日本では中国人と言われて差別されまし た。私の娘が中学2年生のときに学校で、中国人は汚い、中国に帰れなどと言われて、いじめら れました。何回も何回もけられたり、制服も破られたり、ネクタイをトイレに捨てられたりして、 ついに家出しました。娘は自殺をしようと思ったそうです。  私は自分の生活が大変で、娘が家出するまで気が付きませんでした。私が祖国に帰ってきたた めに、娘にこんなにつらい思いをさせたのかと思うと、つらくて、悔しくて、惨めで、たまりま せんでした。学校の先生に話をしようと思って、学校に行きました。言葉が通じなくて、何も話 はできませんでした。日本に帰ってきて、一番つらかったと思います。  孤児が今、一番不安なのは老後の生活です。中国でも日本でも一生懸命働いても、老後の貯金 ができた孤児はいません。5月17日に厚労省から配付された資料では、生活状況が苦しいと答 えた人は58.6%とありました。実際はもっと高い数字だと思います。  また、その資料では、日常会話に不便を感じないが38.4%とありましたが、全く信じられま せん。自分で言うのもなんですが、この程度の私の日本語でも残留孤児の中でよくできた方です。 ほとんどの孤児は日本語で自分を表現することができません。そのほかの点でも、最近、私たち が行ったアンケート調査と随分違います。孤児が置かれた現状は、もっとずっと厳しいです。  思えば、私たち残留孤児の人生は、生まれたときから常に人の顔色をうかがい、いつもびくび くしている人生でした。せめて残された人生は安心して過ごしたい。これが私たち残留孤児の願 いです。  だから、私たちは安倍総理が、本当に日本に帰ってきてよかった、生活は安心だと思っていた だけるようにしたい、日本人として尊厳を持てる生活を送ってほしいという趣旨の話をされたと き、心から感動して、強い期待を持ったのです。  しかし、先日報道された新しい支援策には失望しました。名前は特別給付金となっていますが、 中身は生活保護そのものです。報道によれば、国民年金は6万6,000円は出るけれども、特別給 付金は、収入が国民年金を含めて8万円以下でなければ受けられないようです。つまり、少しで も収入があれば、差し引いてしまう収入認定もあるのです。これでは生活保護と変わりません。  私の例を言えば、私は19年間働いて、厚生年金は月6万5,000円となります。そうすると、 私は国民年金6万6,000円と私の血と汗の結晶である厚生年金6万5,000円、合計13万1,000 円が収入認定されてしまい、私には特別給付金は出ません。私は13万1,000円で中国人の弟と 一緒に、全部自分で負担をして生活しなければならない。何にもよくならないのです。  収入認定という制度がある限り、努力を報われないし、びくびくしないで安心して過ごしたい という願いは、絶対にかなわないと思います。安倍総理が言われた、日本人として尊厳を持って いる生活にはならないのです。有識者の皆さんには、そのことをどうか理解していただきたい。 これまで苦労に苦労を重ねてきた孤児にふさわしい支援策をつくっていただきたいのです。  最後に一言付け加えたいことがあります。今日、話を聞いていただいたことは、とても感謝し ています。でも、私たちは日本語が不自由で、私たちの実情や願いを十分伝えることはできませ ん。長年、私たちを支援してくれたボランティアや弁護士の先生は、私たちの実情や願いのこと をよく知っています。  有識者会議の皆さんには、是非、ボランティアや弁護士の方からも話を聞いていただきたいの です。どうかよろしくお願いいたします。 ○貝塚座長 どうもありがとうございました。  それでは、次に初田さん、よろしくお願いします。 ○初田氏 私は初田三雄です。去年12月1日、神戸地裁で原告勝訴した兵庫の原告団の代表で す。  終戦当時、私はまだ2歳でした。私は1987年に44歳のときに永住帰国しました。私は40年 以上、中国の地で生活せざるを得なかったのです。在席の皆様、私が中国の地で日本人として生 きていることがどういうことなのか、おわかりですか。  当時、中国社会では侵略国日本への憎しみがわき上がっていました。私たち残留孤児は、小さ いころから、その憎しみと恨みを一身に背負い、日本人として中国社会から阻害され、小さく身 を縮めるように生きていかなければならなかったという状況でした。  当時、中国文化大革命のときに、私は4キロのレンガを首に下げられ、打倒日本帝国主義とい う恨みの叫び声を聞きながら、引きずり回されていました。私は9か月22日間、監禁され、お まえの父と母は日本のどこにいるのか、どうやって連絡を取っているのか、白状しろと問い詰め られました。私は心の底で何度も何度も叫びました。お父さん、お母さん、どこにいるのでしょ うか。私を助けに来てください。祖国日本よ、私も助けに来てください。  その後、私に苦難は更に続きました。養父母を含む私たち7人の家族全員で農村に追放されま した。厳しい冬中、マイナス数十度の気温の中で、私の住んでいた家はぼろぼろのものでした。 すき間風が吹き込んでいる、そのぼろぼろの家の中で、子どもたちが火鉢を囲み、しもやけで赤 くはれ上がった小さな手を差し伸べているのを見て、私の胸はとても痛かったのです。  私たち夫婦は必死に働いていましたが、一銭の収入も得られませんでした。しかし、家族の命 をつなぐために、何度も町に物乞いに行きました。それで生き延びるだけでも必死でした。私は 日々、祖国日本への思いは1日も断つことはなかったです。  私は中国の奥地の農村で働かされていたので、日中国交正常化の情報すら知ることはできませ んでした。肉親探しができることも知らなかった。私は1981年に肉親探しが可能となったこと を知り、即申請を出しました。  当時、私は心の中で叫びました。日本こそ、私が日本人として生きる地であることを何度も叫 びました。私は日々、祖国日本に帰りたいことを叫び、日本にいる親族あるいは両親というもの を叫んで呼んでいました。  肉親調査を経て、私はよくやく1987年4月に永住帰国を実現しました。そのとき私は既に44 歳になってしまいました。帰国した後、ようやく日本人として人間らしく生きることができると 期待していたんですけれども、余りにも冷たい祖国の仕打ちが私を待っていました。  たったの4か月間の日本語の勉強で、50近くになった私には、どうやって日本語を話せるの か。まだ日本語は話せない私たちに自立指導員から、早く就職しろ、自立しろ、仕事を持ってい なければ中国に残されている家族の呼び寄せはできないでしょうと迫られて、自立を要求されま した。  ようやく私は仕事を見つけましたが、その仕事というのは1日中立ち仕事の肉体労働でした。 日本語ができない理由で、職場ではいつも、ばかだ、あほうだと怒鳴られて、また中国人と呼ば れて、常にばかにされていました。  在席の皆様、私はようやく祖国日本に帰ってきたのに、祖国の言葉を話すことができない苦し み、祖国の日本人の人たちに中国人と呼ばれる苦しみを、あなたたちはおわかりですか。日本語 を話せないのは、私のせいでしょうか。  私は2002年に定年退職しました。それまで14年間、日本で働き続けました。この14年間、 私は差別と侮辱と軽蔑に耐えつつ、厳しい立ち仕事を懸命に働き続けてきました。私は日本に帰 国するまでに、中国の地で命を削りながら、懸命に働き続けて生き抜いてきましたが、現在、私 が受け取っている年金はわずか5万円しかありません。  現在、私と妻の2人で、朝5時から10時までアルミ缶を拾い、家計の足しにしています。私 たち2人は腰痛に耐え、リアカーを引き、異臭の漂うアルミ缶を拾い続けています。そのアルミ 缶の1キロは150円、大体25キロまで3,750円の収入を得ることができます。1キロのアルミ 缶は約150個あると思います。ほかに収入を得ることはできませんので、このようなことをしな ければ、祖国日本で生き延びることはできません。  よく言われることですが、どうして生活保護を受けないんですか。私は当時勤めていたときに、 自分が亡くなった後の妻の生活のために、生命保険をかけていました。中国にいても、日本に帰 った後も妻と一緒に苦労した。大変苦労させた妻には、このような生命保険を解約することは、 私にはとてもできませんでした。  国から生活保護を受けることは、ある意味の監視をされなければならないということで、耐え ることができませんでした。  帰国した後、軽蔑されながらも歯を食いしばって懸命に働いてきたあかしとして、厚生年金さ えも差し引かれるこの制度には、ちょっと耐えることができませんでした。このような制度は、 私の一生を否定したことと同じではないでしょうか。また、国から私の苦労した一生、責任を完 全に否定したことにもなるのではないでしょうか。このような制度を私は受けることができませ ん。このような制度は私の自尊心では許せません。私には絶対受けることができません。  夢にもみなかったことですけれども、ようやく帰ってきて祖国は、私の老後に対してこのよう な結果でした。とても悲しいです。私は何度も一人で涙を流しました。  私が常に思っていたことですけれども、中国にいたときも、私が悲惨な目、悲惨な境遇に遭っ たとき、私の本当の両親は私のことをどう思っているんでしょうか。私は今でもこのように思い ます。私の両親は、祖国で老後を迎えた我が子がアルミを拾って生活しているのを知ったらどう 思うだろう。戦争のせいで、幼い私たちは中国に取り残されていました。しかし、私たちの帰国 がこんなに遅れたこと、また日本語が話せないこと、社会に離されたこと、今でも日本社会から 孤立させられていることは、すべて60年以上前の戦争のせいでしょうか。  私はいつもこのようにも思います。もし私が子どものころに、もっと若いうちに祖国に戻り日 本の地で暮らしていれば、どのようになるだろう。そのようになれば、私はきっといい暮らしを していると思います。きっと私も普通の日本人と同じように勤勉に働き、日本社会にも貢献し、 豊かであり、穏やかな生活、老後を送っていると思います。私はきっと豊かな生活を送っている だろうと思います。  どうして政府はもっと早く私たちを祖国に迎え入れてくれなかったのでしょうか。ようやく祖 国に帰ってきた私たちは、どうして日本語もまだろくに話すことができないままで社会に放り出 されていったのでしょうか。  北朝鮮の拉致被害者と比べると、私たち残留邦人に対する政策は余りにも違いがあるのではな いでしょうか。私たち残留孤児たちを日本人として扱っていないのではないでしょうか。また、 日本の国にも本当の意味で受け入れてもらっていないのではないんでしょうか。日本に本当の意 味で受け入れてもらえず、そういう思いはとてもつらいです。  昨年12月1日、私たちは神戸地裁で歴史的意義を持つ勝利判決を受け取りました。これでよ うやく日本人として認められて、また感動して胸がいっぱいになりました。ようやく日本の国民 の皆様にも、私たちが歩んできた苦難の人生とそのケアをしてもらい、私たちの勝訴に涙を流し て、ともに喜んでくれました。  引き続き、1月31日に安倍総理が私たち残留孤児の代表と面会をしてくださいました。私た ちが日本に帰ってきてよかったと思うような政策、また私たちが納得する、今後も人間として生 きられるような政策をつくってくれることを約束してくださいました。しかし、今回、厚生労働 省が出してきた支援政策案は、現在の生活保護と余り変わらないような内容でした。このような 政策は、安倍総理からの指示とは違うことではないでしょうか。  残留孤児の私たちの人生は、日本人としてのすべての尊重を奪われ続けていました。これは国 の責任です。ですので、国にお願いしたいのは、私たちの尊重を回復するような政策を実現して いただきたいです。全国の国民の皆様の支援も受けています。  ここで皆様にお願いするのは、1つだけです。私たちに残る人生の中で、日本人としての尊厳 を保っていただき、そのように生きていきたいと思います。どうか力をお貸しください。  以上です。 ○貝塚座長 どうもありがとうございました。  それでは、最後に北野さんよろしくお願いします。 ○北野氏 こんにちは。今日、厚労省と有識者の先生方には、わざわざ私たちを呼んで、私たち の意見を聞いていただいて、本当にうれしくて感謝しております。  私は、残留孤児の北野京子と申します。平成元年4月に主人と娘と一緒に永住帰国しました。 大阪中国帰国者定着促進センターの第8期の入所者でした。お陰様で、退所してから今年3月末 まで、私は大阪定着促進センターの職員として働かさせていただきました。既に18年間になり ました。主人も自立研修センターの勉強が済んでから、すぐに就職して自立しました。娘も中学 2年生から高校、大学を経て、社会人になりました。  私は主人とともに、今年4月から定年退職しました。18年間よく頑張ってきましたが、厚生 年金は2人で合わせて13万円しかないんです。そのわずかな年金での2人の生活は、とても大 変です。毎月の家賃は4万円ぐらい、健康保険料は当初の1年間は2人で月5万3,000円。また、 病気にかかる場合は、医療費もかかります。結局、残った生活費はごくわずかしかないのです。  私たちは既に62歳になりまして、老後の生活を考えるとすごく不安です。このような状況は、 私の知っている範囲で私だけではなくて、自立している残留孤児たちはみんなそうです。わずか な年金をもらって、ぎりぎりの生活をしているようです。  例えばある残留孤児は、今年70歳で、御主人は78歳で年金はありません。その方は、月11 万円ぐらいの年金をもらって、2人で生活しています。去年は病気で入院したこともあり、医療 費も大分かかったそうです。  もう一つの例ですが、ある残留孤児は14年前に国費で永住帰国しました。身元引受人であり、 ある会社の社長さんに勧められて家族4人ともすぐその会社に就職しました。重い皮膚病の妻は、 3か月経った後に辞めました。本人は安い給料で10年間頑張ってきました。4年前に60歳で 定年退職しました。年金は5万円しかありません。その5万円で夫婦2人は切り詰める生活をし ています。生活のため、本人はあちこちでアルミ缶を拾って換金をし、わずかなお金をもらいま す。夜中に何回も警察に捕まえられて、不法在留者とか自転車泥棒などに疑われたことがありま す。退職してからの4年間に、本人は何回も福祉事務所へ生活保護の相談に行きましたが、全部 断られました。理由は、65歳まで就職しないといけないということです。今、本人は64歳で、 妻は60歳です。  今月初めころ、私はもう一回夫婦ともに福祉事務所へ相談に行ってきました。やはり同じ理由 で断られました。私が理解できないのは、この方のような残留孤児は、働けるときに国のため、 国に迷惑をかけないようにきちんと働いていましたが、働けなくなり、生活が大変困ったときに なぜ国は助けてくれないのですか。  また、4月から厚生労働省が生活保護を受けていて、国費で帰国した帰国者への地域生活支援 プログラムという支援施策をスタートしています。それはいいと思いますが、生活保護を受けて いない貧しい生活をしている帰国者は、日本語を勉強したいし、中国の墓参りをしたり、お見舞 いしたりしたいのですが、お金の余裕がないのでなかなか叶いません。この支援策はまだまだ不 十分で、改善してほしいと思います。  現実から見ると、帰国者の中で70%以上の人は生活保護を受けています。自立している人で も、さまざまな状況でぎりぎりの生活をしています。とにかく帰国者は生活が貧しくて、言葉が わからなくて、日本社会から孤立されている現状の中で苦しんでいます。  私たちは長年の願望でやっと祖国日本へ帰ってきました。日本へ帰ってよかったと言えるよう に、私たちの残りの人生を守ってもらうために、国がしっかりとした生活支援策を打ち出してほ しいです。生活保護を受けている人でも、自立している人でも、みんなのために新しい給付金制 度をつくっていただきたいと思います。生活保護から脱却してほしいです。  そのほかの要望ですが、1つは、帰国者専用の老人ホームをつくっていただきたいと思います。 老後のすみかとして、全国に何か所かつくってほしいです。  2番目は、2世、3世の問題です。呼び寄せてきた2世は、生活保護を受けられないので、帰 国後、生活のためにすぐ就職しないといけない。言葉がわからない帰国者のできる仕事は3Kの 仕事しかないので、周りが帰国者ばかりで何年経っても日本語がわからない。  逆に子どもたちは学校へ行っているうちに、日本語が早くわかるようになったのですが、中国 語を忘れてしまいました。そのうちに親子の会話が通じなくなりました。勿論、子どもの教育も できなくなりました。とても大変なことです。だから、この人たちのため、日本の将来のために、 帰国者の2世たちは日本へ来てから1年間、少なくとも半年間は日本語を勉強させることはとて も大事だと思います。その期間は、生活保護を提供するようにお願いします。  3番目は、自立指導員制度、支援通訳制度をもっと充実していただきたいと思います。帰国者 のことを理解し、熱意を持つボランティアの方と、しっかりしている帰国者の2世の方を採用し た方がいいと思います。私たちは既に高齢者になっていますから、この問題は1日も早く解決し てくれないと、死んでしまいます。今年4月、1か月になっていないうちに、私は2人の残留孤 児の葬儀に参列しました。大変悲しかったです。  どうか私たちが安心して老後の生活を送れるように、くれぐれもよろしくお願いいたします。 ○貝塚座長 どうもありがとうございました。  それでは、3人の方にお話していただきましたので、委員の方から御自由に御質問ください。 どなたからでも結構です。どうぞ。 ○岸委員 お三方にお伺いいたしますけれども、皆さんが希望していらっしゃる尊厳を持って生 きられる生活水準の給付というのは、お一人当たりあるいは世帯当たり、月額どの程度のことを お考えでいらっしゃいますか。 ○貝塚座長 どうぞ。 ○池田氏 済みません。先生の質問は、私もずっと考えていて調べました。日本人の私たちの年 になる人は、月に大体幾らですか。私たちは高い請求はしたくないです。でも、日本の普通の人 のように、総理が言ったとおりで、人間の尊厳ができるような生活がしたいです。  今まで生活保護は、大体1人は8万円です。医療費とか住宅などを全部含めて調べましたら、 大体13万円、14万円ぐらいです。65歳になると、大体17万円ぐらいと書いてある総務省の調 査があります。  それを見ると、私たちは大体のことでいいから、私たちは高く要求していないんです。先生た ちや厚労省の方は、いろいろ考えて私が生活できるようにしてほしいです。今回の高齢者と合わ せたものは、全然だめです。全然生活保護と変わらないです。今までの3人が言ったとおりで、 私たちは自分のことだけではなくて、全国孤児を対象にしているものですから、私たちの要求は、 もしできたら1人で17万円ぐらいで、2人だったら12、13万円でいいのではないかなと思う。 私の言うことは自分のことだけではないけれども、間違いかもしれない。先生たちにはよく考え ていただきたいですというのが、私の話です。 ○岸委員 確認しますけれども、1人で暮らすのは17万円ですね。 ○池田氏 1人は17万円。高かったら、ちょっと下にしても大丈夫。でも、すごく下にされた ら困ります。 ○岸委員 そうすると、2人だと幾らですか。 ○池田氏 2人だったら、23万円か24万円。 ○岸委員 その場合、生活保護だと病気になったときの医療扶助だとか住宅扶助、そういう別の 形で生活の基本的な部分をカバーしてくれますけれども、それは全部その中に入っているんです か。 ○池田氏 入っています。全部自由にしたいんです。人に監視されたくないです。その生活費が あれば、自分で家賃は出す、自分で病院に行って出す。それがもしできなかった場合は、医療費 とか健康保険手帳みたいなものを出して、病気がある人は病気に使う。病気のない人は使わない。 それでもいいと思います。 ○猪口座長代理 今、座長が代わりましたので、猪口が代理をします。ほかのお二人の方、今の 御質問にお答えいただきたいと思いますが、どうぞ。 ○北野氏 先ほどの御質問は、私個人の考えですけれども、今、生活保護を受けている人は75% 以上です。自立している人でも、やはり生活はすごく苦しいです。こういう状態の中で、できれ ば国の新しい給付金というのは、やはり生活保護の制度よりもっと上の方だと思います。  例えば、今、1人の場合の生保は、大体7万9,000円ぐらいです。生活費プラス住宅家賃は、 大体2万5,000円ぐらいで、一人暮らしの場合は10万円前後です。それにプラス医療費です。  私はいろんな帰国者のことを見たが、医療費はとても大事なことです。私たちは帰国者の中で は一番若い人です。大体70代の人が多いです。そうすれば、病気も多いから、特に年につれて 大きい病気とか難病はしょっちゅうあるんです。  例えばがんにかかったら、1回の手術でも40万円ぐらいかかるんです。全部を自己負担する 場合は、結構かかるんです。だから、私の個人的な考えですけれども、私たちのように自立して いる人は多少年金はあります。生保を受けている人でも、2万2,000円ぐらいの国民年金がある んです。その年金は置いておいて、国からの給付金というのは、できれば12、13万円ぐらいほ しいです。医療費をその中に含めると、すごく大変です。病気の少ない割合元気な人だったら、 先ほど池田さんが言った17万円でいけるかもしれない。でも、人間というのはいつどんな病気 にかかるかわからないから、できるだけ、医療費だけは国に負担していただきたいんです。17 万円をもらっても、大きい病気にかかったら、例えばがんのように、何回も繰り返して手術する 場合は、やはり生活が破産するんです。だから、耐えられないんです。  私の考えは、1人だったら家賃は自己負担になっても構わないんです。例えば1人は14万円 ぐらいで、2人で21、22万円ぐらいだったら、それは給付金ということです。年金はまた別で す。  もう一つは、医療費は国に負担していただきたい。そういう状態だったら、多分いけるかなと 思います。  これは全く個人的な考えですけれども、今まで18年間、私は特に大阪と仙台の対象者の五百 何家族会ったんですけれども、いろいろな問題を抱えています。特に健康の問題はすごく大事で す。1世の場合は、就労もできない。私のような人はもう定年退職しました。就労できない。け れども、健康なことは一番大事で、これから、老後の生活で日本に帰ってきて本当によかった、 周りの日本人と仲良くして、自分の実家に戻ったような感じがあればいいですけれども、今はす ごくかわいそうです。社会から孤立されています。だから、人間として、食べることだけではな くて、今、テレビを見ても内容がわからない。泣く泣く中国語のテレビを見ています。だから、 日本社会の中にいても、本当に別社会の人間みたいです。  そういう状態の中で、やはり国からいろんな政策とか、いろんなことを考えていただきたいと 思います。そうでないと、私たちは早くに死んでしまいます。特に4月、1か月になっていない うちに、2人の残留孤児、1人は肝臓がんで、もう一人は神経萎縮の難病で亡くなったんです。 すごく悲しい。もうちょっと待てば国から何か政策が起こって助かると思いますけれども、残念 です。そういうことで、1日も早くこの問題は解決していただきたいと思います。くれぐれもど うぞよろしくお願いします。 ○猪口座長代理 初田さん、どうぞ。 ○初田氏 私が、ここで言いたいことですけれども、どうしてこれまでに私たちは国と闘う立場 に追い詰められてきたのか、その辺を考えるととても悲しいのです。 ですので、国には、私たち本当の日本人、人間としての生き方を考えていただきたいです。 私たちが望みたいのは、普通の日本人と同じような対応をしていただきたいです。ある資料を 見たことがありまして、その中に書いてあるのが、一般の日本人、1か月の支出額が17万円と 書かれていました。 実は29日に各新聞に出された記事を見たところ、このような政策は、私たちにとってはとて も意味のない政策というふうに思っております。 私は、現在、64歳ですけれども、65歳になった後の生活保護を受けている人との比較を見て いただきたいと思います。 私は、これまでに既に150 万円の国民年金の追加額を払っています。ですので、私は65歳に なったとき、6万6,000 円の厚生年金を受けることはできると思っています。現在、受け取っ ている厚生年金は5万円です。ですので、65歳になったときには、合計で11万円もらえると思 っています。11万以上もらえることは、私はないと思っています。 しかし、11万円をもらったときに、私は、やはり自分で家賃、いろんな医療費を払わなけれ ばならないという立場になってしまい、やはり生活保護を受けている人より、下の方の生活をし ていると思っています。 政策をつくっていただくときには、是非こういう点を重視していただきたいんですが、今まで の政策は白紙に戻して、ゼロからスタートしていただきたいです。 是非、私たちに日本に帰ってきてよかった。老後の生活は保障されているというふうな思いを させていただきたいです。私の話は以上です。 ○猪口座長代理 ありがとうございました。ほかに御質問はございますか。 ございませんでしたら、次は研究所の方にお話ししていただきたいと思います。 蘭先生、20分弱ぐらいでお願いいたします。 ○蘭氏 京都大学の蘭と申します。先ほど3人の方のお話を聞きながら、私は、何回もこういう 話は聞いているのですけれども、再び胸が痛むような話ばかりでした。私は、先ほどの3人の方 の話と少し違う立場でもって、当事者から少し離れ、歴史的な展開を中心にして、私が認識して いることをお話しさせていただきたいと思います。 残留孤児や残留婦人という残留邦人に対する国のこれまでの支援は、かなり難しい政策であっ たと、私は理解しております。 基本的には、いわゆる戦前の日本帝国であったころに日本をめぐる人口の移動が相当ありまし た。その後、敗戦によって、いわゆる植民地を放棄して、脱植民地化という形で再び人びとが引 き揚げてきたり、いわゆる外地に送還されていったりしていきます。この時に、かなりの数の人 びとが日本をめぐって人口移動をしたわけです。そして、最後に中国に残された人たちが中国残 留孤児であり、残留婦人なのです。   そして、戦後の中で、彼らが日本に帰国できなくなったいきさつというのは、これは冷戦体制 の中で非常に大きくマクロな力が動いていたからとも言えましょう。その中で、祖国に帰りたく てもなかなか身動きが取れない状況にあったということから、問題が生じたのではないかと認識 しております。 基本的には、戦後は一貫して、いわゆる在外といいますか、海外に残った残留邦人に関しては、 引き揚げという点で政府は支援といいますか、対応をしてきたわけです。しかし、中国残留邦人 に関しては、引き揚げ支援から、いわゆる自立支援へと大きく転換していったということは、皆 さん、よく御存じだと思います。 引き揚げ支援から自立支援へと大きく転換を取っていったわけなんですけれども、これはある 意味で日本の社会自体の非常にマクロな政策といいましょうか、社会保障に対する政策というん でしょうか。しかし、そういう大きな転換を図りながらも、残留孤児や残留婦人に関しては、国 家責任というよりも自己責任という考え方を取ってきたということもまた一つの特徴としてあ ると思います。この辺を柱としながら話をさせていただきたいと思います。 もう一点は、先ほど3人の方々は、3人とも残留孤児の方々ですので、それで残留孤児御本人 の生活に関することを中心としてお話しされてきました。ただ、北野さんが、残留孤児だけでは なくて、二世、三世の問題という話をされましたけれども、私の方は残留孤児に関する話は、か なりされましたので、二世、三世のことも含めて話をさせていただきたいと思っております。 委員の先生の方々には、私が今日お話しする大体の内容は参考資料として配られていますけれ ども、そこに書いていますように、前提としては、満州でどんな状況があったかという点は、こ れを見ていただけるとわかると思います。 この資料に示してますように、1945年8月から46年の5月までに方正という、これは日本人 が一番たくさん残留した地域の状況を示しております。そこの収容所では、8,640 人の方が収容 されたわけですけれども、その内訳を見ていただきましたらわかると思います。現地人の妻にな った方がじつに2,300 人もいるのです。全体の27%という数字です。 これは、どういうことかと言いますと、現在、残留婦人で帰国されている方々というのは総体 で3,600人ぐらいですが、これだけの数がこの一つの地域だけで、方正は小さな町なんですが、 これだけの数があったというのは、これは一体どういうことかとお考えになるかと思うのです。 それは、実は、一時的に現地の人と結婚して生活をしていて、ところが、この後にやはり引揚事 業がありますから、多くが引き揚げてきているのです。ここでは、かなりの人たちが敗戦のどさ くさの中で、どうやって生きていくかがじつに大変な状況だったということが、これを見ていた だくとわかると思います。 植民地的状況での敗戦のどさくさを、どうすれば生き延びていくことができるか、です。私も 終戦直後に引き揚げてきた人たちにいろいろお話を伺ったりするのですけれども、やはりこの1 年間をどうやって生き延びていくかということは、いろんな形で乗り越えられていたことがわか っております。 ほとんどの人が日雇いをやっていますし、食うや食わず、いろんなことをする、盗みも勿論す るし、拾ってきて食べるしということで、さまざまやり方で生きのびてきたのです。そういう生 死の狭間のなかで、残留邦人は生まれていったのだということを理解していただきたいと思いま す。 3人の方が話をされましたけれども、日本人が集団帰国したその後に残された中国で、彼らが どんなふうにして生きたのかですが、そこでの彼らの生活には2つエッセンスがあると思うので す。1つは貧しさです。とんでもない貧しい生活の中で生活をされていたと思います。 勿論、これは戦後の日本社会でもさまざまであり、豊かな人、貧しい人というのがありますよ うに、中国でも社会主義国といっても有利な人、不利な人というのがいたのですけれども、基本 的には残留邦人は社会的に不利な立場にありました。 とにかく明日何を食べていくのかという問題は、非常に大きな問題としてありました。日本は 50年代に貧しさから脱却していきますけれども、中国の場合には、かなり長い期間貧しさの中 にあったのです。 例えば、御存じのように、1958年、1959年に大躍進運動というのがありましたけれども、運 動は失敗し、むしろこれは大量の飢餓を生み出して、中国の中では数千万の人たちが死んでいっ たと言われています。そういう状況の中で、彼らはどうやって生き抜いていったのか、です。 もう一つは、やはり中国の社会主義政権の中で、社会主義化を徹底していくために、繰り返し 思想闘争が行われてきます。思想闘争が行われていく中で、やはり日本人であるということが一 つの非常に大きなハンディとして、彼らはその中を生きざるを得なかったのです。  この2点がずっと残留孤児や残留婦人の人たちの背中に重しとして乗っかかってきたんでは ないかと、私は思っております。 先ほどから、3人の方が、いろんなことを話されましたけれども、3人の個人的な体験の背景 には、このような事情がマクロな状況としてあったと思います。  戦後、日本に引き揚げてきた人たちのなかでも、満州との関わりを持った人はかなりたくさん いました。155 万の人たちが敗戦当時満州に生きていたわけで、それでほとんどが日本に引き揚 げてきていましたから。このようなひとたちが日本国内において生きる場合でも満州に関わった ということは、ひとつのスティグマとして張り付けられてきたのです。いわんや、中国に生きた 人たちにとっては、満洲に関わっていたと言うことはもの凄く大きなハンディであった、と思い ます。 日本でも、なつかしい満州を思いながら、しかし、満州からの引き揚げ者として世間の白い目 の中で生きていくということがありましたけれども、中国で残留邦人として生きた人たちは、そ れとは比較にならない非常に激しい敵意と偏見の中で生きざるを得なかったという状況があり ます。 特に、今日は3人の方は残留孤児の方ですけれども、残留婦人の方たちは、もっとシビアな状 況で生きられたのではないかと思っております。 こういう状況の中で、中国での残留生活を送っていくわけですけれども、しかし、当然中国の 社会の中においても、常に日本人が拒絶されていたり、あるいは差別されていたわけではなくて、 地域社会の中で一人の市民として生きていた姿があったことも、当然なことです。 こういうことを言うと、では中国の中で満州というスティグマを背負って生きていて、でも市 民として生きていたというのは矛盾しているのではないかと思われるかもしれませんが、これは やはり二つの矛盾したものが社会の中に同時にあったと考えるべきではないかと思います。 当然ながら、家族や地域社会で受け入れられていた人たちもいるし、そこの中で受け入れられ なかった人たちもいるのではないかと思います。これは、ケース・バイ・ケースで、大きく言う ことはできないと思います。 そういう中で、日中の国交が回復してきて、そして日本への帰国が始まってくるわけです。日 本への帰国に関して、私がずっとこれまで研究してきた中で思ったことは、2つあります。 ひとつは、1970年代から帰国事業が始まってきますけれども、初期においては、当然ながら 身元がわかっている残留婦人の人たちが中心になってきます。 1970年代の前半から、実はボランティアのひとたちを中心として残留孤児の身元探しという のが始まり、75年から厚生相の下で公式に始まり、厚生省が80年から公式に乗り出していっ て、81年から訪日調査という形で始まっていきます。そこで、残留孤児の身元調査というのが 本格化していって、残留孤児の方々が80年代の半ば以降ぐらいから急激に帰ってくることがで きるようになったわけです。  この間、国交回復から10年、15年というタイムギャップというのがあったと思うのですけれ ども、ここがよく言われているように、もっと早く帰られるようになったら、先ほども北野さん や池田さんが言ってましたように、もっと自分たちの人生は変わったんじゃないかということを 言われますように、ここが一つのポイントであると思います。 さてここで、ちょっとまた元に戻りましょう。厚生省は、従来引揚政策をやっていました。し かし、80年代から基本的に自立支援政策へと変わっていきました。自立支援政策に変わったと いうことは、厚生省自体が一つの大きな政策を転換していったものだと考えられると思います。 これは、これまでの引揚政策では対応できなかった、ということを厚生省が認めたわけです。 そして自立支援で対応していこうとした。それによって自立支援政策が始まっていったのです。 しかしながら、自立支援政策の中でさまざまな問題というのが出てきました。この転換は残留孤 児や残留婦人の帰国後の自立に大きな役割を果たしたと私は思います。ただしかし、それで完全 にフォローできたかというと、フォローできなかったわけです。それが、今、結果として裁判と 言う形で起こっていることからそう考えられます。 その一番大きな問題は、先ほど言いましたように、自立支援策は「自己責任」という概念でも って説明できるのではないかと思うのです。 例えば、これはよく言われますけれども、身元保証人という形で、基本的に日本人であるとい うことを証明されたら、日本にすべての人が帰国できるということではなくて、身元引受者がい れば帰国できるという条件が付けられていましたから。 これは、ある意味で厚生省が取った判断というのは、非常に現実的な判断であったかもしれな い。しかし、それによって大きく帰国が遅れたということが再三指摘されていますけれども、こ れは、要するに原則は何かというと、やはり「自己責任」という概念でもって、ここで対応して いかれたのではないかと思います。 このことは、結局、ある意味で戦後の日本の社会保障と深く関係していると思います。ここで 社会保障がどういうふうに行われていったのかというと、国民は、例えば国民年金にしても生活 保障にしても、人びとは人間として最低水準を享受することができるという憲法原則にのっとっ た政策が実施されていったわけです。 それに対して中国残留婦人や残留孤児の場合にも、そういう形で対応していくことが原則であ ったけれども、しかし、やはり家族の責任、家族の問題という形でもって対応されていったとい う側面も両方存在していたと思います。そして、どっちに転ぶのかという微妙なバランスの中で 行なわれたのではないかと思います。 さて、帰国をする際に、先ほど言いましたように、70年代の前半は、残留婦人の人たちが中 心で、80年代の肉親訪問が始まってから孤児の人たちが大きく増えてきて、1993年にいわ ゆる残留婦人の「強行帰国」というのがあったわけですけれども、それ以降に、残留婦人の人た ちがまた増えてくるというふうな大きく特徴が3つぐらいあるのではないかと思います。 その際に、やはり早く帰ってきた人と、遅れて帰ってきた人というのは、随分適応の度合が違 ってくると考えます。 というのは、やはり日本社会自体が、経済的に70年代から80年代にかけて非常に大きなピ ークを迎えてきますけれども、91年のバブル崩壊がありました。そのために、遅れて帰国して こられた人たちが、ちょうどバブル崩壊後にぶつかってくるわけです。そこで、地域の労働状況 というものがどうなっていたのか、というのがもうひとつの問題になってくると思います。 まず、早期の時期においては、70年代、80年代の前半においては、実は厚労省の自立支援政 策自体もそれほど体系化されたものではなかったと思います。だんだんと厚労省自体も本腰を入 れてくるわけですけれども、その段階においては、対策は体系的になされていなかったと思うの です。 しかしながら、そこの中で、まだまだ日本社会自体は自力があったし、経済的に余力があった し、更には開拓団関係の人とかのサポートもあり、帰ってくる人たちも地域社会のなかではっき りと顔の見える関係であったのです。 したがって、サポート自体が、次第に行政が中心になってやっていきますけれども、実際、地 域社会の中において、サポートする人たちが非常にはっきりと帰ってくる人の顔が見えているか ら、その人たちをサポートしていくことができたし、きめ細かくやっていくことができたのです。 ところが、80年代の後半以降になってきて、いよいよ厚労省が自立支援体制を本格化してい って、ある程度政策が制度化されていくにつれて帰国者自体の数も増えてきて、地域社会のなか で顔が見えなくなってしまった、匿名化されたのです。 更に地方へ帰国したひとたちが地方から大都市へと移動し、大都市に集中してきますから、そ の中で、帰国者自身が孤立していくという状況が見えています。 私は勿論、居住地を自由に選択するということは、個人の主体的な権利、個人の権利だと思う んですけれども。帰国者の人たちは、勿論大都市の方が就業のチャンスもあるし、日本語教育の チャンスもあるし、子どもの就学のチャンスもあるという形で、非常に大きなメリットがあると 考えられ、大都市に移住していったのです。 しかし、それはやがて大きな問題となっていくといいますか、帰国者自身が年をとって老齢化 していったときに、地域社会の中でどうやって彼らを受け入れていくのか、そういうシステムが 整わない中で、今に至っているのではないかと思っています。 次に、ちょっと話を変えていきまして、先ほどから何回も話が出ていますように、中国帰国者、 中国残留孤児や残留婦人の人たちは、基本的には日本人として日本に帰国してきました。 しかしながら、先ほどから何回も出ていますように、日本語をしゃべれないひとたちとか、「中 国人」というかたちで、常に生活の現場において、「中国人として排除される」と言えると思い ます。すなわち、日本人として受け入れられながら、中国人として排除されているのです。専門 用語で言えば、「ダブルバインド状況」に置かれているのです。このために彼らのアイデンティ ティーは非常に揺らいでくる、あるいは不安になってくるという状況に置かれております。 ただ、この場合に、さまざまな場面において、これはちょっと矛盾する言い方にもなってくる と思いますけれども、残留孤児や残留婦人、それから二世、三世の人たちが、一律に社会の底辺 の中に押し込められていったのかというと、そうではないのです。 実は、残留孤児の二世、三世あるいは残留婦人の二世、三世の中の一部の人たちは、非常に日 本の社会の中で高度な教育を受けており、ある種の学歴エリートとして活躍している人たちも出 ているのです。 これは、逆に言ったら、そういう教育を受けるチャンスがあれば、ほかの人たちもそういう形 で階層的に上がっていくことができたということです。しかし、例えば年齢的に学齢期を超えた 人たちは、基本的にすぐ働かされていました。すぐ自立をしなさいという形で働きに出ていきま すね、現場に行きます。むしろ多くの自立指導員の人たちの論理というのは、現場に行って、「働 いて日本語を覚えろ」、「働きながら日本の社会に慣れていきなさい」という指導をしてきました。 それはある意味で、極めて実践的で効果的な指導ではあったわけですね。 しかし、結果として日本語の修得ができないとか、日本の社会の中で孤立していってしまうと 言う結果をもたらしたのです。あるいは、非常に厳しい3Kの職場の中に押し込められていく、 というような状況にもなってしまったわけです。 このようななかで、一部のひとたちは、言ってみれば普通の日本人の、ただ単に優秀な人たち よりも、もっと強い、人間として生きる力を持っている人たちがいることも確かです。でも、多 くの人たちは、年齢的なタイミングとか、いろんな意味で、社会的に厳しい労働市場の中に追い 込まれていってしまったのです。しかも、80年代以前に帰国した人たちは、あるゆとりのある 会社に正社員として採用されていく場合もあったのですけれども、90年代にバブルがはじけた 後に帰国した人たちは、90年代以降になってくると日本企業はコスト削減を徹底的に行い、と にかくコストダウンという形で切り詰めていきますが、彼らはそのなかで底辺の低賃金労働者と なっていったのです。 コストダウンのなかで、普通の日本人を雇うよりも、中国帰国者の人たちの方がハンディがあ るから、かえって低賃金で安く働かせやすいという状況になって、そういう意味で働き先はあり ましたが、非常に厳しい労働条件の中で働かざるを得なくなっていったのです。 そうすると、先ほど言われましたように、家族の中における家族生活が送れなくなってくる。 お父さん、お母さんは働きに行って留守ばかり、という形になってくるわけです。そうすると、 子どもの面倒はだれが見るのかという状況も生まれてくるようになってきました。 そろそろ時間が来ましたので、まとめます。私としては、先ほどから言われましたように、残 留孤児の人たちの老後の生活の問題というのは、非常に大きな問題だと思います。けれども、も う一つの問題としては、若い世代が階層的に底辺の中に固定化されていくというこの問題が次の もっと大きな問題として考えるべきではないかと考えています。 この場合に、文科省の指導として、高校入試や大学入試に特別枠入試というものがあったので すが、それが最近意味をなさなくなってきているのです。つまり、日本に滞在して数年以上経つ と、特別枠入試の資格が外れてしまうわけなのです。 現在の学齢期の人たちというのは、かなり長いこと日本に住んでおり、特別枠入試の来日年数 を超えています。しかし、彼らは、資料にも書いていますように、「セミリンガル」と呼ばれる 人たちで、先ほども北野さんから話が出たと思うのですけれども、家族の中でコミュニケーショ ンが余りできないのです。子どもたちは日本語ができるようになるが中国語はできない、しかし 親は余り日本語ができない。そうなってくると、日本の小学校や中学校は皆さんよく御存じのよ うに、親がバックアップしないと、なかなかついていけないのです。ところが、帰国者の二世、 三世の子どもたちは、親がバックアップできない。親はとにかく暮らしのために働いてばかりで、 親子のコミュニケーションも出来ない。 そうすると、家の中である種、放ったらかされている状況になってくるわけです。そうすると、 どんどん勉強ができなくなっていく。抽象言語は単に教室の中だけでなく家庭教育のなかで覚え ていきますが、その場がないわけです。ですから、日本語は話せるけれども、少し複雑な概念で は思考出来にくい、中国語も出来ない。両方中途半端、それが、いわゆるセミリンガル問題なの です。表面的には日本語ぺらぺらですから、彼らは単に勉強の出来ない子としてほっておかれま す。その結果、進学もできない、あるいは底辺校しか進学出来ず、結果として日本社会のなかで 底辺化されていくという問題が出てきているのです。 そのようなことが、今、中国帰国者の周りの中を見ていくと生じているのです。今は裁判の中 で孤児の方々の老後の生活はどうなっていくのかということが、当面の問題として言われていま すけれども、これはある意味で残留孤児や残留婦人問題の氷山の一角です。その周りにいろんな 問題があるということを主張させていただいて、私の報告を終わりとさせていただきます。 ○猪口座長代理 蘭先生、ありがとうございました。 それでは、各委員の方から御質問をどうぞ。 ○堀田委員 貴重な御意見をありがとうございます。幾つか聞きながら、わからない点かあるん ですけれども、引き揚げてもらうというのは、一種の現状回復責務といいますか、国策で出して 負けてしまった状況ですから、とりあえず日本に帰ってきて、これは残留孤児の場合もそうです し、軍人で残ったものを含めて、これは全部引き揚げてもらうというのが適切な政策だろうと思 うんですけれども、その場合に、引き揚げてもらう責務を十分果たすことができなかった。そこ が一つ問題があるだろうと思うんです。 それから、これは軍人も全部含めてですけれども、引き揚げてもらった後、そのまま自己責任 で自立に委ねてしまうのか、あるいはその方々をどの程度自立できるまで支援していくのかとい う問題は勿論一つあると思うんです。これは、戦後間もなくのころの状況、国家財政の問題もあ りますし、比較的そういう中で自分でみんな頑張ってやっていかなければいけない。そういう社 会状況だったと思うんですけれども、これが引き揚げてもらう時期を失した、そういう政策を当 時なかなか取れなかったということになると、これは年月が経てば経つほど、帰ってきて自立す るのが難しくなりますね。残留孤児の場合は、まさにそういう問題が典型的に出ているんだろう と思います。 これは、中南米に国策で派遣して、向こうでうまくいかなくて帰ってきた人たちの自立義務な んかにも共通する問題ではないかと思います。 ですから、問題は、そういう人たちに対してどこまで支援して自立していただくのか。その自 立していただく度合というのは、どの程度なのか、その辺りがどこまでが政治的な責任として残 っているのか。こういうことになってくるんではないかと、おおざっぱに数字を追って考えると、 私はそんな感じがするんです。 ○蘭氏 そのとおりです。ただ、先ほどから言っていますように、引揚政策から自立支援政策に 転換されたということは、今、裁判の中ですごく批判されていますけれども、私としましては、 やはり国としては大きな転換をしたと見るのです。 それで、結果として生活保護を適用するという形でもありますけれども、やはり水準を維持し て生活してもらうという政策に踏み切ったことは、勿論そのとおりだと思います。 ただし、先ほどから言われますように、生活保護の持っている特徴というか、先ほど触れなか ったですけれども、残留孤児や残留婦人の人たちは、中国の中で生きていく際に、多くの人が監 視されてきたのです。私自身もこの研究を始めて、スパイという言葉の意味が全然わからなかっ たんですが。初期の頃、あなたはスパイじゃないかと言われたときに、何か漫画のなかの物語の ような、全く違う世界の話だと思っていましたけれども。彼らにとっては、リアリティーとして、 やはりスパイとか監視というのが、すごく大きな意味を持っています。ですから、生活保護をも らうということに関して、そこで監視されていると感じることに大きな苦痛が出てくるのです。 ただ、国としては制度面で、ここで最低限の生活を保証していく。それは、ある意味で踏み切 った対応をしているというふうに、私は解釈するのです。 しかしながら、そこに齟齬が出てくる。それをどう解釈するのかということになると思うんで す。ですから、日本社会自体は、80年代のゆとりがあったときには、それでやっていきますよ という形で対応したと思うのです。生活保護で運用するという形になっている。ただし、今はど んどん生活保護を切り捨てていっていますから、残留孤児や残留婦人への支給において更に厳し い状況が出てくるわけです。 ○猪口座長代理 どうぞ。 ○堀田委員 蘭先生のおっしゃること全部理解できるんですけれども、基本的な点で、引揚政策 から自立支援政策に転換されたと。その両者が対立するものかというと、引揚義務というのは、 やはりいまだに続いているんではなかろうかと、まだ帰れない人たちについては帰っていただく、 それで現状回復する、これが基本ですから、それがあって、しかし、帰っていただいた後、引き 揚げてもらったから、あとはほったらかしていいのか、それは状況によりますけれども、特に後 になればなるほど、引き揚げてもらって、なおかつ自立する支援義務があるんだろうと。その支 援義務というのが、どこまで要るかということを議論しなければいけないとは思うんですが、そ の場合に、やはり遅くなれば遅くなるほど、自立が難しい、だから支援義務が重くなるという面 が1つある。 もう一つおっしゃった、中国に残されることによって、向こうでの被害が、それだけ大きくな っている。戦争によって向こうにいることによる被害が、更に戦後もずっと大きく続いてしまっ ておる。この部分については、自立支援というよりも、そのことについてのやや賠償的な要素を 加えて自立支援を考えるという義務がまた出てくるのかなと。大きな整理ではどうもそんな感じ がするんですけれども、基本的にはいかがなんでしょうか。 ○蘭氏 もう、おっしゃるとおりだと思います。 ○猪口座長代理 どうぞ。 ○金平委員 ありがとうございました。ひょっとすると、こちらの方にお聞きするのが適当かも しれませんけれども。今の自立と支援の関係ですが、お話の中に自分たちだけで住む、高齢者に なったときにホームみたいなものが欲しいと。聞き間違いかもしれませんけれども。 ○蘭氏 いや、そうです。 ○金平委員 そういうお話が出たのでお伺いします。もっと若い以前だったら別ですが、引き揚 げの同じ経験をした方たちだけで、これから生きていく。そういうことの方を望むと先生もお考 えになりますか。 ○蘭氏 例えばアメリカの日系人の人たちには、日系人専用の老人ホームというのができていま す。大阪や京都では、在日韓国・朝鮮人の方のための老人ホームができています。ここでの話と しては、残留孤児の人たちや残留婦人の人たちは地域社会から孤立している。だから、もっと社 会に溶け込んでいかなければいけないという指摘がなされています。そこで、溶け込むために、 彼らに一般の老人ホームに入ってくださいというのと、今、言われた専用の老人ホームをつくっ ていくことは、それは一見矛盾していると思われるかもしれませんけれども、私は矛盾してない と思うんです。 基本的には、やはり専用の老人ホームが必要になってくると思うのです。それはなぜかという と、例えば在日の人たちでもそうですけれども、長いこと、もう50年以上日本で生活していて も、年を取ってくると日本語を忘れて、朝鮮語に戻っていくのです。日系人の人たちも、一世の 人たちは英語を忘れて日本語に戻っていく。そういう形で、残留婦人の人たちの場合ははっきり とはわからないのですが、残留孤児の人たちは、多分年を取っていけば日本語を忘れていく可能 性もあると思うのです。そのときにどう対応するかというと、それは北野さんがおっしゃったよ うに、やはり自分たちの老人ホームが欲しいという、それは言葉の面から言っていますけれども、 いろんな意味で気兼ねもしなくていいし、お互いにそれぞれの体験をわかりあっているいるから、 良いと思います。 今、一番大きな問題の1つは、それこそ裁判で言われていることですけれども、自分たちの歴 史的な体験を周りが理解してくれないという大きな、そういう意味において失望があるわけです。 したがって、一般の老人ホームですと、毎日の生活の中で、やはりまた「中国人」とか言われる 可能性があるわけです。 したがって、気持ちを安らかに生きていこうと思ったときには、専用の老人ホームは1つの選 択肢だと思います。 ○猪口座長代理 ほかに、山崎さん、どうぞ。 ○山崎委員 いただいております資料の2ページ目なんですが、我々はどの程度の規模の帰国者 を考えればいいのかと思っているんですが、ここに書かれていますのは、国費帰国が本人と家族 を含めて約2万人、それから私費帰国者が約8万人とありまして、総計が推計で約10万人とあ りますが、こんなにたくさんいらっしゃるとは思わなかったんですが、恐らく日中国交回復以降 の帰国者が10万人いらっしゃるんですね。これは日本政府はちゃんとつかんでいるんでしょう か。推計とありますから、つかんでないんですか。 ○蘭氏 推計ですから、多分厚労省はつかんでいるんではないでしょうか。基本的にこの統計は、 非常に難しい形での統計になりますので、私はまだ正確な統計をとっていないのですけれども、 大体1人の残留孤児、残留婦人の方が帰られたときに、何人の人を家族呼び寄せで呼び寄せるか というのが、大体統計的に10人〜20人というふうに言われるんです。残留婦人の人たちは、20 人ぐらいいる。1人の残留婦人に20人の人が帰国者として同伴するかというか、同伴家族は限 られていますけれども、「呼び寄せ」がありますので。したがって、そこでいきますと、残留孤 児や婦人が六千何百ということで、全体として10万というのは少なく見積っているわけです。 それと更にもう一つは、国勢調査で外国人登録者数を見ると、今、中国籍の人は日本に50万 いらっしゃるわけです。そのときに、定住者などのいろんな数字を見ていって、ほぼこの10万 というのが帰国者に相当する可能性があるというふうに推計しています。 ○山崎委員 わかりました。 ○猪口座長代理 どうぞ。 ○岸委員 堀田先生もおっしゃったんですけれども、国策によって海外に移住した人たちが残留 した、そのことによって帰ってくるのが非常に困難であったというケースとして、この中国残留 孤児・婦人以外にも、例えばサハリン残留の方、あるいはシベリア抑留の後しばらく残った方、 さっきちょっとおっしゃいましたけれども中南米に国策移民をされた方、ところが現地は大変話 が違うということで、事実上移民政策が失敗した。 こうした方々と中国残留邦人の問題というのが、つまり自立支援策において差異を設ける特殊 性というのは、何を指摘すればいいんでしょうか。 ○蘭氏 共通性と相違点ですね。共通な点というのは、やはり国策で海外に行って、そこで自由 にならなかった。自分の意思でもって帰国できない。そのときに個人の力でできないことは、国 家が責任を持たなければいけないという問題があります。 その差異に関しては、非常に難しい。私は、ドミニカ移民に関することぐらいしか知りません ので、あと私が知っているのはフィリピン残留の人のことはわかっているわけですけれども、そ こでいきますと、帰国できないことによって非常に現地で厳しい生活を強いられたという点に関 しては、ほぼ変わらないと思うのです。それで日本に引き揚げてくるタイミングの違いといいま すか。特にその違いは、例えば同じ帰国者の中国残留孤児の場合でも、やはり早く帰ってきた人 と、もう90年のバブル崩壊後に帰ってきた人というのは、かなり状況が違ってくるということ がありますので、そのドミニカとの相違点も、いつ帰国してきたのか。そのときに、日本国政府 自体がある種の社会保障政策としてミニマムしか見ないということと、かなりのところまで見て いくというタイミングの違いが一番大きかったと思います。 それと、中国に残った場合には、やはり侵略したという一番大きな点、満州国をつくって侵略 したのだという歴史性、日本人は忘れても中国では忘れられないという、この側面が決定的では ないでしょうか。 ○岸委員 ただ、もう少し詰めてお伺いしますと、中国残留邦人は戦後何度か帰国するタイミン グがありましたね。最初は昭和28年に一旦終わっていますね。それから、33年までありました ね。 ○蘭氏 1958年までですね。 ○岸委員 昭和33年、長崎の国旗事件が起きる前まで、何度かにわたって帰国してらっしゃる。 この人たちの中でも、言ってみれば残留孤児に近いような形で実は引き揚げてきている方がいら っしゃって、でも、恐らく肉親が連れて帰ったんだろうと思われますけれども、どの時点から自 立支援策が必要な残留孤児であるか。どの時点からの帰国者が自立支援が必要な残留邦人である かということは、線引きができるものですか。 ○蘭氏 今のお話の中で、引き揚げというのは46年の5月6日から始まります。それで前期の 引き揚げというのは、大体40年代に終わってしまうわけです。あと53年から再開されて58年 までで、非常にわずかな人たちが帰ってくる。前期引揚げと後期引揚げ、と一般に言います。 その後も、72年までの14年間の間に500 人ぐらいの人が帰国しています。 考えてみれば、大変難しいですね。国交回復後に帰国した人たちが今ここで話をされているわ けです。 確かに、では長崎国旗事件以降に、完全に集団引き揚げがなくなった後に帰国した人に対して は何もしなくていいのかという問題も、訴えられれば出てくると思います。 ただ、その当時は完全に自己責任で個別的に対応されている。帰国支援はされていましたか、 旅費は支払われていたんでしょうか。58年以降から72年の間に、約500 人ぐらい帰っていま すね。 ○事務局 旅費の国費負担は、日本赤十字社等を通じて出ています。 ○岸委員 国費を支給していたんですか。 ○事務局 国費ですが、直接送金できなかったので、日本赤十字社等を通じまして相当部分をカ バーしていると思います。集団引き揚げ以降の個別引き揚げのことですね。 ○岸委員 引揚費用そのものが、直接彼らの手にわたっていたと。 ○事務局 船運賃は船会社に支払い、他は本人に日赤を通じ支払っていたと思います。いずれに しましても、国費で帰国できるようになっておりました。 ○岸委員 多分、現実的にはいろんな形で工面されて、恐らくこちらへ引き揚げていらしてから 清算したんだろうと想像できますね。 ○蘭氏 旅費に関しては、国の支援があったと思うのですけれども、生活に関しては引き揚げて きてから、それは先ほどから言っていますように、港までは支援するけれども、それから先は支 援しないというのが、戦後の引揚政策ですね。そこの中では、一切されてないと思うのです。だ から、72年以降、とりわけ80年代に入ってから国の支援策が変わっていったという形になって いるわけです。 ○猪口座長代理 どうぞ。 ○山崎委員 外国にこういった参考になる引揚政策はあるんでしょうか。例えば第二次大戦後、 東から西へ帰国される。それに対して特別な対応をしたとか。 ○蘭氏 一番よく言われるのは、フランスでアルジェリアに長いこと植民地に居住していた人た ちですね。アルジェリアというのは、日本の満州支配とか朝鮮支配よりもっと長くて、100 年以 上の植民地支配というのがなされていたのですけれども、アルジェリア戦争で敗戦した後にフラ ンス人としてフランスに引き揚げてくるということがあります。引き揚げてきたときには、どう いう援助をするのかといったときに、やはり住宅援助とか、そういうさまざまなものがなされて いることはたしかです。それ以上詳しいことは知りません。 ○猪口座長代理 それでは、これで質問はよろしいでしょうか。蘭先生、ありがとうございまし た。これでヒアリングを終わりにしたいと思います。 その次に、前回出席されなかった、金平委員と森田委員にお願いしたいんですが、森田委員が 次に4時から何かがあるということで、もしよろしければ森田委員の方から全般的でも、どうい うことでも御発言をお願いしたいと思います。 どうぞ。 ○森田委員 前回は、よんどころない事情で出席できませんで、申し訳ございませんでした。こ うした問題につきまして、私もこれまでそれほど勉強しておりませんでしたので、いただいた資 料を拝見いたしまして、また本日のヒアリングをいろいろ拝聴いたしまして、大変重要な重い問 題であると認識しております。どのように考えたらいいのかという、現時点で私自身まとまった 考え方を持っておりません。 いずれにしましても、帰国されて、今、大変困難な状態にいらっしゃる方がたくさんいらっし ゃる。しかも、それが御本人の責任でないということですので、それに対しては何らかの形で、 まさに総理がおっしゃるようにですけれども、日本に帰ってきたことをよかったと認識されるよ うになっていただきたいと思っております。 ただ、この問題は、制度としてどう考えるかということにつきましては、今、申し上げました ようになかなか難しいと思いますので、間違っているかもしれませんし、今後、勿論訂正する余 地があるということですが、印象だけ述べさせていただきます。 1つは、この問題を取り上げた場合、岸先生もおっしゃいましたが、今の質問から考えまして、 日本の社会保障制度で想定していなかったような、1つの問題点があると思っていまして、これ がほかのケースでどれぐらいあるかわかりませんけれども、海外から来られた方で、日本の社会 そのものに適応が難しい方をどうするかということについて、これまでの社会保障制度がそれほ どカバーしてこなかった。その意味で言いますと、それに対する、これから日本が国際化である とか、外国から来られる方が増えてくることが予想される時代にあっては、考えておかなければ ならない問題ではないかと思っております。 それで、どういう形で制度をつくるかということ と、今回の中国の残留邦人の方に、特別にどう対応するかということについては、これは対象が 残留邦人の方が多いのかと思いますけれども、制度一般の問題としても考える必要があるのでは ないかというのが、まず1点目の印象でございます。 2番目といたしましては、先ほども御意見がございましたけれども、どの程度の対応を考える のか。どういう範囲の方を、どの程度までサポート、支援することが必要なのか。これが一番難 しいところかと思います。 1つ思いますのは、やはり今、伺っている限りで言いますと、引き揚げから自立支援に政策が 変わったということですけれども、日本の国の対応の仕方の政策もあると思いますけれども、日 本の社会の一般の日本人の生活水準も変わってきた。それをベースにして自立ということを考え るところから問題が出てきたような気もします。そのことは、70年代から、特に80年代に入り ましてからは、いろんな意味で日本がかなり成長したということがありまして、その水準をベー スにしてものを考えるという問題と、もう一つは時間が経てば経つほど、自立が後から来られた 方は難しくなってくる。この時間の要素をどうするのかということだと思います。 ただ、別な面では、まさに老後の問題について不安をお持ちだということはよくわかりました けれども、日本人の多くの方にとりましても、これからの医療、社会保障の問題というのは大変 深刻な問題であるわけでして、その中でどのように位置づけていくのかということが2番目のコ メントです。 3番目について申し上げますと、やはり最初の1点目と関連いたしますけれども、ハード面と いいましょうか、制度をどうして、どのような形で財政的な支援をするかという問題だけではな くて、受け入れる場合の社会的なソフトウェアの問題がかなり関わってくるという気がします。 こちらの方は、今までまさに外国から日本の社会を余り御存じない方というのは、全く想定され ていなかったところと思います。そちらの方については別に考える必要があるという印象を持ち ました。 それぐらいでございます。 ○猪口座長代理 どうもありがとうございました。 金平委員、どうぞ。 ○金平委員 時間がないようですけれども、私はこの会議の委員をお引き受けすることに、実は 大変躊躇いたしました。と申しますのは、問題が私にもよく見えない。これだけ大きな問題にな っていながらよく見えない。これは一体何なんだろうと思いました。 告白しなければならないのですが。私は、実はちょうど残留孤児の来日調査が始まった頃に、 自治体の職員でございまして、勿論、国の政策でございますけれども、自治体もかまなければい けない。こういう形の中で、オリンピックセンターに来日され、調査が始まったときに、私はた またまそこにおりました。そこでいろんな面接とか調査が進んでいきまして、家族と出会う人、 出会えない人、こういうのを見つめていたというか、見守っていたのでございます。 そして、帰国が始まり、国の制度というものは、当然自治体でいろいろと手当してまいります から、私ども自治体としても住まい、即ち都営住宅を用意し、日本語の講座をつくりというふう に次第に環境を整えておりました。 ここまではいいんですけれども、それを整えている横から日本語の習得が難しいということ。 それから、どうも生活習慣の違いから、周辺との折り合いがすぐにはいかないという声も聞こえ てきました。受け入れ制度ができるということと、この方たちを本当に我々のところで受け入れ ることができるのか、と考えました。そこでそういう住宅のところまで実際に行ってみたのです。 地域の方と何とか交流しようとして、これは地域の人の中にもそういうお気持ちがあって、ギョ ウザを一緒につくるといった努力がされているのを見ました。こういう形で日本人も、新しく帰 って来られた日本人である孤児の方たちとだんだん融和して、1つのコミュニティーができるか なという思いをしながら、私はちょうど退職のときを迎えまして退職してしまいました。 ここが、私が今回引き受けるのにじくじたるものがあるところですけれども、課題があるとい うことはわかっていました。しかし、今日、言われるような問題の深刻さは、自治体の立場でも よくわかりませんでした。実際に同じ住宅に住み、何となく急にそこに外国から帰ってきた人を 受け入れてしまったというか、引揚孤児の課題を十分考慮しないままに日本での受け入れ政策と いうのが始まったように思います。 私は退職しまして、当然のことのようにその問題から目を離してしまいました。ですから、そ れから22、23年経って、今、裁判が起こったときに、正直驚きました。私たちの社会が、制度 そのものが一体どうであったのかということと、我々の社会がこの新しい日本人をどう受け入れ たのか。このことの整理がつかないままで、問題が大きくなっているのかということを感じざる を得ませんでした。 私はこの問題にかかわりながら途中で中断してしまった人間として、とても委員として論じる ことはできないのではないかと思ったのでございます。しかし、私はあえてお引き受けすること にいたしました。 やはり、なぜ裁判が起こったのか。ここら辺のところをもっと、私を含めた、いわゆる受け入 れた側が考えなければいけないのではないかということ。また、いろんな問題がございますから、 ちょっと時間がございませんけれども、まず実態を知ることが必要だと思いました。今日も大変 いいお話をお3人から聞きましたし、また研究者の先生からも伺いました。こういう問題につい て、まず裁判が起こってしまっている、起こさざるを得なかった引揚者の方たち、そしてそれを 起こしてしまって、そのことの問題性に気づかなかった我が社会の問題、ここら辺のことを考え ないで、何か小手先の解決というのは、また禍根を残すんではないかという感じがしております。 そこで、今後どうするかということですが、法的な責任がないとしても、やはり日本人として 帰国を果たした方たちが、こんなにも社会で困難な生活をしていらっしゃる事実は、何らのか支 援策を国として考えていく必要があると思いました。 今後どうするかということの中に、私も日本の社会保障制度の中で、まずは考えてみなければ いけないと思います。しかし、それだけでは解決できないことがあることも事実なので、そこら 辺をどう模索するかということになるかと思っております。 現時点で4点だけ申し上げておきたいと思います。 第1点としては、国がこの問題をどう受け止めるか、どう考えるかという姿勢ですが、これを この際はっきりした方がいいように思いました。 第2点としては、受け入れた社会、地域というんでしょうか、これが今後どういう姿勢で臨め るか。国民と言ってもいいんですが、国民と言うと遠くの方に行ってしまいますので、やはり引 揚邦人と一緒に暮らす我々、同じ世代を生きる我々が、どういう姿勢で今後生きていくかという ことを、この際考えていくべきではないか。それこそが、本当の意味で地域にその方たちを根づ かせ、本当に心の安らぎのある地域社会の中で定着していただくことになるのではないかと思っ ております。 第3点としては、私の反省も含めてですけれども、この残留孤児の問題というのは、オリンピ ック村で親探しを華々しくライトを浴びながらいろいろやっていたときは、非常に国民が関心を 持ったと思いますけれども、それ以後ほとんど関心を持たなかったということは、情報がほとん どこの問題に関してなかったように思います。今、委員をお引き受けしたから、改めてこのこと に関して書かれているいろんな本とか、公判の記録を読んでおりますけれども、一般の人たちが まだまだこの実態を知るだけの情報がないように思います。なぜ情報がないのか、情報がなけれ ば課題はますますもって深く、しかも場合によって拡散してしまうと思いますので、やはり情報 の問題は指摘したいと思います。 最後に第4点としては、この問題の解決には時間の問題を指摘したいと思います。みんなも高 齢になってきておられる。今日もお話を伺って、そのことを強く感じました。時は待ってくれな いので、いろいろな問題はまだまだ改めて出てくるかもしれませんけれども、やはり時間がない。 なるべく早く解決することが必要ではないかと思いました。 とりあえず、以上です。 ○猪口座長代理 どうもありがとうございました。 それでは、時間もありますので、今日はとても率直で真摯な意見発表及び濃密な議論をありが とうございました。更に議論を深めていきたいと思います。 次回の開催については、事務局から御連絡をお願いいたします。 ○野島援護企画課長 本日はありがとうございました。次回の会合でございますが、5月30日 水曜日の午後5時、17時から省内の16階、専用17会議室で開催を予定しております。委員の 皆様方におかれましては、よろしくお願い申し上げます。 ○猪口座長代理 それでは、次回は5月30日でございます。今日は、予定の時間よりちょっと 遅れましたが、皆様大変ありがとうございました。 (照会先)  厚生労働省 社会・援護局 援護企画課 中国孤児等対策室 内線3417