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第8回
資料3
最低賃金の決定基準


1 最低賃金法第3条の解釈
第3条(最低賃金の原則)
 最低賃金は、労働者の生計費、類似の労働者の賃金及び通常の事業の賃金支払能力を考慮して定められなければならない。

 この3原則は、最低賃金の決定に当たっていずれも考慮されるべき重要な要素であって、そのうちの何に重点があり、何はこの次というような順位はつけ難い。3つの観点から総合勘案して最低賃金を決定すべきものである。

「労働者の生計費」
 労働者の生活のために必要な費用をいうが、最低賃金決定の際の基準として労働者の生計費が考慮されるべきことは、最低賃金制が労働者の生活の安定を第一目的としていることから当然である。この場合、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定する憲法第25条、「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。」と規定する労働基準法第1条の精神が尊重されるべきことはいうまでもない。
 ただ、労働者の生計費を算定する場合にも、本法の趣旨を生かす現実的な方法としては、一定の理論の下に最低生計費を算定し、それを絶対的なものとして利用することは、必ずしも妥当な方法ではない。たとえば、生活保護基準、人事院の標準生計費等も参考とされようが、生活保護基準は、交通費等も含まない要保護者の最低生計費を基礎としており、労働者の生計費とはおのずから異なるものである。また、人事院の標準生計費も、必ずしも最低生計費とはいえない等の問題もあるので、直ちにこれらを全面的に用いることはできない。
 また、労働者の生計費として、単身の労働者の生計費を参考とするのか扶養家族のある労働者の生計費を参考とするのかということも問題であると考えられる。現在決定されている最低賃金には年齢階層別に決定されているものはなく、単身の労働者も扶養家族のある労働者もいずれも対象としていることから、直接に参考とされるのは若年単身労働者の生計費ということになる。

「類似の労働者の賃金」
 例えば、業種別かつ地域別に決定される産業別最低賃金を決定する場合においては、当該地方における同種ないし類似の事業に従事する労働者の賃金水準、これらのないときは当該地方の労働者全体あるいは低賃金労働者の賃金水準、他地方の同種の事業に従事する労働者の賃金水準等であり、地域別最低賃金を決定する場合においては、当該地方の労働者全体あるいは低賃金労働者の賃金水準等である。
 とくに、本法第11条の労働協約に基づく地域的最低賃金の決定の場合には、一定の地域内の事業場で使用される同種の労働者およびこれを使用する使用者の大部分に適用される労働協約がその基本となっていることから、当該原則が重要な意味を持っている。
 「類似の労働者の賃金」を把握するための資料としては、厚生労働省で行っている「賃金構造基本統計調査」および「毎月勤労統計調査」等を参考にすることはもちろん、最低賃金を決定する際にこれと関連して必要な範囲において調査を実施して資料を得ることも必要であろう。

「通常の事業の賃金支払能力」
 当該業種等において正常な経営をしていく場合に通常の事業に期待することのできる賃金経費の負担能力のことであって、個々の企業の支払能力のことではない。
 一般的にいえば、業種等の賃金支払能力を概括的に把握するためには、経済産業省「工業統計」等によって出荷額、付加価値額等を検討することによって可能である。


2 ILO条約第131号(1970年ILO採択、1971年日本批准)
第3条
最低賃金の水準の決定にあたって考慮すべき要素には、国内慣行及び国内事情との関連において可能かつ適当である限り、次のものを含む。
(a) 労働者及びその家族の必要であって国内の賃金の一般的水準、生計費、社会保障給付及び他の社会的集団の相対的な生活水準を考慮に入れたもの。
(b) 経済的要素(経済開発上の要請、生産性の水準並びに高水準の雇用を達成し維持することの望ましさを含む。)

第3条の趣旨
 本条は、最低賃金をどの程度の水準にするかを決定するにあたり考慮すべき要素には、社会的側面にかかわるものとして、国内の賃金の一般的水準等を考慮に入れた労働者およびその家族の必要を、また、経済的側面にかかわるものとして経済開発上の要請等を含む経済的要素を、国内慣行及び国内事情との関連において可能かつ適当である限り、含めなければならないとするものである。
 かかる規定は、第26号条約にはなく、本条約においてはじめて設けられたものであるが、この問題が各国の社会的、経済的諸条件と密接に結びついているものであるため、本条は各国の事情等に応じうるよう弾力的に規定されているところである。


 ILO事務局ジェラルド・スタール「世界の最低賃金制度」(「Minimum wage fixing」, 1981)(労働省賃金時間部訳)による整理

第5章 最低賃金の決定基準

 賃金水準の決定の指針となる意義ある基準を明確にすることは、最低賃金行政にとって最も厄介な局面の1つとなってきている。このような基準は、しばしば、最低賃金がその目的にかない、かつ、政策決定が独断的ではなく、原則に基づき、合理的に行われることを確保するために、死活的な重要性を持つものであるとみられている。さらに、ときには、その決定過程に関与しているものの間の避けることのできない見解の相違を歩み寄らせる一手段とも考えられる。しかしながら、一般的に適用でき、かつそれにもかかわらず明快であるという基準を定めるということは、よく知られているように至難の技である。あらゆる段階で最低賃金の決定に関連していると考えられるさまざまな要素をカバーするために、その基準は、結局ある程度抽象的な概念で表現されがちである。これらの一般的な概念を運用する手法も簡単に得られるものではない。そこで、まず本章においては、最低賃金関係法令の中に規定されているさまざまな基準を検討することから始めることとし、そして、最も広く認められている基準に関する主要な問題と、これらの基準と既に述べた最低賃金の果たす役割との関係について考察することとし、最後に、その基準が実際にどのように適用されるかについて若干の解説を加えることとしたい。

 実例とその特徴

 明らかに難しいことであるにもかかわらず、多くの国では、多かれ少なかれ法令の中で最低賃金の決定に当たって考慮すべき基準を明らかにしている。例えば、細部にわたって規定することなく、単に、最低賃金は最低限の必要を十分に満たすべきであるということを規定しているにすぎない事例がいくつかある。そのうちの1つであるコスタリカの1949年憲法は、同一労働同一賃金の要求は別にして、すべての労働者にその健康と人間としての尊厳を保証する最低限の賃金が与えられなければならない、と宣言している。これに関連するその他の指針は、1949年最低賃金法の中に見いだせるのみで、賃金の決定は「その家族の幸福に寄与し……富の公正な配分を促進するものでなければならない。」と規定している。国によっては、法律で何を最低限の必要とするかについて簡潔に規定されている。例えば、イラクの労働法典は、賃金は、衣食住に関してはその最低限の必要が満たされる人間らしい生活を労働者に保証するに十分なものでなければならない、と規定している。ブラジルにおいては、最低賃金の水準に関する唯一の指標として、いついかなるところにおいても、食事、住居、被服、保健衛生および交通に関する労働者の通常の要求を満たさなければならないと規定している。同様に、アルゼンチンにおいて、法律の中に規定されている唯一の基準は、最低賃金は、単身の労働者に、十分な食事、適当な住居、教育、被服、医療、交通、レクリエーション、休暇および保険を保証しなければならないということである。メキシコにおいては、考慮に入れるべき最低限の必要についてさらに詳細に規定している。すなわち、憲法と連邦労働法の双方において、最低賃金は、世帯主の社会的、文化的な通常の必要を満たし、その扶養する子弟に義務教育を与えるに十分なものでなければならないと規定しており、連邦労働法が全国最低賃金協議会の専門部会において検討しなければならないと義務付けている事項としては、1世帯人員に応じた生計費、消費市場における経済状況ならびに各世帯における「なかんずく、住宅、家財、食糧、被服および交通のような物質的必要;娯楽、スポーツ、学習、図書館や他の文化施設のような社会的・文化的必要;子弟の教育費」といった必要を満たすに不可欠な経費が挙げられている。
 最低限の生活賃金を保証しなければならないという社会的基準を明白にすることに加え、法律は、しばしば経済的制約を考慮に入れなければならないことを明らかにしている。この点に関する条文の大半はきわめて簡単なものである。例えば、合衆国公正労働基準法は、雇用と稼得力を実質的に減少させることなく、労働者の健康、能率および一般的な幸福に必要な最低限の生活を維持するに有害な状況を修正し、かつ、実際上可能な限り早急に排除する必要について言及している。フランス語圏の多くの国における唯一の制限的条項は、最低賃金の決定に関与する三者構成の諮問機関は「最低限の生活賃金」ならびに「経済状況」について検討しなければならないと規定しているものである。また、日本の最低賃金法は、簡単に、「最低賃金は、労働者の生計費、類似の労働者の賃金および通常の事業の賃金支払い能力を考慮して定めなければならない。」と規定している。
 法律が一般最低賃金と同様に産業別最低賃金を規定している国においては、基準はしばしば幾分詳細に規定されている。ペルーの最低賃金制度の根拠法は、働く者はすべて、公正で、かつ、本人とその家族に人間の尊厳に合った生活を確保させるに十分な報酬を与えられる権利を有するべきである、と規定している。さらに、最低賃金の決定は、規則に規定された一定の様式で決定される各々の地域または部門に応じた生計費、当該業務の性質、態様および生産高、当該地域における一般的経済状況ならびに経済活動または当該部門の特殊状況を考慮して行われなければならないとされている。ホンジュラスの1971年最低賃金法では、最低賃金は、経済状況と競争状況に鑑み、当該産業において無理なく支払うことのできる最大限の水準に設定されなければならず、かつ、それは競争上特定の地域を他の地域よりも有利に立たせるものであってはならない、と規定されている。さらに、同法は、各々の仕事の特性、各々の地域や業務における特殊な状況、生計費、労働者の適性および企業における給与体系の研究結果を考慮に入れることを求めている。
 最後に、最低賃金の決定に当たって経済的考察が詳細に行われている事例としてフィリピンを紹介する。同国の労働法典では、最低賃金は、国家の経済社会開発計画の枠組みの中で、労働者の健康、能率ならびに一般的な幸福を維持するに必要最低限の生活水準を保つことを経済的にほぼ可能にするものでなければならない、と規定されている。その決定に当たっては、なかんずく、生計費、経済的に比較可能な賃金と他の所得、投下資本への正当な報酬、そして経済的社会的発展のための要請について検討しなければならない、とされている。関連法令は、最低賃金委員会に、最低賃金の引き上げが、物価、貨幣供給、雇用、労働力移動および生産性、労働組合、国内外の交易ならびに社会的経済的発展のその他の関連指標に与え得る影響と同様に、労働者に無償で提供される社会的サービスや給付を考慮に入れることも義務付けている。加えて、どの程度が投下資本への報酬として正当であるかを合理的に決定しがたい場合、あるいは当該産業が営利事業ではない場合には、あらゆる財源を勘案してその賃金支払い能力が考慮されなければならない、とされている。
 事例が示すように、国の法律に規定されている最低賃金の決定にかかる基準は、短く基本原則を規定したものから長々と考慮すべき要素を並べ立てたものまで実に多種多様である。この基準の件に関して、国の法律は全く何も触れていない事例もある。カナダ、オランダおよび連合王国ならびにイギリス法の影響を受けている多くの国々(例えば、バングラデシュ、インド、ジャマイカ、ケニア、スリランカならびにタンザニア)では、実際に何も規定がない。これらの国々では、賃金評議会、賃金協議会またはその他の賃金決定機関は、周囲の状況から最も適当であると考える基準を自由に採用できる。このような取り組み方を正当化する議論として、主要なものが2つある。その1つは、産業評議会または協議会は労使双方が十分に組織されるまでの賃金決定の過渡的方法であると考えられているところにおいて、定まった基準がないほうがより団体交渉に近い形で決定を行えるという議論であり、他の1つは、通常利用されている基準は不明確で法律の中に規定するのは適当ではない、あるいは意義ある指針としては機能しないと考えられるという議論である。
 国際的水準でも、最低賃金水準の決定に当たって利用されるさまざまな基準を明らかにし、要約する試みが幾度か行われてきた。ILO第26号条約(1928年)にもILO第99号条約(1951年)にも基準に関する規定は含まれていないが、第30号勧告(1928年)は以下のように述べている。

 賃金決定機関は、最低賃金水準を適正に決定するためには、いかなる場合にあっても、当該労働者に適正な生活水準を維持させなければならないということを考慮しなければならない。この目的のためには、十分に労働者が組織され、効果的な労働協約が締結されている業種における類似の労働者に支払われている賃金水準にまず注目しなければならず、もし、そのような参考となるべき水準が周囲から得られない場合にあっては、国全体あるいは特定地域で一般的となっている平均賃金水準を参考にしなければならない。

 同様に、第89号勧告(1951年)、これは農業に適用されるものであるが、賃金決定機関は「当該労働者に適正な生活水準を維持させなければならないということを考慮すべきである」と、提唱している。特に検討すべき事項として列挙されているものは以下のとおりである。生計費、提供されたサービスの公正かつ合理的評価額、農業における労働協約が締結されている場合の類似または比較可能な仕事に対して支払われている賃金、ならびに労働者が十分に組織されている分野の他の産業において比較可能な技能を要する仕事に対して支払われている賃金。
 ILOが1969年と1970年に再び最低賃金について検討した際には、最低賃金が多くの国で既存の文書から予期された以上に大きな役割を果たしていた。特に、開発途上国においては全国的経済的効果が無視できないものであったという事実が明らかになった。したがって、ILO第131号条約(1970年)は、最低賃金の決定基準として既に取り上げられていた社会的配慮と同様に多くの経済的要素を列挙した。第3条は以下のように述べている。

 最低賃金の水準の決定にあたって考慮すべき要素には、国内慣行および国内事情との関連において可能かつ適当である限り、次のものを含む。
 a 労働者およびその家族の必要であって国内の賃金の一般的水準、生計費、社会保障給付および他の社会的集団の相対的な生活水準を考慮に入れたもの
 b 経済的要素(経済開発上の要請、生産性の水準ならびに高水準の雇用を達成しおよび維持することの望ましさを含む)

 これと同様の基準は若干、形は違うが、第135号勧告(1970年)の中にも見受けられる。
 この段階での論評は、用いられている基準の一般的特質にその根拠を求めることができる。すなわち、まず第一に、通常、最低賃金の決定機関はそれらの基準の解釈と適用に関して広い裁量権を与えられている、ということである。かつてチリにおいては、最低賃金は「当該業務が行われる町または地域における同質または同種の賃金労働者が同種の業務を行った場合に通常またはその時点で支払われる賃金または実際に支払われている賃金の3分の2を超え4分の3を下回らなければならない」と規定されていたが、このように精緻な規定はまれである。基準は通常きわめて抽象的で、それを運用可能なものにするのが最低賃金の決定機関の仕事となっている。また、基準のいくつかは通常同一視されるものであり、例えば、法律が生活賃金を保証する必要にはっきりと言及している国においても、それは経済力とその国の開発段階を考慮に入れることを意味していると一般的に解されている。さらに、ILO第131号条約(1970年)の第3条にみられるように、最低賃金の決定機関は経済的関心と社会的関心の双方の均衡を図ることを期待されている。さまざまな基準が規定されている国において、それらの相対的な重要性は明確にされていない。最低賃金の決定機関こそ、各々の心に抱く最低賃金の役割と関連する目的に応じてこの決定を行わなければならないのである。後に示されるように、最低賃金の決定の目的と基準の間には緊密な関係があり、事実、時には、この2つを区別することは容易ではない。
 最低賃金の相対的な水準を決定するために形成された基準の大半は、以下の4つの基本的な概念に分類される。(i)労働者の必要、(A)比較可能な賃金と所得、(B)支払い能力ならびに(C)経済開発の要請。次の節においては、これらの概念の各々がどのように解釈され、適用されているかについて考察することとし、率の改正について記述している次章においては、これらの要素を、最低賃金を改正するに当たってより関連の深い要素である生計費の変動、賃金の趨勢および生産性の向上のような要素について触れることとする。

 労働者の必要

 多くの国において、生活賃金という概念は最低賃金ができた当初より最低賃金という概念に密接に結び付いており、多くの憲法と法律において、生活賃金は最低賃金を決定するための重要な目的であり、かつ、基準であると宣言されてきた(例:アルゼンチン、ブラジル、チリ、コロンビア、コスタリカ、イラク、メキシコおよびパナマ)。法律が目的や基準について何も規定していない国においてさえも、労働者の必要という概念は、最低賃金の水準に関する国の議論の中おいてしばしば重要な要素であった(例:インドおよびインドネシア)。いくつかの国においては、経済開発戦略の1つとしての基本的必要の充足というものに対して次第に関心が高まるにつれ、この概念に対する関心が再燃した。したがって、当初多くの最低賃金決定機関が、とりわけ最低賃金制度の適用範囲が広い開発途上国において、労働者の必要を満たすに不可欠であると考えられる財とサービスの量を具体的に明確にしようとし、かつ、必要な所得を計算するためにこの“バスケット”に値段をつけることを仕事としてきたということは驚くべきことではない。最低賃金の水準を決定するためのこのような具体的な率直な取り組みには無視できない魅力があるけれども、この適用に当たっては多くの困難に遭遇する。このため、必要性の基準は他の基準よりもおそらく最低賃金または生活賃金の本来の概念に近いものであろうが、実際には最も議論があり、かつ、とらえ所のない基準指標となっている。
 問題の一部分は、何が生計費の中に含まれるべきかを決定するに当たっての目的に合った客観的な方法あるいは一般的に異論のない方法を誰も明らかにできないということである。食物が必要であるということは最も異論のないところであると考えられるけれども、この関係においてさえ深刻な問題が生じる。専門家による通常の栄養の必要量の計算はまちまちであり、世界の大部分の地域においては、多くの人が所定の基準をはるかに下回る栄養の下で何としても生き延びなければならないという状況にある。さらに、肉体的特質や作業や環境の違いにより、個々人の必要量がそれぞれ異なる。性や年齢による違いを斟酌して必要量の計算が行われるにしても、体重、健康状態、作業環境や労働密度の違いは、それが必要量の計算に大きな影響を与えているとしても、それらに応じてを計算するということは通常現実的なことではないと考えられる。FAO/WHOの行ったある研究によると、男女別の1時間当たりの平均エネルギー消費量は、それぞれ、軽労働で140と100カロリー、通常労働で175と125カロリー、重労働で300と225カロリーであるとされている。同じ研究によると、体重65kg、年齢20〜39歳の男子の1日当たりの必要カロリーは軽労働で2,700カロリー、例外的な労働で4,000カロリーとされる。カロリー、たんぱく質、ビタミンならびにミネラルと、それぞれの必要な食物の量を計算しようとすると問題はさらに難しくなる。これらの食物は、一般的な習慣や好みに応じて変化をつけたり、おいしくしたりすることよりもむしろコストを引き下げることを優先させるか否かによって非常に異なるものである。また、家計を預かる者が栄養学的にみて最善の形で食料品を購入し、調理し、食卓に提供するということを期待するのは非現実的であるという現実の下に、必要量の計算がどの程度余分を認めるべきかということも明白ではない。
 食物以外の要素となると、問題は一層複雑なものとなる。生存や生き残りのために必須だと考えられる消費支出のみが考慮されるべきであろうか、それとも社会的必要も同様に考えられるべきであろうか。そして、もし前者であるとするならば、被服、住居、健康および交通費に関して何が必須の支出であるかをどのように決定するのであろうか。社会的必要というものを考慮に入れるところにおいては、社会的必要という概念は人間の尊厳というものに密接に結び付いているように思われる。すなわち、労働者世帯が、貧困によって、同様の社会集団における他の世帯と画された、あるいは地域社会において確立された習慣を守れないような生活の仕方を余儀なくされるようなことがあってはならない、という見解が広く認められている。しかし、この貧困の概念は、当該地域社会における窮乏から、欠乏、そして充足へと途切れることなく変化しているスペクトルの上で、被服、住居、教育のような費目に対する社会的必要と文化的、娯楽的要求が満たされる水準点を正確に指摘するための明確な指標とはなり得ない。あらゆるものあるいは食料品以外の消費支出の大部分について絶対的基準を打ち立てることは困難であり、その困難さゆえに、いくつかの国においては、結局、間接的なアプローチしかできない結果となっている。例えば、必要な全所得を計算するために低所得世帯の家計調査による全消費支出に占める食費の実際の割合が、栄養学上必要な食費の推定に用いられうる。あるいは、このような調査による特定の非食料品費目の実際の支出が生計費の推定に用いられうる。しかしながら、このような方法は、観察された非食料品費目の支出の型が、満足のいくものであり、必要的であり、あるいは本質的であると考えられるものに合理的に相等しいとし得るか否かという議論を回避するものである。非食料品支出が国家の状況(例:気候、社会保障機構)、特にその国が到達している経済開発段階に応じて多様たらざるを得ないということは広く認識されているところであり、それゆえに、非食料品支出の絶対的な基準を定めるということはさらに困難となる。合衆国においては、非食料品支出は、おおまかに言って貧困層と評価される世帯の所得の3分の2を占めると見なされているが、これに対して、開発途上国においては2分の1から4分の1と見なされている。
 たとえ何らかの形で必要なものを列挙することができるとしても、最低賃金の決定のためには誰の要求を査定すべきかという問題が依然として残る。基準とすべき労働者は、独身者かそれとも世帯主か。もし、後者を選択すると、そのほうが実際的であることが次第に分かるのであるが、家族構成をどのように想定すべきであろうか。代表的あるいは理想的と考えられる構成(例:夫、妻、2〜3人の子供)を想定すべきか、あるいは統計上の平均的あるいは典型的な家族構成によるべきであろうか。もし後者の手法を採るとすると、その統計は全労働者を対象としたものであるべきか、それとも最低賃金の引き上げによって影響を受けるような労働者のみを対象としたものであるべきであろうか。最低賃金は、世帯主に家族のすべての必要をかなえさせてやれるようなものであるべきか、それとも1世帯当たりの平均的有業人員数を考慮に入れたものであるべきであろうか。フルタイムの労働者を想定すべきか、それとも低賃金層の年間当たりの実労働時間数を計算の基礎とすべきであろうか。明らかに、これらの質問にどう答えるかによって、何が労働者の必要を満たすに必須の所得であるかという答えが非常に大きく変わってくるであろう。しかしながら、必要なものを選択する簡単な手法はなく、また、実際のところは国ごとに非常に多種多様である。さらに、どのような家族構成、あるいは所得稼得パターンを選択しようとも、不完全な標本であることを避けることはできない。もし、しばしば見られるように、フルタイム労働者を前提として、「平均的」家族にとっての必要な賃金が計算されるとすると、それは、不安定就労の稼ぎ手がいるだけの大家族にとっては悲しいほどに不十分なものであろうし、また、独身者にとっては余りあるものであろう。
 したがって、生計費の見積りを用いて直接必要な最低賃金を計算することができると、一般的に証明できない、あるいはどのような水準であるべきかという議論に出発点としても利用できないというのは、驚くべきことではない。生計費の中に何が含まれるべきかという点について十分な合意を得ることができない事例がいくつかある。例えば、フランスにおいて1950年に全国最低賃金が初めて設定された際、労働協約委員会の労使委員はパリ地区の独身労働者の食費に関してのみ合意に達することができただけであった。最終的には生計費は確定されたのであるが、それは決して直接的には最低賃金水準に連動しはしなかった。同様に、合衆国においても、最低賃金水準と貧困線の推定所得とはしばしば比較されるのであるが、後者のほうは最低賃金水準がどうあるべきかの計算に当たって直接用いられるわけではない。最低賃金を支払われる労働者の所得が4人家族の貧困水準所得に対する比率は、1959年においては70%であったが、1978年まで次第に上昇して84%までになった。
 絶対多数ではないとしても、開発途上国の多くにおいては、必要とされる推定所得は一般の賃金水準よりあまりにも高いため、最低賃金の決定に当たって大して意味ある根拠とはならない。例えば、ホンジュラスでは、1977年の生計費に関する政府調査で、5人家族が十分な食事を取るだけのためには1日当たり5.21レピアの所得が必要であるということが示された(1レピア=0.50US$)。ところが、その数ヶ月後に、製造業部門において1日当たりの最低賃金を地域に応じて3ないし4レピアとする法律が設定された。同様に、東パキスタンの綿織物工業の最低賃金評議会は、最初の報告において最低賃金を賃金労働者がその家族に十分な食事を与えるに必要な推定経費、それは現行賃金水準の2ないし3倍以上となったが、の2分の1以下に押さえることを勧告した。インドにおける1月当たり196ルピーという最低賃金は中央政府に雇用される労働者のために設定されたものであり、第3次俸給委員会(1970〜73年)による3つの消費単位からなる1世帯当たりの必要経費の計算に基礎を置いたものであったが、賃金、所得および価格調査会は、1978年5月に発表した報告の中で、全国最低賃金は必要経費にのみ基礎を置くことはできないという意見を発表した。その報告は、結局150ルピーまで引き上げられるべきものとして、1月当たり100ルピーを提唱した。最後の事例として、インドネシアにおいては、国中のすべての労働者が「最低限の生理的必要経費」(KFMsとして知られる)の推定値に完全に等しい賃金を得たとしたならば、必要とされる総所得は国内総生産をおおよそ25%上回るとの計算が、1973年に示されている。その高い水準ゆえに、KFMsは最低賃金の直接的指針というよりも最終的な目標と認識されるに至っている。
 これらのわずかな事例は、最低賃金の決定の際に必要性の基準によって作り出されるジレンマを示している。もし必要とされる生計費があまりに狭く限定されると、実際に支払われる賃金にほとんど影響を与えず、不当に低すぎる賃金を支払うときの言い訳に使われかねない。しかし、必要経費が貧しい経済社会の中であまりに広く解釈されると、賃金を非常な貧困の中で労働者の多くを失業に追いやるような水準に導いてしまいかねないのである。しかし、貧困水準の所得を推定しようとすることには何の意味もないということは言えない。全くその逆である。このような推定によって、政策立案者が貧困の広がりと程度を把握し、貧困者の特性の輪郭を描けるようになるという点において意義を有するということは疑いのないところであり、しばしば、基本的に必要な開発戦略の重要な要素の1つを構成しているとみなされている。それにもかかわらず、必要性の基準を最低賃金決定の唯一の基準としては用いることはできないと、現在広く受け取られているのである。
 このことは、必要という絶対的基準は最低賃金の決定にどのような役割を果たすべきであるかという問題に導く。いくつかの学説が出ており、ある者は、「必要」は多かれ少なかれ独断的な形でしか決められない相対概念であるから、最低賃金決定機関が、たとえ、それに関する検討や意見の相違の調整に多くの時間を費やしたとしても何も益するところはないと主張する。それ以上に、何が必要であるかという議論にとらわれると、誤った期待を引き起こし、最低賃金というものは、貧困を克服する1つの手段にすぎないというよりも、むしろ主たる手段であるという誤った確信を助長させかねないと危惧されるとする。
 この説に立つ者にとって、最低賃金決定機関に真に求められていることは、「必要」なものを列挙するという多かれ少なかれ手間の掛かる試みを行う代わりに、経済的に可能な限り低賃金を引き上げることを公約することにつきるのである。これに関連して、多くの国(アフリカのフランス語圏の大部分の国を含む)で、最低賃金決定機関が現実の最低限の生計費を把握するという作業を放棄していることに注目すべきである。その代わりに、例えば消費者物価指数で示される基礎的財とサービスの価格の傾向や、購買力の維持という観点から、しばしば、より直接的に問題となると思われる事項に細心な注意が払われている。
 またある者は、もし、必要に関して詳細な考察を行うならば、何が本質的あるいは望ましいかという抽象的な意見に基づいてではなく、むしろ小作農のような適当な参考となる低所得階層の実際の消費パターンに応じて経験的に決すべきであると主張する。これは「必要」な生計費の適切さを維持しつつ、種々の労働者集団間の不平等の拡大を引き起こさせない唯一の方法だと思われる。このようなアプローチは、第30号勧告(1928年)で取り上げられているように思われるが、本質において、絶対的な定義に対立するものとしての必要の相対的定義を行い、かつ、それは間接的に「比較可能な賃金と所得」という基準に重きを置く結果となっている。
 第3の説は、必要について絶対的基準を定義しようとすることは困難であり、この基準を最低賃金水準の計算に当たって直接的あるいは排他的に用いることは不可能であるにもかかわらず、最低賃金決定機関が必要に関して詳細に考察を行うことは依然として有益である、と主張する。この第3の説に立つ者は、社会科学における多くの他の概念がそうであるように、必要というものを正確に把握することはできないにしても、それは、多かれ少なかれその社会において共通の認識をもたれており、その認識には、さまざまな手法(栄養、住居、保健衛生および教育に関する入手可能な技術的指標または基準、異なる所得階層間の消費構造の差異を示す家計調査、労働組合員と使用者、経済学者と社会学者の見解の対立の調査研究)で迫ることができるのだと論じる。たとえ労働者とその家族のすべての必要を満たす所得をただちに獲得できなくとも、このような必要の計算は、最低賃金政策の長期的目標、多分余裕のある部門についてはもっと短期的な目標を、立てるに役立ちうる。また、そのような計算は、政策決定者に、彼らが関与しているのは経済的抽象概念ではなく多数の労働者の生活の源泉であるという事実を決して忘れさせないようにする一助ともなるように思われる。したがって、必要に関する考察は必要とされる所得水準を満たすに無力であると主張する者に、証明責任の一部が移るであろう。また、変化する消費者物価に密接に連動させながら最低賃金水準を改正することの必要を無視できにくくなるであろう。実際に多くの国では、基礎的必要生計費は、絶対的基準としてではなく、次第に、低所得階層の購買力を維持するに必要な最低賃金の引き上げ額を計算する基礎として用いられてきているようである。

 比較可能な賃金と所得

 「比較可能な賃金と所得」という概念は、法律の中に規定されている他の最低賃金の決定基準と同じような注目を集めることはめったにないが、実際には政策決定において支配的でないとしてもしばしば重要な事項である。当該最低賃金の影響を直接受けそうな労働者の賃金と所得水準に関する入手可能なすべての指標について、比較可能と判断される他の労働者グループのそれと同様に、詳細な調査を行うことが、最低賃金決定当局の審議の出発点である。既存の賃金と所得に関する資料だけでは不十分と考えられる場合には、特別な調査が頻繁に実施される。この確認された実際の賃金と所得のパターンに対しては、引き続いて、どう修正すべきかが産業経営者の支払い能力や労働者の必要のような他の基準を考慮することによって判断されるのである。
 比較可能性という基準の卓越性は種々の方法で明らかにすることができる。まず第一に、この概念は、最適の経済効率のための条件のひとつは、あらゆる生産要素がその機会費用、すなわち、他の機会で得ることができるかもしれない最も高い報酬に匹敵する給付を受けることである、とする新古典経済学理論における重要な命題に密接に結び付いている。もっと直観的には、実際の賃金と所得のパターンは、一般に、完全に恣意的なものではなく、むしろ種々の部門における生産性と所得稼得能力との均衡も含め、相拮抗する労働力供給と需要圧力の間の均衡を反映していると考えられている。これゆえに、既に記述した事例においても、種々の集団の実際の平均的所得を、労働者とその家族の必要を満たすための経済力の第一の指標として用いているものがあるのである。
 そこで繰り返しになるが、最低賃金規制を通じて所得の構造と水準を受け入れがたい経済的反動を引き起こさせずに修正し得る範囲は限られていると一般に考えられているがために、このような修正の余地は、賃金と所得の比較という方法によってのみ測り始めることができるのである。したがって、最低賃金の役割が「安全網」または最低限の保証ということに限定されるべきであると信ずる者にとって、賃金が不当に低いと考えられる水準を決めるために第一になすべきことが、実際の賃金と所得の調査であるのは自然なことである。また、最低賃金は未組織、低賃金業種の弱い立場にある労働者を保護する手段の1つであるとみられているところでは、最低賃金を他の部門で支払われている賃金と整合性の取れたものにすることに最大の関心が払われる。同様に、「公正な」賃金は、非常に頻繁に、類似の業務に対してどこかよその使用者が支払っている賃金を基礎にして決定されている。最低賃金が賃金構造と水準の基礎的変化を引き起こさせるマクロ経済政策の一手段として使われているところにおいてさえ、企図どおりに賃金が引き上げられた場合の経済的効果を測る基礎とするために、賃金と所得の比較は依然として重要である。
 比較可能な賃金と所得という概念が卓越しているもっと実際的な理由は、他の通常用いられている基準よりも抽象的ではなく、より直接的に測り得るということである。具体的な統計上の比較に専念することで、最低賃金決定当局は不毛の論争にそれてしまう危険を避けることができるのである。
 最低賃金決定当局は、唯一の基準指標に基づいて既定の方式で最低賃金の計算を行うというよりむしろ柔軟な態度をとっており、その決定のための総合的指針として種々の比較を利用する傾向にある。最低賃金の適用範囲や性質、統計の入手可能性および最低賃金規制に課せられた役割に応じて、なされるべき比較は大きく異なる。例えば、スリランカでは、賃金委員会は、しばしば最低賃金を労働協約の適用を受けない中小企業における一般的賃金水準に大きな変動を引き起こさせないようにと決定してきているが、比較できる他の部門における賃金パターンもまた考慮に入れている。そのため、何回か、スリランカでは、賃金委員会の決定は、特にその決定に当たって経済的制度的環境が需給の市場の力から若干なりとの独立を許すような時に、明白に政府の賃金政策の影響を受けてきた。カナダと合衆国においては、「底辺」最低賃金は、主として最も賃金の低い業種の一般的賃金水準を考慮して決定されている。一般に、影響を受ける労働者の特性や就業部門と同様にその人数を確定するために、賃金分布(すなわち、賃金階級別労働者数)の推計が行われており、加えて、低賃金業種の特別調査がしばしば実施されてきた。例えば、日本の地方最低賃金審議会における産業別最低賃金の決定は、当該産業と地域における実際の賃金分布に強く支配されており、このことは、1974年に決定された地域別最低賃金の4業種における影響率を示す第3表によりうかがい知ることができるであろう。その決定の影響は、特に小売業と機械金属製造業においてかなり狭い範囲に集中しており、実際の賃金構造がいかに重要であるかを証明している。

第3表日本における産業別および都道府県別改定後の
最低賃金未満労働者の割合(1975年)
影響率 食料品・飲料
・飼料製造業
繊維産業 機械・金属製品等
製造業
小売業
件数 構成比 件数 構成比 件数 構成比 件数 構成比
5%以下 2.4 10.0 2.4
5%超−10%以下 7.3 5.7 17.5 14 33.3
10%超−15%以下 12.2 5.7 14 35.0 11 26.2
15%超−20%以下 19.5 11.4 17.5 14 33.3
20%超−25%以下 19.5 17.1 7.5 4.8
25%超−30%以下 2.4 17.1 5.0
30%超 15 36.6 15 42.9 7.5
41 100.0 35 100.0 40 100.0 42 100.0
資料出所:労働省「我国の最低賃金制」

 また、1975年にケニア労働省が既存の賃金協議会命令を18業務を対象として一律の水準を設定する新しい命令に整理統合した際には、賃金の比較の別の方式が取られた。きわめて多様な既存の命令の下で支払われていた賃金水準を考慮することに加えて、労働省は労働協約に定められている賃金水準、職業別の最低賃金は既存の命令で定められている最低賃金に準拠できない部門であるが、を分析し、その結果、最低賃金を労働協約上の賃金の低い方から20%とった程度に設定したのである。この実際的な方式は、このような低賃金は、主に労働組合が弱体であるか労働市場が労働者に不利な状況にあることの利益を使用者が得ている場合に生じてくるとの見解を背景としていた。
 最低賃金の決定が多種多様な賃金比較に広く依存しているにもかかわらず、賃金の比較は当初考えられていたほどには容易ではない。最低賃金の決定なり他の賃金決定方式なりにかかわった者ならすぐに気づくように、「比較可能な賃金」という一見明快な概念はその解釈上多くの問題を生み出す。この問題は、実質的に賃金の比較から得られる指導の精度を引き下げる。通常、入手可能な賃金の情報は古いものであり、およそ完全とは言えない。推論は断片的な情報と疑わしい精度に基づかざるを得ない。数種の産業または部門の賃金についてしか統計が得られない場合には、最低賃金決定当局内でどの数字と比較するのが最も適切であるかに関して合意を得ることはなかなか難しく、特に、産業間の賃金格差が、低賃金部門あるいは非近代的部門の中においてさえ、非常に大きくなりうる開発途上国においてはその傾向が強い。理想的には、最低賃金の決定のためには、最も賃金水準の低い部門や労働者に焦点を当てて比較が行われるべきであるが、手に入れることができる賃金の統計数字は往々にして賃金水準の高い企業を多く含んだ全体の平均値ばかりである。
 しかし、最低賃金決定当局が賃金分布に関して詳細な資料を得ることができるところでさえも、その分布の中のどの水準を最低賃金の決定に当たって参考とすべきかはとうてい明らかとはいえない。したがって、最低賃金の設定に求められている役割が、最低賃金によって全体の賃金動向を主導するというよりも、むしろ、不当に低い賃金の引き上げを図りつつ、最低賃金を全体の賃金動向に追随させることにあるというところでは、最低賃金当局は最低賃金の水準を「一般的」あるいは「実勢の」賃金より若干下回るように設定しようと努めるのである。しかし、「一般的賃金」というのは抽象的概念であり、賃金分布に関する統計からいつでも簡単に特定できるというわけではない。それ以上に、「平均的」賃金より低い水準に設定された最低賃金が、果たして実際に支払われる賃金の大勢に意味ある大きな間接的影響を与えるのか否か不明瞭となりがちである。
 賃金構造全体の底辺を設定しようとして一般最低賃金を設定する場合に、賃金の比較は「実勢」賃金を決定するためにそういった賃金比較に依拠するのは特に問題である。これを理由として、開発経済学者は、一般最低賃金を決定する場合には、農村部の所得水準を、比較の補充的資料として、あるいはさらに唯一の基礎として、考慮に入れるべきであるという主張がしばしばなされる。農業部門が大きな比重を占め、農村から都市への大規模な人口移動が行われている開発途上国に限れば、都市の未熟練労働者のために、生計費、仕事の性質や密度および都市と農村の生活の快適度の違いを斟酌した上で、農村部の所得の一般的水準に匹敵する最低賃金を設定すべきだという主張は説得力を持つだろう。これが、都市と農村地域間の所得格差を耐えがたいものとせず、都市への労働力の流入を加速せず、かつ、あらゆる種類の労働者におおむね同一ペースで基礎的必要を満たさせていく唯一の方法であると主張されている。この農村部所得基準には大変魅力があり、多くの国における賃金政策の公式見解の中で、農村部所得基準は最低賃金決定に当たっての唯一の基準として引用されるに至っている。例えば、1973年から1978年までを対象とするボツワナの全国開発計画は、「未熟練労働者を対象とする法定最低賃金の唯一の公正かつ客観的基準は、『最低賃金は、都市の生活費全般にわたる相違を正当に勘案した上で、農村の平均的農民所得に匹敵すべきである』ということである」と明快に述べている。同様に、タンザニアの第2次計画(1969〜74年)は、「最低賃金は、小自作農とその家族の収穫を得るまでの実際の生活水準および労苦の度合いと農業雇用労働者の生活水準(労苦の度合い)とを真摯に比較することによって決定されるべきである。都市部の雇用労働者には都市での生活にかかる余分な経費が斟酌される。」と宣言していた。
 農村部所得基準は、概念的には説得力があるというものの、測定しがたいという手に負えない障害にぶつかる。農村部所得に関するデータを集めるのは経費が高くつくため、手に入れることのできる統計は、通常、不十分なものか粗雑な推計(例えば、農業総生産、農家世帯数および現金所得と非現金所得との平均的比率を用いた計算)に基づいたものとならざるを得ない。さらに、例えば、農場で生産され、あるいは消費される財やサービスの評価に当たってどのような価格を想定するか、どのように生産費用と消費支出を区別するか、地域で共同で消費される財やサービスをどう評価するか、そして季節的、周年的変動をどう調整するか、というようなよく知られている多くの技術的問題がある。また、比較の対象としてどのような規模の農家を選ぶかということも問題であり、1964年にジュネーブで開催されたILO最低賃金専門家会議は、その地域の基準からすれば大きい所有地を有する地主を除外するのと同様に、農業を専業とし得ないほどの零細な土地しか有していない小自作農と小作人も除外すべきだと提唱している。しかしながら、これらの農家世帯の中においても、所得格差は非常に大きいのである。農村部と都市部の生活と労働条件の差異を量的に測ろうとすると、さらに問題が多くなる。消費される財やサービスの性質が異なるため、両者を金銭レベルで比較することが難しいのである(例:住宅)。加えて、常に、生活水準の差から生ずる支出と都市部で生計費を稼ぐに必要な経費(例;被服および交通費)との区別がいつもつけられるというわけではなく、あるいは、都市部での労働のほうがより長期間にわたり、密度が高いということや、世帯によって稼ぎに出られる人数がまちまちであること、都市や町では保健衛生、レクリエーションならびに教育設備が利用しやすいということをどれだけ斟酌すべきかということを明らかにできるわけではない。これからすると開発途上国では都市の雇用労働者の賃金に30〜50%の上乗せをさせれば順当であろうと言われてきたが、これは経験的推測の域を出ないように思われる。都市労働者にどれだけ上乗せすべきかを正確に確定できないにもかかわらず、そうであろうとも、明らかに、多くの国において、最低賃金当局は農村部所得に関するデータに細心の注意を払い、それらの影響の下にその決定を行ってきたのである。
 要するに、「比較可能な賃金と所得」という概念は、その明快さ、経済合理性および計測可能性の大きさゆえに、最低賃金の決定基準の中で最も問題が少ない基準としばしば見なされているものの、実際に適用しようとするとやはり問題にぶつかるのである。一般に、一のまたは一連の賃金または所得の統計、あるいはそのようなデータから直接行った推計に基づいて、単純に最低賃金の水準を決定することは難しいことが明らかになっている。他の基準と同様に、簡単で大ざっぱなやり方では運用され得ないのであり、その代わりに、まず、何を比較するのが最も適切であるか決定し、それからその意味するところを解釈すべく、相当な検討がなされなければならないのである。

 支払い能力

 すでに述べたように、「支払い能力」および生産性もしくは雇用の維持というようなそれに関連する概念、または単に「経済情勢」は、最低賃金の決定基準を規定する法律の中でしばしば言及されており、たとえそうでない場合も、明らかに最低賃金の決定に当たって常に重要な影響を与えている。しかしながら、これらの概念の正確な意味と相対的にどの程度重要とすべきであるかは絶えず議論の的となっている。この点に関して、最低賃金決定当局における労使の代表の間で、最も明白に見解の相違が生ずる。使用者の代表は、労働者の必要あるいは比較すべき賃金に基づく、人件費の増大をもたらすであろう引き上げ要求に直面した場合に、「経済的制約」または「支払い不能」を相当強調するものと通常予想され得る。他方、労働者の代表は、経済的考慮をすることの適切さは否定しないものの、概してこのような主張に対して非常に懐疑的である。これらは、十分実証されていないとしても、使用者の側の、周囲の状況を無視した、あらゆる賃金要求に抵抗するための戦術的な策略に過ぎないように見られがちなのである。加えて、支払い能力はそれ単独では議論できないとしばしば主張される。その国の一般的水準に比較してほどほどの賃金を支払うことのできない産業は存在する権利がない、と考えられる傾向にあるのである。
 問題の一部は、「支払い能力」という概念が、疑いもなく重要であるにもかかわらず、本質的に曖昧であり、多様な解釈を取り得るために発生する。最低賃金の引き上げは、生産性の向上、人件費以外の費用の節減、利潤の削減、価格の引き上げ、あるいは生産と雇用の削減によって実現することができる。支払い能力を、これらの可能な調整方法のひとつあるいはすべてと関連づけることができる。したがって、支払い能力は、人件費を増大させず、あるいはさもなくば生産価格を引き上げずに、賃金の引き上げを実施し得る企業の調整能力と同一視されてきた。それ以上に、しばしば、最低賃金を決定する目的のための決定的な試験は現行の雇用水準の低下や企業倒産を避けることであると見られてきた。さらに場合によっては、支払い能力とは、企業が賃金の引き上げに対処するためのあらゆる可能な方法を網羅したもの――言い換えれば、最低賃金を設定する場合には人件費の増大のもたらすあらゆる経済的反射効果を考慮しなければならないということを単に一言で表したもの――と見なされてきた。
 「労働者の必要」と異なり、最低賃金決定当局は、めったに「支払い能力」の絶対的基準を規定しようとはしない。部分的にはこれは通常関係があると考えられる経済的反射効果の多元的性格を反映している。さらに重要なことには、支払い能力基準が、おそらく、明確な答えの出ない――最低賃金水準の変化に伴う人件費の増大に使用者はどのように対処するのであろうか――という仮説的な問題に関する考察を内在させているからである。もう1つの理由は、支払い能力が、絶対的な概念ではなく、相対的な概念であるということである。最低賃金決定当局は、雇用の重大な減少を引き起こすような危険のある最低賃金の引き上げは避けようとするであろう。しかし、この危険の程度と何が「重大な」減少であるかということは、雇用の促進の優先度と、その影響を受ける業務に対して受け入れ難い低賃金だと考えられる賃金が払われているか否かによってのみ判断され得るのである。これらの理由により、支払い能力基準の適用ということは、通常、単にある特定の産業における企業の貸借対照表に基づく単純な計算の問題ではなく、例えば、むしろ、価格、利潤、雇用および他の経済変数に対する予期した影響ならびに経済的および社会的目標の達成という観点からのそれらの反射効果に関する、暗黙の、あるいは明白な何らかの評価を伴うものであると考えられる。
 支払い能力について利用可能な定義を打ち出すことが難問であることは、財務関係資料の解釈の難しさを例に引くとよく分かる。貸借対照表の精度の問題と何が収益力の最も信頼できる指標であるかということはさておいても、貸借対照表上の利益から、重大な経済的反射効果なしに賃金を引き上げられる余地がどこまで明らかになり得るかという問題が依然として残る。貸借対照表上の利益は、収入と支出の差から生ずる残余の要素として理解できる。長年にわたって、それは次のものから構成されていると考えられてきた。(@)投下資本の利益、(A)金融資産の損失の危険を負っている投資家への配当、(B)企業の所有者の行う企業への経営管理その他の労務またはサービスの提供に対する報酬、および(C)不完全競争または「地代」から生ずる企業資産の拡大再評価の中に反映されてこない程度の何らかの「過剰利益」。最後の要素の場合に限って、短期的にも長期的にも実質的に不利な経済的影響なしに、利益を犠牲にして賃金を引き上げることが可能だろう。しかしながら、計算上の利益と「過剰」利益との間に緊密なまたは明白な関連を期待できる理由はない。さらにことを複雑にするのは、貸借対照表からは、価格の引き上げによって賃金の引き上げを図る企業の調整能力の指標を得られない、という事実である。貸借対照表上の利益の低い企業においては、もし、当該産業の生産に対する需要が価格の変動にあまり敏感でなければ、雇用を大幅に減少させることなしに実質的に賃金を引き上げることがなお可能かもしれない。しかし、収益力の高い企業においては、もし、多くの輸出市場のように、需要が価格の変動に対してきわめて敏感であるか、または資本の労働代替性が比較的高ければ、雇用を実質的に減少させざるを得ないであろう。要するに、貸借対照表上の利益それ自体は、企業の賃金引き上げ能力についてきわめて大まかな指標を提供するに止どまり、それ以上のことは期待できないのである。
 支払い能力を評価するに当たって、最低賃金決定当局は、既存の資料からのものであれ特別に調査された一連の資料からのものであれ、通常、いろいろな統計上の指標を考慮に入れる。それらの指標の中には、人件費の増加の推定値、貸借対照表の概要および経済の動向と構造に関するデータが含まれるであろう。例えば、サモア島、プエルトリコおよびバージン諸島における各々の産業の最低賃金の決定のために、合衆国連邦労働省は、産業委員会の審議の助けとなるように「経済報告書」を用意するという方針をとっている。これらの報告書は、大体、特別調査の結果に基づいており、前述の問題の各々について広範囲にわたる情報を提供している。例えば、人件費に関しては、事業場ごとの1時間当たりの決まって支給される給与の平均、対象労働者の賃金階級別分布、ならびに、影響を受ける労働者の比率、平均賃金の増大および賃金債権の増加率によって示されるような最低賃金を実際に引き上げた場合の相対的な直接の影響について、資料が提供されている。財務関係の資料としては、個別事業場の連結貸借対照表と連結損益計算書が出されている。経済の動向と構造に関する指標としては、当該産業における事業場数、特定期間における廃止・新設事業場数、雇用の動向、生産形態、他の企業との関係、事業場の立地条件、主要生産物、輸出、使用原料の生産地、輸送形態とその費用、税の免除、組合組織化および福利厚生制度の状況が挙げられている。さらに全体的な指標として、合衆国本国において競争関係にある産業に関する経済的データと同様に失業率と物価の動向が示されている。
 パナマにおいて、1960年代から1970年代初めにかけて、支払い能力を基準として多くの産業に適用される最低賃金の水準が決定されていたとき、全国最低賃金評議会は、以下の手続を踏んでいた。
(a)国勢調査統計局が用意したリストの中から、無作為にまたは特定の産業の事業場をすべて抜き出すという方法で事業場のサンプルを選定。
(b)それらの企業で支払われた賃金と当該企業の財務状況を調査、ただし、前者については質問票による調査により企業家から直接得られたデータに、後者については法人税の申告にそれぞれ基づいて行う。
(c)以下のものを分析するような形の統計表に取りまとめての資料の編纂と発表:(1)支払われた賃金、(2)当該産業の1時間当たり平均賃金、(3)売上高に対する賃金比率、(4)過去5年以上にわたる売上高と課税対象利益との関係、(5)売上高または資本金に対する課税対象利益の比率のような他の経済指標、(6)種々の最低賃金の設定により直接影響を受ける労働者数、それに関連する給与総額の増大および利潤の削減、ならびに(7)生産、輸出、輸入、生産物の価格、税金の免除または特典、経済見通しおよび競争状況のような当該産業の他の全体的特質。
 ときには、他の2つの方法が支払い能力を測るために用いられてきた。例えば、いくつかの例では、現行の最低賃金の不順守状況を、最低賃金の引き上げに耐え得る使用者の能力のおおまかな指標と解している例もないわけではない。もっと頻繁に見られるのは、最低賃金決定当局が過去の決定の効果について特別の調査を企画するという例である。しかし、第8章で述べるように、このような調査は、簡単には行えず、正確な結果も得られないのであるが、それにもかかわらず、賃金水準の引き上げを可能ならしめるにはどの程度の経済力が必要であるかについての不確実性の度合いを少なくするという意義があると次第に認められつつあるようである。実際に、最低賃金決定当局が支払い能力基準を適用する場合に、採るべき最も効果的な戦略の1つは、最低賃金を連続的に少しずつ引き上げ、それによって生ずる経済的反射効果について継続的な調査計画を立てることであるといえるかもしれない。
 最低賃金決定当局が取り組まなければならない課題の1つに、最低賃金の水準について、支払い能力の違いに応じてどの程度違いをつけるべきかということがある。個別の企業ごとに最低賃金を設定するという極端な方法が実行できるとはまず考えられないが、企業規模や事業の性質に応じて区分される企業の集団ごとに異なる水準を設定するという方法は現実的である。この点に関して、決定機関は相反する圧力を受けやすい。賃金水準は、総費用に対する人件費の割合、平均的労働生産性、ならびにそこに働く労働者に企業の繁栄の分配にあずからせ、かつ、利潤と賃金所得の間の格差を縮めさせるような出資に対する配当率のような支払い能力の指標に応じて違いをつけるべきであるという考えに対して相当な支持者がいる。他方、そのような差別化は、最低賃金制度を一層複雑にし、行政を難しいものにするということはさておいても、同一労働同一賃金の原則に背くという事実がある。また、差別化は、経済の最も活発な部門における雇用率の拡大を減速させ、技術革新による恩恵、生産性の向上または有望な市場の成長を限られた者の手に集中させることになるのではないか、という主張もある。そこで、それと逆に、低賃金部門の使用者の支払い能力に配慮しながら、一律の最低賃金を設定すべきであるという提案がなされる。高い支払い能力を有する使用者ならば、団体交渉に基づいて、あるいは自発的に、それよりも高い賃金を支払うだろうと期待される。そのような高い賃金は、法律に強制されたものではないので賃金構造の上方への歪みを発現させるようなことにはまずならないであろう。さらに過剰利益の発生は社会にあまねく恩恵を与えるような価格統制や財政手段を講ずれば防ぐことができるだろう。
 すでに第3章で述べたように、各々の国におけるこれらの相反する圧力への対処の仕方は、全くまちまちである。しかしながら、非常に顕著な傾向として、支払い能力の違いから生ずる、多くの、かつ、大きな不平等を避ける高度に統一された最低賃金制度への傾向が優勢である。多くの国において、単一の最低賃金または都市部と農村部という区別のみをした最低賃金が決定されている。わずか数カ国の開発途上国において、依然として、雇用者数または資本金規模のいずれかによる事業場規模の違いに基づき、最低賃金の適用除外または最低賃金水準の引き下げが行われているのみである。なお、産業別最低賃金制度を有する国においては、これを整理統合することが目標としてしばしば掲げられたり(例えば、コスタリカとケニア)、または産業間の水準格差が比較的小さくなってきている。例えば、パナマでは、1970年代の初めに、産業ごとに200種類近くあった最低賃金がほとんど5種類に統合され、最低賃金間の格差が30%以下に減少した。同様に、連合王国では、各々の賃金審議会により、独立に決定されている最低賃金水準が1点に収斂するように決定される傾向が続いている。1978年の12月1日では、41の賃金審議会により決定された最低賃金層の時間給成年労働者を対象とする最低賃金は、わずか3つの除外例があるだけで、すべて、1週間当たり33.00〜42.50ポンドの範囲に収まっている。
 ちなみに、支払い能力を産業または企業レベルというよりも国家レベルで査定する場合に、考えなければならない問題は、次の節で検討すべき基準、すなわち、経済開発上の要請に関連する問題に類似している。

 経済開発上の要請

 この基準は、実際のところ、最低賃金の引き上げにより経済全般に引き起こされる反射的効果のすべてをカバーする非常に広い概念である。この概念の広さは、最低賃金決定当局は、その決定が総雇用と総失業に対して及ぼす影響と同様に、経済の成長と安定のような国家目標に対する影響についても考慮する必要があると広く認識されていることに端を発している。
 実際に、最低賃金の決定が賃金決定に与える影響の程度は、大部分最低賃金制度の適用範囲に連動している。法が適用される労働者の数が多いほど、そして、実際に支払われる賃金に対する影響が大きいほど、最低賃金決定当局は、最低賃金の決定が経済開発という目標に与える影響に大きな関心を持つ必要がある。最低賃金の役割が、弱い立場にある労働者の保護、すなわち、底辺をなす限られた数の産業または事業場のための「公正な」賃金の設定に限定されている国において、政策目標とされるのは、本質的には、賃金の構造そのものである。この場合には、賃金の一般的水準は、最低賃金の決定に当たっての基礎資料とはなるが、それ自体は、実質的に最低賃金の影響を受けることはなく、本質的に、依然として、市場圧力、団体交渉または所得政策を通じて決定されるのである。したがって、最低賃金決定当局が賃金の一般的水準が上がった場合に生ずる効果という複雑な問題に取り組む必要はない。たとえ、そのようなことを試みたとしても、ただ単に「海を泥で汚す」ようなものにすぎない。しかし、最低賃金の決定が、単に賃金一般の動向に追随するというよりも、それを制御するために用いられるべきマクロ経済政策の一手段として考えられている国においては、最低賃金決定当局はその決定が広く経済全体に及ぼす影響を無視するわけにはいかず、実際に、その影響は確かに最大の関心事とされている。
 しかしながら、しばしば、経済開発上の要請という基準に照らした最低賃金の重要性の程度はただちには明確でない。多くの国において、最低賃金の実際に支払われる賃金の大半に対する直接的または間接的な影響に対して、特定の種類の労働者または部門に対する影響の程度を特定できるか否かは疑問がある。単に全体の下限を定めるだけの最低賃金と全体の賃金水準の引き上げを目指すそれとの間の境界線が明確であることはめったにない。同様に、ある個別の産業に設定された最低賃金が賃金全体に重要な影響を及ぼさないとしても、一連の決定が全体を考えた場合にはそうではないかもしれない。それゆえに、最低賃金決定当局が、その決定が経済全体に及ぼし得る影響の範囲を判断するために、最低賃金の実際に支払われる賃金に対して及ぼす直接的間接的影響に関して可能な限り多くの情報を収集するのはごく普通のことである。
 開発途上国において、経済開発上の要請を勘案するということは、必然的に、一連の、複雑で、相互関係のある、国の賃金政策に関する議論の核心に至る問題を考慮しなければならないことを意味する。まず第1に、実質賃金の一般的水準の変化が経済成長に及ぼす潜在的影響がある。もし、利潤を犠牲にして賃金が引き上げられるならば、貯蓄と投資が落ち込み、経済成長を阻害する恐れがある。しかし、必ずしも、利潤が下がれば投資が落ち込むというわけではない。利潤が下がっても、単に、見栄をはるための浪費、輸入ならびに富の海外への移転の減少を引き起こすのみかもしれない。また、資本調達の限界によるのではなく需要の不足により経済成長が限定されているのであれば、賃金の引き上げは、国内市場を拡大させ、経済活動の拡張を促すことになるであろう。そして、賃金がきわめて低い場合には、その引き上げは、労働生産性の向上を引き起こし、経済成長を促進するだろう。第2に、賃金の引き上げの雇用に与える影響がある。雇用を創出するような投資の率を多分減少させるであろうことは別として、賃金水準が高くなると、使用者にとって、生産性の低い労働者を雇うことは割りの合わないこととなり、労働集約型の財に対する需要を減少させ、資本集約的な生産技術の採用を促進することとなる。しかし、全体的であれ、部分的であれ、これを打ち消すのは、ある一定の範囲を超える高い賃金が、労働生産性を高め、労働集約的な国産財に対する需要を増大させる傾向である。第3に、不当に高い賃金は、無統制な都市部において失業の原因の1つとなりうるということが挙げられる。しばしば、近代的部門で賃金の高い仕事が見つけられるという見込みがあることが、農村部から都市部への過剰な人口移動を引き起こす大きな原因の1つであると見なされてきた。しかし、都市へ行けば稼げるという期待以上の何かが人を農村から都市へとつき動かすのだと信ずる者も多く、政府が抑制策を講じたとしても、はたして農村から都市への人口移動の潮流をくい止めるにどの程度効果があるかは明らかではない。開発途上国の近代的部門の使用者は、労使紛争を避け、しっかりした、意欲の高い、優秀な人材を確保しようとして、労働者の新規募集に当たり必要以上に高い賃金を自発的に支払うかもしれないのである。第4に、あまねく低賃金労働者の賃金を恩恵的に引き上げると、労働力の適正配分を損ないかねないことになる。熟練度による賃金格差を縮小させると、労働者が、職業訓練を受けてより需要の多い仕事につきたいという意欲を低下させることになるかもしれないからである。しかしながら、もし、その賃金格差が、そもそも、相対的な労働力の希少性によるものではなく、伝統的な賃金の相互依存関係と訓練を受ける機会の少なさから生じていたものならば、低賃金労働者の賃金を引き上げて賃金格差を縮小させても、そのような効果は生じる必要はない。最後に、賃金の基本構造と一般的水準を修正しようとする試みは物価の安定と国際収支に影響を与える。一方ではこのようなことは、賃金と所得の相互依存関係の硬直性と人件費の増大に対する使用者の価格の引き上げによる適応能力ゆえに、大いに、自己破壊的であり、確実にインフレーションを一層悪化させると考える者がいる。他方、受け入れ難いインフレ効果を引き起こすことなく賃金政策を通じて所得配分の意義ある修正がなされ得るし、最低賃金は、他の賃金決定の参考水準として機能する限りにおいて、賃金と物価の傾向を緩和する手段として用いることができる、との主張がなされる。ここで、これらの国の賃金政策の基本的課題について、これ以上の議論を重ねることはできない。その代わりに以下で節を経済開発上の要請という一般的基準が最低賃金決定機関によってどのように取り扱われているかについていくつかの指摘をするにとどめよう。
 最低賃金の決定基準には、国の賃金政策に係る基本的でかつ複雑な問題が内在しているので、一般的に、その適用に関して合意のための何らかの意味のある手段を得るのは難しい。伝統的に、関連する問題に関して、労使各々の代表の見解は大きく隔たっており、調査や交渉を通しても歩み寄り難い。中立的な専門家の間においてさえ見解が様々に分かれている。その結果、経済開発上の要請に相当な重きが置かれるべきであると、最低賃金の役割が広くとらえられているところにおいて、その決定に当たり広く合意を得るということはしばしば困難なことであった。いくつかの注目に値する例外はあるけれども、このような環境における決定は、ほとんどの場合、国家の経済当局の見解に本質的に支配され、あるいは大きく影響されている。すなわち、事実上の決定権限が政府の中枢部に集中しているか、あるいは、最低賃金決定機関が、政府の賃金政策の公式見解、政府提供の経済分析または主要な経済担当部局を代表する政府要人の見解に強く依存しているかのいずれかなのである。通常、労使の代表には決定に参加する機会が一応与えられているのであるが、最低賃金の役割がもっと限定されている場合に比べて、多くの国で行われているこのような参加の意味は小さい。
 経済開発上の要請という基準を適用しようとすれば、必然的に発展経過の特質と同様に国の経済状態について考慮しなければならない。このような分析は、その形式においてもその洗練度の水準においても多様である。例えば、現行の賃金政策とは別の政策を取った場合に実際に生ずる影響を、国民経済の計量モデルを用いて分析している事例がいくつかある。多くの場合には、そのような定式化された分析が行われることは少なく、手近なところで役に立ちそうだと考えられる既存の研究成果や種々の統計資料の吟味に基づいて行われる。しかしながら、そのような資料を解釈すること、もっと一般的には国の賃金政策の基本的問題を独自に扱うことが難しいために、最低賃金決定当局は、結局のところ、限られた数のあまり加工されていない指標に頼らざるを得ない。すなわち、重要部門での水準と同様に、全国または地域での、平均実質賃金、国民総所得および雇用状況の傾向が、現実の相互関係と歴史的パターンとの違いを確認するために、同時に考察される。部門別、支出項目別(個人消費、行政サービスおよび資本形成)ならびに所得項目別(給与所得、個人企業からの所得および財産所得)に分析された国民所得の傾向もまた、基礎的参考資料となり得る。最低賃金と実際に支払われた賃金との関係は、両者の水準と過去の動向について、また別の有効な指標となる。現行の最低賃金水準を下回る労働者の数は、最低賃金の強制力の欠如のみならず、それ以上の引き上げを吸収してしまう経済力の表れと解される。同様に、もし、実際の賃金が最低賃金や他の制度的強制とは関係なく独自に上昇してきたと認められるならば、それは、時には、最低賃金を上げる余地があることを指し示していると解釈される。最後に、多くの国においては、近代的部門と非近代的部門、都市部と農村部における相対所得の傾向と、もし可能ならば、雇用の増加率と労働市場の不振に関する指標について、特別の注意を払っている。これから、都市部と農村部の所得の格差の拡大、雇用の低成長、都市部の失業率あるいは半失業率の水準の高さが見て取れる場合には、しばしば、それを理由として、最低賃金の抑制政策が正当化されてきたのである。
 この章において既に記述した他の基準の場合とは異なり、経済開発上の要請という概念それ自体から、最低賃金の最適水準を計算する特段の方法が導き出されるわけではない。たいていの場合、単に、全体的に一定額を引き上げた場合に好ましからざる経済的反動なしにその効果が吸収されそうかどうか、あるいは抑制しておいたほうがより賢明であるかどうかについて、おおまかに示すだけである。そのために、この基準は、通常、最低賃金の設定または適用のために考えられる特定の基準の背景をなすにすぎない。それにもかかわらず、この基準は、最低賃金が賃金の一般水準に対して明白な効果をもつ国において、重要な影響を及ぼしてきた。実際にいくつかの国において、賃金政策の基本問題に関する政府見解の変更は、最低賃金政策に急激で破壊的な影響を及ぼしてきた。例えば、規則的な調整で穏やかな形で行う代わりに、賃金抑止政策を採ると、時には、最低賃金の設定を長期間にわたって一時停止させることになった。そうすると、結局、必要とされる「追いつき」のための改正は大幅なものにならざるを得ず、それゆえにそれに対する適応はさらに困難なものとなったのである。

 適用手順

 以上の、最低賃金の決定のために広く用いられている基準の考察から非常に明らかになることは、それらの基準はすべて、実際に適用しようとすると最低賃金の水準を決定しなければならない者に対する指針としての効果を減殺するほど深刻な問題に直面するということである。比較可能な賃金と所得という基準は、特に最低賃金制度の役割が現行の賃金構造の改善に限定されているところにおいて他の基準より問題が少ないとはいえ、裁量の余地を広く残しすぎている。最低賃金の設定を、既に決まっている明白なルールを容易に入手できるデータに適用するという機械的手順でできたところは、どこにもないのである。
 それ以上に、次第に、そのようなルールを明確にすることに時間を割いても余り成果がなさそうだと認識されつつある。代わりに、最低賃金決定当局は、通常、明記されている基準の解釈と各基準の重要性の程度に関する対立する議論を審議の過程で調整しながら、その職務に実践的に取り組んでいる。日本の神奈川県地方最低賃金審議会が食料品製造業に関して1970年の5月に行った決定を例として挙げることができる。審議の過程で、労働者側委員は、労働組合が推計した労働者の生計費に春季賃金改定による予想上積み額を加算して、1日1,050円を提案した。使用者側委員は、現行の最低賃金にインフレ率をかけて、850円を提案した。公益代表委員は、18歳の独身労働者の標準生計費を基礎として、15歳の労働者の推計値に消費者物価上昇率と社会保険料負担額を考慮して調整を加え、934円が必要であると試算した。次に、この数値を神奈川県の食料品製造業の中卒初任給の平均(男子948円、女子927円)と比較し、さらに、63事業場の経営事情調査結果の検討を加えた。これらの調査結果を基礎に、公益代表委員は940円という金額を提示し、この案が最終的に労使各側委員に受け入れられたのであった。
 最低賃金当局が考慮する要素は、通常はこの事例に見られるよりもっと多様である。このことは、第4表にまとめられているが、1962年と1972年にコスタリカの全国最低賃金評議会の議題の分析結果から明白である。表の中に示した10の主要議題に加え、最低賃金の不履行、生産の縮小、生産性の向上、資本による労働の代替、為替相場の変動、倒産の危険性、都市部と農村部の格差、経済部門間の格差、国際収支に及ぼす影響、最低賃金が最高賃金になる危険性、生存水準以下の最低賃金、より公正な所得配分の必要および最低賃金をその職業資格に応じて変える必要という論点が提出されていた。この分析から、経験を積むにつれ、議論も変わってくるというのも明白である。この調査を行った者は、1972年に提出された議題は、主に正義感と恩情主義から出た幅広い問題に関心がもたれていた10年前に比べ、非常に具体的で、実際的かつより実証的であったと注釈している。
 最低賃金決定当局が、多様な議論を、それぞれ別に、あるいは所与の基準の組み合わせに照らして系統的に処理しようとすることはまれである。その代わりに、最低賃金を決定するということは、他の公共政策の決定の場合のように、ほとんどの場合、本質的には社会的効用と経済的費用の均衡を図ることであると見られている。同一労働に対する賃金面でのより大きな同一性と貧困層の所得の引き上げという形で現れる社会的効用は、大ざっぱな方法で、例えば、失業率の増加または物価の上昇という形で現れる費用とてんびんにかけられる。法律の中に明記された基準は、通常、均衡が図れるであろうところを決定するに当たって考慮に入れるべき要素の簡略な照合表にすぎないのである。
 このようなアプローチ、そして代替案の費用と便益の評価に伴う不確実性ゆえに、最低賃金決定機関が、まれにしか、どのようにしてその金額に決定したかについて正確に説明しようとしないということは驚くべきことではない。通常、その決定は実質的な説明なしに提示されており、せいぜい、重要な関連のあった多数の要素が列挙されるだけである。

第4表 コスタリカ全国最低賃金評議会の審議過程における主要議題
(1962年及び1972年)
議題 使用者 労働者 政府 総計
1962 1972 1962 1972 1962 1972 1962 1972
生計費の上昇 16
生産費の上昇 10
中央アメリカ地域における競争状況
価格統制
賃金引上げ効果 12
小規模企業に対する問題
賃金引上げの失業誘発効果
新税の影響
社会保険料の影響
情報の不足 10
資料出所:Lom and Lizeno,op.cit.,p.99.

 基準の適用は、狭義の技術的問題の考察に還元し得ず、かつ、必然的に微妙な判断を要する問題を伴うため、通常、「受け入れ易さ」が、決定に当たっての重要な必須の要素として追加される。既に述べたように、最低賃金決定当局は、通常、その決定の正当性を高めるために、すべての関係者に社会的重要性と経済的反動の見通しに関する見解を述べる十分な機会を与えている。全体の合意が得られない場合でさえ、社会の構成員としての各々の立場の調整を図ろうとする努力が正当に反映されて最終的な決定が行われることが期待されている。多かれ少なかれ、決定は、一般に、多様な利害関係集団の代表者間の交渉という形をとって行われる。産業別の最低賃金に関して言えば、決定の受け容れ易さに通常最大の関心が払われている国における基準の適用は、典型的には、直接関係する労使の見解の一致点を見いだすための十分に組織された交渉経過を経て行われている。さらに、最低賃金がマクロ経済政策の一手段として利用されている国においても、やはり相当程度交渉を伴う。この場合、国の最高の経済当局は、通常、何が「経済開発上の要請」に該当するかの決定に対して大きな発言権を有しているのであるが、それにもかかわらず、共通の理解を、それにまた、あるいはもし実現できそうならばいつでも実際の公式な合意を得るための努力が払われるのである。


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