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厚生科学研究費補助金厚生科学特別研究事業

疫学的手法を用いた研究等における生命倫理問題及び
個人情報保護の在り方に関する調査研究

<追加資料>


平成12年度 総括研究報告書

主任研究者 丸山 英二

平成13(2001)年4月


疫学研究とバイオエシックス
─プライバシー権をめぐって─


国立精神・神経センター 精神保健研究所 掛江直子

1. はじめに

 疫学研究は、社会で生じる様々な疾病の原因を明らかにし、予防や治療、さらに健康政策の決定に必要な情報を提供することから、その社会的意義は計り知れない。こういった研究の蓄積があってはじめて、エビデンスを基礎にもつ医療が確立され、また健康政策が立案できるといって過言ではない。そして、我々社会の構成員は、これらエビデンスに基づく医療や健康政策による恩恵を受けることができる。一方、疫学研究には、患者や被験者の個人情報が不可欠なものが少なくない。この疫学研究に用いられる個人情報は、しばしば医療や健康診断(個人のための診療)の場面で、医療ケアの一環として収集されてきた。つまり、本人が疫学研究に協力しているという認識のないところで個人情報が利用されたり、本人のうかがい知れないところで追跡調査が行なわれている状況があるのである。ここでは、個人のプライバシー権の侵害という問題が生じ得る。

 本稿では、このような疫学研究のもつ倫理的問題(特にプライバシーの権利)についてバイオエシックスの視座から検討し、我が国での疫学研究の適正な在り方を探ることを試みるものである。なお、本稿は、厚生省厚生科学特別研究事業「疫学的手法を用いた研究等における生命倫理問題及び個人情報保護の在り方に関する調査研究班」における議論を踏まえたものであり、そこで作成された「疫学の研究等に関する倫理指針(案)たたき台」(以下、指針案とする)に関する筆者の個人的な意見も合わせて報告する。

2. 医科学研究における倫理原則

 人を対象としたあらゆる医科学研究の実施に関しては、国際的に承認された倫理原則 (表1) がある。これらは、第二次世界大戦中に行われた生体実験への反省として定められたニュルンベルク綱領 (1947) を起源として、後の世界医師会総会によるヘルシンキ宣言(1964)、国際医科学評議会(Council of Inter- national Organizations of Medical Sciences: CIOMS、以下CIOMSとする) による人被験者を対象とする生物医学研究についての国際ガイドライン (International Guidelines for Biomedical Research Involving Human Subjects, 1982) 等の議論の中でさらに整理されてきたものであり、バイオエシックスの基本的倫理原則とも重なるものである。これらの倫理原則においては、その基礎として被験者の「人権の保護」の理念があり、これはすべての人が平等に有している「人間の尊厳」の尊重という基本理念に支えられるものである。

 当然のことながら、疫学研究も人を対象とした医科学研究の一領域であることから、上記の基本原則を等しく遵守しなければならない。しかしながら、従来、これらの倫理原則は臨床医学研究や治験といった身体的侵襲度の高い研究を主に対象として検討されてきた。これに対し、疫学研究は、(1) いわゆる臨床医学研究に較べ身体的侵襲度が低い、(2) 集団を対象とすることから個別のインフォームド・コンセントの取得が困難な場合が多い、(3) 追跡や照合を行なうために個人を特定する情報 (identifier) を取り去ることができない場合が多い、という特性をもち、臨床医学研究とは前提とされる状況が異なる点が少なくない。

 疫学研究では、研究の科学性を保つという理由からインフォームド・コンセントの原則(本人同意の原則)を遵守できない場合があったり、研究の特性から個人を特定する情報を保持する必要がある(つまり、匿名化が研究デザイン上不可能である)場合があったりという状況を踏まえた上で、人を対象とした医科学研究の原則となる基本理念を共有しつつ、具体的な研究場面でどのような対応が社会的に許容されるかといった基準を示す「疫学研究の倫理指針」の策定が不可欠となるのである。

表1. 基本的倫理原則

(1)自律性の尊重 (respect for the autonomy of persons)
 自律的な個人の自己決定を尊重するとともに、自律性が十分でない個人を護ること
(2)無危害 (non-maleficence)
 人に対する危害を回避する、もしくは最小化すること
(3)善行 (beneficence)
 人の善を優先し、最善の利益を追求し、最大化すること
(4)公正 (justice)
 リスクとベネフィットの配分、ならびに手続きにおける公正さが保たれること

Micro-Ethicsと Macro-Ethics

 このような状況に対応すべく整理された倫理的な枠組みとして、Micro-EthicsとMacro-Ethicsとがある (Gostin, 1991)。Micro-Ethicsとは、被験者である個人の権利保護に焦点をあてたもので、前述の表1の倫理的基本原則をいう。これに対し、Macro-Ethicsとは、集団(集団を構成しているすべての個々人)の尊厳の尊重に焦点をあてたもので、次の五つの原則によって支えられるとされている。すなわち、(1)集団の個々人の健康と福祉を護ることを最優先の義務とすること、(2)集団の個々人の尊重と彼らの自己決定権の尊重、(3)弱い立場の個々人の保護と研究実施の正当な理由の必要性、(4)集団の個々人のプライバシーやインテグリティ、自尊感情の保護、(5)集団の個々人に対する恩恵の公正な配分とインフラ構築の必要性、の五つの原則である。

 Macro-Ethicsの基礎をなす原則は、被験者集団に害を与えないこと (First Do No Harm) である。これが集団の個々人の尊重というMacro-Ethicsの原理を導いている。しかしながら、Macro-Ethicsにおいて集団のベネフィットが個人にとって害を与えるような場合に、Macro-Ethicsが簡単にMicro-Ethicsを踏み越えてしまうことが許されるのか、つまり個人の人権を制限することが許されるのかといった重大な問題をMacro-Ethicsはその中に抱えている。また、例えば、原則に示される通りに集団の意思を尊重する場合に、誰が集団の意見代表者として妥当であるか、もしくは誰か代表者をもって集団の同意に代えること自体の妥当性についての疑問等、解決されていない問題も多い。

本研究班での倫理的枠組み

 これらMacro-Ethicsの枠組みは、疫学研究を考える際に有用なものであるが、重要な問題点も積み残されている。さらに、この議論は研究遂行国である先進国と研究の対象となる集団をもつ発展途上国との南北問題(経済的強者による、弱者からの搾取であるのではないかという問題)を強く意識して整理されている。そのため、日本国内を中心とした疫学研究の在り方を考える議論に、そのまま当てはめることには若干の抵抗がある。

 したがって、本研究班における議論では、Micro-Ethics、Macro-Ethicsという枠組みを用いることはしなかった。しかしながら、被験者集団を構成する個人の「人間の尊厳の尊重」を基本理念として指針案を検討してきたことから、上記の考え方と類似する枠組みをもって議論してきたといえる。

 では、これらの倫理的枠組みを通して疫学研究を検討した場合、どのような倫理的問題が生じ得るのであろうか。

3. 疫学研究における倫理的問題

 疫学研究における倫理的諸問題とは具体的にどのようなものが考えられるであろうか。前述のように、疫学研究では患者や被験者の個人情報が不可欠なことが少なくない。このため、この個人情報の収集ならびに利用の場面において、本人の同意原則、自由意思による研究参加の原則が守られない場合があることが指摘され、したがって疫学研究における主な倫理的問題とは、個人の「プライバシー権」の侵害という問題が生じ得ることとなるであろう。

 では、なぜ疫学研究においてプライバシー権の侵害といった問題が起こりやすいのであろうか。

医療と疫学研究

 疫学研究の倫理的問題の発生要因を検討するにあたり、まずは医療と疫学研究の相違点を確認する必要があろう。

 そもそも、医療も疫学研究も医学の一領域であることから、目指すものは人々の健康ならびに福祉の増進である。しかし、医療と疫学研究では、その対象ならびに具体的目的は明らかに異なる。すなわち、医療は目の前の患者個人を対象とし、当該患者の健康の維持や回復(具体的には、診断、治療、苦痛の除去、リハビリテーション等)を目的としているのに対し、疫学研究は個々の患者ではなく集団を対象とし、集団全体の健康維持のためのデータを蓄積し、健康政策の基礎資料を与えることを目的としている。(表2)

 このように対象と目的に相違があるにもかかわらず、疫学研究において必要とされる情報の収集が、医療や健康診断(個人のための診療)の場面で行なわれ、医療ケアの一環として収集される場合が多くある。さらに、疫学研究の科学性を保つため等の理由から、個々人に対する疫学研究の説明が行なわれない場合も多い。このため、被験者本人が疫学研究に協力しているという認識のないところで、個人情報が疫学研究のために収集・利用されたり、追跡調査が行なわれるという事態が生じるのである。これが疫学研究における主なプライバシー権の侵害の発生要因であろう。

 では、プライバシー権の侵害が、社会的にどのような意味をもつのかという点について検討するために、まずプライバシーの概念の整理をしたい。

プライバシーの概念

 プライバシーに関連した国内のルールとして、2001年春に「個人情報の保護に関する法律」が制定される見込みである。この法律は基本原則として、(1) 利用目的による制限、(2) 適正な取得、(3) 正確性の確保、(4) 安全性の確保、(5) 透明性の確保、の5原則を挙げている。本法案では、情報の利用や収集において「目的の明示」を求めているが、これは現在の我々の社会で当然とされているルールを明文化したものものに過ぎない。

 アメリカでの動きを要約すると、そもそも、プライバシー概念は、マス・メディア等による私生活の曝露に対抗するものとして1890年頃に「ひとりにしておかれる権利 (right to be left alone)」として提唱されたものである。これが1960年代後半から「自己に関する情報の流れをコントロールする個人の権利 (individual's right to control the circulation of information relating to oneself)」へと発展したといわれている。前者は伝統的プライバシー概念と呼ばれ、権利侵害に対する事後救済を求める消極的・受動的権利であったが、後者は現代的プライバシー概念と呼ばれ、権利保護のための事前保障を求める積極的・能動的権利と捉えられている (安冨, 2000)。

 また1920年代前半からは子育てや教育等のさまざまな問題に対する家庭の意思決定を保護するため、拡張的「自由」という考え方が採用され、さらに1965年には「避妊器具を使用することおよび避妊方法について夫婦に助言することを禁じる州法は、夫婦のプライバシー権を侵害するものであり違憲である」とするグリスウァルド対コネチカット判決がだされた。また1973年には、妊娠した未婚女性が「テキサス州の中絶禁止法は憲法の保障するプライバシー権を侵害する」と訴えたロウ対ウェイド判決がだされ、私的な事項に関する意思決定の自由がプライバシー権のないように含められるに至った。このようにプライバシーの概念は、他者からの情報の保護だけではなく、国家の干渉に対抗し、家族計画の決定等も含むプライベートな生活圏を設定し、その内において個人は自由に選択し行動することができるという考えへと拡張を続けたのである (Beachamp & Childress, 1994)。

 Gostin (1992) によると、プライバシー権は三つのレベル、すなわち、(1)身体的、個人的、もしくは社会的な感覚において空間をもつ権利、(2)自らの健康や行動、生活環境に関する情報の開示をコントロールする権利、(3)個人、家族もしくは社会的な関係における親密性や信頼性を維持する権利、が要求されるという。これら自己の生活圏の保護権や自己情報コントロール権に、ロウ対ウェイド判決に見られる自らについて決定する権利(自己決定の権利)が加わったものが、いわゆる現在のプライバシー権の内容といえるであろう。そして、これらの権利から、「自らの個人情報にアクセスすることのできる人を選ぶ権利」も導くことができるのである。

 プライバシー権を支える基本理念としては、「人間の尊厳の尊重」が挙げられる。そして、自己情報をコントロールするという意味で、プライバシー権を侵害しない行動というのは、「本人同意の原則」を遵守したものであろう。

表2. 医療 Medicine と公衆衛生Public Health
− 両者の相違点とは −

  医療 公衆衛生
対象 個人 住民/地域社会
目的 疾病の診断/治療/苦痛の軽減/
リハビリテーション
健康関連要因の同定/測定
問題解決のための政策立案
保健・医療サービス提供
関連専門分野 生物学・生化学・免疫学・薬物学・
病理学・解剖学

疫学・生物統計学・政策分析・
経済学・社会学など

行動形態 医師・患者の個別的関係 行政・地域社会の包括的関係
行動原理 個人のオートノミー
患者の自己決定権
行政レベル:基本的人権
医療者レベル:医療倫理

註)本表は、Jonathan M. Mann, Medicine and Public Health, Ethics and Human Rights, Hastings Center Report 27(3), pp.6-13, 1997. の内容をもとに白井泰子氏が作成したもの。(白井泰子: 遺伝情報と医療の倫理−疾病予防の視点から, 第56回日本公衆衛生学会総会, シンポジウム3「遺伝子の世紀」の疫学と予防, 1998年10月)

プライバシー権が制限される場合

 しかしながら、他の諸権利と同様、プライバシー権も制限される場合がある。それは、権利を制限するだけの合理的な理由が存在する場合に限られる。この場合の合理的な理由とは、例えば、倫理原則や規則を遵守することの方がより重要だということ、それらの原則や規則はプライバシー権を侵害することによって首尾よく実現できるということ、それらを実現することも表現することもプライバシーを侵害しなければできなかったであろうということ、等である(Beachamp & Childress, 1994)。

 例えば、重篤な感染症等が発生した場合がそれにあたる。この理由は、感染症を発症した個人のプライバシー権を制限し、公衆衛生学上必要と認められる治療や隔離等の強制的介入をすることによって、他の人々が回避し得る危害を被らないようにできるからである。この裏付けとなるのは、「他者に対する危害を回避する原則(他者危害の原則)」である。

 この他者危害の原則とは、我々の自由主義社会における重要なルールであり、個人の権利の枠組みの一端を構成している。つまり、自己決定権(プライバシー権)は他人への危害を加えない、ならびに危害を回避するという目的のために必要な場合においては制限され得るということである。疫学研究においてプライバシー権が制限される場合があり得るかという議論においてこの点は再考したい。

4. バイオエシックスの視座からの検討

 疫学研究に限らず、研究の倫理性の実質的な検討とは、そこに発生するリスクとベネフィットを比較考量し、その社会において適切なバランスをはかることである。その際、リスクの種類と重要性をどのように認識するかが問題となる。

 疫学研究では、医療・保健領域のあらゆる個人情報が用いられることによる個々人のプライバシー権に対するリスクと、それらを用いた疫学研究の成果が将来医療として社会に還元されるという利益(公益性)のバランスの議論を避けることができない。そこで、これらの問題を踏まえ、以下に、疫学研究におけるリスクとベネフィットの比較考量を試行してみる。

 まず、天秤にかけられるべきものとして研究によるリスクや危害と、研究の成果というベネフィットと考える。医療の場合は、原則として、問題が患者個人において完結するので、当該患者の被るリスクとベネフィットを比較考量することとなる。しかしながら、疫学研究では、被験者個人の受ける直接の利益は想定されておらず、個人の所属する社会集団全体の健康増進というベネフィットを、被験者の被るリスクと比較考量することとなる。(もちろん、別の整理によってリスクとベネフィットを比較考量することもできるかと考えるが、ここでは、上記の整理によって検討を続ける。掛江)

 まず、疫学研究におけるリスクを考えると、疫学研究では臨床医学研究と異なり身体的侵襲はほとんどないが、被験者のプライバシー権の侵害が考えられる。ここでのプライバシー権の侵害によるリスクとは、個人情報の漏洩による社会的差別等を被るリスクや、自分のものであると思っていた個人情報が勝手に使われるという気持ち悪さ、観察研究などにおける見られること自体の嫌悪等が挙げられるだろう。これに対して天秤の反対側の皿にのる疫学研究によるベネフィットを考えると、疫学研究では被験者の直接の利益ではなく、その被験者が所属している社会全体の利益を考えることとなる。すなわち、疫学研究における利益は疫学研究の結果から生じる「公益」となり、ここで問題となるのが、疫学研究の公益性をどう評価するか、そして比較対照である被験者のプライバシー権の侵害をどう評価するかという点であろう。

 公益の評価として、それを社会全体の利益といってしまえば、それは倫理規範をもつ社会において、社会の構成員である個人の人権侵害を肯定するにはあまりに漠然としていて十分なものとはいえない。次に、公益を、医学の発展、ならびにエビデンスに基づく健康政策によって社会の構成員である個々人が得る恩恵と定義してみる。これでもやはり十分とはいえない。では、これを個々人の生存権まで発展させて捉えてみる。すると、プライバシー権と生存権の対立構造と捉えることが可能となる。この比較考量においては、個人のプライバシー権よりも個人の生存権の方が重く、また集団の生存権の方がより重いという解釈が成り立つかも知れない。そして、生存権を根拠にプライバシー権の制限が許容できるという主張も成り立つかもしれない。しかしながら、そもそも個人の権利である生存権を集団の生存権として用いることや、疫学研究のベネフィットを生存権まで拡大する解釈が飛躍し過ぎており、理論として成立しないように思われる。

 また、個人情報のコントロール権を保障するために個々人からインフォームド・コンセントを得ることを義務付け、拒否権を保障することについて、科学的見地から(すなわち被験者が偏り、研究全体にバイアスがかかってしまい、正しい知見が得られなくなり)、その結果として研究参加を拒否する個人の所属する社会を構成する他者が受けるべき疫学研究の結果から発生するベネフィットが著しく低下するという主張があり得るかもしれない。これは、同集団の他者の福祉 (公共の福祉) と個人のプライバシー権を量りにかけることとなり、他者危害の原則からみると、個人のプライバシー権の制限はやむを得ないとの解釈もできるかもしれない。しかしながら、疫学研究はイコール公共の福祉ではない。したがって、この理屈も、理論の立て方自体に問題があると考える。

 一方、疫学研究における倫理の基本理念である「人間の尊厳の尊重」という視点から検討すると、人間の尊厳を尊重するためには、原則として本人の同意もしくは少なくとも了承が必要となる。すなわち、自らの個人情報の利用について本人が同意もしくは拒否をもってコントロールするというプライバシー権が尊重されることが必要となる。これを覆すためには、特定の場合に限り個人情報を利用されることについて、社会的コンセンサスを確保する等の方法によって、本人の了承を得たのと同様もしくはそれに近い状況をつくる必要があるのではないかと考える。

 では、逆にこのプライバシー権を制限するということは、社会にとってどのような意味をもつかを考えてみる。すると、情報を利用される人と結果から生じる恩恵を享受する人が必ずしも同一ではないことから、公正の原則に反するとの批判を受けるかもしれない。さらに、本人の意思にかかわらず情報を収集・利用するという行為は、個々人の尊厳を無視するものとも解釈できる。我々の社会において「人間の尊厳」とはさまざまな人権の基礎にある理念である。したがって、我々の社会がこれを無視する行為を安易に認める社会であるとするならば、基本的人権という憲法概念自体が揺るがされてしまう可能性もあるであろう。このような視点から、プライバシー権の重みについても再考する必要があるのではないか。

5. 考察

 さまざまな倫理原則を基に、疫学研究の適正な在り方を検討してきた。議論の基盤としては、「人間の尊厳の尊重」の理念を共有しているはずであるが、「尊厳」という概念が抽象的で捉えにくいことから、具体的な場面では「最小限のリスク (minimal risk) 」の原則を満たすこと(特に身体的侵襲や情報漏洩によるリスクといった実害を最小限に抑えるという点が満たされること)という基準が有用である。

 しかしながら、研究班の議論においては、「最小限のリスク (minimal risk) 」の原則を満たすことのみが倫理性の指標のように誤解されてしまった感がある。「人間の尊厳の尊重」の原則と「最小限のリスク (minimal risk) 」の原則は、同義ではないことを確認しつつ、関連する倫理的な問題について考察をしたい。

守秘義務(confidentiality)とプライバシー権の保護

 しばしば、守秘義務とプライバシー保護という言葉が、非常に曖昧に連動して使われる場面がある。しかしながら、これらは部分的に重なり合うだけの全く独立した概念である。したがって、疫学研究の倫理問題を考える場合は、「人間の尊厳の尊重」の原則と「最小限のリスク (minimal risk) 」の原則の違いとともに、守秘義務とプライバシー権の保護との違いについても、整理しておく必要があるだろう。

 疫学研究でしばしば問題となる本人同意に基づかない(同意の欠如した)状況での個人情報を用いた研究等を考えるとき、「最小限のリスク」という原則を検討の基盤とすることがある。つまり、情報の漏洩から生じるリスクについて厳重な管理が保証されるような状況では、リスクが極めて小さく、最小限のリスク以上のリスクはないという理由から、たとえ本人同意が欠如していても、当該研究が許容される可能性が出てくるからである。

 他方、同じ問題について個人の尊厳の尊重という原則を検討の基盤とするならば、合理的な理由なく無断で他の目的のために収集された個人情報を研究に流用することは、当該情報に関するリスクの大小に関わらず、個人の尊厳を踏みにじる行為と解釈され、それ自体が既にリスクであると解釈することもできる。

 このように正反対の解釈がでてくるのは、「最小限のリスク」の原則と「人間の尊厳の尊重」の原則とが、異なる次元の概念であるからである。また同時に、「守秘義務」を守るということは、最小限のリスクを保障する一つの手立てであるが、「プライバシー権」を護るというのは、最小限のリスクを保障するだけでなく、人間の尊厳を尊重する手立ての一つでもある。この相違は、非常に重要であろう。

同意の原則とその免除

 疫学研究は、集団を対象とすることから、その対象者は非常に多く、また既に収集されている資料を利用することも多いため、個別のインフォームド・コンセントが時間的に、もしくは経済的、物理的に不可能である場合も多いという。また、同意権もしくは拒否権を保障することによって、研究にバイアスがかかり、研究の科学性が低下することを懸念する声がある。

 このような状況に対応するために、被験者の「人間の尊厳の尊重」の原則を遵守する一つの手段として、本指針案では、(1) 研究等対象者に対して最小限のリスクを超えないこと、(2) インフォームド・コンセントの緩和又は免除が研究等対象者の不利益とならないこと、(3) 緩和又は免除がなければ実際上研究等を実施し得ないこと、(4) 集団に対して広報するか、できるだけ早い時期に研究等対象者に事後的説明(集団に対するものも可)を与えるか、社会に対する広報・周知の努力を払うこと、(5) その資料を用いることなくしては行い得ない研究等であること、(6) 研究等の重要性が高いこと、(7) 不適切な利用、開示、漏洩からの情報保護の対策がなされていること、(8)できるだけ早い時期に入手した資料を匿名かつ連結不可能なものにすること、といった8項目を、現段階で考えられるインフォームド・コンセントの原則を緩和する際の代替手続きとして挙げ、これらの確認ならびに承認を倫理審査委員会に委ねることとしている。

 これは、同意の原則が人間の尊厳の尊重から導き出されていることから、個別の同意取得が困難な場合には、倫理審査委員会において個人に対するリスクが最小のものであるということ等について確認を得ることによって、被験者への説明もしくは社会への周知を行なうという形で了承を得る(実際には説明だけでは了承を得たとは言えないが、無断ではなくなるかもしれない)という代替手続きによって、人間の尊厳の尊重を確保しようとするものである。さらに、この手続き自体については、集団もしくは社会の代弁者となることが期待される倫理審査委員会の審査を経ること、さらにその議事を公開することによって広く社会の承認を得ることを目指している。おそらく、これが社会と研究との関係性における妥協点となるであろうし、多くの疫学研究が人間の尊厳を尊重したこの手続きにそって実施されることとなるであろう。

全数調査

 集団におけるすべての人を対象とする全数調査(悉皆調査)を実施する場合、同意の原則との衝突が起こる。具体例としては、地域がん登録事業が挙げられる。

 地域がん登録事業とは、「一定地域に居住する人口集団において発生したすべてのがん患者を把握し、その診断、治療に関する情報、ならびに予後情報を集め、保管、整理、解析する仕組み」である。そのため、氏名や生年月日といった個人を識別する情報と、がん登録のために必要な病名、診断内容、医療機関、死因等を、収集・保管している。さらに、情報の収集方法が、公共の事業として行なっていること、登録のミスなく、システマティックに収集する必要があること等から、患者本人からではなく、医療者から直接情報収集する方式を採用し、さらに予後情報としては死亡小票の閲覧(目的外利用)方式をとっている。

 地域がん登録の目的としては、(1)がんの実態の把握、(2)対がん活動の評価と企画、(3)医療機関への情報還元、(4)対がん医療の向上、(5)疫学研究へのデータの二次利用、(6)がん検診の有効性評価と制度の管理、(7)環境アセスメント、等が挙げられており、これらのすべてを成し遂げるシステムをもった事業であるとするならば、その公益性の評価は高いといえるだろう。

 しかしながら、たとえ公益性が高いとしても、我々の社会が個々人に保障しているプライバシー権を容易に制限できるとはいえない。おそらく、個人が有する権利を強制的に制限し得る合理的な根拠となるのは、社会における議論というプロセスを経ることによって社会的コンセンサスを得、それに基づいてつくられ、国民すべてに平等にその遵守が義務付けられる法律(個別法)以外にはないであろうと考える。

6. 積み残した課題

 本研究班で積み残した課題について、私見を交えて、整理しておきたい。主な課題としては、(1) 倫理審査委員会の設置の問題、(2) 倫理審査委員会における審査の妥当性の問題、(3)疫学研究の公益性とプライバシー権保護のバランスについてのコンセンサスの問題、等が挙げられる。

倫理審査委員会の問題

 倫理審査委員会に委ねられた役割の重要性と、現実の倫理審査委員会の審査体制の問題であろう。前述した「インフォームド・コンセントの原則の緩和や免除」という重要な判断は、倫理審査委員会に委ねられている。また、科学性の確保や個人情報保護の措置の妥当性等の重要な問題もすべて倫理審査委員会の判断に任されている。

 例えば、疫学研究は、公衆衛生事業の現場でも広く行われていることから、保健所等の病院倫理委員会や大学倫理委員会等をもたない機関において実施されている場合も多い。これでは、研究者が倫理審査を希望しても、申請する先がない状況であり、どのような対応を求めるのかという問題が残る。これについては、研究班の議論の中で、英国のシステムを参考に、倫理審査委員会をコミュニティーに設置する提案が出されたことを記録に留めておく。

 さらに、倫理審査委員会があったとしても、倫理審査において倫理性を審査する際の基本にある「科学性の確保」の審査を誰が行なうのか、といった問題がある。従来の倫理審査委員会には、疫学研究の特殊性を理解し、その研究の科学的妥当性を判断できる専門家がほとんどいないという。これについては、事前審査としてのピア・レビュー制度の検討、倫理審査委員会の委員の構成や委員の役割の検討等、いくつかの積み残し課題がある。

 倫理審査委員会については、さまざまな問題を抱えてはいるが(米国のIRBの形骸化の問題については、本報告書の武藤香織氏の報告を参照されたい。)、我が国では倫理審査委員会の整備ならびに活用を本格的に始めたばかりである。したがって、倫理審査委員会の形骸化が問題となっている倫理審査の先進国である米国をはじめとする諸外国の反省を参考に、我が国における研究の倫理審査体制を確立することを期待したい。

 さらに、本指針案では、倫理審査委員会の議事公開を通して、被験者や将来の被験者である一般国民に対する透明性を確保し、審査の公正性をモニターすることを提案している。これに加え、研究者には一般国民の疫学研究のリテラシー向上への努力が求められる。そしてこれらがうまく結びついたとき、社会の疫学研究に対する理解という点で一定の効果をあげるものと考えられる。以上、倫理審査委員会による審査という点で、いくつかの積み残し課題を挙げたが、これらの課題については、別途研究がなされ、我が国における適切な倫理審査体制が構築されることを強く期待する。

疫学研究の公益性とプライバシー権保護のバランス

 研究班の議論の主な争点は、疫学研究の公益性とプライバシー権の保護のバランスをいかにとるべきかというところにあった。日本国憲法13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。」を基に、疫学研究を「公共の福祉」であると解釈すれば、国民のプライバシー権の制限はあり得るかもしれない。しかしながら、「疫学研究=公共の福祉」とする仮定自体に飛躍がある。また、そもそも憲法25条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」の後段において、国の責務として「公衆衛生の向上及び増進」が規定されている。しかしながら、具体的に国の責務が国民個々人の人権と衝突する場合についての、広い議論はもたれていない。また、ここでも「疫学研究=公衆衛生の向上」とするのは、飛躍があり過ぎるように考える。

 個人情報保護法の策定にもみられるように、個人のプライバシー権に対する関心は強い。プライバシーの概念がなかった、もしくは消極的であった頃を基準として、「既になされてきた研究のうち、現在のプライバシー保護の議論において問題視される研究を、いかに(合法的に)実施するか」といった、「先ず研究ありき」とする議論の進められ方がなかったとはいえない。今後、広く社会的に議論を進め、何らかのコンセンサスを形成する過程においては、研究者と国民との議論の始点が大きくずれてしまうことのないよう、慎重な議事の進行を期待したい。

研究と社会の乖離

 医療・医学研究は社会の枠組みの中で、社会の理解に基づいて行なわれなければならない。特に、疫学研究を含む医科学研究が、そのベネフィットに公益性を挙げていることに鑑みると、社会から乖離してしまうことはあってはならない。

 その意味で、個人情報保護法策定の議論の中で、疫学研究を含む医科学研究が、学問の自由という憲法上の理念を根拠に研究遂行を強く訴えたこと、つまり学問の自由を盾に、同意不存在の状態で疫学研究を遂行し、一般の人々のプライバシー権を含む人権を侵害することも認めるようにと主張したことは残念であった。そしてこの主張は、学問,科学の発展のためには本人の意思に関係なく被験者となることを強制され得るという不安と、ニュルンベルク綱領以来、人を対象とした研究の大原則である被験者の自主性(善意による参加)の原則を、研究者が軽視しているかの印象を与えることとなったように思う。

 今後、遺伝子解析情報といったより深く個人のアイデンティティに関わる情報も、疫学研究の中で利用されることとなるであろう。現在は、生殖細胞系列の遺伝子解析研究は、別途定められた三省庁合同のヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針を遵守することとなっているが、いずれあらゆる研究に遺伝子解析が関わってくる時代が到来するであろうことが予想されることから、近い将来における個人情報の取り扱いに対する一般国民の漠然とした不安は、より強くなる一方であろう。

 したがって、被験者たる一般国民や患者に対して、疫学研究への参加についてのインフォームド・コンセントを求めるか、個別のインフォームド・コンセントが合理的な理由によって不可能である場合には広く社会に疫学研究のリテラシーを周知し、社会に無断利用をされたという印象を与えないような手続きを経ることが、将来の疫学研究ならびに医科学研究の発展のために、非常に重要であると考える。

職域ならびに学域における疫学研究

 職場や学校における疫学研究は、一般フィールドに比べ、より慎重な議論が必要な領域である。(紙面の関係で詳細は別の機会にするが、)今後の疫学指針の議論には、教育機関における疫学研究の在り方を検討するために文部科学省も参加するという。文部科学省は学域を管轄する省であるし、また省庁再編によって職域を管轄する労働省が厚生省と統合されたことから、職域ならびに学域における疫学研究の在り方の方向性を示す好機であると考える。研究班会議では深く議論できなかった課題であるが、この機会に慎重な議論を重ね、適正な在り方を示していただきたいと考える。

国外での疫学研究

 現在の日本の研究水準を考えると、国外での疫学研究の実施は、既に多く行なわれていると推察する。しかしながら、本指針の議論においては、残念ながら全く触れることができなかった。CIOMSをはじめとして、国際的にも医科学研究における南北問題が議論されている。今後の指針作成の議論において、是非とも検討していただきたい課題である。

7. おわりに

 以上、一年間の研究班での活動を通して考えたことを、まとまらないなりに綴ってみた。本稿では、バイオエシックスの視座からリスクとベネフィットの比較考量を試行してきたが、結局のところ「人間の尊厳の尊重」という基本理念は、定量化をして秤にかけられるものではない。したがって、原則として「人間の尊重の尊重」のために「本人同意」の原則を貫くべきであろう。その原則を踏まえた上で、合理的な理由をもって社会の理解が得られた場合に鍵って、例外的な取り扱いが許容されるというのが筋ではないか。

 疫学研究は、医学の一領域としての疫学研究を含む医学全体が築いてきた国民との信頼関係の上に成り立つものであろう。したがって、国民が疫学研究に不信感を抱くということは、疫学研究のみならず、医療全体の信頼をも脅かす重大な問題となるであろう。そういった一般国民の視点からも、医科学研究における「自発的な参加」や「自己決定」の原則を含むプライバシー権の重みについて、再度検討する必要を感じる。

参考文献

1) CIOMS/WHO: International Guidelines for Ethical Review of Epidemiological Studies, 1991, 光石忠敬訳, 臨床評価20, pp.563-578, 1992.

2) CIOMS/WHO: International Guidelines for Biomedical Research Involving Human Subjects, 1993, 光石忠敬訳, 臨床評価22, pp.261-297, 1994.

3) Tom L. Beachamp & James F. Childress: Principles of Biomedical Ethics 4th edition, Oxford University Press, 1994.

4) Jonathan M. Mann: Medicine and Public Health, Ethics and Human Rights, Hastings Center Report 27(3), pp.6-13, 1997.

5) Tom L. Beachamp: Moral Foundations, Ethics and Epidemiology, Oxford University Press, pp.24-52, 1999.

6) Lawrence Gostin, Macro-ethical Principles for the Conduct of Research on Human Subjects: Population-based Research and Ethics, WHO/CIOMS Steering Committee Report, pp.29-46, 1992.

7) Charlaes R. McCarthy, Confidentiality: the Protection of Personal Data in Epidemiological and Clinical Research Trials, WHO/CIOMS Steering Committee Report, pp.59-63, 1992.

8) 白井泰子: 遺伝情報と医療の倫理−疾病予防の視点から, 第56回日本公衆衛生学会総会, シンポジウム3「遺伝子の世紀」の疫学と予防, 1998年10月

9) 丸山英二: 医療・医学における個人情報保護, ジュリスト, 1190, pp.69-74. 2000.

10) 安冨潔: 地方自治体における個人情報保護の状況, 公衆衛生64(8), pp.557-560, 2000.



疫学研究を正当化する論拠と論点

北里大学医学部医学原論研究部門 齋藤有紀子

1.はじめに:さまざまな理論軸

 疫学研究における倫理問題を論じるとき、さまざまに異なる理論の軸が、議論の焦点を見えにくくすることに気づく。

 理論の軸が錯綜するのは、疫学研究が、「研究」でありながら、使われる材料が、「臨床」あるいは、他の目的で収集された資料(医療情報・人体由来試料)の二次利用である場合が多いこと、「ヒト」を対象にした研究(実験)でありながら、実際には「モノ」だけを対象にしている場合が多いこと、資料提供者である対象者に医療上の直接の利益をもたらさない代わりに、身体的リスクにも曝さない場合が少なくないこと、など。

 資料の収集、使用、研究の対象、目的、リスクの過多、成果の恩恵、いずれの場面に注目するかで、各人にイメージされる「疫学の世界」は異なり、重きが置かれる倫理的テーマも異なってくる。

 さらに疫学は、資料の収集から、成果の公表までに、数年もしくは数十年の期間を要することが多い。この「時間の経過」もまた、疫学研究の倫理問題の軸を変化させる要因となっている。

 臨床場面から研究場面へ、まだ人格を想起させる採取間もない人体由来試料から、加工・輸送されて限りなくモノ化された生体試料へ。研究対象(者)に対する社会の人々の「思い入れ」も、研究者の「思い」の程度も自ずと変わってくるだろう。研究のための人体由来試料は、いつまで、誰に、「人体そのもの(ないしは人体の一部)」としての敬意を払われ続けるのか。あるいは、通常よりセンシティブな扱いを必要とする「モノ」としての扱いを受け続けるのか。

 このように、疫学研究は、時間、空間、対象の性質を移しながら、さまざまな人の手を介して行われる医学研究であり、私たちは今、そのような医学研究の倫理問題を語る言葉を提示する作業と向き合っている。

 本稿では、上記の問題意識から、疫学研究の理論の軸について、若干の整理を試みたい。

2.二項対立の構図を超えて

 ひとつの研究をさまざまな視点からみることのできる疫学研究では、そこで生じる倫理的問題を二つの価値の対立構造で整理をし、どちらの価値観を優先するかで一定の決着をつけようとする試みも多い。

 研究の科学性の担保vs.倫理性の追求、人権の尊重vs.公益の実現、対象者が直接に負担するリスクvs.対象者が間接に得る恩恵、個人vs.社会・・・。このような比較衡量による思考は、法学の得意とするところでもあり、問題解決の手段として、確かに一定の有効性をもつようにみえる。

 また、疫学が社会政策・医療政策と不可分である以上、それぞれの研究は、常に社会の中でその有用性を問われ、優先順位をつけられていく。そのときの社会の価値観を意識し、その比較衡量を通して、問題の所在や、実践すべきことを確認することも、疫学研究自身にとって、なじみやすい方法かもしれない。

 しかし、社会政策上、研究同士が比較衡量の対象となることと、それぞれの研究の中で価値観の比較が行われることとはもちろん別のことである。また、疫学研究の種類の多様性、時間・空間の移行に伴なう対象の変容を思うとき、イメージされている疫学の場面によって、また、語る人に応じて、ひとつの価値観に対する重みづけが異なってくることも事実であろう。

 疫学の倫理を語る際、二項対立の構図は、問題の所在を必ずしもクリアにしているわけでないことには、注意しておく必要がある。

3.疫学研究と医療倫理

 そして何より、疫学研究が医学研究である以上、一般の医学研究の倫理原則から完全に自由ではいられない。

 2000年10月、第52回世界医師会総会で修正されたヘルシンキ宣言(日本医師会訳)は、その「A. 序言」において、「1. ヒトを対象とする医学研究には、個人を特定できるヒト由来の材料及び個人を特定できるデータの研究を含む」、「5. ヒトを対象とする医学研究においては、被験者の福利に対する配慮が科学的及び社会的利益よりも優先されなければならない」と規定した。

 さらに、「B. すべての医学研究のための基本原則」の項では、「21. 被験者の完全無欠性(integrity)を守る権利は常に尊重されることを要する。被験者のプライバシー、患者情報の機密性に対する注意及び被験者の身体的、精神的完全無欠性(physical and mental integrity)及びその人格(the personality of the subject)に関する研究の影響を最小限に留めるために、あらゆる予防手段が講じられなければならない」、「22. ヒトを対象とする研究はすべて、それぞれの被験予定者に対して、目的、方法、資金源、起こり得る利害の衝突、研究者の関連組織との関わり、研究に参加することにより期待される利益及び起こり得る危険並びに必然的に伴う不快な状態について十分な説明がなされなければならない。対象者はいつでも報復なしに、この研究への参加を取りやめ、または参加の同意を撤回する権利を有することを知らされなければならない。対象者がこの情報を理解したことを確認した上で、医師は対象者の自由意志によるインフォームド・コンセントを、望ましくは文書で得なければならない。文書による同意を得ることができない場合には、その同意は正式な文書に記録され、証人によって証明されることを要する」、 とされている。

 新しいヘルシンキ宣言には、ヒトを対象とする医学研究が「人体」のみならず「個人を特定できる医療情報や人体由来試料」を対象とするものも含むことが新たに盛り込まれ、研究対象の保護、機密性への配慮が、被験者の「身体的・精神的インテグリティ」および「人格」の尊重につながることが明示された。

 言い換えれば、ヘルシンキ宣言は、研究対象の保護・配慮を怠ることが、個人のインテグリティおよび人格に影響を及ぼさざるを得ないと判断していることになる。また、すべての研究において、事前の説明と被験者の同意、拒否の機会の保障が原則になることも改めて確認された。

 このような枠を示されたことで、情報や試料の二次利用が中心となる多くの疫学研究も、必然的に、原則として、これらの規定の対象となると考えられる。

 しかしながら、多くの疫学研究では、しばしば「被験者への侵襲の低さ」「対象(被験)者の人数の多さ」「成果がもたらす公益性の高さ」「研究の科学性の担保(データの偏りの排除)」という特徴が、個別同意を取得しないことの正当性の根拠とされる。たしかに、個別同意を得ずに適正に実施され得る疫学研究はあるであろうし、へルシンキ宣言も、個別同意のない研究を一律に禁止しているわけではない。

 しかし、人権を尊重して医学研究を行なうために策定されたヘルシンキ宣言の適用対象になるにも関わらず、そこで必要とされている「倫理原則」に対して、実務上、例外的対応をする、さらにいえば、原則に添わない対応をすることを「正義にかなう」というためには、それこそ細心の手続き規定と、(ヘルシンキ宣言にいうところの)徹底した予防措置、当該社会の承認手続きが不可欠であろう。

 今回、提示された「疫学の研究等に関する生命倫理問題及び個人情報保護のあり方に関する指針」の中には、個別同意を得ずにヒトを対象とする医学研究としての疫学研究を「適正に」実施するために必要な、社会的手続きおよび予防措置のあり方が示されている。これが社会的に容認されるものとなるかについては、今後、社会に開かれた議論にかかってくる。

 これからの疫学研究が、ヘルシンキ宣言の原則を「厳密に」適用せずに実施できるとすれば、その根拠としては、疫学研究が一般の医学研究よりも「侵襲が少ない」「対象者が多い」「公益性が高い」「そうしなければ科学性が担保できない」という論理、すなわち、「専門家集団や社会政策上の必要・要請が個人の人権を制限する」「そのことを法規定や、行政等の指針が容認する」という構図ではなく、法規定・行政指針等は、あくまで被験者の人権尊重、個人の身体的・精神的インテグリティを損なわない疫学研究を担保するために策定され、そのような目的にかなう原則の選択をする――すなわち、あくまでヘルシンキ宣言の精神に則った疫学研究の実施を目指す――姿勢が維持される必要があるだろう。

 それは、次に述べる、近年の医療情報・人体由来試料が持つ新しい意味、新しい価値の問題にも関わってくる。

4.ヒトからモノ、そして人格へ――ヒトを対象とした医学研究が描くループ

 近年の分子生物学の発展は、人体由来試料の意味や価値を大きく変容させた。

 かつては、人体から離れた人体由来試料は、時間の経過・加工の過程を経るにつれて、一般に、由来するヒトの人格が意識されにくいものとして存在してきた(と思われる)。

 つまり、あらゆる人が、自分の身体を離れた細胞・組織に「自分そのもの」や「自己の人格」を投影させているとは限らないし、あらゆる家族・遺族が、一般に故人の細胞・組織を追慕の対象としてきたわけではなく、また、時間の経過や、組織・細胞が加工によって「モノ化」される過程が、研究者や社会にとっても、「人格」「人体」としての気持ちを薄めていく要因として働いたことは想像に難くない。

 ラボの研究者は、凍結保存された試料、あるいは標本となったヒト組織や細胞から、「人格」や「人体・遺体(の一部)」を想起し、礼節をもって遇するという発想は当然には起きにくかったと思われる。【注:本テーマからは、病理標本等を遺族が返却請求した場合の現行の死体解剖保存法の解釈の問題や、また、当該法規における人体由来試料の所有権の解釈をめぐる問題が生じるが、本稿ではその議論に入らず、あくまで筆者が社会通念上の慣習と理解した範囲の私見にとどめたことを、予めお断りしておく】。

 しかしながら、ヒトゲノム・遺伝子解析研究の進展により、これまで限りなく「モノ(材料)」に近づいていた人体由来試料とその解析結果が、その由来する「人間」のプライバシー、さらには、家族・血縁者のプライバシーを、研究者、試料提供者、その家族、社会の眼前に、再び立ち上がらせ、センシティブな「モノ・情報」として存在することとなった。

 遺伝子解析の研究成果は、本人・家族が、それを自身の人格の一部、ないしは追慕の対象として想起するだけでなく、本人・家族自らの身体情報として臨床的に活用できるものとなり、それゆえに、新たな社会的差別の契機をはらむものとなったのである。

 一方、研究者および企業にとっては、遺伝子解析研究の成果が、学術研究の域を越えて、知的所有権や新規ビジネスの対象となり、研究材料である人体由来試料は、「モノ」としての意味・価値を急速に高めている現状もある。知的所有権・ビジネスが想定されている現場には、同じく大きく立ち現れているはずの「人格」の問題は、再び見えにくくなるおそれもある。

 ヒトが静かにモノ化していく(はずの)プロセスは、現在、遺伝子解析研究にふれることで、「細胞」の問題を「個人の人格」の問題とダイレクトに結びつける生々しい現場となった。そのような視点で考えていくと、ヘルシンキ宣言が、これまで「人体」への関与の問題として考えられていた人権・人格の問題を、(個人を特定できる)人体由来試料・医療情報の問題にまで広げた理由が理解できる。

 遺伝子解析研究の発展は、「個人を特定できる人体由来試料と医療情報が、ヒトからモノ、そして再び人格へとループを描き続けること」、一方で、「それが巨大な市場に構造的に組み込まれると、人がヒトを手段・素材化する大きなリスク(ループ)にも、同時に曝してしまうこと」を社会に気づかせることとなった。それは、科学の進歩が明らかにした現実でもある。

●むすびにかえて

 これまで、対象者に侵襲を与えず、真摯に「科学性」を追求してきたであろう疫学研究は、対象者を適切に抽出し、必要な情報を収集し、正確に解析することで、その社会的使命を果たそうとしてきた。それゆえ、侵襲を伴う介入研究をのぞいて、ほとんどの疫学研究では、研究の科学性を損なわせかねない対象者各人の意思・意向(インフォームド・コンセント)が、重要な倫理的課題として研究デザインに組み込まれることは少なかったのだろう。

 しかし今後は、既述のように、人体由来試料・個人を特定する医療情報そのものの意味・価値が、これまでとは異なっていることを前提に、疫学研究のあり方も再考されなければならない。

 たとえ当該疫学研究が「遺伝子解析」を含まなくとも、今後は、人体由来試料・個人を特定する医療情報を用いる多くの研究で、「個人の意思・意向」を織り込んだ科学的研究デザインが創出されていく必要がある。

 そのためには、たとえば、適切なインフォームド・コンセントのあり方の研究、拒否の機会保障の方法の工夫(の研究)、対象者の意思を組み込むことによる研究デザインごとのバイアス補正の研究など、「個人の意思」「人格尊重の願い」が、疫学研究を妨げるものとして対立軸の一方に置かれるのではなく、人権を尊重する研究の実現が、疫学研究(者)の目標と重なるものとして――そのような学問の姿勢が社会に示されることが望ましい。

 基本的に「個を尊重する」研究者の姿が見えることで、個別同意なく実施される(そのようにデザインする必要のある)疫学研究の正当性が、(言葉を尽くして科学的正当性のみを主張することよりも)社会の中で説得力をもつと思われるのである。


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