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1955年ごろ撮影 No.01 旧少年少女舎
1921(大正10)年に子供舎から分れて少女舎(菊舎10人位)がつくられた。 昭和4年には少年少女団が結成され、ボーイスカウトの様な服装で、 毎月2回教練、体操、手旗信号の練習、早天皇居遥拝式が行われた。 昭和15年には、20才以下は男76名、女32名、計108名もいた。 今の少年少女舎は昭和28年に造られたものである。
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No.02 山吹舎(やまぶきしゃ)
1928 (昭和3)年に患者大工の手で建築された。 4軒長屋(トイレ、流し共同)で1部屋12 畳半に多い時は8人が共同生活をしていた。 2003(平成15) 年、人権の森構想の募金で復元された。 NPO東村山活き生きまちづくり•人権の森委員会が、定期的に清掃をしてくれる。
1961年(撮影/趙根在)
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No.03 新井公園
新井正男先生の「治療と研究のメッカとなれ」顕彰碑表面のこの文字は、園長就任時の言葉である。 1951(昭和26)年、千葉医大を卒業して長島愛生園へ、同28年多磨全生園へ眼科医として転任、医長、医務部長、 副園長を経て昭和51年に園長となるも翌52年1月4日急逝される。 他園からの受診者、手術者も数多ぐ惜しまれる。正五位従 四位旭日小綬賞受賞。
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No.04 旧図書館(理美容院)
1936(昭和11)年、上野の帝室博物館が鉄筋コンクリートの建物に切り替わる時に、 宮内庁にお願いして解体した用材を払い下げてもらい、患者大工の手によって復元した。 当時は図書館、会議室として使用していたが、患者作業の返還で今は理•美容室として利用している。
1976年撮影
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No.05 全生学園跡
昭和6年に全生学園の校舎が落成した。 1953(昭和28)年、教育基本法の施行により、化成小学校、東村山市立第2中学校の分校となり、 正規の先生が派遣され、今までの患者の先生は補助教師として残った。 1979 (昭和54)年、生徒が居なくなり閉校となった。 老朽化した校舎をこわし、平成20年「全生学園跡」の記念碑建立。
1931年ごろ撮影
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No.06 望郷の丘
雑木林を開墾した時の樹木の根株を積み重ね、その上に逃走防止用の空壕を掘った際の残土をかぶせ、 踏み固めて1925(大正14)年頃に築山(望郷の丘)を完成させた。 入所者のほとんどがこの丘に登り故郷を偲んだ。 現在は老朽化のため、フェンスで囲い、立ち入り禁止となっている。
1931年ごろ撮影
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No.07 森林浴道
園内を散策する入所者や外部の人たちがふえてきたため、1984(昭和59)年、緑化委員会が遊歩道(森林浴道)をつくった。 山吹舎から望郷の丘、村上梅林、納骨堂、桜並木、矢嶋公園、永代神社、野球場、楓公園、官舎地区と一巡できる。
1984年撮影
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No.08 村上梅林
村上國男先生は平成3年、東京病院から多磨全生園副園長として転任、平成5年園長となる。 1996(平成8)年、らい予防法廃止の際は所長連盟会長として素早く大谷見解に賛同の声明を出し、 らい予防法廃止に側面から尽力された。平成11年顕彰碑建立。瑞宝中綬賞正五位受賞。
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No.09 けやきと一人一本並木
中央通り入所者自治会前より納骨堂にかけて植えられた39本のけやき並木の間に、 昭和57年に緑化委員会の呼びかけで、1人1木運動(一本5千円で希望すれば氏名をつける)が始まった。 最終的には180本の椿やさざんかが植えられ、季節毎に美しい花を咲かせている。
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No.10 けやきの丘
面会人宿泊所北側にあったごみ焼き場の残滓を運び、その上に土をかぶせ株立ちのけやきなどを植えた。 名前は公募したもので、丘の上には石卓、石座台、水呑み場もある。 昭和59年山下緑化委員長の多大な寄附金によって造成された。
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No.11 いのちとこころの人権の森宣言碑
東村山市が多磨全生園創立100周年に合せて、市役所、市民団体、全生園関係者等10数名の起草委員会をつくり、 6回の会合を重ねて宣言文を作成した。自治会では碑をつくり、2010年3月6日多数の関係者を招き除幕式を行った。
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No.12 納骨堂
1935(昭和10)年6月19日、起工以来1年、延3,442人の患者作業によって竣工。 昭和61年老朽化のため、入所者よりの募金によって、同型で1.5倍の現納骨堂を再建した。 正面の「倶会一処」の文字は東本願寺法主•大谷 光暢の揮毫。開園以来の物故者は4,242人(令和2年9月末現在)。 2005(平成17)年、胎児や新生児のホルマリン漬け標本が各療養所に保管されたままになっていることが明らかになり、 翌2006(平成18)年9月27日慰霊祭挙行。2007(平成19)年3月16日、尊厳回復の碑前にて納骨式挙行。
1935年撮影
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No.13 資料館通りの桜並木
開院以来、山桜、吉野桜、しだれ桜、彼岸桜、八重桜、河津桜など、 緑化委員会や団体の寄附などで植えられた桜は1千本を超えているが、 現在残っている桜は500本程である。資料館通りの吉野桜は昭和30年に入所者が植えたもので、 幹回り3メートルを越す老木が何本もある。
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No.14 さくら公園
元は入所者の畑だった所だが、平成4年資料館を建てる時返還してもらい、 資料館側にあった樹木数十本を移植して、立川造園に依頼してさくら公園を造成。 花見の時期には地域の市民1万数千人が花見にくる。
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No.15 矢嶋公園
矢嶋良一先生は昭和7年慶大医学部卒業、同年4月全生病院勤務、同年10月栗生楽泉園開園に向けて栗生へ転勤、 14年医務課長、24年園長となる。昭和38年多磨全生園園長、51年名誉園長となる。 退任の際の寄附金50万円をもとに募金活動を行い、矢嶋公園を造成。勲二等瑞宝賞受賞。
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No.16 永代神社
昭和9年5月上棟式。伊勢神宮20年毎の造営の余材を払い下げてもらい、入院者、職員、篤志家の寄附金で購なう。 宮大工石井某を中心に土盛り、木挽きなど全て入院者で造る。 10年に鳥居、11年に玉垣をつくり完成。ご神体は伊勢大神宮、豊受大神宮、明治神宮の3体。
1951~1953年ごろ撮影
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No.17 野球場
昭和18年、食糧不足のため野球場を耕地として馬鈴薯などを生産する。戦後21年野球場を復活し、全生野球協会のもと、 各舎対抗野球大会なども行われてきた。昭和28年には早慶野球部の紅白戦も行われた。 昭和40年以降は職員野球部が管理していたが解散、今は外部のチ一厶が利用している。
1955年ごろ撮影
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No.18 恩賜公園(楓公園)
1960(昭和35)年に、貞明皇后を偲び、楓の木を主とした公園を造成する。 公園東側には目黒の慰廃園にあったつれづれの御歌碑が設置されている。
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No.19 成田庭苑
成田稔先生は1955 (昭和30)年から1993 (平成5)年まで38年間、外科医長、副園長、園長として活躍、 平成3年にはらい学会長、平成4年には多摩研究所長も併任。平成5年からはハンセン病資料館運営委員長、 同21年からは国立ハンセン病資料館々長、長年の功蹟を譜え、平成6年5月顕彰碑建立。桜根賞、保健文化賞受賞。
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No.20 林芳信胸像
林龍先生は1914(大正3)年、内科医として就任1931(昭和6)年、 光田先生の後を受け園長となり昭和38年退職するまで50年間勤務された。 「ハンサムな青年医師だ」の評判がたち、診療日には若い女性たちが仮病までつかい、診察に押しかけたという。
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No.21 大西通り
大西基四夫先生は1941(昭和16)年より星塚敬愛園、奄美和光園、大島青松園の園長を経て、 昭和52年多磨全生園園長となる。所長連盟会長として 入所者の医療、看護、整備などの改善に尽力される。 1991(平成3)年、名誉園長の功績を讃え大西通りの顕彰碑建立。