史跡・施設紹介 本文へジャンプ


① 納骨堂(平成9年7月10碑 建立)
ハンセン病患者の場合、長期の療養生活で、身寄りがあってもないのと同じといった入所者が多く、引き取り手のない遺骨が多かった。
納骨数 … 入所者2005柱・職員30柱・保育児童15柱 / 計2059柱   
          (平成21年10月現在)

慰霊碑母の胸に抱かれることなく旅だった子供たち (平成20年1月11日 建立)

らい予防法と優生保護法が強いた大きな人権問題により、医学的な根拠のないまま、入所者の子供たちが葬られたことに対し、御霊の平安を祈念し2008年1月の慰霊祭と同時に建立された碑です。


③ 宗教会館 (昭和60年8月1日 落慶)
入所者が亡くなった場合に、お通夜と園葬を執り行う会館。それまで、各宗教の会館で入所者が行っていたが、以後、会館の管理、運営及び園葬事業は施設が行うようになった。

④ 御歌碑(昭和14年10月28日 除幕式)
時の皇太后が、昭和7年11月10日大宮御所で開かれた歌会において「癩患者を慰めて」の兼題で詠まれた「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれに代わりて」の歌が刻まれている。
また、当時は園内で一番高い場所で、丘の上から自分の故郷を眺めていたことから別名「望郷の丘」とも呼ばれている。

⑤ 旧火葬場(昭和58年5月28日〜平成14年6月13日迄)
火葬場が園内にあるのは、ハンセン病患者の屍体を、外部に搬出するのは、らい予防法上不都合だという理由によるものであった。平成8年迄、入所者が火葬業務に従事し、この火葬場跡では約360体の火葬が行われた。
現在は園外の大隅中部火葬場で火葬を行っている。

⑥ 敬愛橋(昭和18年 完成)
入所者の奉仕作業により満3年の歳月かけ、血と汗で築かれた。当時は、月に3回の奉仕作業が行われ、少々の気分の悪い者や傷持ちの者でも、不自由な手にスコップを縛り付け裏傷のある足を引きずりながら、モッコを持った者も少なくなかった。

⑦ 火葬場跡(昭和10年〜昭和24年)
昭和20年頃、死亡者が多いときには煙突が崩れ入所者の火葬係は、遺体の土手焼きや庭焼きを行った。昭和20年には、栄養失調等により143名が死亡した。

⑧ 旧納骨堂(昭和14年3月 完成)
西本願寺鹿児島別院を中心とした県下の同派各位寺院からの寄付金と、入園患者の労力奉仕によって建設された。背後に小松山を背負った半地下式納骨堂は、初代園長林文雄が近くの吾平山稜を模して設計したものといわれ、当時は静かなたたずまいが入所者の心を和ませた。この時、敬愛納骨堂に納められた遺骨は、開園からわずか3年半にして職員2柱を含め、161柱であった。

⑨ 学校跡
昭和11年1月、男子15人、女子23人の児童で開校された。昭和14年5月に八角形2階建ての日耀塔が完成し1階に工作室、屋根に風速計、2階に気圧計等を備え簡単な気象ができるようになっていた。その後、昭和25年4月に小学生10人、中学生16人で西俣小学校星塚分校、大姶良中学校星塚分校として開設し、昭和42年3月15日最後の卒業式が行われ休校となり、その後、入校者もなく昭和49年3月に廃校となった。