敬愛園の歴史 本文へジャンプ

歴史

開園当時の敬愛園
(昭和10年)
一般的な入所者の住宅
(昭和10年)
最初の患者収容
(昭和10年11月)
 総予算三十五万円。敷地面積十七万一千六百㎡。建物総数六十棟。患者定数三百名。園の名称は西郷南州の「敬天愛人」に拠る。  入園者の標準的な住居。十二畳半四室で両袖に狭い玄関。中央が板の間の食堂。奥手に共同炊飯場と洗面所・便所があった 開園五日目。トラックで収容門を入る収容患者。正門とは別に収容用に建てられた石柱門。

収容船を待つ沖縄の患者
(昭和10年11月)
園内だけの通貨
(昭和10年)
保育所にて
(昭和15年頃)
沖縄、奄美大収容では一挙に230名の患者を収容。開園わずか40日目にして、定員三百人を軽く突破した。 入園すると、一般通貨は施設が保管。ブリキ製の園内しか通用しない園金と交換した。 親が入所すると、病気でない子供は、未感染児童として保育所に収容された。

高松宮様をお迎え
(昭和23年)
募金贈呈式
(昭和24年10月)
プロミン第1号退園者送別
(昭和28年)
皇族の来園は、保守的で差別感情の強い人たちの意識も変え、その後の地域社会との関係改善のきっかけになった。 戦後アメリカから入ってきたプロミンの効果は驚異的だった。入所者は国に対してプロミンの要請を行い募金により多くのプロミンが集まった。 プロミンにより完治した入所者もいたが、すぐに退園につながるほど簡単ではなかった。

一般レクレーション
(昭和28年)
牛舎で働く入所者たち
(昭和30年代)
邑久高校出発壮行会
(昭和31年)
中古バスが来て、バスレクが始まった。施設の車で遊べる自由の喜びは大きかった。 園内では他に豚や鶏も飼われていた。施設運営には、軽症者の労働力が不可欠だった。 教育基本法に基づき、愛生園に定時制の高校が開かれた。

皇太子(現天皇)来園
(昭和47年)
信子妃殿下来園
(平成7年)
礼拝堂
(昭和57年)
ミッチーブームの去らない時でもあり、皇太子夫婦の来園に入所者は感激した。 盲人会長の手を取り、親しくお見舞と励ましの言葉をかけられる三笠宮信子殿下。 昭和14年落成。威容を誇った礼拝堂であった。戦時中はグラマンの機銃弾を打ち込まれたりしたが、40年余りの使命を終え解体された。

第13回検証会議
(平成15年11月)
70周年記念シンポジウム
(平成17年6月)
ハンセン病療養所の入所者が長年にわたって受けた被害の実態調査が、全国で実施された。 園外からも多くの関係者が来園し、開園70周年を祝った。


星塚敬愛園70周年記念 写真集【いのち重ねて】より抜粋