昭和館ロゴ 特別企画展開催要項
第20回特別企画展のご案内

別れ、再会、そして…
〜 時代に ほんろう
翻弄された
家族の姿〜

開催趣旨

 このたび昭和館では「別れ、再会、そして… 〜時代に翻弄ほんろうされた家族の姿〜」と題し、「家族」をテーマに戦中・戦後を振り返る特別企画展を開催する運びとなりました。
 戦時中、多くの働き盛りの男性は兵士として戦地に赴き、そこには夫や父、兄弟を、涙をこらえて見送る家族の姿がありました。出征した兵士の家族や兵士の遺族には、様々な形で助け合いが行われていました。戦争末期には、全国の都市部を中心に空襲を受け、その被害によって離ればなれになる家族は少なくありませんでした。
 戦後、ある者は戦地から無事に帰還し、笑顔での家族の再会が果たされました。しかし、帰ることのなかった戦死者等の家族は、つらい悲しみと共に戦後を迎えました。無事に帰ることを信じて待ち望んでいた家族の元に、戦後しばらくして戦死の公報が届けられることもありました。さらに一家の柱を失った家族には困難な生活が待ち受けていました。
 本展では、戦中・戦後のつらい日々を過ごした家族の生活を振り返り、戦後も引き続く戦争の労苦について、実物資料、写真等で紹介します。



【主催】 昭和館
【会期】 平成18年7月29日(土)から8月31日(木)
【会場】 昭和館3階 特別企画展会場
【入場料】 特別企画展は無料(常設展示室は有料)
【イベント】
I 語り部の会  戦没者遺家族等の方々の体験談
  期日 8月5日(土) 13時〜15時、 会場:九段会館 瑠璃の間
II 工作教室  小学生対象(要予約)
  期日 8月5日(土) 11時から12時、 会場 昭和館 3階会議室
III 親子で遊ぼう! 昔の遊び、紙芝居
  期日 8月6日(日)・12日(土)・13日(日) 11時〜15時、 会場 2階広場
【開館時間】 10:00〜17:30(入館は17:00まで)
【休館日】 毎週月曜日(ただし8月14日は開館)
【内覧会】 平成18年7月28日(金) 15:00〜17:00
【所在地】 〒102-0074 東京都千代田区九段南1-6-1
【問い合わせ】 TEL 03-3222-2577 FAX 03-3222-2575
【交通(電車)】 地下鉄【九段下駅】から徒歩1分(東西線・半蔵門線・都営新宿線4番出口)
  J R 【飯田橋駅】から徒歩約10分
【交通(車)】 首都高速西神田ランプから約1分
【ホーム・ページ】 http://www.showakan.go.jp
【その他】 有料駐車場有り(普通乗用車のみ・1時間200円)



ブース構成

 I 戦前・戦時中の家族像
  1 戦前の多様な家族像
 戦前の日本は、伝統的な文化が色濃く残された地域と、大正時代から続く西洋文化の取り入れられた自由な雰囲気が感じられた都市部との二極化がみられた。伝統的な地域では、未だに家父長制が色濃く残されていた。一方都市部では、西洋文化の影響もあって新しい家族像が生まれつつあった。

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草津温泉への家族旅行
昭和11年(1936)
海水浴
昭和13年(1938)頃

  2 戦時体制下の家族像
 戦前は、都市部では自由な家族像が生まれつつあり、理想的な家族像は多様であった。しかし、昭和12年(1937)7月日中戦争がはじまり、同年10月に「国民精神総動員運動」が開始されると、戦争への動員体勢が本格的になり、あらゆる生活の面で戦意高揚がはかられ、戦争中心の生活に切り替えることが求められ、国家の中の家族の役割というものが規定されるようになった。そのため、教育勅語や修身の教科書に示されるような国家的な理想の家族のあり方が全国的に共有されるようになった。


 II 戦前・戦時中の家族の生活
  1 戦時中の助け合い
 戦時中には、隣組などによる近隣の助け合い、親戚への縁故疎開など人々のつながりによる様々な助け合いが行われた。家族の役割は明確に決められており、常会には家長が出席し、女性たちは婦人会に参加した。防空に備えるため、空襲警報が出た際の家族の役割まで決められ、家庭と隣組の指揮系統は明確化されていた。
 空襲が激しくなると、家族で親戚を訪ねて縁故疎開をしたり、家族が離ればなれになって、子どもたちだけの集団学童疎開が行われた。

  2 家族の別れ
 国民皆兵制度の下、徴兵検査に合格し、入営・出征するにあたっては、盛大に幟や旗を掲げて壮行会が行われた。日中戦争が始まると臨時に召集される人々が急増し、家族のもとに召集令状が届くと、出征する夫や息子の無事を願って妻や母親らが街頭に立ち、千人針を縫ってもらう光景が多く見られた。戦地への出征を前に、さまざまな家族の別れのすがたが日本各地で見られた。

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紙芝居「常会の手引」
戦時体制下の隣組(隣保班)の役割を説いた内容の教育紙芝居。
昭和17年(1942)
防空空き地作りに協力し、疎開する一家
昭和18年(1943)12月
毎日新聞社

  3 出征遺家族の生活
 国民皆兵制度の下では、戦地へ向かう兵士たちが遺された家族たちのことを心配しないように、社会制度の一環として出征遺家族・傷痍軍人・帰還軍人への援護や保護が行われていた。また、法律で定められた恩給の給付などだけではなく、民間の自発的な活動も盛んに行われており、戦没者の遺家族は“誉(ほまれ)の家”などと称えられ、軍人援護会・婦人会などを中心にした軍人遺家族への援護活動も活発に行なわれていた。そのようななか、戦没者の妻たちは夫を失った悲しみに堪え、健気に生きていかなければならなかった。

  4 戦死の知らせ
 戦時中に亡くなった兵士の死は「名誉の戦死」として家族に伝えられ、靖国神社合祀時の招魂式に参列した。また、戦死者の遺族には、恩給法により扶助料が年金として支給され、税の免除、授業料・託児料の減免など、多くの優遇保護が与えられた。しかし、働き手を失った遺族にとっては苦労の始まりでもあった。

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ポスター「感謝で守れ 勇士の遺族」厚生省 戦死した父親を迎える・北海道
昭和14年(1939)6月
岩佐職司撮影


 III 戦後の人々の労苦
  1 家族の再会のよろこび
 昭和20年(1945)8月15日、玉音放送とともに戦争の終結が宣言されたが、人々を待っていたのは厳しい戦後の現実であった。衣食住すべてにわたって、あらゆるものが不足し、買い出しや闇市によって入手せざるを得なかった。
 そのようななか、戦時中、外地で命をかけて戦った人々の多くは、戦争終結後もすぐに日本へ帰国することはできず、復員するまでには様々な労苦があった。ようやく海外から多くの引揚者が日本に戻り、再会を果たす人々の喜ぶ顔が見られた。しかし、帰らぬ息子を待つ岸壁の母の姿は人々の涙を誘った。また、空襲を避けて、地方へ疎開していた子どもたちが親たちとの喜びの対面を遂げ、親子での生活が再び始まることとなった。

  2 戦後の遺族の暮らし
 戦中・戦後を通して、戦地で夫や父親を亡くした家族らは、つらい悲しみに暮れる日々を過ごしていた。そのようななか、追い打ちをかけるように、昭和20年(1945)11月24日のGHQ覚書が発せられ、「恩給法ノ特例ニ関スル件」(勅令第68号)によって、昭和21年2月1日から軍人・軍属及びその遺家族への恩給が停止されることとなった。
 恩給停止後の遺族たちの生活手段は、内職をはじめ、貯金引き出し、家財売却、公私の扶助などに頼る生活であった。社会における“誉(ほまれ)の家”“軍国の妻”などという戦没者遺族に対する尊敬の念は一転して、経済的にも困窮した生活を強いられる日々が続いた。

  3 遺族会の結成
 一家の大黒柱を失った遺族らは、戦没者妻・母を中心に団結するようになり、戦没者遺族への補償を要望した。昭和22年(1947)11月に日本遺族厚生連盟が結成され、遺族援護のための法案を成立させること、遺族の生活苦を改善することに主眼が置かれていた。昭和28年3月、全国的な組織として日本遺族会が結成された。
 各地で運動が行われ、昭和28年8月1日には、「恩給法の一部を改正する法律」が公布・施行され、恩給が復活することとなった。

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遺族弔慰金等を求めて吉田総理邸前での座り込み
昭和27年(1952)1月
朝日新聞社
遺族国庫債券(五万円)
 援護法の規定により、死亡した軍人・軍属または軍人・軍属であったものの遺族に弔慰金として交付された国債。弔慰金の額は、死亡した者一人につき5万円とし、10年以内に償還する記名国債として交付された。
昭和27年(1952)発行


 IV 変わりゆく家族像
  1 戦後復興期の家族像
 戦後、新しい憲法の下、アメリカ文化の影響を受けつつ、戦中・戦後とは異なる家族像が生まれた。例えば、マンガの『ブロンディ』(昭和21年6月に『週刊朝日』連載開始)やアメリカ映画を通して、日本の人々は、アメリカの電化された台所、贅沢な食卓、サラリーマンと専業主婦などの核家族、といった新しい家族像に触れることとなった。

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ポスター「憲法の以前と今」
昭和22年(1947)頃
戦後10年の家族
昭和31年(1956)8月 影山光洋撮影

  2 核家族化のはじまり
 終戦直後500万戸の住宅不足がいわれていたが、政府は、ようやく昭和30年(1955)に日本住宅公団を発足させ、「一世帯一住宅」のスローガンのもと、2DKを中心とした小規模な住宅を大量に供給することとなった。
 産業の発展に伴って、男性は会社人間となり、三種の神器により家事の負担が減り、女性も働きに出るようになった。常に都市部では労働力が不足し、昭和29年から始まった集団就職で家族のもとを離れて上京した農村の若者たちは都市部の企業へと就職し、結婚し、核家族を増やすこととなった。

  3 家族のきずな
 戦中・戦後の困窮した時代を人々がどのように過ごしてきたかを家族写真、手記などを通して振り返る。

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