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昭和館 特別企画展開催要綱

第15回特別企画展のご案内
平和への想い〜戦没者遺族、慰霊の旅〜

開催趣旨

 このたび昭和館では、『平和への想い〜戦没者遺族、慰霊への旅〜』と題して特別企画展を開催する運びとなりました。
 戦後60年を迎えようとする現在、戦中・戦後の労苦を乗り越えてきた遺族の方々の戦没者への想いは、未だ強いものがあります。このような想いは、帰ることのなかった夫、そして父や兄弟らが亡くなった現地への慰霊の旅として実を結ぶこととなり、国や自治体、そして遺族会等の手で展開されています。
 本展では、戦後の遺族等の生活状況や遺骨収集をはじめとした慰霊事業の様子、さらに慰霊の想いが昇華して、慰霊友好親善事業に広がり、戦没者遺児が戦場となった現地の人々と交流している様子などを写真や手記を通じて紹介します。
 こうした慰霊事業の実態を紹介するとともに、これらの事業に参加した遺族の戦没者に対する想い、また、戦中・戦後の未だに忘れることのできない労苦の日々をつづった手記などにより、語り継ぐべき戦中・戦後の国民生活の労苦を広く一般にも理解してもらうことを目的としています。

【主催】   昭和館
【会期】 平成16年8月3日(火)から8月29日(日)
【会場】 昭和館3階 特別企画展会場
【入場料】 特別企画展は無料(常設展示室は有料)
【イベント】
 I  語り部の会
期日 8月8日(日) 14時〜15時30分
遺骨収集・慰霊巡拝・友好親善事業等に参加した方々の体験談
会場:九段会館 翡翠の間
 II  工作教室 小学生を対象に、例年実施しているもの
「日光写真を写そう!」
期日   8月8日(日)、22日(日)
11時と14時からの2回を予定(8日は午前中のみ)
会場 昭和館 3階会議室
【開館時間】 10時〜17時30分(入館は17時まで)
【休館日】 毎週月曜日(ただし8月16日は臨時開館します。)
【内覧会】 平成16年8月2日(月) 15時〜17時
【所在地】 〒102-0074 東京都千代田区九段南1−6−1
【問い合わせ】 TEL 03-3222-2577 FAX 03-3222-2575
【交通(電車)】 地下鉄【九段下駅】から徒歩1分(東西線・半蔵門線・都営新宿線4番出口)
J R【飯田橋駅】から徒歩約10分
【交通(車)】 首都高速西神田ランプから約1分
【ホームページ】 http://www.showakan.go.jp
【その他】 有料駐車場有り(普通乗用車のみ・1時間200円)
団体予約承ります


 はじめに
 昭和20年(1945)8月15日、玉音放送とともに戦争の終結が宣言されたが、人々を待っていたのは厳しい戦後の現実であった。バラック生活を余儀なくされ、あらゆる生活用品が不足し、買い出しや闇市によって入手せざるを得なかった。そのようななか、ようやく海外から多くの引揚者が日本に戻り、再会を果たす人々の喜ぶ顔が見られた。しかし、帰らぬ息子を待つ岸壁の母の姿は人々の涙を誘った。
 一家の柱を失った多くの戦没者遺族は、昭和21年(1946)2月1日からGHQ(連合国総司令部)の指令により恩給が停止・制限されたため、さらに困難を極めた生活を送らなければならなかった。昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効され、様々な面で独立国家としての戦後処理が進み始めた。昭和27年4月には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が成立し、翌28年(1953)ようやく旧軍人・軍属の恩給が復活し、戦没者の遺族にも援護の手がさしのべられるようになった。

(1)終戦直後の混乱
 大多数の国民は玉音放送によって突然降伏を知らされ、計り知れない衝撃を受け、ラジオの前では泣き崩れる人々の姿もあった。戦争が終わったという安堵を感じる一方、空襲によって焼け野原となった都市部などでは、衣食住を得ることすら困難な厳しい生活が始まった。空襲によって家を失った人々は、廃墟と化した焼け跡でバラックでの生活を余儀なくされ、配給は滞り、あらゆる生活用品が不足して、食糧や日用必需品は非合法の闇市や買い出しによって手に入れざるを得なかった。さらに海外からは500万人を超える引揚者が日本に戻り、物資不足は一層厳しいものとなった。

(2)遺族の労苦
 戦時中、戦死は御国のためであり、遺族は「誉れの家」などとして称えられた。また、国からは恩給が給付され、町内会や隣組、婦人会などによる遺族や留守家族に対する救援活動も活発に行われた。しかし、戦争が終わると戦前を上回る物資不足のなか、遺族に対する想いも一変し、さらに昭和21年(1946)には遺族に対する恩給が停止・制限されることとなった。無事に生還した人々は家庭に戻り、混乱のなかにも新しい生活をはじめたが、一家の働き手を失い、さらに子どもを抱えた戦没者の妻たちの生活は一層厳しいものであった。

(3)戦後処理のはじまり
 昭和25年(1950)頃からは、いわゆる朝鮮特需による日本経済の急速な復興により、国民の生活もやっと安定しはじめた。そして昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効され、独立国として遺骨収集などの戦後処理が進み始めた。復興に伴い人々の暮らしも徐々に安定し、戦没者に対する遺家族の想いも、ようやく認識し始められるようになった。

写真
「異国の丘」
昭和23年(1948)9月発売
祖国への帰還を願い、アウチョム収容所(ウラジオストク郊外)で捕虜となっていた増田幸治の詩に、吉田正が曲をつけたもの。昭和23年(1948)8月1日、NHK「のど自慢素人演芸会」でシベリア復員兵・中村耕造が歌って絶賛を受け、同年9月に佐伯孝夫が補作しビクターより発売され大ヒットとなった。この時、吉田は抑留中で、作曲者が明らかとなったのは彼が復員してからであった。
写真
サンフランシスコ平和条約の発効を記念して日本の児童から花束を贈呈された在日米軍関係者の子どもたち
昭和27年(1952)4月
米国立公文書館


 戦没者への想い
 先の大戦では、多くの軍人・軍属の方々が亡くなり、しかも海外の戦没者の遺骨は、部隊が持ち帰ったものや、復員・引揚げの際に持ち帰ったもの以外は、当時の戦場となった地域に残されたままとなっていたが、社会情勢の落ち着きとともに、そうした海外の状況にも目が向けられるようになっていった。そのようななか、遺族の願いを受けて政府は、昭和27年(1952)6月16日の国会における決議により、海外戦没者の遺骨を収集し、現地において慰霊を行い、さらに小規模の慰霊碑建立などに着手することとなった。

 (1)戦没者の遺骨収集
 先の大戦は、西太平洋の島々を含むアジア全域に及ぶ広大な戦域において長年にわたって続けられ、しかも極めて苛烈な戦いであった。この戦いにおける内外の戦没者は、軍人・軍属等約230万人(国内約20万人を含む)、海外で戦闘に巻き込まれるなどして死亡した一般邦人約30万人、戦災死没者約50万人、合わせて約310万人であった。
 (1)遺骨収集のはじまり
 戦没者遺族の強い要望によって、昭和27年(1952)6月16日、国会において「海外諸地域等に残存する戦没者遺骨の収集及び送還等に関する決議」が採択され、昭和28年から昭和33年までの間、第1次の遺骨収集が実施された。交通手段の発達していない時代であったため、政府関係者中心の遺骨収集団は、主として運輸省航海訓練所の練習船「日本丸」により、激戦地であった主要な島々を巡航し、遺骨収集を実施した。広大な地域を限られた日数と人員によって行われ、さらに交通の不便、入域の制限等の悪条件が重なり、十分な遺骨収集はできなかったという。
 (2)遺骨収集の広がり
 昭和30年(1955)代後半に入ると日本の経済も本格的な高度成長期に入り、国民生活も安定し、昭和39年の海外旅行の自由化により海外へ行くことに対する敷居も低くなった。そのため、戦没者の遺族や復員者等が亡き肉親や戦友の戦没地を訪れるという事例が多くなり、未収集の遺骨等が発見されたという情報が内外からもたらされるようになった。そこで昭和42年から6か年計画で遺骨収集の第2次計画が実施された。航空機を使用して現地に赴くことで、収骨に十分な時間をかけ、収集した遺骨はすべて持ち帰ることとした。
 (3)遺骨収集の更なる展開 〜民間団体の協力〜
 昭和47年(1972)にグアム島で、元日本兵の横井庄一さんが発見救出されたことにより、海外における生存未帰還兵の救出問題とともに遺骨収集に関する国民の関心が極めて高くなった。従来の遺骨収集の規模の拡大強化が行われ、昭和48年度からは戦後30年に当たる昭和50年度を目標として第3次計画による遺骨収集が実施された。この時から日本遺族会・戦友団体・日本青年遺骨収集団(JYMA)などの民間団体へ協力が要請され、より多くの遺骨が収集されるようになった。
 (4)現在の遺骨収集
 昭和26年(1951)度から昭和50年(1975)度まで第1次から第3次にわたる遺骨収集が実施されたが、現在の遺骨収集は、確実な遺骨所在情報に基づいて行われている。平成3年(1991)度からは旧ソ連地域における抑留中死亡者について、さらに平成6年度からはモンゴルにおける抑留中死亡者についても遺骨収集が可能となった。
 この結果、これまでに約31万柱の遺骨が収集され、陸海軍部隊や一般邦人の引揚者が持ち帰ったものを含めると、海外戦没者約240万人(一般邦人約30万人を含む)のうちの約半数(約124万柱)が送還されている。
 (5)遺骨収集の概況
 遺骨収集は、戦場となった地域の人々や海外旅行者などから現地の情報がもたらされた場合には、政府は調査団を派遣するなどして、それらの情報を分析し、遺骨収集団を派遣することとしている。
 現地においては情報に基づき、関係機関や地域の人々の了解を得て作業を行い、収集した遺骨は現地において焼骨し、追悼式を行い、派遣団によって日本に持ち帰られる。
 持ち帰られた遺骨は、厚生労働省の霊安室に保管され、身元が判明したものは遺族のもとへ渡され、遺族へ引き渡すことのできない遺骨は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」に納骨される。

写真
ビアク島の西洞窟に向う作業隊員
西部ニューギニア(インドネシア・イリアンジャヤ州)
写真
ルソン島サバンガン付近での収骨
フィリピン
写真
硫黄島に眠っていた万年筆
昭和44年(1969)2月、師団司令部に隣接した通信隊の壕内で、遺骨数柱、遺品数点、無線有線器材などとともに収集されたもの。万年筆の所有者は不明であるが、厚生省援護局(当時)の報告書には、「硫黄島北部の通信隊の地下壕で収容したパイロット万年筆について」と題して、「昭和20年3月17日有名な栗林兵団長の決別の電報はこの地下壕から発信されたもので、このパイロット万年筆はこの電報にも関係したものではないかと思われる」と記されている。また、この万年筆は同社によって昭和5年(1930)8月製のものと鑑定されたのち社報にも紹介され、一時、工場内の筆記具資料館に保管されていたものである。

 (2)慰霊碑の建立
 戦没者の慰霊碑は、昭和28年(1953)に小規模な慰霊碑が海外各地に建立されたことに始まる。
 昭和46年(1971)以降、戦没者の慰霊と平和への想いを込めて、主要な戦場となった地域の中心地を選び、硫黄島と海外14か所に国による戦没者慰霊碑が建立された。さらに旧ソ連地域については、埋葬地のある共和国、地方、州ごとに小規模の慰霊碑が平成12年(2000)度から順次建立されている。この他、国内外には遺族会・戦友会・宗教団体など民間の団体による慰霊碑も数多く存在する。

写真
日本人死亡者慰霊碑
モンゴル


 慰霊の旅 〜巡拝と友好親善事業〜
 遺族の要望に応え、主要な戦場となった地域及び遺骨収集の望めない海域における戦没者の慰霊のため、厚生省により昭和51年(1976)度から遺族を主体とした慰霊巡拝が行われている。一方では、慣習等により遺骨の収集が困難な国や地域があり、関係遺族の中には、遺骨の収集が望めないならせめて埋葬地への墓参だけでも行いたいとの要望が強いことから、相手国の了解を得られた地域については、遺族代表による墓参が行われた。さらに、平成3年(1991)度から戦没者遺児による慰霊友好親善事業が行われている。

(1)遺族の想い 〜慰霊巡拝と墓参〜
 昭和51年(1976)度から、主要な戦地や遺骨収集の望めない海域における戦没者の慰霊のため、遺族を主体に慰霊巡拝が行われてきた。当時の主要な戦地において現地慰霊を行うとともにこの地域の戦没者を対象として合同追悼式を行った。その訪問地は、アリューシャン列島、東部ニューギニア(パプアニューギニア)、フィリピン、中部太平洋などである。
 また、平成元年(1989)度及び2年度には、交通機関や宿泊施設が整っていないため、高齢の遺族が同行困難な地域に、遺児による慰霊巡拝が行われた。その訪問地は、フィリピン、マリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島、北ボルネオ(マレーシア・サラワク州、サバ州)、ビスマーク諸島(パプアニューギニア)、ソロモン諸島などであった。
 海外戦没者の遺骨については、昭和27年(1952)以降、遺骨収集を実施していたが、その国の慣習等により遺骨の収集が困難な場合がある。そのため、関係遺族の中には、遺骨の収集が望めないならせめて埋葬地への墓参だけでも実施したい、との強い要望により、相手国の了解を得られた地域については、遺族代表による墓参が実施された。初期の墓参の訪問地は、旧ソ連、中国、オーストラリア、モンゴルなどであった。

写真
レイテ島海域での海上慰霊
フィリピン
写真
ナライハ埋葬地墓参 モンゴル

(2)友好親善交流への広がり
 同じ境遇に生きた戦没者の遺児たちにとって、帰らなかった父親の面影を求めて一度は亡き父の眠る戦跡を訪れることは長い間の願いであった。その願いは、慰霊巡拝や墓参などの慰霊の旅として実現したが、さらに戦没者遺児が、旧主要戦域の人々と友好親善交流を深め、また、これまでの遺骨収集等に対する協力について謝意を表し、慰霊事業に対する相手国の理解を深めるとともに、広く戦没者の慰霊追悼を行うなどの活動を通じ、平和への想いを叶えるため、平成3年(1991)度から戦没者遺児による慰霊友好親善事業が行われることとなった。

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大日本小学校生徒が踊りで歓迎
マーシャル・ギルバート諸島
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タモガン下小学校のカンプーガン校長へ文具類を贈呈
フィリピン
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ビアクの難民対策本部を訪れ、大地震で被害を被った人々への医薬品を担当官に渡す
西部ニューギニア(インドネシア・イリアンジャヤ州)

(3)戦没者の慰霊
 (1)千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式
 遺骨収集などにより海外から持ち帰られた戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことのできない遺骨は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納骨され、あわせてこの墓苑に納められている遺骨に対して拝礼を行う「千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式」が、昭和41年(1966)※より毎年春に、皇族の御臨席のもとに行われている。なお、これまでの納骨数は約35万1000柱となっている。
  ※最初の拝礼式は、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑納骨並びに拝礼式の実施について」(昭和40年2月16日閣議決定)に基づき同年3月28日実施された。
 (2)全国戦没者追悼式
 毎年8月15日、政府主催により、先の大戦によるすべての戦没者310万人を追悼するため、天皇皇后両陛下御臨席のもとに「全国戦没者追悼式」が日本武道館で挙行されている。この式典は昭和38年(1963)から行われているが、昭和57年4月13日の閣議決定により、毎年8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、引き続きこの日に、「全国戦没者追悼式」を行うこととされた。

映像室

  映像室において、下記の番組を放送します。
 
読売ニュース No.210 昭和28年 遺骨をのせて−日本丸帰る 56秒
読売ニュース No.210 昭和28年 帰還にわく−舞鶴港 2分38秒
読売ニュース No.225 昭和28年 遺骨迎えにアッツ島へ 45秒
読売ニュース No.228 昭和28年 アッツ島に遺骨を弔う 1分21秒
読売ニュース No.311 昭和30年 興安丸かえる 2分19秒
読売ニュース No.311 昭和30年 南方海域の遺骨調査進む 27秒
読売ニュース No.314 昭和30年 南海の遺骨かえる 2分14秒
朝日ニュース No.502 昭和30年3月 遺骨収集船 大成丸帰る 2分17秒
朝日ニュース No.570 昭和31年7月 遺骨をたづねて 55秒
朝日ニュース No.577 昭和31年8月 遺骨収集の大成丸帰る 1分00秒
朝日ニュース No.655 昭和33年2月 遺骨をたづねて 1分01秒
    合計 15分53秒
○昭和館オリジナル編集作品
「フィリピン戦没者遺骨収集に参加して(田中鉄雄さん、飯野静さん、松久保知成さんの体験談)」
8分10秒


イベント

  I 語り部の会
 期日 8月8日(日) 14時〜15時30分
 遺骨収集・慰霊巡拝・友好親善事業等に参加した方々の体験談
 会場:九段会館 翡翠の間

II 工作教室
 「日光写真を写そう!」
 小学生(親子)を対象に、例年実施しているもの
 期日   8月8日(日)、22日(日)
11時と14時からの2回を予定(8日は午前中のみ)
 会場 昭和館 3階会議室
  定員は各回親子10組、要電話予約、参加費無料。


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