98/07/31 第79回人口問題審議会総会議事録 第79回人口問題審議会総会議事録 平成10年7月31日(金) 10時30分〜13時00分 日比谷 松本楼 2階会議室 宮澤会長  おはようございます。本日はご多用のところご出席いただきまして、ありがとうござ います。ただいまより、第79回人口問題審議会を開会いたします。  まず、出席状況でございますが、ご都合によってご欠席の委員は、大國、大渕、岡沢 木村、河野栄子、小林、坂元、清家、坪井、南、八代、安達、落合、高山、山田の委員 並びに専門委員でございます。それから、麻生委員からも先ほど欠席のご連絡がござい ました。その他の委員はご出席でございます。また、7月7日付けで事務局に異動がご ざいましたので、ご紹介いたします。真野章総務審議官。 真野総務審議官  真野でございます。どうぞよろしく。 宮澤会長  それから中村秀一政策課長。 中村課長  中村でございます。どうぞよろしくお願いいたします。 宮澤会長  それでは議題に入ります前に、1つ事務局よりご報告がございます。お願いいたしま す。 高倉企画官  私、これまでの担当企画官の椋野の後任の高倉と申します。よろしくお願い申し上げ ます。  お手元の資料の中で、1番と2番につきまして簡単にご説明させていただきたいと思 います。座らせていただきます。  資料1でございます。「少子化への対応を考える有識者会議(第1回)」ということ に関する資料でございます。この有識者会議につきましては、前回の人口問題審議会総 会の中で、総理のほうでこういう会議を主催される予定があるということをご報告させ ていただいたところでございますけれども、ここにございますとおり7月17日に開催さ れたところでございます。  1枚おめくりいただきますでしょうか。7月10日に総理大臣の決裁ということで立ち上 がりまして、趣旨といたしまして、この「人と人の絆の大切さを再認識し、子どもを産 み育てることに夢を持てる社会を実現する方策について、若い世代の人々の意見も踏ま え幅広い観点から検討する会議を」というものでございます。前提といたしまして、個 人の選択の問題であるということから国が直接関与すべきものではないと。ただし個人 が望む選択ができるような環境整備は必要である。有識者会議は、そのための具体的な 提案を行うとともに、国民的議論の発信源としての役割を果たすものとする。こういう 趣旨で発足したものでございまして、またこれを受けて今後国民会議的なものを開催し ていくという予定も併せて示されておるところでございます。  会議の課題は、まさにこの表題のとおりり幅広くご検討、ご提言をいただくというこ とでございますけれども、構成といたしまして、後ほど別紙のほうでございます委員の 名簿等をご覧いただければと思いますけれども、そういう親委員会をもとに、さらに働 き方の見直しの関係の分科会、そしてまた家庭や地域や教育といったその他の問題に焦 点を当てた分科会、この2つの分科会を当面発足しまして進めていくということでござ ます。この分科会のほうには有識者会議の構成員からそれぞれに回っていただく委員の 方々の他、若い世代の方々や実務家などの参加を求めるという趣旨で、参加者の公募を 行っているところでございます。  おめくりいただきまして、3ページの委員の名簿でございます。この人口問題審議会 の委員の先生方も何名かお入りいただいてございますし、また、本日ご発表の三浦さん のほうも委員としてご参加いただいております。合計19名、男性10名、女性9名と、ほ ぼ半々の構成でございますことと、ちょっと年齢のことも申し添えさせていただきます と、30代、40代の方々が過半数を占めておられる委員会でございます。  関係省庁は、これは組閣で名前は変りますが、省庁としては4ページにございます関 係省庁が事務局の中心としてやっていくということでございます。5ページに「働き方 分科会」の関係のお名前、そして6ページに「家庭に夢を分科会」と題して、その他の いろいろな問題を議論する分科会のいまの時点で決まっております方々のお名前がござ いますけれども、例えば6ページの一番下にございますように、この他10名程度を公募 ということで、現在公募の手続きを進めております。7ページの事務局は省略させてい ただきまして、8ページ、9ページがその公募の要領ということでございまして、これ は内閣内政審議室のほうから7月10日に発表し、官邸のホームページにも掲載、また、 いくつかの全国紙などでもご紹介いただいたところでございまして、いろいろなかたち でお知りになった方からの応募がきております。一応本日締め切りということで、昨日 までの時点では私どものほうで承知しました分だけでも、だいたい百通ぐらい応募が来 ておりまして、締切日には1日平均でみるとたくさん来るといわれておりますので、百 何十名かのご応募があるのではないかと考えております。  このようなかたちで、この有識者会議第1回が17日に発足いたしたところでございま して、今後につきましては、8月17日に第2回目を開催予定でございます。その後、8 月中を目途に分科会の第1回の立ち上げを行い、3〜4回程度分科会を開催したうえで 10月ぐらいを目途に分科会から有識者会議のほうに報告をいただく。そのうえで有識者 会議としてまとまるものから順次ご提言をいただいていきたいと、こういうお願いをし て立ち上げておるところでございます。関係の深い会議ということで、ご報告させてい ただきました。  続きまして資料2に移らせていただきたいと思います。これは前回の人口問題審議会 総会の議事概要につきまして、事務局のほうで整理させていただいたものでございます この人口問題審議会議事録そのものにつきましては、それぞれご出席くださった委員の 方々にご確認をいただいたところでございまして、慣例通りインターネットのホーム ページ上で議事録全文を公開させていただいておりますけれども、前回の議事の後半の ほうでも、いろいろと出た意見を整理して、今後、人口問題審議会においてさらに専門 的に掘り下げていくというときの整理の参考にするべきであるというご指示もございま して、大きな項目に分けたものでございます。  それぞれのご発言につきましては、まさに委員の皆様方からの発言の中にあったこと でございますので、一つ一つの項目についてはご説明は省略させていただきますけれど も、大きくいいまして、もっとこうした観点の掘り下げた分析・調査が必要なのではな いかというような意見がいくつか出たところでございます。また、厚生白書の問題提起 については、それぞれ、家族や地域の問題について、あるいはまた、その中に教育の関 係も少し含めてございますけれども、そういった問題について。そしてまた、職場のあ り方についての白書における問題提起についてのさまざまなコメント、そしてその他の 問題ということでご意見をいただいたわけでございまして。まさにこういう、これまで の問題提起をさらに、このあたりをもっと深めていくべきだというご意見ということで 整理をさせていただいております。また、今後議論するうえでは、やはりいろいろと性 別、年齢別によって意識の違い等もあるということには十分留意しながら、国民的な議 論というものを行っていく必要があると、こういうご指摘もあったところでございます  以上事務局のほうから資料1と2につきまして簡単でございますが、ご報告とさせて いただきます。 宮澤会長  どうもありがとうございました。それではこのようなメモをこれから重ねてまいりた いと思います。  それでは、これから本日の議題に入らせていただきます。本日は少子化と地域社会の あり方との関係を中心に2名の有識者の方からご意見をいただくことになっています。  最初に、株式会社三菱総合研究所の三浦展主任研究員にお願いいたします。三浦さん は一橋大学社会学部をご卒業になられまして、現在は三菱総合研究所主任研究員として 活躍されております。著書に『“家族と郊外”の社会学』などがございまして、今回の 厚生白書の参考文献の一つになっています。また、先ほど事務局からご説明がございま した有識者会議の委員でもございます。それでは三浦さん、よろしくお願いいたします 三浦主任研究員  三浦でございます。よろしくお願いいたします。 これまで直接、少子化と家族の問題を特に深く専門的に考えてきたことはないんですけ れども、この人口問題審議会で少子化問題を考えるにあたって、地域の問題について考 えを深めたいと。ついては、何か話せというお話でございましたので、そのへんについ てお話をしたいと思います。今日、いまをときめく宮台先生と並んで座っておりますが 宮台先生と私は間接的にいくつかのご縁がございまして。お会いするのは今日が初めて です。その間接的な縁の一つが、非常に私事で恐縮ですが、私の女房が以前出版社で編 集者をしておりまして、そのときに宮台先生の本を担当しておりまして、非常に膨大な 厚さが10cmぐらいになりそうな本だったらしくですね。やっておりましたが、子どもが できて一時、子育てと仕事を両立しておりましたが、それが難しくなりまして、会社を 辞めまして。その結果、宮台先生の本もまだ日の目を見ておりません。 かくのごとく 仕事と子育ての両立は非常に重要だということで結ばれる2人でもあるということでご ざいます。  まずレジュメをベースにお話ししたいと思いますけれども。郊外化・核家族化・専業 主婦化と少子化・子育てということでございまして、理論的かつ専門的といいますか、 正確なお話は宮台さんもしていただけると思いますが、ざっとお話をいたしますと、や はり高度成長期の家族や地域の変貌というのは非常に激しくて、その激しい変化による 矛盾がこの20年間ぐらいずっと出てきている。その一つが少子化であろうと考えます。 高度成長期、55年から第一次オイルショックまでの約20年間といたしまして、それ以前 の日本の社会とそのあとのこの高度成長期とずいぶん違う。落合恵美子さんが「家族の 55年体制」とおっしゃったのは素晴らしいネーミングだと思いますが、やはりこの高度 成長期を押し進めるための一つのシステムとして、家族が、つくられたと思います。  家族については核家族化をしていった。それまでの封建的と呼ばれた大家族ではない 核家族が、近代的で民主的な家族であるとも思われた。職業的にはホワイトカラー化が 進んだ。これは主に男性ですね。女性については専業主婦化が進んだということで、働 くのは男性であり、女性は結婚して子どもを生んで専業主婦になるというスタイルが確 立した。  都市構造については、業務地と住宅地の分離というのが明らかになってまいります。 千代田区の人口は1920年代には20数万人いたわけでありますし、高度成長期前も、10万 人以上いたと思います。つまり、職住が一致していたわけでございますが、これが千代 田区の人口はいま4万人弱ですか。そんなことで、業務だけの土地になっていく。一方 に多摩ニュータウンのように住宅専用の土地ができていくということで、職住の分離が 東京の場合ですと特に40km圏というようなかたちで離れて行われていく。それまでの職 住の近接、あるいは一致という地域構造、都市構造とまったく違っていくという中で、 居住地については郊外化が進んでいくということでございます。  住居については持ち家政策というものが1960年代に、これは企業側、労働側ともに進 めていくという中で、住宅公団、あるいは民間をはじめとした団地化、あるいはニュー タウン化が進んでいく。そういう中で住まいのスタイルというものは寝食の分離という かたちで、いわゆる2DKとかLDKという発想が普及していく、こういう時代でございます  また、生活時間では、仕事と家庭と余暇の分離という、これは産業革命以来のことで ございますけれども、日本においてはこの高度成長期に歴然と仕事と家庭と余暇が分離 していく。生活時間がはっきりと分かれていくというようなことで、簡単にいうと、工 場生産のラインに限らずすべてが分業していく、分離していく、分化していく、そうい う時代として高度成長期があったと思います。その中で地域、家族といった少子化にか かわる部分についても、分化・分業という現象が起きたと思っております。  いまから思うと、どうしてそんなに簡単にみんなで結婚して子どもを生んで、ホワイ トカラーになり、専業主婦になり、郊外に家を買ったんだろうかと。やや不思議な気も いたしますが、おそらくは当時アメリカという国が、日本よりはるかに豊かな中流生活 というイメージをテレビなどを通じて我々に与えていて、だいたい私ぐらいがそれをテ レビで直に見た最後かと思いますけれども、もっとアメリカのように豊かな中流市民生 活、中流家庭生活をしたいということが非常に強くすり込まれたということが大きいか なと思います。  資料の6ページの左下に日米の女性の労働力率というグラフがございますけれども、 左のカーブがアメリカの20代前半で、右のカーブが日本の20代後半でございまして、15 年ぐらいずれながら見事に同じようなカーブを描いています。アメリカは戦争中は銃後 の守りということで、女性も工場などで働いたので就業率が高い。それが戦争が終って どんどん専業主婦化が進んでいくわけでございます。  それを見て日本は、あんなに豊かな生活、緑の芝生と白い家で主婦がケーキを焼いて いるような生活がしたいもんだということで、60年まではまだ第一次産業が強い国家で あったのが、急激に高度成長する中で専業主婦化も進み、就業率が落ちていき、75年ま で下がっていくというかたちでございます。日本がようやくそのアメリカ的な豊かな中 流家庭生活を手に入れたときには、アメリカはそんな生活はイヤだということでフェミ ニズムなどが盛り上がりまして65%近い就業率になっているという、実に皮肉な現象に なっています。そういうことで、いかにアメリカを追いかけたかということが、女性の 就業率などでも明らかにいえるのかなと思っております。団塊の世代まではアメリカ的 な家族幻想というものを信じることができた。それは当時のヒットソングにも現れてお りまして、その歌詞は厚生白書にも引用されています。また、団塊の世代は地方出身者 が非常に多く、地方に生まれて東京なり大阪なりの大都市圏にやって来たということも あって、当然郊外に家を持たなくてはいけないという圧力も強かったということがある と思います。したがって、その郊外にニューファミリーをつくろうという傾向が非常に 信じられたというのが、団塊の世代まではあったかなと思います。  しかし、団塊世代がほぼ結婚いたしまして、70年代も後半あるいは末になってまいり ますと、即座にこの家族の難しさということがいろいろ話題になってまいります。一つ の例として『クロワッサン』という雑誌がございまして、77年、ですから団塊の世代の 女性がほぼ子どもを生み終わったころでございますけれども、ニューファミリー雑誌と して創刊いたしましたが、すぐ1年後か2年後に主婦の不満雑誌になります。主婦がい ろいろな自分の専業主婦生活の不満を投稿してくる読者投稿誌になりまして、大変話題 となるということでございます。その他、いろいろなジャーナリズム、『妻たちの思秋 期』など出てまいります。郊外とは限りませんが、主に郊外のその専業主婦たちの空し さといったものがジャーナリズムに出てくる。下のほうに書いてあるようにテレビドラ マでも、これも1977年に『岸辺のアルバム』という、これは昭和一桁の家族でございま すけれども、この家族の崩壊を描いたドラマが非常に注目を集める。70年代後半に核家 族化というものが一段楽つくやいなやその問題・矛盾が非常に意識されはじめたという ことがあるかと思います。  では郊外の専業主婦というのはどうしてそんなに問題なのか、あるいは郊外というの はそもそもどういうところなのかという話が2枚目でございます。  郊外の特徴はいくつかあると思いますし、これがすべてかどうかわかりませんが、一 応簡単に整理しますと、1つは均質性という問題がございます。特に同じ時期に分譲さ れた区画でありますと、だいたい職業、収入、年齢、ライフスタイルというものはほぼ 同じになってしまいます。隣もだいたいサラリーマンで30何歳で子どもは小学生でと、 そういうかたちで同じになっていく。これがまず最初の問題です。一方、同じになった がゆえに微細な差異というものが、一種の差別意識を助長するという面が出てまいりま す。例えばどこのニュータウンでもそうですけれども、「あの子は賃貸の子か」とか、 「あの子は都営の子だからな」とか、そういう差別意識が出てまいります。もちろんそ の背景にも収入の要素はありますけれども、だいたいみんな中流でがゆえに、隣の家と の微妙な差異が差別につながるような面が出てきているという、均質さゆえの問題があ ります。  それから2番目に、共同性の欠如というのがある。これは郊外に限りませんが、特に 郊外というのは生まれも育ちも違う人々が、家族ができて子どもができたという理由で 移り住んでくるわけですから、「私は新潟出身だが、隣の人は九州出身」というように まったく氏素性といいますか、育ちの違う人間が集まってまいりますので、なかなか地 域に根ざした活動といいますか行動というものがしにくいということになります。また 家族同士も先ほど申したようにお父さんは仕事、お母さんは家事、子どもは勉強してい なさいということで、昔の職住一致型の自営業あるいは農業、そういうところであれば 親であれ子であれ一緒にいろいろな活動をし、労働をし、遊ぶということがあったわけ ですが、家族も分業していますので、特に郊外においてはそういう地域とか家族の共同 性というものがなくなっていく。お父さんは40kmも離れた大手町で働いていたりいたし ますので、親がいったい何の仕事をしているのかわからいということでありまして、仕 事とか労働を通じた一体性みたいなことは感じにくい。  それから、3番目に最大公約数的施設整備と書いてございますけれども、郊外では、 だいたい親は30代、40代で子どもはこれくらいの年齢で、サラリーマンで奥さんは主婦 でというようなことになりまして、施設の整備というものが非常に最大公約数的になり ます。だいたい標準的にこの町に住んでいるのはこういう人であるということで、あま りそれぞれの多様性を意識せず、非常に共通項的な観点で施設が整備されます。例えば 女性でいえば、「ここは専業主婦の町なんだから、あまり保育施設みたいなものはいら ないよ」ということになるわけであります。しかし、それでも働きたいという人が出た ときに非常に暮らしにくいということになるわけですね。  それから4番目に機能主義的であるということがあります。もともとニュータウンで すから住機能だけに特化しております。もちろんその中には住宅があり、文教地区があ り、近隣商業、緑地があるわけですけれども、これも非常に機能別にきれいに分けられ すぎているという特徴がございます。あまり混ざっていない。商店の裏がすぐ家だとか その向こうにはすぐ小川があってみたいなことがない。すべて機能別に分けられすぎて いる。実際に私はそういうのがイヤで郊外には住みませんが、おそらく住んでみると非 常に息苦しいのではないかなと。  住宅そのものも戦後の寝食分離の思想が、個室思想あるいはLDK思想というものに引き 継がれて、郊外に建てられる住宅であれば、ほぼこの思想を引き継いでおります。その 住宅というのは非常に曖昧な空間、昔でいうと縁側とか、何のために使うかわからない 部屋とか、そういうものがあまりなくて、すべて「これはお父さんの部屋」「お母さん の部屋」「子どもの部屋」というようなことで分けられている。  そういう非常に明 快に意味を持ちすぎた住空間というものが、郊外では一般的である。住宅そのものも住 宅地も、両方とも非常に機能主義的に分化している。そういうのは実は非常に暮らしに くいのではないだろうかという気がします。  それから5番目に、これはちょっと1番目の話と関わりますが、収入・学歴の過剰な 意味ということ。つまり、郊外の方はだいたいが無産者階級であって、「杉並に土地を 持っています」という人は、わざわざ多摩ニュータウンには住まない。たいがいが無産 者階級でございます。したがって、親が子どもに残してあげられる資産というものが、 そのわずかな土地と家ぐらいしかないわけでありますから、相対的に教育水準の持つ意 味が重要になってまいります。子どもに継承させてあげられる土地、不動産というもの は、ほんの数千万ばかりである。であるから、学歴というかたちで資産を残そうという 思考がどうしても強まる。ということで、いま東大入学者の上位にある高校は横浜市の 郊外住宅地の中にあったりするわけであります。  そういうことで、非常に学歴とか収入といったものが、古いかたちの下町であるとか 住宅地よりも一層また意味を持ってしまう。そうでありながら、一方ではお父さんは遠 く40km離れて都心で働いておりますから、働くことの意味とか働く姿というものは非常 に見えにくい。そうすると、「いったい何のために働くんだ」「お父さんは一体どうし て毎日11時に帰ってくるんだろう」ということは非常にわかりにくい。そういう意味で 父親の価値というものも、結局いくら金を家に持ってくるんだというところで評価され がちになってしまうということもあるかなと思います。  郊外においては、そういうサラリーマン的、企業的な価値観というものが、家庭とか 地域というものをより強く浸食しがちなのではないかと思いますし、子どもも潜在能力 を伸ばしていくということよりも、もう少し短期的に、サラリーマン的にいえば、業績 評価されがちである。というようなことが登校拒否などにもつながるのかなと。登校拒 否やいじめが郊外においてより一層多いかどうかはわかりませんが、私は、おそらく郊 外のほうがそういう圧力が強いのではないかなという気がいたします。私の親も小学校 で校長をしておりまして、その小学校の出身者が中学に行っていじめを苦に自殺したと いう事件が3年ほど前にございまして、いじめたほうも自殺したほうも私の親の小学校 の出身でございましたが、まさに郊外の小学校でございまして。やはり、そういうこと はあるのではないかなと思っています。  本来郊外というのは、緑豊かな広々とした環境の中で子どもを育てたいということで 良かれと思ってみんなつくってきたわけでございますが、それがある歴史を持っていま 振り返ってみると、子育てとか、あるいは人間の教育にとって必ずしもいいものとは言 い切れない。欠点もある。そういうところをよく認識するべき時代が来ているかなと考 えます。  現在、晩婚化、少子化を進めている原因となっているのは、新人類世代と呼ばれる 1960年代生まれであります。団塊の世代までは、先ほど見たように非常にスムーズに結 婚し子どもを生んでおりますが、その10歳、あるいは15歳下の世代がなかなか子どもを 生まないということになっております。考えてみますと、この新人類の世代というのは 昭和一桁ないし10年代生まれぐらいの親を持っている世代でございますから、まさに東 京など大都市圏の郊外の団地・社宅、つまり先ほどの家族の55年体制の中で育った世代 が多いはずです。つまり、父親はサラリーマンないし勤め人であって、母親は専業主婦 である。そして団地なり社宅に住んで、小学校時代はよく転勤した、そういう人が非常 に増える世代です。したがって「あなたの出身はどこですか」といっても、「生まれた のは東京だけど、小学校のときは埼玉で、その次は名古屋で」みたいな方が非常に多い そういう意味では非常に根無し草でありまして、中学を過ぎますと受験の関係があって 子どもはあまり引っ越さなくなりますけれども、生まれてから小学校6年生まではかな りの頻度で転勤をし、つまり転校をし、自分のアイデンティティーを地域には持たない で育つという人が増えるのが、この新人類世代かと思います。核家族の中で地域とのつ ながりが少なく育ったのが新人類の世代。それがいま30代になって子どもを生まないと いうことであります。  この新人類の世代は自分たちが育った家族、地域というものに対して何らかの評価を 下している。その評価の結果が、いま晩婚化、少子化として現れているともいえるので はないか。単純化して肯定型と否定型で考えますと、肯定型の人は自分の育った家族環 境をいいと思っている。 お父さんはサラリーマン、お母さんは専業主婦、それはいい のではないか。そんなに悪いとは思わない。お父さんもお母さんも幸せそうだ。が、自 分の親の時代とは違って、これからの時代、男性だけが働くのでは、働けば働くほど豊 かになるとは思えない。むしろ財政だの年金だの考えると、自分たちのほうが親の世代 よりも貧しくなっていく可能性だってあるだろう。そんな中で家庭を持つのはリスキー であり、そうであれば気ままな独身生活を続けたほうが賢いではないか。結婚して子ど もができたら、夫だけの収入では郊外に出ざるをえなくなる。が、郊外に住むのは退屈 でイヤだな、ということになる。  こういうのがおそらく、家族の55年体制、サラリーマンと専業主婦というかたちに、 あまり疑問を持たない人の認識ではないかと思います。 できれば自分も専業主婦のほ うがラクだと女性なら思う。男性のほうも、「やっぱり奥さんは専業主婦がいいよな」 と思う。だが、そうであるがゆえに結婚しないという現象が起きてしまう。  それから否定型はどうかというと、親の世代のような会社人間と専業主婦の組み合わ せはイヤだという認識、根本的な価値観を持ってしまった人が、おそらくいるだろう。 したがって、男性ももっと個人を重視して生きるべきだし、女性も家事や育児だけでは 退屈でつまらない。もっと社会の中で生きるべきだ。しかし、現状ではそれが難しい。 ごく限られた人だけがそういう生き方をえらぶ。つまり、親の家の近くに住め、親の力 を最大限借りて仕事を継続できる。孫の面倒なら親も喜んでみてくれるから一石二鳥で あるというような、そういう恵まれた環境の方が子育てと就労の両立ということを積極 的にやるということであろうと思います。  親が地方にいる場合は、大変です。子どもを育てながら郊外から都心に通勤するのは 極めて困難であります。したがって子どもを産まなくなります。  それから4ページが、ではどうしましょうかという今後の課題でございまして。この 審議会でもこれまで大変綿密に議論されていて、やるべきことはかなりわかってきてい るかなと思いますが、地域という観点でいえば、職住近接、あるいは混合型のまちづく り、新しい下町的まちづくりということでございます。職住が一体化した居住空間とい うものをもっとつくっていったほうがいいのではないか。そのためには必然的に郊外で はなく、より都心に近い、東京であれば23区内のような地域であろうということです。 住機能だけのニュータウン、郊外団地、あるいは業務機能だけのオフィス街という分業 発想の時代は終わっている。オフィスづくりをする立場からも、こういうものではダメ だなということはみんな認識しはじめております。最近SOHO、スモールオフィス・ホー ムオフィスという動きがありますが、こういった動きとも連動しつつ、都市部で新しい 職住一体型のまちづくりをすべきではないか。SOHOなら郊外でいいじゃないかという意 見もあるでしょうが、いくら通信メディアが発達しても、やはり都心に近いというのは 仕事には有利ですから、女性の就労機会も向上するであろうということです。  昨今、中心市街地活性化などということが言われておりますが、子育て・就労両立支 援型まちづくりみたいなことも中心市街地活性化の中で大きなテーマとして考えられる べきではないかと思います。  少子化問題のためには、保育園の枠の拡大というのが急務であろうと思いますけれど も、いわゆる保母による保育園、そういうものだけでは足りないであろう。もう少し簡 単な資格で簡単に子どもの面倒がみられるというようなシステムがいいだろう。「ニ ュー乳母」といいますか、地域密着型の子育て支援おばあちゃん軍団、要するに「子ど もを育てるのが好きです」というおばあちゃんはいっぱいいるわけでございまして、自 分の孫だけではなく、他人の子どもであっても地域の子どもであれば「シニア保母」み たいな資格をつくって子育ての手伝いができるというシステムをつくっていったらどう かと思います。そういうことは東京であれば、例えば杉並とか世田谷とか目黒とか、そ ういう区のほうがやりやすいのではないかとも思います。私の母も小学校の教員を30年 やりましたが、子どもが大好きです。が、保母の資格はないので保育園ではパートすら できないわけですが、ああいう人間は保母にしてもいいと思うんですね。そういう活力 をどんどん利用したらと思います。  それから、もし少子化の原因にこういうまちには生みたくないなという意識もあると すれば、こういう都市、まちなら子どもを生んで育ててもいいなと思えるまちをつくら なくてはいけない。するとこれまでの郊外、ニュータウンのような計画しすぎた都市と いうのは、どうもよくない。非計画な都市といいますか、ある程度無目的な空間を残し て、それは住民が住んでいく中で自分たちのニーズで自然発生的に活用してください、 自分で手を加えて発展させてくださいと、そういうまちであるべきであろう。「無印良 品」という商品がございますけれども、それにならって言うと「無印良街」でして。あ まり完成させない未完成なかたちで、あとは住民が主体的に関与して自分たちのニーズ でつくっていく。そういうまちづくりが重要ではないかと思います。  最近フリーマーケットとか、若者が原宿とか吉祥寺とか、どこでも繁華街で勝手にご ざを敷いて自分のいらないものを売ったりする露天が流行っておりますけれども、ああ いうものを見ておりますと、私はマーケティングをやっておりますから商業機能開発み たいな仕事もするんですけれども、ドーンとショッピングセンターをつくってそこにテ ナントを誘致して、それで人が集まるという、そんな単純な時代ではない。むしろ、そ ういった自発的なフリーマーケットとか露天とか、コミュニケーションのための場とい いますか、コミュニケーションを媒介とする緩やかな場づくりというようなことがまち の中でやりやすいということも、子育てといいますか、人間育てといいますか、そうい う環境は重要であると思っています。  それから住宅そのものについても、戦後的な私有財産型の個室で、みんな家の中にい ろいろなものを揃えてというタイプの家づくりというのは、もうこれからは通用しない のではないか。すべてが家族を単位として行動するというニューファミリー型といいま すか、そういうライフスタイルも、もう違うのではないか。最近、新聞やテレビで見ま したが、どこだか忘れましたが、すでに共同食堂があるマンションというものがあるそ うです。共働きのご夫婦の息子さんが中学生ぐらいで、お父さんもお母さんも夕食には 間に合わないので、共同食堂で食べるというマンションがあるそうです。そうすると、 どこかの部屋のおじいさん、おばあさんも一緒に食べて、むしろ地域のつながりができ て、子どもの精神形成上にとってもいいのではないかというようなことが紹介されてお りましたが、共同食堂に限らず、こうした共有型の住宅づくり、そしてまちづくりとい う発想もこれから重要ではないかなと思います。  それから住宅業界やインテリア業界の雑誌などを見ていても、LDK批判、個室批判とい うものが近年盛んでございます。すべてが内に向かい、個人に向かい、内向していく、 閉じていく、そういうまち、住宅ではない、もう少し緩やかなつながり、最近「系」と いう言葉が流行っていますが、ネットワーク的なといいますか、そういう人間の動きを 促進するような住宅、あるいはまちというものが今後重要かと思います。それがひいて は少子化問題にも影響を及ぼすのではないかと思っております。  以上、雑駁ですが時間ですので、ご報告を終わります。 宮澤会長  どうもありがとうございました。ただいまいただきましたご報告につきまして、ご意 見、ご質問、よろしくお願いいたします。 河野専門委員  大変興味のあるお話だと思いますが。1つ、今後の課題として、ある意味では職住近 接混合のまちづくりというものが理想といいますか、郊外化に対する1つのオールター ナティブであって、そういう予想をすればあるいは‥‥そのへん私も誤解しているかも しれませんけど、出生率の回復のようなものにつながるのではないかという、そういう ことを述べておられるように思ったのですが、しかし都心というか、そういう職住近接 になってくると、やはり都市に住むわけで、そうすると郊外化とは別のマイナス面があ るわけですね。例えば公園がないとか原っぱがないとか、非常に車が通って危険である から子育てにあまりよくないとか、そういう感じがするので、ちょっとどうなのかなと いう疑問があります。  それから、大変雑駁なお伺いですけれども、これを聞きますと日本の家族というかラ イフスタイルというのが、どんどんどんどん、ポッポポッポ変わっているような。つま り最初は非常に伝統的な生き方で、それから新人類になって、それがまたさらに新しく なるような感じなんですけれども、しかし外国人から見ますと日本人は決して変わって いないので。相も変わらず家庭よりも仕事重視で、それから非常に家族の呪縛が強くて それから男尊女卑で、あまり変わっていないような感じがするので。確かにある意味で はポッポポッポ変わっているように思うんですけれども、根っこはあまり変わっていな いような、そういう印象があるということです。  それからもう一つ。これはまたつまらないことですけれども、6ページにございます けれども、労働力率がそれぞれ、特に日本の場合にはある段階で女性の労働力率が減っ ているわけですね。これは全般的に農業労働力というのが減っていますから、そこでア ンペイドファミリーワーカーといいますか、そういう家族従業者の率が減っているので そこで減ったので、右のほうに75年から上がってくる、そのトレンドのあれとは少し別 の原理で動いていると思いますけど。それだけ申し上げたい。全体的には非常に興味の あるあれだと思いますけど。 宮澤会長  お願いします。 三浦主任研究員  1番目の、ではみんなが都心に戻ってきたら非常に環境が悪くて大変ではないかとい う話ですが、逆に戻ってこないと環境の悪いまま放置されます。いまは都心は、私の住 む吉祥寺なんかでも確かに子どもを育てるという意味では、公園があるのはハッピーで すけれども、乳母車ひとつ押しても歩道は狭いし傾いているし、大変な重労働です。多 摩ニュータウンは車と歩道が分かれております。歩道も非常に広くきれいで平坦です。 乳母車を押す問題については、多摩ニュータウンのほうがいいなと私しみじみ思ったわ けですね。  したがって、当然郊外においても職住近接型といいますか、そういうまちづくりのあ り方が検討されるべきであると思いますが、一方で都心においても、高齢者向けのバリ アフリーのまちにするというだけではなくて、おそらく高齢者にとってバリアフリーな 住みやすいまちづくりをしていけば、子どものいる家庭にとっても非常にいい面は出て くると思いますので、子育てにもいいよという視点は都心のまちの再開発などにも当然 取り入れられるべきであろうし、公園が足りなければつくればいいし、原っぱが足りな ければつくればいいし、宮台理論にしたがって原っぱには土管を置くべきだと、こうい うことになります。  車が多くて大変だということであれば、それはいろいろなかたちで規制をする方法も ありますし、逆に都心のほうがマイカーは利用しないんですね。業務用の車が多いわけ です。一般の方は都心に住めばマイカーの利用は減ります。郊外のほうがマイカーの所 有率は高い。業務用の車はいろいろなかたちで規制の仕方がありますし、時間を限ると か、いろいろなかたちで市街地への進入を防ぐことはできる。むしろ都心の活性化の方 策として、子育てにも便利だ、やりやすいと、そういう視点を入れれば一層まちづくり のテーマが増えて、やることが増えていいのではないかなと思います。  それから世代といいますか、時代とともに家族はそんなに変わっているのかという話 なんですが、おっしゃるように変わっている面と変わっていない面があって、うまく専 門的な言い方ができませんけれども、確かに形態的には非常に変わってしまっている。 根っこのほうと言われると、どこまでが根っこかわからないので非常に微妙ですけれど も。もちろんいまの30代であっても、男尊女卑というのはちょっと語弊がございますけ れども、特に多くの男性の本音を言えば、男は仕事で女性は専業主婦で、かわいい奥さ んがいいなというのは本音であろうと思います。が、その根っこのほうと実際に動いて しまっているかたちの変化というものが、あまりにもズレているというところに問題が 生じていて、なかなか結婚とかいうものに踏み切りにくいということになるわけですね  価値観と核家族というかたちが一致している‥‥昭和一桁世代というのは、おそらく 男女の役割意識と核家族をつくろうという時代トレンドと、にあまり矛盾がなかった。 当然お父さんが働いて私は家を守るという女性が多かったし、かつ核家族というものも それをつくる中で、テレビを買い、車を買い、洗濯機を買いという、物質的に豊かにな るという目標を与えられて、家族に多少無理があってもそれを代償する代価がちゃんと 与えられたという面が高度成長期はあったわけですね。ところがこういう低成長という か成熟期になって、何のために働くのだろうと。家中見渡してもないものはないし、こ れ以上何かものを買うために働くわけではなくなった。子どもにしても、何のために受 験勉強するのか。これ以上一所懸命勉強しても、必ず親よりもいい生活ができるわけで はないし、むしろ悪くなるかもしれない。そういう中で、やはり働くことの意味、主婦 をすることの意味、受験勉強をすることの意味ということは、高度成長期ほど自明では ない。目標がはっきりしない。そういう中で、しかし新しい価値観もまだなかなか十分 に芽生えていない。そういう問題かと思います。  それから3番目の労働力率のトレンドの話ですけれども、おっしゃるように60年から 75年にかけて労働力率が下がったのは、主に自営業者、あるいは農業で働く女性が減っ たからです。が、そのグラフの右の表にあるように、専業主婦率というのは郊外におい て高いというのは明解でありまして、専業主婦は郊外ほど多い。あるいは郊外にいけば 専業主婦しかやりにくいという、ある程度の相関関係があることは間違いないかなと思 います。20代後半でその後労働力率が高まったのは、晩婚化とパラレルなわけでありま して、結婚しないことによって就労を続けるという選択がこの20年されたということで あります。もちろん、下がった理由と上がった理由はまったく違うということになりま す。しかし、郊外と専業主婦というものには、やはり何らかの相関はあろうと私は思っ ております。  以上です。 宮澤会長  ありがとうございました。どうぞ。 網野専門委員  大変興味深く伺いましたが、2つほど質問、あるいはややコメントも含めて申し上げ たいと思うんですが。  1つは、いわゆる郊外化、専業主婦化を中心にして、核家族は以前からずいぶんあっ たでしょうが、そういう視点から見た場合のお話で、どちらかといいますといわゆる女 性、母親、主婦といいますか、その点でのお話をいろいろ伺えたんですが、男性、父親 夫という面でですね。例えばSOHOの例などもお話がありましたけれども、このような視 点からの場合、いまこれから特に男性、あるいは父親、夫という点での例えばこれから の生き方、あるいは家族のあり方とか、それから郊外、そういう地域の中での生き方と か、そういうことでもし関連する点がございましたら、ちょっと聞かせていただきたい ということが1つ。  それからもう一つは、あとのほうでお話しいただいた、いわゆる共有型の住宅づくり ということで、特に子育ての関係でいいますと、日本でもけっこうところどころで見ら れるようになったんですが、大手建設業を含めて、いわゆるマンションとか、そういう 高層住宅の中で共同の食堂もそうですし、いわゆる共同の保育室とか、そのような機能 をやはり本当に必要とするのではないかということから、かなりそういう動きも見られ たのですが、いまあまり進んできていない。一時、もっと動くかなと思ったんですが。 そういう傾向がありますが、いまお話を伺いまして、いわゆる共有型という点からいい ますと、少子化、子育ての中で、やはりもう少し積極的に検討していかなければいけな い部分があるのではないかと思いましたので、そのあたりの見解をもしさらに聞かせて いただければと思います。  特に、これは住宅のことなんですが、例えば郊外化というプロセスの中で一戸建てと いう部分と、いわゆる高層の住宅ですね。両方が非常に混在していると思うんですが。 それは当然、一人ひとりの、あるいはそれぞれの家族の所得とか資産とも関係するでし ょうが、どちらかというと取得する価格からいえば、そんなに格差が出てきていないよ うにも思いますし。そういう点では、先生の今日のテーマの少子化、子育てという点で いいますと、個人住宅と集合住宅、あるいはマンションとか共同住宅とかということで 何かご意見がおありでしたら聞かせていただきたい。 三浦主任研究員  まず父親、男性の問題はどうかというお話ですが、これも意識はだいぶ変わってきて いるし、家事や育児への参加も前よりもはだんだん増えてきているというのは、いろい ろな調査などにもあるかと思いますが、しかし何といっても男性は企業社会の中に取り 込まれておりますので、男性に関してはやはり企業の考え方の変化がないと、なかなか 家族や地域の問題にそもそも入り込めないということがありますので。今日のこの地域 の問題を論ずる中では、どうしても女性が中心になったかなと思います。  私も毎朝娘を保育園に連れていきますが、男性もおそらく昔よりもきっと増えている んだと思いますけれども、1割ぐらいかなと。でも、おそらく帰りに迎えにいくという 方は皆無だろうと思いますね。これは本当に残業ゼロ社会にならないと不可能でありま して。ゼロとはいわないまでも、どこまでサービス残業を含めた過剰な労働を強いる企 業体質が変えられるかということに、やはり関わってしまう。それとパラレルで、でき るだけ就業地に近いところに住むような政策支援があれば、少しでも家庭や地域への参 加が促進されるだろうと思います。ちなみに私はいまマンションの理事長をやっており まして、そういう意味で地域と関わっておるんですけれども、男性の方は日曜日の理事 会でもなかなか出られないですね。30代、40代の方は。そういう状況では、とても家族 だ、地域だという話にならないなと思います。  それから2番目の共有型のお話ですが、確かに保育所付き、託児所付きマンションと いうのがいくつか出てまいりまして、ジャーナリズムが伝える限りにおいては好評であ るという話ですが、実際なかなかうまくいかないという現実もあるかもしれません。が 現実にどうなのか知りませんので正確にはお答えできません。  私が、保育園に行ってみますと、「保育縁」というのがあるんですね。「園」ではな くて「縁」ですね。やはり仕事が忙しくなると、お母さんが自分以外の子どもを迎えに いくとかいうことは、自然発生的に起きるわけです。そういう、自分の子どもは自分で ではなくて、忙しければお互い協力しようよということは自然発生的に起きます。  最後の戸建てとマンションの違いの話は、ご質問の趣旨が十分に理解できないのです が、もう一度質問していただければ。 網野専門委員  これはまったくそれぞれの選択の問題でしょうが、個人住宅的な部分が、いわゆる集 合なり普通のマンションとか、そういう共同住宅的な部分で、以前でしたら例えば団地 がどんどん増えたときは、親子関係、それから友達関係、近隣関係、非常にさまざまな これまでにない影響をいろいろ与えたんですね。そういうようなことから、一戸建ての ほうがいいというような意見も出たのが、それは非常に客観的なことというよりもいろ いろな他の要素も含めてですが。そういう点でいきますと、これだけさまざまな生活ス タイルや、住居も選択肢が広がりましたね。 そういう中では、少子化の中での子育て 環境という点で、それは住宅が関連するものがあるのかどうか。そのお考えがもしおあ りでしたらと思いまして。 三浦主任研究員  結論から言いますと、関連は必ずあるだろうなと思っておりますが、個人的にそのへ んを深める研究なりは不足しておりますので、明解なお答えはできません。個人的には いまは間取り論に関心がございます。NLDK発想はいかんというのは、一部の方はもう十 年以上前から言っているとると思うんですけれども、それぞれの家族があまり付き合い がなくて家の中に閉じていくとか、家族の中でもそれぞれの成員が自分の中に閉じてい くというつくりに、いまのまちと家はなっていると私は思っておりまして。それをもう 少し緩やかに開放していったほうが、ある意味では昔の日本の住宅のよさを見直すとい うと語弊があるんですけれども、そういう面もやはり必要だと思います。  私の知り合いの建築をやっている若い人間が、あるコンペティションで大賞を取りま して、そのテーマが「現代の長屋づくり」みたいなテーマでした。そういうことに非常 に関心を持っている30代というか、新人類というか、20代も含めて多いんですね。彼ら 自身はどっちかというと個室とか団地とか閉じた空間で育ってきたのではないかと思う んですけれども、そうであるがゆえにかどうか、そういう長屋的な下町的なまちづくり なり家づくりというのに関心を持っている若い世代がどんどん出てきているということ は、知っておいていただいていいかなと思います。ちょっとお答えにならないんですけ れども、以上です。 宮澤会長  袖井委員、どうぞ。 袖井委員  全体に郊外化に対して非常にネガティブなご意見ですけれど、ではいいところはない のかということと、それではそんなに悪いなら再生の道はあるのかということをお聞き したいんですが。  といいますのは、確かに団地とか郊外住宅というのは共同性がないわけですけども、 ないがゆえにつくっていこうという動きが非常にあるんですね。特に女性について見ま すと、社会活動とか市民参加とか、そういうのは割にそういうところから出ていますね 保育所がないから保育所建設運動をしたり、生協をしたり。それから、特に団塊の世代 の人たちは、その中からいまかなり地方政治に参加していますね。市会議員とか、そう いうのが出て。むしろ古い共同体のほうが、しがらみがあって出られないといいますね むしろ転勤族であったとか、新しいところに移り住んだ人がしがらみがないだけに、特 に女性の場合ですけど、市会議員とか町会議員とか、そういうのに出て非常に活躍して いるので、私は郊外化というのは、そんなに否定的なものかなという気がするんですね  それからもう一つ。郊外化というのは、むしろ外国で先に進んでいるわけですね。日 本だけではなくて。なぜ日本でこんなに問題になってしまったんだろうか。私はそんな によく知らないけど、ちょっと行ってみるとパリなんかでも郊外にダーッといっぱいあ りますね。なぜ日本でこんなに郊外化が否定的な側面ばかり言われるんだろうか。もち ろん、都市の再開発もいいですけど、できてしまったものを捨てるわけにいかないです から。だから、こういう問題のある郊外住宅は、いま三浦さんのおっしゃるようなよき 無印良品か何かにするにはどうやったらいいのかという、そのあたりをお聞きしたいと 思います。 宮澤会長  関連して? 熊崎委員  はい、関連です。ありがとうございました。私も袖井先生の関連で非常に興味を持っ たので。袖井先生の質問の答えの中につなげてお答えしていただければ、大変嬉しいと 思いまして。  職住近接の混合まちづくりというのは、私も非常に理想的だと思いますし、これから の一人の女性が当たり前に結婚して仕事を持って地域の中で暮らしていくときに、やは り子育てについてどういうふうに環境やいろいろな政策をつくっていくかということに ついては興味があると思うんですね。ところが、現実的には都市計画というのがいま進 んでおりますけれども、その都市計画の中にも少子化の視点が入っているわけです。私 の質問は、1つはいま出されております理想的なまちづくりの中で、何に手を加えれば こういうものが実現するのか。例えば政策であるのか。いまの体制の中でどこをもう少 し改善したり提言をすれば、こういうものが進んでいくのかというものを明確にお答え いただきたいということと、もう一つは諸外国にいま提示されておりますようなまちづ くりが、どんな諸外国に都市があるのか。複数でも1つでもいいですので、教えていた だければいいと思っております。以上です。 阿藤委員  関連質問です。私もお聞きしていて郊外化性悪説という印象を受けまして、私自身も 郊外に住んでいるものですからショッキングで、多摩ニュータウンと港北ニュータウン は違うのかなとお話を聞いておりました。  1つは、今日のお話はもちろんお得意の分野で東京周辺の郊外ということに絞られて お話をしていらっしゃるのでしょうが、いまのセオリーが、全国の大なり小なり、関西 圏でも中部圏でも、まずは大都市圏で当てはまるかどうか。さらにはもっと広げて、小 規模な、例えば札幌だとか仙台とか、秋田なら秋田市の郊外とか、そういうもっと広い 意味での郊外にも当てはまる議論なのかどうかという、そのへんなんですね。  つまり、少子化は日本中で起こっているわけで、少子化のもとになるシングル化、晩 婚化も日本中で起こっているんですね。別に東京で起こっているだけではなくて、レベ ルの差はあっても、この20年間、起こっていることは全国同じなんですね。だから、そ の点で全国に広げた視野をちょっとお聞きしたいということが1つです。  それから、郊外化性悪説で言いますと、特に2ページにいろいろ書いていらっしゃる ことは、いわゆる古い農村との違いでいえば、むしろプラスの側面ではないかと思いま す。また、例えば共同性の欠如というところですが、よく学校地域の子供会とかPTAとか そういうところでずいぶんお母さん方がむしろまとまってグループをつくったりしてい るとか、そういうのを見ていると、そんなに否定的なものかなというのをつくづく感じ ました。  それからもう一つは、何か個室がすべて悪いみたいなご報告ですが、むしろ私は個人 的には、それは世代が違うからと言われればそうですけれども、個室はプライバシーを 生むとかですね、一種の個人主義の1つの糧ではないかなと、ポジティブにずっと評価 しています。私は日本で何とか個人主義が根ざしたらいいと思っていますから、そうい う意味では、もう一回全部ぶち壊して、垣根を全部取り払って昔のお祭り的な雰囲気に 家の中も外も全部してしまえというのは、ちょっと乱暴ではないかという感じがどうし てもするんですね。  それと関連して、フリーマーケットや若者の露天というのは、それは放っておいても できるものだから、何もそれを計画する人間が考える必要はないと思うんですね。では 無計画でいいのかと。これだけ人口密度の高い日本の中で、無計画で放っておけばよく なるということではない。 自然発生的にできるものは放っておいても私はできると思 うんですね。 そういうものは、むしろ人間が求めてつくっていくんだから、それに任 せればいいので、やはりどこかに計画性というのは必要ではないのかなという感じがし ます。  それから最後に職住接近ということでいえば、もちろんこういう郊外の中で私自身も 感じていますから、なるべくオフィスが近くにあればいいなと思いますけれども、もっ と大きな話をすれば、やはり日本全体の地方分権とか地方分散とかいうことで、首都圏 とか関西圏以外の地域にもっと人が住めるようにする、つまり職場と家庭が接近できる つまり地方にも職場があるというふうに変わっていけば、こういう問題は自ずと解決す るのではないかと思っているんですけど。 宮澤会長  いろいろ質問がございましたけれども、その割に簡潔にひとつ。無理なお願いですが お願いします。 三浦主任研究員  後ほど宮台先生にもお答えいただいたほうがいいと思いますけれども。一応、それぞ れ答えます。  いい面はないのか。きっとあるんでしょう。が、今日は少子化、子育て、青少年を育 てる環境という意味での私の視点を述べましたので、あえて悪い面を述べました。共同 性がないからつくっていく気運が出てくる。それはいいことだ。確かにそうかもしれな い。が、やはりつくるのは大変な労力がいりますし、専業主婦だからその労力を払える んだという面もあります。郊外になかったいろいろな機能をつくるために専業主婦が社 会参加活動をした。参加活動をしたのはいいんだけれども、それは専業主婦だからでき たという面がございます。生活クラブ生協も横浜市などの郊外の豊かな恵まれた専業主 婦がやっているということであります。ですから、そのへんは非常に裏腹な矛盾した問 題があります。  それから海外ではどうか。これは私の勉強不足で、まだよくわかりません。少なくと もアメリカには郊外の問題はあるという文献は、数多くあります。郊外に住む若者の犯 罪だけを取り上げた本もあります。まだ読んでおりません。宮台さんから何か説明して いただけると、ありがたいです。ですので、まだお答えするほどの見識を持っておりま せん。  それから何をなすべきかという、日本のシンクタンクが最も苦手な政策提言をしろと いうお話でございますが、これももう少しお時間をいただかないと、私なりの考えはま とまっていません。  それから、東京だけの話ではないのかというご指摘ですが、東京というのは最も郊外 が大きく、かつ遠いですので、最も郊外的な問題が出やすいのはもちろんですが、しか しでは大阪はどうか、新潟はどうか、仙台はどうかというと、ある程度の普遍性を持っ て当てはまると思っております。  さっき申しましたように、私の出身地で起きたいじめ自殺も郊外である。黒磯中学も 郊外とはちょっと違うけれども、少なくとも古くからの中心市街地のようなところでは ない。典型的には須磨ニュータウンの少年殺人。時代を画するような事件というものは 郊外になぜか出てくるなと。金属バット事件にしてもですね。というふうに、私はそう いう目で見ておりますので偏りはございますけれども、ある程度の普遍性を持っている ちなみにオウム真理教で殺された村井さんも千里ニュータウンの出身なんですね。オウ ム真理教にも私は郊外中流家庭が多いのではないかと思っておりますし、村上春樹がい ま文芸春秋に連載しているオウム信者の記録がありますけど、郊外出身や転勤族とか多 いんですね。  郊外性悪説じゃないかということですが、性悪とは申しません。生まれながらに悪い とは申しません。よく育てたつもりなんだけど、なぜか悪いこともしていると。  それから、無計画ではやはりまずいのではないかと。まずいです。ですから非計画と いう言い方をいたしました。あえて無目的な空間を残し、ですから極めて計画的です。 ですが、計画者の意図が‥‥都市計画をやる人間というのは、非常に権力志向が強くて 隅から隅まで自分の作品としてつくり込まないと気がすまない。それはまずいのではな いのということであります。もちろん、ものすごく優れた都市計画家であればいいです けれども。が、残念ながらそういう人はあまりいない。  それから分権化の問題。これはおっしゃるとおりで、非常に長期的には地方分権化と いうことが実現されていけば、郊外というものは東京においてはおそらく縮小していく であろう。ただし、地方ではどんどんできてくる可能性がありまして、ますます郊外問 題が日本全体の問題となる。またまたマーケティング的にくだらないキーワードを言い ますと、郊外病というものがこれからますます出てくる可能性もあるということであり ます。それぞれのお答えになっていないと思いますが、時間もあれですので、あとは宮 台博士にバトンタッチしたいと思いますが、よろしいでしょうか。 宮澤会長  ありがとうございました。まだご議論はあると思いますけど、もう一つご報告をお聞 きして、その中で関連的にお話をするということにしたいと思います。  それでは続きまして、東京都立大学の宮台真司助教授にお願いいたします。宮台先生 は東京大学大学院博士課程を修了され、さまざまな社会問題についてご専門の社会シス テム論を背景に分析されるなどされております。著書には『まぼろしの郊外』、あるい は『学校を救済せよ』などがございまして、今回の厚生白書の参考文献の一つに挙げら れております。よろしくお願いいたします。 宮台助教授  おはようございます。宮台と申します。私自身は三浦展さんの報告にあったような新 人類世代に属しまして、学校を6回転校、小学校に7つ行っております。日本全国の団 地を回ってきて、その団地的経験の豊富さにおいては私の世代の中でも私が一番であろ うと自負しております。私自身、団地的な空間、あるいはニュータウン的な空間から、 要するに魂がだんだん離脱していくというか、要するにそうでない場所に居場所を探す というふうな生育歴というか、成長歴を持ってきている人間であります。  ちなみに現在私は世田谷区に在住しております。妻と子どもがおります。日曜日には 子どもを連れて水族館や遊園地や公園に行くという典型的なパパでありますが、いろい ろな疑問を感じてはおります。  私自身はもともと数理社会学、理論社会学をやっておりまして、それで博士号を取っ ておりますけれども、それ以降、若者のサブカルチャー研究、あるいは戦後コミュニ ケーション研究というのに乗り出したことから、基本的に、例えばオウム真理教のフ ィールドワークもやりましたけれども、新進宗教であるとか、あるいは売春であるとか 薬であるとか、あるいはキレる少年たちであるとか、あるいはストリートにおけるさま ざまなダンスムーブメントを含めたコミュニケーションであるとか。つまり、先ほどの 私の生育歴と重なりますけれども、要するに郊外に居場所を失った子どもたち。郊外、 つまり地域にも家にも学校にも居場所がなくて、いわば、私は第四空間と申し上げてお りますけれども、4番目の空間に押し出されてきた人間たちを取材してきております。 つまり、そのような場所から見ることによって、いまの特に若い世代が置かれている状 況と郊外化という問題が、極めて密接な関係があることをさまざまな本を通じて公表さ せていただいてきておるということであります。  今日、大まかな話はレジュメ集というかたちで即席でつくったものがございます。こ れにほぼ沿ってお話をいたしますが、基本的にはこのタイトルにありますようなことが つまり「“郊外化”の弊害を“少子化”で中和できるか? 〜“禍い転じて福となす” ための戦略〜」という、これが今日の話の中核的なコンセプトということになります。 ちなみに、私は大学教員で妻は一応ジャーナリスト兼小説家でありまして、たまたまつ いこの間妻はイギリスに小説の取材で行ってきて、イギリスの郊外をいろいろ見てきた ようなので、そのへんの話も聞いております。  基本的に、郊外化は国によってその意味やもたらした帰結がずいぶん違います。共通 の部分もたくさんあります。したがって、ここで言う私の郊外化の弊害は、とりあえず かなり日本的な要因を含み持ったものだということをお考えいただきたいなと思ってお ります。三浦展さんの報告にもございましたとおり、まず郊外化と専業主婦の歴史につ いて、重複を省いて概略だけ申し上げます。  専業主婦というのは、どの社会におきましても伝統的な文化や生活形態とは何の関係 も存在しない、言い換えれば近代のシステムと結びついて誕生した必要の産物であるこ とは言うをまたないことであります。したがって、どこの社会におきましても専業主婦 化が一般化するのは産業革命後期といわれておりますが、要するに都市労働者が増え、 都市労働者というのは工場労働者とサラリーマンですけれども、彼らの生活の再生産を つまり子育てと家事ですね。家事、育児万端を担う地域社会に代わるエージェントとし て専業主婦が登場したという経緯があるということが1つと、あともう一つは産業革命 後期、つまりある程度豊かにならないと専業主婦を養うことができませんので、ある程 度豊かになった段階で専業主婦が登場するということであります。  日本の場合、専業主婦イデオロギーは明治32年の高等女学校令施行以降ですね。一部 高等女学校で連綿と教え続けられてきておりますけれども、少なくとも戦後しばらくた つまで専業主婦をすることができたのは、大学教員と高級官僚の奥さんだけだったわけ であります。つまり、完全な贅沢な生活形態だったわけですけれども、この専業主婦が 一般化するのは、やはり単に第二次産業重視型の段階であるというだけではなくて、あ る程度社会が豊かになって余裕ができた1950年代後半を待つことになるということであ ります。要するに1956年に始まる団地化以降、日本で初めて専業主婦という生活形態が 一般化したということであります。  この専業主婦化に象徴されるような郊外化は、いつ、どこでも問題を引き起こすとい うわけではなくて、一定の状況では極めて重要な働きをしてきているわけです。いま家 事、育児万端を担うエージェントという話をいたしましたけれども、その他、さまざま な文化的な役割を専業主婦を中心とする母親が担うということもありました。あるいは そこで例えばマスメディアが果たす機能もテレビを通じて次々上昇していくというよう なこともありました。これも一概に否定できる問題ではありません。三浦展さんもおっ しゃいましたように、基本的にはマスメディアによって流布されたアメリカ型の郊外家 族幻想が、実は日本の専業主婦化、ないし郊外化を推進する原動力になったことは、一 応社会学者の間の共通の了解事項になっています。  ただ、テレビで流布されていたアメリカの郊外生活と、例えば魔法使いのように家電 製品を使ってケーキをつくってくれる魔法使いのようなママと、週末になると車に乗っ てピクニックに連れていってくれる何でも知っている頼もしいパパと、誰からも好かれ る可愛い僕と、そして庭を見ると名犬ラッシーが跳ね回っているような世界というのは しかし日本では実現しようもなく、実際のところ2Kないし2DKの本当に狭苦しい団地に住 んでいたわけです。そこに炊飯器、掃除機、洗濯機からクーラーから、カラーテレビじ ゃありませんが、そういうのを押し込んで生活していたわけですが、しかしそれでも問 題が意識されなかったのは2つの問題がありますね。1つは、家族のロマンチシズムと いうものが、有り体に言えば家族幻想ですが、これが非常に輝かしく思われたというこ とです。したがって、ロマンがあればいろいろな障害は乗り越えられますよね。恋愛と 同じようなものです。しかし、情熱はいつかは冷める。 そうすると問題が露わになっ てくるという問題が、この郊外化、あるいは郊外家族に関しても存在いたします。  あともう一つは、日本の場合当然のことですが、諸外国と同じように第二次産業重視 型の社会で、なおかつどんどん、どんどん豊かになっていくというプロセスで登場いた します。未来が明るい時代でありますからして、さまざまな問題があったといたしまし ても、「いまはこのぐらいだけれども、10年たったら持ち家さ」みたいな持ち家幻想の ようなものが強く抱かれたりしました。  この持ち家幻想というのも極めて日本固有のものでありまして、これは社会学的にい うと実は江戸時代、それ以前まで遡るような土地に対する考え方があるとされておりま す。イギリスの場合は百数十名の貴族が全土地のうちの99%ぐらいを所有しているよう な国でありますけれども、日本の場合にはそのようなシステムにはなっておらず、基本 的には土地はさまざまな人たちによって私有され、なおかつそれがときどき政治権力に よって召し上げられたりしますから、土地に対する執着はものすごいものになっている ということがありますが、そのへんの話は今日は飛ばさせていただきます。  いずれにしても、そのようにして専業主婦化、郊外化といったようなことが進んでく るわけですが、当然のことながらいま申し上げたような2つの問題吸収装置、つまりロ マンチシズムが強いことと、あと未来が開かれていることという、この2つの条件が消 えていきますと、当然のことながら問題が噴出してくることになります。それが2番目 の項目である成熟社会到来並びに家族空洞化、学校化、第四空間化ということでありま す。  そのような問題が噴出するのは1970年代に入ってのことであります。私は成熟した近 代、ないし成熟社会というような言葉を使わせていただきますが、先進国はこの時期、 多くは成熟した近代という段階に入ってきたわけであります。これは制度派経済学者の いうアグリーメントソサイエティーですね。豊かな社会という概念と、ほぼ似ていると ころがあります。これはあとで説明いたしますけれども、とりあえずこういうふうにお 考えください。過渡的な近代というのは、つまり第二次産業重視型で未来が明るい時代 であって、人々が巨大な欠乏を共有するがゆえに巨大な夢を共有することができるよう な社会であります。三浦展さんもおっしゃっていただいたような、例えば団地化のプロ セスでアメリカの生活に憧れるということを通じて夢と欠乏を同時に所有するような、 そういう段階が典型的であります。  ところが70年代に入りますと、72年にニクソンショックがありまして、73年にオイル クライシスがありまして、ちょうどこの時期に耐久消費財に関しては、さまざまな統計 が示しているように新規需要が一巡いたしまして、耐久消費財は簡単に言えば買い換え 需要が主要なマーケットになります。そうすると機能的な損耗を経ていない商品を買っ てもらわなければなりませんから、さまざまな付加価値が付けられることになります。 例えば当時、冷蔵庫の柄が森英恵の蝶々になったりいたしました。このようなものがプ リントされても、冷蔵庫が冷えるということはないわけでありますね。あるいは、70年 代半ば以降、木目流行りでありまして、クーラーからステレオからテレビから、すべて のパネルが木目調になるわけですね。いま団地とかニュータウンに行ってエレベーター に乗って内張りが木目だったら70年代半ば、後半にできたということは一目瞭然である わけです。つまり、いまから見るとやや滑稽な部分もありますね。例えば注ぐと音が出 るビヤ樽とか、龍の注ぎ口とか、わけのわからないものがいっぱいあった時代です。  つまり、これが成熟社会というものをよく示していますね。つまり、購買動機が不透 明になっているということです。付加価値に重心が移れば当然購買動機が不透明になり 人がなぜそのようなものをほしがるのか、隣の人間がなぜそれをほしがるのか、よくわ からない。実はそのアグリメントソサエティーというのも、もともとの定義はそういう ことです。単に経済的に豊かということではなくて、消費動機が不透明になったという ことを意味いたします。  まったく同じ時期、1970年代後半は、新進宗教ブームの立ち上がりの時期であります 旧来の宗教は貧・病・争といいますが、基本的には社会的弱者がすがるところがなくて 最後にたどり着くのが宗教だというふうに考えられていましたが、新進宗教はそれまで の宗教と参入動機において決定的に区別されます。例えばオウム真理教の教団幹部の連 中は一流大学卒であり、一流大学の大学院や、あるいは一流企業の研究所に所属し、あ るいは一流の心臓外科医であったりするという、従来でいえば社会的勝者、すなわち強 者でありますが、そのような人間が、しかし自分はOKではないと考えて宗教に参入する その参入動機は明らかに不透明であります。  同様に70年代後半に入りますと、例えば臨床の精神科医の間では、境界事例とか、あ るいは人格障害とった言葉が共有されていくことになります。これもわかりやすく言え ば病理カテゴリー、例えば神経症とか精神病といったものには属さないが、しかし本人 ないし周囲が、まともな生活ができないと訴えるケース。これがあまりに増えてきたの で、そのような言葉で名指すようになったわけであります。かつては健康と不健康、病 気か病気ではないかという二項対立でよかったんですが、病気ではないというだけでは 実は何もわからない。病気ではないけれども、まったく理解できない人間がまわりにた くさん存在するという。そのようなコミュニケーション環境の成立と、そのようなカテ ゴリーの成立とが密接に関係いたしております。  まさにそのような不透明性の増大。つまり、巨大な欠乏が埋め合わされてしまったた めに、それ以降、何が幸いであり何が不幸であるのか、人それぞに分化してしまったよ うな社会が到来いたしますと、例えば家族という領域におきましても、これは1つのわ かりやすい問題を生じさせます。つまり、家族の中で何が家族にとって、子どもにとっ てよきことであるのかが自明でなくなってくるという現象が生じます。  皆さんご存じのように、70年代後半は家庭内暴力が噴出する時期であります。78年は 開成高校生事件、80年は一柳展也金属バット事件。これが二大事件でありますが、マス コミによってさまざまに報じられておりましたように、いろいろなことがこの時期に起 こっております。そして、まさに同じ時期に、先ほど三浦さんもご紹介なさった『岸辺 のアルバム』という嘘家族のドラマですね。狛江市和泉多摩川の川縁に建つ一戸建ての 持ち家に住むバラ色の郊外家族に見えるが、蓋を開けたらメチャクチャという話ですが ただ、偶然にも台風がきて家が流れてしまったので、みんなハッと気づくというような 楽天的でもあるお話でもあったわけです。あるいはこの時期、79年ですが、イエスの方 舟事件という、中流サラリーマンの子女が自分の家を捨てて聖書の読書会をやっている おっちゃんのもとで共同生活を営むという事件も起こっております。  つまり70年代後半は、家族の空洞化を露わにするさまざまな現象が起こっています。 そしてとても面白いことに、この70年代後半は小中学生の塾通いが急増しはじめる時期 と統計的には完全に一致をしております。このことを私は次のように解釈いたしており ます。つまり、家族の空洞化を学校化によって埋め合わせるというこが起こったという ことであります。何がよきことであるのか不透明になった親、ないしは母親は、子ども をいい学校に入れればいいんだ。そのために多額の教育投資をするのがいいのだという ふうに考えるようになります。言い換えれば、家族幻想の空洞化を学校幻想で埋め合わ せたということであります。  ここにすでに日本的な条件がいくつか参入してきております。1つは三浦さんのおっ しゃったような問題があります。親から子に残せるものは何なのかと考えてみた場合に リソースがそもそもそんなに多くないということが1つありますが、それに加えて、実 は70年代前半から半ばに関して資源不況でありましたが、そのあと合理化が進んだせい で経済が持ち直していくことになります。皆さんご存じのように80年代半ば近くになり ますとプラザ合意がありまして、ストック資産の急増というのがあって、全世界の中で 日本が最も経済的にうまくいっている時代にどんどん、どんどん上っていくということ になります。  実は家族幻想の空洞化を学校幻想で埋め合わせることができたのは、実はそのような 日本の経済的な豊かさ、あるいは豊かということに抵抗があるとするならば、経済的な 苦境にさほど立たないですむような時期に空洞化したというのが、実は大きな理由であ ると考えられます。70年代、80年代、ヨーロッパもアメリカも経済はどん底に近い状況 であります。もしこのような状況で日本の家族が空洞化しても、学校幻想に夢をたくす ことはできなかったでありましょう。その意味で日本に固有の条件が存在したというこ とができます。  いずれにしても家庭、郊外家族並びにその集まりである地域は、学校の出店になって いきます。学校で劣等生である子は家に帰っても成績を言われ、地域でも学校の成績や 「誰々さんの家の子は何学園に受かった」というようなことしか評判にならないような そのような評判空間ができ上がります。当然ながら子どもにとっては、自己肯定感のリ ソースが著しく減少することになります。僕自身のフィールドワークからいえば、優等 生も同じです。優等生はどこへ行っても優等生としてしか見てもらえないから、そのよ うな場所ではないところに出かけて別の肯定感を獲得しようと模索するということが存 在いたします。  そのような模索の中から、80年代を通じて第四空間化という現象が起こってまいりま す。つまり、肯定感のリソースが決定的に不足した家、学校、地域の外側に子どもたち が自分自身の居場所、ないしホームベースを確保しようとする動きであります。第四空 間、主要にはストリート、まちですね。ストリートにたわむれることで、ストリートで はニックネームでしか呼び合わないような希薄な関係でありますけれども、名前と結び ついた学校化された自己イメージから離脱することができます。同じように伝言ダイヤ ル、あるいはテレクラ、ツーショット、あるいはインターネット、パソコン通信のよう な匿名メディアの中でのコミュニケーションに居場所を確保するという動きも生じてま いります。同様にゲームの中、アニメの中の仮想現実の中に自分自身の世界を持つとい う動きも広がってまいります。これは相前後して80年代後半から広がっていく動きであ りますけれども、これは主に80年代前後から急速に進行した肯定感のリソース不足に対 する子どもの側からの適応現象であると僕自身は考えているところでございます。  ページをめくっていただきまして、「学校幻想崩壊と新たなシステムの需要」という ところにまいります。実は家族幻想の空洞化を学校幻想で埋め合わせることができたの は、経済が豊かであったということが最大の理由であります。したがって、91年バブル 崩壊、92年以降就職冬の時代となりますと、とりわけこれは若い人たち、年少世代から 急速に学校幻想の崩壊が生じてまいります。これは大人からはあまり見通せないことで ありますけれども、そうとう深刻な事態であります。これをおわかりいただくために、 東大生の合コンの話をいつもさせていただきます。これは昨今でも変わりないのでお話 しさせていただきます。  東大は、私がいたころはだいたい語学クラス50人に1人か2人、誰とも話さない人が いました。いまだいたい10〜15人、これはほとんどすべて男の子ですが、誰とも話さな い人がいます。お節介な女の子が無理矢理コンパに引きずり出して、何とかコミュニ ケーションをとろうとします。しかし、その間中彼は英単語の勉強をしていたりします これは全部事実でございます。あるいは、せっかく男女互い違いに座っているのに、男 同士で河合塾や駿台の話を延々しているんです。俺は特待生だったとか、あるいは俺は こんなに低いセンター試験の得点で東大に入ってきたとかいった、わけのわからない自 慢をしているんですね。それを10分、15分ならいいんですが、2時間のコンパの間中す べてその話をしている。当然うんざりですね。見るに見かねた女の子が、例えば「渡辺 さんはお暇なとき何をしてらっしゃるんですか」と隣の男の子に聞くと、聞かれた男の 子は正面にいる男の子に「俺が暇なときはさー」と答えるんですね。「聞いたのは私だ よ」という世界であります。  あるいは、東大は昔から、私がいたころからストーカーが大変多く、いまちょっと見 栄えのいい女の子には平気でストーカーが5人、10人くっついている大変危険な状況に あります。あるいは東大では官僚志望者は「官僚君」とか呼ばれて、昔だったらとても 尊敬されたはずなんですけれども、完全に総体化されているという状況が存在いたしま す。それはいいか悪いかは別といたしまして、例えばかつてだったら東大生と合コンす ることは誉れ高きことだというか、名誉なことだというふうに思われていた時期が10年 ぐらい前までありましたけれども、最近はそういうことはほとんどありません。あるい は自分の彼氏が東大だというと 「えーっ、何々ちゃん大丈夫なの?」というのが、こ れが本当に一般的なコミュニケーションになっています。  このようなことは、なかなか年長世代には聞こえてこないことでありますけれども、 年少世代では相当な速度で学校幻想の崩壊というのは生じています。要するに、いい学 校、いい会社、いい人生といったような物語は、すでに信じられていないわけでありま す。成熟社会が到来すると、何が幸いであるのか人それぞれというふうになると申しま した。実際に年少世代はそのようになっておりましたけれども、なかなかそのことが目 に見える状況ではなかったものが、バブル崩壊後、一流企業や官僚組織でさまざまな不 祥事が表に出たあたりから、その混乱、ある種の幸せのイメージの分化というのが、か なり社会的に共有されるものになりつつあると思います。  ところが、そうなってくると実は巨大な問題が生じてまいります。 「もう人それぞ れなんだよ。何が幸いなのか不幸なのか」というときに、それでもなおかつ「おまえは これさえすれば幸せになるのだ」というメッセージを投げかけ続ける親が残るんですね 過渡期には必ず残ります。それが実は私にいわせると巨大な害悪を垂れ流しているとい うことになります。そこで私は耳目をひくために専業主婦廃止論ということを言わせて いただくわけであります。  つまり、よかれと思って子どもの遊び道具を選び、遊び場を選び、遊び友達を選び、 遊び時間を選び、洋服を選び、学校を選び、すべて選んであげる、つまりそういうお子 さまを育てるお母さんが、先ほど言った変な東大生を生み出しているといって差し支え ないと思います。いったい、いい学校に入りさえすれば幸せになるというバカげたメッ セージに長時間隔離された状態で曝されたのはなぜでありましょうか。つまりそのこと が、実は専業主婦廃止論の背景であって、これは男女同権論からくるものではない。む しろ害悪の垂れ流しのエージェントになっているということであります。しかし、これ は専業主婦が諸悪の根元だといっているのではなく、そのような立場性を自覚していた だきたいということであります。その背景には、皆さんよくご存じのように専業サラ リーマンを中心とする日本の家父長制的、ないし男社会の非常に強固な枠組みが存在す ることは言うをまちませんし、あるいはかつてなら同じように振る舞ってもよき結果が 約束されたような振る舞いが、成熟社会化という社会ステージの変化によって、よき結 果をもたらさなくなった。そういう大きな背景の変化があることは、もうご存じだろう と思うわけであります。  このような、かなり多様化が進み、そのこと自身が若い世代に自明になりつつある社 会の中で、空洞化家族にそれでもなお適応する子どもから、実はアダルトチャイルド、 アダルトチルドレンというふうに自称する人たちが大勢生まれてきています。つまり、 自分はいままで一度も誰からも承認、アプルーバルですね。承認されたことがないと。 まだ見たことのない承認を求めて空洞化された家族に過剰適応しようとしているうちに つまり大人になろうとしているうちに思春期を失って、思春期にクリアされるべきだっ た課題、自傷行為を繰り返すというふうなパターンであります。  あるいは空洞化した学校に適応しようとする子どもたちは、巨大な学校ストレスに曝 され、さまざまな逸脱行為を生み出していることは、皆さんご存じのとおりであります 自然と戯れ、例えば花と戯れ蝶と遊ぶ、そのような社会環境、生活環境を失ったからい じめが増えたのだというのは実は大きな間違いでありまして、いじめが激烈なのは都心 よりも郊外、そして郊外よりも田舎であります。これは僕自身調査をしておりまして、 ある程度の統計データもあります。その理由は、私の聞き取りからすれば、ほぼ単純で す。つまり唯一の娯楽がいじめになっているということです。都心部に近ければ近いほ どオールターナティブ、代替的な娯楽の選択肢があるので、いじめはなくなるわけでは ありませんが、いじめに深く固執されることはありません。あるいは、そういう振る舞 いはカッコの悪いことになりますけれども、田舎にはそれしかない。比較的、郊外もそ れに近い状況にあるわけであります。  そこで何が必要になるのかということですけれども。このような社会ステージの変化 に対応して、郊外化の弊害を組み直す必要があります。1つは、主婦や教員の抱え込み から子どもを奪還する必要があります。 つまり、「子どものために本当のことを教え てあげられるのは私だ」といったような小さな親切大きなお世話。これは成熟社会では 当然このようなことが生じてまいります。実際には何が幸いで何が不幸なのかは、おま えの目と耳で見聞し、おまえの頭と心で判断しろと。私にはわからないと。しかし、試 行錯誤に失敗しても、いつでも帰れる場所は用意しておくと。ホームベースは用意して おくというふうなあり方が責任ある大人のあり方ですね。あるいは、日本以外の先進国 では、そのように親や教員が教えるのが当たり前でありますね。  一般に子どもを評価するときにインデペンデンシーとコントリビューションというの をやりますね。僕はたまたま番組を評価する委員にもなっているんですけれども。放送 番組向上委員会といいますが、日本の幼児番組は異常です。なぜならば、何もかもが 「みんな仲良し」といっているからです。欧米の幼児番組にはそういうものは一つもあ りません。「君は本当は何をしたいの?」というところから始まります。「そうか、君 は本当はそれがしたいのか。でも、君一人じゃできないぞ。助けを借りないとできない ぞ。でも、まわりの人は君が何もしなければ助けてくれないぞ。君が何かしなきゃダメ だ」。つまりそれがコントリビューションですね。インデペンデンシーというのは、人 が何を思うか関係なく「自分は本当はこれがしたいんだ」と言えること。コントリビ ューションというのは、それを実現するために社会性が必要だということを表している わけですが。そのような立場で子どもに接することが奨励されるような機会が、いまの 学校教育にも幼児番組にもほとんど存在しない状況です。  そのような親や教員からは、子どもをむしろ奪還しなければならないわけです。僕は たまたま自分の子どもが放課後保育支援システムというか、学童保育や児童館に行って います。とても健全な空間だと思います。 異年齢集団、異なる年齢の集団の中で世話 をされた子どもが世話をするといったようなお世話の伝承があり、あるいは大人とのコ ミュニケーションのチャンスが昔の地域社会のように開かれています。このようなとこ ろを通じて育ってきた大学生なんかも僕のところにたくさんいますが、専業主婦に抱え 込まれた子どもたちに比べると、はるかに社交性がありバランス感覚が優れているとい う僕自身の個人的な主観があります。  そのような、主婦や教員が抱え込まなくても子どもが生きていけるような学校環境や あるいは家族、地域環境を育てる必要が、つまりそれを代替的ホームベースといってい ますが、それがいま要求されていると考えております。というか、ずっとこういうふう に考えてきたわけであります。  実は、少子化現象というか、いま1.39ショックといわれているような少子化は、私に とっては千載一遇のチャンスだと考えられます。もちろんこれはマクロ経済的には非常 に悪い影響しかないということが定説になっている少子化でありますけれども、である がゆえにそれに対する対策を組むことによって、私がいま申し述べてきたような郊外化 の弊害のいくつかが緩和ないし取り除かれるだろうと考えているわけであります。それ がチャンスとしての少子化圧力ということになります。  基本的には、私は例えば学校に関してはクラスをなくすことをズーッと前から提言し てきております。3年前に言うとバカにされましたが、酒鬼薔薇事件以降、突如聞いて もらえるようになった意見でありますが。これはいろいろな成功実践例が日本でもあり ます。ただし予算や人員が1.5〜2倍かかるわけなんですね。これはもちろん国家予算の 規模で合意を形成することは不可能ですから、地方分権の中で各地域にやってもらうこ とになるわけでありますが、ここでいい材料が存在するのは、つまり子どもの数が少な くなっていけば、相対的に子どもの周囲にある学校資源、それは設備、あるいは教員も そうですけれども余裕が出てくるということであります。これは学校自由化に必要な予 算問題や人員問題を緩和する方向に働くということが考えられます。さらに教員が余り 気味になります。学校も余り気味になりますから、当然そこには従来学校から排除、つ まり学校スタッフの間から排除されてきた競争原理が導入されることになります。これ も大歓迎するべきことであると私は思っております。  それと同時に人材希少性が上昇してまいります。先ほど東大の例を言いましたが、多 くの大学ではアクティブな人間は女性であります。これはかつては女の子が優等生だか らと考えられておりましたが、いまはまったく違います。女性のほうがむしろ社会的経 験が多いんですね。それはいろいろな理由があります。男の場合は勉強さえできればと 下駄を履いてきていますが、女の子の場合には昔から漫画でメガネっ子というのがあり ますけど、勉強だけできると「ブスだからでしょう」とかまわりに考えられちゃったり するということがあって、自分が普通であることを証明しようとして、一所懸命恋愛を したりアルバイトをしたりとか、それもコンビニエンスストアとかファミレスで東大生 の女の子たちはアルバイトをしています。とてもいい傾向だと思いますね。ですから例 えばゼミで話しても、女の子のほうが経験ベースに話をできます。男の子の話は「ニー チェによれば」とかいうんで、完全に観念的で浮いていて、「あの人、痛いよね」みた いに言われているというのが現実の状況であります。  つまり、これから企業が人材を採っていくときに、このような優秀な女性人材を使え ない場合には、国際競争力という観点から、これから特に第三次産業には外資系が大規 模に入ってまいりますから、非常に苦しいことにならざるをえません。そのようなこと が競争圧力として働いて、基本的には少子化がはらむ人材の希少性の問題は、日本の雇 用慣行の修正には非常にいい方向に働くだろうと思います。いまは優秀な人材に関する ものでありますが、それだけではなくて、そうではない人材‥‥という言い方は語弊が あるかもしれませんけれども、一般には我々のような豊かな社会では、すでに専業主婦 を男の腕一本で養うといったような形態では、比較的貧しい‥‥といっても相対的な貧 しさですが、そういう生活しか送れないという意識が広がっております。つまり専業主 婦になれるのは贅沢な階層の人たちだけだろうということになります。それなりに個人 的に豊かな生活環境を維持しようと思えば、働くしかありません。このようなことも実 は専業主婦の人数の減少を必ずやもたらすと予想させます。実際に、いまのハイティー ンの子たちが主婦になる10年後には、専業主婦になることは極めて贅沢なことだという ふうに意識されるようになると多くの社会学者は予想しています。  このような状況の中で、これから確実に専業主婦が急速に減っていくことになります そのときに何が必要なのかというと、簡単にいえば有職女性を結婚や出産に動機づけす る必要であります。皆さんよくご存じのように、少子化現象は1950年代においては、要 するに多産少子が少産少子に移行する、つまり少ししか生まなくなるということによっ てもたらされましたが、主に1970年代後半以降の少子化は、それとはまったく違い、晩 婚化によってもたらされていることが人口統計学ないし人口経済学の分析で明らかにさ れております。  結婚をすると多くの人は、つまりパートナーは子どもを求めますから、結婚する、あ るいは結婚・出産することによる機会費用が大きすぎるということで、要するに結婚も 出産もしない選択をする。これは現状は、まったく個人的には妥当な選択だと思います こういう子たちに生めよ増やせよというのは、バカげたもの言いであります。生むか生 まないか、結婚するかしないかはまったく個人的な自由であります。生んでいただきた いのであれば、結婚し出産することによる機会費用を減らすしかありません。一つは労 働条件改善の圧力としてそれが働き、出産休暇、育児休暇、労働時間、勤務地等におい て女性に対しても男性に対しても同様に選択の幅が広がっていくことが、どうしても必 要であります。日本の場合、男の育児休暇取得率というのは0.1何パーセントであります けれども、スウェーデン等北欧諸国では20〜30%に達しております。地域によっては80 %に達しておりますけれども、驚くべき民度の低さであると言わざるをえません。  もちろん、そのような有職者女性を結婚・出産に動機づけるためには、結婚して出産 していただくためには、男の側も家に来ていただく以上、家事はこれだけ私がやります と言わざるをえない状況に必ずなります。現になっております。昔の亭主関白みたいな 男は相手にされないというふうな状態にすでになっておりますが、これから急速になっ ていくでありましょう。  さらにそのような少子化の圧力に対応するような行政的なシステム、保育支援のシス テムや介護のシステム、両方とも専業主婦をあてにしない。従来のような民生委員とか 青少年委員とか、さまざまな、つまり専業主婦に対する補完的役割をするというよりも むしろ先ほど言ったような児童館や、あるいは現在の介護に関する法的なメカニズムが 専業主婦をあてにするシステムになっているものを全面的に変えていかない限りは、有 職者に結婚や子育てをしていただくことは、社会学的に考える限り不可能であります。  ということは、そのような施策がおそらくとられるであろうということを意味いたし まして、そうすると私の楽天的な予想といたしましては、20年ぐらいいたしますと、僕 がいままで研究してきた郊外化の弊害は多く緩和されるだろうと信じております。  以上です。 宮澤会長  どうもありがとうございました。それではどうぞ、ご質問、ご意見をお願いいたしま す。 網野専門委員  非常に明解にいろいろご説明いただいて、いろいろな刺激を受けたんですけれども。 いわゆる、特に社会学の方々は非常に家族論といいますか、家族とはということで、い ろいろな考え方を出されていますが、いまのお話の続きといいますか、その中で、いわ ゆるいまこれからの家族というものをどう位置づけるのか。定義ということよりも位置 づけということで、この関連でお話ししていただければありがたいんですけれども。 宮台助教授  家族の空洞化が日本よりも速く進んだアメリカでは、ステップファーザーステップマ ザー、あるいはその他血のつながっていない人間たちをブラザーとかファミリーと呼ぶ ような現象が一部出てきていることは皆さんご存じのとおりであります。  日本に関して言いますと、社会学的な常識でありながらなかなか知られていないこと がありますが、日本は実は血縁社会ではありません。その一つのわかりやすい例は、例 えば日本は企業一家というかたちで、お店や企業を家族になぞらえるということがあり ますが、これは血縁社会ではありえないことです。血縁ではないものが血縁と同じよう な機能を果たすことはありえません。これは日本が血縁社会ではないことを示す、とて も重要な社会学的なデータであります。  それでいうならば、日本はもともともちろん養子縁組その他さまざまな、例えばお店 が家族のようになったりするような伝統があるわけですから、その伝統の延長線上で、 実は血はつながっていないけれども家族として機能する、つまり我々が従来考えてきて いるような一種のホームベースですね。情緒的な意味で継続的な関係を取り持つことが できるという意味での継続的なホームベースを血縁に必ずしもこだわらないで持てるか 可能性というのは僕は非常にあると思っています。  血縁と血縁でないものの境界が非常に曖昧なので、例えば近所のおばさんとか児童館 のお兄ちゃんとか、いろいろな人が入り込んでいく中で、非常に境界の曖昧なある種の ホームベースが維持されるというかたちが、多分これからの日本の家族のあり方かなと 思います。でもこれは、もともといままでの日本でもそうなんですね。お父さん、お母 さんがいておばあちゃんがいて、おじいちゃんがいて、近所のじいちゃん、ばあちゃん あんちゃん姉ちゃんがいてという、比較的緩い血縁、地縁、取り混ぜたネットワークの 中である種のホームベースを維持するというかたちになるだろうと、僕は思っておりま す。 宮澤会長  どうぞお願いいたします。 宮武委員  数年前に、アメリカのキャリアウーマンたちは家庭復帰してきているという現象が何 カ所かの雑誌なり専門書に出ておりました。それともう一つは、伝統的なアメリカの家 族の姿を取り戻そうという保守主義的な動きがかなり強く出ていると聞いておりました それについて、何かご存じのことがあれば教えていただきたいということが1つです。  もう一つは、この全体を合わせて宮台さんには、やはり日本人というのは日本の国民 だけで、一民族だけでほぼやっていくという、そういうイメージなのか。それとも先行 きは、かなり大量の他の民族が入ってくる社会みたいなものを想定はまったくしておら れないのかということをお聞きしたいんですが。 宮台助教授  これは青少年研究所のデータでありますけれども、親の面倒を一生みたいと思うかと いうデータを取りますと、中国は8割台、アメリカは6割台、日本は4割台なんですね これも日本が血縁社会ではないことを表す1つの重要なデータなんですけれども、むし ろ重要なのは、なぜアメリカのほうが日本よりもはるかに親の面倒をみたがっているの かということであります。  これはいろいろな解釈が可能であろうと思いますけれども、1つにはアメリカのピ ューリタニズムの伝統と、あとはアメリカの開拓の中で培われていたある種の‥‥どう 言ったらいいでしょうね。公共財、これは例えば税金とか、地域環境とか、いろいろな ものを含めたものに対する意識というものが僕はあると考えています。一般には個人主 義的相互扶助主義といいますけれども、簡単にいえば人は一人だと。孤独である。だか ら支え合わないと幸せにはらない。孤独だから支え合う、あるいは一人だと生きていけ ないから支え合うという感じは、むしろうまくかみ合うかたちでアメリカの場合には存 在していると考えられていて、社会学の中ではそういう研究がずいぶんあります。つま り、個人主義と相互扶助主義が両立するような社会の中で、例えば80年代のアメリカに はフランシスフクヤマをはじめとして両方の伝統があったのに、なぜ相互扶助主義が消 えているのだ。これはおかしいではないかという議論が出てきています。実際は、これ は知識人の意見というよりも、むしろアメリカの当時80年代の後半ぐらいから起こって きた動向ですね。相互扶助のシステムが個人化や流動性の高まりの中で、なかなか見つ からなくなってくることの中で、ファミリーとか、あるいはエスニシティとか、いろい ろなものがまた新しい座として見つけられていくということがあるんだと思います。こ れはいわゆる日本の保守主義者が論壇で言っているようなイメージとだいぶ違う背景が あるんだろうと僕自身は、いま申し上げたような背景ですが、考えております。  あと2番目の質問ですけれども、僕自身は、父親が大和市で定年退職後、特に中南米 系の移民や難民の方々を相手にする活動をしていて、住民の説得活動をずっとしてきま した。説得活動というのは、難民に関わる施設をつくったり、お役所でそういうものを 支援するシステムをつくったりするときに「こいつらよそ者じゃないか。関係ないだろ う」というふうな言い方に対する説得を行ってきて、それなりに成功しているのだろう なという気がいたします。実際問題として、これから‥‥これからというよりも、もう すでにそうなっておりますが、サービス産業重視型の社会になってきますと、当然のこ とながら、もうすでにそうなっているように、一部のサービス産業については日本人以 外の方々が入ってこない限り、実際には労働力の需要が満たしにくい状況があります。 これはもちろん、一部の方が主張しているように鎖国という政策もありうるわけですけ れども、実際現実的には不可能だと思っています。このときには、そういう方々がいま のところ地域社会にとけ込むということがほとんど不可能な状況にあるし、ほとんど多 くのところで成功していないんですが、ここについては実はこれから改善されるべき、 あるいはいろいろな方々が運動していかれるべき余地があるだろうと思いますね。  これは日本の伝統と関わる問題で、伝統と結びついているので難しいところがややあ るかもしれません。そういえば、アメリカのような国々であるならば、例えばまちに集 まった連中。まちをつくりましたよね、開拓をして。そして保安官を立てないと強盗や 愚連隊や、ネイティブアメリカにやられかねないで、みんなで金を出し合って保安官を 雇ってというふうに、そもそも公共財ですね。フリーダムというのを守るために、公共 財に多額の金を、自分たちでコストをかけていかないとダメだという伝統的な意識があ ると思うんですけれども。アメリカが一つ典型ですけれどもね。日本はまったく逆であ りまして、税金はお上に絞り取られるものでありまして、公共財という意識がまったく なく、自分のいる地域は公共財を払って人為的に維持しているというよりも、たまたま そこに存在する空気のような自明性だと意識されがちです。したがって、もちろん異質 さも発見されるものですが、その異質さをすぐ発見するし排除しようとする傾向があり ます。これはニュータウンにも存在しますので。これは僕は偏に教育の問題だと、いま のところ考えています。もちろん大人を説得することも重要だと思いますが。 木村専門委員  木村と申します。大変面白いお話、ありがとうございました。いままでの質問に加え まして2点ほど質問させてください。  先生がおっしゃった学校幻想崩壊でどうするかというので、1つの方法が専業主婦に よる抱え込みの解消というのがあったと思います。お話の中で、専業主婦が子どもに手 をかけすぎる。例えば例として子どもの代わりに意思決定をしてしまう、例えば受験と か、そういうことをおっしゃっておりましたが、そこで2つの質問をしたいと思います  専業主婦というライフスタイルを選んだことで、なぜそういうふうに子どもに手をか けすぎてしまうのかということが1つです。あと1つは、共稼ぎ世帯と比べて専業主婦 世帯が子どもの代わりに意思決定をしてしまうんだという事象的な分析というのはある んでしょうかという2つなんですけれど。 宮台助教授  これはこのように考えられます。日本の場合、二世代少子家族化、核家族化を遂げた ときに、やや欧米と違った宗教社会学的なベースがあります。向こうの場合には夫婦中 心主義の長い伝統があります。それは契約結婚、契約というのは神の前での神に対する 契約という意味ですけれども、そういう婚姻観があるからであります。したがって、簡 単に言えば夫婦の間のコミュニケーションが極めて重視されるという伝統がありますが 日本の場合、夫婦中心主義という宗教社会学的な伝統が一切存在しません。その代わり 日本に存在するのは、子どもは村の宝だという、これは夫婦とは関係ありませんが、村 社会の中で子どもを大切にするという伝統があります。このような伝統があるために、 実際に日本で核家族化が進行したときに、夫婦中心主義は子ども中心主義に置き換わっ てしまったということがあります。これは僕がよく言う言い方をすれば、夫婦間の関係 の中だけで充足感や達成感、ある種の濃密さを獲得することができないがゆえに、夫婦 間の関係の薄さを子どもとの関係の濃密さによって埋め合わせるという方向があります もちろんこれには郊外化、専業主婦化のプロセスで、女性が正当化された労働力の外側 に押し出されてしまったということもあります。つまり達成ということを実感すること がとても難しい中で、実は子育てが女性に対して許された唯一に近いぐらいの達成のた めの資源になってしまったということがあるかと思います。これは極めてある時代的な 条件に裏打ちされたものであるからして、ある程度後者のほうの条件については緩和し ていけるだろうと思います。子ども中心主義は日本の伝統ですから、これはなかなか難 しいところがあるとは思います。  専業主婦がそうではない人に比べて、子どもに代わって何もかも選んでしまうという 実証データは私は持っていません。おそらくそのようなデータを取るのは大変難しいと 思われます。ただ、この点については私はこういうふうに思っています。私の専業主婦 廃止論は、主に専業主婦の方々にしゃべるために言っているわけであります。実はこの 少子化社会の中で改革を担いうるエージェントは、とても逆説的なんですが、私は専業 主婦だと思っています。例えば、私がいろいろな場所で講演をいたしましても、例えば 40代、50代の男女の方々が同数いらっしゃるとすると、男の方の多くは腕組みをして目 をつぶってらっしゃるというケースをお見受けいたしますが、女性の方は目をランラン とさせて聞いていらっしゃって、「そうだ」という人も「そうじゃないと思う」という 人の場合も、極めて自分自身の存在形態に対しては、実は懐疑的であります。「私はこ のままズーッとやっていっていいんだ」とは思っていらっしゃらない方が多いです。つ まり、ある意味ではマージナルな存在だということなんですが、社会学でもこれは議論 がなされてきたようにマージナルパーソンというのは、多くの場合懐疑しうる存在であ るがゆえに、変動期には最も真っ先に改革の担い手になりうるということで、生活クラ ブ生協系の雑誌などでは、私は度々登場させていただいて、主に専業主婦だけを重点爆 撃させていただくようなコミュニケーションをしているところであります。  官僚と専業主婦はよく似ているんですね。官僚依存型のシステムを脱するために、実 は官僚に旗を振ってもらわないと日本は動かないところがあるというのとよく似ていて 専業主婦依存型のシステムを脱するためには、専業主婦の方々に旗を振っていただかな いと、どうも動かないところがあるというのは、よく似ていると思います。 宮澤会長  ありがとうございました。他にございましょうか。どうぞお願いいたします。 阿藤委員  1つは、全体のタイトルは郊外化となっているんですが、今日伺った話は割と全体社 会の中での家族、学校という、むしろ普遍的なお話のような感じがしたんですが、なお かつまた郊外化ということをキーワードみたいにおっしゃっているんですが、そこの関 係がもう一つよくわからない。いまお話になった問題というのは、別に郊外に限らず日 本全体に当てはまるような問題の感じもするんですが、そこが1つですね。  それから、成熟社会、豊かな社会というのはガルブレイスの言葉なんでしょうけども これは先進国に共通することですね。今日のお話は、割と日本特有の現象をいろいろふ まえてお話になっているんですが、少子化問題はご承知のように、先進国でかなり共通 に起こっている現象であります。今日お話になったような家族幻想の空洞化とか、学校 化とか、そういうものは、これまた日本たげでなくてもう少し普遍的に当てはまるとお 考えなんでしょうか。そのへんを伺いたいと思います。 宮台助教授  今日のお話しした範囲でいうならば、例えば学校化という現象であるとかあるいは専 業主婦化といったような現象は、一般に郊外化という言葉で括れるような問題であると いうように僕自身は考えています。 ただ、郊外化という場合に、何を郊外化というこ とはもちろん議論の余地があるわけですけれども、僕自身はむしろ従来の例えばシカコ ウカクカの都市社会学などとちょっと違って、コミュニケーション環境の変化のことを 重視しています。  例えば、先ほどちょっとだけ触れましたけれども、日本の場合、地域的世間が非常に 重要な役割を果たしてきたわけですけれども、実はこれは団地だけではない、ニュータ ウンだけではありませんけれども、徐々に地域的世間の重要性もさることながら、ある いはそれが失われていく中で、例えばマスコミ的世間、あるいはテレビを通じて提供さ れる情報環境というものが非常に大きな力を持つようになってまいります。したがって 実は郊外化という、そういう現象に着目して論じるとするならば、日本全国‥‥もちろ んまだら模様はあります。地方に行けば、地方にドサ回りに行くことが多いんですけれ ども、要するに「東京ではそうかもしれんが、うちはまだまだ」みたいな話です。薬の 話をしようが何の話をしようがですね。そうだと思います。したがって、地域間にまだ らはあると思いますけれども、基本的には例えば専業主婦、あるいは家族のため、子ど ものために生きる存在が自明になっていくプロセスは、日本全国どこでも生じていると 思います。それは第一次産業から第二次産業への離脱が、やはりまだら模様があれ進ん でいるからであると思います。  その意味でいうと、実は郊外化というのは、いま言ったようなコミュニケーション環 境の変化であって、それは先ほど申し上げましたようにベースには第二次産業化、ない しそれに伴う経済的な豊かさの上昇ということがありますので、その意味でいえばご質 問なさってくださいましたように全国的な問題、つまり普遍的な問題でありえます。つ まり普遍的な問題なんですが、何がポイントになるのかというときに、議論を焦点化す るためには「郊外化」といキーワードは有効ではないかなと考えているところでござい ます。  あと、成熟社会化というのは先進各国に関していえば、国際的な、それこそ普遍的な 現象であろうかと思います。一般的にいえば未来が閉ざされ、資源も環境も有限性を刻 印されていく中で、例えば共生、シンバイオシスとか、つまり共に生きることであると か、あるいは環境変化の内側で環境をシェアすることとか、資源をシェアすることとか そうしたことがどんどん重要になっていくという共通性があり、一方では未来のためと か社会のためといったような、いまここを、あるいは自分のいまを犠牲にするような、 つまり意味追求的な生き方がどんどん難しくなり、いまここを充実せずして何が可能か という方向に社会運動論やさまざまな、例えば左翼の議論も含めて移動していることは あるわけですね。  つまり、成熟社会化というのは、多くの国々に同じ課題を突きつけています。例えば 従来の戦争のために頑張るとか、抽象的な理念のために頑張るといったような、従来特 に男の人に担われていた役割の多くは、用済みとまでは言いませんけれども、昔ほど ニーズが存在しないというふうになってきています。コントロール、支配、制御よりも むしろコミュニケーションが重要になっていくという環境変化。これも先進国どこでも すべて生じていることであります。  しかし、その中で日本を見てみた場合に、やはり日本に固有の困難があると思います それはやはり最も根元的には宗教社会学的な伝統ということになりますけれども、簡単 に言えば宗教的な伝統のある社会では、共同体の外側に人々が出たときに、神がいるの で大丈夫なんですね。つまりキリスト教は典型的ですが、共同体からの自由を志向する 宗教でありまして。したがって故郷を捨てよ、兄弟を捨てよというふうにメッセージを 発するわけであります。日本の場合、そのような神がいない代わりに、共同体を座とし 続けてきた、そのような人間たちが多く住んでいるところであります。  そうすると、その共同体の座が最初地域だった。それが企業と家庭に移し替えられて そのあと企業や家庭が空洞化ないし流動化していくというふうになったときに、いった いそういうふうな共同性の座をどこにつくることができるのか。あるいは場合によって は共同性という座が存在しないと何もできないようなコミュニケーション環境のあり方 そのものを変える必要があるのかといったような。つまり、こういうことは極めて日本 的な課題であろうかと私自身は意識しております。 宮澤会長  ありがとうございました。他にございましょうか。はい、どうぞ。 水越委員  大変興味のあるお話でありがとうございました。お話の中に職場内、家庭内の性別役 割分業廃止圧力ということがございましたけれども。性別役割分業をなくしていこうと いうことは、さまざまな場で語られていることですが、現実にはなかなか進みません。 例えば最近の若い夫婦で、夕方早く帰る人が夕食の支度をしようよなどというふうに取 り決めをしても、男性の場合には仕事が早く終わったにも関わらず会社で新聞読んで、 遅く帰るとかそれに類するようなことを大変多くの女性たちから聞くんですね。若者に 対して、何が役割分業廃止の圧力になっていくのか若い男女の心理にも詳しい先生に、 もう少し具体的にお考えをうかがえたらと思います。 宮台助教授  私自身はその点はこう考えていますね。現状、専業主婦割合がまだそうとう高い状況 であります。急速に減ってはいますけれども。そうすると、いまでこそ多くの方々がい い学校、いい会社、いい人生というふうに、つまり子どもに学校が圧力をかけていると いうことになっていますけど、これをまず取り換えていただくということが重要かと思 います。  私がよく言うのは、あるいは自分の子どもにも同じようなことを言っていますけれど も、例えば男の子を育てる場合には、「君が将来会社に入るころには、いまとは全然違 っている」と。例えば女に嫌われるような偏見を持っていたら、まずおまえは幸せにな ることができない。あるいは、語弊があるかもしれませんけれども、コミュニケーショ ンから阻害されるような生き方をしていると、多分おまえは幸せになることができない だろうという言い方をすることが重要だと思っています。  実は先ほどの東大生の例を待つまでもなく、いま年少の世代、あるいは20代の女性の 方々が「なんでいまの男はこう」と。男日照り状態というか、「とんでもないヤツばっ かりなんだ」と。しかしそれは、いいですか、いまの20代、30代の多くは専業主婦によ って育てられてきているという、そういう世代を超えた不利益の伝播というか、そうい ったものが生じていると思うんですね。したがって、自分のパートナーは、マザコンと いうような言葉がありますけれども、語弊がある言い方ですがあえてさせていただきま すけれども、専業主婦のママがこの変な男をつくったと。とするならば、自分が子育て をするときには、あるいは現にしている子育てにおいては、そのようなまずい部分とい うか、悪弊を二度と踏まないというやり方が重要であろうかと思います。  僕自身は、例えばヨーロッパなどで見てもそう思うんですが、例えばセクハラ対策と いうことで日本では考えられておりますけれども、つまり男女の平等に関する教育とい うことがかなり徹底していて、小学校時代からマニュアルが配られているんですね。だ から男の子が例えばパソコンを占有していて、女の子がやろうと思ったら「おまえ女だ ろう」という言い方をすることはいけないよということを小学校1〜2年生から教えた りしていますね。なぜいけないのかということもちゃんと教えるということをやってい ますが、日本ではそのような教育はいまのところまだないと思います。  地方に行くと、これは本当に驚くべきことですが、いまだに講堂などで講演すると、 私が講演しに行っても前に男の子が座って後ろに女の子が座っているという、驚くべき 状態がまだ存在しています。地方の場合には、したがって専業主婦の意向だけでどうに かなるという域を越えているので、こういうのは政策的に上からそういう格好のでたら めは全部解除させていただくしかないんですけれども、郊外や、あるいは都心部に関し ては子育てにおいて専業主婦の果たす役割がまだ大きいとするならば、そこを組み替え ていただくと、もう少しまともな男性が育つ環境になるのではないかと思っております 宮澤会長  どうぞ、河野さん。 河野専門委員  時間がありませんからあれですけど。大変興味深い、むしろ宮台節というか、非常に 全体的に、例えば田舎はいじめは娯楽であるとか、非常に面白い言葉が出てまいります お聞きしたいのは、1つはむしろデフィニションというか、定義というか、第四空間化 とかというのは、よくわからないことなので。そうすると第一空間化というのは何か、 第二空間化は何か、第三空間化は何かという、そういうあれがありますけど。それはあ れとして。お聞きしますと、結局いまの一つのあれは、いまの少子化というものを逆手 にとって郊外化をよくするというか、むしろもっと広く日本の行動システムというか、 そういうものをよくしようということなんですが。ただ、例えば学校の場合もこういう のはよくなるのではないかと。例えば対先生の比率がよくなるとか、そういうことが言 われるんですが、もし例えば少子化がだんだんいきますと、教育というものが衰退産業 になりまして、そうすると国も地方団体もカットするのではないかと。逆になるのでは ないかと。よく少子化になると、ラッシュアワーなんかも解消されるという話がありま すけど、逆に会社のほうではダイヤを間引き運転をしてやるから同じだと。かえって前 より悪くなるのではないかという、そういうことがあるので、そんへんのメカニズムが うまく働くのかなという感じがします。  それともう一つは、しかし一方で出されたいろいろな対策は、これは比較的驚くべき ことに非常に常識的なあれで、宮台先生にとってはアンキャラクタリスティックという か。そぐわないような感じがするので、ちょっとがっかりしたという感じがするんです が。ですけど、お聞きしたいのは郊外化の弊害をなくすと、ではこれが出生率につなが るのかという、そのへんのことがどうなるかということでございます。他にもあります けど、時間がありませんので、それだけ。 宮澤会長  簡潔にお願いします。 宮台助教授  不況と少子化ということが理由で、実は放課後例えば学童保育のようなものの予算が むしろカットされる傾向にずっとあったんですね。90年代に入って。しかし最近、子ど もをめぐるいろいろな事件が頻発する中で、ちょっとリバウンドというか反対向きの方 向に動くようになってきて、これはとてもラッキーなことだと思っています。つまり、 実際にはいま先生がおっしゃってくださったような、少子化なんだから間引いてしまえ とか、削り込んでしまえという方向と、そうではないだろうという方向が、つまりいま は拮抗していると思うんですね。学校に関しても学校の統廃合がどんどん、どんどん進 んでいく。そのこと自体、例えば学校に選択肢を残そうとすると、ある程度の人員、ス タッフのまとまりが必要だという正当化もあるんですけれども、同時に人員、スタッフ も削り込んでいってしまえという動きも一部では存在いたしますので。これは、つまり 先生のおっしゃったような少子化を有利な方向に反転するためには、そういうふうにし てはならないという運動ないし政策的な働きかけをいろいろなかたちでやっていく必要 があると思っていて、そのように僕自身はやっていこうと思っているところであります  つまりこれは、少子化になればいいことがあるぞと言っているのではなくて、少子化 対策ということで、もしこういう対策がとられるならば、その少子化対策ということを 通じて問題の解決に進める領域がたくさんあるだろうという、ある種の仮言的命法みた いな、仮定法みたいなことであります。  あともう一つ、無個性的な処方箋かもしれませんが、実は私自身が思うのは、ここに 書いてあるような処方箋でさえ、実は現場でいろいろな方々と話すと本当に多くの抵抗 があります。つまり専業主婦がちゃんと子どもを育てられるようにすると考えていたの に、専業主婦という存在形態そのものを総体化されるということにすごくショックを受 ける方々が、本当に地域にはたくさんいらっしゃいます。問題は、このようなさまざま な対策がどのような背景で必要なのか。例えばその方々が自明だと思っている事柄の多 くが、いかに自明、つまり当たり前のことではないのかという。歴史も含めて根気強く 説得していかないことには、どうしようもないだろうと思っているところです。つまり 強く旗を振らないと難しいんですね。  一般に学校も地域もそうなんですが、何か問題があったときに既存の制度を温存した まま人に、つまり人材に負担をかけて頑張ってもらって何とかしようという動きがある んですね。例えば既存の制度はそのままにして「いじめは優しさや思いやりの教育が足 りないから、もっとやればいいんだ」という議論があります。これは僕自身はダメだと 思っています。むしろそうではなくて、既存の制度に問題があるのだから、それを変え れば多くの問題は解消するということがわかっていますね。一般にいじめ対策をとると きに、既存の制度をそのままにして優秀な人材をかき集めて、ものすごい熱心な取り組 みをしていじめを減らすところと、あと、実はスタッフを見るとみんな普通の方々、場 合によってはボンクラさんがいっぱいいるんですけれども、それでもうまく回る、スト レスを吸収するようなシステムをつくってうまくやっていらっしゃるような対策のとり 方と2つあります。人に負担をかけるか、つまり「頑張れ」というか、システムに負担 をかけるか。これは、わかりやすい二者択一であります。選択においてはそれをどっち か、それをバランスにおいて配合していくことになりますが、既存のシステムのもとで 例えば専業主婦にあまりにも頑張ってもらうと、既存のシステムが持っている問題は穴 埋めされてしまいます。  そのへんの構造も含めて、実はよかれと思ってなしたことが、よき結果をもたらさな い可能性、三浦先生もおっしゃっていたことがあるということを繰り返し、繰り返し言 っていく必要があると思います。  あと出生率につきましては、要するに先進各国、つまりG7に関していうと、いろいろ な統計データがあるんですけれども、生活満足度指数のようなものと出生率の高さとは 正の相関があるんですね。豊かな成熟社会にだけ限られたデータですけれども。基本的 には自分自身パートナーがいるからよくわかるんですけれども、子どもを育てることに よって失うものが、もっともっと圧倒的に減らなければ、当然機会費用の問題が生じる ので子どもを生もうと思わないですね。子どもを生むことによって失うものを減らすこ とによって、僕は確実に出生率は増大すると思います。それはいろいろな統計によって 裏付けられていることだろうなと思っております。 宮澤会長  どうもありがとうございました。まだ話は尽きないと思いますけれど、だいぶ時間も 超過いたしました。私ども審議会でも、いろいろ参考にさせていただく点がたくさんご ざいました。問題は、基本的なファクターが独立でなくて密接にワンセット的に絡んで いるという点です。その1つは専業主婦、それから会社人間、それから学歴偏重教育シ ステム。この三者がワンセット的に重なり合っている。そのため、なかなか方向性を一 義的に出すのが難しい。その要因のどこをどうシステムと結びつけて考えるかというこ とだろうと思います。大変貴重なご意見をいただき、どうもありがとうございました。  本日はこれで終わらせていただきます。次回につきましては事務局と相談のうえ、追 ってご連絡いたします。長時間、どうもありがとうございました。 問い合わせ先    厚生省大臣官房政策課    担当 山内(内2250)齋藤(内2931)    電話 (代)03−3503−1711        (直)03−3595−2159