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第64回人口問題審議会総会議事録

平成9年3月14日(金)

14時00分〜16時00分

共用第9会議室

宮澤会長
本日はご多用のところをご出席いただきまして、ありがとうございます。ただいまから第64回の人口問題審議会総会を開催したいと思います。
最初に出席状況をご報告申し上げますが、阿藤委員、岡沢委員、袖井委員、坪井委員、南委員、宮武委員、八代委員、金子専門委員、清家専門委員、高山専門委員、伏見専門委員におかれましては、本日は都合によりご欠席でございます。その他の委員はご出席です。なお、若干遅れてこられる委員もおられるようでございます。
それでは、これから本日の議題に入らせていただきます。前回の総会から少子化問題に対する議論を本格的に始めようということで、第1回の審議ということで、歴史人口学と臨床心理学を研究されておられる専門家の方からお話をお伺いいたしました。今回は、その第2回目ということでございますが、本日もお二人をお招きしてお話を伺うことになっております。
それでは、まず専修大学の正村公宏教授から『少子化と経済の展望』についてご説明をお願いいたします。正村教授は東京大学経済学部をご卒業された後、社団法人化学経済研究所を経まして、専修大学経済学部教授として皆様ご存知のとおり幅広くご活躍されておられます。
それでは正村先生、よろしくお願いいたします。

正村教授

正村でございます。座ったままで失礼いたします。
どうも経済学者の立場というのは、少子化問題についてあまり材料を持っていないような気がいたします。それにも関わらずうっかり引き受けてしまいましたので、のこのこ出てまいりました。大先生がたくさんいらっしゃる前で大変恥ずかしいんですが、いくつかの感想を述べさせていただきます。
なぜ経済学者が不適当かという印象から申し上げますと、弁明みたいになりますけども、過去においては増加する人口をいかに養うかということが主要な問題であったわけでありまして、人口の減少という新しい事態にどう対処するかという議論はあまり、現実がそうでなかっただけにしたことがなかった。
それから第2に、経済学の教科書を見ますと、家族とか家庭とかいったものはまず登場しないのであります。家計という言葉で扱われております。家計というのは、消費の単位であるというふうに扱うのであって、実は家族、あるいは家族によって構成される家庭が人間の再生産の役割を担っているということは、ほとんどまったく触れられていないと思います。経済学の通常の教科書ではですね。
再生産というのは経済学者ふうの用語ですが、人間の再生産がうまくいかなかったら、30年、50年のタームで考えましたら、経済が非常に大きく変わってこざるを得ないわけでありますから、いかに経済学者が短期の問題にとらわれているかということをはしなくも現代の経済学の教科書は示していると、私はかねてから考えてまいりました。
あるいは、子どもを消費財と考えるか、あるいは投資財と考えるか、いろいろな立場があり得ますが、効用とか、あるいは利益を最大化するという観点で子どもを生んで育てるかどうかという個人の選択を論ずることは可能でありますし、そういう議論はございますけれども、これはあくまでもミクロの分析でありまして、マクロの問題を考えるときには、私の意見ではそれほど役に立つとは思わないのであります。
先ほど申し上げましたように、子どもを生んで育てるという家族、あるいは家庭の機能というものは、経済、社会のあり方を長期にわたって展望するときには、極めて重要な意味を持っているわけで。私たち、経済学をやっている人間も改めてこの問題に真剣に取り組む責任があるというふうに、いま私は考えております。
結論を先に言ってしまえば、いまのような急激な少子化の傾向は、いろいろな要因が複合的に作用しているわけでありまして、むしろ今日はからずも同席させていただきました原さんのような、もっと広い視野で社会の問題を考えていらっしゃる方のほうが適当かと思いますが。ただ、有効な対策があるかどうかということになりますと、かなり問題がある。よくわからないところがあるように思います。しかし、結論的に言って、これでいいのだと、好ましい状態であるというふうには私は考えておりません。
資源とか環境の制約を考えれば、もちろん人口の増加ということは政策選択の中に入らないと思いますけれども、むしろ超長期の展望の中では人口の減少の必要を認めたほうがいいのかもしれませんけれども、しかし人口が急速に減少していく、したがって人口の構造が急激に変わるということは好ましいことではありません。
生産年齢人口の減少とか労働力人口の減少とかいう角度から経済学者はこの問題を捉えるわけですけれども、私は数の問題だけではなくて、社会の問題解決能力がどうなるかと。いろいろな直面したときに、問題解決能力が低下していくかどうかということのほうが重要であろうと思います。あとで申し上げますように、人間の量の問題だけではなくて、質の問題。先進社会における人間の量的な再生産だけではなくて、質的な再生産の能力を改めて問題にしないといけないのではないかと思います。
明らかにポピュレーションが再生産できなくなっている。再生産ができなくなっているということは、私の立場とはちょっと場違いな言い方になりますが、生物学的な種のあり方としては、その種が衰退の過程に入ったことの兆候と見ないわけにはいかないと思います。地球規模で考えれば、人口の増加が依然として憂慮すべき現象であるわけですけれども、先進社会に視野を限定しますと、共通に人口の急速な減少が問題になっている。憂慮すべき現象になっているというふうに思います。
ちょっと脇に逸れるかもしれませんが、私はこれまで、現代の文明はそうとうの時間がかかるにしても、いずれは世界を覆うことになるのではないかと。人権とか、自由とか、民主主義とか、私たちがようやく確立しました原理は、いずれは地球規模の原理として確立していくようになるのではないかと。なるのかもしれないという程度でありますが、そういう希望を持っておりまして、私は人類の歴史は必然的に進歩するという、そういう一種の必然性史観のようなものは成り立たないと思っておりますので、必ずそうなるということは絶対に言えないと思っていますが。しかし、文明が世界を覆っていく可能性はあるのかもしれないと思っていたんですが、近年はそうでないかもしれないと考えるようになっております。
現在の先進国の文明は、すでにピークを過ぎて、成熟に伴うさまざまな、例えば文化的な新しい生産物を残すという能力はあるかもしれませんが、社会としては衰退と崩壊に向かっていくのではないか。アジアがいま勃興しておりますけれども、アジアが我々の基準に照らして先進社会と呼べる状態になるかどうかも、まだ極めて不確実だと思っております。少なくとも、かなり長い時間がかかると思います。南アメリカやアフリカがどうなるかというのは、まったく私にはよくわかりませんが。
そういうふうに世界の文明の中心が移っていくということはあるかもしれないけれども、現在の先進社会がその間ずっと活力を維持し続けるという保証は何もない。そういう非常に人類史的な大変大雑把な証明のないことを申し上げているわけでありますが、そういう一種のペシミズムを最近は持つようになっております。
オプティミズムというのは、困難な問題をあまり困難だと考えないで可能性だけ追求するという限りにおいては、プラスに建設的な効果を持ちますけれども、しかし問題の重大性を見失うときには破壊的な結果になります。逆にペシミズムは、何をやっても無駄だという、そういう悲観的な消極的な対応を生み出すとしたら破壊的でありますけれども、問題は極めて深刻であり、かつ深いんだということを考えて、最悪の状況になるかもしれないということを覚悟しながらベストは尽くすという、そういう人間的な取り組みを誘うということが可能であれば、ペシミズムのほうが私は建設的であると思っております。
余計な妙に哲学めいたことを申し上げてしまいましたが、日本のこれからを具体的に考えてみますと、これは日本だけではないのでありまして、他の先進社会も同じでありますが、地球規模の構造変動を考えますと、先進社会は自分の国内の問題解決能力を低下させていく、あるいは人間の再生産が弱まっていく。量的にも質的にも再生産能力が弱まっていくという状態になったときに、それはできれば安定、ひょっとすると衰退ということになりますが、そういう状態になったときに、実はまわりがそっとしておいてはくれないわけでありまして、外側から、特に後発工業国の追い上げによって構造変動を強制される。こういうメカニズムといいましょうか、仕組みが歴史的には働いているわけでありまして。
いままで日本は先発の工業諸国を追い上げる立場にあったわけであります。非常に高い経済成長を実現したということは、非常に激しい構造変動を経験したということではあるんですけれども、自分自身が成長していく過程での構造変動でありますから、いろいろ問題は発生いたしました。石炭産業1つとってみても大変深刻な社会問題は発生したんですけれども、それでもまだ成長の過程での構造変動でありますから、自分で解決していく余地があったということがいえるかもしれません。
これからは、人口が停滞ないしは縮小するという過程にあり、産業は成熟し人々の価値観も大きく変わり、活力が失われていく‥‥ちょっと曖昧な表現をあえて使いますが、活力が失われていくと予想せざるを得ない、そういう状況の中で、産業構造はそうとう激しい構造変動を外側から強制される。そういう状況になると思います。
そういうことが非常に深刻なんであって、最初に申し上げましたように、ひょっとすると何をやってもダメかもしれないというふうに私はいま思っているわけでありますが、そういう厳しい状況の中で、しかも経済過程、産業発展の過程を地球規模でコントロールするマクロ的な政策主体は形成されていないわけであります。つまり、世界政府は存在しないわけですし、依然としてインターナショナルな問題として、国際関係の中で問題を処理していかなければならない。
そうなりますと、それぞれの国家が問題の深さを認識して、グローバライゼーションは避けがたいんですけれども、グローバライゼーションに伴う混乱を大きくしすぎないようにするための社会的な装置をつくっていく必要があるだろう。例えば、規制緩和が言われていますけれども、規制緩和はけっこうなんですが、社会的なルールをきちんと強化をし、そのルールに基づく社会的な監視・監査の体制をつくらないで規制緩和一本槍の市場万能型の対応をしていたら、混乱は極めて大きくなると思うんですね。国家の役割は決して小さくはない。国家の役割の中身を変えなきゃいけないんであって、そういうことの一環としてこの少子化問題を考える以外にないんではないかというふうに思っております。
現在の少子化を考えるときに、私は当たり前のことですが重要だと思いますのは、マクロの目的意識を持った社会的制御の努力によって計画的に実現されている現象ではないと。つまり、子どもを減らそうと思って社会全体がマクロの目的意識を持って子どもを減らしましょうといって、そのための制度をつくったり何かして減らした結果そうなったわけではないということですね。つまり、我々のマクロ的な目的意識に基づく取り組みの結果ではないんであって、経済が成長し豊かになったということを背景にして、ミクロの選択の積み重ねで子どもが減りすぎちゃった‥‥減りすぎたかどうかというのは判断の余地があるにしても、予想外に減ってしまったということなんであって、マクロ的な目的意識に基づく社会的制御の結果ではないということであります。
それならば、この現象に対して我々はどういう意識を持ち、どういう目標を設定し、どういう取り組みをするのか。これはマクロの問題であります。ミクロの問題ではなくて、マクロの問題として考えなければいけない。
申し上げるまでもないことですけれども、家庭を持ち子どもを生んで育てるということは個人の選択の問題でありますし、我々の社会の持っている価値体系からいえば、国家、社会が干渉することではない。干渉したり強制したりすることではない。しかしながら、家庭を持って子どもを生んで育てるということについては、いまでも‥‥いまのような社会になってもというふうに言うべきかもしれませんが、多くの人が自然の願望として持っているという事実があるわけであります。しかし、そうした願望が自ずから満たされるという状態にはなっていない。
どのくらいの子どもが生みたいかという数と、現実に生んでいる数が違うということは、端的なその表現だと思います。この種の調査がどのくらい信頼できるか、私は多少の疑いを持っております。「どう思ってますか」と言われて答えるときに、私なども迷いながら答えるとそうとういい加減な答えをしていることがありますから、世論調査というのはあまり信用できないと思っているんですが。意識調査とかですね。しかし、どうもこのぐらいの数がほしいという女性などに、「どのくらいの数の子どもがほしいですか」と聞いた数と、「実際にどのくらい生みますか」あるいは「生んでますか」というのは、だいぶギャップがある。だいぶというほどではないんですけれども、分母が小さくなっていますから、ギャップは決して小さくない。3人生みたいというのが2人でしかないというのは1人の差でしかないですけども、しかし3分の2ですから、かなりのギャップがあると解釈しておきましょう。
そういう状態が起こっているということは、社会の仕組みのどこかに問題がある。つまり、強制したり誘導したりするという意味で少子化対策をするというのじゃなくて、子どもを生んで育てたい、あるいは家庭を持ちたいという、そういう願望をみんな持っているのに、うまくそれが実現できないということが、少なくとも1つの重要な要因であるとすれば、その障害を取り除くということは必要だろうと。
我々の産業社会は、企業のイニシアチブが圧倒的な力を持ってまして、20世紀は科学技術の時代といいますが、実は会社の科学、会社の技術が全体をリードしたわけですけれども、そういうふうにして急激に産業構造が変わり、生活構造が変わっていく過程で、そちらのほうはどんどん変わったけれども、ノーマルな人間の生活条件を保障するような制度なり施設をつくっていくということは、ずっと遅れたんだろうと思います。そういうことのために、生物学的な存在として、あるいは文化的な存在としてもごく当たり前の要求を持っている人たちが、その要求を満たすことができないでいる。これが現実なんだろうと思います。
私は、この少子化の背後にある女性の権利なり女性の発言力が高まっているということは、大変好ましいことだろうと思っております。近年、多くの女性がそれぞれの能力を生かして就業を含む多様な社会的活動に参加したいという、そういう希望を持ち、また、そういう道を選んでいる人が増えているということも好ましいことだろうと思います。そのことが晩婚化につながり、少子化につながるというのが大方の見方だろうと思いますけれども、女性がそういう社会的な参加、就業ということは非常に重要な参加のかたちでありますが、そういうことに向けて自分の能力を生かそうとしているということは尊重すべきことであり、しかも社会のあり方として好ましいことだと思います。
そのことが、しかし人間の再生産を不可能にし、社会の存続を不可能にするような状態をもしもたらしているんだとしたら、社会のあり方のどこかに問題がある。人々の欲求はノーマルであり続けているのに。ノーマルでなくなっていく危険がありますけれども。人間の性質が変わり、価値観が変わり、願望が変わっていく、あるいは操作されていく、商業主義的に操作されていくわけですから、人間の欲求そのものがノーマルなものでなくなっていく危険が非常に大きいのは、産業文明の1つの特徴でありますけれども、しかしまだそうとうにノーマルな欲求を持っている人がたくさんいるのに、そのノーマルな欲求がストレートに満たされないというのは、社会のあり方がノーマルでないんだと。どこかノーマルでないんだというふうに考えたほうがいいと思います。
もともと生物学的な存在である人間が、生物学的な存在の基盤を自らの文明によって破壊しているというふうに考えないといけない。だからそれをどうできるのかというのは簡単じゃありませんけれども、そういう意識を持つことは私は必要だろうと。少子化はかまわないのだというふうには、私は捉えないのであります。
かつては、女性が男性と同じように仕事をするというのは当たり前だったのであります。農業社会の場合を考えますならば、極めて明らかであります。大変過酷な労働条件の中にあり、差別もされていたと思いますけれども、家督のための労働に従事し、同時に重い家事労働に従事し、そしてその中で子どもを生んで育てていたわけですね。そうせざるを得なかったんだと思いますけれども。
しかし、家督のための労働をする場所と家事労働をする場所と子どもを生んで育てる場所が、だいたい近いところにあったわけであって、それを両立‥‥させられていたと言うべきかもしれませんが、両立させ得る条件があったわけであります。
その状態が決してよかったと言っているわけではありませんが、しかし子どもを連れて野良に出て畑仕事をしながら乳を飲ませるとか、あるいは子どもを背負って店番をする町の小さな商店のおカミさんとか、そういう姿を想起すれば、労働のあり方そのものが子育てと両立しやすいかたちであったということが容易に言えるわけであります。
そんな状態がよかったというわけではないということを繰り返し申し上げなければなりませんが、高度に産業化され都市化が進んだ現代の先進社会では、状況がまったく違うわけであります。ですから、職業生活の場所と家庭生活の場所がこれだけ離れてしまっているという状況の中で、どうしたら就業と育児を両立させるかということをもう一度考えてみるというふうに、考え方を組み立てないといけないと思っております。
併せて申し上げたいのは、女性だけではなくて男性を含めた働き方の全体に問題があるのだろうと思います。これは日本だけではないんですが、日本も特にひどい。ひどいというか、問題があると思います。いまの日本人のような働き方を続けるならば‥‥男性を含めてのことでありますが、あるいは働き方というのか何というのか、仕事への関わり方というんでしょうか。会社が終わってからも職場の同僚と、何をやってるんだかよくわかりませんが、飲んだりして、憂さ晴らしをしているのかもしれないし、仕事の話をしているのかもしれませんが、私はそれを非公式の拘束時間といっているんですが。通勤時間もありますし、どうしても会社の同僚との付き合いがある。あるいは商売相手との付き合いもあるかもしれません。非公式のインフォーマルな拘束時間、職業に関わる拘束時間はものすごく長いわけですね。時間が長いだけじゃなくて、それだけ非常にストレスがかかった暮らしをさせられているわけであります。
産業文明の尖兵としては成功したに違いない。これだけ成長したわけですから。たくさんの犠牲を出しながらであります。いまは日本は経済的に成功したという面だけが議論されますけれども、何百人の人が公害で犠牲になっているということを忘れるべきではないんですね。決して日本的経済システムはよかったわけじゃない。非常に偏った目標に対して成功したんであって、これもある面では人間のノーマルな要求を犠牲にして成り立っている。50年代、60年代はよかったけど、80年代、90年代は不適合が起こっているというのは間違いだと思います。50年代、60年代でも、もっと別のやり方を模索すべきだったんですね。たくさんの人が現実に犠牲になっているのに対応が遅れたわけですから。
いま改めて考えるならば、この働き方、この仕事のやり方が、実は女性とか高齢者とか障害者にとってはとても働きにくい職場をつくっていると思います。私の知っている人の中でも、定年退職したあと再就職したけれども、むちゃくちゃに残業が多くてですね。ある希少分野の専門の技術者なんですけれども、とても続かない。で、退職してしまって年金暮らしをしているわけですね。これはまったくもったいない話でもあるわけですし。
つまり、まわりがむちゃくちゃに働いている社会で高齢者が働き続けることができますかというのが、私の前からの言い方なんですね。私もはからずも‥‥はからずもというか、当然のことですけども、高齢者の仲間入りをしちゃったんですけども、ますますそのことがよくわかります。そういうことを全体として考えないといけないんで、小手先の少子化対策ということで、私は事態が改善されるとはまったく思わない。文明のあり方をつくり変えなきゃいけないぐらいの気持ちにならないと、まずいのではないかというふうに思っております。
そういうふうに考えたいわけであります。時間があまりありませんから端折ってしまいますけれども、生活の構造が好むと好まざるとに関わらず変わっているわけですから。ですから、それに対応して社会の再生産力を維持するためにはどうしたらいいかということを、あるいは社会の持続可能性を保障するためにはどうしたらいいかということを、やはり‥‥個別的な問題も重要なんですが、全体としての我々のフィロソフィーを確立するということをやらないと、エンジェル・プランとか、いろいろありますけども、小手先で何かやって事態が大きく変わるということはない。我々の労働観とか職業観とか、経済に対する考え方とか、これをしっかり持たないといけない。そうしなかったら、絶対に、先ほど申し上げたように後発工業国から追い上げられるわけですから、あおられてますます状況は厳しくなると。リストラとか何とかって、繰り返し起こってきますのでね。 そういう覚悟で、要するに我々のシステムをつくり変えるということを考えるべきだろうというふうに思います。
なお、育児に対する社会的支援の細かい内容について私の意見をここで述べる用意もありませんし、時間もありませんが、基本的には、個人あるいは家族の選択を尊重するという考え方は貫かなければならないと思います。ですから、いままでしばしば見られたような、公共機関が措置をするという‥‥変な言葉ですけども、措置をすることによって保育施設を指定してそこに預けると。その費用もずいぶん不公平な費用の取り方をしていたわけですけれども、今度改めるようですけども、そういうことではなくて、もし必要ならば児童に対して一定の給付を用意するということを前提にして、その先は個人、あるいは家族が選択をする。多様な民間の主体が保育サービス等の供給に乗り出すことができるような環境をつくることが必要である。
ただし、利用者の利益が損なわれないように監視し監査する仕組みは、公共機関が維持しないといけないと思いますね。これは他の分野でもいえることであります。私はかねてから、個別介入、個別補助をやめて、社会的ルールに基づくルール型の産業管理に切り換えるべきだということを70年代以来言っているんでありまして。公取型ということをしきりに言ってきました。日銀の独立性ということを言ってきました。やっと最近になって、そういうことが。新聞の紙面に『公取型』などと出てきて、びっくりしているんですけれども、感懐を持ちますが。昔は誰も耳を傾けてくれなかったのが、やっとここまできたかと思うんです。
環境保全とか消費者保護とか、いまの育児についても民間の多様な活動を奨励するといいましょうか、そういうのを歓迎する仕組みをつくらないといけませんが、監視し監査する仕組みをおろそかにしたら消費者の利益は損なわれます。場合によっては赤ちゃんの命が失われるわけですから、そういうことについてはやはり厳しい新しいシステムをつくっていくことが必要だろう。そこに公共機関が責任を負うことが必要だろうと思います。
それから、十分に情報を提供する。どこに何があるかということについての情報を十分に提供する。あそこの窓口に行けば、必ず相談に乗ってもらえると。相談に乗ってもらうけれども、全然どこも紹介してもらえないというのが、いまの福祉の窓口の姿でありますが、そうではなくて、そういう安心感、信頼感を住民につくり出す。これが公共機関の責任だと私は思っています。
併せて申し上げたいんですが、今日のテーマとつながるかどうかわからないんですが、私は先ほど来人間の量と質の再生産という言い方をしてきたんですが、子どもの数が減ってていることだけが問題なのではなくて、子どもの育て方が問題であるというふうに私は認識しております。多くの専門家が指摘していらっしゃいますように、子どもの数が減るということ自体が、それ自体、多分乳幼児期からの人間形成に大きな影響を与えるだろうと思います。兄弟がたくさんいたほうがいいというのは、多分常識ではないんでしょうか。
兄弟がたくさんいてといっても、子どもを増やせということはこれからも政策ではあり得ない。「5人も6人も生みなさい」という政策ではあり得ないと私は思いますが、そうだとすれば、それに代わるものとしての社会的な装置としての保育機関というもの。ただ預かっていますよということではなくて、社会性を養っていくという、そういう適応力と想像力という矛盾する能力を人間は備えていかなければいけないわけですけれども、適応力と想像力を自分で育てていくことができるような基礎的な能力をつくっていく、そういう専門的な対応がますます求められるんだろうと思います。
つまり、家族の機能が弱くなっている。子どもがたくさんはできないという、そういう状況の中で、切磋琢磨するということですね。いじめられてもしたたかであるような子どもをつくっていく。やたらに人をいじめないような子どもをつくっていくという、そういうことは。育児のことなどを言い出すと、ますます私の専門から外れてボロが出ますからやめますが、そういうことが重要なんだろうと思います。どこかで、家庭に代わることはできないけれども、補完する、あるいは支援するという、そういう仕組みを真剣に考えるということが重要だろうと思います。
それから、学校教育も大変おかしくなっていることは、もうここで申し上げるまでもないことかもしれません。社会としては、ものすごく教育費をかけているような気がいたします。これもいろいろな調査を見ますと、子どもをあまり生まない。どうして生まないのかということの回答の中で意外に多いのは、子どもに教育費がかかるというのがあるんですね。私にはよくわからないんですが、それが非常に出てくるのが大変印象的であります。これが本当かどうかはちょっとわからないんですども、そう思っている人がけっこういる。ということは、教育費をかからないようにすれば子どもを生むかどうか、それはわかりませんけれども、しかし大変に教育にお金をかけている。個人的にも社会的にもかけているというのは、確かに事実だろうと思います。
しかしながら、そういう個人的および社会的な教育費のコストパフォーマンスを真剣に考えてみようという空気がない。これだけお金をかけているけど、これは意味があるんだろうかということを真剣に考えようとしないのではないでしょうか。要するに、高等学校の進学率が90何%。事実上、ほとんどの子どもが行っています。重いハンディキャップを持っている人は別としてですね。ほとんどの人が行っている。大学は男性でいえば40%、女性も短大を含めれば、そのぐらいいっているんじゃないか。もうちょっと低いでしょうか。

原 教授

多いです。

正村教授

多くなってますか。

原 教授

はい。短大を入れると多いんです。4年制大学は男が多いんです。。

正村教授

そうなんですね。そこが面白いところ。アメリカとは違うんじゃないかと思います。短大型にまだなっているんだと思う。原さんに助けていただきましたが、どちらにしてもそういう3〜4割の、短大を入れたら4割といっていいんでしょう。男性、女性が短大もしくは大学へ行っているんですけれども、その何%が真面目に勉強しているんだろうか。
勉強するだけが能じゃありませんで、遊ぶことも非常に大事なことだと私は思います。私自身は遊ぶことが下手ですけども、遊ぶことは非常に大事なこと。学問というのは遊びのようなものですけどね。だけど、非常に重要だと思うんだけれども、意味のある遊びをしているんだろうかということを考えると、私はそうではないと思っているんです。ほとんど遊民と化してるわけで。期限つき遊民であります。執行猶予だけの話で。
そして社会へ出ると目標喪失して、ものすごいストレスの多い仕事の中へ飛び込んでいく。で、会社のお金で飲んだり食べたりすることが平気になる。そういう変な子どもの育て方をしてますよね。大学の教師の中でも「これでいいんだろうか」と考える人が、非常に少ない。そこで飯を食わせてもらってますから、直言はしないということであります。私のように勝手なことを言っている人間は、冷たい目で見られるわけであります。
こういう状態を何とかしないと、社会の堕落そのものなんであって。教育費というのは、親の贈与と社会の贈与ですね。補助金とか、あるいは国立大学で税金で賄われている部分が多いわけですけど、これは過剰進学の原因になっているわけです。ミクロの一人ひとりも自分にとってのコストパフォーマンスをちゃんと考えて進学しているわけじゃなくて、不本意就学者が非常に多い。まわりが行くから行かざるを得ない。そういう過剰進学の状態にあると、私は考えております。
子どもたちを差別をする意識は全然ありませんが、アプティテュードの違いというのはあるわけでありますから、それに合った人生設計を持たせる努力をしないといけない。そういうことができない状態になっている。伝統的な職業がなくなってきているということもあって、みんなサラリーマン化してますから、サラリーマンとしてのキャリアを始めるとなると学歴はものをいうとみんな思い込んでいるという、そういう妙な社会になっているわけですね。
教育に費用をかけすぎていないかとかですね。そういうことについて‥‥いや、費用の問題というよりは、無駄なお金の使い方をしていないか。社会をダメにしていないかということについて、もっと真剣に考える必要があるだろうと私は思います。結果としては人間の潜在力を発見して伸ばすということではなくて、潜在力を破壊する方法に熱中しているのであります。
先ごろ、人口問題研究所の将来推計が出ましたよという報道を見て、ある新聞社から少子化問題について小さなコメントを書いてくれということがありまして書いたんですが。そのときに、併せていまのようなことを言いまして、量だけじゃなくて質に問題があるんじゃないか。教育を見ていると実にくだらぬ知識の詰め込みばかりやっている。「くらだぬ」と書いちゃったんですね。そしたら電話がかかってきまして、「全体はけっこうなんですけど、“くだらぬ”って、ちょっと直してくれませんか。なぜならば、いま受験のシーズンなので」と。つまり、受験生の誰かが見て影響を受けるといけないと思ったんでしょうか。私は、私らしくなく妥協いたしまして、じゃあ「単純な知識の詰め込み」ぐらいにしておきましょうということがありましたけれども。内心、くだらぬと思っています。
毎年、入学試験も立ち会いますけど。私の大学の試験がくだらんと言っているんじゃなくて、全体として実にくだらない。私がやっても多分‥‥私は特に能力が高いわけじゃありませんが、日本史など合格しないですね。実に細かいことを覚えておかないとダメ。それだけなんですよ。大学に入ってまで、また○×式に近い問題を出す教授がいます。答案を何百枚と見なければなりませんから、マークシートで採点できるような問題をおつくりになっている方がおります。それが悪いとは必ずしも言えないところがあるんですが。労力を考えますと。私は800枚でも論文を書かせて見ますけどね。イヤになりますが。うんざりしますけども。
余計な話ですがちょっとご披露しますと、今年卒業する学生ですが、卒業の前の追い出しコンパのときに何か1人ずつしゃべらせるんですけども、正村ゼミに入って正村先生と付き合ってわかったことは、正村先生は答えがわからない問題を出すと。すぐに答えが出ない問題を出すと。つまり、考えなきゃならないということですね。Aという答えなのかBという答えなのか、すぐにはわからない。議論しないとわからない。先生の答えが正しいかどうかさえもわからない。そういう問題を出すというんですね。自分で、言われてみると「そうなのかな」と思ったんですが。彼は、自分にとっての人生を考えるようになって、恋愛したり何かしてもYESかNOかという答えが、いつもすぐに出てくるわけじゃないと。いつもね。そういうことについて考えなきゃいけないのに、大学に来てまで五択、三択とかね。どれが正しいか番号を書きなさいという問題を出す人がいるので、がっかりしているんだということを彼は言っていました。ちょっと自分の自慢話みたいになって恐縮なんですが、ご披露申し上げますと、そういうことがほとんどやられてないわけですよ。私のところへ来る学生を見てましてもね。だから、自分の紹介さえもできない状態になっているわけです。知識の詰め込みはうまいですけども。
こういうことを含めて私が申し上げたいのは、少子化、少子化ということを言うけれども、子どもの数が減っているというだけではなくて、我が社会が子どもの育て方を間違えているんだろうと。次の世代の人間をこれだけ甘やかせて、ディシプリンの長い暮らしに馴染ませてしまうことをやっていたら、内在化されたディシプリンを持ってないわけですから、社会に出たら外側の規律に押し流されるだけになるんですよね。そういう人間をつくっているとしたら、社会が活力を維持し続けることができるはずはないと思います。
私は、これだけめちゃくちゃな教育をやっていても人間には可能性があるんだなということを大学教師としてはしばしば感じさせられています。これだけ壊してもまだ残っているなというのが、学生諸君と3年間付き合って思うことであります。そういう可能性をどうしたら伸ばせるかということをもう一度真剣に、建て前ではなくて考えるということをやらないといけないんじゃないか。みんなが高等学校へ行きたいといっているから、じゃあ高等学校をつくりましょう。大学へもっと大勢の人が入りたいといっているから、じゃあ補助金を出しましょう。大学の先生まで一緒になって、補助金寄こせという運動をやったりしているわけですね。そういうことではなくて、そういうやり方がいいのかどうかということから問い直さないと、私は本当に引き返すことのできないところに進んでいくのだろうというふうに思います。
余計なことをいろいろ申し上げましたけれども、日本のこれまでは、生産とか所得といった、経済学の用語でいきますとフローの効率を高めるということに大変一所懸命であったわけであります。しかし、これからは資源とか環境とかの制約を考えなければなりません。したがって、むしろストックの超長期にわたる効率的な利用ということを考えなければいけないというふうに考えております。効率という言葉は、大先生がいらっしゃる中でちょっと口幅ったいんですが、しばしば能率という言葉と混同されてしまう。しかし効率というのは、能率よくやるということじゃないんであって、ある目的のために手段が最も有効に使われているかということを測る基準だと理解しております。
社会の存続ということ、あるいは持続可能性ということが、我々のいま優先的に考えなきゃならない目的であるとすれば、社会の存続、あるいは社会の持続可能性という目的のために我々のシステムが有効に機能しているかどうかということを検討しなければならないと思います。その意味で、人間の量と質の再生産、あえて再生産という言葉を使っておきますが、人口学でもお使いになるようでありますから安心して使うことにしますが、経済学的な用語のようなリプロダクションということについて、もっと真剣に目を向けて考える必要があるだろうというふうに思います。
それは現在産業の行き過ぎといいましょうか、現代の産業文明の病理にメスを入れて、我々の社会を産業文明がもたらした窮乏からの脱出と抑圧の克服という近代社会が目指した目標を達成するためにどうしても必要であった生産力の拡大ということを否定するわけにはいきませんけれども、そのことが自己目的化してしまっている現代社会をもっとノーマルな人間の感覚に基づいて批判をし、ブレーキを掛けるという、そういう仕事の重要な一環になるんじゃないか。少子化対策というのは、実は子どもの数をどうするかという、その範囲の問題ではないんじゃないかということをあえて申し上げたかったのであります。
どうもありがとうございました。

宮澤会長

どうも大変ありがとうございました。それではご質疑をお願いいたします。『少子化と経済の展望』というタイトルで事務局はお願いいたしましたが、経済の展望をする場合の条件展望というような範囲に触れて、いろいろお話をいただきました。いずれにいたしましても問題の根底は、文明のあり方という着眼点が必要であるということがベースになっているように思われます。どうぞお願いいたします。

井上委員

大変いろいろ伺いましたが。先生のお話で少子化というものがこのままでいいとは考えないというお話でございました。その理由として、子どもの量と質、これの再生産が不可能な社会、これが問題解決の能力を低下させるのではないかというお話でございましたが、この問題解決の能力ということをもう少し具体的にお話をしていただきたいと思うんですが。

正村教授

よくわからないことをいろいろ言いますと、必ず突っ込まれるのは承知でいろいろ言ったんですが、大変大きな問題ですね。
これは経済学からちょっと離れるかもしれませんが、しかし経済学の立場から見てもということなんですが、産業の発展のためにというふうに話題を限定したとしても、どういう人材が必要とされるんだろうか。よくわからにところがありますけれども、知識をたくさん持っていればいいわけでないことは、極めて明瞭なんですね。やはり常に問題に直面したときに問題を解決していく能力があるかどうかということで、実は人材としての的確性ということがテストされてくるわけであって。
じゃあ、問題解決能力というのはどういうものだろうか。知識をたくさん持っているとか、特定の技能に長けているとかということをいくらやっても、それは現実の経済なり産業なり企業なりが直面していく、問題を処理していく能力は身に付かないわけでありまして。それはむしろ、感受性とか、あるいは意思の力とか、総合的な人間的な能力がなかったら、産業界でさえも役に立たない人間しか教育できないと。
私の印象でいうと、実用主義に過度に傾斜した教育というのは、実用費の観点からも役に立つ人間は供給できないと。それが1つのパラドックスなのかもしれませんね。だから産業文明というのは自己を滅ぼしていくことにならざるを得ないのかもしれません。
つまり、非常に実用主義という観点で教育まで考えすぎる。第二次世界大戦後の日本を見ても、産業界の方たち、経団連とかそういうところの方たちがしきりに教育について言ったのは理工系の学部を増やせだとか、そういう非常に実利主義的なというか、実務的な教育を強化することを盛んに提言なさったんですね。現実にはそういうことで進学率が上がったわけではなくて、よくも悪くも平等主義的な要求が強くなって、高校へ行くなら普通科ですし、大学でも過度に狭く専門化された分野ではなくてというのが非常に多くなっている。これはいい面もあるわけでありますね。その要求をうまく捉えて、人間の総合的な能力の発展を支援するような教育システムはつくらなかった。ただ進学させているだけという、そういう仕組みになってしまったというところに問題があるわけですけども。産業界が要求し提案なさったような仕組みで日本の教育というものを過度に実利主義的、実用主義的に組織してしまったら、エネルギーがもっと削がれる結果になっただろうと思います。
いろいろな技術を身につけさせるということも重要でありますけども、それが教育の目的ではない。それだけが教育の目的ではもちろんないわけであって、むしろその基礎の問題に持続的に取り組んでいく。さっき申し上げたような、すぐには答えは出ない問題等に粘り強く長く取り組んでいくことができるような、そういう人間をつくっていかないといけない。そういう人間が減っていくような、あるいはそういうふうになっていく潜在的な可能性を育てるのではなくて殺すような教育をやっている限りは、我々の社会の問題解決能力そのものが、一人ひとりの子どもたちの問題解決能力が壊されるだけであって、社会の問題解決能力が壊れていくだろうというふうに考えているわけであります。

井上委員

私がお伺いしたかったのは、子どもの質の問題もございますけれども、子どもの数が減っていく、このことが社会の問題解決能力の低下につながるというふうに伺ったものですから、その関係をですね。

正村教授

まず子どもの数が減るということは、労働力人口の構成からいいますと、若年労働者が急速に減っていくわけですね。相対的に高年齢の労働者の比率が高くなります。そういう構造の中で、産業界が新しい問題に挑戦していくということができるのか。あるいは新しい問題に挑戦し、それを解決していくことができるのかという、そういう問題がまず基本にあります。
それから、少子化そのものが私は子どもの潜在的な能力を弱めるだろうと思っております。兄弟の数が少ないということ、それ自体が極めて問題性を持っている現象だろうというふうに理解しております。これは私は育児の専門ではありませんのでよくわかりませんが、しかし多分専門家の言っておられるそのことは正しいだろうと思います。
しかも子どもの数が減るということは、一人ひとりの子どもを大事に育てるという傾向が非常に強くなるのは当然でありまして、日本の農業を見てもわかりますけども、大事にしすぎることはすべて破壊的な結果しかもたらさないというのが私の理解でありまして、少子化にはいいことはないと。いいことはあるかもしれないけども、それを上回って非常に問題が多いと。そのことを自覚しないといけないのではないかというふうに思っております。
河野専門委員
大変大所高所のご意見で、非常にグローバカティブといいますか。私が誤解しているかもしれないんですけども、お話を聞いていると、やはり文明が衰退するとリプロダクションも衰えるというか、そういうようにあれしたんで。そうすると、いまのところはある程度、全体の文明が閉塞状態というんですかね。そういうようになっているのか。そうすると、また何かの加減で文明が繁栄すると、リプロダクションも上がってくるのかですね。
それから、いまたまたま世紀末でありまして。実はヨーロッパでも第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に非常に出生率が下がったことがあるんです。30年未満にまた回復したんですね。そのころもやはりヨーロッパでは合計特殊出生率が1.6とか1.7とか、そういうような時代が続きました。そうなってくると、そのときも一部‥‥考えると、ある意味では西洋文明が一時的に停滞したとも言えるわけですけれども、そういうようにお考えになっているのか。
それから、また第2としまして非常にあれなんですけれども、いまの文明そのものがそういう衰退をするものなのか。例えば梅原猛さんなんかに言わせると、デカルトのころからそういう萌芽があるそうで、環境破壊によってやがて滅びると。そういうものなのか。例えばブルジョアプシャという人口学者がおりますが、この人に言わせると、結局人類というのは西暦3000年ごろには皆滅びると。そういうようなのもありますけども、そういうものなのかということです。
それから2番目は全然違うんですけども、先ほどいまの日本の家庭はディシプリンがないということをおっしゃいました。確かにおっしゃるとおりで。ある意味じゃ日本には宗教がなくて、拝金宗しかないというか、金を崇めるのが宗教であって。それから、強気を助け弱きをくじくというんですかね。そういうのが。昔は逆だったと思うんですけど。そうなってくると、ディシプリンというのは昔はあったんでしょうか。日本の場合には昔はディシプリンがあったのかということなんですね。あるいは、なぜそういうディシプリンがなくなったのかということ。
以上でございます。

正村教授

今日はいくらも浴びせられるだろうと思って覚悟してきたんですが、大変大きな問題。私も大きな問題を出してしまったので難しいんですが。波はあるだろうと思います。ですから、一直線にどんどん、どんどん下がっていると単純に考えているわけではなくて、波はあると思います。それは景気変動だってもちろんあるわけですし、一直線だとは思いませんが、しかし衰退しているからではなくて、繁栄したからなんでしょうね。繁栄して、非常に豊かになったわけでありまして。繁栄し、成熟しているということの結果として、多分それが人口学的な変動をもたらしているというふうに考えたほうがいいんだろう。つまり、衰退しているからではなくて。
その繁栄している文明が、どうして過去においても繰り返し各地に興った文明がある期間、長く続いた文明もありますけれども、最終的に崩壊していきます。2つあるわけで、文明史の話を論ずる資格はあまりないんですが、多分、外側からの強い圧力と。ローマが滅びたのもそうでありますが。
それから、それ以上に多分重要だと思いますが、内在的な、人間的なファクターの長期的な再生産に、豊かになりすぎた社会というのは失敗すると。人々の価値観そのものが刻苦勉励して森の中で戦って生きていかないきゃならないという、そういうことが失われてまいります。感覚的な言い方ですけど、都会生まれの都会育ちばかりになってしまったら、自然の厳しさがわからない。少数の人は別ですけど、一般の人はそういう体験をしないで終わると思うんですね。自然とのふれあいなどと言いますけど、私はある機会に「ふれあいなどという生やさしい言葉は使わないでください」と言ったことがあるんです。「使わないほうがいいんじゃないですか」ということを言ったことがある。自然というのは非常に厳しいものであって、要するに非常に慎重に扱わなきゃならないもので、チョロチョロッと出かけていって森の中を散歩してきて「自然とふれあいしました」というようなことを子どもに感じさせるというのは、それはやらないよりはいいかもしれないけれども、人間の形成ということで考えれば決して有効でないんじゃないかと思うんですね。だから、すべての文明は滅びたんだと思います。簡単に言ってしまえば。
我々の文明も同じことなのか。ここまできたんだから、人間がもうちょっと知恵のある動物であるのならば、都市化をしてしまって都会育ちが増えざるを得ないようなそういう構造になったけれども、ほっといたままで自然の厳しさを知りながら子どもが育っていくというのではなくて、どこかで代わりの仕組みを、生物としての人間の基本条件に立ち帰った生活の仕組みなり教育の仕組みなりをつくっていかないと、文明は自滅せざるを得ないという。そのことを自覚したほうがいいんじゃないかと。そういうことのために、経済学者ふうに言えば資源を配分するなり、あるいは余計なところに資源を配分しないとか、そういう目的意識を持つ必要があるんじゃないだろうかなというのが、私が、漠然とでありますけども考えていることであります。
人間の文明が必ず進歩するというふうには私は思いません。永久運動みたいに必ずずっと続いていって、さっき申し上げたように地球全体が人権と自由と民主主義の守られた社会になるだろうという楽観主義は、私はいまは持っておりませんで。ただ、窮乏と抑圧から抜け出すというのが近代化の目的でしょうから、窮乏の克服と抑圧からの解放ですね。誰かが誰かを抑圧するということを再現させないという。それを目指して努力をしてきている、その全体条件として産業化を肯定してきたと思うんですよね。
でも、いつの間にかその前提条件として産業化を肯定するというのをはるかに越えちゃって、豊かさそのものを際限もなく追求するという。産業主義といいましょうか、商業主義といってもいいですが、先生のおっしゃった金銭主義といいましょうか、そういうものに走っていると思いますね。それは日本だけの問題ではない。ただ、どうも見ていると、感覚的な言い方をしますと、ヨーロッパに出発してアメリカに渡った産業文明が、アジアに渡ってきたら一層実利主義的になっちゃったのかもしれない。中国はもっとひどいかもしれない。こんなことを言ってはいけないんで、ちょっと暴言かもしれませんが、懸念を持っているということですね。そういう印象があります。
それは民主主義だって、民主主義を機能させるためには、ただ権利だけ言えばいいんじゃなくて規律がいりますし、社会全体を維持していくということについてのマクロ的な意識を持った国民が多くならなければ秩序は維持できないと。衆愚政治になってしまします。もう衆愚政治になる危険は非常に大きいわけでありますね。でも、民主主義を否定するわけにいかないとすれば、知恵を持たないといけないという、そういう段階なんだろうと思います。
それから後半のご指摘の、ディシプリンはいままであったのかというと、これもよくわかりません。わかりませんが、伝統的な秩序を継承していた部分で、非常に窮屈な拘束におかれていました。男女の差別もありましたし、貧富の格差もありましたし。その中で、否応なしに規律を強制されていた部分があるんだろうと思いますね。明治憲法は日本の近代化の中でかなり重要な役割を国民に与えたと思いますけども、あそこを見ますと、そういう近代化の大きな変動の中で、伝統的な価値観を国民の生活規律に押しつけることで、むりやり秩序を維持しようとした。そこに1つの功績もあるし、失敗もあると思うんですね。
当面の秩序を維持することには成功したけれども、内在的な倫理‥‥市民的な倫理といいましょうか、市民的なルールというものを育てることには全然役に立たなかったわけですね。公共的な空間では「忠」ということを強調し、私的生活空間では「孝」ということを強調して、つまり縦の関係だけを強調したわけでありまして、市民的な倫理というものをむしろ神格化された天皇制のもとで押し殺してしまった。だから我々は、近代的な市民社会に向けての倫理の形成の引き継ぐべき戦前の遺産が非常に貧しくなってしまったということが言えるんじゃないでしょうか。
そして、戦後の民主主義というのは占領という特異な状態の中で、国民の意向も反映してはおりますけれども、いわば啓蒙を専制君主みたいな人がやってきて、民主主義の国からやってきた専制君主がワーッとやっちゃったというところがありますから、そういう民主主義を機能させるために必要な前提になる内面化されたルールみたいなものの重要性ですね。これは宗教でなくてもいいと思うんですが。市民的なルールの重要性とか、そういうことがなくなってしまったと思うんですね。
余計な話かもしれませんが、これもいつぞや『官僚』という記事を書いているんだけれども意見を聞かせてくれという、ある新聞記者の電話がありまして。いまいろいろ不祥事が起こっていることもあるんですが、やはり日本の官僚はお上意識をまだ捨てることができないでいるんだろうかというのが彼のクエスチョンだったんですが、私はお上意識が残っているのなら、もうちょっとましなんじゃないんですかと言ったんですね。お上意識というよりは、むしろ、私が大学に入ったころからそういう空気はすでにありましたけれども、自分に与えられた恵まれた能力と、自分に与えられた教育機会というものを社会のために使わなきゃいけないという意識を持っている人が、どんどん減っているような気がするんですね。私的な、まったくプライベートな利益のために自分の能力を生かし、自分に与えられた教育機会を利用すればいいと。これも先生のおっしゃる金銭主義だと思いますけども、短なる金銭だけじゃありませんね。社会的地位を含めた。そういう私利中心の社会。
個人的な権利を尊重します、それを優先します、それを土台にしますという、その考え方が社会的なルールの観念を失わせているし、人間としての能力の格差はありますし運・不運はあるわけですけども、恵まれた能力を持った人間は、その能力を社会の存続維持のために、あるいは社会の改善のために還元しなきゃいけないという意識は育ってないと思うんですね。
だからどうしたらいいのかというのは、よくわかりませんけどね。しかし、だからお上意識じゃないんじゃないですかということを言ったんですが。当たっているかどうかわかりませんが。お上意識でさえも、そこは通用しないわけですよね。通用しないわけで、そうではなくなっちゃった。別のものなんだろうと。後ろにたくさん官僚の方がいらっしゃるんであれですけども、私はそういう印象を持っています。「いや、それは違う。俺は使命感に燃えてやっている」という方がいてくださることを期待しますけども。

宮澤会長

ありがとうございました。まだたくさん質問がおありと思いますし、私も質問したくてうずうずしている面もあるんですが、時間の関係もございますので次の議題に進ませていただきまして、また戻って後ほど議論をしたいと思います。
それでは、お茶の水女子大学の原ひろ子教授から、『人口問題とジェンダー』につきましてご説明をお願いいたします。原先生は東京大学教養学部教養学科をご卒業になられまして、同大学の大学院、ピッツバーグ大学の大学院、プリモーア大学大学院を経まして、お茶の水女子大学に長年務められてこられまして、現在はお茶の水女子大学ジェンダー研究センター‥‥このジェンダー研究センターの名称について、さっき面白いお話を伺ったんですが、その教授として多面的にご活躍されております。
ひとつ、よろしくお願いいたします。

原 教授

正村先生とは、だいたい前の経済企画庁の委員会のときも8割ぐらいは意見が一致するんですけど、2割ぐらいズレます。その1つが、いまの若い方たちはくだらない遊びしかしないとおっしゃって、正村さんは私のお兄さんぐらいかなと思ったけど、私のおじいさんぐらいかなと思うようになっちゃったんですけど。
やっぱり若い人たちの遊び方というのは、いろいろな意味で時代をうんと先取りして大事なことをやっている。だから私たちから見れば「たまごっち」というのは、本当にばかばかしいと思うかもしれないけど、もしかしたらやっぱり何か大変大切なことをメッセージとして私たちに突きつけているのかもしれないというふうに思いまして。そういう意味で、私は若い方たちに関してオプティミスティックでございます。
今日、傍聴の方々を見てますと年齢幅もずいぶんいらっしゃるので、そういう意味でも頼もしいなと思います。ただ、いま学校がお休みだし、授業でも入るようになったり就職戦線がひどくなったりするとどうなんでしょうかというので、やっぱり次の世代の問題を考えるので、本当にこれから子どもを生むか生まないかを考える方々がこの種の議論にもっと参加して。だから、私みたいなババァじゃなくて、参加なさるということは、こういうところでお話になる、この席でですね。そういうことも大変大切かと思いまして、これからの審議会のときに、やはり20代の男女とか、そういう方のご意見というのもぜひお聞きいただくことが大切かと思います。
それから、先ほどの正村先生のお話の最後のところの、フローの重視からストックの重視へ。それから、そのストックの長期にわたる効率的な利用な仕方を考えるということが、まさに私が鉤括弧を付けました「人口問題」というのを考えるときの本当に大切なことだというふうに考えておりまして。
お手元に配っていただいたレジュメのようなものの2枚目に・のc‥‥私、符号を付けるのを忘れたんですけど、a、b、cのあとにdが社会政策のジェンダー・バイアス、それからeが環境汚染と「人口問題」というところなんですけど。特に地球規模の環境問題、それの汚染の発生源というのは、具体的には特定の工場とか私たちが出しますゴミとかいろいろなもので、本当に1つ1つの積み重ねがこうなっているんだと思うんですけども、燃やしてしまえばいいとか、水に流してしまえばいいということで済まないということは重々わかってきているわけですが。このシステムをどういうふうに産業界、それから科学技術、それから私たち市民の知恵を集めてやっていこうかということを、小さな小学校のお子さんも含めてみんなで考えていこうよということをすることが本当に大切で、そういう意味での発想の転換というときに、例えばこれからお話ししますことは、だから通産省さんや建設省さんや、先ほどちょっと文部省との関連のお話も出ましたが、本当に省庁を越えて、私たち生活しているものとすれば考えていただきたいと。それから私も含めて一緒に考えていきたいと思うことです。そのことが、すなわち少子化問題とも究極にはつながっていくだろうと思っておりまして。これが今日、私がお話ししたいことの究極の結論になります。
その際に、もう少しくだいたお話をするというところで、レジュメの「はじめに」というところにいっていただきたいんでございますが。人口・環境・ジェンダー。この種のことは1984年のメキシコで開かれました世界の人口会議のところで少しジェンダーという視点も含めてですね。それから、人口問題を国の人口統計の範疇だけで考えないで、やはり地球環境ということと合わせて考えなきゃいけないという発想。このような考え方は何もそのとき始まったものではございませんで、個人的ないろいろなご意見とか、それからある種のグループやNGO、それからある種の研究者たちは、かねてから叫んだり、ものに書いたりしていたようですけども、先ほどの国際関係の論議の中で浮上してきたのは、1984年代の半ばぐらいからかと思います。
もう一つが、従来、非常にクラスというのでは階級が上の人たちが、欧米では上流階級にある人たち、有利な条件にある人たちの義務として社会全体を考えようと。それが先ほど正村さんがおっしゃった、例えば東大に行って大蔵官僚になったりする人の、そういう貴族の義務の意識が明治時代の官僚にはあったかもしれないけど、いまだんだん私たちが学生になったころから減りだしているんじゃないかということですが。
そういう「上の人に任せておきなさい。下々のものはついてくればいいんだ」という、この発想でずっときたことのツケが、いまいろいろなところで問題が起こってきてるという意味で、これは必ずしもマルキシズムの階級概念だけではございませんで、そういうかたちでの格差。社会のあるあらゆる格差にある人たちが、どういうふうに政策提言とか、アイディアの表現をし、それが対等な価値を持って議論の場に乗せられるかどうかということの問題がいまあると思っています。
この人口問題審議会のご議論が、いままでどういうふうなかたちで行われてきたかについて私は存じ上げませんが、何となく偉い、頭のいい先生たちが、ないしはご自分が頭がいいと思ってらっしゃる先生たちが、「まあ、任せときよ」。河野先生も30歳ぐらいのときですよね。素晴らしい人口予測の統計のお仕事をなさって、国際的に大変認められて、そのことを私もとっても勉強して。そういうふうな、お一人お一人のお仕事を見ると素晴らしいことがたくさんあるんですけど、究極こういう政策となると、日本が戦争に負けた直後は生むな増やすな、戦争中は生めよ増やせよ。このごろになると、また1.57ショックとか1.47ショックとかあると、生めよ増やせよという声が出てくると。だけど、女も、それから若い男の人たちも、ちっとも生むような風情がないと。そこでここにこういう課題として論議されるのかなと思うんですが。
もう一つが、ここのジェンダーということでございまして。これを詳しくご説明する時間はいまございませんが、岩波書店の『広辞苑』という本がございますが、それの第4版には、このジェンダーの定義が1992年ですでに書いてございます。その定義に一応沿っているんですけど、私はそれはもう古いと思っていますが、その話をしていたのでは時間がなくなるので飛ばします。
これはつまり、雄か雌かということではなくて、一人ひとりの心の中、ないしは1つ1つの社会の中に、性別認識というものがどういうふうな構造をなしているかを研究するものです。この構造というのは非常に単純ではございませんで、いくつも重層しておりまして、また軸がいくつもになっています。そのために、私ども、去年から始まりましたジェンダー研究センターというので10年間かけてこれをするというふうになっているんですけども。単純に男はこう、女はこうなんだ。世の中ではそういうふうに人は思っているんだというふうな、簡単なことにいかないというようなことが、この人口問題を考えるうえでも非常に大きいと思います。
それから次のエスニシティというのは、民族性とあえて訳さないことにしております。というのは、例えばインドやネパールなどで見られますカーストというような言葉を、カーストが上とか下ということについていまの人権の発想の中で言えなくて、場所によってはそのカーストの違いもエスニシティとして論じております。言葉は同じなんですけど、同じ言葉を使っていても言っている意味の内容は違う。同じ儀礼に参加していても、その儀礼が一人ひとりにとって持つ意味が違う。カーストが違えばですね。そういうようなことも含めまして、文化的社会的に人間分類認識をどういうふうにしているかによって、人が分類されていくという状況をさします。
この種の問題を含め、かつ環境問題を‥‥環境問題というのは産業構造、およびそこから出てくる産業廃棄物も含めてですが、そういうことを考えながら、この鉤括弧に入れる「人口問題」。どうして「人口問題」っていうんだろうというのが、私たちの『女性と健康ネットワーク』という人口に関して考えるNGOでは、「問題」という名称の付け方自体を批判しておりまして。「人口課題」という言葉を使いましょうと。いろいろな課題があると。多すぎるから問題だ、少なすぎるから問題だというふうな表現じゃない。どんな状況にあっても、課題にどう対処していくか。それにもいくつかのいろいろな考え方があるだろうけど、それをどうやってみんなで地球規模で考えていくんだろうかと。そういうふうに、英語で言えばポピュレーション・プログラムとか言わないで、ポピュレーション・イシューズと。イシューという言葉でいきたいという立場をとっております。 そこで鉤括弧に入っているるんですが、ここは人口問題審議会なので人口問題という言葉を使わせていただいております。
そのように、これから申していきますようなholistic approach、つまり総合的にいろいろなことを考えていくということが必要だということです。その先、dで、よりholisticなdemographyへと書いて、「より」といっているのは、かねてからdemography、こちらの岡崎専門委員や河野専門委員に私いつもいろいろ教えていただいているんですけど、本当にいろいろな、例えば栄養と人口とか、それから子どもを育てることや生むことについてのさまざまな人の意向。それから、保育施設に預けている、例えば川崎市でだいぶ前に調査なさってますが、川崎市で預けている働く女性の持っている出産に対する意向と、それからそうでない、川崎市の中で専業主婦をやりながら子育てをなさっている方の意向といったようなものの細かい調査とか、いろいろなさっておりますし、それから人口の社会的移動についての研究、その他、その他、経済構造との関連とか、本当にいろいろな分野の方たちが日本の人口学を担っておいでになって、国際的に高い水準にあるということは認めるんですけれども、しかし、それがやはりお上‥‥お上もダメお上の発想で下を見て「みんな、やれ、やれ」と。それだから、小手先ではダメだとおっしゃったそれも私、賛成でございまして。
そういう意味で、地球規模の発想で、日本が少子化しているということだけを人口問題審議会はお考えになるのではなくて、地球規模の人口課題というものも一緒にどう考えていくのか。これを併せて、どういうふうに発想していくのかということを、ぜひこの審議会でご審議いただきたい。だから人口問題審議会なんかいらないというんじゃなくて、ますます頑張っていただきたいというのが、私の考えでございます。
もう一つが、これは正村さんのお話と共通になるんですけど、生活の質、これは何も大きいお家に住んで床暖房があって、音楽も大変高級な音楽があって、上等の絵が掛かっていると、そういう生活の質ではなくて、・のeに書きました、「貧しくても楽しくてうるおいのある生活」、これをみんながやっていこうよと。何をもって楽しいと考えるかは、本当に人によって違うじゃないかと。ときには人生辛くて悲しくてというときもあるけど、そういうときにもウフッと笑えるような、そういう人間と人間のつながり、人と人との絆、こういうものが国を越えてですね。国籍とかカーストとかなんかも越えてできるような、そういう生活をしていく。だから、やっぱり分かち合いの思想ということになると思いまして。その際には、ゴミや廃棄物の垂れ流しではない、燃し流しではない循環、これを科学技術にも期待したいというところになります。
ざっとこの『「人口問題」とジェンダー』というのを考える際に、この資料の1、資料が多くてご迷惑で申し訳ないんですが。資料の1は、これは国連がつくったものではございませんで、この「アジェンダ フォー チェンジ」というのは、ヨーロッパを中心に環境問題に関心のある方々がおつくりになったものを日本語版に、また日本のNGOが翻訳して最近出ました、こういうものでございますが。3枚目に目次がございますので、ご覧いただきたいんですが。これはリオ・デ・ジャネイロの1992年の環境開発会議のあとのフォローアップとして、NGO側として出してきたものですが。このようなところで、特にジェンダーのお話なので、私がコピーしてまいりましたのは、第3部の24章、63ページというのをお開きいただきますとございます。
そこで、女性の存在というのを考えようというところがございます。こういう ふうな書き方をしてあるものを読みますと、往々にして日本の方々、ときにはア メリカの方もですけども、「ああ、要するに開発途上国の女性たちが薪を使った り何かして環境破壊しているし、あっちで子どもをたくさん生んでいるから、そ のことなんだよ。俺たちには関係ない」というふうにお考えになる方が多いわけ です。しかし、この1つ1つをご覧いただきますと、63ページの真ん中あたりの 下から2つ目の●でも、国内外の生態系の管理、環境劣化の抑制に関し、女性の 参加を保障する。
前に国際環境年のときとか、国際なぎさ年とか、こういうときに私がたった1人の女性で、日本でやる国際的なイベントの準備というときも、私が入っていてあと20人ぐらいの方々は男の方ばっかり。だけど外国から来るいろいろなスピーカーたちは、これは先進国、途上国にかかわらず、女性が半分とか3分の1ぐらいお出でになりまして、「どうして日本では女は環境に関心を持っていないの」と。「いや、本当はいるんだけど、その人たちはこういう場には来ないのよ。実際になぎさ会議でも、海岸で毎日守っているのは女性なのよ」と。「じゃあ、そこへちょっと行ってみましょう。ああ、なるほど」というふうな、これがジェンダー構造なんですね。
つまり、私どもは謙譲の美徳で表に出ないようにいたしておりますが。これでもずいぶん謙譲の美徳を発揮して、本当に言いたいことは言わないで、今日は3分の1ぐらいで抑えることにしているんですけど。この構造がございまして、その結果、やはり究極は情報のジェンダーギャップが出てきます。女の人が国際的に何が議論されているかというのは、よっぽど物好きでのこのこ出ていって、「NGOですけど入れてください」とか言わない限り、情報が女には入ってきません。
今度、日本の政府代表などで、学者でも何でもなんですけど、インフォーマルなシンポジウムでも、今度は男の方たちはなんで外国の女性の人や男性の人が、ジェンダーの視点に立って発言していらっしゃるのかを理解おできになる感度が、まだ養われておいでにならない方が多い。ちらほら、このごろ少しおいでですが、これが大問題だと思います。国際的に見てですね。
そこで、少子化対策ということも、このようなジェンダー・センシビリティーと称しますが、これが弱いところで対策に一所懸命お時間もお使いになり、私たちの税金を使って、こうやって電気を使って絨毯があって、そういうところでやるけれど、あまり効果がないように思われる。この十何年来、少子化対策というのは行われているわけですが。ここの問題、つまりジェンダー・センシビリティー・トレーニングというのを何らかのかたちでしないとならない。これは口でこんなことを言ってもダメで、ロールプレーとかいろいろなことをしてますと、一番パッとくるのはお嬢さんだけをお持ちとか、孫娘をお持ちの男の方は少しわかりますが、いわゆる優秀という息子だけをお持ちの方がご理解いただくのに一番時間がかかります。例外はありますけども。ジェンダー・センシビリティーを獲得するということでですね。
あるとき、ストンと胸に落ちるんですよ。「あ、そうか」というふうに。そのことは今日ここではできませんが、これにつきましては途上国の男性官僚、それから国際協力に従事する方が、NGO、いろいろな方たちが割にトレーニングの場を経ておいでになりまして、特に途上国の方たちは、いろいろなトレーニングの場があるものですから、心の底では何を思ってらっしゃるかわかりませんが、口先だけでは議論に乗っていける男性が多いんです。これはお国のために大変大事なことなので、ぜひこの少子化対策についてお考えになる場合には、その種のことも併せてお考えになっていただけるとありがたいと思うんですね。
ここのところで、往々にしてアンセード、リオ・デ・ジャネイロの環境会議のあと、結局途上国は人口過剰で資源も限界があるから子どもを減らさなきゃいけない。だから家族計画を進めましょう。家族計画を進めること自体、私は個人的に大賛成なんですけども。我々、先進国は子どもの数が少ないから増やしましょう。これはどういう意味をグローバルに持つのかということを、やはり哲学的に考える必要があるというふうに思っております。
時間がないので先に進みますけど、それと同時にちょうどリプロダクティブ・ヘルス/ライツという概念は、リオ・デ・ジャネイロの文章には乗らなかったわけですけども、そのときにすでに、そこに参加した人たちの中にはその言葉をたくさん聞いていた人がおります。これは1984年ですよね。メキシコの人口の会議。それは政府のお役人さんがほとんどお集まりになっているとか、学識経験者がお集まりになったので、84年にアムステルダムで世界の女性健康会議というのが開かれまして、その後ずっと2年おきぐらい、1年おきぐらいに世界の各地、ほとんどその後は南のほうですが、そこで女性の会議が開かれまして、やはり人口課題というものを男の視点だけで決めていただかずに、女も発言に参加したいということと、それから生む、生まないは男が強姦したら、それから望まないセックスを夫が強要することで生みたくない子どもを生んで体をこわしていくとか、望まない妊娠をして望まない中絶をすることで自分の体を蝕んでいく。いろいろなことがございますが、そういうようなこともあるし、それからあとは先進国の女の場合には更年期障害とか、そのあとのガンに際してどういうことがあるかというのも含めて、生涯をかけた健康ということをどう考えていくかということが女性の間で大変問題になったわけです。
日本の母子手帳というのは、大変優れた制度だと世界に誇れると思うんですけども、でもあれも、お子ちゃまは胎児からずっと生まれたあとも健診で資料が載りますし、学校に入れば学校保健で管理されますが、生む女は妊娠したときから出産までの記録だけが載って、あとはスッポリ外れるということです。ですから1人目の妊娠だけじゃなくて、2人目までにどういうことが起こるかということの記録も取れないということでございまして。やはり日本はお子様は大事、女は生み道具という前提がずっと続いているというところにも、女性たちがクエスチョンマークを提示したというふうにいえるかと思います。
それから、次の1994年の国際人口開発会議では、これは次の資料の2でございますけど、これもやはり目次を見ていただきたいんですけど、第4章が「両性間の平等、公平および女性のエンパワーメント」という、こういう言葉がいわゆる世界女性会議とかいう女の会議ではないこういう会議で、グローバルなイシューの会議でこの両性間の平等というようなものがはっきりとチャプターのタイトルに出てきた。これについては、いろいろ国際会議のときにも議論がございまして、賛成なさる国と反対する国があったわけですけど。その際にA、B、Cのところで、「男性の責任と参加」というのが入ってございます。つまり、家族計画その他も、母子保健の発想で女だけにやってきた。ODAのときでもですね。国際協力の。ところが、やはり男性が本当にそのことを考えないと、いつ、どれだけ子どもを生んで、どういうふうに育てるか。その子どもを育てる環境は、人間的な環境もですし、社会環境も経済環境もどういうふうにあったらよいと思うかということを主体的に考える必要ということです。
往々にして、妊娠させっぱなしで、あとは知らん。「おまえがゴロゴロ生みやがって」とかですね。そういうふうな表現。これに対して、やはり母子保健ではない、男がどう入ってくるかということが大事だというところ。
7章が「リプロダクティブライツとリプロダクティブヘルス」というところですが、このような項目で出てございまして。第1章の前文と、それから第4章の両性間の平等というところと、第7章をここでコピーしていただいておりますので、お忙しいでしょうけど、ぜひご覧になってご検討くださいまし。
それから次が、今度は日本における少子化とリプロダクティブ・ヘルスの問題ですが。私は日本の過疎地域で文化人類学的な調査をさせていただいておりますが、あるカップルは4人生んでいらっしゃいます。4人とか3人。生める人は4人か3人生んでいるんですね。あと、結婚しない、ないしは結婚したくてもできない男と女がその村にいるわけです。それはほとんど跡取りですね。跡取どうしがいて恋愛もするんだけど、結婚できないんです。なぜか。お墓、位牌、仏壇、どうするということです。これは時間があれですから横に置きますが、そういうところで本当に結婚したい人が結婚できないでいるし、万一その人たちがセックスをして妊娠したら中絶をしているわけですから。
この種の問題も含めて少子化の問題というのは大変大切でして。町長さんや市長さんは、ですから出産お祝いといって前は5万円出していたんだけど。額に入れるような、「この度あなたはお子さんを生んで、何とかちゃんを生んでおめでとう」とかいって10万円とか5万円とか、市町村によっては30万円とかですね。3人目なら40万円と。だけど、その40万円というのはどうですかと聞いたら、やっぱりそれこそ教育費にお金がかかるから。過疎のところであれば小学校もない、中学校もないですから、自動車の送り迎えもしなきゃいけなくなっちゃったり。山の子どもほど歩けないんですよ。東京の子のほうが、地下鉄の階段を上ったり下りたりしてますから足腰が強くて。自動車に乗ってばっかりいるわけです。そして保育園もだんだん合併、合併で廃園とか何かで少なくなります。学校もそうなりますから、そういう過疎地域ですと高校はだいたい下宿になります。下宿させるから金がかかるとなるわけですね。
そういうところで、今度は高校を受けるために、私は今回、小学校に先週行っていたんですけど、今度小学校に入るお嬢ちゃんのために英語の勉強、ピアノの勉強。リンゴ農家ですよ。みんなするから月々10万かかるというんですよ。1年生。そうしないとダメだというふうに、それこそコストパフォーマンスを考えないけれど、でも現実にはそうなる。そうすると、絶対にこのリンゴ農家をそのお子さんたちは、子どもが4人いるんですよ。おめでたく男2人、女2人。ですけれど、誰もこれを継がないだろうということは、みんな自明なんです。その代わりUターンの人とかIターンの人がいまして、「私たちはここで生き返った」とかいって、「私は脱サラしたんです」とかいってやっている方もおいでなんですけどね。
すなわち、先ほどもおっしゃっていたように、小手先でいくつかいままですでに育児休業法、その他その他試みて、それはないよりあるほうがいいというよりは、なくちゃならないことです。しかし、それだけですむかというところを私たちは本当に真剣に考えなければいけない。1.57ショックもあったし1.47ショック、ちょっと上がったけどまたグッと下がったというんで大ショックみたいな今日なんでしょうけれども、この際、女は生まないというだけじゃない、若いお父ちゃんたちも子どもを生む気がなかったりしているわけですよね。育てるということや何かについての希望が持てる社会。それをつくっていれば、人間はやっぱり生むと思うんです。だけど、日本の場合は生みたいが生めないという状況。
今度は途上国の場合には、生みたくないけど生んでおかないと心配だ。つまり乳幼児死亡率も高いし、老後私はどうするということで、社会保障の代わりのように生んでおかなきゃ心配だというんで生んじゃって、そのうちにちょっと衛生状態とか医療状況のほうがよくなりますと、今度は学校も行かなきゃいけないとなって、今度は開発発展貧乏と申しましょうか。結局、生活水準が上がることによって、いわゆる貧しくても楽しくうるおいのある生活というのがなくなって、みんながガツガツ、しかもときには飢餓で死に瀕するというような状態になっているという、非常に奇妙な文明の皮肉だと思います。
日本の総理府の男女共同参画推進本部というところでは、第4回世界開発会議に載りまして。これは資料の3でございますけれども。基本的政策というのを各省庁、一番後ろのほうのページにどんな省庁が理論的にはご関係になっているかということがリストに載ってございます。私どもはジェンダー研究センターというところなので、例えば韓国の女性基本法というのを1995年に韓国が制定なさいましたので、その女性基本法に関するお話がありますからおいでいただきたいというご案内をこれらの方々にお出しするのに、担当の方のお名前がわかってその方宛にお出ししたいということでお電話をしましたら、「へー、うちの課はそんなことに関係してるんですか」という課もあるんです。ですから、これはそんなオプティミスティックに読めないんですよ。これの中の5つぐらいのところは、「はあはあ、それは誰それが担当しております」と、すぐおっしゃっていただけるんですが、「へー」とかいってですね。その担当していることになっている方自身が、今度はそのご自覚がおありにならないということもあるので、あまりこんなに立派にやってますなんて。国際会議では日本の政府代表はおっしゃるんですけど、現実はなかなかまだまだなんです。
あとから2枚目のところに、いわゆる理論的には内閣総理大臣を本部長としまして、こういうふうに組織ができておりまして。これは大変大切なことなんですね。人口問題を考えるときも、やはりジェンダーの視点を入れるとすると、このようなナショナルマシーナリーですが、構図が大事になるかと思います。
3枚目、4枚目のところに9番、「生涯を通じた女性の健康支援」というので、政府がつくってらっしゃる男女共同参画2000年プランというところにはリプロダクティブ・ヘルス/ライツの課題として文部省、厚生省、労働省などが関係するし、それからHIV/エイズや性感染症対策とすれば警察庁、文部省、厚生省なども関係なさるというふうになっていて、日本の1つの施策の、これはNGOの立場とするとまだまだ不満なんですけど、まあまあこういうことがあるというところでございます。
レジュメで抜けていますがdとしていただいて、社会政策のジェンダー・バイアス、つまり誰が決めてきたのか。これは年金その他でオオサワマリさんとおっしゃる方もいろいろなところで発言しておいでですけれども。例えばこの厚生省さんに関係するところとか法務省に関係するんですが、これは資料の4と下のほうになってまして縦ですが。刑法の第29条が「堕胎の罪」というのがございます。これは第212条にあるように、懐胎の婦女に対する罰則が書いてございます。第213条は、今度は婦女の嘱託を受けまたはその承諾を得て堕胎せしめたるもの、これはお医者様が多いわけですが、それに対する罰則があります。だけど、強姦して妊娠させちゃった男、それから望まないセックスを妻に強要した夫、この人たちには何も、セックスしっぱなしでいいというふうになっている。これをジェンダー・バイアスと称するわけです。仮にこの法律を変えたとしても、男はさっさと逃げていって、赤ちゃんは女のお腹にいますから。知らんぷりされるから、法律を変えたからといってことがそうすぐ変わるわけではないんですけど、ここがジェンダー・バイアスですね。
その下、この母子保健法の、同じ資料4に頭のところだけコピーしてございますが。第2条「母性の尊重」というところの母性というのは、女の体じゃないんですね。文章でお読みいただければわかりますように、母性というのはお子ちゃまをはらむ女の体なんです。その間だけちゃんとしてりゃいいんですね。ところが、ここでいう母性すら脅かされているというところが、また今日の環境問題としては大切なところだということで。あと2〜3分で終わります。
環境汚染と人口問題というところでは、資料の5ではリプロダクティブ・ヘルスと環境という工作舎のこの本の目次だけをコピーしてございますんですけども。これは国際交流基金がヨーロッパのさまざまなエコロジー、環境問題に関心を持っている女性の方々を招待なさいまして、日本の環境問題に関心のある方たちが一緒にいろいろ考えるということでやった一連のシンポジウム、その他のイベントの報告をもとに1冊の本にまとめられているものですけど。綿貫礼子さんと上野千鶴子さんの編集でおまとめになったんですけど。
ここで出てきていますのは、やはり内なる環境としての身体。人間にとっての環境というのは、人間の体の外にあるのだけが環境ではない。もっと内なる環境というのをしっかり考えようということで。しかもこれは女の体だけではない。男の体もそうなんだ。そして次に生まれてくる子どもたちにとっての環境は、そういう男の方々の精子、女の体が持っている卵子の他の子宮とか、その他その他の胎児の環境ですね。それの質がどうなっているかということを考えましょうというところで、私はどうしてこの『プレイボーイ』を持っているか。
これは最新号です。3月25日号ですが、いま売っているけど売り切れているかもしれませんし、もうすでにお買いの方々もいらっしゃると思いますが、このトップが「ぐわんばれ、俺たちの精子」というんです。というのは、いろいろな環境汚染の結果、これは『プレイボーイ』ですけども、いろいろなところで研究が行われているようなんですが、ダイオキシンとかその他の科学物質のようなものが、同じ体の中でも結局は生殖機能のところに集中して、女の体でいえばおっぱい、母乳とそれから今度は胎児の中にずんずん、ずんずんそういうものが集中して出てくるから、いままでもいろいろな経験があって皆様ご存知と思いますけども、赤ちゃんがそういう悪いものを持って体外に出てくれるから、お母さんのほうがお掃除してもらったようなもので、少しはよくなる。水俣病でも少し軽くなるとかですね。こういうことはいくつもの例があるんですけど。
最近は、私はあまりこのことは詳しくは知らないんですけど、例えば『女性セブン』は次々連載中で、女の人の読者にすごい関心があるからこれが連載記事として成り立つんだと思うんですけど、本当に子どもを生もうと思って妊娠したら、結局私の体の毒を胎児が連れて出てくれるということになっちゃう。それは本当に親としてやっていいことなんだろうかどうだろうかということすら考える人もいる。「えー、原さん、あんなヒステリックに言ってらぁ」とかお思いになる方もあるかもしれないんですけど、このへんの研究と情報が、日本では結局『プレイボーイ』とか『女性セブン』を通じて「えーっ」てみんなが言うと。もう少ししっかり、いろいろな‥‥『プレイボーイ』がダメというんじゃないんですよ。だから私は『プレイボーイ』を尊敬することにしたんですよ。他のページもなかなかお勉強になります。はー、いまの日本というのは、こうなっているか。先生もとてもお勉強になると思いますよ。なんですけども、この種の問題を併せて考えると、結局行き着くのは経済の問題にいくと思うんですね。だから、経済を労働力とかそれだけで考えずに、資源の循環ということで考える。
例えば日本のそういう意味での汚染の度合いというのは、日本の工業界で出しているのも、それから中国からくる風もみんな含めて大変な状況になってるし、それと同時にたくさん、たくさん私たちの産業界がいろいろな汚れたものを排出している。その責任というのをどう考えるかというのがあると思いまして。
5番目の「地球規模課題とジェンダー」というのは、1つは少子化とか人口爆発とかということを考える際に、日本の役割って何かということと同時に、産業界のそういう環境。次世代の育成をめぐる問題として、どうも欧米の人たちと比べて、こういうのはたいていNGOが強ければいろいろな情報が人々にいくんですが、日本はNGOが弱いもんですから情報がいかなくて。私、環境庁の審議会の委員もさせていただいているんですけど、やっぱり環境庁は弱くて、通産省さんと建設省さんがおっしゃると、今度の環境アセスの問題でも、まあよくぞ頑張ったとは思うんですけども、でもそこまでで。実態が今度またどうなるかわからないというところで、厚生省さんがうんと強力になっていただいて、建設省さんや通産省さんと対等にやり合っていただくように審議会の先生方が厚生省のお役人をぜひバックアップしていただきたいなと思います。

宮澤会長

どうもありがとうございました。それでは、ただいまのお話につきまして、ご意見、ご質問をお願いいたします。審議会に対する強いご注文もございました。よろしくお願いいたします。
1つお聞きした中で、ジェンダー・センシビリティーの問題では、お子様大事、女性は生み道具という、その捉え方。これは日本と海外、先進国、あるいは後進国と比べて、どの程度の社会的共通性があるのか、日本的特殊性があるのか。あるいは、その現れ方もいろいろ違ってくるかと思いますが、そのへんどういう具合に考えたらよろしいでしょうか。

原 教授

韓国も日本とパーですね。それに今度は、日本では女の子も家の跡継ぎになれるんですね。でも、父親のお葬式のときに女の跡継ぎが喪主をやれるというのは、農村その他では可能な村とそうでない村がございまして、喪主はお父さんのほうの弟がやる。男が喪主するんだというふうなところもたくさんございまして、跡継ぎだ、跡継ぎだって責任感をずっと培われて育って、お父さんが死んだときに「おまえは喪主できない」って言われてショックというようなことのエピソードというのは、たくさんあります。日本でもですね。
でも、韓国ではやっぱり男を生まないとまだあれで、娘だけ持っていても。今日びの日本では世論調査だと、男の子より女の子がほしい、なぜならば老後面倒をみてくれるから。これもまたジェンダーっていうんですが、韓国の方は羨ましいとおっしゃるんですよ。ですから、胎児診断が発達しますと、いまや韓国も、それから中国もそうですし、インドにも見られますが、女の胎児を中絶して、男の子どもだけ残すから、生まれてきた子どもの性比が逆転していくと。そういうこともございまして。ひどいところは、もっとひどいところもあるんですが。でもノルウェー、特に北欧の国々というのは、そういうところは非常に真剣に。これは先ほど河野さんがおっしゃってた、1930年代の少子化現象のところで真剣に考えた結果が、政策的な転換を行った結果というのがいまにもまだ持ちこたえているような気がいたします。

宮澤会長

ありがとうございました。どうぞ。

小林委員

いまノルウェーという国が出ましたけれど、原先生がご覧になって、女性から見て一番進んでいる国というと、やっぱりノルウェーになるんですか。

原 教授

とかスウェーデンとか。

小林委員

先生は女性の会議にいろいろとお出になっておられますね。最高点をあげるとすればどの国で、どういう点が一番いいんでしょうか。

原 教授

私、人のことを羨ましがったり、日本よりはどっちが進んでいる、どっちが遅れてるって‥‥。

小林委員

モデルになるのは。

原 教授

そういうよりは、日本のモデルをつくらないとダメだと思うんです。どうしてもノルウェーの国とかスウェーデンは小さいから。何々県より小さいんじゃないですか。だから、合議制といってもやっぱりやりやすい。日本のこのサイズで、この狭さで、また人が住める場所が限られていて山が多くてというようなところで、どうやって私たちの日本モデルをつくっていくか。もしそれをつくれば、もしかしたらそれはネパールにとって参考になるかもしれないというのがございますね。
そういう意味じゃ、世界の国でこんなふうになっちゃってるのが日本だし、中国はあれだけ広大で多民族国家ですから、またまた違う。私、日本は単一民族国家だって言っているんじゃないんですよ。そういう意味じゃないんです。ですけれど、人真似よりは自分たちでちゃんとしないといけないと思います。
ただし、概算要求の書類なんかつくるときは、だいたい私どもはいつでも「ジェンダー研究はどことどこの国が進んでいて、日本では遅れている」とか、「韓国でもこんなにやっているのに、日本はまだやってない」。その「韓国ではこんなにやっているのに日本でまだやってない」というと予算が取れるんですね。この変な縦軸の考え。我々が常識として遅れていると思われている国よりも日本が遅れているというとお金がつく。これもおかしいと思っています。
ノルウェー、スウェーデンはそういうふうにいえばいえるんですけど、でもそれは真似できなくて、私たちは私たちのシステムをつくらないとダメだと思います。

小林委員

僕は自分自身の経験では、ノルウェーに3回行ってみて、ノルウェーが非常にそういうことは進んでいるんじゃないかと実は思っているんです。ノルウェーが一番進んでいる理由は、僕は政策に直接関係している人に女性が多いことじゃないかと思うんです。

原 教授

40%、60%というクオーターをつくっているんです。だから、いずれの性も40%以下になっちゃいけない。いろいろな部署。国会も、それから内閣も。だから男ばっかりになってもいけないし、女ばっかりになってもいけない。その幅は40〜60%の間ではいいことにしましょうと。この原則が立てられているということは、非常に大きいと思います。でも、日本じゃまだまだですよね。

小林委員

まだまだですね。

原 教授

20年かかるでしょうか。

正村教授

私もいいですか。発言権はあまりないのかもしれないけど。

宮澤会長

お願いいたします。一番最初に2割違っているところがあるという話もありましたし。

正村教授

違いを強調するつもりはありませんけども、この機会に大変興味深く伺ったので。
端的に伺いますけども、原さんがご紹介になっている94年のカイロ会議に私もちょっと興味を持ったんですが。つまり、上から強制された産児制限運動みたいなものでなくて、女性のエンパワーメントというのを非常に強調するわけですね。これは、直接には開発途上国の、原さんのおっしゃる人口課題ですよね。人口課題に対応するためには、なによりも女性のエンパワーメントが必要である。こういうことを言っているんだと思います。それは非常に重要なことだと私も思うんですが。
端的に伺いたいのは、先進社会の人口課題は、開発途上国の人口課題とは違いますね。少子化をどうお考えになっているかも本当のところを伺いたいんですが、仮に少子化のいきすぎということを私のように考えた場合に、先進社会においても、いまノルウェーの話とちょっとヒントになるかもしれませんが、女性のエンパワーメントこそが解決策である、対応策であるというふうに考えられるんでようか。

原 教授

私は女なら平和だとか、女なら生活が見えるとか、そういう論法は私は乗らないんですね。なんですけれども、やっぱりいろいろな特性を持っている人、だから国連文章に出てくる障害者、先住民、女性、それからいろいろな表現を使います。高齢者とか年長者とか、いろいろな表現を使いますが、いろいろな状況にある人間が意思決定に参画していくというふうな仕組みというのは、本当に大切だというふうに思っています。
少子化のことは、少なくなったからたくさん生ませようと考えることもいいんです。それも思想の自由ですからいいんですよ。言論の自由ですからいいんです。しかし同時に、子どもの数が減って老人が多くなったときに、どうやって知恵のあるやり方が思いつけるような高齢者育てっていうのかしら。次世代育成力という言葉を私は使うんですけど。『母性から次世代育成力へ』という本を書いているんですけども、この次世代育成力というのは、何もお子ちゃまをどう育てようという、後継者をどう育てようということだけではなくて、私は次の世代の80歳のババァになったときに、どういう80歳のババァになろうかということで、自分育てもするしまわりの方にも育てていただく。それから、もし私が目が見えなくなったときに、やはり目が見えない自分として、どうやって暮らすかの知恵を、いまちょっと見えますが、見えるうちに学習しておこう。こういう自分育ても含めての次世代育成力。
こういう発想でいって、どういう状況になる。難民の方がドーッとやってきたとき、そこでいろいろな性犯罪も起こるだろうし、強姦もあるだろうし、いろいろな病気もあるだろうと。そういうときに、そこでまたみんなで暮らしていく。追い返すわけにもいかない。だけど、一緒に暮らすとなったら、それこそゴミはどうする。私たち住民は、いま少しゴミについてどうしようということを考えてますが、そういうことを一切考えてない方々がやってきて、バンバンやりだしたら、そのときにそれを「困ったヤツだ」といってバカにするんではなくて、一緒にどうやって暮らしていくんだろうか。こういうこともやはり5年先を考えて、5年先の私たちのコミュニティー、地域の生活。それから、病気になって健康保険がない人。その人たちがうんと病気になったときに、すでにいろいろな病院でも大変ご苦労なさってますけども、これをどうするんだということも含めて考える。
だから、少子化が困ったとか、そういうふうに考える前に、いろいろな状況に対応できる知恵のある。それこそ答えがどうあるかわからないけど、知恵のある人間が増えるような、またそこへ入ってきた人たちと一緒に考えていけるような人と人との絆が結びあえる。言葉は通じなくても、それから宗教が違っても、それからあるところの美学が異なっていても、「ちょっと臭いな」と思いながらも何とか付き合う。そういう人と人とのつながりができるようなことを考えるというので、そういう意味で一人っ子で大事に育てられたらそういう人間が育ちませんから、一人っ子の場合には兄弟に代わるいろいろな刺激。喧嘩の体験とか何かも含めてですね。痛みを感じる体験とか。逆に子どもが病気も少ししたほうがいいように思います。全然病気しないで、40歳ぐらいになって急に病気して、「もうオタオタして。そのくらい、ちょっと人生を深く考えるときだと思えばいいのに、もう俺の人生はおしまいで出世競争に負けちゃう」とかいってガックリして、奥さんももうガックリして、子どももガックリしてね。これでお父さんダメみたいと感じちゃって。だけどお父さんがそんな体の状況だというのを親は一所懸命子どもに隠しているつもりだけど、子どもは全部わかっていると。そういうふうなことでない。
そういう意味でおっしゃるところで賛成する部分は、いろいろな事態に直面しても考えていける人間。

正村教授

そうすると、結論としては、少子化について何かをしなきゃならないという問題意識は、原さんはお持ちでない。

原 教授

あまり強くない。2ぐらいあります。それから、少子化に対して、子どもがどういう環境で生きるべきかということであります。だけど、もう一つは人口爆発か人口消滅か。つまり、生殖能力を脅かすような‥‥体のレベルでですよ。そういう環境を私たちはいまつくっているんですよね。そこのとここそ考えなきゃいけないけど、ここには通産省とか、あと産業界の代表の方、いらっしゃいますでしょうか。建設省とかですね。それから科学技術庁のあれも、結局対処療法的に、何か悪いものが出てきた。それをコントロールして煙突とか排水溝から出さないようにするにはどうすればいいかという研究はたくさんお金が出ます。いまね。科学基本法もあって、それは出るようです。しかし、もっと根本的なシステムを変えることによって持続可能なストックの長期にわたる効率的利用ということを可能にするシステムを構築するには、会社はすぐには儲からないし、そういう会社は株も上がらないかもしれない。そういうことこそお国とか私たちの税金で、ないしは国際機関のお金でしっかりそれを支えて長期展望に立った人類の将来というのを考えるべきじゃないかというのが、私の結論なんですけど。言うのはやさしくて、ペシミズムになります。

正村教授

ありがとうございました。すみません、余計な口出しをしまして。これから議論したいところなんですけども、時間がありませんから。どうもありがとうございました。

河野専門委員

前回もしゃべって、また申し訳ないんですけど。3つほど質問があるけど、実際時間的にどうかと思いますけど。
1つは、このリプロダクティブ・ヘルスというのは、女性が生みたいときに生み、生みたくないときには生まないと。それはもちろん男も入ると思うんですよね。しかし、意見が分かれたときには、やはり女のほうが勝つんでしょうかね。

原 教授

勝ってないんですよ。現実には勝ってませんから、変えてよって言っているんですね。

河野専門委員

そうしますと、結局よく言われていましたのは、人口は数ではないと。よく人口学者はいらないとか、よく言われたんですね。1994年のときですね。それはいいんですけども。

原 教授

いらないとまでは言ってないです。

河野専門委員

原さんが言われたわけじゃないんです。そういうことで、人口問題は確かに数ではないということなんですけども。目標ではないということなんですけども。そういうふうに女性が生みたいときに生み、生みたくなければ生まないという状況で、何も目的とか何かないと、結局‥‥これは原さんも書いておられた、一種のレッセフェールになりますね。どこにいくかわからない。そうすると、一方では地球環境の破壊があって、人口増加を抑制するという、人口の安定化を図ろうというのがあるとしても、それはどうやって安定化するかどうかわからないという、そういう問題があると思うんですね。そのへんをどうやって解決するか。
最後は、確かにジェンダーもものすごく問題だと思いますけど、私は日本のような社会は年齢に対する差別というのがすごいと思いますね。例えば60歳になったら定年するとかね。非常に優れて健康であっても自動的にすると。それから、いろいろな年功序列制度や何かもそうですよね。非常に優秀な方でもなかなかいかない。そういう年齢の差別というのがものすごいと思うんですけども、それはある意味ではジェンダーと亀甲するぐらいのあれだと思うんですけども、そういうのはおやりにならないんでしょうか。

原 教授

あります。だからこそ、先ほど正村さんもおっしゃってましたように、年をとっても働ける人。働き方がやっぱり自分にとってほどほどの、私の言ううるおいがあって楽しく。そんなに収入はなくても、働いている喜びと生活のリズムが楽しめるような生活をするには、まわりがうんとしゃかりきに働いていると、夕方5時に私が退社しますと、朝来てみたら会社の様子は、議論もいろいろあったりして、昨日の4時ごろ話していた前提は違っていて、別の方針でみんながワーッと働いていると。そういうことってありますですよね。私どものところでも概算要求していると、1日パートの方が来ないと、明後日くると前提が変わってまして。文部省に問い合わせたりしているうちに何か言われて、前提をビッと変えて書類を書き直しますね。そうすると、全然変わっていて、パートの人が一所懸命考えてきてくださったことが役に立たないということがあります。だから、働き方というのはものすごく大事だと思うんですよ。これが年齢差別。定年があるかないかというよりも、もっと大きいと思います。
それからレッセフェールに関しては、私の主張はレッセフェールですが、レッセフェールをするときにレッセフェールしたら社会がカオスになるというふうに思うからレッセフェールを恐れる人がいるんだと思うんですね。だからこそ、そこにエンパワーメントという概念が必要になってきて、本当に私の人生をしっかり見つめる人。それから、私の人生と世の中との関わり、これも我が村、我が町、我が家だけではなくて地球規模で考える人。そういう人が増えることによって、みんながきっと考えていくだろうという。これになると、極度のオプティミズムで、「あんたどうなったの、気が狂ってるんじゃないの、人間そんな甘いもんじゃないよ」と言われるでしょうけども、要するに理論的にはそういうことを目指すことによってレッセフェールが最大多数の最大幸福をもたらすであろうというふうに考えるわけです。
よくご存知の例ですけど、インドのケララ州などでは識字率が上がり、そして女の人の収入が、経済基盤ができてくると、子どもの数は減っていったわけですね。男女の対等な関係も深まっていった。こういう事例は途上国にはいくつもございまして、インド全体で見ると大変なんですけど、特定のケララとか、何とかという事例である程度の地域を限り、コミュニティーを限ってみると、そのようなミクロの事例はいくつもございます。
だから、そういう意味でエンパワーメントとレッセフェールを重ねると。組み合わせるという立場を私自身はとっています。

宮澤会長

まだ質問もお聞きしたいのでございまが、時間も超過いたしました。本日はご多用のところご出席いただきまして、ありがとうございました。両先生、本当にどうもありがとうございました。
なお、次回以降の日程につきましては、事務局で調整中でございます。
これで本日の総会を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

問い合わせ先 厚生省大臣官房政策課
   担 当 齋藤(内2931)
   電 話 (代)[現在ご利用いただけません]
       (直)03−3595−2159

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