0 「創薬ビジョン委員会」について
・委員会の設置目的と討議経過
我が国の製薬産業が将来に向けてどのような展望を持って活動していくべきか、国としての役割はなにかについて、主として技術的側面から、 分析確認し、21世紀に向けた製薬産業の研究開発活動を中心としたそ の方策について提言するとともに、その実現のための国の支援方策について提言する。
1 創薬の目標 「良い薬」とは
・有効性・安全性が高く、患者の生命・生活の質(QOL)を向上させる医 薬品の開発
・このほか、国民医療費を低減する独創性が高く、世界に通用する医療の質・効率性を向上させる などの要素も重要
・具体的な「良い薬」の例
H2受容体拮抗薬(抗胃潰瘍薬) → | 外科手術不要 |
患者の身体的負担の軽減 | |
医療費節減 | |
プロテアーゼ阻害剤(抗エイズ薬)→ | エイズの症状の悪化防止 |
患者の延命 |
2 創薬研究促進政策の必要性
経験則による薬の発見 草根木皮の類
天然物からの有効成分の抽出 真菌類からのペニシリン等
候補物質の化学合成及び無作為薬効検索 合成抗菌剤等
生理学的知見に基づく代謝拮抗薬・受容体拮抗薬の開発 H2受容体拮抗薬等
生体内微量活性物質の遺伝子組換えによる大量生産 インターフェロン等
ヒトの全遺伝子解読結果に基づく新機能物質の臨床応用
3 基礎研究の推進と国の役割
6 創薬ビジョンの実現のために
座長 | 寺田 雅昭 | 国立がんセンター研究所長 |
姉川 知史 | 慶應義塾大学大学院経営管理研究科助教授 | |
内山 充 | 日本公定書協会会長 | |
衣非 脩 | 武田薬品工業株式会社取締役 | |
長尾 拓 | 東京大学薬学部教授 | |
野口 照久 | ヘリックス研究所社長・山之内製薬株式会社相談役 | |
宮田 満 | 日経BP社医療局ニュースセンター長 | |
矢崎 義雄 | 東京大学医学部教授 | |
山本 功 | メリルリンチ証券会社東京支店投資銀行部門 |
近年、世界的に平均寿命が延長し、特に我が国は世界第一位の長寿国となっている。これには、公衆衛生の向上、乳幼児死亡率の低下等が直接的な寄与をしていると考えられるが、その背景には、抗生物質等の有効な医薬品の開発及び実用化があることを忘れてはならない。
がんや循環器疾患、痴呆等、今後、社会の高齢化や生活習慣の変化に伴って患者数が増大すると予測される疾病があるが、これらのうちの多くのものについては、適切な治療方法が確立していないか、あるいはあっても必ずしも予後が改善しないなど、いまだ克服されたとはいえない状況にある。また、病原性ウイルス及び細菌による感染症の問題も、HIV感染症、エボラ出血熱等のウイルス感染症や従来の抗菌薬に多剤耐性を示す細菌による感染症、O157等の病原性大腸菌による感染症等のいわゆる新興感染症の発生によって、改めてその重要性が認識されるに至っており、この分野においても医薬品の果たすべき役割は大きいものと期待される。
しかしながら、医薬品開発には多大な時間及び経費が必要である。米国連邦議会技術評価局(Office of Technology Assessment;OTA)の調査によれば、開発に要する費用は経年的に増大し、1980年代の新薬1品目あたり開発費総額は、1970年代のそれの5倍以上になっている。我が国における新薬開発に要している期間・投資については、現在まできちんと調査されたことはないが、日本製薬工業協会によれば平均開発期間は15年、1品目あたりの開発投資額は200億円に及ぶとのことである。また、今後開発が求められる画期的新薬については、有機化学、物理化学、生化学等の従来の学問分野のみならず、分子生物学、遺伝子(ゲノム)科学、構造生物学等の新しい分野も融合した「創薬科学」に基づき、新しい考え方による研究が行われる必要がある。
本委員会は、平成7年10月の発足以来、10回の会合を開催したが、その討議経過は以下のとおりである。
(委員会討議経過)
第1回会合 (7.10.23 | 委員会の進め方について議論 |
第2回会合 (7.12.6) | 「創薬の障害となっているもの」及び「よい薬の判断基準」について議論 |
第3回会合 (8.1.25) | 関係専門家より意見聴取の上、「創薬目標の明確化」及び「基礎研究の充実と有効活用に」について議論 |
第4回会合 (8.2.27) | 関係専門家より意見聴取の上、「応用研究・企業内研究の望ましい方向」及び「研究開発費用の効率化のために必要な方策」について議論 |
第5回会合 (8.4.3) | 「薬価基準等の経済的環境要因の研究開発に与える影響」及び「技術評価の確立」について議論 |
第6回会合 (8.4.18) | 創薬ビジョンの骨子案について議論 |
第7回会合 (8.5.17) | 創薬ビジョン報告書案について議論 |
第8回会合 (8.7.30) | 同 上 (2) |
第9回会合 (8.10.16) | 同 上 (3) |
第10回会合(9.6.25) | 同 上 (4) |
創薬とは、「良い薬」を創ることである。
本委員会における議論に先立ち、国民が真に求める「良い薬」、すなわち、創薬の目標とすべき医薬品とは何かについて意見の交換を行った。創薬の目標とすべき医薬品は、第一義的には、安全性・有効性が高く、国民の生命・生活の質(QOL)を向上させるものであるが、具体的な「良い薬」の条件については、評価する立場により異なってくる。
例えば、新しい病気の発生の機序の発見に重きをおく学問的な観点からは、これまで治療法のなかった病気を治す薬、分子機構に基づいて病気の発生原因を直接是正する薬など、独創性が高く世界に通用する画期的新薬が「良い薬」となる。
また、臨床上の評価からは、高齢化に伴い疾病構造が急性疾患から慢性疾患へ移行しつつあることから、有効性が高いだけでなく、長期間に渡って治療効果が持続し、しかも患者の生活の質を損なわず、生命予後を改善する、そして医療の質や効率も改善する薬が「良い薬」となる。この観点からは、先にあげた「画期的新薬」はもちろん、軽症用から重症用まで使い分けられるような一連の薬物群や、各個人の代謝酵素活性等の生物学的背景に基づいて使用するものなども、医療の質を改善し得るものは「良い薬」といえよう。
医療費の負担者の観点からみると、国民医療負担を増加させずに患者の健康、生活の質や満足度を増大させる、経済効率の高いものが「良い薬」といえる。この観点からは、安全だが効かない薬は「悪い薬」となる。
しかし、たとえ副作用が強い薬であっても、適切に使用すれば副作用を最小限に抑えることができ、他の薬では得られない効果が期待できるものであれば「良い薬」となる。例えば、ヒト後天性免疫不全症ウイルス(HIV)感染症に対するプロテアーゼ阻害剤は、副作用があるものの、他の抗HIV薬と併用することにより、エイズ症状の悪化防止、患者の延命に大きな効果があると期待されており、「良い薬」といえよう。
さらに、病気を未然に防ぐための予防薬も、疾患による苦痛やそのために起こる経済的損失の面から考えれば、「良い薬」といえる。例えば、消化性潰瘍に対するヒスタミンH2受容体拮抗薬は、外科的手術を要するほど症状が悪化することを防止し、患者の身体的負担を軽減するとともに、入院、手術費を含めた医療費の削減につながっている。
これらのことから考えると、科学的に品質が裏打ちされ、臨床での有効性、安全性が保証され、経済性で国民医療負担の軽減に貢献し、高い倫理性及び社会性を持ったものが「良い薬」といえよう。
(1) 技術革新と創薬戦略の変遷
これまで、人類はより健康な生活を求め、様々な薬を開発してきた。近代科学の発展以前は、医薬品の発見は経験的なものに頼っていたが、19世紀初頭の草根木皮からの有効成分の抽出・精製以来、その当時の科学技術に則った創薬研究が進められてきた。医薬品開発も、それまでに知られていた生薬などの天然物からの抽出や、偶然の発見に頼っていたが、コンピューター技術、有機合成技術の進展により、医薬品設計の概念が生まれ、無作為有効性検索法による候補物質の探索と組み合わせた創薬が行われるようになってきた。特に、1945年前後からの創薬研究の概念には、約15年周期で新しい技術及び考え方が付け加わってきている。
まず、1944年にDNAが遺伝物質であることが示され、遺伝情報の基本概念が示された。抗生物質の開発もこの時期に始まり、1960年頃までの十数年間に、感染症治療は長足の進歩を遂げた。また、生理学的研究の進展から、受容体、代謝拮抗薬等の基本的な概念が生まれてきた。1960年からは、細胞間情報伝達における受容体の役割が実証された時代で、H1、β、H2等の受容体に対する拮抗薬が実用化された。また、有機合成による抗菌薬や代謝拮抗薬の開発も進められた。さらに、生体内での薬の動きを予測するために必要な薬動力学の概念が出てきたのもこの時期である。1975年には遺伝子組換え技術が開発され、遺伝子工学の手法により、生体内の微量物質である「生体医薬」を大量に作り出すことが可能となり、インターフェロンやエリスロポエチン等の「遺伝子組み換え医薬品」が開発された。1990年からは、分子生物学の進展に裏打ちされ、ヒトゲノム(生命を維持できる最小限の遺伝情報の全体。分子的実態はDNA)の解析が進められる一方、外来遺伝子を導入したマウス等を用いた、個々の遺伝子産物の機能の解明が進められつつある。これらの成果に基づき、細胞内情報伝達系や転写因子を標的とした創薬、遺伝子情報に基づいて生命現象の仕組みを解明し、そこから新規医薬品を創造する「ゲノム創薬」等の、全く新しい考え方による創薬研究が始まっており、分子標的療法や遺伝子治療等の新たな治療方法・治療薬の実用化への期待が高まっている。特に、生命の設計図とも言える遺伝子に操作を加える遺伝子治療用医薬品の開発、体外で細胞の性質を変えた生細胞をそのまま投与する細胞治療用医薬品の開発は、実用化に向けた研究開発が進められている。また、多種類の候補化学物質を短時間で、精度よく合成する技術(Combinatorial Chemistry)や、大規模なスクリーニングなどの作業を自動的・効率的に進めることのできる全自動装置(創薬支援ロボット)が実用に供され、実効を上げつつあり、今後、研究はますます加速されるものと考えられる。
現在、ヒトゲノムの全配列の解明が進むに従い、疾病関連遺伝子の発見が相次いでいるが、それに基づく「病的状態と遺伝子の異常あるいはその産物の質的・量的異常との関係に基づく創薬」という戦略は、2005年頃までの主流となると考えられる。
このように、ほぼ15年ごとに新しい創薬の目標あるいは開発手段が付け加わって、医薬品開発の可能性が広がってきていることを踏まえ、国としても早期に次の創薬目標等を明確化し、その分野を重点的に支援することによって、最新の科学技術を医療の現場にいち早く還元することが求められる。また、がん、痴呆、成人病などの遺伝的背景が明らかになるに伴い、これら疾病に対する予測医療、予防薬も、これからの重要な開発課題になろう。
(2) 医療上の必要性を反映した創薬政策
限られた資金及び人的資源を用いて、効率的に「良い薬」を開発するためには、臨床上必要な医薬品を的確に把握し、創薬の現場に伝達しなくてはならない。例えば、疾患ごとの患者数の推移の把握や、患者団体・専門臨床医からの要望の把握は重要である。国はこれらの情報を積極的に収集し、分析・評価・公表するための体制整備に努める必要がある。
また、医療上の必要性が高くても、患者数が少なく、開発投資に見合う収益が見込めない医薬品については、企業活動に任せるだけではなく、国としても研究開発の促進を行う必要がある。このため、平成5年に希少疾病用医薬品開発促進制度が創設され、研究開発に対する補助金の交付、税制優遇、優先審査等により開発促進が行われるようになった。この制度は着実に成果を上げつつあるが、今後とも、その活用に努めるべきである。
さらに、基礎研究の分野においても、医療上の必要性を反映した研究費の重点的配分を行うなど、積極的に国として支援を行うことが望ましい。
なお、先進諸国で新たに開発された画期的医薬品についての情報を積極的に収集し、安全性・有効性を確認しつつ、我が国においてもそれらの医薬品が早期に利用できるよう施策を講じるべきである。
(3) 創薬活動への調査、提言機関としての国の役割
これまで医薬品開発に関し、医薬品産業政策懇談会や21世紀の医薬品のあり方に関する懇談会などの報告、日本学術会議からの勧告「創薬基礎科学研究の推進について」及び医薬品安全性確保対策検討会の報告書等、いくつかの総合的な提言が行われてきた。しかしながら、次々と現れる新たな技術及び科学的知見を踏まえ、次世代の研究開発戦略を的確に予想し、継続的に提示するための組織的取組みは存在しなかった。このためには、産業の基本構造に関する情報の体系的収集が必要である。
このような組織的取り組みは、画期的医薬品の研究開発のように、高度に先端的、専門的分野において、中立的な立場から中長期的展望を把握するために重要な役割を果たすものと考えられる。
また、提言が一過性のものとならず、社会的要請等に迅速かつ柔軟に対応することができるようにするためには、既存の枠組みを越えて定常的に情報の収集・分析、政策提言を行っていく必要がある。
しかしながら、我が国にはこのような組織は存在しておらず、これに代替することのできる組織、例えば常設の委員会等を作る必要がある。このような組織が備えるべき機能としては、次のようなものが考えられる。
このような活動の結果として得られる情報及びその分析結果等については、創薬の現状をまとめた「創薬白書」として公表することが望ましい。また、これらの情報等に基づき策定された政策提言、重点開発目標等については、創薬の目標を掲げた「創薬青書」として公表することが適当である。このような作業を進める中で、国民に求められている医薬品についてどのような技術的・社会的障害があるのか、どのような形で問題解決がされるべきかの議論がさらに深まり、次世代の技術革新への道が明確になっていくものと考える。
本報告書においては、研究の段階を便宜上、「基礎研究」、「応用研究」及び「開発研究」に分けて論じることにする。このうち、基礎研究とは遺伝子の機能解析や、細胞分裂機構の解明のような、生理的現象や病気の原因の解明を目的とするもので、直接的に商品化には結びつかないものを指している。応用研究とは、基礎研究の成果を踏まえて特定の目的に目標を絞った研究で、疾病の発症に関連する因子の機能を抑制する方法に関する研究や、医薬品開発のための有効性検索手法の開発など、医薬品開発を視野に入れた研究を指す。
開発研究とは、応用研究で得られた知見をもとに絞り込まれた特定の薬理作用を示す化合物群(医薬品候補物質)を出発化合物として、医薬品として使えるように改良、検討を加えていくための試験研究を指し、医薬品としての商品化が第一義的目標となる。
(1) 現状における問題点
我が国は、先進諸国に比べ、国内総生産に対する政府研究開発投資額の比率が小さいと指摘されている。このため、大学や国立試験研究機関での研究は、国による重点分野の明示が不十分であったこともあり、総花的で細切れのものになりがちであった。また、学から産等の人材の流動性が低く、創薬につながるような、画期的な萌芽的基礎研究が実施されにくいという状況がある。
さらに、我が国の社会自体に内在する問題でもあるが、一般的に諸外国に比べ、研究者の流動性が著しく低く、優秀な人材が必ずしも適所に行き渡っておらず、若手研究者の雇用機会も少ない。このため、研究者の層が薄くなってしまっている。
創薬には、「偶然の発見」の要素も大きいが、偶然に得られた発見に気付き、拾い上げていくためには、研究者の層の厚さ、高い資質が求められる。
また、民間企業の行っている基礎研究についても、欧米企業に比べ、今後の創薬に欠かせない遺伝子研究、分子設計技術及び構造生物学等の分野が立ち遅れているという指摘がある。これについては、基礎研究を一社だけでできるだけの企業体力がないことや、今までは、国民皆保険・公定薬価制度のもと、開発危険性が高く、巨額の先行投資が必要な画期的新薬開発を行わなくても、改良型新薬開発だけで十分な利益が上げられたことなどが根本的な原因となっていると考えられる。これらの状況は、今後の健康保険制度見直しの中で大きく変化することになるであろう。
そのほか、最先端の研究情報・応用可能性を的確に把握し、個別会社の研究開発戦略に反映させるための効率の良い体制が企業内に整備されていないことも指摘されている。この結果、新規の画期的な研究課題より、他社でも研究を行っている分野の研究を行う「横並び」主義に陥りやすい傾向も見られる。
(2)国の果たすべき役割
これまで、我が国は、欧米において行われた基礎的研究の成果を利用して、積極的な応用開発研究を行うことによって経済の発展を図ってきたとの指摘がある。しかしながら、昨今の急激な内外情勢の変動、特に、遺伝子等に関する知的財産権問題が激化する中で、従来のような技術輸入・製品輸出型の経済体制からの転換は必至であると考えられる。また、今日、世界的にみても大きな経済力を持つようになった我が国としては、海外の研究成果を享受するばかりでなく、積極的に基礎研究に取り組んで、世界的水準の研究成果を多数発信し、先進国の一員たる責任を果たすべきことが求められている。
特に、医薬品産業は高度な知識集約型の産業分野であり、教育水準は高く人的資源には恵まれているが天然資源を豊富には持たない我が国としては、積極的に振興を行っていくべき分野であると考える。
平成8年6月に科学技術会議が答申した「科学技術基本計画について」においても、「我が国は自ら率先して未踏の科学技術分野に挑戦していくことが必要」とされている。この、「未踏の科学技術分野」のうちの多くの部分は、脳あるいは遺伝子等、生物たる人間の仕組みの解明に関連するものであり、創薬と密接に結びついている。さらに、科学技術基本計画では、博士号取得直後の流動性の高い若手研究者に対する雇用を1万人増加する計画があげられているが、生物科学分野での受け皿として、また、その成果を生かした実践的開発研究の振興を行う上で、製薬産業に対する期待は大きい。
具体的には、基礎研究段階での国の果たすべき役割として、層の厚い独創的な研究者を育成するための人材教育と基礎研究の資金の投入がある。その際、研究者及び研究課題について適切な評価と情報公開の仕組みを整備し、厳正で公明な評価を実施して、有望な研究者、研究課題に研究資金が投入されるようにする一方、研究期間の途中であっても、中間評価により問題があるとされた場合には速やかに研究を中止するなど、適切な運用を行うべきである。
また、国でなければできない新しい方法論の開発支援、研究資源の供給も必要である。さらに、重点研究分野の明示を行うことで、企業の研究開発を効率化するとともに、その成果をいち早く国民に提供することが可能になるものと考えられる。
平成7年11月に策定された科学技術基本法においても、国が基礎研究に積極的に取り組むべきとしており、これを受けて平成8年7月に医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構法が一部改正され、一般会計からの出資金に基づいて医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構(医薬品機構)が一件当たり数千万円から1億円の基礎研究を研究機関と共同して行う事業が新たに発足した。平成8年度は15億円、平成9年度は29億円の予算で、エイズ、がん、難病、治療機器等の分野について研究課題の公募が行われ、厳正な評価を行った上で課題が採択されている。今後は評価の情報公開も一層促進しつつ、このような基礎研究支援策を拡充する必要がある。
(1) レギュラトリーサイエンスの確立
応用研究及びそれ以降の段階の研究についても、国民の側に立った企業の研究に対する適切な規制、すなわち、患者の安全性及び権利を確保しつつ、有用な医薬品の開発を促進する、安全性あるいは有効性を評価する科学(レギュラトリーサイエンス)に基づいた規制と、良い薬を作るための研究に対する環境作りが必要である。すなわち、我が国にとって必要な研究分野を開拓し、推進するためには、行政側としてその研究分野から生まれる新しい医薬品等の安全性、有効性の評価のあり方の明示と評価そのものを最先端の科学的知見に基づき、適切・迅速に行う必要がある。このためにも、硬直的にならずに常に幅広い最先端技術を取り入れ、正当な根拠に基づいて適切な行政判断を下す質の高い科学行政官の育成が必要になる。また、それとともに、安全性、有効性に関する評価を的確に行うための基盤となるレギュラトリーサイエンスの促進が必要である。特に、治験については、新たに改訂された医薬品の臨床試験の実施の基準(新GCP)を活用し、国際化に対応できるように治験の質の向上を図り、被験者に対する倫理性と科学的な質の確保を行うことが必要である。また、実施された治験の結果から、医薬品の有効性の検定が確実に行えるよう、生物統計学的観点から治験計画の作成を行うことも重要である。
近年、科学技術の急速な進展により、遺伝子治療、細胞治療、異種移植等の新しい医療技術が現実のものとなりつつある。当然のことながら、これらの新しい治療法で用いられる医薬品等については、従来の医薬品とは異なった観点から、その安全性・有効性等について検証を行う必要がある。このため、研究開発の早い段階から、どのような点について特に留意すべきか、どのような判断基準で安全性・有効性等を評価すべきかなどについて、開発担当企業、研究機関との対話や独自の情報収集を通じて、科学的、中立的に議論を深めておくことが望ましい。
例えば、米国食品医薬品庁(Food and Drug Administration:FDA)においては、このような新技術について、実用化の可能性が明らかとなった時点で、開発担当機関や企業からの情報提供を受けて、専門家による議論を行い、積極的に「留意事項(Point to Consider)」という文書を作成し、公表している。1991年には、体細胞治療及び遺伝子治療に関する留意事項を作成し(この文書は1996年に改訂されている。)、1995年には遺伝子組換え動物による医薬品の生産に関する留意事項を作成し、それぞれ公表している。
一般的に、全く新しい概念に基づく医薬品等については、適切な安全性評価法の確立、立証等に大量の資金が必要となったり、開発の予測が立ちにくい等の理由で、企業側が開発を躊躇することになりがちであるが、開発に際し考慮すべき事項の公表によってこのような問題の一部が解決され、画期的医薬品の開発が促進されると期待できる。
このように、国自らが率先して科学的な議論の方向性を示すことは、安全性等の確保及び効率的な研究開発の促進を行う上で重要である。
しかしながら、このようにして定められたものであっても、先端的分野においては容易に陳腐化することが予想されるので、蓄積しつつある科学的知見に基づいて、逐次改訂を進めるとともに、柔軟性を持って運用する必要がある。この努力を怠ると、安全性が担保できないばかりでなく、有用な画期的医薬品の開発を妨げることにもなる。
また、治験を含む研究開発段階における企業と厚生省の間の相談体制も整備すべきである。現在、厚生省は治験届を受理するものの、実質的な治験内容の点検は、治験が終了した申請後に行われているのが現状である。我が国の治験制度については、説明と同意が不十分であることや、一施設当たりの患者数が少ないなど、必ずしもそのままで世界に通用するものになっていないとの指摘がある。米国食品医薬品庁(FDA)においては、新薬開発企業と審査官とが治験申請前、治験申請直後、第2相の治験終了時点、承認申請前の各段階において会合を持ち、科学的な議論を行っている。このような相談体制は、特に治験中に緊急に対処しなければならない問題が起きた時に迅速に対応することができるなど、安全性の確保を行う上でも有用であると考えられる。
厚生省としても、国際的評価に耐えうる、科学的知見に立脚した研究計画に基づき治験が行われるよう、平成9年4月より医薬品の臨床試験の実施の基準(新GCP)に基づく治験体制の整備を図るとともに、指導相談体制を強化したが、このような努力は治験の透明性と安全性確保のために必要であるばかりでなく、我が国で開発された医薬品がいち早く世界に認知され、受け入れられるようにするためにも必要であり、今後とも、その充実を図っていくべきである。
(2) 国による開発環境整備
日本の製薬企業は欧米の企業に比して企業規模が小さいこととともに、研究費の適切な配分・重点分野の選択等の研究開発に対する管理・運営能力も低いのではないかとの指摘がある。
また、一般的に基礎技術力が弱く、国民皆保険及び公定薬価制度の中で、画期的新薬開発に対する意欲が低いこともあり、改良型新薬の開発を重視する危険分散型の研究開発に偏りがちとなっていたと考えられる。
現在、世界的に医薬品企業の大型合併・吸収が進んでいるが、これは、画期的な新薬開発のために、更なる研究開発の効率化と経営の合理化による研究開発資金の確保という意味もあると考えられる。今後我が国においても合併・吸収による合理化が図られるものと思われるが、基本的に、このような活動は企業の経済行為であり、国として政策的に行えるものではない。また、合併・吸収以外にも、例えば、研究機関との共同研究や、海外のベンチャー企業(Venture Business)を有効に活用し、創薬につながる知見・技術を早期に手に入れて開発を行うという選択肢もあろうし、研究開発分野の絞り込みを行って生き残るという選択肢もあろう。特に、研究開発管理に関しては、他社でも開発しているからと同じ分野のものを開発する「品揃え」主義から脱却する必要がある。品揃え主義の弊害として、同時に多数の類似薬の治験が行われることによる治験の細分化が考えられ、国としても、企業間の共同開発を行いやすくし、重複した分野の研究開発を避け、開発危険度が高くとも世界に通用する画期的新薬の研究開発を促進する必要があると考えられる。
創薬研究、特に開発研究は、企業が主体となって行うものではあるが、このような状況を踏まえ、現在の体制の中で研究開発の効率化のために国として政策的にどのようなことができるかについて検討を行っておく必要がある。
具体的には、安全性・有効性にすぐれた医薬品を開発する上での臨床薬理学の重要性に鑑み、臨床薬理学の研究者・専門家の育成を図る必要がある。また、医薬品応用研究のなかでも、共通に利用できる分野、重点化を図るべき分野について、国の積極的な関与を図るべきである。特に、研究開発の効率化を図るため、標準物質、細胞、遺伝子、遺伝子組換え動物を含む実験動物などの研究資源の供給や、創薬に利用可能な医薬品情報の集積・提供を行う必要がある。また、企業間の重複研究を防ぎ、研究の効率化を図るために、開発中止薬の情報や、無作為有効性検索用の化合物に関する情報、他社に導出してもよい活性物質等の技術情報及び特許情報を検索可能な形で集積した技術情報交換所の創設等を検討すべきである。既に、研究用の細胞株、遺伝子については、国立衛生試験所、国立感染症研究所の指導・協力のもと、ヒューマンサイエンス振興財団が研究資源の有償頒布を始めている。このように、一部実現したものはあるものの、研究資源供給体制は更に充実を図るべきであり、各種研究資源が安価かつ容易に利用できるよう整備する必要がある。
ヒト組織の利用については、倫理面からの問題もあるが、種差のために動物試験のみでは不可能なヒトでの薬理作用や代謝物を予測・評価するための有用な手段となる可能性があり、これにより臨床試験の安全性の向上を図ることができると考えられるが、なお、倫理性を最大限考慮した取り決めをどのように作るか等について検討する必要がある。
また、創薬を推進するために、国としても「創薬研究開発機構」を設置し、ヒト型化試験系の開発、創薬知的基盤の開発等の基盤技術開発研究を推進するとともに、創薬科学を推進するために必要不可欠な、有機化学、物理化学、分子生物学、ゲノム科学、構造生物学等の幅広い分野の融合した先端的基盤研究を推進する必要がある。
開発研究の推進意欲を喚起するための政策手段として、既に「基盤技術開発研究促進税制」及び「バイオテクノロジー試験研究設備に係る課税標準の特例措置」等の税制上の優遇措置や、画期的新薬に対する加算薬価制度があるが、今後の検討課題として、税制と研究開発、薬価と研究開発のあり方について、最適な政策提言を行うための体制作りを検討する必要があろう。
医薬品の開発及び実用化においては、その医薬品の安全性・副作用に関する情報の迅速な集積及び的確な発信が必要不可欠である。このような重要な情報を産学官で迅速に共有できる体制を構築することが求められている。
その一方、良い医薬品につながる基盤研究の成果が存在したとしても、その安全性・有効性等について研究を行い、製品化する努力がなければ、求めている患者の手には届かない。すなわち、医薬品開発の最終段階では、必ず企業の参画が必要となる。また、産の側も創薬につながる科学的知見をいち早く手に入れるために、学の行っている基礎研究の成果への期待は大きい。このことから考え、画期的医薬品開発の推進のためには、良い医薬品に至る萌芽を迅速かつ円滑に基礎研究の場から産業へ移転する仕組みが整備されることが重要である。
米国においては、大学から飛び出した有能な人材が設立したベンチャー企業が学から産への技術移転機構として有効に機能しているが、我が国においてはそれに代わるものが殆どない。
また、学と産の間の人的交流が希薄で、若手研究者の流動性が限られていることも技術移転の障害になっているものと考えられる。創薬のためには研究者の層の厚さが必要であり、優秀な第一線の研究者の学から産への流入を促進する必要がある。
これらに対応するため、医薬品産業政策懇談会の報告等を踏まえ、保健医療分野における官民共同研究の推進、民間との共同出資による研究法人の設立等の施策が講じられてきたところである。
しかしながら、国の資金が投入されているため、かえって成果が出にくくなっているのではないかとの指摘もあり、官民共同出資研究法人については研究期間の途中であっても進捗状況及び成果を厳正に評価して、効率的運用が行われるよう適切に指導すべきである。今後の目指すべき方向の一つとしては、各省庁で設立している研究法人についても、役割分担をして研究協力を行うことが可能なものについては、省庁の壁を取り払って共同研究を進め、機動的な研究体制を築くことなどが考えられよう。
我が国においても、ベンチャー企業を育てるため、店頭特例市場や知的財産担保制度等が整備されつつあるが、このほかにも、有望な研究成果を持った優秀な研究者が大学等から一旦産業界に出ることを容易にするような環境整備が望まれる。
また、企業と研究機関との共同研究を円滑に進めるためには、特許の帰属について解決しておくことが必要である。
これまで、研究機関が企業と共同研究を行う際の特許の取扱いが明文化されておらず、商品化後の成果の適正な配分が難しかったという指摘がある。共同研究時には、事前にきちんとした文書契約を結び、知的所有権の明確化を行うことを制度化することで、共同研究を行いやすくする必要がある。
この背景には、研究機関に特許申請のための予算が殆どないなど、研究成果を特許化・商品化する制度が殆どないことや、特に大学、国立試験研究機関では、特許取得への関心が薄いという傾向が存在する。
これに対し、研究成果を有効に活用するために、米国のように研究成果を特許申請して、広く希望者を募って売却する特許管理部門を研究機関ごとに設置することも考慮すべきである。また、市場で高く評価されるような研究を行った研究者には、研究費の配分を厚くすることで、研究機関の研究者の研究意欲を喚起するとともに、企業に創薬萌芽となる技術・科学的知見を提供することにつながると考えられる。
創薬科学の促進には、最新の研究情報を分野の壁を越えて流通させる情報基盤の整備が不可欠である。米国においては、生命科学の約200誌をインターネットで全文を提供する事業が開始されるなど、新しい創薬研究の基盤が整備されつつある。我が国においても、情報基盤を充実し、大学、国立研究機関における環境の整備を図るとともに、我が国から最新の研究情報を発信できるような体制の構築が必要である。
既に繰り返し述べたように、国民の保健衛生の向上、疾病の克服のため、医薬品は重要な役割を果たしてきたし、今後ともさらに大きな役割を果たすものと期待される。創薬の促進のためには、これまでの学問分野を飛び越えた連携が必要であり、創薬研究のための学際的な研究体制・組織を整備する必要がある。
このような期待と国民の信頼に応えるため、厚生省、医薬品産業及び医療従事者をはじめとする関係者は、より安全で有効な医薬品をできるだけ早く患者に届ける責務があることを自覚すべきである。とりわけ、医薬品企業は、医薬品の開発段階において、安全性の確保に真摯に努めるとともに、治験の実施に当たっては被験者の人権の保護を図るなど、患者の安全及び権利を最大限に確保しつつ積極的に新医薬品の開発を推進すべきである。
また、厚生省としては、治験等、医薬品の開発が安全性等に十分配慮して適正に行われることを確保するとともに、国民にとって真に必要とされている医薬品は何かを明示し、研究開発の方向性を示し、国としての整合性のとれた方策の下で創薬研究を総合的に支援して、望ましい医薬品の開発を促進する必要がある。
これらが実現されることにより、真に画期的な「良い薬」が次々と創製されることを期待する。
問い合わせ先 厚生省薬務局研究開発振興課 担 当 村上(内2796) 電 話 (代)[現在ご利用いただけません] (直)03-3595-2430