09/02/24 第3回終末期医療のあり方に関する懇談会議事録 第3回 終末期医療のあり方に関する懇談会 日時 平成21年2月24日(火) 17:00〜 場所 弘済会館 4階 萩 ○伊東保健医療技術調整官 定刻になりましたので、ただいまから第3回「終末期医療 のあり方に関する懇談会」を開催させていただきます。委員の皆様方におかれましては、 大変ご多忙中のところ当懇談会にご出席いただきまして誠にありがとうございます。  議事に入ります前に、本懇談会の委員の代理・欠席等の連絡をさせていただきます。 筑波大学名誉教授の増成隆士委員、日本救急医学会代表理事の山本保博委員から欠席の 連絡をいただいております。また、南委員からは遅れるとの連絡をいただいております。 続きまして、前回懇談会での参考人として発表していただいた方々に、今回はオブザー バーとしてお越しいただいておりますので改めてご紹介いたします。日本尊厳死協会理 事長の井形昭弘参考人、社団法人日本薬剤師会副会長の土屋文人参考人、日本ALS協会 会長の橋本操参考人、特定非営利活動法人千葉・在宅ケア市民ネットワークピュア代表 の藤田敦子参考人にご参加いただいております。また、本日発表していただく方々もお 越しいただいておりますが、後ほどご紹介させていただきます。  資料の確認をさせていただきます。議事次第、座席表、委員名簿、資料1はこれまで の主な意見、資料2と資料3は本日ヒアリングを行います方々からの資料です。資料2 は1から3まであります。資料4は「終末期医療に関する調査」結果の解析について、 資料5は「終末期医療に関する調査」に関する意見です。以降の議事の進行は町野座長 にお願いいたします。 ○町野座長 議事に入ります。議題1はヒアリングで、「終末期医療のケアのあり方に ついて」です。議事次第にもありますように、本日は2名の方からご意見をいただきま す。ご意見をいただく方の紹介に当たり、事務局で進行をお願いいたします。 ○大竹課長補佐 大変恐縮ですが、時間の都合上お1人15分程度でご意見をいただき ます。また、委員の皆様からのご意見、ご質疑は全員のご意見をいただいた後でお願い いたします。まず初めに、国立病院機構南九州病院院長の福永秀敏先生からお願いいた します。 ○福永参考人 本日は、このような機会をいただきまして感謝申し上げます。定められ た時間の中で、私が日ごろ思っていることをどの程度伝えられるか不安に感じておりま すが、せっかくの機会ですので難病医療を中心にお話したいと思います。スライドをお 願いいたします。 ☆スライド まず私の立ち位置ですが、医師になって現在まで40年近く神経内科医と して、神経難病の臨床と研究に取り組んできました。そしてあるきっかけから、ALSの 在宅医療と呼吸管理に携わるようになり、条件が整備できたら在宅医療こそが、患者・ 家族にとって最も満足できる医療と確信するに至りました。また、多くの患者との別れ の中で、人生は1つの物語であり、医療者はその物語を意味あるものに彩るための援助 者であると思うようになりました。  人にはそれぞれの生き方があるように、それぞれの死に方もあります。どのような終 末期が望ましいのか一言では言い難いものがあります。呼吸器を選択することなく、超 然と穏やかに死を迎えた人、壮絶な闘病生活や、植物状態でも、私たち医療者には生き ることの意味を、家族には理解と調和の時間をもたらした人もいました。亡くなられた 後も、残された家族から「いい死に方だった」と振り返ることのできるような死の演出 も医師の務めの1つかと思っております。  また、医師は診断から告知、終末期まで同じ医師が担当できたら、患者とのコミュニ ケーション不足に起因するさまざまな不都合は起きないだろうと思います。当院には25 床の緩和ケア棟もありますが、本日は時間の関係でがん患者とのかかわりは省かせてい ただきます。 ☆スライド 私は、1984年にアメリカ留学の後、1年か2年の約束で、現在の南九州病 院に赴任しました。 ☆スライド 当初は軽い気持で出張したのですが、そこで日々起こっていることに大き な衝撃を受けました。奄美大島から入院してきた、当時小学4年だった筋ジストロフィ ーの少年の質問です。「この病棟で退院できた人はいるの?」という無邪気な質問に何も 答えることはできませんでした。同じ成人の筋ジス患者の岩崎さんは「『治るよね』 問 い来る子等の澄める眼に うんと言う嘘 神許されよ」と苦しい胸の内を詩にしていま す。 ☆スライド 当時は、延命のための呼吸器はなかった時代ですので、筋ジストロフィー 患者の平均寿命は約20歳でした。20歳の成人式を迎えることが大きな目標で、この双 子の兄弟の場合には、1人は亡くなり、もう1人は人工呼吸器を得て23歳まで生きるこ とができました。 ☆スライド この16歳の少年の生き方が、私に天寿というものは80歳まで生きること ではなく、それぞれの天寿というものがあっていいのではないか。そして、この少年こ そが最も健康といえる少年ではないかと気づかせてくれました。彼は、亡くなる数日前 までアメリカに行くことを夢見て、父親の手作りの床頭台で勉強していました。 ☆スライド 私に衝撃を与えてくれた1人は轟木敏秀君です。呼吸器を付けて寝たきり の生活でしたが、寝たきりだからこそできる情報発信を、当時可能となったIT技術を 駆使して全国に発信しました。この懇談会の委員のお1人でもある大熊さんは、当時朝 日新聞の論説委員をされていましたが、亡くなったときに、「筋ジスと恋」というタイト ルで紙上で偲んでいただきました。亡くなる数日前、私は枕元に呼ばれたのですが、あ たかも旅行に出かけるような別れでした。彼の著書を後世に「生命を受けた者は生まれ たその瞬間から死へと歩き始める。誰も止められません。ただ人の心の中に思い出とし て確固たるメッセージを残すことができます。それが人間であり、敏秀君がそうでした」 と書かせてもらいました。 ☆スライド 眺めるだけで登ることのできなかった霧島連山に、亡くなってから11年 になりますが、毎年縁のある人たちが集って追悼登山を続けています。 ☆スライド 私は、筋ジス患者とのかかわりを通して次のように思いました。当時、筋 ジストロフィー患者の能力が劣っているように思えたのは、彼らが才能を発揮できる前 に死なせていた。志半ばで死ななければならない彼らには「しっかりと生きる」ための 教育、死と向き合うための教育が必要であると思いました。 ☆スライド 次に、私とALS患者とのかかわりを話します。1984年のある日、懇意に していた保健所長からの電話でした。「管内の43歳の男性がALSという病気になり、 呼吸が苦しくなって、母親と中学2年生の息子と小学5年生の娘の3人で、2年間にわ たって一時も休むことなく胸押しをしている。どうにかならんかね」という電話でした。 入院させれば生命はつなげられるかもしれない、しかし家族関係は断ち切れてしまう。 たまたまアメリカに留学していた友人が、体外式陰圧人工呼吸器というものを手荷物で 持ってきてくれて、この男性に装着したところ、胸押しから開放されて大変喜ばれまし た。 ☆スライド 6カ月ほどで亡くなりましたが、私にとっては貴重な経験で、このスライ ドを見る度に、在宅医療のよさを痛感します。お母さんは今もときどき私の部屋に遊び に来ては、「あのころは大変だったけど、いま思えば最も充実していたように思う」と話 してくださいます。 ☆スライド この患者が、私にヘルパーによる吸引がなぜできないのか考えさせてくれ た患者です。ヘルパーは夜間に何度も訪問するのに、吸引ができない。そのために介護 者のご主人は、夜間はずっと起きていなくてはならない。眠れるのは訪問看護師の来て くれる2時間だけでした。 ☆スライド 家族は吸引できるのに、なぜヘルパーは吸引できないのか、早速厚労省に 検討委員会が設けられ、私もその委員の1人として参加しました。6回にわたる審議を 経て、いくつかの条件下でヘルパーも吸引できるようになりました。 ☆スライド 最後の事例として、現在在宅で闘病中の、極めて知的なALS女性の心模様 を述べたいと思います。62歳ですが、元農学部の大学教授の夫と、鹿児島の山村で合鴨 農法に取り組み始めたとき、球麻痺型のALSを発病しました。当初、本人は「自分でも よくわかりません。60歳というと、昔ならちょうどいいぐらいの年ですし。でもあと半 年の生命だと、私も家族も心の整理ができないのではないかと思います」などの言葉を 連ねて、呼吸器の装着を頑なに拒否しました。 ☆スライド 本人の意思を尊重しようと思っていましたが、在宅医療で農園を訪れたと き、そのベッドから眺められる景色の素晴らしさに、私はつい「死んでしまえばおしま い、このまま死んでしまうのはもったいない」と延命を勧めるような言葉を発していま した。迷った末に、昨年3月に気管切開をして人工呼吸器を付けました。 ☆スライド その後、毎朝メールの交換をしていますのでその一部を紹介いたします。 「今日は弱音を吐かしてください。気管切開を受けてもうすぐ4カ月になろうとしてい ます。手術を受けるに当たってはいろいろ悩みました。やっぱり生への執念はすごいで すね。最大の誤算は、落ちた物を1人で取れないということです」。また、千葉の照川 さんの名誉ある撤退の報道には、「私も患者の意思が確認できる仕組みを事前に作ってお けば、呼吸器を外すことに賛成です。生きる意味を失っているのに苦痛に耐え、人の手 を煩わせながら生き続けるのは辛すぎます」。  最近のメールでは、「先生は不思議な人ですね。現実は受け入れざるを得ませんが、先 生と話しているうちに希望を持って、強い気持で毎日を過ごすよう努力しようと思えて きました」。 ☆スライド そして、このALS患者の進行の様子は人それぞれに異なりますが、一般的 経過はスライドのようになります。告知は念入りに、何度もきめ細かく行うことが大切 です。呼吸器の装着に関しては、患者の希望があれば可能になりました。臨床現場で現 在最も大きな問題は、在宅療養での介護力が貧弱になり、呼吸器を付けた患者の入院生 活が長期化し、新規の患者を受け入れにくくなってきたこと。意思疎通ができなくなっ た患者のQOLの向上をどのように図っていけばいいのかということです。入院して、1 日中ただ横になっていることが患者の本意とは思えません。 ☆スライド 鹿児島県には、昨年末の調査で127名のALS患者が特定疾患として登録 されています。そのうち半数以上の65人(51.2%)が呼吸器を付けています。この数字は 全国と比較しましても多いほうではないかと思います。患者の気持を大切にし、地域ケ アシステムを構築してきたイワタ内科の伝統が県下に散らばっている門下生に綿々と受 け継がれている結果だと思っています。 ☆スライド 現在の当院の神経内科病棟の現状です。定床が50床ですので、約25%が ALSで、5人が意思疎通の全くできないTLSの状態です。この中には、毎日見舞に来ら れる家族もおれば、年に1、2度しか来られない家族もあり千差万別です。基本的には、 調子のいいときには在宅で、症状が悪化したり、レスパイト入院はいつでも受け入れる 体制をとっていますが、入院が長期化し、新規の入院が窮屈な状況になっています。 ☆スライド 患者や介護者の気持を少しでも代弁できたらとの思いで、何冊か本を書い てきました。喜びも、悲しみも、怒りも、理不尽さもすべての気持が入り交じっている のが医療の現場です。 ☆スライド 最後になりますが、今後の医療の中で、終末期医療をどのように位置づけ るか困難な作業でありますが、この懇談会のような開かれた会議で議論を重ね、一定の コンセンサスを得る時期だと思います。是非とも臨床の現場で、身動きの取れない状況 を回避するためにも、確かな具体的な指針を作っていただきたいと思います。例えば、 臓器移植では、ドナーカードという方法で、患者本人の意思と家族の同意が確認できれ ば移植が行われているように、ALSでは事前に意思を確認できていたら、例えばTLS の場合ですけれども、治療の中止という選択肢もあっていいのではないかと思います。 言うまでもないことですが、人間はみんな等しく死を免れない運命にあります。超高齢 社会を迎えた今、ALSに限らず死を迎える人も、残された人も悔いのないように、健康 なときにこそ「人生の終幕」への想像力を働かせることも必要ではないでしょうか。ど うもありがとうございました。 ○大竹課長補佐 ありがとうございました。議論は後にいたしまして、次に聖ヨハネ会 桜町病院名誉院長の石島武一先生からお願いいたします。 ○石島参考人 今回、このような大切な懇談会にお招きいただきまして大変光栄に存じ ます。私は脳外科医で、40数年間脳外科の仕事をやってきました。その間、悩みに悩ん でいまだに解決ができない問題、それは植物状態の患者です。今回終末期ということに ついて、植物状態が終末期かという問題はありますけれども、私の考え方を少し述べさ せていただきます。スライドをお願いいたします。 ☆スライド 終末期というのは3つの型があると思うのです。急性型、亜急性型、慢性 型です。急性型というのは、眼前に死が迫っている状態です。どの程度迫っているかと いうと、2週間以内程度というような大体の合意はあります。一昨年に日本救急医学会 で出した終末期のガイドラインには数日以内と書いてあります。ただし、この数日以内 に死が迫っているというのは、例えばがんの末期の患者さんが本当に末期状態になって 数日以内というものではない。ここでいう急性型というのは、いままでピンピンしてい て元気だった人が、突然何かの原因で重症になって死が迫っている、そういうのを急性 型の終末期と言っていいのだろうと思います。亜急性型というのは、短期間で死が予測 されるもので、大体6カ月以内というのが大方の合意かと思います。その典型ががんの 末期ということになります。慢性型はいわゆる植物状態です。これは本当に終末期と言 っていいのかどうかわかりません。ただ、植物状態を終末期というのは外国の文献でも 大体認められているようです。回復不能であるということが1つの理由です。 ☆スライド 植物状態の定義です。実を言いますと、終末期医療でいちばん問題になる のは植物状態の患者をどうするかということだと私は考えています。最後に述べますけ れども、急性型、亜急性型というのはあまり深刻な問題にはならない。外国で裁判沙汰 になるのは、ほとんど全部と言っていいほど、植物状態の患者の延命を中止するか否か ということです。  植物状態というのはここに書いてありますように、覚醒しているが認知能力を欠いた 状態ということです。意識があるというのはどういうことかというと、覚醒している (wakefulness)、それに認知力がある(awareness)、これが両方備わっている場合に意識 があると言います。植物状態の患者は、覚醒していても認知能力がない、だから意識が ないということになります。  具体的にはどういうことかというと、ここに9つ書いてありますけれども、これは 1994年にThe Multi-Society Task ForceというアメリカのCommitteeが作った定義で す。植物状態というのは、1972年にジェネットとプラムが言い出した言葉なのですが、 いろいろと定義についてもめていました。1994年にこれが出されて、これがいまのとこ ろの定義だろうと思います。(1)自己と外界を認識できない、(2)他者との交流ができない、 あらゆる刺激に対する意味のある反応行動が認められない、(3)言葉の理解がなく発語は ない、(4)飲食物の嚥下は不能である、(5)大小便が失禁。(6)視床下部、脳幹の自律神経機 能は保たれている、したがって次の(7)が大切なのです。自発呼吸はありますので、この 辺を一般の方は非常に誤解されているのだと思います。(8)覚醒−睡眠のサイクルはある、 つまり覚めることができる。(9)脳神経・脊髄神経の反射はある程度保たれる。これが非 常に問題で、ある程度というのはどの辺までか。文献を読んでみますと、痛み刺激で顔 をしかめる、あるいは手を引っ込める、これは反射であるというようにThe Multi-Society Task Forceでは定義しています。 ☆スライド ところが、いま言った植物状態のほかにもっと別の状態があります。それ は最低意識状態(Minimally Conscious State)、つまり植物よりも軽い状態です。ジェ ネットが前にGlasgow outcome scaleというのを出したのですが、その中にはmild-、 severe-disabledというのがあります。しかし、そのmild-、severe-disabledと、その次 の植物(Vegetative)の間にもう1つあるのだということです。これは、1996年に出たの ですが、認知能力がわずかでも存在することが証明できる場合、即ち意識を伴った意味 のある反応行動が再現性をもって証明できる状態です。例えば、目を閉じよ、手を握れ というような簡単な命令に従う。身振り又は言葉でイエス、ノーを表明できる。あるい は笑ったり、泣いたり、声を出したり、身振りをしたり、物に手を伸ばしたり、物を目 で追うというようなことができる。こうした状態をMinimally Conscious Stateと呼ぼ うというのです。  実を言いますと、日本の脳神経外科学会では、1972年に植物状態というものの定義を 出しました。それは、このMinimally Conscious Stateと、先ほどの植物状態と一緒に 合わせたものです。最近、意識障害問題に携わっている私の後輩に「今はどうなのか」 と聞いたら、まだ改定されていないようです。後で述べますけれども、国際学会に行っ て私は大恥をかきました。日本脳外科学会の基準で話しましたら「それでは駄目だ」と いうことがわかりました。 ☆スライド 原因としては重傷頭部外傷、重症脳血管障害、無酸素脳症、代謝障害・中 毒、認知症高齢者、脳疾患(脳炎、進行性変性疾患等)などがあります。ただし閉込め 症候群は除きます。先ほどお話のあったALSの末期のTLSです。これは植物状態では ありません。閉込め症候群の原因としては、ほかに脳幹の梗塞などがあります。 ☆スライド 最近、恒久的植物状態という言葉が出てきました。Permanent VS(PVS) です。頭部外傷を受けて昏睡に落ち入った人の予後をみると、35%は回復する、35%は 死亡する、30%はVSになるのだそうです。先ほど言った無酸素脳症などの非外傷性で は、10%は回復するが、90%はVSになる。これは、昏睡から覚めた後の話で、大体1 カ月以降です。ジェネットは、1カ月以上意識がなかった場合をVSとする、というこ とを最初に言っています。その後、経過を追ってみますと、12カ月後の外傷性VS、3 カ月後の非外傷性VSはほとんど回復しないのだという論文が出まして、それを Permanent VS、恒久的植物状態と呼ぼうではないかという意見があります。ただし、 これはまだ国際的には認知されていないようです。厚労省のアンケートでは、遷延性意 識障害と書いてありますけれども、正しくは遷延性植物状態と言ったほうがいいのだろ うと思います。persistent VS、これはジェネットが言い出した言葉ですが、これとはち ょっと意味が違うと言えます。 ☆スライド それでは、VSになった人がどのぐらい回復するものかということですが、 Levinという人の調査では、大体2.5年以後はほとんど回復しないということです。た だし、これにも異論がありまして、10年後に回復した、あるいは20年後に回復したな どという非常にrareな caseが報告されています。しかし、そういうものが果たして本 当にPermanent VSの状態であったのかというのは、文献学的には検証できないと書い てあります。2.5年ぐらいまでは回復する可能性があるとすれば、先ほど言った12カ月 以後はPermanentというのはちょっと問題があることになります。 ☆スライド VS患者の実態です。これは塚本先生が1992年に、71の脳外科の施設で 調査したものです。ここでA施設というのは専門医を養成する資格のあるレベルの高い 病院です。C施設というのは、専門医を養成する資格のない小さな病院という意味です。 ベッド数の平均はここにある通りで、その中の7〜11%くらいをPVS患者がオキュパイ している。それから後方ベッド、ナーシングホームとか、あるいはほかの小さい病院に 移す確率が56%とか、49%とか、51%とかとあります。ここでANHというのはまだご 説明していなかったのですが、人工的な栄養と水分の補給です。これの中止の経験のあ る施設は11.5%、11.4%、平均11.3%ほどあります。  ANHを中止する理由ですが、このアンケートでは人間の尊厳のために中止したとい う施設はほとんどない。胃潰瘍ができたとか、あるいは食道狭窄でチューブが入れられ ないといった理由でやめたということが大部分だそうです。 ☆スライド 植物状態の介護・治療についてです。まず、栄養と水の人為的補給です。 Artificial Nutrition & Hydrationですが、以後ANHと言わせていただきます。この表 には人工呼吸はありません。植物状態の患者は一般的には自発呼吸がありますから人工 呼吸器は要らないのです。ただし、Artificial Nutrition & Hydrationをしなければ確実 にその患者は死にます。ですから、植物状態に対する延命治療というのはANHをやる ということです。ANHの方法には鼻からチューブを入れるとか、カテーテルを静脈か ら心房にまで持っていく中心静脈栄養法、あるいはPEGといわれている胃瘻などがあ ります。最近はこのPEGが非常に多くなってきています。あとは全身管理で、これは2 次的な延命治療あるいは副次的な延命治療と言ってもいいかもしれません。全身の清潔、 排泄処置、口内衛生、喀痰吸引、2時間ごとの体位交換、保温・保湿。それから合併症 の予防があります。しょっちゅう肺炎、膀胱炎になりますから、その都度抗生剤で治す ということです。それからリハビリテーションと刺激療法などもあります。 ☆スライド これからが問題なのですが、PVSに対してどういう対応の仕方があるかと いうと3つあります。1つはANHを差し控える、つまり最初からやらない態度です。 withhold あるいはforgoといいます。それからANHを途中で中止する態度(withdraw)。 3番目はANHを永遠に続けるという対応です。  差し控えるということは即死ぬということです。ただ、これは医師にとってはむしろ 気楽な対応なのです。2番目の、途中で中止するというのは刑事問題に発展する可能性 があります。場合によると殺人罪に問われるかもしれません。そこで医師は非常に悩む わけです。最初から付けなくて、それで亡くなってしまえばというと変な言い方ですが、 医師にとっての心理的な負担は軽くなります。  患者は知りませんが、家族にとってはどうか。1番も2番も家族にとっては悔いが残 ります。あのときに、いいですよと言ってしまったけれども、果たして回復する可能性 はなかったのだろうかということは、患者の家族にとっては後々の非常に大きな心理的 な負担になります。3番目の永遠に続けたらどうなるか。先ほど申しましたようなケア を本当に一生懸命やると、若い人で、内臓が元気な人は5年、10年、15年生きます。 その間、病院としても非常に大変ですけれども、家族にとっても非常に負担がかかる。 経済的にも大変です。このようなことで、永遠に続けた場合は家族と病院の両方に負担 がかかります。最後に、患者の尊厳という問題があります。それをどう考えるかという のが、おそらくこの懇談会の中でのいちばんの中心テーマになるべき問題ではないかと 思っております。 ☆スライド こういう症例に対して、アメリカではどうでしょうか。アメリカでは非常 に多くの訴訟例があります。その中で2つだけ挙げました。1975年のカレン・アン・ クインランさんで、アルコールと睡眠薬を飲みすぎて昏睡になって人工呼吸器が付けら れました。3カ月後に両親が、「娘をこんな格好で生かしておくのは、娘の尊厳を損なう ものである。だから呼吸器を外してほしい」と訴え、紆余曲折ののちに高裁が認可して 呼吸器を外しました。これが1年後です。ところが呼吸が再開した。当然です。植物状 態ならば呼吸は再開するはずで、むしろ1年間もレスピレーターを付けていた方に問題 があります。9年後に肺炎で死亡しました。これは植物状態に対する尊厳死という問題 を世間に大きくアピールした最初の裁判事件でした。  次は1990年のテリー・シャイボさんです。これは減量のために摂食障害を起こして、 おそらく血中カリウムの変動があって心停止してPVSになったケースです。この人には 呼吸器は付いていません。ずっとPVSで8年間生きていました。その夫がANHを中止 してくれと訴えました。ところが両親はそれに反対して、ものすごい裁判の争いが起こ りました。最後にはブッシュ大統領まで巻き込んだ騒ぎになって、世界的に有名になり ました。2005年、最初から数えると15年後にANHを中止してチューブを抜きました。 そして13日後に死亡しました。若くて元気な人ならば、ANHを中断すると大体1週間 から2週間で死にます。  この事件をなぜ挙げたかというと、実はこの事件がきっかけとなってと思われますが、 ローマ法王庁がこれに乗り出してきたのです。 ☆スライド 2004年3月、「延命治療と植物状態−科学の進歩と倫理的ジレンマ−」と いうテーマで、World Federation of Catholic Medical Associations and Pontifical Academy of Life、国際カトリック医師会とローマ教皇庁生命アカデミーの共催による国 際シンポジウムが開かれました。私は、これに出席しました。なぜ出席したかというと、 ローマ教皇庁が主催するような会議の結論は最初から見えている。つまり、ANHを中 止してはならんという結論が出るだろうと予想されました。ただし、会議場内ではいろ いろな国の人から、いろいろな生の声が聞こえるだろう。それはその会議に出てみなけ れば聞くことはできないと思って出席したのです。 ☆スライド 42カ国から400人の人が集まって、考え得る限りの植物状態に関するテ ーマでディスカッションが行われました。PVSに対する態度には大きく分けると3つあ ります。イギリスには王立医学会のガイドラインがあって、非常に厳密な基準がありま す。その基準に照らして、この人のANHを停止していいかということを裁判所に申請 する、あるいは訴える。それで裁判所の許可を得ます。あの時点で発表者の話によると、 この制度が始まってから14年間に30例の申請があり、そのうち1例を除き、29例は 許可が下りたということです。これは、ほかの国にはないイギリス独特のものです。  アメリカ、オーストラリア、フランス、イタリー、韓国、台湾、日本には明確な基準 がなくて意見が分かれています。個々の裁判例があるだけです。アメリカの場合には、 カトリックの司教協議会の意見も2つに分かれて大論争になりました。  それからオランダ、ベルギー、スウェーデンは安楽死を容認している国です。ここで はANHの中止はあまり問題にならなく行われています。この2番目の各国で、例えば 韓国、台湾はどうかというと、はっきりは言えないけれども、ヤミでというか、こっそ りとANHを中止している例はあるのだという話です。日本もそうかもしれません。 ☆スライド この会に出席する前に、ただ手ぶらで行ったのではもったいないと思って、 私はカトリック医師会の関係でアンケート調査をしました。対象は26のカトリック病 院で働く450人の医師を対象にしました。回答者は44%、カトリック医師が92名、非 カトリック医師が106名でした。 ☆スライド その結果ですが、「貴方はPVS患者に延命治療をしていますか?」という 質問です。これはスペースの関係で書かなかったのですが、例えば眼科とか耳鼻科の人 はPVSの患者は診ていないわけです。そういう人に対しては、すべきだと思いますかと いう質問をしてあります。延命治療とはANHを指し、人工呼吸器は指しませんと明記 して質問しました。厚労省のアンケートではこの辺がかなり曖昧でしたので、その辺が ちょっと問題だと思います。「A:はい、必ず」というのが50%、「条件によっては中止も ありうる」けれども、大体やっているというのが45%、合わせると95%になります。 これが面白いことに、カトリックの医師であっても、非カトリックの医師であっても全 く同じであったということです。 ☆スライド 「条件によっては中止もありうる」と答えた人に、どういう条件だったら 中止がありうるのかというのが次のスライドです。 ☆スライド いちばん多かったのが「Living Willがあれば」というのと、「家族の反対」 があればということが大体同じです。3番は「患者が高齢ならば」、4番と5番は(1)と(2) の組合せ、(1)(2)(3)の組合せです。これもカトリックと非カトリックで有意の差はありま せんでした。 ☆スライド 次は「貴方が植物状態になったら治療を望みますか」です。Aグループは 「積極的に延命治療をやっている」と答えた人で、「望まない」が69%です。Bグルー プの「場合によればやめることもありうる」という人の76%が「no」です。この種の調 査は厚労省でも3回やっていて、何千人という人を対象にしています。その結果と私の カトリック病院の医師を対象とした結果は大体似ています。 ☆スライド 最後に私の予想したとおり、当時の教皇、ヨハネ・パウロII世から我々に 対してアドレスがありました。それはかなり長い文なのですがそれを要約すると、「人の 価値と尊厳は病気、傷害によって変わらない。人は常に人であり、「植物や動物」ではな い。植物状態にある患者は基礎的な健康のケア(栄養、補液、清潔、保温等)を受ける 権利を持つ。食物と水の補給は生命維持の自然な方法で、医療行為ではない、これはケ アである。ordinaryで、proportionateである。(このordinaryとproportionateとい うのは長い歴史のある言葉なのですが説明は省きます)。回復の見込みのない植物状態の 患者の栄養と水を断つことは正当化されない。死ぬことを知って断つことは不作為の安 楽死である。安楽死は認められない」。これがofficialなローマ教皇庁の見解です。 ☆スライド この発表は全世界に大変な反響を巻き起こしました。カトリックの倫理神 学者の間にも非常な議論を巻き起こしました。ある倫理神学者は、これはおかしいとい うことを公然と言っております。アメリカでも、やはり同じようにいろいろな反響があ りました。アメリカのカトリック司教協議会が、確認の公開質問状を教理省に対して 2005年に出しました。それに対する回答があったのは2007年でした。2年間随分考え たのだろうと思うのですが、それで出てきた答はこれまた非常に長いのですが、ごくご く要約すると、質問1は、VS患者に対する水と栄養の補給は道徳上の義務か。答は「道 徳上の義務である」。質問2は、ANHの行われているPVSの患者に対して、専門医が 良心にかけて回復不能と診断したとき、ANHを中止できるか。答は「できない。PVS といえども人間の基本的権利を持つ。ANHを含むordinaryでproportionateなケアを 受ける権利を有する」というのが公式見解です。 ☆スライド ここで、私どもの経験を2例紹介いたします。第1例は私の患者です。2005 年当時96歳だった男性です。それまでは元気だったのですが、だんだんおかしくなっ てきた。認知症だろうということだったのですが、同年2月に非常に大きな慢性硬膜下 血腫が発見され、別の病院で手術を受けました。術後1週間で私の病院に引き取りまし た。来たときには、かなりひどい認知症になっていました。7月6日に附属の特別養護 老人ホームに移ってもらいました。そのときには寝たきりで、自分で食事はできず、口 に入れてやればなんとか食べられるという状態でした。それもだんだん嚥下が悪くなっ てきました。認知症も進んでほとんど人の見分けがつかないという状態になりました。 それでも2年間はそういう状態でホームにいたのですが、2007年4月5日に、急に意 識が完全になくなり、それで私の所に再入院してMRIを撮った所、左前頭葉に広範な 梗塞がありました。全く反応なしということで、以後は点滴のみになりました。  入院してしばらく経ってから、家族にANHを提案したところ、家族から「それをや れば治りますか」と聞かれました。「いや、治ることはないと思います」と答えると、「そ れでは拒否します」ということになりました。また2カ月間は末梢の点滴をやっていま したが、静脈が全部潰れてしまって、看護師がとうとう「先生、もう入れる血管があり ません」ということになって、もう一度家族にANHを提案したのですが、やはり同じ ことで拒否されました。それでは、もうやることがないということで何もしないでおき ましょうということになり、翌日心停止しました。その前から、血圧がほとんど測れな いぐらいになっていたのですけれども、昇圧剤が使えなかったので、そうなると早くて、 あっという間に亡くなられました。  これは、先ほど言ったwithhold差し控えです。手段があるにもかかわらずやらなか った。私は40数年の脳外科医の生活の中で、withholdをしたのはこれが最初にして最 後の例です。 ☆スライド これは、私の同僚がもっていた患者です。亡くなったときが66歳の女性 です。55歳のとき(1992年)に認知症が始まりました。翌年に神経内科でピック病の診 断を受けました。ピック病はご存じと思いますが、脳が萎縮していって、認知症が進行 して、ついには植物から死に至る病気です。1999年まで6年間夫が家庭で看ていたの ですが、もう看きれないというので1999年に特養ホームに入りました。  最初は自分で食事が摂れていたらしいのですが、だんだん寝たきりになって、口にス プーンで入れてやって、やっと食べられるという状態になりました。その間、発熱が何 回も起こって、病院に入ったり出たり入ったりしています。おそらく嚥下障害による誤 嚥性の肺炎だと思います。2003年6月に非常に高熱が出て、それを契機にして口から は全く入らなくなってしまいました。  そのときに受持ちのカトリックの医師が、夫にANHを提案しました。ところが夫が 言うには、「ピックという診断がついたときに、余命は10年だと言われた。いまお蔭さ まで11年生きている。その間本当に皆さんはよくしてくださった。私はこれ以上家内 にこういう姿で生きてもらいたいとは思わない。おそらく家内もそういう気持だろうと 思う。だからお断りします」ということで断られました。それではというので点滴だけ でやっていたのですが、11月6日に点滴も不能になり、以後5日で心停止に至りました。  先ほどのローマ教皇の言葉がありますけれども、私はこの2例について、我々の対応 が間違っていたとは思いません。ただ、それではPVSの患者は誰でも途中でANHを中 止していいのかというとそうもいかない。現に私の病院では、いま71歳になる植物の 男性がいます。気管切開を受けて胃瘻で生きています。内臓が立派なものですから元気 でいます。この人は、6年半前に交通事故で重傷頭部外傷になって、それ以来植物状態 ですがまだずっとケアしています。それでは、どこでその線を引くのか。私にはわかり ません。 ☆スライド わからないけれども、私なりに考えてみました。現時点で最低限これだけ は考慮に入れなければいけないだろうというのがこれです。第1に生命を守る、という のは大前提です。これ無くして医療は成りたちません。それを大前提とした上で次の問 題になります。最初に急性型と申し上げましたけれども、ああいう急性型の定義に当て はまる患者に対する短期間の苦痛を除くことは、いまの緩和ケアの技術を以てすれば絶 対に可能です。ですから、昔の名古屋高裁の安楽死の5条件はこれには当てはまりませ ん。日本救急医学会のガイドラインによれば、あと数日以内に生命がなくなるだろうと いう人に、この期に及んで生命短縮をさせる意味があるのかと思います。私は、そうい う状態の人は、やはり最後まで全力を尽くして、手厚く治療するのがいちばんいいだろ うと考えます。  ただし、全力を尽くした上で亡くなればそれはそれでいいのですが、亡くならない場 合があります。結果的にPVSになったらどうするのか。尊厳死協会の人がいちばん恐れ ているのはこれだと思うのです。PVSになりたくない、だからもう駄目だと思ったらそ こでおしまいにしてくれということだと思うのです。ただ、我々にはこの人がPVSにな るのかならないのか、最初の2週間ぐらいではわかりません。後になってPVSになっ てしまったと思うだけです。私は脳外科医として、重傷頭部外傷を無数に診てきました。 患者が運び込まれて、家族が駆けつける。そのときの家族の言う言葉はもう100%同じ です。「何でもいいから、ともかく生命を助けてください」ということです。我々はそれ に従って全力を尽くす。その結果1カ月、2カ月経ってVSになる。3カ月、5カ月で1 年経ってPVSになる。そうなると家族は「果たして助けてもらったのがよかったのだろ うか」ということを言うようになります。ただ、これは結果論です。  亜急性型の終末期については、現在の緩和ケア、あるいはスピリチュアケアという面 で一番よく研究されている分野だと思います。かなりいい線いっています。がんの末期 でレスピレーターを付けるか、あるいはチューブを鼻から入れるか、これは一般ではや りません。特にホスピスではやらないことだと思います。  私の病院にホスピスがあって、そこの部長だった山崎先生という有名な方がいらっし ゃいます。その人が私に言った言葉が、ある国際学会に行って、彼がホスピスの患者の 点滴についていろいろ話をした。そうしたら会場から声があって、「あなたの国ではホス ピスで患者に点滴をするのですか」と聞かれた。外国では、食べられなくなったときが 寿命だというのが大方の合意のようです。  末期の慢性型の場合、脳障害のPVSでは一般的に呼吸器は不要であります。また厚労 省のアンケートにケチを付けますけれども、延命治療をやめますかやめませんかという 質問の中の、延命治療の意味がどうもあまりはっきりしない。その中で特殊な治療をと いう項があります。おそらくこれはレスピレーターを指しているのだろうと思うのです。 遷延性意識障害の患者にレスピレーターを付けることはない。よほどの特殊事情がない 限りはない。ここで呼吸器のことを聞かれると、それに引きずられて回答者は、特に一 般の人はそっちのほうに引きずられていくということがあって、あまり正しい答は出な いのではないかと思うのです。  それから意識(認知能力)のあるMCSでは、ANHは持続したほうがいいだろうとい うことは、その次に、若い人ではANHの中止は少なくとも3年は待ったほうがいいだ ろうということと併せて重要なことだと思います。先ほど、救急でPVSになったらどう するかと申し上げましたが、やはり3年は待つべきだろうと思います。それでは、いつ どこで線を引くのか。厚労省のアンケートにもあります。あのアンケートの聞き方もち ょっと問題があると思うのですが、これは私にはわかりません。 ☆スライド 終末期医療でいちばん問題なのは、植物状態の患者のANHを中止するか 否かに尽きると考えています。それを考えるときにどういう点が問題になるのか。1番 は日本人の生命観、倫理観、人間の尊厳について日本人がどう考えているかそれが問題 です。戦時中の日本人は、生命を鴻毛の軽きにたとえというようなことがありましたけ れども、いま日本人は異常なほど生命を大切にしているという感が私にはあります。2 番目は、医療者としての倫理観の問題です。3番目は、患者の最善益は誰が決めるのか。 1つには、リビング・ウィルというものがあれば、それは患者の自分の最善益を現して いるのだと一応考えられます。それがない場合に、家族はどうか、家族が代理人になれ るのかですが、これはやはり問題であるということが町野先生のご本には書いてありま す。  しかし、それでは家族以外に誰だということになる。先ほど挙げた、アメリカの何十 という裁判の中で、裁判所は当人にリビング・ウィルがない場合に、なんとかして家族・ 友人から証言を引き出す。「あのときあの人は、こんなにまでして生きていたくないと言 っていたわよね」というのを唯一の拠り所としてANH中止を認可しているのが現実の 姿だと思います。  それから家族の意識です。家族も非常にバラエティに富んでいますが、やはり家族と いうのは患者に愛情がある。ですから、「もういいからやめてください」とはなかなか言 いません。それともう1つ、これも大きいことですが、自己納得ということがあります。 やるだけのことはやったのだと自分に言い聞かせたい。父なり、夫なり、妻なりを見送 った後、心の傷に残らないためにはできるだけのことをやったのだという自己納得が欲 しい。  もう1つ世間体があります。日本人はこれがかなり強いです。あの嫁は十分な介護も しなかった、という世間の批難を恐れます。最後に実利です。年金が入るというような ことがあります。延命治療の中止を決定するにはこれらすべてを勘案した上でなければ できません。  5番目に、延命措置の中止のプロセスのみを出しても無意味だろうと思います。一昨 年厚労省で出したのは、終末期医療の中止に関するプロセスについてのガイドラインで す。それにはチーム医療で相談しろとか、場合によると病院の倫理委員会に諮れと書い てあります。たとえ倫理委員会に諮ったとしても、倫理委員会のメンバー自体に基準が ない。それぞれ自分の人生観の中で考えるときりない。そういうプロセスだけを提示し ても無意味だろうと思うのです。それでは、ここにある1、2、3、4の全部を勘案した 上で結論が出せるかというとなかなか難しかろうとは思います。  実はこの前NHKでやりました、福永先生が先ほど言われたALSの患者の話ですが、 完全にロックド・インになったらレスピレーターを外してくれという話がありました。 あのとき最後の参考人というか、お客様として柳田邦男さんが出て話をしていました。 彼は、こういうことは法律には馴染まない、一人ひとり違うのだ、だから患者と家族と 医療者と十分話し合った上でやるべきであるということを言っていました。私も誠にそ のとおりだと思います。以上です。時間を超過してしまい、申し訳ありませんでした。 ○大竹課長補佐 ありがとうございました。それでは以降の議事進行を町野座長、よろ しくお願いします。 ○町野座長 時間が30分押したことになりますが、あと30分とるとさらに30分遅れ ますが、どれぐらいの時間をとりますか。 ○大竹課長補佐 質疑の出具合にもよると思いますが、お任せいたします。 ○町野座長 わかりました。そのようなことで、かなり包括的なご議論をいただきまし たので、是非、どちらからでもご意見をいただきたいと思います。よろしくお願いしま す。私からよろしいですか。福永先生にお尋ねしたいのですが、主にALS患者と筋ジス トロフィーの患者のことを言われましたけれども、いま石島先生が話題にされた植物状 態患者についても同じような考え方でいくべきだということでしょうか。 ○福永参考人 私は違うのではないかと思います。筋ジスの患者さんというのは若いで すし、小さいころから病気を持って育ちます。ところが、ALSというのは一般的にはか なり年齢が経ってから来られますし中途の障害を持つわけで、だから対応の仕方という のは自ずから違ってくるような気がします。先生も挙げられましたが、植物状態の患者 さんとは病態としてかなり違うところがあるような気がします。 ○町野座長 病態が違うと言うと具体的にどこが違いますか。要するに長生きかどうか、 若いかという話ですか。 ○福永参考人 実際の問題としては、こういう議論というのは先ほど最後の結論で言わ れましたけれども、実に一人ひとり違うのです。例えばALSでいちばん問題になってい るロックド・インの状態というのも、きちんとした意識がある場合もありますし、意識 があるかどうかこちらが分からない場合もありますし、CTやMRIを見るとほとんど認 知能力はないと思われる場合もありますし、一概になかなか言えないところが非常に難 しいところだと私は思います。 ○林委員 石島先生のご意見の中で、ホスピスだから海外では点滴をしない、日本では するのかというご意見があったわけですが、確かにおっしゃるとおり欧米では以前、ホ スピスに入った患者さん方はほとんど点滴をしなくて、するとしても高カルシウム血症 であるとか、そういった特別な状況だけだったということを私も実際に行って拝見して います。  ただ、最近の傾向としてはホスピスだからとか、今回のテーマにも関わりますが、終 末期だからというだけで点滴をする、しないというのを考える傾向ではなくなってきて います。実際に点滴なりさまざまな治療行為をすることが、その人の症状の緩和につな がるのかどうか。それをすることによって患者さんが、さまざまな苦痛から解放される のであれば点滴をしてもいいのではないか。そのような傾向になっていると私は認識し ています。ですから、その点だけ、ここに来られている皆さん方にもそのようにご認識 していただきたいと思っているのですが、先生、ご意見はいかがでしょうか。 ○石島参考人 全くそのとおりです。 ○中川委員 福永先生にお聞きしたいのですが、先生のご意見であればALSの患者さん は、例えば亀田総合病院のような事例でも、最後まで生命を続けるような方向でサポー トすべきだと言われるのだと思っていたのですが、結局、先生は尊厳ということを守っ て、最後は本人の意思を尊重するということを言われましたね。 ○福永参考人 それが実際のところは、私の気持の中でも整理できない部分もあって、 なかなか一言で言えない。例えば私が最後のスライドの中で、いわゆるリビング・ウィ ルの形で中断ということもあり得るということを、もし書いているとすれば、例えばマ スコミの方々がそこだけ切り取って、私はそういうふうに考えると言ってしまうと、私 自身の気持と若干のズレも感じますし、それがこの問題の難しさだと思います。  ただ、実際の医療の現場の中では先ほど申しましたように、トータルとして考えたと きにはALSの患者さんが非常に増えて、それを持ち出すと、またその施設を造ればいい ではないかという意見もあるかもしれませんが、結局、必要な患者さんが医療を受けら れない状態になっているという現実も片方にあるわけで、だからといってそちらのほう の命を縮めてというわけでもないのですけれども。 ○中川委員 わかります。もう1つ、よろしいですか。先ほど出たALSの患者さんに 関するNHKテレビの『クローズアップ現代』での柳田邦男さんの発言は、私も番組を 見ましたけれども、あまりに曖昧ではないかと思いました。あのぐらい経験があって息 子さんも外傷で苦労されたという経過があるのであれば、もう少しそういう意思を尊重 すべき時には尊重するとか、そういう発言があるのかと思ったら、何か非常に情緒的な ことを言われたように私は思ったのです。  私も脳神経外科をやっていましたから、石島先生は昔からよく存じ上げている大先輩 です。石島先生も言われたようにいろいろな考え方がある。そして個人によって違う。 だからこそ、まさに本人の意思を尊重することが大切であると思います。意思表示を後 方で支える緩やかな法整備も必要ではないかと、石島先生のお話を聞いて逆に思ってし まうのです。  お二人の先生が言われることは、すべてそのとおりだと思いますが、しかし、その中 で意思としてこうしてほしいという意思が強く出てきたときに、医療者側はうまくそれ を行えるように、法律も多少の整備が必要だろうとは思います。 ○石島参考人 私は先生の意見に全く賛成です。この前の柳田先生の発言は、言ってい ることはまさに正しいのですが、ただ、あれでは何も進まないという気もします。私自 身も最後のスライドを何回も書き直しながら、ただ現実は現実ですので、ある程度の一 定の指針は作ってほしい。そうしないと身動きのとれない状況というのは医療現場でず っと続くわけです。そういうところで、いま先生の言われたニュアンスというのは非常 によくわかります。 ○伊藤委員 石島先生のお話を伺って、私たち患者としては知らなかったことが本当に よくわかって、すばらしいなと思います。福永先生の人柄というのもこの中でよくわか りました。しかし、患者や家族の立場として言えば、普段、そういう先生に接してそう いうようなお話を聞いて、その上で「どうしますか」と言われるのだったら少し考えよ うもあるかと思いますが、普段なかなかないわけです。そういう知識もないしそういう 場もない。またどういう先生に出会うかによってずいぶん違うのだと思います。そうい う中で福永先生がおっしゃったような指針というものが出るのかどうか。だからこそ作 らなければいけないという見解もあるのでしょうが、日常的に患者の側はそういう説明 も聞いていない。主治医が福永先生のように本当に悩み考えておられる先生でもないと きに、「これ、どうしますか」と言われたら、どんなふうに考えたらいいのだろうと思い ます。  だから、医療の側としてはいろいろな基準の作り方や議論があるのでしょうが、患者・ 家族の側はどうすればいいのでしょうか。何かもうちょっと皆にもわかりやすいような お話をしていただくような、そういうものはないのだろうかという気もします。何かあ れば教えていただきたいのですが。どうでしょうか。 ○福永参考人 非常に難しいところです。例えば筋ジストロフィーは、今までは制度的 に筋ジス病棟に入院している患者さんも多かったし、大体非常に長期入院で一人の主治 医が診ますのでほとんど問題は起こりにくい。ALSも先ほど少し述べましたが、一人の 医師が診断から告知をして最後まで看取れるような状況だったら、あまり問題は起こら ないのです。大体患者さんの意向、家族の意向もよくわかりますし、だから終末に関し てもそんなにミスマッチは起こらないのですが、いま伊藤委員が言われたように現状を 考えたときには、いろいろな先生方もおられるしいろいろな考え方もある。だから家族 の側が何となく納得のいかない部分が起きているのも事実だと思います。  そこでどういうふうにしたらいいかと言われたら、私自身もあまり持ち合わせていな いのですが、ただ、時間の関係もありますけれども、一昨日、私の講演の後に控室に80 歳ぐらいのおじいさんが来たのです。その方が、「あのときお世話になりました」と言っ てくれたのです。私は見た瞬間にわかったのですが、その人は私の心にずっと残ってい た人だったのです。その方が60歳のときに奥さんを在宅で看ておられて、救急で入院 されて苦渋の末、呼吸器は付けなかったのです。1カ月ぐらいしてから私の部屋に来て、 本当は付けるつもりだった。だから訴えるとまでは言わなかったけど、マスコミにどう こうと怒って帰った人だったのです。そしたら17年経って一昨日、私の部屋に来られ て、私の講演のときにたまたま名前を聞き、お世話になりましたと言って、そのことに は触れずに緑のお茶を机の上に置いて帰ったのです。  そういうので、患者さんのそういう気持を氷解させるのには、17年間必要だったのか なという気もしますし、長い年月の中である程度解消しなければならない部分もあるよ うな気もします。いま伊藤委員が言われたように、どうすれば患者・家族の気持に添う ような形で、そういう説明も含めた医療を展開できるかと言われても、なかなか持ち合 わせていないのです。 ○町野座長 ほかにございますか。今日のお二方のお話ですと、法律まではいかないけ れども、とにかく何らかの指針が必要ではないだろうかという話です。特に石島先生は プロセスについてのガイドラインというのは、あまり意味がないのではないかと言われ ました。それも理解はできますけれども、ただ、例えばある判決で無罪の判決を出した とします。そうするとそれの医療現場へのはね返りはどういう格好で起こるのか。指針 を作ったときにマニュアル化して、これでみんな安心して止めるようになりはしないか。 その点を多くの人は恐れるわけです。  先生方が医療の具体性ということを言われました。かなり困難な仕事ですけれども、 その中である程度やっていかなければいけないのではないかという議論が、かなり強い だろうと思います。こういう時は止めていいと言うのはなかなか難しい。特にこれは法 律の議論のところに最終的にきますから、そこのところでそれをこちらで決めるとか、 多くの医療現場だけで全部は決められない。樋口委員、何かご意見はありますか。 ○樋口委員 なかなか難しくて本当は発言を控えていたいところですが、今日、お2人 の先生のお話は、いずれも大切なことをお話していただいて本当にありがたかったと思 います。私は一応法学部にはいるのですが、町野さんのような立派な刑法学者ではない ので、法律的な議論ができるかどうかということです。それでもあえていえば、いま法 律の話が出てきたからはっきり申し上げますが、まず第一には法に頼るなということで す。福永先生も、法に頼ろうなんて絶対思っていないと思います。あんなものに頼った らとんでもないことになると思っておられると思います。  それは先ほど言われたように、人の人生というのはそれぞれ別々であって、法という のは基本的に非常に不器用な道具なのです。どうしても画一的になるし、それをまた平 等とか何とかきれいごとで言いますけれども、非常に画一的に、こういう条件があった ら、はい、それでおしまいみたいな話にどうしてもなりがちになる。そういうものでは ないでしょうという話がこういう問題ではあるわけです。  生命倫理と法なので、倫理のほうがどうしても先になる。倫理というのは社会の倫理 というのもあるかもしれませんが、人の生き死には本当に個人的な倫理になりますので、 そうすると、それを大事にするような話というのを持っていくと、実は法に頼ってはい けないという話が出てきます。  逆に法に頼っているのでなくて、法を恐れている人たちもいるのです。この前の千葉 の病院の事件でも、表向きか、本当にそう思っておられるのかもしれない。あの千葉の 病院長の方だって立派な人だと思いますし、倫理委員会も、1年かけて患者さんの声を どう受け止めたらいいかを一生懸命考えたと思います。一定の結論を出して、この人に ついてはご家族も含めて、これだけの歴史を背負ってやってきているのだから、やむを 得ないのではないかということが出てきたときに、それでゴーサインを自分が院長とし て出すと警察がやって来るかもしれない。そういう形の法的対応というか法への恐れと いうものを理由にして、とりあえず何もしないということにしているわけです。  町野先生は見解が違うかもしれませんが、あの事件で警察は絶対入らないと私は思っ ているのです。絶対ということは世の中にないので95%ぐらいにしておきますが、事件 と言うのも変で、結局のところこの状況でどこに悪人がいるかという話です。逮捕すべ き悪人は存在しません。家族も一緒に共犯として逮捕するのだろうかという話になると、 そういう話ではない。つまり法が介入していいようなレベルの話ではないので、法を盾 にして、あるいは法を恐れているような話で議論はしてくださるなという感じなのです。  プロセスガイドラインに戻ります。石島先生はそう評価してくださっていないようで すが、本当にそこで記されていることは最低限のことなのです。画一的にはしない。こ れだけのプロセスを踏んだ上でないといけないということで、別に法律的なガイドライ ンとしてまとめたわけでもないところに、いちばん大きな意味があります。そういう意 味では本当は医療者の方に、そして患者・家族の方にも、いちばん評価してもらえるよ うなものでないかと私は思っているのですが、それは自分が関係している人間なので、 「お前が自分でそんなふうに思っているだけで全然役に立たない」と石島先生は先ほど 言われたし、そういうことなのかもしれない。どちらが正しいのか分からないけれども、 本当に最低限のガイドラインなので、あとはその上にどれだけのものを積み上げるかは、 個別の話をせざるを得ないと申し上げているだけなのです。 ○福永参考人 医療の現場で、いま応召義務が問題になっています。応召義務でうちの 若い先生方はどこでもそうなのですが、例えば診療科が違ったときに応召義務を善意で 果たして、もし事故が起こったら先生が責任をとってくれますかという議論にすぐなっ てしまうのです。だけど実際は患者さん、家族というのは、一生懸命してくれたことに 対しては非常に評価してくれるわけです。だから99.99%、そういうことでそういう問 題が起こるとは思えないのですが、実際の議論としてはそういうのが先行するのです。 いま先生が言われたように法律に馴染まないところというのでしょうか。ただ、しかし、 実際に今度は呼吸器を外したとしたら、また問題が今のところ起こりますし、そのあた りの何かの調整を作ってもらわないと、医療の現場としては動きにくいし難しいという 気はします。 ○石島参考人 私は評価しないわけではないのです。あれでは足りないだろうと思うだ けの話です。私もある一定の基準があって、これなら中止してよろしいというものがあ ってほしいと実を言うと思っているのです。ただ、なかなかそれが難しいだろうという ことを非常にわかっているつもりなのです。ああいうプロセスがあっても倫理委員会、 あるいは例えばチームでどうやって決めるのかというのは、いまのところはそれぞれの メンバーの人生観、社会常識に従って決める以外にない。そこに大ざっぱでいいから何 か基準があればと思います。私の最後から2番目のスライドは大ざっぱな基準のつもり なのです。 ○中川委員 法律を専攻されている樋口先生あるいは医療関係のお二人も、結局はみん な同じことを言っていると思います。亀田総合病院の亀田信介院長は、我々はここまで 検討したけど、いまのことでこれを院長が決断すると警察が動くだろうと言っておりま すが、大体、ほかの事例でも同様のことを感じてしまうわけです。それを例えば樋口先 生が、警察の介入はないから医療関係でよく考えてやりなさいというのは、とても不適 切な発言ではないかと私は思います。もっと法律に関わる方も頑張ってほしいと思いま す。みんなでそれを決めようとすると画一的になる。それはよくわかります。ただ、そ ういう言葉によって避けてしまってはいけないと思うのです。あれだけ医療のほうで問 題提起されているわけですから、法律の方も医療の方も一緒になって、そういうことを もう少し前向きになって議論しないと駄目だと思います。そういう時期にきているので はないでしょうか。  いま、福永先生も言われたけれども、プロセスはプロセスで概論としてはすごくいい と思います。ただ、いまは具体的に病態像によってどうするかということを検討する時 期に来ているのです。だから、具体的な難病、救急、高齢者、癌の方に最終的にどうい うふうに対応するか。そういうことに対する緩い法律を作っていかないと、なかなか現 場で役立たないと言うか、適応できないということもあります。座長の町野先生も苦し いところだと思いますけれども、法律の方がもう少し積極的に考える方向でないと、結 局、我々医療者がそれなりに投げかけているのに、これはまだ早いとか画一的になると 言っているのは、どうも私は納得がいかないのです。 ○田村委員 お2人の先生にとても学ばせていただきました。とにかく共通でおっしゃ っていたのは、画一には述べられなくて患者さん、家族を中心としたそれぞれの価値に どうやって寄り添いながら決定していくか、そのことが大事だということをお2人とも おっしゃっていたと思います。故に私は先に出したプロセスのガイドラインというのは、 患者さんや家族を中心にいかに話合いをしながら、そのプロセスを歩むか。そのスター トの基礎の基礎のところを、まずお示ししたものだと私は考えて参加していました。で すから、それができない今の医療の事情、例えば今おっしゃっていたように、いろいろ な先生がおられて情報提供のあり方とか、患者さんや家族がどれぐらいそれを納得して 理解したかを確認しないまま、短い時間で決定を迫られる。そうしなければいけないよ うな事情とか、どれぐらいそれが本当にインフォームドされたかを確認したり保証した りすることがなく、医療が進んでいる今の現状とか、そういう仕組みをどんなふうに整 えていくのかを、むしろ議論したほうがいいのではないかと思います。  ですから、患者さんや家族が納得をして医療者も共に合意ができるために、例えば話 し合うとかいくら言っていても,それが仕組みとして整わなければ、例えばいくら先生 が面談に時間をかけても、それに保証がないとか、コメディカルがいろいろそれを一生 懸命やっていても、それに関して裏付けがないところでは、なかなかそれを仕組みとし て整えることができないのではないか,と現場としては思うわけです。 ○町野座長 時間がだいぶきました。いま法律家に対する批判というのがありました。 私もたまたま法律家ですが、例えば今日の石島先生のおしまいから2枚目のスライドで すね、ここらのようなことでは、それほど大きな相違はないのではないかと思うのです が、話しているうちに大体、皆さん方は了解し得て、こういうところかなという感じで す。しかしながら、それを法律とかガイドラインで形式的にするということは、もうひ とつまた別の問題ではないかと私は思うわけです。  実際、今まで何が警察沙汰になったかという問題から言うと抜管行為ぐらいです。そ れ以上のものは今のところないのです。ですから、それほど警察がばんばん入って来る という事態でもないということだろうと私は思います。時間がかなり押しまして申し訳 ありませんが、こういったところで次の議題に入らせていただいてよろしいですか。議 題の2番目は「終末期医療に関する調査」解析結果についてです。調査解析ワーキング チームの川島委員長より、ご説明をお願いしたいと思います。 ○川島委員 時間が大幅に遅れまして、私の持ち時間は30分ということですが、でき ないかもしれませんがなるべく細かくお話したいと思います。「『終末期医療に関する調 査』結果を解析するためのワーキングチーム会議の報告」ということになりますが、ワ ーキングチームについては皆さんのお手元にある資料4、資料5が行われたすべてです。 資料4の91頁にワーキングチームの名前が載っています。町野先生もご参加です。ワ ーキングチームの会議は計2回開催されました。そこでまとまったものを次の内容とし て報告させていただきたいと思います。  90頁にわたる資料4ですが、「『終末期医療に関する調査』結果の解析」ということに なります。これは問に対して答を解析した結果の公表です。今回の解析については皆様 もよくわかっておいていただきたいのですが、もともとこの調査が行われた時点が1年 ほど前のことですので、その時点においてこの問が妥当であるということを前提にした 調査であるということです。それによって答の信頼性が保証されることになります。そ れが資料4です。  資料5を見ていただくと8頁の非常に少ないものですが、「『終末期医療に関する調査』 に関する意見」です。1年前、従来に比べて現時点において終末期医療に関するさまざ まな考え、意見、論文、総説等の内容が刻々変化しています。今日もいろいろな言葉に ついて、それぞれの考え方や見方がだいぶ違っていて、混乱しているのではないかとい うものがいっぱいありました。語句や文言に対しての定義づけがちゃんとしていないと なかなか問題になってくるということです。  そのような変化している時期において、また5年後に次回の調査を行うことになると 思いますが、その際に根拠となるもともとの問自体をさらに熟慮して、その内容を決め ておいたほうがいいのではないかということが当然ありますので、今後の見直しに資す るように、その後の意見を述べているということになります。つまり問自体が実情や新 しい解釈に合わなければ、その問に対する答もその妥当性が疑われてしまうことになる からです。資料4については非常に詳しく説明が必要なので、最初に頁数の少ない資料 5から説明させていただきたいと思います。  調査全般についてということが記載されていますが、今後の糧になるようなものとし て考えていただくことになります。ここには・が振ってあって全部で9個あります。そ れぞれ代表の委員がコメントを付けていますので、それについての説明をしていきます。  ・の1つ目は、調査の前提として以下の語句の説明が必要と思われるという、富樫委 員からのものです。「終末期」に対してどういう説明をするかということですが、これに ついては・の4番目を見ていただきたいと思います。終末期という特定の時期があるの かよく言われます。終末期は何カ月以内なのか、この時期は終末期なのかといったこと です。ところが終末期という特定の時期があるのではないということが、NIHでは既に 表明されています。今後の終末期医療のあり方に重要な課題を提供していますから、ど れくらい以降を終末期にしろという言葉は、もともとここではそのようには定義できな いことになります。さらに新たな論文や総説の中には、終末期というのは実態として確 かな形としてあるものではない。それは人間が自分の頭の中で考えた構成概念であって 実態ではない。ですから、そこを履き違えないでいただきたいということがあります。  次に「安楽死」と「尊厳死」の違いについて、これも一応説明しておきます。もとも と尊厳という言葉は日本にはなかった言葉です。尊重という言葉はありました。英語に は尊厳に2種類あって、先ほどのローマ教皇のほうで言われた尊厳はsanctityです。 sanctityというのは「それ自体が尊い」です。だから尊さに高い尊さや低い尊さがある のではない。人間それ自体はどのような形であっても尊いのだというのがsanctityです。 よく間違えられるのがdignityです。dignityというのは増えたり減ったりする価値で、 これも尊厳と言い表されますが、通常は「位が高い」とか「高貴な」と言われます。で すから尊厳を低いと言った場合は、もともと存在しているだけで尊いというのとは全く 違う概念で話をしていることになります。もし尊厳がないと言った場合には、比較論で 人間を評価している人が目の前にいると考えなければいけない。つまり尊厳の解釈をも う一度ちゃんと議論する必要があるということです。  3番目に、「医師によって積極的な方法で生命を短縮させる方法」という記載がありま す。例えばよく例に出されるのは人工呼吸器の中止です。中止という語句自体が不適切 であるという論文もあります。人工呼吸器を止めたことによって引き起こされる事態は、 人の全体性を崩壊させる行為であって、単なる医療機器の停止ではない。したがって中 止行為とは別に、崩壊行為というような新しいカテゴリーも必要ではないかという記載 の論文もありますので、一応、頭の中に入れておいていただきたい。  「遷延性意識障害」については、これは難しい語句ですので、もう少し単純にという ことです。「高齢」の範疇をどうするかも問題です。後期高齢者医療で問題になりました のでどうするか。「延命医療」は人間の思考が構成した構成概念であって実態ではありま せんので、ある1つの医療的な手技が延命医療という言葉が付けられるときもあれば、 そうでない場合もあるということで、・の5番目を見てください。  1つの医療手技(人工呼吸療法等)が一方で延命治療と考えられていながら、他方で は緩和ケアに属して本人が楽になるようなものであると考えられることについては、林 委員もお話していました。二重の意味を持つ場合があるということです。ですから新し い神経内科の論文などでは、人工呼吸療法は本人のQOLを、命の質とか人間らしさ、 生きる意味と解釈する方々がいっぱいいるのですが、QOLはそのような人間らしさや生 きる意味を言っているものではありませんので、これも皆さんは間違わないようにして いただきたい。  QOLは生活の質でちゃんと測れる尺度のものです。QOLについてはWHOのQOL のところを引いてみればちゃんと出てきますので、その概念をよく見てください。です から、QOLが低いから生きる意味がないと言った場合には、その時点で取り違いしてい る可能性がある。むしろQOL、つまり生活の質が低いのであれば、QOLを高めるよう な工夫をして生活しやすくしていく、そういうふうに考えていかなければならないとい うことです。  次に「治る見込みがない」という話があります。富樫委員からは、安直に終末期とい う連想をしないような工夫をしてはどうかということです。治る見込みがなくても元気 に生活している人は大勢いるわけです。車椅子で生活している人もそうですし、老人に なって歯が全部なくなった方もそれは治る見込みはないわけですが、それでもちゃんと 生活しておられるわけですから、安直に終末期という連想をしないような表現が必要で あるということです。  ・の2にいきます。延命医療の可否やリビング・ウィルの問題に重点を置くのではな く、これからは意思決定のプロセスに焦点を合わせた質問の一環として、終末期におけ る医療として何が適切かといった医療の制限の問題や、いつ医療側、患者側の相談が行 われるべきか等の問題を重点的に取り上げてはどうかという町野委員の意見です。  ・の3です。質問するに当たって、終末期患者の類型を、具体的な設例を示すなどし て、遷延性意識障害、脳血管障害、認知症など、回答者にイメージが共有されやすいよ うに質問票の工夫をしてはどうかというのがあります。  ・の4は先ほど話したことです。・の5もそのような話です。つまり延命か尊厳死か、 あるいは治療か緩和ケアかというような二項対立や二者選択でないような設問の工夫が、 これからは必要であろうということです。  ・の6ですが、現時点の緩和医療は、適正に運用されれば全ての患者は緩和されるの で、それがわかるような設問にすべきではないかとあります。つまり痛いから死なせて くれというのは、痛がっているような治療しかやっていない。つまり緩和が不十分であ るということがもともとの前提になる。ですからちゃんと緩和してあげればいいという ことになるわけです。  ・の7ですが、終末期の決定プロセスに対する設問を加えてはどうか。この場合、終 末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会が示したガイドラインは「決定に至る プロセス」が適正であるためのものであって、「意思決定させる」ものではないというこ とを念頭に設問を作成してはどうかということです。つまり、これは先ほどの伊藤委員 の話にもありましたように、十分な説明が行われないままにどんどん医療が進んでしま う。例えば厚生労働省の老健局のデータ等でも、いまのがんセンターの医師の7割、臨 床研修指定病院の医師の75%は、在宅に帰す術を知らない、在宅医療を知らないという アンケート調査結果があります。そうすると、その人がどのように生きていくかという ことが全く決定できないことになりますので、そのプロセス自体がちゃんとなされてい るかどうかについての設問が必要です。  ・の8は、医療従事者が、そのようなことで医療行為について十分な説明を行ってい るか否かについて、問が必要であろうということ。  ・の9は、時代の変化で、「終末期」そのものの概念の多様な意見、生活機能に即し た障害概念の登場、これはICF(国際生活機能分類)というのが2001年にWHOで提 唱されています。今までは低下した機能をよくしようという比較論で物事を考えていま したので、低下しない人にはもう生きる道はないと考える医師が多かった。しかし、ICF はそうではありません。どのような状態であれ、うまく治らなくても、それをありのま まにちゃんと支えてあげようということで、治すことではなく、それをうまく支える術 を与えてあげればいい。それが国際生活機能分類です。それと先ほども申し上げたよう な緩和ケア医療の進歩が起っていますので、終末期医療は緩和ケアで代替できると考え てもいいだろうということです。経年変化のみならず、新たな事象に対応した設問設定 をしてはどうかというのが、問に関する今後の糧としての意見です。  さらに個別の事例についていくつかありますが、時間が押していますので、少しだけ 話をさせていただきます。3頁目を見ていただくと町野先生からですが、関心があるの は当然ということもできるので、次回からはこの問を省いてもいいのではないか。問2 では、治る見込みがないということが終末期というふうにイコールになってしまうとい う間違いをしないようにしたほうがいいだろう。知りたいという場合に誰から説明を受 けたいかをちゃんと明記したほうがいいだろうということです。いちばん最後で、病名 や病気の見通しの説明だけではなく、「どのように生きるか」について、つまりICFに 関する設問をちゃんと医師がやっているかどうかを、考えていかなければいけないだろ うということ。最初の頁だけ申し上げましたが、ずっと記載してありますのでこれを読 んでいただければよろしいと思います。  次に資料4を見ていただきたいと思います。資料4は膨大ですが、基本属性が2頁目 で、職種別の回収状況についての比較をクロス集計した結果です。4頁目に調査全般に 対するコメント、5頁以降が各問に対するコメントになります。4頁まではこの文章を いくつか読ませていただきますが、5頁以降については5頁の上を見ていただくと(1)「終 末期医療に対する関心」とあり、以下、(2)(3)というように大項目が続きますので、大項 目についてそれぞれコメントの内容をいくつか説明させていただきます。これに要する のが約15分と考えていただきたいと思います。  始めます。2頁、基本属性についてです。年齢分布では若年層の回収率が低かったけ れども、前回と年代構成はほとんど変化はありませんでした。3頁を見てください。職 種別の回収率では前回よりも減少して総計で46%の回収率です。いつもそうなのですが 医師の回収率が低かったということです。しかし、緩和ケア病棟勤務の医師、看護師は 高い回収率であったということです。しかし、数が少ないために全体の結果にはなかな か反映できなかったということです。このような単純集計では反映されないデータを浮 彫りにするために3つのクロス集計を行っています。1つ目は、一般国民の年代別で、 20〜39歳、40〜59歳、60〜69歳、70歳以上としています。2つ目は問15にあります が、延命医療について家族で話し合ったか否かによるクロス集計です。3つ目は医師・ 看護師の勤務する医療施設別で行っています。この3つです。  それぞれに対し、すべての問について特定の傾向が見られたかどうかについては、5 頁以降の各問のコメントの中に記載してあります。延命医療について家族で話し合った 一般国民や、緩和ケア病棟勤務の医師・看護師については、多くの問で特定の傾向が見 られたということです。例えば延命医療について消極的であり、リビング・ウィルの考 えに同意する者が多い傾向があったということです。  5頁の各問に対するコメントにいきます。(1)の終末期医療に対する関心ですが、多く の国民、医療従事者が関心を持っているのですけれども、緩和ケア病棟勤務者では70% 以上が「非常に関心がある」と答えています。この傾向は終末期に対する知識でも同様 でした。  7頁を見てください。7頁については自分自身が治る見込みのない病気になったとき に、病名や見通しについて知りたいか。それを医師から直接聞きたいかという質問では、 高齢者では消極的な割合が増加していました。  9頁を見てください。9頁は病名や病気の見通しについての説明です。問6は医療従 事者に聞いた項目で、担当する患者が治る見込みがない病気になったときに誰に説明す るかという質問に対し、医師では「本人にする」という回答が前回に比べて増えていま す。看護師は前回の調査と違う聞き方をしていますので回答傾向も変わっています。  10頁を見てください。医師が患者や家族に納得する説明ができているかどうかを問う 質問では、「できている」と答えた医師が年々減っている。これがプロセスをきちっと踏 んでいるかどうかの目安になってきますので、ここの問に対する傾向が非常に危惧され ることになります。  11頁を見てください。治療方針の決定についてです。問8ですが医療従事者に聞いて います。治療方針を決めるときに誰の意見を聞くかでは、状況を見て誰にするかを決め る者が多いということです。緩和ケア病棟勤務者では「本人の意見を聞く」とした者が 多くなっています。家族に初めに話をしている方々も、まだまだ医療従事者では多いの ではないかと推測されるわけです。  12頁を見てください。(4)の死期が迫っている患者に対する医療のあり方です。死期 が数日よりも短い期間での心肺蘇生の希望については、多くは望んでいません。年代が 高くなるほど望んでいない。  13頁を見てください。死期が6カ月よりも短い期間になった場合の延命医療について の希望についても、心肺蘇生の場合と同様であったということです。延命医療について 家族で話し合った者や高齢者、緩和ケア病棟勤務者では望まない割合が高いということ です。  14頁を見てください。延命医療を望まない場合、具体的にどのような治療を中止する か。これは先ほど話しましたように、「中止」という文言が適切かどうかについてはまた 考えなければならないですが、それは次回のことです。その場合に人工呼吸器、胃ろう、 点滴などの中で何を延命医療とするかは、人によって異なることが示唆されたというこ とです。  15頁を見てください。延命医療を望まない場合の具体的なケア方法について、いわゆ る積極的安楽死を望む者はごく少数であったということです。  18頁を見てください。家族に死期が迫った場合の延命医療の希望については、自分の 場合よりも延命医療を望まない者は減っており、「わからない」とする者のほうが多かっ た。  19頁を見てください。延命医療を望まない場合の医療の内容については、自分の場合 と比べて点滴の水分補給等の一切の治療を中止してほしいと思う者は少なかった。  21頁を見てください。医療従事者において死期が迫ったときの延命医療について、担 当患者の場合を問うているのですが、自分や家族の場合よりも明確に望まないという者 は前回よりも減っている。自分では延命医療を明確に望まないが、患者・家族になると 「どちらかというと望まない」という回答のほうに、シフトしてしまっている傾向にに あります。  24頁を見てください。24頁では大きな項目の遷延性意識障害の患者に対する医療の あり方です。遷延性意識障害の場合は死期が迫った場合と比べて、延命医療を望まない 割合が増えている。延命医療について家族で話し合った者、緩和ケア病棟勤務者などで は延命医療を望まない割合は高い傾向であった。  27頁から30頁を見てください。家族や担当患者が遷延性意識障害になった場合であ るけれども、死期が迫ったときと同様の傾向であり、明確に望まない者が減っており、 「わからない」とする者が増えているという傾向です。  次は33頁になります。(6)の脳血管障害や認知症等によって全身状態が悪化した患者 に対する医療のあり方です。これについては脳血管障害や認知症によって全身状態が悪 化した場合も、遷延性意識障害の場合と同様に延命医療を望まない割合は高い傾向であ った。家族の場合や担当する患者が脳血管障害や認知症になった場合の延命医療に関す る傾向も、死期が迫った場合や遷延性意識障害の場合と同様であった。  42頁で(7)のリビング・ウィルと患者の意思の確認方法です。リビング・ウィルの考 え方に賛成すると回答した者は年々増加しており、その考え方が国民の間に受け入れら れつつあると考えられます。特に一般国民で延命医療について家族で話し合った者や若 年者で賛成の傾向が見られます。43頁で、しかし、リビング・ウィルについて法制化す べきと答えた一般国民は減少傾向にあります。医師以外は過半数を下回っている。その 中で医師、特に緩和ケア病棟勤務者は法制化すべきと答えた者が多いということです。  飛びますが、法制化に関する問として83頁を見てください。医療従事者への問です が、終末期の定義、延命医療の不開始や中止についての一律な基準づくりについては、 賛否が分かれているということです。84頁で、しかし基準づくりをすべきであると答え た者でも、作成可能と思う者は少数であったということです。  44頁に戻ります。リビング・ウィルについての書面を作成することについては賛成す る者は多い。46頁を見てください。リビング・ウィルについての書面の内容を尊重する かどうかについてですが、医師・看護師では患者からの文書を尊重すると答えている者 が多い反面、国民あるいは介護で自らの文書を尊重してもらえると思う者は少ないとい う結果でした。  47頁を見てください。リビング・ウィルの書面が書き直しができることを知っている 者でも、医療従事者と国民の間に認識の差が見られた。48頁で、意思確認が本人からで きなかった場合に、家族や後見人が代わって意思決定をするという考え方に対しては、 消極的な者を含めると過半数が賛成しています。しかし、そのときの状況によるとした 者も少なくないという結果でした。  49頁を見てください。意思確認が本人からできなかった場合に、国民自身が誰かに意 思決定を任せることができるかどうかについては、過半数の者が可能であると考えてい ます。延命医療について家族で話し合っている者では、さらに多くが可能としています。 50頁を見てください。その相手は配偶者など最も身近な人を考えています。  51頁で、(8)の終末期医療に対する悩みや疑問についての部分です。終末期医療に対 して悩みや疑問を感じる医療従事者は80%を超えています。特に緩和ケア病棟勤務者で は頻繁に感じている者が過半数を超えているということです。  52頁以降を見てください。その悩みは医師では在宅医療の体制に悩んでいる。それと 病院内の終末期医療の施設不足を挙げており、看護、介護ではさらに患者の症状緩和に 対して悩みを持っているということです。  55頁以降ですが、死期が迫っている患者の終末期における療養の場所です。死期が迫 った場合の自分の療養場所として、60%を超える国民は自宅で療養することを望んでい るが、最後まで自宅で療養したいと思っている方は11%です。必要があれば緩和ケア病 棟や、これまでかかっていた医療機関への入院を希望しているという結果です。  56頁で、自宅で最後まで療養可能と思っている人は少なくて、57頁を見ていただく と、その理由としては介護の家族の負担、急変時の対応、経済的な負担への心配を持っ ているということがわかっています。  60頁は、家族に死期が迫ったときの療養の場所です。自分の場合よりも自宅への療養 が少なくなっているという傾向がありました。  65頁以降は、脳血管障害や認知症によって、全身状態が悪化した患者の終末期におけ る療養の場所の話です。死期が迫った場合と質問の選択肢の作りがちょっと異なってお りまして、療養したい場所を問うているのですが、脳血管障害や認知症におきましては、 国民は自宅よりも病院での療養を望む者が多かった。高齢者の方が病院を望む傾向は、 死期が迫った場合と同じであるということです。一方で医療関係者は、自宅や介護療養 型の医療施設を望む者が多かった。  66頁で、自宅で療養したい者について、その理由としては、住み慣れた場所で最後ま で好きなように家族と過ごしたいからと答えています。  68頁は、一方で、自宅以外での療養を望んだ理由としては、死期が迫った場合と同様、 介護の家族の負担、急変時の対応を挙げた者が多かった。  71頁では、家族や担当患者が、脳血管障害や認知症によって全身状態が悪化した場合 の療養の場所としては、さらに病院を望む者が増えており、医療従事者も、介護療養型 の医療施設を望む者が増えています。  72頁からの問に対してですが、自宅で、あるいは自宅外で療養させたい理由について は、死期が迫っている場合の理由と同じである傾向があります。  77頁以降は、がんの疼痛治療法とその説明についてです。77頁は、WHO方式がん 疼痛治療法について、医師の方である程度知っている者が約半数であった。つまり、ま だまだすべての症状を患者は緩和できることについて、医師自体がそのような知識や手 技を持っている者が少ないという結果です。モルヒネの使用の説明については、説明で きる者が40%を下回っていたが、両方とも勤務する医療機関によって、大きな差が見ら れた。  79頁以降ですが、終末期医療体制の充実についてです。79頁の終末期医療の普及に 際して充実させるべきものとしては、在宅医療の体制整備、相談体制を挙げる者が多く、 緩和ケア病棟勤務者を中心に、積極的な回答が多くなっていた。  81頁は、クロス集計の対象とした項目なのですが、延命医療について家族で話し合っ た者は、概ね半数ぐらいであったということです。話し合いを行った者はそうでない者 と比べて、いままで紹介したように、多くの問で回答の傾向が異なっていて、話し合い を行うことは大切なことであるということが、示唆されております。  82頁です。では、医師と患者の間で話し合いが行われていると思うかどうかの間では、 過半数が不十分である、あるいは行われていないと答えている。これに比べて緩和ケア 病棟勤務の医療従事者に限っては、行われているというようにした者が多かったという ことで、医療従事者によって、かなりの差が出てきているということです。  85頁で、終末期医療の治療方針に、医療従事者間で意見の相違があったとする者は、 医師では30%程度でしたが、看護師では50%近くがある。そして緩和ケア病棟勤務者 では、約80%があると答えているということです。  88頁からは、終末期医療で重点的に行うべきこととして、緩和医療の普及、患者との 十分な話し合い、チーム医療の充実を考えている者が多い。  最後になりますが、90頁の医療に対しての希望です。生活を支える医療を望んでいる 者が多い。国民、特に高齢者では、病気を治すための可能な限りの医療を受けたいと思 う者も、他の集団より多かったということです。  総括として、問の聞き方が変わったことで、一部に回答傾向が変わったこともありま したが、全般としては前回と大幅に回答傾向が変わった問はなかったということで、ち ょうど30分です。皆さんありがとうございました。 ○町野座長 どうもありがとうございました。非常に要領よくと言いますか、コンデン スされた内容をお話いただきました。すでに閉会の時間ですが、もちろん15分まで討 論を続けさせていただきまして、積み残しの宿題等は、次回に回すことにさせていただ きます。  いまのご報告では2点ありました。1つは解析結果と言いますか、どのような結果が 出たのであろうかと、その注目すべき点。もう1つは、今後のことを考えて、つまり4 年後にもう一回これをやらなければいけないわけですから、そのときの質問の立て方、 調査のやり方について考慮すべき点があるのではないかと。大きく分けてその2つにな ると思いますが、どちらの点についてでも結構ですので、是非ご議論をいただきたいと 思います。どうぞよろしくお願いします。 ○中川委員 本当にワーキンググループの方には、大変詳細に分析していただいて敬意 を表します。ただ、5年前と変わったところというのを最後のまとめで箇条書きでもい いので、できましたら整理するときに列挙していただきたいのです。例えば5つぐらい、 ここは変わっているというようなところを。そうして頂くと、流れがとて分かりやすく なると思います。 ○川島委員 もっともだと思います。では、ワーキングチームでもう一度メール上で、 話し合いをして決めさせていただきたいと思います。 ○町野座長 ほかにございますか。 ○石島参考人 先ほども申しましたが、終末期といっても急性、亜急性、慢性とある。 これを一緒くたに終末期として論じたら、めちゃくちゃになって何が何だかわからない。 このアンケートでは、そういう傾向があるのです。遷延性意識障害という別項目があり ますが、それでは脳血管障害のものはどうなのだというようなことになることもあると 思います。ですから、やはりこれははっきりと、どういう終末期かということを分類し た上で、質問をしたほうがよろしいのではないかと思います。 ○町野座長 ほかにございますか。  私は、最初から調査検討委員会にいたわけではないのですが、少しはやはり変わって きているのですか。ほぼ質問とかは同じで、私はそれほど歴史は知らないのですが。  これは事務局のほうにお願いですが、少し目に見えて変わったところは何箇所かある わけで、前回のときは、最後の療養場所としてどこを望むかというような問題や、老人 の医療と言いますか、そちらの高齢者医療のほうに少し傾斜した質問項目があったとい う具合に記憶しておりますが、それは少しずつ動いてきているということだと思います が、何か節目となるようなことというのは。これは何回目でしたか。 ○大竹課長補佐 4回目です。 ○町野座長 初回以来、何かそういう変わり方で、何か目立つところはございますでし ょうか。 ○大竹課長補佐 基本的には継続性をもって傾向を見るというのが大きな趣旨です。た だ、そのときどきで話題となっているもの、例えば療養場所ということもありますので、 適時そこは追加、削除はしております。 ○町野座長 今日のご議論の中で、緩和医療というのはおそらくこれからは大体、もち ろんまだ知識の普及とか、そういう点に問題はあるかもしれませんが、主に疼痛の緩和 については、徐々に概ね克服されつつあると。それ以外の医療の質のほうが問題だとい う具合に少し移りつつあるようです。  かつての法律上の議論でしたら安楽死がかなり中心で、疼痛緩和のために死期を短く するのはどうかとか、あと植物状態のときに終末期というのはいつか、そういう議論だ ったのですが、今日のお話を伺っていると少しずつ感じが変わってきているので、少し 考える必要がまたあるのかもしれないと思います。これは次の問題ですが、ほかにござ いますでしょうか。 ○永池委員 リビング・ウィルに関する質問のところです。先ほど福永先生からもご指 摘があったように、ドナーカードのようなもので事前の意思を明らかにすることもでき るのではないかというご意見と、健康なときこそ人生の終幕への想像力を働かせること が必要ではないだろうかといったところを伺いまして、実際に医療の現場ではインフォ ームドコンセントの中で、病気の発症の初期の段階から終末期というものに関する何ら かの相談支援が始められる可能性が、実際には難しいのかなと思いました。よって、医 療の現場とは別のところで、何か法制ではなくて何らかの情報提供なり、健康なときか ら自分の最後を考えるといったような仕組みを進めていく必要が、別にあるのではない かなという示唆を、私はいただいたような気がします。それらに対して国民がどのよう に思っているのか、医療の現場で、病気がわかった初期の段階から十分な相談支援を受 けたいのかといったような質問の設定も、今後重要なのかなと考えますが、いかがでご ざいますでしょうか。 ○田村委員 病気を持って生きるという状況になったときには、医療者側からその病気 が、その人の生活にもたらす変化や今後については、医療の現場でそれを説明するもの であるというのが、まず原則かなと思うのです。そこのところに対する設問を、私はど うしたらいいのかなと思っていて、いまの発言の「どこかでするのがいいのか」という ことではなくて、医療のところでそれを「どの程度実際になされているか」を、どのよ うな形で設問に入れるといいのかなと思いました。  問の24の85頁でも感じたことですが、「相違が起こったことがなかった」というの は、「それに対するやり取りをしていない」ということが、実際に裏には結構ある現実な のかな、と思った現状もあります。 ○町野座長 ありがとうございました。非常にいずれも貴重なご指摘だろうと思います。 ほかにございますでしょうか。 ○川島委員 私の印象ですが、やはりプロとアマチュアと、どちらがどちらかというこ とだと思うのです。つまり国民や地域住民や患者サイドは、医療にも、それから、自分 の体が病気によって変わるし、さらに治療によって変わってしまった。そういう状況で、 自分がどのように生きていけるかという生き方を本当は聞きたいのに、お医者さんがそ こまで、プロとして自分が体をいじっているのに、きちんとした説明をしているのか。 これこそがプロセスをちゃんと経ているのかということです。そこには症候論や疾病論 のような病気の説明だけでは足りなくて、では、その病気によって変わってしまった体 が、ICFも含めてその体でもいいのだよと。つまりその体をありのままに認めて、それ をどのように支えていくかという支え方を、ちゃんとプロがアマチュアに説明をしてい るのかどうかを、もう一度きちんと問を立てなければならないのではないかと思ってい ます。そうでないと、初めにもう既に説明したかのように見せて答が出てくるような結 果ではいけなくて、実は十分な説明をしていない結果が、このようになっているのだと いうように、次回からはいろいろ考えられてくることも出てくるでしょうから、今後の ためには、いかに医師がきちんとした説明をして、患者に納得してもらっているかとい うことなどを、生活も含めてちゃんと問い質していくことが、重要なのではないかと思 っております。 ○池上委員 このワーキンググループの中の委員として、1つ追加させていただきたい と思います。今回の分析で新たに加わったことは、年代別との関係、あるいは家族の中 での話し合いをしたかどうかという2点が、これまでにない分析の視点があるとしてい ます。そして両者において、それぞれ10%以上回答の傾向が違う場合には、ここに明記 されております。  その中で私が注目しましたのは、家族で話し合いをしている者のほうが、延命医療に 対して消極的であるという点。もう1つは、高齢の方ほど、医師からの病気の病名や病 気の見通しについて、知りたくないという割合が多いという点です。  こうした観点からも、また分析する必要があるのではないか。いろいろなことを決め る上でも、国民と一口に言っても、いろいろな年代によって違うという点と、今後のひ とつの方向性を見る上では、話し合いが非常に重要ではないかという気がしました。  ただ、その話し合いも、よく話しているという割合は非常に少ないので、一応話して いるというのを入れると、半数弱ぐらいに達しているという現状です。ご参考までに申 し上げました。 ○櫻井委員 川島先生とダブるかもしれませんが、私は懇談会に参加させていただいた 当初から、暮らしを支えるために終末期医療をどう考えたらいいかという観点で、ずっ と意識しておりました。だからそこのところが今回の調査結果からもいまひとつ見えて ないことが心残りになっています。  先ほど川島先生がおっしゃったように、お医者さんが患者さんの暮らしを支えるため にどのように関わっているかという辺りの考え方。逆にご家族、あるいはご本人が望む ことは一体どういうことなのかというところを浮彫りにできれば、さらにいいかなと思 っております。以上です。 ○町野座長 ほかにございますでしょうか。 ○伊藤委員 私もワーキングの委員として少し関わったので、細かいことについてはま た次回の議論になるのだと思うのですが、患者と医療従事者との間のさまざまな回答の 部分でのずれというか、これは結構大きなものがあると、私は感じています。  とりわけ医療の場をどこにという問等で、医療関係者はほとんど在宅でと言っている わけですが、患者の側というか、一般国民の側は、圧倒的に医療機関でと望んでいる。 このギャップは非常に大きくて、これは医療とか技術という面だけではなくて、日本の 医療の仕組み、あるいは生活を支える仕組み、在宅を支える仕組み、そういうところに 大きな問題があるのであって、終末期医療のあり方を考えるのであれば、そこのところ も十分に考える、あるいは検討をしていくことが、これから必要なのであろうと。しか も家族の側の医療機関でのという理由は、医療機関が医療があるからというよりも、ほ とんど在宅が家族に迷惑をかけるからというレベルの理由が、どの回答を見てもそれが いちばん多いという辺りに、いまの日本の在宅と医療機関での医療の差に大きな問題が あるのではないかという気がしまして、今後それを議論の1つの課題にしていただきた いと思っています。 ○町野座長 ありがとうございました。そろそろ15分になりましたので、いろいろご 議論はあると思いますし、私も先ほどいろいろなご意見がありましたところから、いろ いろ考えさせられました。今回もですが、次回はもう少し、かなりいろいろなことを考 え直さなければいけないところがあるように思いました。  それでは、一応今日のところは議論はここで終わりにしまして、私のほうから若干お 願いがあります。今日お配りした資料1「主な意見」の改訂版を、次回までに今日のご 議論も入れた上で、お作りいただくことは可能でしょうか。 ○大竹課長補佐 はい、かしこまりました。 ○町野座長 事務局のほうで、何か今後の予定などがありましたらお願いします。 ○伊東保健医療技術調整官 次回懇談会は、なかなか議論が尽きませんので新年度にな ろうかと思いますが、新年度も改めてこの懇談会を続けさせていただきますので、よろ しくお願いしたいと思います。詳しい日程につきましては、また改めて皆様にご連絡さ せていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。 ○町野座長 参考人のお二方、どうも大変ありがとうございました。では、今日はこれ で終わります。 (照会先)  厚生労働省医政局総務課  大竹、山之内、澤谷 (代)03−5253−1111(内線2529、2521)