09/02/12 第3回食品の安全性に関する情報提供のあり方懇談会議事録        第3回食品の安全性に関する情報提供のあり方懇談会          日時:平成21年2月12日(木)13:30〜15:30         場所:経済産業省別館10階 1028号会議室 ○唐木座長 それでは、時間になりましたので、第3回食品の安全性に関する情報提供の あり方懇談会を開会させていただきます。  本日は、御多忙のところをお集まりいただきましてありがとうございます。  最初に、事務局から本日の委員の出欠状況等の報告をお願いします。 ○事務局(北村) 本日の委員の出席状況でございますけれども、五十嵐委員、高橋委員 が所要のため御欠席です。小島委員、古谷委員が少し遅れているようでございます。  また、事務局の異動がございましたので紹介いたします。  大臣官房参事官の塚原でございます。 ○唐木座長 それでは、引き続いて、事務局から配付資料の確認をお願いします。 ○事務局(北村) 一番上の議事次第の方に、配付資料と記載がございます。資料1とし まして、中谷内委員の「一般消費者のリスク認知」の資料になってございます。資料2が 古谷委員の「消費者のリスク意識」と書いてございますけれども、申しわけございません、 資料2の方が「リスク認識」となってございまして、「消費者のリスク認識」の資料にな ってございます。それと、構成委員名簿、座席図となってございます。  以上です。 ○唐木座長 資料、よろしいでしょうか。  それでは、議事に入りたいと思います。  今日の懇談会は、「リスク認知」ということをテーマにして行いたいと思います。要す るに、消費者が食品のリスクをどういうふうに理解しているのか、そしてそれをどう判断 して、どう活用しているのかというところで、いわゆる安心の問題が出てくるということ です。  今日は、最初に中谷内委員と古谷委員からリスク認知についてのお話を伺った後、この 話題についての意見交換をしたいと思います。  また、もし時間があったら、最後に会場に御参加いただいている方からも御意見を伺い たいと思っております。  それでは、最初に中谷内委員から「一般消費者のリスク認知」ということでお話をいた だきたいと思います。よろしくお願いします。 ○中谷内委員 中谷内です。よろしくお願いします。  リスク認知研究は大体30年ぐらいの歴史があるんですけれども、20分で話せというこ とですので、手短にいきたいと思います。  リスク認知というのは、一般の人々がどんなふうにリスクを認識するのか、そのものな んですね。それを調べるときに、2つの方向性があります。お手元の資料1の(1)にあ りますように、1つ目は「リスク分析の概念枠組みに沿ったアプローチ」。つまり、リス クとは何ぞやと言った場合によく出てくるのが、確率、それから、望ましくなさの程度と いうことです。したがいまして、リスク認知についての研究も、一般の人々が確率という のをどんなふうなとらえ方をするのか、望ましくない結果についての評価をどんなふうに するかというこの2つの要素に分けて見ていこうというのが1つ目のアプローチです。  2つ目のアプローチは「より自由な視点からのアプローチ」と書いています。これは、 例えば、遺伝子組換え食品であるとか、そういったものに対して消費者が忌避するとした ら、それは確率とか結果の程度を考えているんだろうか。必ずしもそうじゃないんじゃな いか。専門家、あるいはリスク分析の研究者が概念枠組みとして提供する確率とか結果の 望ましくなさの程度というのを取り払った上で、どんなふうな心理的な要素が消費者の回 避とか接近とか、そういう行動に結び付いているのかを調べようというのが2つ目のアプ ローチです。  それぞれ順にお話ししていきたいと思います。  まず、1についての知見を紹介。リスク分析の概念枠組みに沿った方のやつです。  クイズその1とありますけれども、ちょっとお考えください。「強盗」は年間約6,000 件発生しています。これは平成18年調べで、これから2件ぐらい少ないぐらい。大体年 間6,000件です。では、「人質立てこもり事件」は年間何件ぐらい起こっているでしょう。 「空き巣」は。「身代金目的の誘拐」はどれくらい起こっているでしょう。「自動車泥 棒」はそれぞれ何件ずつ発生しているでしょうというふうなことですね。どうですか。  これは、実は、「人質立てこもり事件」というのは、年間10件も起こっていないんで すね。「空き巣」は9万件あります。「身代金目的の誘拐」も一桁です。「自動車泥棒」 は3〜4万というのが正解なんですね。でも、これを聞くと多くの人は、「人質立てこも り事件」は何十件とか100件というふうに高い数字を回答する。「空き巣」は1万とか2 万とかいう実際より少ない数字を回答するという傾向がございます。  その結果を示しているのが、プリント2枚目の裏側ですね。図が2つありますけれども、 上の方が、今のような質問を一般学生に行った結果です。横軸が客観的な統計データです。 縦軸が、それに対して主観的な頻度の推定値です。  例えば「人質の立てこもり」であれば、横軸で見ると、10より小さいですね。つまり、 年間一桁。それに対して縦の方、主観的な頻度推定はどうだったかというと、約100とい うことで、10倍ぐらい、ワンオーダー過大評価しているということです。つまり、この 図の対角線より上にある部分というのは、実際の数値よりも過大な評価をしているという ことを意味します。  逆に、一番右の「全ての窃盗」、これは100万件以上年間起こっていますね。「空き 巣」は10万件近く、「自動車泥棒」というのは、対角線より下にあります。つまり、現 実的には何十万件も起こっているんだけれども、主観的にはせいぜい数万件という回答と いうことです。  下の方の図が、警察官による同じような調査結果です。ただ、この警察官は、警察大学 校に入っている昇任試験を受けたような人ですので、仕事熱心、勉強熱心な人かもしれま せん。警官、つまり専門家は、対角線に乗って、起こっている頻度をかなり正確に推定し ている。それに対して一般の人は、余り起こっていないものを過大視して、しょっちゅう 起こっている頻度の高いものは過少視するという傾向がここから見て取れます。  このような傾向は、1枚もとに戻っていただいて、図1の左側、a重みづけ関数という のがありますけれども、これと大体合っているわけですね。2枚目の上の左側の重みづけ 関数というやつです。横軸が客観的な確率。相手から提示される、何%ですよという確率。 縦軸がそれに対する主観的な評価と思ってください。  ごらんのように、非常に低い確率領域では、対角線より実線が上にある。つまり、過大 評価するし、中程度から高程度の確率、あるいは頻度推定に関しては過小評価の傾向があ るということです。  これが確率に対する認知の1つ目の特徴ということになります。  プリント、一番最初にお戻りいただきまして、先ほどのクイズのすぐ下のところ、アン ダーラインがありますね。確率に対する認知。これは、プロスペクト理論という行動経済 学の理論なんですけれども、これの関数の一つです。特徴が、低確率・低頻度事象を過大 評価、高確率・高頻度事象を過小評価するという今の結果です。  もう一つが、先ほどの図1のa重みづけ関数を見ていただいたらおわかりのように、ゼ ロのところとか、ゼロでないところとか非連続になっているわけですね。1と1でないと ころも非連続です。  横軸が客観的な数字、縦軸は心理的な評価です。対角線から見ると、ゼロはゼロ。つま り、起こり得ないことは起こり得ないと思えるんですけれども、リスクがゼロではない、 0.0001であるといった場合には、ピョーンと飛んじゃうんです。飛んじゃって、こんな ふうな関数になっているというのが2つ目の特徴でありまして、これがp=0のときはw も0、けれども、pが0で一たんなくなってしまうと、wはジャンプアップするというこ とですね。これがゼロリスクを求める気持ちとつながっていると思います。  ただし、ジャンプアップはしていますけれども、別にここら辺にきているわけではない ですね。つまり、リスクがゼロでないんだったら、90%も100%も0.1%も一緒だという ことは全然ないわけで、0%と1%を比べたら、1%と2%よりも落差は随分ありますよ ということは言えるんですけれども、リスクがある以上全部一緒だということを意味する 関数ではありません。  最後、特徴3つ目が、低確率領域では確率に対する評価の動きが鈍感。どういうことか といいますと、ここの部分です。ここの部分ですけれども、横軸が客観的な確率の変化で すね。縦軸が心理的な変化です。横軸のこれだけの動きに対して、縦軸はこれぐらいしか 動かない。どういうことかといいますと、リスク評価とか、特にリスク管理されている方 は、ここら辺で勝負しているわけですね。10−4を10−5にするとか、それをさらに半分 のリスクにするために、多大な労力を使って、お金を使って、さまざまなリソースを使っ ているというふうにして、ここで成果があっても、主観的には余り変わらないということ です。ちょっと悲観的なものになりますけれども、これが確率についての重みづけ関数の 意味するところということになります。これがとりあえず確率についての評価の特性です。  次、2つ目、クイズその2とありますが、新型の伝染病が海外から持ち込まれ、このま までは国内で600人が死亡するとアセスメントされているとします。対応策はAかBのど ちらか一方しか実施できない。あなたがもし責任者だったらどっちにしますか。Aだった ら確実に200人が救われる。Bだったら3分の1の確率で600人救われるが、3分の2の 確率でだれも助からない。どうでしょう。  これを一般の人に回答を求めますと、Aを回答する人が大体8割近くいます。ですから、 博打を打つよりも、確実に助かる200人をちゃんとキープしようということですね。  次、クイズ3。同じような伝染病が海外から持ち込まれた。今度は、対策はCかDのど ちらか一個から選んでください。Cだったら400人が死亡する。Dだったら3分の1の確 率でだれも死なずに済み、3分の2の確率で600人が死亡するというわけです。どうでし ょう。  今度は対策Dの方が選択されやすいです。やはり8割近くの人です。最初の論文では 72%の人がDを選択すると。  ところが、察しのいい方はおわかりだと思うんですけれども、実はAとCは同じことな んですね。ほうっておけば、このままでいけば600人死亡する。その中から対策Aの200 人が救われるということは、対策Cの400人が死亡するということと同一です。  同じように、対策Bの3分の1の確率で600人救われるというのは、対策Dの3分の1 の確率でだれも死なずに済みというのと同じですね。3分の2の確率で残りの確率でだれ も助からないというのは、つまり、全員の600人が死亡するということで、本質的な内容 は同じなんですけれども、表現によって判断がコロっと変わってしまうという選考逆転、 選択が逆転するというのがこの問題のみそです。  なぜこういうことが起こるのかということ。それから、こういうことが起こる意味はど ういうことにあるのかということなんですけれども、まず、なぜこういうことが起こるの かを説明するのが、1枚めくっていただいてプロスペクト理論を構成する2つの関数の右 側の価値関数というやつです。これが結果の程度に対する私たちの判断傾向を示すもので す。  先ほどと同じように、横軸が客観的な物理的な、あるいは経済的な特質です。原点から 右の方に行けば、命が助かる。左の方に行けば、命が失われる。縦軸の方にいけば、縦は 心理的にプラス、マイナス、価値があるとかないとかですね。ここは原点というわけでは なくて、一応参照点、リファレンスポイントと呼ばれます。  まず、利得領域。命が助かるという方なんですけれども、これはいわゆる限界効用が下 がっていくという関数で御存知の方もおられるかと思います。  例えば、今ここで急にドカーンと爆発事故が起こって、全員死亡と考えられたとします。 下の方でテレビカメラがワーッと入って中継していると。全員死亡だと思われていたけれ ども、小島委員が助かったと。そうすると、ああ、よかった。全員死んだと思ったのに一 人助かったというので、みんな見ている人はおめでたい気分になるわけですね。でも、助 かったのは小島委員だけだと思っていたけれども、お隣の宗林委員も助かった。助かった ときに、ああ、よかった二人目助かっていたけれども、この二人目に対する喜びはどれく らいかというと、小島委員より少ないわけですね。その後、田中さんも助かったし、中野 さんも助かった。何十人も助かって、最後に中谷内委員も助かったといったら、ああ、死 ななくてよかったなというぐらいで、つまり、一人ひとりの命の値打ちというのは、客観 的には1人、2人、3人、4人というふうになっていても、主観的には1人に対する命の 値打ちがだんだん下がっていくというのがこの関数です。  そこのグラフにありますように、まず、200人助かることと600人助かることだったら、 数字としては1対3ですね。3倍の値打ちがある。ところが、主観的には3倍になるかと いったら、そんなにならないということです。主観的には、200に対する値打ちがここで すよね。600に対する値打ちがここですから、1.5倍ぐらい。1点数倍しかない。人の人 命の数で言えば3倍なのに、そこまでいかない。そこまでいかないのに、3分の1の確率 をかけて博打を打つよりも、確実に200人を得ておこうというのが、A、Bからの選択の 場合です。  それから、今度は逆に、失う方。同じことなんですけれども、今度は逆の方で考えます と、ドカーンと爆発事故があって、今度は、事故は大変だったけれども、どうやらだれも 死なずには済んだみたい。小さなけがで済んだみたい。今ちょうどみんな避難してきます といったところに、第一報が入って、全員助かったと思ったけれども、気の毒に小島委員 だけ亡くなりましたというとき、わあ、かわいそうに、一人だけ死んじゃったと思うんで すね。それが一人マイナスのときの痛手がこれです。一人じゃなかった。宗林さんも亡く なっていた。人命は二人目です。死ぬのは二人目だけれども、小島さんのときほどみんな 嘆いてくれるかといったら、それほどでなくなってくる。どんどんやってたくさんの人が 死ねば、最後に50人目に中谷内委員が助かったといっても、テレビをブチッと切られる という感じで、余り値打ちがなくなってくるというのがこの関数の示すところです。  マイナスの方は、さっきのC、Dの選択問題ですね。400人と600人。400人が死亡す る。200、400、600、こういうふうな関数になっていますから、400人が死亡するときの 心の痛手はここです。非常に辛いわけですね。それで、博打を打って失敗した場合に、つ まり、対策Dで博打を打って失敗した場合には、600人亡くなってしまうから、400人よ りもたくさんの人が亡くなるわけで、痛手は大きい。痛手は大きいけれども、その落差は どれだけかといったら、これだけなわけです。ところが、成功した場合、どうなるかとい ったら、原点に上がってくるわけですね。だれも死なずに済むわけですから。  ですから、博打を打って、下手したら、それは辛い。辛いけれども、極端なことを言え ば、競馬で、今日も3万負けた。あと5,000円ぐらい負けても一緒だというので、大穴に 注ぎ込んで、できるだけもとに戻す、回復させる、ゼロに戻そうというのをねらう。たい ていの場合はそれで失敗して、傷口を広げるというのがよくあるパターンです。  それで、本質的には同じ問題なのに、亡くすとか、失うとか言われると、博打を打つ。 得られるとか、得するとか、もうかるとか、命が助かるというふうにすると、できるだけ 博打は打たずに、抱えられるものは抱えておこうということになります。  それから、命がどうのこうのという話でしたけれども、その後に書いています課題です ね。これはでっち上げの話ですけれども、日本の食品安全指数、こんなのがあるかどうか 知りませんけれども、これは70である。これを85に上げよう。多くの場合、現在なんぼ であると言われたのが参照点になります。ですから、この場合は原点が70になります。 多くの場合は。現在が70である。それを85に引き上げよう。70を85に上げよう。15点 分ですね。こうなっているわけです。この関数の特徴は、勾配がマイナス領域の方がきつ いということです。つまり、5,000円もらったときのうれしさと5,000円損したときの辛 さ、どっちが絶対値が大きいかといったら、なくす方です。プラスとマイナスを比べたら、 マイナス領域の方が勾配が大きいということですね。  またもとに戻りまして、今70のを85にしようというのは、これだけあげようというこ とになります。これを仮にAとします。Aだけ上げる。ところが、2つ目に書いてありま す、かつて日本の食品安全指数は85であった。これが今70に下がっているので85に戻 そう。この場合どうなるかといったら、かつての85というのが基準点になっちゃうわけ ですね。基準点になって、今そこから同じく15ポイント分下がったということになる。 85から70にきちゃった。それを戻そうというわけです。戻したときの大きさはどれだけ かといったら、Bになります。つまり、同じ15ポイントでも、マイナスに一回なったの を戻そうといった場合は、その15ポイントに対する心理的な値打ちはBで、こっちの方 がただ単に現在値から15ポイント利得を得ようというAよりも大きくなるわけですね。 ですから、カムバック・サーモンみたいな形で、かつての状態に戻そうと言われると、私 たちはすごくドライブされる。ただ単に今よりよくしましょうというよりも、かつてここ まであったのに、今は衰えている。戻そうという方がインパクトが強いということになり ます。  というわけで、ここまでの結果のまとめですけれども、一番下。物理量としての確率と か結果の程度に関して、心理量はリニアに動いているわけじゃない。どんなふうに決まる かといったら、絶対値ではなくて、参照点からの変化が重要。じゃ、参照点は何によって 決まるかといったら、これは文脈次第で結構変わってきますよということです。  以上が確率と結果の程度という枠組みでリスク認知を見た場合の私たちの認識の特徴で す。そういうのを離れてということで、次、プリントをめくっていただきまして、クイズ 5、これは、BSE感染牛発見時の極端な牛肉離れは、確率を過大視したからだ。多分そ んなことはないと思うんですね。それから、遺伝子組換え食品が忌避されやすいのは、結 果の程度としてとんでもない事態を招くと思われている。きっとそういうことじゃなくて、 何となく気持ち悪い。その何となくとか、どうも嫌というのは、必ずしも確率とか結果の 程度というリスク分析の要素とは別の心理的な要素が働いているのではないか。そういう 見方で長年研究がありまして、結果だけ言うと、どうやらそこに書いています2つの心理 的な因子、要因が反応する。  1つ目が「恐ろしさ因子」。これは、致死的で世界規模の惨事をもたらす潜在力があっ て、制御困難でなんとかかんとかと、そこに並べているようなものです。この項目一つ一 つは、本来は別個のものですね。つまり、致死的だけれども、制御はできるとか、世界的 な惨事をもたらす潜在力はあるけれども、将来性であれば影響ないとかいうのはあるはず なんですけれども、心理的にはこれらがまとまっちゃうということです。  それとは別の評価因子として「未知性因子」というのがあって、影響が後からあらわれ る汎発性ですね。外部からは観察できず、本人も感知できず、なじみがなくて科学的にも よくわかっていない新しいものであるという認識です。実際にどうかというよりも、認識 はこういうふうなまとまり方をするということです。  BSEについて考えてみますと、これら2つの要素が非常によく当てはまるわけですね。 つまり、感染して発症したら、それは治しようがない。致死的であると。しかも、イギリ スを初め、日本でも発見され、アメリカでもというふうに、世界各地で発見が相次いで、 このまま広がっていくのではないかという気になる。  それから、発症し出したら制御困難。将来性では余り関係ないですかね。それから、非 自発的。つまり、リスクがあると思わずに食べていたものに、後からリスクがあると言わ れた形になっているわけですね。というので、「恐ろしさ因子」がすごく高く評価される だろう。  「未知性」についてもそうですね。影響が後からあらわれる。牛肉をぱっと食べたら、 あ、この味はBSEの味とわからないわけですね。外部からは観察できないし、本人にも 理解はできない。知らぬ間にむしばまれているというのが狂牛病ですから、「未知性因 子」にも当てはまる。ですから、厚労省のホームページで、最悪のシナリオを重ねて重ね て、日本全部で0.9人のリスクですと言われても、そういう問題とは別の評価の軸に当て はまってしまうということです。  この2つの因子は、食品分野を含めてさまざまな領域で再現されています。つまり、心 理的な普遍性が結構高そうだと。確率と結果の程度というよりも、「恐ろしさ因子」に響 くか、「未知性因子」に響くか。いろいろな領域でこれは確認、再現されているんですけ れども、食品領域でやられた場合は、ある調査、Fife-Schaw & Roweと書いていますこの 人たちが第3因子として「人工−天然因子」というのを食品に関しては別個に第3の因子 というのがあると。つまり、自然・天然由来のものか、人工的に作り出したものかによっ てリスク認知が随分変わってくるというものです。  これはプリントの2枚目の下の方の、先ほどの図1の下のグラフですね。「日本人の不 安評価」とあります。これは昨年の1月に私が実施したやつなんですけれども、わざと食 品添加物を2項目入れています。「化学的に合成された食品添加物」というのと、「天然 成分由来の食品添加物」というので、星印がそれです。どっちの方が危ないとか、安心だ とか、何も書いていないわけですね。書いていないんですけれども、縦軸の不安評定値の 順に相当してみたら、今、日本人が不安に思っているものを順に並べると、地震、地球温 暖化、ガン、ずっときて、最後はお酒を飲む、家庭内不和なんですけれども、家庭内不和 は、みんなわりと警戒が薄いんですね。結構怖いと思うんですけれども。  これは食品添加物のところを見たら、随分左右に分かれていますね。つまり、同じ食品 添加物と言われても、天然か自然か、人工かということで不安の程度がこんなに変わって くるというので、やはりこれも食品のリスク認知における「人工−天然」ヒューリスティ クス。ヒューリスティクスというのは、簡単な判断ルールということです。というのをも たらしている。これがリスク分析の概念を取り払った上でのリスク認知についての知見と いうことです。  その下にも二重過程理論、いろいろややこしいことを書いていますけれども、これは時 間がないので飛ばしまして、最後に1つだけ見ていただきたいのが、これは、新聞の広告 ですので、皆さんもごらんになった方はおられると思うんですけれども、ユニセフの寄附 を求めるやつですね。オードリー・ヘプバーンがおって、栄養状態の悪いアフリカ赤ちゃ ん、ボロをまとっているのを抱いて、すごく真摯な顔でおる。その横に、世界では今も3 秒に1人、年間920万人の子どもたちが5歳の誕生日を迎えられずに命を落としています というふうにアピールしているわけですね。  ちょっと思考実験をしていただきたいんですけれども、ここに、今「3秒に1名」と書 いてあるのが、「30秒に1人」とか「3分に1人」だったら、寄附してあげようという 気持ちがどれぐらい変わるだろうか。多分余り影響ないと思うんですね。もちろん「3秒 に1人」よりも「30秒に1人」の方が対策はうまくいっていると思うだろうし、それが 「3分に1人」ということになったら、飢餓対策をやっている人からしたら、革命的な前 進だと思うでしょう。でも、一般の人は、「3秒に1人」より「3分に1人」の方が事態 はよくなっていると思っても、どれぐらいドライブされるだろうか。それほどではない。 むしろ、こっちの、例えばオードリー・ヘプバーンが、全然違うマイケル・ジャクソンだ とか、何とかヒルトンみたいなのがいて、この子どもが栄養が行き渡って、ゲームボーイ か何かで遊んでいるという写真だったら、一遍で寄附しようという気はなくなると思うん ですね。そんなときにここにどんな数字が書かれても。  何が言いたいかというと、リスク管理に携わってまじめな人ほど、How safe is safe enough? どこまで安全すれば納得してくれるんだろうということで、ここの数字を一生 懸命下げようとする。そのことを正確に伝えれば、人々は納得してくれるだろう。私たち はそういうふうな判断、意思決定のモードも持っているんですけれども、より強いのがこ ういう個別の事情とか、個別ケースに動かされる。直感的で連想的な判断のものです。そ れについて書いてあるのが最後のところです。またお時間がありましたらお読みくだされ ばと思います。  以上です。 ○唐木座長 大変ありがとうございました。身近になるほどという話がたくさんあったと 思います。  御質問、御意見たくさんあると思いますが、次に、古谷委員から消費者のリスク意識に ついてのお話をいただいた後、まとめて質問、御意見をいただきたいと思います。では、 古谷委員、よろしくお願いします。 ○古谷委員 古谷です。  私自身は、先生と違いまして、専門的な見解というよりも、日ごろ消費者と関わる中で、 リスク認識というところでどういうふうな傾向があるのだろうかということを中心にお話 しさせていただきたいと思います。  まず、1番目に「消費者とリスク」ということで、消費者に関わるリスクを幾つかの視 点で並べてみました。今、「リスク社会」と言われるんですけれども、一番最初のポツに 書いているんですけれども、冷静に考えれば、本当に昔と比べてそんなに危険になったん だろうかというと、実ははるかに危険性は軽減されて安全な社会になっているんではない かなと思うんですけれども、現実には、いろんな昔は考えられなかったリスクが顕在化さ れるようになった。あるいは、可視化されるようになったということが言えるのではない かなと思っております。  それと、リスク社会と消費者という観点で考えるときに、消費者の自己責任ということ と非常に関係があるのではないかと。いわゆるリスクを行政なり事業者なりが発信し始め てといいますか、大量の情報が発信されるんですけれども、それは消費者側から見ると、 あなたが自分で判断して軽減をしなさいよという場面ではないかなというところで、今の 状況とすると、十分に判断し切れないというのが現状なのではないかなと思っております。  また、リスクということをまた別の観点で考えると、消費者の意識が変わったというこ ともよく言われるところで、セキュリティ意識だとか、安全意識だとか、知る権利だとか、 いろいろなところで意識が変わったということから、逆に、今までお任せだったところが お任せにできなくなったということで、行政とか事業者から情報が出されてくるというこ とも消費者を取り巻くリスクというところで言えるのではないかなと思っております。  2番目に、今度別な観点で信頼というところで考えてみました。リスクというのを判断 を消費者側が迫られたときに、出す側の信頼というのが非常に関わってくるのではないか と。その信頼がおける、それが内容はいろいろあると思います。組織、事業者であるとか、 行政の信頼性であるとか、あるいは仕組みといいますか、システム自体が信頼できるかと か、あるいは人ですよね。個人だとか、あるいは科学技術そのもの、専門知などへの信頼 性というのが非常に関わってくる。正しいデータを出されたとしても、必ずしも消費者が 安心ということではないと。つながるわけでない。それが信頼がおけなければ、そのデー タ自体をそのまま客観的に受けとめることはできないという意味で、特に消費者がコント ロールできないような問題というのは、特に相手側といいますか、発信する側の、あるい はリスクに関わる側の信頼というのが、消費者側は依存度が大きいのではないかなと思っ ております。  また、リスクというのを情報社会といった観点で考えてみたときに、情報社会、2つの 意味で意味があるのではないかと。情報社会そのものがリスクだと今の消費者は考えてい ると思います。というのは、いろいろな効率さだとか便利さ。それは消費者側にとっても そうですし、事業者側とか行政側にとってもそうなのかもしれないんですが、それと引換 えに失うものというのが日々新聞報道などで、プライバシーの侵害であるとか、被害とい う実態を見聞きしているというところで、そういった情報社会に対して非常にリスクを感 じているのではないかと考えられます。  もう一つの観点で言うと、消費者がリスクコントロールといいますか、するとき、リス クとの付き合い方という面で考えたときには、今、情報社会ということで、あふれる情報 といいますか、さまざまな情報が、例えばリスク情報に関しても、いろいろな方面の情報 が出ていて、Aという機関が出した情報、Bという機関が出した情報、全く違った情報が 出されているという中で、何を正しいと考えればいいのだろうというような混乱する状況 が起きているのではないかなと。  最近の身近な例で言うと、よく地球温暖化というのが非常な関心事ではあって、先ほど 先生の発表にも、不安要因の中で、実は温暖化に対して、今すぐ対策をとらなければいけ ないという意見がある一方で、そんな大したことはないのだ、このまま続けていても問題 はないのだというような本などが出たり、テレビなどで報道がされていることが、逆にま たそのリスクを正しく判断できないような状況。つまり、あふれる情報があるがゆえに、 しかも、それが正しいかどうかわからないというところで判断ができないと。  また、過剰なコミュニケーションといったものも実は同じことなんですが、個人が例え ばブログなどでいろいろ発信をする。そうすると、ブログなどではコミュニケーションが お互いできるわけですよね。その中でいろいろリスクに関する情報であるとか、コントロ ールに関する情報も、とにかく混在している状態であふれた情報が周りにあるという中で、 我々は付き合い方が判断が難しいなという状況に消費者は置かれているのではないかなと 思います。これが私自身が今リスクを消費者の視点で考えたときに、こういう状況が前提 としてあるのではないかと考えました。  2点目に、消費者のリスクを制御とか軽減していく行動というところで見てみますと、 まず、1点目に、リスクを回避しようとして、いろいろな意味で行動するときに、過剰反 応ということがよく言われるのではないかなと。これが例えば個人情報に対しての過剰反 応で、事業者に対して、本来、法律で求めている以上の対応を求める。それが当然自主的 な対応ということで求めるのであればいいんですが、ねばならない的な形で非難というよ うな形で求める。これは実は過剰反応といいますか、過剰反応なんですけれども、消費者 側としては、自分のリスクをできるだけ回避したいという行動のあらわれなのかなと。  安全なんかも同じではないかなと。確率的に言われても、自分のところとしては安全に 徹する。先ほどの信頼も関わると思うんですけれども、自分にとってのリスクを回避する ということで、過剰なまでに反応しているというのが現状ではないかなと思います。  2点目として「個人の選択の場面におけるリスクコミュニケーション」と書いたんです が、実はリスクコミュニケーション、皆さんよく御存知だと思うんですが、自分のリスク をどうするかという選択だけではなく、例えば社会的な決定という場合のコミュニケーシ ョンもありますよね。例えばエネルギー問題であるとか、いろいろな問題に対して消費者 側などが参加して、じゃ、どうするんだという決定。これは除きます。これはまた別の問 題だと思うので、あくまでも個人に関わる、例えば例を挙げましたように、製品であると か健康とか医療とか個人情報であるとか災害、環境などは個人ばかりではないですが、個 人に関わる環境といったようなことで、決定の場面におけるリスクコミュニケーションと いうのを、いろいろな事業者であれ、行政であれ、行う場面が非常に増えてきていると。 その中で、これも先生がおっしゃられたと思うんですが、個人のリスク認知というのが専 門家と一致しない。要するに、必ずしも被害の重大性と確率以外では測れない。測ってい ないのではないかと。これには当然本来の専門家の認識よりも、より高い場合と、逆に、 本来ならばもっと認識をしなければいけない場面が逆に低い認知でしかないといったよう な両方のケースがあるのではないかなと思います。  コミュニケーションということで具体的にいろいろな形で行われているわけですけれど も、余り成功しているリスクコミュニケーションが正直ないなと消費者側から見たときに 感じることが非常に多いです。裏面です。それが当たっているかどうかわからないんです が、一般的になされているのは、消費者のリスク認知というのが正しくないので、正しい 情報を与えるという形で一生懸命専門家のリスク認知に近づけようとしていないだろうか。 これは正直言って無理だと思います。というのはあらゆるリスクがある中で、すべてを専 門家の判断に消費者の認識とか認知を近づけることはできないと。できないことを前提に やらなければリスクコミュニケーションは成功しないのではないかなと思います。  次のところにも書いているんですが、個人の場面というふうに考えていますので、個人 の適切なリスク回避行動をとるということがリスクコミュニケーションでもし目的にする ならば、一般の人の認識、消費者側の認識に合わせるということが非常に必要なのではな いかということで考えなければいけないだろうと。ここのところが今のところは十分にな されていないような気がいたします。  その目的というのは何かというところを考えなければいけないと思うのは、発信する側 は、自分たちがいかに知らせるかというばかりに目を奪われていないだろうか。あくまで もリスクを知らせるのは、リスクを受け取った側が、消費者側が適切なリスク回避行動を してもらうという目的にあることを考えるならば、一般の人の認識に合わせないと、それ は成功しないだろうということですね。  次の点で書いておりますように、リスク情報の単なる伝達になっていないかというとこ ろとを考えなければいけない。当然わかりやすくとか、回避行動につながるようにしなけ ればいけないとか、そういったことは一般的に言われているんですが、これも必ずしも成 功していないと思いますので、今後、こういう観点でやっていく必要があるんですけれど も、一般の人がリスク回避行動をとるという視点に立つならば、消費者の権利といいます か、ここが考えるヒントに一つなるのかなと。  これを裏返せば、発信する側は私は義務だと思っています。消費者が例えば、安全が確 保される権利であるとか、選択の機会が確保される権利であるとか、必要な情報が提供さ れる権利だとか、いろいろな形でリスク情報に関しても考えれば権利というのは実はある んですね。参考に下の方に消費者基本法で権利が書かれているものを参考で掲げましたけ れども、そういった消費者側が本来求めてしかるべきであろう権利に配慮して、発信する 側は義務として、じゃ、どういった観点でリスク情報を発信して回避行動をとってもらう のか。ここの観点が非常に抜け落ちていて、いかに回避行動をとるかといっても、消費者 側がどういう状況に遭っていて、どういう権利といいますか、求められるようになってき ているのかということまでも踏まえなければ、リスクコミュニケーションといいますか、 リスクの回避行動にはつながらないのではないかなと思います。  雑駁な意見でございますが、以上で終わりにさせていただきます。 ○唐木座長 ありがとうございました。  それでは、お二人の委員からお話をいただきました内容への質問なども含めて、これか ら約1時間、御議論をいただきたいと思います。最後に、時間がもしありましたら、傍聴 の方からも御意見をいただきたいと思います。それでは、御自由に手を挙げていただけれ ばと思いますが、いかがでしょうか。 ○小島委員 小島ですけれども、今、古谷さんの質問なんですけれども、一般の人の認識 に合わせるというのは、要するに、適切な回避行動をとってもらうのが目的ですよね。一 般の人に合わせるということは、先ほどの中谷内先生のあれでいくと、たとえ非合理な不 安感でも、それに合わせて情報を出していくということですか。そういう意味ですね。 ○古谷委員 はい。 ○小島委員 そうしたら、過剰な不安をよけい過剰にしてしまうような恐れはないんです か。 ○古谷委員 もちろんあると思います。そういう面もありますけれども、どちらかという と主眼というのは、例えば今までリスク情報の伝え方というのは、確率論であるとか、そ ういったことで専門的見解で言われていた。でも、実際に先ほど先生がおっしゃったよう に、必ずしも一般の人はそういう見解ではリスクを認識していないということであれば、 そこの不安にマッチしたリスク情報を発信しなければ解決しないではないかということな ので、必ずしもより不安を助長するということではなく、その不安がそういうことにある ならば、その不安にマッチした適切な情報発信をしなければ、結果としては効果が出ない のではないかといったことが内容になっています。 ○小島委員 そうすると、例えば具体的な例で言うと、全頭検査のBSEの件で、不安を 感じていると言っている間は全頭検査を何十年もやっていくということになっちゃうんで すか。 ○古谷委員 いいえ、私はそうは思っていません。不安だから全頭検査となっているから 全頭検査をしろという意味ではなく、そういう不安を持っている人の心理的な要因である とかを、そこを踏まえた説明であるとかが必要だと言っている。だから、確率とかではだ めだと言っている。 ○宗林委員 最初の中谷内先生の方で、2つの要素に分けていらっしゃると思って伺って いたんですが、いわゆるきちんとした事実認識が一般消費者の場合この傾きにちゃんと乗 っているのか、違う確率で受け取っている可能性があるのではないか。ということと食品 の安全性の場合は、主にはリスクの(2)の方のいわゆる「恐ろしさ因子」、「未知性因 子」がどのぐらい消費者にあり、そこのところをどういうふうにカバーしていくのかとい うのが、今の古谷先生のおっしゃったような消費者の立場の認知度に合わせてきちんとし た情報にするというところだと思います。最初の方のカーブに乗るようにするということ は、事実は1つなので、それは正しい認識がもてるように伝えるということで整理ができ ると思うんですが、後半の部分の、いわゆる不安になっている部分を食品の安全性におい てどうカバーするかというところについて何か御意見、アドバイスが、あれば教えていた だきたいと思います。 ○中谷内委員 ありがとうございます。今のは、小島委員と古谷委員との質疑にも関わっ てくる問題だと思うんですけれども、僕は2つのやり方があると思うんですね。  1つは、最初におっしゃった確率を正確に伝える云々、確率と結果の程度についての情 報提供をすると。それだけでごりごり押すのではなくて、例えば、致死的と思われている ものは、実は必ずしも死ぬわけじゃないですよとか、世界的な惨事をもたらす潜在力に関 して、何か言及するとか、被害が発生した場合はこういうふうな制御の仕方がありますと いうふうに、単に確率とか結果の程度のリスク分析以外の心理的な要素に沿って、情報提 供するというのが1つの方法だと思います。  もう一つの方法は、逆のアピールといいますか、例えば第3因子で「人工−天然因子」 というのがあって、基本的に人工的なものは危ない、天然・自然のものはリスクが低いと いう認識をするんですけれども、認識はそうでも事実はそうではない。ですから、逆に、 これは事実というか、心理学的な知見があれば、これは天然なものだけれども、危ないも のもありますよとか、人工物だからといって必ずしも危険ではないという主張をしていく というのも一つだと思うんですね。  これの使い方はいろいろあると思うんですけれども、例えば、以前、ダイオキシンがす ごく問題になったときに、「人類が作り出した最悪の毒物」という言い方があったんです けれども、それに対する反対のアピールとして、あれは山火事があったらすごく発生して、 大昔から人間はそれと付き合ってきたんだ。だから、あれは天然自然にあるものだ。そう いう持っていき方というのがあると思います。  持っていき方はあるけれども、もう一つ大事なのは、でも、天然であろうが人工であろ うが、毒性はこれぐらいで、皆さんの日常生活で言ったらこれぐらいのリスクなんですと いうことを理解してもらうことも一方では必要だと思うんですね。  ですから、先ほどの小島委員とかの議論とも関係あるんですけれども、消費者の心理的 な要素があって、例えば不安を持ちやすい傾向があるから、それにハイハイと迎合すると いう意味じゃなくて、それを理解した上でのアピールの仕方、あるいは理解した上で、そ れは必ずしもあなたの身を守ることにはなりませんよと伝えるべきときには伝えるという ことが必要なんじゃないかなと思います。  答えになっていますでしょうか。 ○宗林委員 ただ、実際にはそこが結構難しく、リスクコミュニケーションどう伝えるか というところで、そこが最大のポイントであり、表現、言葉一つで誤解になったり、パニ ックになったりということに思ったものですから、そこをもう少し整理ができたらいいな と思っておりました。 ○中野委員 古谷委員が教えてくださったことに確認をさせていただきたいんですけれど も、確率とかそれだけを伝えるのでは一般の消費者はなかなか理解できないというところ で、その前に中谷内先生が詳しく説明してくれた、人間とは心理的にこういうような特性 を持つものですよということで、すごく理解が進んだかと思うんですね。ですから、例え ば一般の人たちにも、そもそも人間というのはこういう特性があって、皆さんがこうやっ て誤解をしがちなんだけれども、という補足の部分を十分に伝えることによれば、確率の 話を最終的に伝えるということでもいいという感じで理解してよろしいんでしょうか。 ○古谷委員 そのとおりです。先ほどの宗林さんのお話と関係するんですが、難しいなと 正直私も感じておりまして、例えば先生が例に出した化学的なものと天然なものというの は、前々回ですか、私も添加物の話をしたかと思うんですが、これ、すごく難しいのは、 一方でそういうふうに一生懸命伝えようとしている行政なり団体なりがあっても、一方で、 化学的なものが危険で、天然のものが安全だみたいな情報も出るわけですよ。それが結構 事業者側から出たりすることが多いんですね。というのは、添加物を使っていませんとい うような形で商品をアピールしたりということもあるので、いろいろな情報が錯綜してい るので、正しくアプローチしているばかりじゃないところで非常な難しさがあると感じて います。 ○仁科委員 お二人のお話、大変おもしろく拝聴しました。  一番最後に、やはり議論になったと思うんですが、古谷先生の裏側の紙の上から2行目 のところにあります、これは非常に重要なことだなと思いましたが、要するに、今回やろ うとしている食品安全に関する情報提供というものの目的が、2行目の「適切なリスク回 避行動をとることにあるならば」というここのところですね。つまり、リスク情報を出す というだけでとどまらないで、それに対してどうすればいいというような情報、対応策と いうんでしょうか。それがセットになって初めて安全情報だと思うんですね。ですから、 中谷内先生が分析なさった、リスクをどういうふうにとらえるかというところの次に、じ ゃ、それに対して何をしなければいけないかという提案があって、それをやれば本当に有 効なんだろうかというまた受け手側の認知が入ってきて、やっとその次に、じゃ、こうし ようとかという対応が実際に行われたり、行われなかったりする。それが古谷先生の回避 行動、対応行動をとるということをとらせる、適切な行動をとらせるということに目的が あるんだったらというところが非常に大きなテーマなんだなと思いました。  その次におもしろかったのは、一般の人の認識に合わせる。この認識というのは、多分 一般の人が今感じているリスクの程度というんでしょうか、それに合わせてどういう対策 をしなさいよということをやればいいんだということだと思いますね。  その先なんですが、リスクというのはなるべく過剰に反応しない方がいいなということ があるんですが、過少に反応されると、適切な対応をとってくれない。本当は、例えばこ れは大変なことなんだけれども、まあ大丈夫じゃないかと甘く見てしまうといいますか、 対応策をとってくれない。そうすると、適切なリスクの認知のところというのは何なんだ ろう。それが、本当なら、さっき宗林さんがおっしゃったように、正確な専門家の意見と いうのが正確なものかもしれませんが、古谷先生の一般の人の認識というのが前提になる と、これが対応策にとって一番いい状況なんでしょうか。それとも一般の人の認識をまず 変えておかなければいけないということもあるんでしょうか。それが御質問です。 ○古谷委員 最終的には、正しい判断といいますか、正しい情報を把握できるようなこと が必要だと思います。認識に合わせるというのは、あくまでも消費者側が何も学ばなくて いいということを決して意味しておりません。現状そういったことを踏まえながら啓発し ていくということは同時にやるべきだと思っております。 ○宗林委員 どなたにうかがったらいいのかわからないんですけれども、実際のリスクの 計算値と不安要素がセットだという話だろうと思うんですが、まず、リスクの方が、今、 古谷先生がおっしゃったように、いろいろなところで違う情報が出てしまい混乱のもとに もなっているんだろうと思います。この辺は、行政組織が発信するものに対して余りにも 違う情報が出た場合に、何かしら介入するということができないんでしょうか。そのほか に、消費者が持っている不安のところをどうフォローしていくかというところだろうと思 うんですが、余りにも違う情報が出てしまうと、それだけで揺らいでしまうと思うんです が、その辺はいかがなんでしょうか。 ○唐木座長 これは答える人がいないかもしれませんが、おっしゃっていることは、例え ば、あるお寿司屋さんが、うちは4つの添加物は入れません。なぜかというと、これは体 に蓄積して非常に健康に悪いから、という大きな宣伝をしているところがあるんですね。 これは100%科学的な事実ではないんですけれども、これをだれかが正式に文句を言った かというと、多分だれも言っていない。しかし、それを言うことは非常に大事なことです よね。だれかが言わなくてはいけないことだろうと思います。ただ、行政にそれを期待し たら、行政はそれができるのかというと、これもなかなか一企業がやっていることを一々 行政がやらないというのが日本の行政の立場のようですけれども、ニュージーランドの食 品委員会か何かは、そういう情報に対して一々きちんと反論をしているという話を聞いた ことがあります。ですから、これは、やらなくてはいけないけれども、難しい問題だとい うのが1つあるのと、もう一つは、メディアリテラシー、一般の消費者もそういった情報 の何が正しいのか、何が間違っているのかをだれかに聞かなくても自分で判断できるよう な教育をきちんとしなくてはいけないというのはあるんでしょうね。 ○宗林委員 常在化した、例えば「人工−天然」みたいな問題は、そういう処理の仕方も あると思いますけれども、例えば事故が起こった食品の安全報道が出たような場合に、例 えばメディアでの報道によるちょっとした違い、誤情報になりかねないようなものであっ たり、事業者側の報道がちょっと違っていたりというようなことに関しては、行政サイド は何かされることはあるんでしょうか。 ○唐木座長 それも具体的なケースがないとなかなか難しいんですが、よくあるのは、残 留農薬が基準の50倍も違反したという記事が出ている。よく読むと、一律基準の0.01p pmが50倍違反していたという記事はよくありますよね。実際は、ほかの野菜だったら それの1,000倍、1万倍がちゃんとした基準になっている。その辺をどうするのかという 問題は確かに深刻な問題としてありますね。でも、しかし、これも行政が一々対応すると いうことはなかなかないでしょうが、でも、最近は、そういう違反の発表をするときに、 実はこれは一律基準であって、ほかの野菜、果物はこのぐらいの基準ですよ、あるいはこ のぐらい食べても健康に被害はないですよと付け加えて発表しているのが多い。これは非 常に大事なことだと思いますし、それが続けば、今言ったような例はなくなるかもしれま せんね。ただ、宗林さんおっしゃるような、ほかのもっと深刻な例があれば、何か例を挙 げていただければ。 ○新井委員 東京都からですが、今、座長が言われたような違反とか事件に関するどちら かというとアラート情報という取扱いになるものについては、今回の会議のテーマとはち ょっと違う視点でとらえているところがございます。過剰な反応は、やはり行政側でも求 めていないので、今座長がおっしゃったように、そのものが実生活でどれぐらいの影響を 与えるかというようなことを参考となるようなデータを併せて付けるような注意はしてい ます。  ただ、今回の会議で話されているようなリスクコミュニケーションに関してはまたちょ っと違う視点でとらえていて、アラート情報のようなものが一般の方にすんなりと受けと められるような社会作り、そのための情報のやりとりではないかと思っています。そして それをどのようにしようかというのが東京都が悩んでいるところです。  古谷委員がおっしゃったような、一般というか、消費者目線という面で、こちらで伝え たい目的の部分が正しく理解されるかどうかというところに非常に気を使っているという のが今の現状なんです。  そういった意味で、今何を考えているかというのを紹介いたしますと、いわゆる情報の 正しさとか知識の面を伝えるのではなくて、今取り組んでいるのは、専門家でもいろいろ な意見があるような事例というのをリスクコミュニケーションのテーマとして取り上げま して、そのテーマについていろいろな意見を時には、闘わせたり、協調したり、そういう ようなことをそこに参加する方々に経験してもらうということを始めています。そういう いろいろな意見を受け止められる社会的な能力、そういったものをどうやって作っていこ うかというふうに考えているところです。今、自治体レベルのリスクコミュニケーション はいわゆる知識をどれだけ広めるかというよりは、経験なりを積み重ねること、小規模で 地道な活動ではありますが、そちらの方にだんだんシフトしているのかなという気はいた します。  あと、リスクコミュニケーションというよりは大勢に向けた情報提供の面で知りたいこ とがありまして、中谷内委員の話の中で、大変勉強になったのですが、中谷内委員の資料 の2枚目の紙の学生がとらえるリスクに関する感覚と、警官がとらえるというものがあり ますが、事実に近づいているのは警官、つまりそういう知識がある方ということだと思う のです。そういう知識の部分で正しいこと、あと、中谷内委員、もう一つおっしゃってい た感情面の方がこういうものよりも行動に影響するというお話もありました。いわゆる知 識をどんどん広めていけば、社会的な認識というのは正しいく、正確に社会現象というも のをとらえられるようになるのか、あるいはもうちょっと違う面で効果的な方法があるの かどうか、そういうことを教えていただければと思います。 ○中谷内委員 まず、知識を伝えることによって成果に近づくというのはそのとおりだと 思いますね。例えば、これだって、「人質立てこもりは」年間に10件もありませんとい うことを聞けば、次それを質問をされたら、あれは大してある事件ではないということは わかると思うんですね。でも、それに対して警戒心がなくなるとか、うちの子どもを外で 遊ばせて平気と思うかどうか、それはまた別な話であります。ですから、正しい知識を伝 えれば、それで何か事が済むということはない。もしかしたら、行動に変化があるかどう かさえわからない。研究者とか専門家は、専門知識がアイデンティティですから、それで 押そうとするんですけれども、一般の人は別にミニ専門家ではありませんから、同じ路線 で言ってもだめだろうと思います。  その同じ路線で言ってだめというので、でも、今の新井委員の話を聞いて僕はすごくお もしろかったのは、正解を伝えるというスタンスじゃなくて、いろいろな論争がある。そ れを経験してもらうというのが新しいし、おもしろいなと、有意義だと思いますね。とい うのは、余りにもかけ離れた情報とか、うそと言っていいような情報もあるんですけれど も、どっちとも言えないことも確かに多くて、例えば、よく引き合いに出されるのは、炭 鉱労働者は労働のリスクが上がったか下がったか。これは指標の取り方次第で大分変わっ てきて、1トンの石炭を取り出すために人間の人が死ぬか。取り出している量を分母にす れば安全になっている。でも、機械化が進んで、労働者が少なくなっていますから、労働 者分の何人の人がけがをしているかということになると、かえって危険になっている。だ から、指標の取り方によって変わったりするわけですね。  専門家とか科学者がたくさんいて飯を食っていけるというのは、実験をやれば、それで 真実がバンとわかるというわけじゃなくて、いつまでも論争があるからでありまして、1 つのことで簡単に事実はわからないというのはわかっているんですけれども、一般の人か らしたら、専門家が正確な実験をやれば、1つの事実が出てくるはずだという前提がもし あるとしたら、そこで混乱があることそのものが専門家とかリスク管理に対する信頼を下 げて、リスク認知を上げると。  ですから、先ほど宗林さんおっしゃいましたように、あっちとこっちで意見を出し合っ て、それで落ち着くかというと、かえってそのことが混乱とかリスク認知の高まりを招い てしまう。そういうことに対する長期的な対策として、おっしゃったように、こういうリ スク問題というのはいろいろな見方があって、一義的にこれが解決策とか、リスクの値は これだけというのは決まらないことがあるんですということを経験を積むというのは、す ぐには効果が出ないかもしれないですけれども、有意義なのではないかと思います。 ○唐木座長 どうぞ。 ○田中委員 大変よいお話を聞かせていただいたと思っています。そして、先ほどの新井 さんからのいろいろな論争の場を作るというのは大変有意義なことだなと思ったわけなん ですけれども、ほどよく怖がるということが消費者にとって大事だというのはよく聞くお 話なんですけれども、なかなか難しくて、どうしても、どっちなの? と消費者は言いた いわけです。○か×かということを大変求めたがるんですね。その意味では、現在の日本 における食の中での専門家の知見という意味では、やはり食品安全委員会だろうと思うわ けなんですけれども、なかなか消費者の間に食品安全委員会の位置付けがまだきちっと確 立されていないような気がしています。  今、中谷内先生のお話を聞きながら思ったんですけれども、消費者が入っていないよう な感じなんですけれども、でも、私自身は食品安全委員会は、専門家の集団でいいだろう と思っているんですけれども、私たち消費者と価値を共有している人はどこにいるんだろ うと思ってしまうような状況というのは、本当は神田さんが入っていらっしゃるんですよ ね。いろいろな専門調査会なんかに。だから、消費者の代表は、下部組織である専門調査 会にリスクコミュニケーションの委員会ですとか、そういうところに入っていらっしゃる んですけれども、なかなかそれが消費者に見えない。私たちと同じ価値を共有している消 費者の代表がちゃんと食品安全委員会の下部組織にはきちっと入っているということもな かなかそれが認知されていないような気がしているんですね。  そういう意味で、消費者が一番信頼できると思えるところは多分食品安全委員会だと思 うんですけれども、それを本当に一般消費者がそう思えるような形になりきれていないの かなというところでは、そういう部分を私たち生協なんかも担える一つだと思っているん ですけれども、さいたまコープからコープネット事業連合へのリンクが張ってあって、コ ープネット事業連合から食品安全委員会に行けるようになっているんです。食品安全委員 会と農林水産省とか厚生労働省へきちっとリンクが張ってあるんですけれども、それから、 全国消団連もきちっと食品安全委員会にもリンクが張ってあるんですね。自分たちが信頼 がおけると思われるところがきちっと食品安全委員会とリンクを張るということはとても 大事だろうなと思っていて、自分が信頼できる団体であったり、家族が一番そうなんでし ょうが、そういう人たちが言ったことというのは、結構信頼できると思うので、例えば食 品安全委員会とリンクを張っていく。多分消費者が信頼をおけるという団体ときちっと張 っていくということも恐らく大事だろうと思っています。  消費者力をつけるということも大事だと思って、私たちも消費者力検定とか受けたりと かしたんですけれども、呼びかけて、なかなか結構難しいと思っています。昔、生協がそ れを担ってきたというところもあるんですけれども、昔植え付けられた知識がずっとその ままあったりとかする組合員さんなんかもいらっしゃいますし、新しい知見というのをど れだけ学習会とか懇談会とかパネルディスカッションとか、そういうものをいっぱいする ことによって、消費者は専門家が言ってもわからないけれども、でも、それを怖がらずに ずっと伝えてほしいと思っているんです。  だから、先ほど2人から言われたような、消費者に寄り添った言い方できちっと専門家 の方たちがリスクコミュニケーションを続けてほしいですし、いろいろな学習会の場に出 てきてほしいなと思っていまして、唐木先生とか中谷内先生とか、今日いらしていないで すけれども、高橋先生なんかにいろいろな生協の場でいっぱい来ていただいて、生協も今 いろいろ問題がありましたので、自信を失っているところで、すごく元気づけていただい ているんですけれども、そういうことは大変大事だろうなと思っています。 ○唐木座長 合瀬さん。 ○合瀬委員 関連で同じような話なんですが、先ほど消費者がどういうふうな情報をどう いうふうに受け取るかという話がずっとありまして、いろいろなパターンで説明していた だいたんですが、一方で、一体だれが情報を出せば信頼してくれるのかということが大変 重要だと思うんですね。今も田中委員からおっしゃった食品安全委員会が出せば安心なの か、厚生労働省が出せば安心してくれるのか、それともマスコミが流す情報を一番信頼し てくれるのか。いろいろあると思うんですが、そのときに、その信頼というか、それを醸 成するものは一体何かというものを研究されているのかどうかというのをお聞きしたいと。 要するに、だれの情報を信じますかというのは、最近、1番はテレビとか新聞とかなんと かとずっとあるんですが、でも、それは一体なぜそういうふうな結果になるのかというこ とをもし分析されていたら教えていただきたいと思います。 ○中谷内委員 それは待っていましたということで、僕の場合、信頼の研究はずっとやっ ていまして、まさにおっしゃるように、どういう要因が信頼に導くのか。あと、これは大 体50年ぐらい前から研究があるんですね。どういう人が言ったら同じことでも信頼して もらえるか。  初期の研究で出てきたのは、いろいろ言われるんですけれども、大きく2つあると。1 つは、結局、能力。専門知識とか、能力とか、技術とか、権威。もう一つが、意図ですね。 誠実さであるとか、まじめであるとか、中立の立場である。フェアな姿勢である。意図と か動機付けです。これは考えれば当たり前のことで、有能な人。1番目に言ったのは能力 ですね。能力の高い人がまじめに取り組んでくれたら、パフォーマンスは高いものが期待 できるんだから、信頼できると。その人に任せておこうとなるわけですね。  というので、よく、トラブルがあったときには第三者専門委員会というのを立ち上げて 議論してもらう。答申を得るということをやるんですけれども、必ずしもそれが効果的で はない。なぜかというと、1つは、2番目の要素の意図。フェアネスであるとか、中立公 正なんですけれども、僕ら研究者とかそういうのにとっては、中立の価値からバリューフ リーですね。特定の価値に依存しない、事実を事実として見るということは非常に大事な んですけれども、どうやら、その力はそれほどでもない。信頼に及ぼす。つまり、何が言 いたいかというと、消費者にとって大事なのは、先ほどおっしゃった価値を共有している ということでありまして、中立に見てこうですよと言うよりも、消費者の立場から見たら こうですよとか、消費者のために頑張っていますよと。  それから、能力とか科学的、技術的なコンピテンスの高さというのは、一般人はわから ないわけですよ。僕もこういう委員会に来ていますけれども、農薬がどれぐらい危ないか、 わからないですね。わからないですけれども、唐木先生おっしゃるんだったらというふう に考えるわけですね。それは、じゃ、唐木先生がどれぐらい農薬に関するエキスパートか。 僕はエキスパートじゃない。僕はそれを判断できないわけです。できないときに、結局、 それでもエキスパートとして感じるのは何かというと、どうやら価値を共有しているみた いだ。価値を共有しているから、この人はフェアでまじめだし有能だと思えるので、根本 にあるのは価値の共有なんじゃないか。  僕がちょっと思うのは、例えば食品安全委員会のホームページなんかを見れば、ちゃん と書いてあるんです。ちゃんと書いてあるんですけれども、すごく強調されているのは、 科学的に中立公正に。それは、いい姿勢なんですけれども、何のために科学的に中立公正 にやっているかというと、消費者の安全とか、豊かな食生活を目的として、手段として科 学的であったり中立公正であったりするということがわかるような文脈に持っていくこと が大事なんじゃないか。  今申し上げているのは、信頼をもたらす要素は何かという御質問に対して、価値の共有 が大事で、それプラス能力の高さとかまじめさとか誠実みたいなものがありますというこ とですけれども、これは1つの考え方で、ほかの社会心理学ではいろいろな診断について の研究もあります。ただ、僕はそう思っているということです。 ○唐木座長 では、神田さん。 ○神田委員 幾つかあったんですけれども、私も合瀬さんの質問と1つは共通します。た だ、今のお答えじゃないお答えも欲しいなと思ったんです。実は、そういった専門家のお 話もありますけれども、じゃ、古谷さんのところに、古谷さんのお話の中でも、情報源の 信頼性が重要であるというお話があったかなと思うので、じゃ、その情報源は、実際にい ろいろ消費者と接していたりという中で、どういうところが具体的に、今の先生のお答え は、能力の高い人とかという形でしたので、ちょっとわかりませんが、もしそういうのが わかれば、やはり行政の情報は信頼されるよとか、そういったようなものがあればお聞き したいなと思っておりました。  それから、もう一つ、今のお話の中でお答えの中で、価値の共有化とおっしゃったんで すが、私はそれだけではなくて、やはり事実認識の共有化というんでしょうか、そこがず れたままで価値の共有化だけだと、対立するところはいつまでたっても対立みたいな構図 があるのかなと思いながらお聞きしたんですが、事実の認識を共通に持つというというふ うに私は思っているものですから、そういう視点からお聞きしたいのは、中谷内先生の御 説明の中で、認識の特性を明らかにするということで、特徴1、2、3というお話があっ たと思います。特徴1のところで、低確率・低頻度事象を過大評価したり、その逆もある というお話で、そうならないためには、知識もあるけれども、知識だけではないというこ とを先ほどおっしゃったでいいんでしょうか。と思います。  そのときに、じゃ、なぜこういう低確率・低頻度事象を過大評価してしまうような、ど うしてそういうふうなことが形成されてしまうのかというあたりはどのように、もう少し 突っ込んでお聞きしたいなと思ったんですね。その誤解がどこから生じるのかということ を私は知りたいなと思うんですが、その辺を教えていただきたいと思います。  それで、古谷さんの方の一般の人の認識に合わせることというのは、基本的にはそうだ と思うんですけれども、先ほど私の考え方としては、事実をちゃんと共通認識を持つとい うことがあって、その上でどうそれをいろいろなそのほかの共有化を図る上で、一般の人 の目線に合わせたようなアプローチの仕方というんでしょうか、やりとりの仕方というふ うに私は受け取ったんですが、そういう受け取りでいいということなんですよね。ですか ら、そういった意味で、一般の人の認識に合わせるといっても、あくまでも誤解に基づい たままいっていいということでは私は決してないんではないかなと思います。なかなか理 解力が不足していて誤解しているかもしれませんけれども、もしそれがありましたら御指 摘いただければと思います。 ○中谷内委員 では、最初の、なぜ低確率事象を過大視してしまうのかということですね。 なぜかというのはわからないんですね。というのは、こういうふうな関数を想定すると、 いろいろな現象が説明がつくということで、どうやらこの関数が正しいみたいだというこ と。  なぜこうなるかというと、あとは科学というよりスペキュレーションなんですけれども、 恐らくその方がサバイバルに役に立つということです。特に私たちの食生活を考えると、 選択肢はたくさんありますから、本当は大したリスクでもないんだけれども、それを過大 視して避ける。避けて栄養失調になったりしませんよね。違うものを食べればいいんです から。BSEが問題になったときに、牛を食べたって、そんなに危険じゃないですよと言 われても、わざわざ気持ちの悪い、何か引っ掛かりのあるものを食べるよりも、鶏肉を食 べたら結構おいしかったということで、別のたんぱく源を摂れるわけですから、そういう 意味では、こういうふうな関数をメンタリティとして持っている人が今まで生き延びてき た。その結果として確率の低い事象を過大視してしまうのではないかなということ。  ただ、それは進化の過程でこうなったという話なので、なかなか証明するというのはで きないスペキュレーションになります。  もう一つおっしゃった、事実認識の共有化の方が大事。それはそうなんですね。それは そうなんですけれども、それができない。結局、僕が言いました価値の共有化を言ってい るだけでは対立構造がとけない。そのとおりなんですね。その対立構造がとけなくて同じ ことなんだけれども、同じ事実として認識しないから、あちこちの紛争というのは解決つ かないわけですね。中東で行っているような紛争だって、どこだって同じで、共有してい る価値の対立というのをとくのは非常に難しいと思うんです。  ですから、神田委員おっしゃったように、事実認識として共有できれば、それは目標と してそれが一番いいんですけれども、そこに持っていくためにどうすればいいのかという のは非常に難しい。難しくて、現象の説明としては、どうやら価値を共有している者同士 が集まって、共有していないものと敵対関係がいつまでも続く。それが平和か、いいこと かといったら、それは全然よくないんだけれども、人間というのはそういうことですねと いうのが今の説明です。 ○古谷委員 私の説明の仕方も、正直悪かったのかなと。誤解を呼んでしまったら申しわ けありません。もちろん私自身は、一般の人の認識に合わせるというのを、誤解を誤解の ままでいいよというつもりは毛頭ございませんで、やはりきちっと事実を正しく伝えると いうことが大前提で、必要だと思っております。その上で、一般の人が感じている不安に 沿う形できちっと説明をするということが大事だということを補足をさせていただきます。  神田さんがおっしゃったように、私も事実認識の共有化が非常に大事だと思っています。 中谷内先生がおっしゃったように、しかし、その事実が人によって違うんですね。ここの ところが非常に難しいから価値の共有化とおっしゃったんだと思うんですね。消費者の立 場でこの人は言ってくれるから信用できるとか、そういった価値の共有化というのが多分 必要なんだろうと私は認識いたしました。  それと、神田さんの質問の中で、信頼というところで、どこが信頼できるのと。実は、 正直申し上げると、今、どこも信用できないと一般の人、思っているのが現実ではないで しょうか。ただ、客観的にといいますか、いろいろな方の言動を見ていると、やはり行政 に対する信頼は中でも大きいかなと。あと、意外とマスコミに対する信頼も大きいかなと。 というのは、余りにもそれはそれで一方的に信じてもらったら困るなと私は思っているん ですが、むしろ、宗林さんがおっしゃったんですかね、リテラシーですよね。自分自身が しっかりそれが正しいかどうかを判断できる。唐木先生でしたっけ。判断できるというこ とが非常に大事なんだけど、どこかに行けば信頼できるから、ここの情報に頼ればいいと いうのは私はむしろ危険だと思っていて、むしろ、今、信用できないと思っている中で、 消費者なり一般の人が自分なりの情報を判断できる能力を身につけてもらえば、よりよい 方向に行くのかなと思います。  ちょっと答えではないんですが、今、どこも信用できないけど、自分はどうしたらいい かなというところで向かえばいいなと思うんですが、実はそういうふうに向かっていなく て、どこも信用できなくて、ちまたのとんでもない情報を信用して動いてしまう。よく言 われるのが、知人の情報というのは結構信用する。知人は何の専門家でもないのに、知人 の情報は信用するということがありますので、今のところはそういったところ、信頼に、 ここは絶対ということはないのかなと残念ながら思います。  ただ、それぞれの、例えば行政とか事業者だとか、あるいは消費者団体もそうですけれ ども、信頼に足る情報を発信し続けていって、信頼を獲得するということをしないと、だ れも信用してくれない。ただ、一方で、先ほど言ったように、消費者自身がそれを本当な のかどうかと見る目も必要かなと思います。十分な答えではありませんが。 ○宗林委員 1つの例ですけれども、食品の社告の出し方についてちょっと触れたいと思 います。食品衛生法違反であっても、別に社告を出さなくてはいけないわけではないです よね。自主回収もどうしてもしなくてはいけないわけじゃありません。しかし、実際には 社告はもの数多く出ています。内容をみてみるとすごく大きな、例えばぎょうざの事件だ ったりするものから、賞味期限のちょっとした打ち間違い等レベルもさまざまで、健康情 報が付いているもの、付いていないもの、付いている場合のアナウンスの仕方というのも、 事業者の自己責任で行われてます。先ほど、事実をそろえる、事実認識をそろえるという 意味では、1つの例ですけれども、消費者の目に触れやすいものだけに、どういうふうに 事実関係を消費者が情報を受け取るときにそろえられるかというのは、着目するなり、あ る程度調整をするべき一つではないかと思います。 ○古谷委員 社告について実は研究しておりまして、多くは自主的な社告です。ただ、消 費者側から言うと、適切な情報発信になっているかというと、必ずしもそうではないと。 多くの事業者が回収ということを当然目的にやるんですけれども、消費者側は、回収の目 的で動かないですね。自分が安全かどうかで見るんですね。そういう目線が実は事業者が 余り持っていなくて、回収するための情報伝達でしかないんですね。  ところが、それを受け取って消費者は何を見るかというと、これは即食べないで中止を しなければいけないのか、食べても問題ないのかというような判断に足るような情報が出 されていないんですよ。実は私なんかが事業者が信頼に足る情報の出し方をしているかと いう判断のときに、自社の回収という目的だけじゃなくて、消費者の安全ということを配 慮した記載になっているかということを信頼の判断にするんですけれども、そういう社告 一つとっても、決して情報伝達が消費者側の安全とか、まさにリスク回避行動をとるため の情報発信になっていないというのが実情かなと。あくまでもこれは自主的なものですの で、なかなか難しい。ただ、規格はできましたので、徐々にその方向にはなっていくかな と思っております。 ○唐木座長 ほかに御意見なければ、私がもう一つ古谷さんにお聞きしたいことがあった んですけれども、一番最初の「リスク社会と消費者」のところで、今は消費者が自己責任 によるリスクの軽減を迫られている場面が増えている。確かにそういう場面もあるけれど も、逆の場面もあるような感じがするんですね。というのは、加工食品なんかはブラック ボックス化して、消費者自身が表示以外は中身が判断できなくなっちゃっているというと ころがある。そうすると、加工食品なんかの安全を守るのは、消費者の自己責任ではなく て、製造者の100%責任になっている。そうすると、当然製造者に信頼がなければ、食品 自体の信頼も失ってしまう。そういう流れもあるのかなと。ですから、消費者が自己責任 によるリスクの軽減を迫られている場面が増えているということもあると同時に、消費者 自身でリスクを回避できないような製品が増えているということもあるんではないでしょ うか。 ○古谷委員 言葉足らずで申しわけありません。そのとおりです。加工食品も特にそうだ と思うんですが、私たちは、表示を見てしか判断をできないわけですよね。その中で、迫 られている場面が増えているというのは、実は事業者はきちんとやるべきことをやらなけ ればいけない。行政もやるべきこと。安全を最低限確保しなければいけないというところ は、当然やらなければいけないんですけれども、実は、そこのところが、例えば偽装の問 題なんかを見ていてもわかるように、本来ならば表示しか頼るところがない消費者に、偽 装ということをされてしまうと、私たちはどんなに能力を持っていたとしても判断ができ ないわけですよね。そういう意味で、役割分担をきっちりした上で、消費者が自己責任で もって判断をするという場面にいかなければいけない。ところが、そうじゃない場面が最 近は増えているので、無用なリスクを責任じゃないのに抱えてしまうというので「迫られ ている」という言い方をしたということです。 ○唐木座長 ほかに何かございますか。食品の回収と廃棄の問題については、昨日でした っけ、シンポジウムがあって、小島さんもシンポジストだったんですが、昨日のあれも踏 まえて、小島さんからその点について何か情報を伝えるという立場から、廃棄のことにつ いて何か御意見がありましたら。 ○小島委員 廃棄はないんですけれども、要するに、問題が余りにも大きくなってしまっ ているので、情報を提供するときにどうすればいいかという議論が、もっと焦点を絞らな いと難しいかなと。例えば、同じ能力と誠実さといったら、マスコミは失格かなと思って 今聞いていたんですけれども、本当に信頼されているのかなと。能力と誠実さといったら 多分。じゃ、国の方だって、例えば遺伝子組換え作物でも、実は国の方でも、安全だと言 っている人と、極端に言えば危険だと言っている、両方あるわけですよね。だから、専門 家にも両方いて、その両方の人が、例えばいろいろな文献を読んで、私は文献を読んだ結 果、安全だと思うと。一方で、同じ文献を読んで、私は危険だと思うという専門家が両方 必ず出てくるんですね。ですから、そういうときに、じゃ、政府としてはどういう情報を 出したらいいのかといっても、政府も実は足並みがそろっていないといったときに、どう すればいいかということですよね。  ただ、問題なのは、私は、C型肝炎のときに特に思ったのは、政府が幾らきちっと言っ ても、そのきちっと言ったものが伝わっていなかったという場合には対処のしようがある んですよね。例えば、そういう場合だったら、もう一回説明するか、記者クラブ以外の記 者たちにも説明して、別のアプローチから書いてもらうとか、いろいろな手がありますよ ね。だから、そういう議論ならわりと議論しやすいんですけれども、一般論として言うと、 とりあえずは、ほとんどの人はマスメディアの情報を信じているので、マスメディアで過 大視した結果、何か不当に税金が使われ過ぎているとか、例を挙げて、こういう例のとき はこういうふうにしなければいけないとかいって議論しておかないと、なかなか難しいん じゃないかなと。聞いていて。だから、例を挙げないと。  BSEなんかも全頭検査がいい例で、私は逆に言えば、さっきの不安を感じているんだ ったら、全頭検査をやって、20億、30億で不安を静められるんだったら、むしろコスト ベネフィットで言えば、ひょっとしたら安いかもしれないんですね。それをやめて、不安 を感じる人に別の方法でお金を幾ら使うかといったときに、全頭検査で済むなら安いかな ということで、ずっとやっていってもいいかもしれません。ひょっとしたら。だから、じ ゃ、別の情報を出したらどうなるかという1つのケースで議論していった方が、ここは情 報提供のあり方を検討する会なので、もうちょっと具体的な話をした方がいいかなと思う んですけれどもね。 ○唐木座長 そのとおりなんですが、今日は「リスクの認知」ということをテーマにした ので、こういう話になっておりますけれども、今もお話ししたように、食品安全委員会の アンケート調査なんかで、何か食品関連の事件が起こったときに、どこの情報を一番信頼 しますかというのは、やはり1位、2位が新聞、テレビなんですね。新聞、テレビという のは、先ほどの能力と意図から言うと、どういうことになるんでしょうね。 ○中谷内委員 新聞も多くの場合は識者の意見とか専門家の意見を引用しながらやること によって、専門性の高さを担保しようとしていると思いますね。もう一つは、公正中立で あるということ。ですから、逆に言うと、新聞記事に対する信頼が大きく損なわれるのは、 例えば、スポンサーがどこどこだからじゃないかといううわさが流れたりしたときにはだ めになりますよね。そういう意味では、表現の仕方に問題があるとか、いろいろ言われな がらも、公正であって、しかも、専門家の意見を使うというのはいいやり方ではないかな と思うことは思います。 ○唐木座長 ありがとうございます。  私が余り話をしてはいけないんだけれども、小島さんの、先ほど科学者でもいろいろな 意見があるというところ、科学者の立場から一言だけ申し上げると、私もかつてやってい ましたが、基礎の科学者というのは、ハザードの研究だけをやるわけですね。ということ は、結果がどうなるかということだけを研究のテーマにするわけです。確率というのは、 我々の研究テーマじゃないんですね。  ところが、リスクの科学者というのは、確率を計算するのが仕事なんですね。ですから、 科学者にも全然違った立場の2種類がいる。ですから、リスクの立場の確率を研究する科 学者は、このぐらいの確率だったらこれは大丈夫と言うわけですね。確率を全くやらない 科学者は、私もそうだったんですが、私の研究している化学物質は物すごい優秀で、すば らしいがんの薬になるかもしれないと言って研究費をもらうわけです。あるいは、こんな 恐ろしい化学物質はないから、うんと研究したいと言って研究費をもらうわけです。とい うことで、確率を言わずに結果だけを言う。この2種類の科学者がいる。そこのところを きっちり理解すると、なぜ対立する意見になるのかなというのが少し理解ができるだろう と思います。  ほかに。どうぞ。 ○小島委員 今の科学者の話、僕は身近な例しか言わないんですけれども、例えばテレビ でバナナ健康法というのをずっとやっていたんですね。雑誌でもやっていました。それで、 バナナ健康法を言っている学者は、一応薬学の専門家ですよね。アメリカまで留学した薬 学の専門家で、それなりの地位のある頭のいい人なんですよ。その人が本を読むと、本当 にいいかげんなことがいっぱい書いてあって、ほかの専門家に読んでもらったんですよ。 本当にこの人は薬学の出身ですか、ということがざっと書いてあるんですね。それを結局、 テレビや雑誌の人がそういう本を読んでもわからないんですよ。この間違いが。だから、 何回も同じテレビに出て、バナナを食べるとやせますよということをいろいろな理屈をつ けて言うんですけれども、今度その人が、キーウイはやせるという本を出したんですよ。 同じことが書いてあるんです。メカニズムはほとんど同じです。私も、読んで、余りにこ れはひど過ぎるなと、本人に聞いて、これ、ちょっとおかしいんじゃないですかと言って、 いろいろやりとりしていて、その人は、実は誠実なんですよ。誠実な人でした。要するに、 マスコミ受けが非常によくて、マスコミに対してすごく親切なんですよ。でも、あなたみ たいなことを言ったのは今までなかったと言うんですよ。私のいろいろ、これ、おかしい んじゃないですかみたいな。いや、本当です。要するに、それはなぜかというと、今まで だれも言わなかったからなんですよ。要するに、何か引用する場合でも、AさんとかBさ んしか出てこないので、一体これはだれが言ったかわからないですよ。過去のを見ると意 外と。  もう一つは、うちの記者が、やっぱりバナナはいいらしいみたいなことで取材に行った ら、過去、その人、昔、シロインゲンがやせますよみたいなことでやった人だったんです よ。実は。うちの記者も、シロインゲンの取材はしていたんだけれども、そのとき、その 人がそういう問題の発言をした人だということは知らなかったんですよ。別にその人をや っつけているわけではないんですけれども、何かあっても情報がきちっと伝わっていない んですよね。だから、そういう機会を厚生労働省のホームページでも何でもいいんですけ れども、何かできないかなと。食品安全委員会でも、何か気づくような機会がないので、 いつまでたってもそういうことが起こっているのかなという気がして、何かできないかな と。ちょっとピントの外れた例だったかもしれませんが、だから、いろいろなところでチ ェックすることが必要だということですね。 ○唐木座長 その人の発表がもし学会であれば、我々は幾らでもたたけるんですね。しか し、学術論文ではなくて、一般の本とかテレビで言われたものを研究者がたたくという風 習がないのがもう一つの問題。本当はこれもやらなくてはいけないのかもしれないですね。  ここで、もし委員の方々からの御意見が途切れているようでしたら、会場の方から、も しも御意見ないし御質問をお受けしたいと思います。何か御意見、御質問がある方、ござ いましたら、挙手をしていただいて、マイクを持っていきますので、差し支えがなければ 名前と所属をおっしゃって、御意見をお願いしたいと思います。  なお、何人かの方に伺いたいので、なるべく簡潔に話をしていただきたいと思いますが、 どなたかいらっしゃいますか。どうぞ。 ○傍聴者A 今日の討議に直接的に関係した質問ではないんですが、中谷内先生のところ に、食品には特別な、最後の人工と天然でしたっけ、要素が入ってくるんだというお話が あったんですけれども、そんな中で、今、アメリカで、GMOですとかクローンですとか、 そういう新しい技術がどんどんできてきて、ある農産物なんかはほとんどの部分がGMO になってきている。あるいはクローンの動物なんかも食品としてこれから流通するんだよ ということになったときに、アメリカの消費者は、日本人の消費者が持っているような、 人工と天然というような判断基準が欠落しているのか。どうしてアメリカの消費者はあれ だけ受け入れるのか。あるいは報道機関の報道が日本はそういうものに対してかなり不安 をあおるような報道をするような気がするんですが、そういうことではないのか。我々と しても、近い将来、GMOなんかをもっと使わなければいけない。表示をしてきちっと使 わなければいけないような状況にこれからなっていくかもしれないという状況の中で、こ のアメリカにならおうという気はさらさらありませんが、ならわざるを得ない状況になる かもしれないというところで、その辺について何かございましたら教えていただければと 思います。 ○中谷内委員 まず、「人工−天然」という判断の因子が出てくる研究というのは、もと もと日本にあったのではなくて、Fife-Schaw & Roweさん、イギリスかアメリカかどっち かだったと思います。アメリカじゃなかったかもしれませんけれども、でも、「人工−天 然」というので、危険、安全とか、これだったら買う、買わないというのは、アメリカに も強いですね。僕も1年住んでいましたけれども、日本よりよほど、どこへ行ってもオー ガニック、オーガニックといって、普通のが食べたいという人がいるぐらい、オーガニッ クを全面に出しています。ですから、必ずしも日本とアメリカが違うということはなくて、 アメリカでも天然とか人工何とかは入れていませんというのを売り物にするのが強いです。  強いんだけれども、たまたま前行っていたときにテレビで見たら、GMOでそれこそダ イエットにいいのかな。何かそういうふうな、御存知の方はおられないですかね。産物が GMOだから売れているというのがあったみたいなので、それは、へえと意外に思いまし た。  でも、御質問に対するお答えとしては、アメリカも日本も、これに関してはあるんだと いうことですね。 ○小島委員 小島ですけれども、私もアメリカの消費者は毎年行って聞いているんですけ れども、私も業界の人と話をしていて思ったのは、アメリカ人だから受け入れているとい うことはないです。私の感じでは。これは日本人も同じです。私も何十人インタビューし て聞いても、半分どころか7、8割の人がよく知らないと言うし、知っている人の中では、 安全という人もいるし、安全じゃないという人もいるし、それは日本の人と同じなんです よ。  マクドナルドが遺伝子組換えジャガイモを使おうとしたときに反対にあってすぐやめて しまいましたよね。ということは、消費者の目は、やはり危ないと思っている消費者の方 が多いとマクドナルドが判断しているんですよ。小麦のときも、私、導入のときにちょう ど行って、政府の人といろいろ話をしたときに、小麦はアメリカ国民は受け入れないとは っきり言います。それは直接食べるものだから。だから、ほとんど今、豆腐やトウモロコ シ、トウモロコシは若干コーンのパンの中に入ったりはしているんですけれども、ほとん どは家畜のえさなので、受け入れているんですね。  だから、消費者の意識はそんなに日本人と変わらないなということと、もう一つ、一番 決定的に違うと思ったのは、私は日本政府とアメリカのFDAの人の態度です。説明の仕 方。要するに、表示を認めるか認めないかで、アメリカのFDAの人たちは、はっきり表 示は認めないと言うんですよ。要するに、例えば、ノンGMOの牛乳と普通のGMOの牛 乳を比べたとき、ノンGMOの牛乳の方が当然高いですよね。ノンGMOの牛乳に高いお 金を払う価値があるかどうかということを消費者に説明するときに、アメリカのFDAの 人は、そんな価値はないと。同じなんですよと。栄養分は全く変わらないのに、どうして もノンGMOに高いお金なんか払うんですか。こんなの表示しても何の意味もないですよ ねということをはっきり消費者団体に言うんですよ。アメリカのFDAの人は。私は自信 を持って言いますと。だから、そういう自信のあらわれが信頼感みたいなのにつながって いるのかなという気はしたんですね、私は。でも、日本の政府の人はそうはっきり言わな いんですよ。市民の人が不安だと思っていると、そうですねみたいな言い方になっちゃう んですよ。これは私も全部知っているわけじゃないんです。そういう言い方なので、やは りそう言われたら市民だって不安になっちゃうんですよ。だから、私の印象としては、か なり違うなと。 ○唐木座長 中野さん。どうぞ。 ○中野委員 今の小島さんの御意見に付け加えさせていただきたいんですけれども、私も 全く同感で、例えば、日本はGMに関しても安全性が確認されているにもかかわらず、各 地方自治体によっては、栽培禁止条例みたいな厳しい罰則を伴った条例などがあるので、 国民、市民から見てみると、そういう厳しい条例があるということは、やっぱり危ないの だというような、よもやそれが国レベルで安全性が確認されているものとは思わずに、身 近な地域の条例で禁止されているから危ないのだという誤解が進み、その誤解を後押しし ているというか、それを正すようなことが上の方からは出てきていないのが残念かなと思 います。 ○唐木座長 そうですね。最近、全都道府県にBSEの全頭検査を継続している理由を聞 いたんですが、全都道府県が「安心のため」という答えをして、じゃ、それをどうやって 県民に伝えていますか。ほとんど積極的に広報していないんですね。ホームページに出し たとか、議員に説明したとか、予算案に書いてあるとか。どうもその辺のところ、消費者 が間違っていても、消費者のおっしゃることは御無理ごもっともだから、そのままにして おこうというふうになったら、リスクコミュニケーションもおしまいかなという気もして おりますが。  ちょっとよけいなことを言いましたが、そのほかに会場の皆さんで。手を挙げている方。 ○傍聴者B 今日はどうもありがとうございました。先ほど、簡潔にというお話が出まし たが、一般消費者は簡潔に話せませんので、その点はどうぞお許しください。  今回、リスク認知の向上をするためにはということのお話のようですが、ごく一般の消 費者として一番大事なのは、消費者の自立だと思います。これには知識が大事ですが、食 品の安全性の問題だからといって、いきなりリスク分析ですとかリスク認知という話にな りますと、消費者は戸惑ってしまいます。その以前の問題として、食品の安全性というも のは、口から入ることですから、口から入った後の吸収ですとか、代謝とか、無毒化とか、 排泄するとか、そういう体の仕組みのような基礎的な知識を先に与えていただいて、その 後でリスク分析ですとか、いろいろな確率ですとか、量の問題とか、そういうことの情報 がやっていただいた方がわかりやすいです。順序が逆のような感じがいつもしております。  次に大事ではないかと思っておりますのは、先ほどから出ている信頼感の問題だと思い ます。能力があってまじめな人が信用されるというお話がありましたが、多分日本にいる ほとんどの行政の方、専門家の方、先生と言われる方は、能力があってまじめだと思いま す。ですけれども、それがどうしても信頼に結び付かないということを考えますと、そこ にもう一つ加えていただきたいのは、消費者の、相手の気持ちがわかってくれるかどうか だと思っております。一般消費者は専門家と比べまして、知識と経験に大変差があるのは、 これはどうしようもないことだと思います。そのことをよく認識していただいて、たとえ 一般消費者が科学的に間違ったことを言った場合でも、その訂正の仕方ですとか、指導の 仕方に注意を払っていただきたいと思っております。これは、私たち一般の人たちは、今 までディベートの教育も受けておりませんので、教育のことも問題にあるのではないかと 思います。  長くなって済みません。最後には、企業の責任というものがどうしても思ってしまいま す。業界のリーディングカンパニーと言われるような立場にあるトップ企業は、利益を上 げて、雇用の問題ですとか、社員の確保ですとか、そういうこと以外にも、もう一つ社会 に対する責任というものがあると思います。現在は、いろいろな企業が食育ですとか、環 境の保護とかいろいろなことをやっておりまして、そちらの方ばかり注目されまして、そ れによって目隠しされていて、本来の企業のやるべきことというものが隠されてしまって いるような感じがしております。  以上です。長くなって済みませんでした。 ○唐木座長 最後のところ、もう一言付け加えてください。企業の社会的な責任として何 をすべきだということでしょうか。 ○傍聴者B すべての企業が自分たちのやっていることを説明するのは無理だと思います が、せめて業界のトップ企業にある立場の企業の人たちは、自分たちのやっていることが 本当に消費者にとって正しいことをやっているのかどうか、科学的なことをちゃんと広め ているのかどうか、そういうことをもう一度自分たちの中で話し合っていただきたいとい うことなんです。いいですか。 ○唐木座長 はい。何となくわかりました。消費者に対する正しい情報を出すということ も含めた社会的な責任ということですね。ありがとうございました。  お答えをするようなことがあるかどうかですが、信頼は、相手の気持ちがわかること。 これは非常に大事なことですが、これは価値観の共有ということでよろしいですか。 ○中谷内委員 おっしゃったことは、多分僕が言っていたこととほとんど同じだと思うん ですね。専門的な知識を持って誠実に。でも、相手の立場になって気持ちをわかってくれ るというのは、価値を共有することということだと思います。  僕はむしろそれよりも前におっしゃったことがちょっと議論したいなと思うんですけれ ども、つまり、いきなりリスクの話をするのではなくて、消化のあり方とか、代謝とか、 そういうふうなことを全部理解した上でリスクの話に入る。それは、リスク論の研究者を 養成するとか、そういうのであれば、確かに正論だと思うんですけれども、あるいは私た ちにとって関心事が食べ物だけだったら、それもよかろうと思うんですけれども、例えば、 今ここに入ってくるときも、原子力発電がどうのこうのやっていましたよね。それも放射 線医学について我々は勉強して、原子炉の仕組みについても勉強しなければいけない。そ れから、最近治安が悪いとか言われているけれども、犯罪学についても勉強しなければい けないし、最近は失業の問題もありますね。経済の問題。これだけ社会が分業化、専門化 している中で、それぞれの領域で基礎のところからやって、最終的にリスクについて理解 しようというのは本当にできるんだろうか。僕はできないと思うんですね。できないから こそ、おっしゃるように、リスク論というのはそういうのが積み重なった最後に出てくる ところなんですけれども、最後に出てくるところを伝える人を信頼できるような社会を作 ることの方が大事であって、すべての人がいろんな領域について基礎からわかる専門家に なるように持っていきましょう。そうなれば、それはすばらしいですけれども、難しいじ ゃないだろうかと僕は思います。これは意見です。済みません。 ○唐木座長 ありがとうございます。  これは非常に基本的な問題で、こんな難しいことを全部しゃべってもわからないんだか ら、最後の俺の安全という言葉を信じろと言うのか、あるいは一から全部説明するのか、 今のあれで追加ですか。どうぞ。 ○傍聴者B 私はそんな大それた難しいことを言っているつもりはないんですが、もっと 基礎的なことというのは、皆さんの方では一般常識だと思われていることが多いかと思う んですが、実際のところ、一般消費者にはわからないことが多いんです。食品のことの話 し合いですから、体の中に入ってからどういうふうにして排泄までいくのかとか、そうい うことがわかれば、たとえ少しの農薬が入ったってどうってことないや、というのはちょ っと言い過ぎですが、そういう考えだって出てくると思うんですね。そんな大きなことを 言っているわけではなくて、もう少し私たちが理解しやすい方向に向けて説明してくださ いということです。 ○唐木座長 よくわかりました。我々専門家は、消化のことなんかみんなわかっているだ ろうという前提で話しているけれども、大事なところは、基礎的なところに戻って、少し 丁寧に説明をしてほしいということだろうと思います。ありがとうございます。  そのほかに何か御意見ございますか。よろしいでしょうか。どうぞ。 ○中垣課長 中谷内先生のお話、よくわかったんですが、中谷内先生がおっしゃっている 一般消費者というのは、恐らくある程度合理的な行動をできる人を前提としたような調査 なんじゃないかと思うんですね。一方、古谷委員の出している紙でいくと、ここで言って いる消費者というのは、一体だれなんだろうかと。今の会場のあれでも、あと、小島委員 が言っていたのとも多分重なると思うんですけれども、消費者というのは、別に生産者だ って、それに限ればみんな消費者なんだし、一般消費者に対する専門家だって、専門分野 以外、みんな一般ですよね。じゃ、この消費者というのは何なんだろうかと。これは国民 全体を意味しているんですかね。それとも、一般にしゃべっているときは、ある程度話せ ばわかるじゃないですけれども、普通にわかる人を前提にしているのかどうかというのに よって、議論が全然違うと思うんですよね。最初、中谷内先生がおっしゃったみたいに、 要するに95%の人に理解してもらうよりも、最後の5%に理解してもらう方がよほど大 変だし、恐らくそれは無理だということもあるので、ここでみんな何気に消費者とか一般 消費者とかと言っているんだけれども、そこをきちんと定義しないと、結局どこをやって いるのかわからないような気がするので、そこを、古谷委員は、この消費者は一体だれな んだろうかというのを教えていただければと思うんですが。 ○古谷委員 いろんなところでそれは議論になるんですけれども、特定の消費者を限定し た定義は難しいと思います。あくまでも一般論でしかお話はできない。先ほど小島さんが 特定の事例でお話ししなければいけないんじゃないかと言ったのは、多分そこに関わって くると思います。私はあくまでも、一般的に今の消費者が置かれている状況はこうなんで はないかということをお話ししましたので、当然中には非常に合理的な行動をできる消費 者もいれば、かなりそれは難しい消費者もいるだろうということは前提にあります。ただ、 それも、じゃ、消費者を分類してやることがうまくいくかというと、それもまた難しいか な。やはり事例に応じて具体的にその認識はどうなのかとか、回避行動はどうとれるのか というようなことで話していかないと難しいかなと。非常に特定はしたいんですが、難し いかなと。あくまでも私は一般的な消費者像ということで置かれている状況としてお話し をさせていただきました。 ○中垣課長 今のお話ですと、国民全体というふうに理解していいということですよね。 ○唐木座長 それでは、会場の方から今手を挙げられた方、時間ですので、最後のお一人 にさせていただきます。 ○傍聴者C 中谷内先生の著書で、終わりに、今の問題の消費者と、完全な消費者はいな いと書いている部分がありますよね。その部分をちょっと教えいただきたい。もうちょっ と解説いただければと思うんですが。 ○中谷内委員 どういう文脈ででしたっけ。多分、消費者だって会社に行けば生産者側に なっているし、家に変えれば生活者だしということですね。 ○傍聴者C そうです。その部分です。今の議論とちょっとつながっていくんじゃないか と思うんです。 ○中谷内委員 課長がおっしゃった質問に対する僕の答えとしては、ここで一般消費者と いうのは、専門知識を持たない人の平均値になってしまうんですね。だから、それはすご く問題は問題だと思うんです。我々、つい平均値で物を言ってしまう。それとは別個の問 題で今おっしゃったのは、僕の本に書きましたのは、それこそ価値が共有されずに対立す る。それが生産者と行政と消費者との対立構造を生んでいたりするんですけれども、でも、 歩行者がドライバーであったりするのと同じように、家で消費する人も、会社では生産者 だし、同じ一人の人間の中でいろいろな立場というのを経験しているわけですから、そこ を相手を理解できるような、自分の中にある別の立場を頭に持ってこれるような文脈を作 ることによって、お互い理解し合えるようなことはできないだろうかということを書いた。 ちょっと説明が下手ですけれども。  ただ、あのとき一緒に書いたのは、夢想的な話ですがということなんですね。つまり、 私たちは、自動車に乗っていると、自分が歩行者だったときのことを忘れて、横断歩道な のに、歩行者うっとうしいなとビューッと行っちゃうとか、逆に、自分が歩行者になって いるときは、何で止まらないんだろうと。両方経験しているんだけれども、経験している 中でさえ理解できない。多分我々は、ある専門家、別の面では素人、消費者、行政であっ たり、家庭人であったりする。僕は消費者として行政に何か物を言うときには、行政の立 場だったこう言わざるを得ないだろうなとか考える、言ったら、思考というか枠組みは持 っているはずなのに、それをなかなか引きだけことが人間できない。できないから、立場 の溝が埋まらない。そこを何とかしたいなというのは、今、コメントしていただいたのは、 本のあとがきに書いていまして、そんなことが、夢みたいだけれども、今後やっていきた いなという話です。  ですから、こういうふうにすれば、消費者が行政の立場を理解して、行政も消費者のこ とを、そのときはよくわかってという妙案はなかなかなくて、むしろ今、心理学、特に社 会心理学で強調されてきているのは、人間というのはすごく立場に支配されてしまう。同 じ人でも、たまたまゲームなんかをやっても、監視側になると冷淡な人間になるし、囚人 側になると、おどおどしてしまう。単なるロールプレイだとわかっていてもそうなって、 これは本当にそういうのがあって、心因性の発疹とかが出てしまって、その実験は6日間 で打ち切りになるというぐらい、私たちは立場に弱い。  だから、その立場を超えて理解し合うということが、さっきおっしゃった現実認識の共 有化につながるんだけれども、それに対して僕は難しいですねと言ったのは、今までの社 会心理学は悲観的。ですけれども、それを乗り越えないと、神田委員おっしゃったように、 いつまでも対立構造がとけないので、何とかできないかなとは思うんですけれども、いい 方法があったら僕の方が教えてほしいです。済みません。そういうことです。 ○唐木座長 ありがとうございました。  最後は多少悲観的な話になってしまいましたけれども、予定の時間がまいりましたので、 今日の懇談会はここで終わりにさせていただきたいと思います。  次回の日程ですが、3月中旬を予定しているということでございます。事務局から何か 追加がありますか。よろしいですか。  それでは、今日はこれで閉会にさせていただきます。御協力ありがとうございました。 照会先:食品安全部企画情報課 03−3595−2326