07/04/09 第3回 終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会の議事録 第3回 終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会 日時 平成19年4月9日(月) 13:00〜 場所 全国社会福祉協議会第3〜5会議室 ○保健医療技術調整官(菊岡) 定刻になりましたので、第3回「終末期医療の決定プ ロセスに関する検討会」を開催いたします。委員の皆様方におかれましては、大変ご多 忙の中、当検討会にご出席をいただきまして、誠にありがとうございます。  まず、お手元の資料の確認をさせていただきます。「議事次第」「座席表」「委員名 簿」に続いて、資料1は「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン(案)」、 資料2は「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン解説編(案)」、資料3は 「委員提出意見」です。参考資料1は「終末期医療に関するガイドライン(たたき 台)」、参考資料2は「『終末期医療に関するガイドライン(たたき台)』に提出され た意見(最終集計)」。資料3は別冊で「『終末期医療に関するガイドライン(たたき 台)』に提出された意見」です。  あとは委員のお手元ですが、第2回の議事録(案)を机上配布としております。こち らを議事の参考となさいますとともに、本日お持ち帰りをいただきまして、内容につい てご確認をしていただいて、修正等がありましたら、事務局までご連絡をいただきたい と考えておりますので、よろしくお願いいたします。  それでは、以後の議事運営は樋口座長にお願いしたいと思いますので、よろしくお願 いいたします。 ○樋口座長 それでは、第3回の「終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討 会」を始めたいと思います。 ○保健医療技術調整官 頭撮りはここまででお願いいたします。 ○樋口座長 前回までで非常にご熱心にさまざまな議論をいただいて、私の理解では、 そもそものたたき台に相当な変更が加えられ、あるいは意味が誤解を生みやすいような ところを随分直していただいて、全体的な方向性のところでは、相当の一致をいただき ました。そのご意見を反映するような形で、このガイドライン(案)及び解説のところ の文章表現を直していただいて、あらかじめ皆さんの所には送ってあるのだろうと思い ますが、それについて、今日検討するという運びかと思っています。  こちらの考えどおりにうまくいくのかどうかわかりませんが、今回のこのプロセスに 関するほうの検討は、可能であれば、前回、相当程度皆さんのご意見が一致したという ことを踏まえて、今日何らかの報告書を提示するような方向に持っていきたいと思って おりますが、もちろん議事の進行によってはいろいろなことがあり得るかもしれません。  早速、どういう部分について修正があったかという点について、保健医療技術調整官 から入ってもらおうと思っているのですが、私のほうで、もしかしたら言わずもがなの ことかもしれませんが、これまで2回の議論を踏まえて、振り返ってみたいと思ってい ます。何しろこの検討会で議題になっているのは、終末期医療に関する国あるいは厚生 労働省が出す初めてのガイドラインだということで、それを考えてみようということで す。この国では初物というのが大好きで、とにかく初登板で初勝利ということが、非常 に重要だとみんな思うのです。それにはそれなりの意味があるのだろうと思いますが、 今回の場合は松坂ほどの活躍はしないということで始めているわけです。つまり、この 場合は、終末期医療というのは、人の生死にかかわるので、従来国のレベルで何らかの 指針や法律を作ってこなかったのは、単に厚生労働省、その他が怠慢であったからでは なく、一定の考えがあって、慎重さを求められるようなものであったのだろうと思いま す。今日はまだ木村委員がいらっしゃってなくて残念なのですが、前回の最後で木村委 員が、「もしこういう形で今回の議論がまとまるのであれば、それは本来は国が指針と して作るものではなくて、そもそも医療者の側で我々が十分にやってくるべきことだっ たのだ」ということをおっしゃっているわけです。ですから、国のレベルで一体何をす べきかという問題も含んでいて、慎重さを要求するようなものであるということを重々 考えてきたからである。  したがって、今回初めてガイドラインを出すことになることを私自身も希望していて、 そのことに意味があると思っています。それもごくごく慎重に一歩一歩。これが6回裏 というたとえがいいのかどうかわかりませんが、これで終わりではなく、ずっと継続し ていく問題の最初の第一歩で、極めて慎重なアプローチをとるのだということでやって いるのだと思います。  何のためにガイドラインを出すのかというと、言うまでもなくて、終末期医療を受け ているというか、終末期を迎えている患者のためであり、しかし、患者のために何かを している医療者の信頼を維持するためでもあるわけです。  プロセスというのですが、私の所にもこの間、いろいろな懸念を伝えるご意見などが 速達で寄せられたりもしていて、何らかのことで国が一歩を踏み出すと、とんでもない ことになるのではないかということを恐れていらっしゃる方もいます。しかし、このガ イドラインは、よく読んでいただけば、そのような趣旨のものではない。第1に本人の 意思の尊重を何よりも重要なものだと謳っていますし、医療者がその終末期を迎えた患 者をチームで支える仕組み、プロセスが大事だということを繰り返し言っているわけで すから、そのことには大きな意味があるのではないか。  プロセス・オリエンテッドということなのですが。これも私が知っている老年病科の 先生と話をしたことがあって、その先生はここに書いてあることは、まずある意味で当 たり前のことである。この議論の中でも、あまりに当たり前すぎて、このことに意味が あるのだろうかというご意見、疑問もあったのですが、その方の個人的な意見で、やは り当たり前のことを粛々とやっていくことに意味があって、こういう分野は特にそうで、 しかも当たり前のことが日本全国どこでも行われているかというと、必ずしもそうでは ない。そうできないような現状もある。当たり前のことを指針として明示していただく ことには、それはそれなりに意味があると、その人の個人的意見ですが、おっしゃって くださって、それは私も非常に勇気づけられることでした。  その代わり、この指針では何をしていないかということです。先送りというか、あと の課題になるのかもしれませんが、WHATということです。つまり、何をすれば、例えば 刑事責任を問われないのか。あるいは何をしてもいいのかというような、具体的にどう いう行為が法律に触れないかとか、そのような形のものは、ここでは論じていません。  同じことになるのですが、こういう指針を出すときに、ある種の期待があって、私は それは過剰な期待だと思いますが、その指針どおりにしていれば、もう自分たちは大丈 夫というか、自分たちは考える必要もなくて、このルールをとにかく知っていて、それ を適用さえすれば、そのとおりにやっておけばいいのだという形での一種の思考停止、 もう悩まなくていいということを期待されても困る。そういうものを狙っているのでは なく、むしろその逆のことで、終末期に至っている人を、どう支えたらいいかについて、 本当に一人ひとり違う状況にあって、病状も違うし、家族関係も違うし、医療の環境も 違うわけで、それぞれができる範囲の中で、「一体何がこの人にとって良いのだろうか、 この人が一体何を望んでいるのだろうかということを一つひとつ悩んでいただく。それ が重要だということなので、マル、バツで「これはマルで、これはバツだということを 出すような指針ではないわけです。  さらにもう一点だけですが、この指針を出したことで、先ほどこの指針が書かれたこ とは当たり前のことではないかというお話があって、では、既往には遡ってというか、 過去に遡ってこれができていなかった場合に、法律上の責任がどうなるのだろうかとい うことに影響を与えるための指針ではないと思っております。これからどうしたらいい だろうかということを考えるための指針なので、そういうところでもあまり影響を及ぼ さないような、そういうことをいいとはしていないようなものであると考えております。  ちょっと言わずもがなのことが入ったのだと思いますが、では、保健医療技術調整官 から、実際のガイドラインと解説編のどちらを主とするのかわかりませんが、何であれ、 どういう形で訂正が入り、現状としてどういう案があるかについて、ご説明を伺いたい と思います。 ○保健医療技術調整官 解説編で説明すれば一度なのですが、整理の都合もありますの で、資料1と資料2を順次使って説明いたします。  まず3頁、資料1です。ガイドライン(案)の本文のほうでの修正部分です。1点目が 「医療従事者等」と言っていたところを、ここは明確に「医療従事者」という形で 「等」を削除しています。終末期医療を進めることが最も重要な原則であるという「最 も重要な」という部分を、前回の議論を踏まえて加えてあります。  3頁の下のほうで赤い部分を入れてあります。これは時間経過についての説明の部分 で、意思決定の部分で、上記の場合は時間の経過、病状の変化、医学的評価の変更に応 じて、「また患者の意思が変化するものであることに留意して」ということを、あえて 入れるという形で修正をしています。ガイドライン本文の修正は以上です。  続きまして、解説編を説明いたします。6頁の真ん中の赤い部分で、「ガイドライン の趣旨」の2)に文を入れています。2)は、そのためには担当医ばかりでなく、看護師 やソーシャル・ワーカーなどの医療・ケアチームで患者および家族を支える体制を作る ことは必要です。そして但書きで、「このことについては終末期医療に限ったものでな いことは言うまでもありません」という文言を入れています。  7頁です。最初のガイドライン本文の部分は同様です。*注1も前回の議論等を踏まえ て、「第1に分な情報と説明を得たうえでの患者の決定こそが重要です」としておりま す。「ただし、○の2で述べられるように」ということで、「終末期医療としての医学 的妥当性・適切性が確保される必要があることは当然です」という文の構成にしていま す。趣旨が大きく変わっているわけではありませんが、書きぶりを変えています。  *注2は、文を1つ加えており、「また、チームを形成する時間のない緊急時には、生 命の尊重を基本として、医師が医学的妥当性と適切性を基に判断するほかありませんが、 その後、医療・ケアチームによって改めてそれ以後の適切な医療の検討がなされること になります」ということを加えています。これは時間が極めて緊急な場合に、どのよう に対処するかという部分について、若干補足を加えたものです。  *注3です。いちばん上で「等」を削除したものに対応する部分ですが、「なお、後 掲注6にあるように、医療・ケアチームにソーシャル・ワーカーが加わる場合、ソー シャル・ワーカーは直接医療を提供するわけではありませんが、ここでは医療従事者に 含みうる意味で用いています」としています。  *注4の後段です。これは前回の検討会でも非常に多くご意見をいただき、1つの案と してこのような書きぶりをしております。*注4の真ん中辺からですが、「前者に対し ては、医療従事者の協力関係のあり方が変化し、医師以外の医療従事者がそれぞれの専 門家として貢献することが認められるようになってきた現実をむしろ重視すること。後 者に対しては、このガイドラインは、あくまでも終末期の患者に対し医療的見地から配 慮するためのチーム形成を支援するためのものであり、それぞれが専門家としての責任 を持って協力して支援する体制を作るためのものであることを理解してもらいたいと考 えています。特に刑事責任や医療従事者間の法的責任のあり方などの法的側面について は引き続き検討していく必要があります」としています。  8頁は、先ほど説明した本文の手直しだけですので、9頁です。*注12で、特に家族の 判断と決定という部分を、趣旨は変えていませんが、書き直しています。まず前段の部 分ですが、「家族がいない場合および家族が判断せず、決定を医療・ケアチームに委ね る場合には、医療・ケアチームが医療の妥当性・適切性を判断して、その患者にとって 最善の医療を実施する必要があります」。このあと「必要です」というところが、「決 定内容を説明し十分に理解してもらうよう努める必要があります」という形の手直しを しています。以上です。 ○樋口座長 ということですが、現在のガイドライン(案)及び解説編(案)について、 全体としてご意見をいただこうと思いますが、いかがでしょうか。 ○岩渕委員 細かい所ですが、7頁の削除した「等」というところです。医療従事者等 の「等」というのは、マスコミは大嫌いで役所は必ず付けるのですが、これについては 私は逆な感じがしないでもない。と申しますのは、チーム医療の中で、最近いろいろな 形で、特にがんの終末期医療などでは、宗教者が関与してくるケースが非常に多くなっ ております。そういうことも勘案しますと、ここはある意味で「等」があったほうがい いのではないかと思われます。  もう一点は、これもまた細かい表現ですが、「ですます」調できている中で、最後の ところへ行くと、突然「である」調になっている部分がありますので、その辺は最後の ところで微調整、修正したほうがいいのではないかと思います。 ○樋口座長 いまの岩渕委員のあとのほうの指摘の部分はわかりましたか。 ○岩渕委員 最後のところが「である」調になっていましたね。 ○樋口座長 しかし、これはガイドラインの本文は「である」調にして、解説のほうは 柔らかく「ですます」調にしているという区分なのです。 ○岩渕委員 すみません、訳もわからず言っていますが、9頁の(3)「多専門職種から なる委員会の設置」で、最後は「必要である」という形になっていますが、ここはどち らですか。 ○樋口座長 本文です。 ○大井委員 後ろのところが「ですます」調で、本文が「で ある」調です。 ○保健医療技術調整官 すみません。これは見にくくなって申し訳ありません。本文を 太字にすればよかったのですが。 ○樋口座長 色を変えたりとか、そうですね。最初の岩渕委員のご指摘については、い かがですか。 ○保健医療技術調整官 書き方はいろいろありますが、いまの書き方では、ある程度あ えて範囲を絞るような書きぶりをしています。例えば、ソーシャル・ワーカーについて は、あえて入るのだという注書きまで入れて示しておりますので、もし「等」という形 で少し幅広いチームのあり方にするということであれば、私どもは書きようはあります ので、そこはむしろ皆様方のお考えをお聞きした上で考えたいと思います。 ○谷野委員 私は前回休んだのでわかりませんが、ソーシャル・ワーカーという固有名 詞が急にここに入ってきているわけです。全部が全部ではないでしょうが、例えば、 ソーシャル・ワーカーを入れるのであれば、医療心理士とか、先ほど言われた宗教家ま で入るといろいろな方々が入らなければならないことになるので、ソーシャル・ワー カーというのも、あえてここで強調すると、かなり強迫的なものになるのではないかな と。ただ、ソーシャル・ワーカーというのなら、医療心理士も含めて、かなりの医療現 場で心理士が入っていますよね。これはあってもなくてもいいのですが、そうすれば 「等」で括ったほうが、あまり固有名詞をずらずらと並べないほうがいいのではないか と思います。  ソーシャル・ワーカーにしても医療心理士にしても資格化の問題で極めて難儀な世界 ですから、ターミナルケアと資格はあまり関係はないのでしょうが、なかなか難しいと ころですね。ただ、ここにソーシャル・ワーカーが入った意味というのは、どうなのか なと。  例えば、後期高齢者のところでもソーシャル・ワーカーが入って、意見を言っていま すよね。だから、それはそれとしていいことなのでしょうが、ソーシャル・ワーカーだ けがここに入っているというのは、どういう意味があったのかなと思います。 ○田村委員 先回の議論の中で、終末期の方向を選択していくに当たって、その方と家 族、それからその人の社会的な背景の部分、社会的なファクターという部分を、十分に 議論の中に盛り込みながら選択の議論を進めることに意味が大きいのではないかという ところで、この呼称が入ったと私は自身は理解しております。  記述の部分ですが、中黒は要らなくて、1つで「ソーシャルワーカー」という名称か なと思います。  もう少し加えてですが、終末期の部分では資格というのはあれですが、呼称として 「ソーシャルワーカー(社会福祉士)」というのがわかりやすいというか、現実を伝え る言葉になっています。1つを入れることが強迫的と言われましたが、基本的にガイド ラインですので、こういうことを含めて、このようなことが必要ではないかというもの を1つ示すという意味で、強迫的というよりは、そういうファクターの意味を伝える意 味で入れていただけたらと考えます。 ○樋口座長 8頁の*注6をご覧ください。これはなぜソーシャル・ワーカーというか、 ソーシャル・ワーカーというのは、わりに早めのときからずっと入っている言葉なので すが、ソーシャル・ワーカーは例示なのです。*注6ですが、「人が終末期を迎える際 には、疼痛緩和ばかりでなく、他の種類の精神的・社会的問題も発生します」。「可能 であれば」というのを入れておいて、「医療・ケアチームには、ソーシャル・ワーカー など、社会的な側面に配慮する人が参加することが望まれます」ということなので、ま ずソーシャル・ワーカーを入れないとチームはできないのかと、そんなことは誰もはっ きり明示していないということですし、逆にソーシャル・ワーカーは入れるが、ほかは 入れないということでもないのです。岩渕委員がおっしゃるように、それをもう少しぼ やかして「等」という形にしておいたほうが柔軟な対応が医療現場でできるようになる のかどうかという判断だと思います。趣旨は全く一緒のことなので、できる範囲でチー ムを作る。厳密な意味での医療従事者だけでチームができる場合もあって、それはそれ で仕方のないことで、医療の現場に照らして、できるだけ、しかし1人ではなくて、 チーム医療を少しでも広げていこうという発想です。 ○谷野委員 いま言われたのに1つ誤りがあるのは、「ソーシャル・ワーカー(社会福 祉士)」ではありません。ソーシャル・ワーカーというのは、医療ソーシャル・ワー カーと精神保健福祉士があるだけであって、私はここでは広い意味での医療ソーシャ ル・ワーカーだと思っています。この経緯を言うと長くなりますから言いませんが、医 療ソーシャル・ワーカーというのは、残念ながら資格化に遅れたのですが、現場として は、医療ソーシャル・ワーカーとしてトータルでソーシャル・ワーカーと言ったほうが いいので、医療ソーシャル・ワーカー、イコール社会福祉士というのは誤りですね。社 会福祉士というのはほかの国家資格があるわけですから、そういう認識ではないのだろ う思います。いわゆるソーシャル・ワーカーです。 ○田村委員 議論がずれると、それはまたの機会にと思いますが、社会福祉士のカリ キュラムの部分でも動いておりまして、医療ソーシャル・ワーカーの職業団体である医 療社会事業協会としては、社会福祉士と精神社会福祉士が医療ソーシャル・ワーカーで あると押さえてやっております。社会福祉士が医療における社会福祉の1つの資格であ り、医療ソーシャルワーカーが別の国家資格を求めるということはしておりませんので、 その辺も主論ではありませんが、申し添えます。 ○樋口座長 「等」のところへ戻ろうと思いますが、いかかでしょうか。 ○日野委員 資格の問題というのは、どうしてもこの文言から出てくると思います。で すから、それを和げる意味でも「等」は入れたほうが穏やかでいいと思います。これ以 外にも非常に特殊なケースですが、深く信仰している宗教などがある場合、その関係者 が、むしろソーシャル・ワーカーよりも強力な役割を果たすという例はたくさんありま すから、「等」という言葉が入っていれば、それも全部カバーできるのではないかと思 います。 ○大井委員 それは、私はあまり賛成できません。というのは、医療従事者という言葉 がある特定の者を指しているわけではなく、医療従事者そのものが非常に漠然とした 「等」を含んでいるのです。第1回のときに私が主張したのですが、終末期を考えるの はダイイング・ペイシェントを考えることで、そうすると、1に患者本人、2にファミ リー、3がコミュニティとか周りで、その上で医療チームということになれば、ここで 言うのは医療チームとしての医療従事者だと思ったのです。当然そのほかの地域社会や 宗教家なども終末期になればかかわるでしょう。しかし、ここで言いたかったのは、座 長が言われたように、チーム医療として、医療人の中にそういう決定機関を作ってほし いという意味だったと思います。それをあまり広げてしまったら、チーム医療とは何ぞ やという原点に戻ってしまい、堂々巡りをしてしまうのではないかというのを恐れるの ですが、いかがでしょうか。 ○永池委員 私の意見を申し上げたいと思います。原文の○の1には「等」を削除し、 注釈のほうに、「例えば」といったところで、このような修正はどうかなと思います。 つまり、こちらに「等」を入れるということです。「なお、6にあるような医療・ケア チームに、例えばソーシャル・ワーカーが加わる場合、ソーシャル・ワーカー等は直接 医療を提供するわけではありませんが、医療サービスを構成する医療チームとして、こ こでは医療従事者に含みうる意味で用いています」というような表現はいかがでしょう か。 ○樋口座長 これ結局表現ぶりなのです。本当は皆さんのご意見の中核は変わっていな く、どういう形で表現していくのがいちばん誤解がないかということだと思います。い まのは1つの案だと思います。 ○宝住委員 私は「医療従事者等」と入れて、ソーシャル・ワーカー云々などをみんな 外したらいかがかと思います。というのは、そのような状況になったときには、大井委 員が言われたように、「医療従事者等」と書くと広がってしまうし、広がらなくても、 そのように書いておけばケース・バイ・ケースで必要と医療チームが認めたら、宗教者 でも誰でも、いちばん患者にとって楽になる状況の人を医療チームに入れられることに なるから、そのほうがいいのではないかと思います。 ○樋口座長 どうですかね。 ○保健医療技術調整官 ご意見はある程度収斂しているような感じがします。規定とし ては、かなり医療従事者に近い部分で規定しておいて、ケースによってはいろいろな方 が入ってくる余地があるのだというニュアンスだったらいいのではないかと思います。 ○川島委員 もともとは医師が独断で先行しないようにするという非常に重要な点があ りますので、ある程度幅広いということをちゃんとわかるように表現していただくこと が大事だと思います。そうすると、ソーシャル・ワーカー等の部分も、ソーシャル・ ワーカーを入れてもいいし、医療従事者のところに「等」を入れたほうがいいのではな いかと考えます。 ○樋口座長 いちばん初めの案は「等」が入っていたものを、ソーシャル・ワーカーと それ以外の人を全部「等」という形でやっていくのかどうかという話で、そう言われて みれば、*注3の尚書きも何だかという尚書きです。この場合は「ソーシャル・ワー カーは医療従事者です」と言っても、厳密な意味で医療従事者ではないわけですから、 そう考えると、岩渕委員が言われるように、いちばん初めに戻したほうが素直かもしれ ませんね。 ○大井委員 私は、いまのはそれでよろしいと思います。それに関連することで、この ガイドラインを読んで、非常に引っ掛かったことがあります。それは前回も盛んに主張 したのですが、注ではなくて、7頁の○の2の項目と*注2、3辺りに引っ掛かる事柄で す。私がどうしても疑問に思うのは、終末期の判断は誰がするのかと終末期医療の判断 は誰がするのかがごっちゃになっているということです。そのことは前回も強く主張し たはずですが、終末期の判断というのは、○の2の文章ですと、医療・ケアチームが判 断することになってしまうのです。医療・ケアチームが判断するのは終末期医療選択の 判断ではないでしょうか。終末期を判断するのは医師の責任だと思います。終末期の判 断と終末期医療選択の判断が混在していることが非常にわかりにくくしている。それが 問題を不明確にしていると思ったのです。  先ほどの「医療従事者等」の話もそうなのですが、「等」を入れることに決まったよ うですから、それはそれで結構なのですが、そのところはきちんと区別しておいたほう がいいと思います。  *注2の表現ですが、何がいちばんわかりにくいかというと、2段目に「医学的妥当性 と適切性を基に云々」と書いてあります。では、医学的妥当性と適切性を基にという、 それを判断しているのは誰なのでしょうか。もしチームが、そのことを判断するのなら、 「医学的妥当性と適切性を基に」というのは、「医療・ケアチームにとって」の次に入 るべき言葉だと思います。あるいは「医学的妥当性と適切性につき、判断する」という ことで「基に」という言葉ではなくなるはずです。「基に」とするからには、誰かがあ らかじめ決める必要があると私は思ったのです。ですから、終末期の判断責任と終末期 医療の選択責任は明確にしておいたほうがいいのではないか、というのが私の意見です。 それで○の2の表現をご検討いただければと思います。  医療・ケアチームが終末期であることも終末期医療の選択も全部判断するのだと言わ れれば、わからないわけではないのです。もしそうだとしたら、「医学的妥当性と適切 性を基に」という文章を後ろにしたほうがわかりやすいと考えます。 ○木村委員 いま大井委員が言われたような終末期医療と終末期の判断というところで、 一体どこから終末期になるかというのが前回も問題になったと思います。大井委員は終 末期がいつであるかについては医師が判断すべきというご意見ですが、私は医師ではな くて医療・ケアチームがみんなで判断すべきだと思います。どこから終末期が始まって いるかということが、終末期医療でどうするかということの根本ですから、「ここから 終末期だよ」と医師が決めてしまって、どうしましょうという話し合いを始めるのも変 な話で、どこからが終末期であるということは、いちばん重要なことだと思います。  終末期のガイドライン選定委員会では、終末期というものはどんなものか、どんなも のが終末期にあり得るのか。座長も言われたように、いろいろな終末期があると思いま すし、いろいろなケースが考えられると思います。そういうことに関して、もう少し議 論を深めていく必要があるのではないかと思います。ですから、どういうところが終末 期でやるかの判断が非常に難しくて、これはやはりケアチームでやらなければいけない と思いますし、それより厚生労働省が国として、こういう終末期があって、こういう終 末期もあるのだということについて、議論を深めておいて、いろいろな終末期があるこ とをみんなで話し合っておく必要があるのではないか。医療・ケアチームだけに判断を 任せること自体も非常に危険だという感じがしないでもありません。  もちろん終末期はどこから始まるのかということは決められませんが、いろいろな ケースについて、各会で終末期について、もっときちんと議論を深めていく必要がある と考えています。これは私の個人的な意見ではなく、全日本病院協会の意見です。 ○ 樋口座長 意見書がちゃんと添付してありますので。 ○保健医療技術調整官 少し戻りますが、7頁の*注2を見ますと、どのような状態が終 末期かについては、医療・ケアチームが適切、かつ妥当な判断によるべき事柄です、と いう形で、ケアチームがやるというように、このガイドラインでは整理をしています。 ○大井委員 それに反対するわけではありません。医師は万能ではありませんし、全部 わかるわけではないのです。最初から言っているように、救急医療などは全然わからな いし、過ぎてみて「あのときからだったのだ」というのがわかることはCPCでもしょっ ちゅうです。ですから、終末期などというのを断定してまって手を抜くようなことに なってはいけないので、本来は助かるかもしれないということも踏まえて、それは医師 の独断で決めろとは言っていないのです。ただし、そういう問題が起こったときにチー ムとして対応していくのは、みんなで議論し合っていくのでしょうが、最初に投げかけ ていくのは医師の責任だろうと思ったのです。  そういう意味でいうと、わかりやすい文章は、2段目の「医療行為の中止等は、多専 門職種の医学従事者から構成される医療・ケアチームによって医学的妥当性と適切性を 基に慎重に判断すべきだ」というのを主張したのです。もしチームということを強く謳 い込むのでしたら、そのほうが明確になるだろうと主張したのです。 ○樋口座長 それは本当におっしゃるとおりではないでしょうか。そういう趣旨で書い たつもりなので、それがもっとはっきりわかるような形でということです。医療・ケア チームの中に、医療従事者以外の人がどんどん入ってきて、医療的判断がなくなるとい うのは現実にはあり得ないことで、ということは言わずもがなかもしれませんが、医 療・ケアチームの中心に医療従事者がいるのは当たり前で、終末期というのはもう少し 多様な問題があるので、当該の終末期を迎えている人が、どういう環境、どういう人生 を迎え、どういう人なのかということによるわけです。その人の関係者、その他で人的 資源、是非ともこういう人にも加わって判断してもらったほうがいいという話があれば、 医療・ケアチームの中へ入れ込むこともあり得べきですが、何しろ難しいチームを作っ て何かということを、ここで要求しているわけではないのです。それは医療現場にあま り過重な負担を強いるのも、かえって逆効果になって、結局プロセスが動かないことに もなりかねないと思います。 ○谷野委員 医療現場におけるチーム医療というのは、今もそうかどうかわかりません が、アメリカでさえ医療におけるチーム医療のチームリーダーは医師なのです。ですか ら、医師の責任が重すぎるというわけではなくて、チームリーダーを1つ置いておかな いとまとまりようがないわけで、最終的なチームリーダーは医師ということです。その 医師にあまりにも負担がかかって、法的責任が云々ということになれば、また別問題で すが、やはりチームリーダーということを明記しておかないと、多職種におけるケア チームによって慎重に判断する。ケアチームにいろいろな意見があって分かれた場合は、 誰が最終責任を持って、それをまとめるかということについては、どのように考えたら いいですか。 ○樋口座長 それは先回も議論があったところです。いまの点は2つありますが、*注4 の最後に、医療当事者間の法的責任のあり方を変えようというわけではなく、いま言わ れたことは、あまりにも当然のことなので書いてありません。法的責任として医師が、 この指針ができたから法的責任は軽くなるなどという話ではないわけです。  医師だけではなく、医療・ケアチームに加わって、何らかの決定に加わった人は専門 家としての責任を負っていることは言うまでもありません。その中で意見が一致しない 場合は、最後のほうの、多職種、多専門職種からなる委員会へ持っていくほかないので す。倫理委員会と呼ばれるかもしれませんが、何でもそういう所へ持っていかないとい けないという話ではないということをここでは言っているわけです。チームの中で、ま ずこの患者のためには何をしたらいいかについて意見の一致を見るように努力してくだ さいということを申し上げているだけで、責任関係が医師から何だかんだという話をこ こではやらないということなのです。つまり、変更はしないということです。 ○谷野委員 責任ではなくて、最終的なチームリーダーというのは、法的云々ではなく、 どうあるべきかということについては、あえて触れなくていいのですか。 ○川島委員 あえて触れなくていいと思います。まず大事なのはプロセスを重視すると いうことであって、この前も同じことを言ったのですが、特に医師は原因があれば結果 を導き出して、必ず結果を求めることを要求される。そのために今までいろいろな不手 際があったりしたわけで、なるべくそれを性急にしない。なるべく多い人数、多職種に よってじっくり考えながら、そのプロセスを何度も何度も繰り返して、あるときには1 つの結果が出るかもしれないが、次の日にはまた肉体的な変化が生じて、またもう一度 考え直さなければいけないということがいつも出てくるわけです。そこに何かの結果を 早急に見付ける方向になるべくならないようにする。しかし、どこかで決定するわけで すが、そのときには全員で決定したことに対して、よかったと思えるような形を作って いく。このことにおいてピラミッドのようなトップを持っていくというのは、あえてし ないほうがかえっていいと思います。 ○樋口座長 そういう発想なのですね。リーダーと明示すると、リーダー任せになって しまうおそれすらあると。 ○宝住委員 終末期で判断に困る場合というのはしょっちゅうあるわけではなくて、大 部分のときは一致していると思います。本当に困る場合は誰でも困るわけです。そうい うときに、チームリーダーと言って、まとまらないときに医師が無理に決めれば、いま までと何も変わらない、医師が独断で決めたのと同じような結果になるので、私は川島 委員が言われたことに賛成です。 ○川島委員 決まらないときは判断停止なので、そのまま今の状態を保つのです。そこ がいちばん大事なのです。そこを早急に決めてしまったから、いろいろ問題が起こった のです。 ○樋口座長 倫理委員会という名称は作ってないのですが、そちらのほうへやむを得ず 行く場合も、そこで決めてしまうということははっきり否定していますので、そこで医 療従事者が中心の別種の専門家、医療・ケアチームと別の人たちが集まって、客観的に 何らかの判断をする。その中には本当に医療従事者等で、それこそ宗教家が入ったり、 法律家が入ったりするかもしれませんが、そういう人たちで、この場合はこうではない かという助言・勧告をいただいて、この医療・ケアチームで合意に至るよう、頭をクー ルにしてもう一回考えていただくという、ここへまた戻ってくるというだけの話なので す。とにかくあくまでも合意が形成されて、慎重にやっていくべき事柄であり、もちろ んいちばん基本には、患者本人の願い、希望が中心になっているという構造なのです。 ○谷野委員 これでやめますが、ピラミッドというのは良くないと思います。だから、 私は医師の独断専行などとは全然言っていないので、それだけは誤解を避けたいと思い ます。 ○樋口座長 本当によくわかるのです。実際の現場で誰がこういうチームというのを作 ろうと言い出すのかといえば、普通の場合は大井委員も言われたように、担当医である ことが普通だと思います。  それから今日入れていただいたのですが、終末期だからというので、いきなりチーム を作るのではなく、本当はチーム医療というのは、もっと前から始まっているべきもの ですから、その継続の中で、この患者はいよいよ末期を迎えた状態になったので、この あとどういう形で遇していくのがいちばんいいかという話を持ってくるのは、普通の場 合は医師からだろうということですが、もちろん担当の看護師が声を掛けていただく場 合も十分あり得ると思います。  いまの議論はどういう形で集約したのかというのはよろしいのですか。まず7頁の○ の2は、大井委員のご意見のような形で何とか直す。○の1は医療従事者等を入れる代 わりに、*注3で、ソーシャル・ワーカーも含みうるという話は、表現を何らかの形で 変える必要がありますね。ソーシャル・ワーカーに触れることがあるとしても、これを 全部削除するか、削除までする必要はなく、「例えば」という形で入れておくかとだと 思います。 ○沖野委員 「等」問題についてですが、念のため確認させていただきたいという趣旨 で申し上げます。私自身はこれに「等」を入れたほうがいいのかどうかについて、全く 定見はありません。内容的にはそうも変わりはないのかなと思っています。ただ、この ガイドライン及び説明で、「医療従事者」という表現は各所に出てきます。いま○の1 に「等」を入れるということでしたが、○の1の医療従事者だけでも1行目と2行目にそ れぞれありますので、それぞれに「等」を入れるのか、入れないのか。解説においても 医療従事者というのはかなり出てきます。「等」を入れるということは、医療従事者と いう概念自体はかなり中核的な厳密な意味で使う、そのように限定された表現として使 い、それに加えて、例えばソーシャル・ワーカーという少し広がった意味で使うときに は「等」を入れた形で使うことになりますので、概念整理が必要になってきます。それ ぞれの所で、これは「等」を入れるのか入れないのかというチェックをした上で書く必 要がありますので、そこをご留意いただければと思います。 ○樋口座長 本当にそうですね。 ○大井委員 「等」を入れるのは変だと私も思っていたのです。 ○樋口座長 そういうこともあって外してしまったのです。 ○大井委員 そうしないと、そこら中に入れていくことになりますね。 ○樋口座長 文脈の点で全部入れないとおかしいでしょう。しかし、一つひとつ検討す れば何とかなりますかな。ここは「等」を入れて、ここは「等」は入れないというのは、 ちょっと苦しいですか。一つひとつ検討してみないとわかりませんか。 ○保健医療技術調整官 いまご議論いただいたのは、医療従事者を中核にして、少し幅 の広い部分があるので、「等」を入れるかどうかという議論があったと思うのです。確 かに表現ぶりは注釈を付けておりますので、例えば医療従事者と言っても、ここの医療 従事者はこういう考え方なのだみたいなことの注釈を入れていけば、本当は「等」がな くても整理ができるのかというところは実はあるのです。 ○樋口座長 そうですね、*注3で入れているのは、ケアチームの構成のところだけは ということなので、これは概念の整理の仕方としてははっきりしているのか、誤解はな いということです。 ○保健医療技術調整官 むしろ「等」を入れた部分だけ、「等」については、特にこう いう意味なのだという処理の仕方はできるのかもしれません。 ○樋口座長 文章表現というのはなかなか難しいですよね。 ○木村委員 7頁の*注4の最後に「法的側面については引き続き検討していく必要があ ります」と書いてあって、そういう問題があることを認識しろということだったのです が、今回のこの検討会はここまでということでした。それはそれでいいのですが、引き 続き検討していく必要があるということについて、具体的にどのように今後やっていく かということですね。必要がありますというだけで終わってしまっていいのかどうか。 「ということについて検討していきます」とするのか。もっと進めるべきだと思います。  何が現場で困っているかといったら、ガイドラインとしてはこれでいいのですが、そ れを実際に運用するに当たって、一体法的責任はどうなのかということです。それが はっきりしていないと現場の人間としては運用できない。ガイドラインとしてのチーム を作って、どうしましょうとなって、その人についてはかわいそうだから、人工呼吸器 は外すかどうかとなって、外すほうがこの人にとってはいいとなったときに、「外しま しょう」となっても、全然やることはできないとか、いろいろな問題が出てくるのです。 運用できません。  救急医学会でもガイドラインを出していますが、結局は同じようなこういう手続論で 終わってしまい、運用できないという面があるのです。それをきちんと運用していく、 現場の人たちが困らないように、現場の人たちがこのガイドラインに沿って、どう考え ていったら、このようにできるということを使えるようにするためには法的な側面は無 視できない問題だと思います。  今回はこれでということでもいいのですが、その先どうするかということは、例えば 最後のほうに付記でもいいですし、本文ではなくていもいいから、どこかにきちんと今 後のことについて書いておくなり、何かしておく必要があるのではないかと考えていま す。これで終わらせてはいけません。 ○保健医療技術調整官 1回目の検討会のときにご紹介したのですが、終末期の検討に ついては引き続き検討する準備を進めており、実際に平成19年度も調査検討会という形 で予算を組んであります。  もちろんどういう内容で検討するかについては、まだ議論の余地がありますので、具 体的にこういう内容になりますというところまではお話できませんが、そういう中でも 取り上げていかなければいけない問題だと思います。  1点ご理解いただきたいのは、もちろんそちらはそちらで過去の経緯でいえば、比較 的長い期間をもって検討する検討会なのですが、物事が難しいのは難しい問題ですので、 こちらでどこまでできるかについては、今のところはまだわかりません。 ○木村委員 それはどこかにきちんと書いておく必要があるだろう。「検討する必要が あります」ではなくて、やりますということを。 ○保健医療技術調整官 実はこのような書きぶりで、それがある程度言えているかなと いうところはあったのですが、工夫させていただきます。 ○樋口座長 これ以上の書きぶりはないような感じも私などはするのですが。 ○木村委員 ここはこれでもいいのですが、本文と別に最後のほうに追加でもいいです から、何らかの形できちんと書いておくということです。 ○樋口座長 そうですね、なるほど。ありがとうございました。ほかにはいかがでしょ うか。 ○永池委員 *注2に、チーム形成をするときに「時間のないような緊急時には、生命 の尊重を基本として」ということを入れていただいたのは、とても意義あることだと 思っています。生命の尊重の基本ということを、もう1カ所入れていただきたいという 提案を申し上げたいので、皆様でご検討いただければと思います。  それはどこかといいますと、9頁の「患者の意思の確認ができない場合」という1行目 のパラグラフ辺りです。患者の意思を推定できない場合というのは、最初から意思が決 定できない人とか、意思の疎通が図れない人、困難な人、例えば身体的・精神的障害者 の人たちの場合がいちばん問題かと思います。  こういう状況を考えますと、独断といいますか、ある主の経済的な負担の軽減のため にとか、かわいそうだからとか、見ている人はかわいそうかもしれないのですけれども、 そういう意思の疎通ができない人たちが、本当にこうあることがかわいそうなのかさえ も推定できないような状況を考えますと、やはりこの中にも、例えば「患者の意思確認 ができない場合には、生命の尊重を基本として」というような文言を入れていただけな いかと思います。その件はいかがでしょうか。 ○川島委員 そこに入れるのは非常にいいと思います。意識がなく、人工呼吸器を付け ている方の場合は、もう苦痛がない状態なので本来は積極的安楽死の要件にも入らない ものなのに、それさえも呼吸器を外してしまうということが、医者の間で当然ではない のですけれども、あまり重大なことだと思われていない、という非常に危ない状況があ ります。意思の確認ができないような場合には、生命の尊重を基本にする、ということ を1つ入れておくというのは非常に大事なことだと思います。 ○大井委員 そこに行ったら意見を言おうと思っていたのですが、7頁は終わったので9 頁の○の2のところはちょっと異論があります。先ほども言ったのですが、ダイイン グ・ペイシェントにとって、1は患者です。基本的にその次はファミリーだろう、とい う同意を第1回のときにしたはずなのです。コミュニティとか地域社会ということは別 にしても、その基本線に沿って、当然、患者第1、その次は家族という話になってきま す。  この○の2に関して言うならば、患者にとって何が最善であるかについて、「家族の 判断を参考にして」というのは弱いと思いました。これは逆で、患者にとって何が最善 の治療方針であるかを「家族と話し合い、家族の合意を得ること」が基本線だと思った のです。家族の合意が得られないとか、いない場合が○の3になるのだろうと思ったの です。そこに「生命の尊厳」という言葉を入れるのは反対しません。しかし、もし言う のならば「家族と話し合い、家族の合意を得ること」に医療チームは努めることが先か と。 ○樋口座長 *注11を。 ○大井委員 そこに書いてあります。*注11と抵触してしまうので、そういう表現にし たほうがいいのではないかと感じたのですが、いかがでしょうか。 ○川島委員 このプロセスのあり方の文言の中には、意思の決定ということはいっぱい 出てくるのですけれども、実は、それは専門的な医学的検討を踏まえた上でという、つ まり身体的状況を正しく医者が判断していますよね、というところから始まるのです。  例えば、緩和医療を十分にやっていなくて、痛いというのを、これはかわいそうだか らと。つまり、専門的な医学的検討を医者が十分にしないで呼吸器を外したりする、と いうことに転嫁してしまうことをいちばん恐れているわけです。当然、専門的な医学的 検討を踏まえた上で、そこから患者の意思確認や、患者が意思疎通できなかったら、家 族の意思確認や、というふうになっていくわけです。  そこのところを、「十分生命の尊重を基本として」という言葉を入れておかないと、 ああ、意思確認したからいいんだ、と短絡的に行動されるのは非常にまずいと思います のでこれは入れておいたほうがいい。  本来であれば、患者の意思の確認ができる場合、その後の、患者の意思の確認ができ ない場合の前に、特に患者の意思の確認ができる場合のところの○の1に「専門的な医 学的検討を踏まえたうえで」という、ただ1行こんな文言がありますが、ここにはもう 少し重みを付けて、きちんと医者が十分な緩和ケアとか、医療的検討とか、患者の身体 状況を正しく判断したうえでとか、そういうものが本当は入っていないといけないのか と思います。いずれにしても、「生命の尊重を基本として」という文言は、先ほどのと ころには付けておいたほうがいいと思います。 ○樋口座長 これは非常に難しいところなので、いろいろご意見を伺いたいと思います。 ○日野委員 いまの「生命の尊重」という言葉は、医療を行う者はいつも思っているこ とであって、いまさら文言として書く必要はないと思います。先生がおっしゃるような、 一旦人工呼吸器を付ければ、絶対に外してはいけないということを意味するのであれば、 それもちょっと問題です。  今回のこのレベルで、そこまで踏み込んで論議する時間もないし、まとめる内容とし てはかなり踏み込みすぎだと思います。とりわけそういう文言をここに挿入する必要は ないと思います。 ○岩渕委員 その前段の「生命の尊重を基本に」というのは、確かにご指摘のようにさ まざま懸念される状況もあると思いますので、入れることがそれほど大きなマイナスあ るいは障害にならなければ入れておいたほうがいいのかと思います。  ただし、大井委員がおっしゃったように、「家族と話し合い、合意を得る」というの も、そのようにしたほうがいいのではないか。それで、前後の齟齬を来さなければ、そ のほうが望ましい表現であろうと思います。 ○土屋委員 個別のところにそれを入れるのかそういうことを総括的に、例えば6頁の このガイドラインの基本的な考え方は次のとおりですよ、というところには生命の尊重 だとかそういう話が書いていない。当たり前とはいえ、そういうところの総括的なとこ ろに入れておく、あるいは3)のところで、意思決定については「医療行為の開始・不 開始、医療内容の変更、医療行為の中止」というのは、オンとオフの話ばかりが出てい ます。  そこで例えば大事な、医学的な妥当性とか適切性というものがまさにあって、それで 患者が判断するというときに、それを表のところに書いておくやり方もあるのではない かという気がするのですがいかがでしょうか。 ○樋口座長 これは受け入れてもらえないかもしれませんが*注11、つまりこのガイド ラインの本文は、大井委員が言うように、このガイドラインの趣旨を注も含めて、解説 も含めて読めばそういうことだとわかるのだから、逆に本文の○の2がいま問題になっ ているわけです。患者の意思がわからない場合、家族はいるという場合には、その家族 の判断を参考にして、というのがちょっと弱すぎるのではないかと。  それを*注11で見ると、あるいは土屋委員がおっしゃってくれたように、いちばん初 めのガイドラインの趣旨のところを読めば、とにかくみんなで合意をして、合意を形成 するプロセスこそが、まさにこの患者のために何がいいかということをみんなで話し 合っている、という状態がいちばんいいわけです。みんなで心配しているという、そう いう仕組みを作ろうということなので、それをガイドライン本文のところではっきりし たほうがいいというご趣旨だと思うのです。  *注11だけではちょっと不十分でしょうか。*注11で、例えば永池委員がおっしゃる ようなことがもしあるとしたら、*注11で「患者の意思決定が確認できない場合には、 家族の役割は一層重要になります。その場合にも、患者が何を望むかを基本とし、それ がどうしてもわからない場合には、生命の尊重を基本として、患者の最善の利益が何で あるかについて、家族と医療ケア・チームが十分に話し合い、合意を形成することが必 要です」というので、そこへ1フレーズ入れるような程度では不十分かどうかというこ とをお聞きします。  注のところで入れている趣旨は、いま自分に問いかけているのですが、どうしてこれ にこだわっているかというと、現場では絶対に家族と医療者が対立しているのに、医療 者がプラグを外すなどというのは論外なので、そんなことはあり得ないことでもあるけ れども、当然あってもいけないことです。  しかし、このガイドライン本文のところで、本人が完全にわからない場合になってい て、家族と医療者の合意という形のことを明記する、その家族というものがまたさまざ までもあるので、どうなのだろうかと思ってみたということなのです。これは、法律の ものではないと言いながらですが、佐伯委員はいかがですか。 ○佐伯委員 たぶん法律家的な感想なのだと思いますけれども、ガイドライン本文はま ず患者の意思が基本であり、患者の意思がわからない場合には、患者の最善の治療方針 を基本とするという原則を示していて、ただ、それをどうやって知るかという場合に、 当然現場では家族の意思が非常に重要な役割を持っている、という注記になっているの だと思います。したがって、ガイドラインを変えてしまうと、基本が家族の意思である ような読まれ方をしてしまうおそれがあるという点で、やはりこのままのほうが望まし いかと思います。 ○田村委員 患者が、意思決定の代行者は家族のその人である、というふうに決定した 場合は、本人の意思がわからなくなってもその代行者の意向を実現するというところで、 家族の意思というところでいいのですが、先ほどの話ではないですけれども、いろいろ な社会的背景から、医療者が最善だと思うことと、家族が違うことを希望してくると いったときに、座長がおっしゃった、審議をして最善が何か、というプロセスがとても 大切になるというところを押さえるガイドラインがいま最も求められると思うのです。  そのプロセスがあるから出てきた、先ほど来の議論ですけれども、停止して、また審 議をしてというプロセスがあるから、決定に対してそれぞれかかわった者の納得という か、これが最善だったのではないかという思いに近づくわけです。そういう意味合いで、 いまの家族というところの言葉は読めると思います。 ○樋口座長 なかなか難しいのですけれども、つまり大井委員もいちばん最初におっ しゃっているように、登場人物として、まず患者本人がいる、その周りを取り巻いてく れる医療者チームがいる、そのほかにもちろん家族がいるわけですが、その順番はあれ なのですけれども。  いちばんいいのは、これはプロセスなので、みんながよかれと思うところで一致でき るということがいちばんよくて、そういう状態を実現するのがいちばんいいのだという ことです。そのプロセスの中で、完全に本人が駄目になっているような場合に、家族と 医療者が完全に対等みたいなことではないのではないかと思うのです。家族がさまざま だということもあるので、その場合に医療者が最善の治療方針というのは、まず医療上 の判断があって、家族と相談するという順番になるのかと思うのです。  いま田村委員がおっしゃったように、本人がこの特定の家族に代行判断を全部委ねて、 というような状態があれば、この人は完全に本人の代わりという話になると思うのです。 そうでないようなケースをここでは全部含んでいるものですから、そうするとこういう 形で、しかし注のところでは。すごく曖昧な形で申し訳ないのですが。  2点あるので、もう一回議論の整理をすると、9頁の(2)○の2のところで、患者の 意思を推定できない場合、患者の意思が全然わからない場合にどうするかというと、ベ スト・インタレスト・ファーストというのでやるほかないのだろうと思います。そのと きに、「参考にして」ではなくて、はっきり「家族と合意のうえで」というふうにここ で明記するほうがいいのかというのが1点です。  それから*注11のところで、患者の最善の利益が何であるかについての前に、先ほど 申し上げたように、結局本人の意思がわからない場合ですから、「生命の尊重を基本と して」、あるいは「しつつ」でもいいですが、「患者の最善の利益」という形で、そこ へ「生命の尊重」ということを盛り込んでおくことでいいかどうかという2点です。こ れは別々の論点なのでご意見を伺いたいと思います。 ○大井委員 実は、これは大変重い問題です。東海大学の事件のときは個人の医師が決 定ということなのですが、もしあれが医療チームで決定していたらどうなったのだろう か。家族のほうは強い希望であって、それでああいう措置を取ったということになった わけです。  ここの表現は座長がおっしゃるように非常に微妙なので、どっちに転んでも危ないな と思っていました。「家族の判断を参考にして」というと、判断を参考にしたら、後は どのように決めてもいいよという話になってしまうとまずい。また、家族の合意がなけ ればいけないというか、家族の合意さえ得れば何でもいいということでもまずい。  私は、「生命の尊厳」という言葉を入れるのは賛成なので反対しませんが、患者に とって最善の治療方針をチーム医療で考えて、家族に合意を得ることを基本姿勢とする というのを考えていました。ところが、家族というのは1人ではありませんので、そう なると反対の人もいるし、これも困ったなと。ただこの表現なのですが、「家族の判断 を参考にして」という表現にちょっとこだわっていたのです。そこのところの表現がも う少しうまくできればと考えて意見を出しました。 ○木村委員 家族の判断を参考にして、チームでもって話し合うということになると思 うのです。家族の合意なしに進めることはなかなか難しくなってしまうと思うのです。 実際はそうなのですけれども、この中で「家族の合意」というところが、家族の意思が 重く入ってくるような場合だといろいろ問題点が多くなってくる。なぜかというと、家 族は、医療を受けている当事者でなければ、医療提供側でもないのです。きつい言い方 をすれば第三者なので、本人の苦しみとか医療ということと全く関係ないわけではない ですけれども、それと違う考え方でものを考えてしまう人も出てくるわけです。例えば、 経済的な理由とか、感情的なものだけで考えてしまったりすることが大いにあるので、 その辺は「家族の判断を参考にして」というふうにしておいたほうがいいと思います。  もちろんそれをやるに当たって、家族の合意なしには到底できないことだと思います。 それは、実際には同意を得ることになると思います。ここでは、あくまでケアチームで 何かを判断するということですから、たぶん「生命を尊重」ということと、家族を入れ て、原案の「家族の判断を参考にして」ということでいいのではないかと思います。 ○川島委員 私も、これは本文のほうに入れていたほうがいいのではないかと思います。 「生命の尊重を基本にして」というのを○の2のほうに入れておいたほうがいいのでは ないかと思います。 ○樋口座長 「参考にして、」の次に患者にとっての最善の治療方針は何かという点の 基本は生命の尊重であるから、「生命の尊重を基本として、患者にとっての最善の治療 方針をとることを基本とする」というと、基本が2つになるのでその表現は考えますが、 *注11ではなくてガイドライン本文のほうへということですか。 ○川島委員 本文のほうに入れたほうがいいと思います。 ○樋口座長 いま2つの点は切り離せるということなのですが、それを入れておけば最 初の問題は、つまり大井委員が提起している問題のほうはこのままでもいいとおっしゃ いますか。 ○川島委員 基本的には、いま木村委員が言われたように、家族の判断というのも非常 に難しい場合があると。そうすると意思を根拠に、その人の意思とか、家族の意思を根 拠にすべてが進んでいくところに対して、それと同等に生命が尊重されないといけない というところを少し含んでおいたほうがいいと思います。 ○永池委員 いま、私のほうが皆さんに議論をお願いしている立場なのですが、できま したら本文のほうに「生命の尊重」ということを入れていただき、「家族の判断を参 考」でいいのではないかと思います。その理由ですが、いま現在意思疎通ができない人、 それから意思決定ができない人がいたとします。そういう人たちを家族が支えています、 家族が判断をしました、呼吸器を外してくださいということになり、合意形成をしない、 できなかったのであれば、思考を停止してそのままにするのであればいいのですけれど も、家族が納得したからという形を作り上げて呼吸器を外してしまうような治療の中止 があってはならないかと思います。  あり得ない状況ではないかなと思いますので、その場合には文章の中に「生命の尊 重」と、家族の判断はあくまで参考で、いちばんよい決定は何なのかを医療チームの中 で決定していくのはいかがでしょうか。 ○谷野委員 私も、そのほうがいいと思います。家族とはなんぞやということをきちん と考えないで、家族とはなんぞやというのはいろいろな立場の人が、いろいろな社会学 者なり、いろいろなことを言っています。だから、ここにおいて家族に判断を委ねる場 合は、家族とはなんぞやということをまず定義しないといけないわけですが、それはな かなか難しいです。だから、当面は「参考にし」ぐらいのほうがいいのではなかろうか。  この次の議論として、法的な問題でこれは全部先送りになっていますから、そういう ことを議論する中で、家族とはなんぞやということは議論されてもいいのでしょうけれ ども、ここの中では「参考にし」ぐらいでいいのではないでしょうか。 ○大井委員 別に反対しないのですが、そうすると○の1が「家族が患者の意思を推定 できる場合」というのは、誰が保障しているかというと、誰も保障していません。家族 が、たぶん患者はこういうふうに思っていたはずだと言ったはずなのです。私は、同じ ことではないかと思っていたのです。  これは意外に重いので、慎重にしたほうがいいという意味で、「判断を参考にして」 という言葉に引っかかったのです。それは注の中に説明されていますので、構わないと いえば構わないのですが、注のほうに書かれている事柄と本文のほうは多少齟齬がある と感じたものですから言わせていただきました。これで十分注のほうに入っているから いいということになれば、それはそれで構わないと思いますが、「患者の意思確認がで きない場合」と書きながら、○の1では「家族が患者の意思を推定できる」と決めつけ ている、こういう事柄にも引っかかったのです。終末期のときは、この辺が実際はいち ばん悩ましいのです。本当に使えるガイドラインにするには、その辺がクリアであった ほうがいいのかなと思ったから、意見を出させていただきました。 ○樋口座長 ありがとうございます。重要なご指摘だと思います。 ○佐伯委員 「生命の尊重を基本として」という言葉を入れるかどうかという問題につ いてですが、悩ましくてちょっと考えていました。*注2で、緊急時にこのような文言 を入れるということの意味と、2)の本文の中に入れるというのはかなり意味合いが違 うことです。緊急時については、とりあえず「生命の尊重を基本として、現状を維持す る」という意味で、「後ほど詳しく検討する」という意味はよくわかるのです。  2)のほうで入れるとこれはかなり実態に踏み込んだ判断になると思います。それ自 体私は決して反対ではないのですけれども、プロセスについて定めるというガイドライ ンの趣旨からすると、少し実態に踏み込んでいるかなという気がいたします。実態につ いては今後詳しい検討をするということで、だから、現在はプロセスだけ定めるという ことが1つの考え方です。それまでは「生命の尊重を基本とする」ということもまた1つ の考え方で、いまはどちらがいいのか、私自身ここの考え方に反対ではないということ です。  そうだとすると、プロセスについてのガイドラインということからは、はみ出る部分 があったということの2点申し上げたいと思います。どうもはっきりしない意見で申し 訳ございません。 ○樋口座長 いやいや、一層論点が明確になったような気がします。やはり、このガイ ドラインの性格として、そこまで書いておいたほうが、いろいろな懸念を払拭する上で はいいのかと。それから、大井委員がおっしゃったことと関連するのですけれども、ガ イドラインが示された後、どういう形で医療者の側にこれを伝えるかということで、ガ イドライン本文だけだと、ここでの議論が十分伝わらないです。だから、必ずこの注書 きと一緒に広報していただくような話を何度も確認しておかないと、ここだけだとなか なか意味が取れなくて、注を見るとこういうことなのかと。ここだけだと「参考にし て」という程度の話かなと思うと、現場でやっていることを注のところで確認している のですね、ということがわかるような、そのように考えていくと、注書きのところでも 今回は6回裏だけの整理ということでは誤解がないかなとも思うのです。しかし、本文 に入れておいたほうがいいのかどうか、それは佐伯委員も迷っているところなのですが どうですか。もう少しほかの委員からご意見を伺いたいと思います。 ○川島委員 しつこいようですが、どうしても本人や家族の意思が第1に大事なのです けれども、いままでの問題は意思確認もさることながら、身体状況がきちんと定められ た条件の中にあるかどうかさえもわからないで行動しているという問題がある。これは、 身体状況が変わるごとに、つまり卵と鶏の関係のようなわけで、意思が最初に確認され た、だから次に結果が出てくるということではなくて、また、そこで身体状況が変わっ た場合は、その身体状況を基にして、再度意思確認がされる。この前もお話したように、 螺旋の構造を呈していますので、そういう意思の重要性と同時に、生命の尊重、あるい は身体状況をきちんと把握するということが非常に大事なことになってくると思います ので、私としては本文に入れていただいたほうがいいと思います。 ○田村委員 内容に踏み込むことになるのかもしれないのですが、私も川島委員と同意 見です。例えば、先ほどから具体的な話をすると広がりすぎると思いながらいましたが、 終末期の中でsedationというやり方の最終的な緩和策があります。それについて本人が どんどん苦痛を呈しているように家族には見えているために、早くsedationを希望する ような場合、いまおっしゃった、まさに身体の状態が変化しますので、いまの様子であ ればそれを求める家族と、医療者がそうでないと判断したら、そこの話し合いをまず今 日やりますけれども、夕方になってまた違う状況になったり、その様子を見て家族がま た違う感想を持ったら、またそこでどうするのがいいのかということを朝昼晩とは言い ませんけれども、常に審議をして、家族の意向ももちろん意思ではあるのですけれども、 身体状況としてあとはどんな緩和策があるか、ということを常に医師がそこも判断した 上で審議を繰り返すわけです。  そこのところは、内容に踏み込むといえばそうかもしれませんけれども、身体状況に 合わせてというようなところが当たり前に必要ですので、「生命」の部分を本文に入れ るというのは、内容というよりは、押さえるところが示されていいのではないかと思い ます。 ○日野委員 お話されていることは、非常に挿管されているような状態から常に用意し なければいけないという、本当はそういうときにターミナルと言っていいかどうかとい う大きな問題があります。現実に私はそういう人はターミナルとは無関係で、そういう 人に対して「あなたはいつか死にますよ」などということは言えないわけです。あなた の予後は、目先法的に定められている6カ月というのはちょっと長すぎますけれども、 もう先が見えましたよという段階での問題、これは意識が鮮明なときもあります。意識 が鮮明な場合は、一部のご意見に基づいているがんという疾患、疼痛を伴うがんという 疾患で必ずというか、かなり確実な死期の予測が立つという特殊なケースがあります。  もう1つは、神経難病をはじめとする、もう予後は決まっている、これはがんほど鮮 明でないにしても、予後はわかる。これに対してのターミナルというのを考えるときに、 本人の意思確認もできるし、先ほど出ておりました患者の意思決定をしても揺れ動くか ら、それに対応という話があります。前もって十分予知のできる範囲のことがほとんど ですから、それについても聞いておく。そうすると、余計なことをしなくても済むとい うことがありますので、問題を整理したらいいと思うのです。  我々が扱っていて厄介な、厄介と言うと語弊がありますが、どうしていいかわからな いのは認知症であったり、後から考えると高齢者の老衰と考えられるような疾病、それ に対してどのように対処したらよいかということが問題であって、いまお話されている ようなことについて整理しておくことに越したことはないですけれども、それほど深刻 な問題は近い将来存在しなくなると思います。  今回、いま言いました認知症の問題と、加齢による衰弱死という問題については荷が 重すぎるので省いてもらっても結構です。頭の中で、がんのターミナル、あるいは予後 の決まった神経難病などで代表されるような疾病のターミナルということでしたら、そ れは論議のやり方はかなり明確なものになってくると思います。皆さんバラバラなこと を言っておられて、意見が一致しないということがあるような印象を持ちます。 ○樋口座長 いまのではなくて、先ほど日野委員がおっしゃってくださったことで、医 療にとって生命の尊重というのは本当に当たり前のことなので、それをここで明記する かどうかという点なのだと思うのです。先ほど別のところで沖野委員が話してくださっ たことと同じような筋の話なのですが、○の2のところへ「生命の尊重を基本に」とい うことを入れると、たぶん○の3も必要になる。しかし、○の1はどうなるのだろうと いう話になる。  本当は、ここで医療ケアチームで、まさにプロセスでチームで判断していって、最善 の治療方針をとろうというときに、その最善の治療方針に生命の尊重というのは当たり 前なのですが、組み込まれているというふうに考えていただいたほうが本当はいいよう な気がします。ほかのところは生命の尊重を基本にしなくてもいいのか、という反対解 釈になりそうな感じがあって、その点がちょっと懸念されるのですがいかがですか。そ れは大丈夫なのですか。 ○大井委員 そういう意味では、*注11のところに入れて、患者の最善の利益が何であ るかというのは、いまおっしゃられた生命の尊厳を考えるときのいちばんの拠り所にな るという意味で言えば、先ほどの「判断を参考にして」という言葉を*注1で補うと同 じように、そうしないと○の1、2、3ともみんな「患者にとっての最善の医療」とい うのが出てきますので、そこへみんな「生命の尊厳」を枕言葉のように入れるのは反対 です。 ○佐伯委員 座長がおっしゃられましたように、「生命の尊重を基本とする」というの は当たり前のことですので、特別に書き込むというのは、特別の意味を持たせていると いうことで、私が実態に踏み込むことになると申し上げたのは、書き込んだ部分では、 原則として治療の中止は認められない、という意味合いが入ってこざるを得ない。「生 命の尊重」という意味が、特別の意味を持つと読まれざるを得ないように思います。* 注2の部分は「緊急時」ですので、まさにそのような意味で使われていると私は読んだ のです。 ○岩渕委員 いまの前の部分につきましては、確かにいろいろ皆さんの意見を聞いてみ て、特別な意味を持つことになることがいいことかどうかということも含めて言えば、 確かにないという選択肢はあり得ると思います。  もう1つは、その後ろの「家族の判断を参考に」のところについて言えば、そこの注 釈に懇切丁寧に書いてあるではないかということで、それはそのとおりであります。た だし、この本文に書いてあるのと、注釈に書いてあるところにやや落差がありすぎる。 ですから、皆さんが合意できる最低限度のところで言うと、何が大切であるかについて、 「家族と話し合い」ぐらいだけにしておけば、そこから注釈のほうにすんなりと移行で きる。ここに「判断を参考にして」ということが入ってしまうから、なんだこれはとい うことになって、その後注釈を読めばわかるだろうというのはあまり親切ではないです ね。最低限度みんなが納得できるような表現にしておいて、あとは注釈でということに したほうがいいのではないですか。 ○樋口座長 そうですね、「家族と話し合い」なら合意のところにつながりそうでいい ですね。「生命の尊重」のほうはどうですか。繰り返しませんけれども、私はそれが気 になるのです。あるとしても、永池委員がおっしゃるような、ほかの方も懸念しておら れるような、今度の最初の指針で、ポーンととんでもないところへ行くのではないか、 という懸念は当たっていないと思うのですけれども、現場は現場でいろいろなことがあ り得るから、何らかの形で「生命の尊重」ということをもう少しはっきりさせておきた いという気持はわかります。 ○宝住委員 私は、「生命の尊重を基本にして」と入れるのは最小限でいいと思います。 どういう終末期医療でも、生命の尊重というのは当たり前の話なのです。先ほど永池委 員が言われた、朝昼晩意思が変わるではないかと。症状が動いている場合はこれに該当 しないので、それは最善の治療をするのは当たり前の話なのです。症状が安定して、こ れから先というような場合に、安定してという意味は悪くなるだけという意味でなった わけで、症状が動いているときというのは、なかなかそういう対象にはならないのかと 私は考えています。 ○木村委員 先ほど、私は「生命を尊重して」というのを入れたほうがいいと申し上げ たのは、「家族の判断」というところで、本当にちゃんと判断してくれるかどうかとい うことが心配だったので、やはり「生命を尊重」と入れたほうがいいと考えたのです。 後から伺った意見で、そうすると治療中止ということはあり得なくなってしまうという ことであれば、入れないほうがいいかと思います。 ○佐伯委員 あり得ない、というのはちょっと言いすぎかもしれませんけれども、特別 にこういうふうに書くということは、よほどでなければ認められないという意味を当然 持つように思われます。先ほどから川島委員等からご懸念のあった点は、最善の治療方 針を取ることを基本とするということで読めるのだろうとは思います。  ただ、一般的な懸念として、先ほど座長がおっしゃられたように、こういうガイドラ インを定めることによって、生命軽視の方向に進んでしまうという懸念があるというこ とは私も理解しておりますし、それに対して何らかの歯止めをどこかに置くということ に反対するものでもありません。 ○南委員 私も議論を伺っていて本当に難しい問題で、言語表現の限界だという感じが しています。言葉で記すと、座長がおっしゃいましたように生命の尊重を基にというの が、逆に読まれた場合の懸念ということまで考えなければならなくなりますので、ここ は最低限にして、いままで現状で何度も繰り返されていますけれども、医師が1人で判 断を迫られて暴走せざるを得なくなったり、あるいは家族と称して全くいままで家族ら しいことをしてこなかった人が何かを主張したり、そういう現状に対してこの検討会で 何らかのプロセスをきちんとしようという意味では、*注10とか*注11が丁寧に書かれ ていて、この検討会の役割としてはこの辺りまでなのかなという印象を持ちました。 ○樋口座長 予定の時間がだんだん迫ってきているのですが、これはガイドライン本文 のところにもかかっているものだからどうしようかなという感じなのです。 ○沖野委員 新しい意見ではないのですけれども、結論としては「生命の尊重を基本と して」というのを本文に入れるのはいささか怖いという感じがいたします。あえて、患 者にとっての最善の治療方針を、とりわけ○の2の意思確認が推定的にもできないとい う場合に、「基本として」と入れるということは、そういう拘束をかけて最善の治療方 針を決定するということですから、どういうつもりでそういう拘束をかけているのかと いうことの意味合いが問題となってきて、佐伯委員がおっしゃったように、特別な意味 を持たせて使うということになると思います。その特別な意味を十分に明確化できるか という点については、なお懸念があるように思います。  最初の段階で、弊害がないのであれば、入れていいのではないかというご指摘があっ たのですけれども、弊害はないと本当に言っていいかというのがちょっと不安であると いうところがあります。もちろん、基本的な指針をガイドラインに入れるというのは、 患者の意思尊重が第一であるという点からして、このガイドラインの性格におよそ反す るものではないと思うのですが、ここに入れ込むというのが、なおかなり検討した上で ないと入れ込めないのではないかと思います。本文に入れることには慎重であるべきで はないかと思います。 ○谷野委員 全然別の検討会で、最善の医療といっても、はたして最善の医療とはなん ぞやということが議論になりました。あまり重いテーマを前文には入れないほうがいい のではないか。生命の尊重、最善の医療というのは当たり前のことですけれども、これ を現在の医学において最善の医療というのは、どこでどういうふうに提供されるのかと いうこともあります。だから、なかなか難しい問題だし、大上段にそれを前文に入れな いほうがいいのではないか。別のところでそういう議論が出ました。 ○日野委員 先ほどの現場の混乱の話ですが、最終的な判断が非常に難しいという例と して、がんの疼痛のコントロールが非常にわかりやすいと思います。あくまで生命の尊 重ということになると、いくら苦しんでいても長もちするように投与を控える、という ことを規定してしまうことになると非常に怖いことになりますので、これはあまり強調 してほしくないと思っています。 ○川島委員 それだけに関してですが、緩和医療においては、本人が苦痛でない状態に は鎮静も含めて完全にできるのが一般的な常識です。苦しんで最後を迎えるということ は、医師が下手でない限りきちんと緩和ができるというのがいまの常識です。ですから、 WHOなどでも、既に十分な緩和をしていれば、安楽死等をわざわざ認める必要はないと いうことを、1989年の答申で出しているぐらいですので、そこは混乱を招くのであまり 芳しくないのではないかと思います。  逆に、ここの委員の皆さんが、生命の尊重ということを初めからちゃんと基本にして いるのだということを明言してくださったので、そうであれば本文に入れることについ ては控えるということもあるかもしれませんけれども、例えば「最善の治療」というよ うなわかりにくい言い方が一方であるのであれば、もう一方重みを持ったものを付けて いてもいいのではないかとも思うわけです。 ○日野委員 緩和医療の知識を持っている医師は40%前後なのです。ですから、現実に この文言が残りの先生方に誤解されることが怖い、という意味で申し上げたのです。き ちんとマスターされている先生ばかりになれば、問題は非常に少なくなると思います。 ○沖野委員 余計なことかもしれませんけれども、「最善の治療」ということについて。 確かに「最善の治療」とは何か、というのは全くわからない。それが簡単にわかれば苦 労はしないということだと思います。しかし、ここでは、「患者にとって」「最善の治 療」という、そこを強調することに意味があって、なによりも患者中心なのだという姿 勢をこの局面でも明らかにするという意味があると思いますので、そこはもともとの原 案のように残した上で、ただ、他方で「生命の尊重」については先ほど申し上げました ように考えております。 ○樋口座長 ほかの論点も含めて、全体としていかがでしょうか。 ○岩渕委員 最初は「等」でもめましたけれども、あの「等」については全体の整合性 から判断して、注釈のほうでソーシャル・ワーカー等さまざまなことも含めて、注釈を 付けていく、という解決法で構わないと思います。 ○樋口座長 ほかの点でいかがでしょうか。 ○沖野委員 重いテーマをやった後に文言だけの問題なのですけれども、9頁の*注10 のところで、家族ということについてどういう意味と考えるかの注記の中で、最後に 「以下のガイドラインでも同じ意味です」と書かれているのですけれども、家族という 表現はこれより前にも出てきます。おそらくガイドライン全体にわたり、「家族」とい うときは親族関係に限らずにという趣旨ではないかと思います。そうだとすると、「以 下の」というよりは、「本ガイドラインの他の箇所で使われる場合も同様です」という 表現のほうがよろしいのではないかと思います。 ○樋口座長 そうですね、それは全くそのとおりです。 ○佐伯委員 小さな文言だけですが、6頁の基本的な考え方の2)に、新しく付け加わっ た「終末期医療に限ったものでないことはいうまでもありません」というのはそのとお りなのですけれども、これだと終末期医療のプロセスに関するガイドラインの文言とし てはやや素っ気がないので、「いうまでもありませんが、特に終末期医療にこういった ことが重要です」とか、そう言ったほうがガイドラインとしてはいいかという気がいた しました。 ○樋口座長 本当にそうですね。 ○大井委員 6頁と8頁にも出てくるのですが、6頁の3)に「終末期医療においては、で きる限り早期から肉体的な苦痛等を」と書いてあります。この「肉体的苦痛」だけ取り 上げていくのか、精神的な問題をどうするのかというのがボーダーにあると思うのです。 それでケースワーカーの話が出てくるのだろうと思ったのです。  ここに「肉体的な苦痛」という言葉だけが出てきて、それから8頁は緩和ケアのとこ ろですが、「その前提には耐え難い肉体的苦痛が要件にされており」と書いてあります が、キューブラ・ロスの『死ぬ瞬間』にもあるように、精神的な苦痛というのは非常に 大きいからこそ、ケースワーカーなどの関与が求められるのだとこのガイドラインでは 結んでいくのだろうと思ったのです。これを入れておくのはいかがでしょうか。 ○樋口座長 8頁の*注7は、いわゆる積極的安楽死問題についての限定なので、あれは 肉体的苦痛という話になっているのです。だから(4)のところで、「本ガイドラインでは 対象としない」というふうにプロセス・オリエンテッドなのだけれども、ここで少し説 明をする必要があったのでということなので、ここはやはり「肉体的苦痛」の話になら ざるを得ません。 ○大井委員 8頁のほうは異論ありません。 ○樋口座長 本日の会議の冒頭で申し上げましたように、終末期医療の決定プロセスに 関するガイドラインを作るための検討会を以上のような形で閉じていいかどうかです。 本日の議論で、大きな調整が必要な点については一応ご確認できたかと思います。しか し、それは一体何なのだということをもう一回確認する必要があります。6頁を一つひ とつ確認しておいて、足りないところがあるかもしれないので、最後にまた指摘してい ただければいいと思います。  基本的な考え方の2)の表現ぶりです。それから7頁へ行って「等」の問題がありまし た。岩渕委員からもご意見をいただいたので、これは座長である私に最後はお任せいた だきたいという話になると思いますが、「医療従事者」という形にしておいて、ケース ワーカー等が、こういうケアチームに入ることはあり得べし、というような*注3のと ころの書きぶりをもう少し改めるようなことを考えてみるというのが2つ目です。  それから、ガイドライン本文の○の2のところは、表現ぶりを大井委員がおっしゃっ てくださったような形ではっきりさせる。この言葉の場所を変えるということです。そ れから9頁のところで、本文の「家族の判断を参考にして」というのを、もしよろしけ れば先ほどご意見があったように、「家族と話し合い、患者にとっての最善の治療方針 をとることを基本とする」と。*注10のところの括弧書きのところは、もちろん何らか の形で訂正する。  それで、「最善の治療方針」というところへ、「生命の尊重」というのが当然入って いるのだろうということを、注書きのどこかで入れるか、あるいは逆にそれすらもか えって誤解を与えるかどうかについて、もう少し考えさせていただいて、お任せ願えな いだろうかというのがいまの時点での私の意見です。  以上のような点が、本日の議論かと思っています。ほかの点で何かお気づきになった ところはありますか。 ○岩渕委員 いろいろ言って申し訳ありませんけれども、「等」のところで私が最初に 問題提起したのは、例えば宗教者がケアチームに入るという意味合いではなくて、本来 は患者が自分自身の自己決定を行う上で、そういったようなことが最近は結構行われて、 一方でケアチームに入れようという話もあることはあるのです。そのようなことも含め てありますので*注3のところで書き込んでいただくよりも、*注1のところにそのよう なことを書いていただくのがいちばん親切かと思っております。 ○樋口座長 ただ、医療・ケアチームの話というのが○の2のところに出てくるものだ から、場所はこっちのほうがどうしても。そこの判断も考えさせていただくことにしま す。 ○土屋委員 先ほど申し上げたのは、チームを組むことの根本が、妥当性を正当化とい うとまたあれかもしれませんが、そういうことを6頁のところで表現しておかなくても いいのか。そこの話が6頁は書いていないので、そこに少し述べておくことで、そもそ もそういうことでいろいろ多角的な面をやるのはそういう意味だよと。要するに、本文 ではなくて、ここに何か書いておかなくてもいいのでしょうか。  5)に書いてあるといえばそうかもしれませんが、そもそも2)、3)のところで妥当 性とか、そういうことを見ておかなくてもいいのでしょうか。 ○樋口座長 2)のところで、チームで考えるということの意味をもう一文入れておい たほうがいいのではないかということですか。 ○土屋委員 いいのではないかということです。 ○樋口座長 いまいろいろ出た意見を含めて、今後の字句の訂正等は私に一任していた だいて、しかるべくここでの議論を、これまでもそうでしたけれども可能な限りすべて 反映して訂正してきたと思いますので、そういう形でまとめるということにしておきた いと思います。 ○木村委員 先ほども申し上げたように、「今後も検討する」というところを本文でな くて付記でもいいですから是非入れていただきたい。 ○樋口座長 木村委員の意見に乗っかるわけではないですし、これは前にも申し上げた ことがありますが、このガイドラインは誰に向けてのものかというと、厚生労働省はも ちろん医療者、医療機関を担当しているわけですから、医療者向けのものです。しかし、 本日も議論が出ましたように、緩和ケアというのがある世界では常識になっていても、 日本のあらゆる病院でそれが全部できているかというと、そういう状況にはまだないわ けです。  あるいはソーシャルワーカーというふうに例えばという形で書いてありますが、ソー シャルワーカーというのは、どこにどれだけの数の人がいて、というようなことが現実 としてあって、もちろんこのガイドラインを作ったのは、いままで以上ということだと 思います。誰しもが終末期を迎えますから、終末期を迎える患者、終末期にある患者を 支えるための体制づくりを、これからも一生懸命やっていきましょうという趣旨なので すが、それは医療者だけに責任を負わせることはできないので、もちろん厚生労働省の こういう指針を出す機関、あるいは国の責任も重々あるわけです。  それを、この報告書の中で何らかの形で一文、どういう形かお任せ願いたいと思うの です。当然そういう体制づくりについて、医療者は疲れているのだという率直なご意見 もありましたし、実際にこういうことをいろいろ言われてもという話もありました。そ ういう現状を踏まえて、国の責務の重要性ということも一文どこかで入れられたら入れ たいと考えております。  以上で予定の議題は終わることになります。そのほかにご発言はございますか。 ○谷野委員 いま言われたことが引っかかるのですけれども、誰しも終末期を迎えると いうのは、高齢者の終末期という意味で、後期高齢者のところで終末期医療が議論され ているわけです。ただ、ここでいうターミナルケア、終末期というのは、子供の終末期 だってあるわけでしょうし、その辺はこういう認識でいいのですか。 ○樋口座長 もちろんです。誰しも。 ○谷野委員 だから、誰しもがというのは子供も含めて。 ○樋口座長 ええ、みんな死にますから。 ○谷野委員 ということですよね。 ○樋口座長 そういう意味で使っています。 ○谷野委員 非常に奇異なのは、後期高齢者のところで、なぜターミナルのそれが取り 上げられたのかということで、往々にして外部はその辺を誤解するわけです。ここで言 うことではないでしょうけれども、後期高齢者医療と、終末期医療がごっちゃになって 論じている人がいるので、これは全く別個の問題ですから、そういう認識でいいわけで すね。 ○樋口座長 はい。ほかにご意見がないようであれば、事務局から今後の進め方につい てお願いいたします。 ○保健医療技術調整官 今後の進め方ですが、いま座長からもお話がありましたように、 ガイドラインとその解説編の部分についての最終的な確定作業については、今後座長と 相談をして進めさせていただき、その後、各委員にご確認いただいて、確定するという ような形で進めさせていただきたいと思います。  最後に、事務局を代表いたしまして松谷医政局長から一言ご挨拶をさせていただきま す。 ○医政局長 委員の皆様方には大変お忙しい中、今年の1月から本日に至るまで本検討 会にご参集いただき、大変活発にご議論いただきましたことを厚く御礼申し上げます。 昨年9月にガイドラインをパブリックコメントに付して以来、多くのご意見をいただい たわけです。当委員会でも大変真摯にご議論をいただきました。厚生労働省のいろいろ な検討会の中では、相当真面目にご議論をいただいたのではないかと思います。  終末期医療に関しては国民の関心が大変高いものですし、また望ましい終末期医療を 実現するための環境整備を促進していくことは大変重要なことですけれども、一方で国 民の終末期医療に関する価値観というものは、人生観あるいは死生観を含めて大変多様 ですので、大変難しい問題であるわけです。このような中で、終末期医療の方針決定の プロセスについて、委員それぞれの専門的な観点を踏まえ、大変有意義なご指摘をいた だいたところです。  また、今回の検討では患者の意思が十分に尊重されるための方針決定の手続面だけで はなくて、患者及びその家族等への情報提供の重要性、あるいは緩和ケアの充実など、 現場で発生しているさまざまな問題の解決につながるよう多面的なご議論をいただいた ところです。  そのような検討の結果として、本日、終末期医療の決定プロセスに関するガイドライ ンの策定に関して一定の方向性をお示しいただいたと理解しております。私どもとしま しては、今回のご議論を踏まえ、引き続きよりよい終末期医療の提供を目指して、行政 としても取り組んでいきたいと思っております。平成19年度予算においては、必要な検 討のための経費も計上しているところでして、厚生労働省としてもさらに具体的な検討 を行ってまいりたいと考えております。  各委員の皆様方へ、これまでのご尽力に対しまして、改めて感謝の意を表しますとと もに、さらなる課題の解決に向けて引き続き一層のご支援、ご協力をお願い申し上げる 次第です。最終のご挨拶とさせていただきます。本当にありがとうございました。 ○樋口座長 私からも、各委員の方々に、極めて率直なご意見、ご議論をいただいたこ とを感謝申し上げます。それでは、これで閉会いたします。お忙しいところありがとう ございました。 照会先 医政局総務課 菊岡 喜多 連絡先:03−5253−1111(内線2522)