(参考)

総合科学技術会議「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」抜粋


第2. ヒト受精胚
2. ヒト受精胚の位置付け
(1) 現在のヒト受精胚の法的・制度的位置付け
 現行法上、ヒト受精胚の法的位置付けを明文上定め、その尊重を規定する法規範は存在せず、これに「人」としての地位を与える規定もないが、民法、刑法等の解釈上、人に由来する細胞として、通常の「物」とは異なった扱いがなされていると考えられている。他方、本報告書における直接の検討対象ではないが、出生前の胎児については、堕胎罪の規定によって、出生後の人と同程度ではないが、刑法上の保護の対象となっている。その上で、母体保護法(第2条第2項及び第14条第1項)では、妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある者等に対してのみ、母体保護法指定医が、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができるとしており、これが許される期間は通達上、妊娠22週未満とされている。また、民法では、胎児は、生きて生まれたときには、その不法行為の損害賠償請求権(民法第721条)、相続権(同886条)等について胎児であった段階に遡及して取得することとされている。
(2) ヒト受精胚の位置付けに関する生命倫理専門調査会としての考え方
 これまでの社会実態を踏まえて定められた我々の社会規範の中核である現行法体系は、ヒト受精胚を「人」として扱っていない。ヒト受精胚を「人」として扱う考え方を採用することは、この現行法体系を大幅に変更し、受精胚を損なうことを殺人と同義に位置付けることを意味するが、人工妊娠中絶手術が行なわれ、また生殖補助医療において余剰胚等の一部の受精胚を廃棄せざるを得ない現在の社会実態を踏まえれば、そのような制度変更は現実的とは考えられない。また、そのような制度変更について社会的合意を得る見通しもないと考えられる。
 他方、ヒト受精胚は、母胎にあれば胎児となり、「人」として誕生し得る存在であるため、「人の尊厳」という社会の基本的価値を維持していくためには、ヒト受精胚を特に尊重して取扱うことが不可欠となる。
 このため、ヒト受精胚を「人」と同等に扱うべきではないとしても、「人」へと成長し得る「人の生命の萌芽」として位置付け、通常のヒトの組織、細胞とは異なり、特に尊重されるべき存在として位置付けざるを得ないのである。
 すなわち、ヒト受精胚は、「人」そのものではないとしても、「人の尊厳」という社会の基本的価値の維持のために特に尊重されるべき存在であり、かかる意味で「人の生命の萌芽」として位置付けられるべきものと考えられる。
(3) ヒト受精胚の取扱いの基本原則
 「人の尊厳」を踏まえたヒト受精胚尊重の原則
 既に述べたとおり、「人」へと成長し得る「人の生命の萌芽」であるヒト受精胚は、「人の尊厳」という社会の基本的価値を維持するために、特に尊重しなければならない。
 したがって、ヒト胚研究小委員会の報告に示されたとおり、「研究材料として使用するために新たに受精によりヒト胚を作成しないこと」を原則とするとともに、その目的如何にかかわらず、ヒト受精胚を損なう取扱いが認められないことを原則とする。
 ヒト受精胚尊重の原則の例外
 しかし、人の健康と福祉に関する幸福追求の要請も、基本的人権に基づくものである。このため、人の健康と福祉に関する幸福追求の要請に応えるためのヒト受精胚の取扱いについては、一定の条件を満たす場合には、たとえ、ヒト受精胚を損なう取扱いであるとしても、例外的に認めざるを得ないと考えられる。
 ヒト受精胚尊重の原則の例外が許容される条件
 イに述べた例外が認められるには、そのようなヒト受精胚の取扱いによらなければ得られない生命科学や医学の恩恵及びこれへの期待が十分な科学的合理性に基づいたものであること、人に直接関わる場合には、人への安全性に十分な配慮がなされること、及びそのような恩恵及びこれへの期待が社会的に妥当なものであること、という3つの条件を全て満たす必要があると考えられる。
 また、これらの条件を満たすヒト受精胚の取扱いであっても、人間の道具化・手段化の懸念をもたらさないよう、適切な歯止めを設けることが必要である。

3. ヒト受精胚の取扱いの検討
 前述の基本原則をもとにヒト受精胚の取扱いについて、目的別の考察を行った。
(1) 研究目的のヒト受精胚の作成・利用
 ヒト受精胚の研究目的での作成・利用は、ヒト受精胚を損なう取扱いを前提としており、認められないが、基本原則における例外の条件を満たす場合も考えられ、この場合には容認し得る
 その場合においても、ヒト受精胚は、体外にあって胎盤を形成しない限り、発生の過程が進んでも「胚」として扱われるため、研究目的での作成・利用については、その取扱いの期間を限定する必要がある。ヒト受精胚は、原始線条を形成して臓器分化を開始する前までは、ヒト受精胚の細胞(胚性細胞)が多分化性を有していることから、ヒト個体としての発育を開始する段階に至っていないと考えることができるが、原始線条を形成して臓器分化を開始してからは、ヒト個体としての発育を開始したものと考えることができる。これを踏まえ、研究目的でのヒト受精胚の作成・利用においては、その取扱い期間を原始線条の形成前までに限定すべきである。
 個々の事例の容認の可否については個別に検討する必要があるが、研究の主な目的に対しての一般的な考察結果は次のとおりである。
 生殖補助医療研究目的での作成・利用
 生殖補助医療研究は、これまで体外受精の成功率の向上等、生殖補助医療技術の向上に貢献しており、今後とも、生殖補助医療技術の維持や生殖補助医療の安全性確保に必要と考えられる。こうした研究成果に今後も期待することには、十分科学的に合理性があるとともに、社会的にも妥当性がある。このため、生殖補助医療研究のためのヒト受精胚の作成・利用は容認し得る
 先天性の難病に関する研究目的での作成・利用
 現時点では、この分野の研究においてヒト受精胚の作成・利用を伴う研究を行う具体的必要性が確認できなかったが、容認する余地はあり、先天性の難病に関する研究が今後進展することを期待し、将来、必要性が生じた時点で改めて検討することとする。
 ヒトES細胞の樹立のための作成・利用
 ヒト受精胚からのヒトES細胞の樹立については、ヒトES細胞を用いた研究の成果として期待される再生医療等の実現等の恩恵への期待に、十分科学的に合理性があるとともに、社会的妥当性もあるため、容認し得る。ただし、ヒト受精胚を新たに作成してヒトES細胞を樹立する必要性は、現時点では確認されなかった。
 このため、ヒトES細胞の樹立に用いるためのヒト受精胚の作成を認めず、生殖補助医療の際に生じる余剰胚と呼ばれる移植予定のないヒト受精胚を利用する場合に限ってヒトES細胞の樹立を認める。また、必要な枠組みを定める現行のES指針は、技術の進展を踏まえた見直しを随時行うべきものとしても、本検討の結果に合致するものとして、今後も引き続き維持すべき枠組みと考えられる。
 その他の研究
 その他の研究について、ヒト受精胚の作成・利用を認めざるを得ない事例は現時点では確認できなかったが、将来的に新たな研究目的が生じた際には、基本原則にのっとり、その容認の可否を検討すべきである。
(2) 医療目的でのヒト受精胚の取扱い
 本報告書は、医療そのものを直接の検討対象としていないが、ヒト受精胚の取扱いを伴うものについては、その限りで検討対象としたものである。
 生殖補助医療
 現在、体外受精については、これにより年間1万人以上の子供が生まれ、広く国民の間に定着した一般的な医療技術となっていると考えられるが、ヒト受精胚の「人の生命の萌芽」としての位置付けを踏まえれば、体外受精によって作成されるヒト受精胚のうち、移植予定が無く、最終的に廃棄されることになる余剰胚が生じることが問題となる。
 生殖補助医療においては、母体の負担の低減の観点から、未受精卵を一度に複数個採取し、受精させた上で、これらのうち妊娠の可能性の高いものを選択して順次、利用していくのが通常である。このため、妊娠に成功した場合等において、移植されず、かつ移植予定のない余剰胚が生じる。余剰胚の発生を伴う点で、生殖補助医療のための体外受精はヒト受精胚を損なう取扱いであるものの、母体の負担に配慮してこのような方法で生殖補助医療を行うことには、十分な科学的合理性と社会的妥当性も認められるため、余剰胚の発生は容認し得ると考えられる。
 着床前診断
 ヒト受精胚の着床前診断については、診断の結果としてのヒト受精胚の廃棄を伴うということが、ヒト受精胚を損なう取扱いとして問題となる。
 母親の負担の軽減、遺伝病の子を持つ可能性がある両親が実子を断念しなくてすむ、着床後の出生前診断の結果行われる人工妊娠中絶手術の回避といった、着床前診断の利点を踏まえて、これを容認すべきかどうかが問題となるが、着床前診断そのものの是非を判断するには、医療としての検討や、優生的措置の当否に関する検討といった別途の観点からも検討する必要があるため、本報告書においてその是非に関する結論を示さないこととした。
 遺伝子治療
 ヒト受精胚に対する遺伝子治療は、確実性・安全性が確認されていないことから、ヒト受精胚を損なう取扱いである上に、生殖細胞系列の遺伝的改変を通じて後の世代にまで悪影響を残すおそれもあることから、現時点においては容認できない。これを認めないとする文部科学省及び厚生労働省の「遺伝子治療臨床研究に関する指針」(平成14年3月)の取扱いは、現時点においては適切と考えられる。
(3) 未受精卵等の入手の制限及び提供女性の保護
 ヒト受精胚を作成し、これを利用する生殖補助医療研究では、必ず未受精卵を使用するが、未受精卵の女性からの採取には提供する女性の肉体的侵襲や精神的負担が伴うとともに、未受精卵の採取が拡大し、広範に行なわれるようになれば、人間の道具化・手段化といった懸念も強まる。このため、未受精卵の入手については個々の研究において必要最小限の範囲に制限し、みだりに未受精卵を採取することを防止しなければならない。また、いわゆる無償ボランティアからの未受精卵の採取については、自発的な提供を望む気持ちは尊いものとして尊重するとしても、一方で、関係者等である女性に未受精卵の提供が過大に期待される環境が形成され、本当の意味での自由意思からの提供とならない場合も考えられるため、原則、認めるべきではない
 未受精卵の入手には、生殖補助医療目的で採取された未受精卵の一部利用、手術等により摘出された卵巣や卵巣切片からの採取、媒精したものの受精に至らなかった非受精卵の利用とともに、技術の進捗状況にもよるが卵子保存の目的で作成された凍結未受精卵の不要化に伴う利用等も可能な場合があり得ると考えられる。しかし、こうした未受精卵の入手には、提供する女性に精神的・肉体的負担が生ずることも考えられるため、その利用は個々の研究において必要最小限の範囲に制限されるべきであり、そのための枠組みの整備が必要である。
 さらに、通常、未受精卵を提供する女性は、患者という自分の権利を主張しにくい弱い立場にあることから、自由意志によるインフォームドコンセントの徹底、不必要な侵襲の防止等、その女性の保護を図る枠組みの整備が必要である。
(4) ヒト受精胚の取扱いに必要な枠組みの考え方
上記に述べたように、例外的に研究目的でヒト受精胚を作成・利用することが認められる場合があり、その場合には、限定的な範囲で未受精卵の入手・使用も認められるが、ヒト受精胚の取扱いについて、本報告書で述べるヒト受精胚の尊重の原則を踏まえた取扱い手続きを定める制度的枠組みや未受精卵の提供者である女性を保護するための枠組みを予め整備する必要がある。
 現在、研究目的のヒト受精胚の作成・利用のうち、ヒトES細胞の樹立の際の利用については、国はES指針を整備しているが、これ以外については、日本産科婦人科学会が会告により自主規制を行なっているだけである。このため、研究目的のためにヒト受精胚を作成しないという原則を徹底するためには、制度的枠組みとして、国内全ての者に対して適応し、かつ国としての規制が必要である。

第4. 制度的枠組み
1. 基本的考え方
 本報告書においては、ヒト受精胚の取扱いの基本原則をヒト胚の取扱いについて共通の基本原則とし、これに基づいた考察の結果、ヒト胚を損なうことになる研究目的の作成・利用は原則認められないが、例外的に容認される場合もあるとした。また、ヒト胚は胎内に戻さず、取扱いは原始線条形成前に限ることとしている。
 ヒト胚の取扱いの基本原則は、「人の尊厳」という社会の基本的価値を堅持しつつ、人々の健康と福祉に関する幸福追求の要請に応えるために、研究目的でヒト胚を作成・利用することが可能な範囲を定めるものである。「人の尊厳」という社会の基本的価値に混乱をもたらすことなく、ヒト胚の研究目的での作成・利用が行われるためには、この基本原則を社会規範として具体化する必要がある。
 人クローン胚については、人クローン個体が生み出されることを防止する必要がある。また、人クローン胚を用いた再生医療の研究は、社会的影響の懸念や臨床応用を想定した場合の安全性の問題を認識しつつ、社会選択として、慎重かつ段階的に進めることとしたものであるため、これを担保する枠組みも必要である。ヒト受精胚及び人クローン胚は、ヒト胚として同等に尊重を受けるべき存在であるが、このように、それぞれ考慮すべき事情が異なるため、これらの取扱いに関する社会規範は、実態を踏まえて適切な規範形式により整備すべきである。

2. 制度の内容
(1) ヒト受精胚の研究目的での作成・利用
 ヒト受精胚の尊重を求める社会規範は、「人の尊厳」という社会の基本的価値を維持していくための枠組みとして重要である。したがって、具体的に受精胚の尊重の原則を踏まえた取扱い手続き等を定めたルールづくりが必要であるが、ヒト胚をどのように取扱うかは、個々人の倫理観や生命観を反映して、国民の意識も多様であり、今すぐ強制力を有する法制度として整備するのは容易ではないと考えられる。他方、ヒト受精胚尊重の趣旨から強制力を伴わない国のガイドラインとして整備されたES指針について、これまでの運用上、実効性の点で特に問題を生じていない。したがって、かかる社会規範は、当面は国のガイドラインとして整備すべきであるが、当ガイドラインの遵守状況等を見守りつつ、国は新たな法整備に向けて、今後とも引き続き検討していくものとする。なお、ヒト受精胚の研究目的での作成・利用は、前述した未受精卵の使用・採取という極めて重い問題を伴っている。
 今回の検討において、ヒト受精胚の研究目的での作成・利用は、生殖補助医療研究での作成・利用及び生殖補助医療の際に生じる余剰胚からのヒトES細胞の樹立の際の利用に限定して認め得ることとした。後者については、既にES指針の枠組みが整備されているが、ヒト受精胚の生殖補助医療研究における作成・利用については、新たにガイドラインを整備する必要がある。具体的なガイドラインの内容としては、本報告書の基本的考え方に基づいて基準を設け、これに基づいて、個別の研究について審査した上で実施を認める枠組みが必要である。
 本報告書の基本的考え方に基づいたヒト受精胚の取扱いのための具体的な遵守事項として、研究に用いたヒト受精胚を臨床に用いないこと、未受精卵の入手制限及び無償提供、ヒト受精胚や未受精卵の提供の際の適切なインフォームドコンセントの実施、胚の取扱い期間の制限、ヒト受精胚を取扱う研究についての記録の整備、研究実施機関の研究能力・設備の要件、研究機関における倫理的問題に関する検討体制の整備及び責任の明確化、ヒト受精胚や未受精卵等の提供者の個人情報の保護、研究に関する適切な情報の公開等を定める必要がある。
 このうち特に、未受精卵の入手については、提供する女性への不必要な侵襲を防止するとともに、提供への同意に心理的圧力がかかることがないよう、女性の保護を図る必要があるため、既に述べたとおり、個々の研究において必要最小限の範囲に入手を制限するとともに、自由意志によるインフォームドコンセントの徹底等を義務付ける必要がある。
 この際、国は、生殖補助医療研究のためにヒト受精胚の作成・利用を計画している研究がガイドラインの定める基準に適合するかを審査するための適切な枠組みを整備する。
 文部科学省及び厚生労働省は、これらを踏まえてガイドラインの具体的な内容を検討し、策定する必要がある。

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