資料5

労働安全衛生法66条で規定する健康診断で
胸部レントゲン検査を実施する目的とその有用性

帝京大学医学部
 衛生学公衆衛生学
教授 矢野栄二

1.労働安全衛生法で規定した一般定期健康診断の実施目的
 労働安全衛生法66条で規定されている一般定期健康診断は、
 (1)事業主にその負担での実施を義務づけており、実施しない場合罰せられる。
 (2)労働者には受診義務がある。
 (3)症状の有無にかかわらず全員一律である。
 (4)既往歴、前回の検査結果等にかかわらず一定の間隔で実施される。
 等の特徴がある。こういう条件を考えるならば、この健康診断は労働者が罹患する可能性のある疾病すべてを対象とするものではありえない。例えば悪性新生物は労働者を含めた国民の最大の死亡原因であるが、それに対する検査を事業主の義務とすることは適切ではない。上のような条件下で事業主に実施、労働者に受診を義務づけるのは、労働者が作業することにより引き起こされる事故や疾病を防ぎ、またはそれを早期発見し被害の拡大を防止する目的があるからである。その観点から、労働安全衛生法で義務づけられた健診が正当化されるのは、次の3つのいずれか場合があり得る。
  (1) 安全や健康に配慮した適正配置のための検査やそのための身体状況把握
  (2) 個々の労働者を対象として、作業に関連して起こる健康障害の早期発見
  (3) 個人よりも集団を対象として、職場の健康関連問題の発見
 (1)は、例えば運転手の睡眠時無呼吸症検査など、特殊業務を安全に遂行するための特定の条件を具備しているか否かの能力の検査がわかりやすいが、今日の一般定期健康診断の循環器疾患関連項目等が、広く通常業務遂行能力とそれに関連した安全配慮義務との関連で義務づけが合理化されている。
 (2)は、鉛健診など有害作業に対する特殊健診を典型例とし、作業関連疾患の早期発見・早期治療を目指したスクリーニングである。
 (3)は、具体的な健診項目としては(2)と同じ場合も考えられるが、主要な目的は、個々の労働者の疾患の発見よりも、職場の状態を把握することにある。これはスクリーニングと区別してサーベイランスと呼ばれるものである。例えば騒音性難聴など、職業に起因する不可逆的疾患の健診は、受診する個々の労働者に直接還元される利益は必ずしも大きくない。しかしその情報は職場の作業環境管理の重要な情報であり、環境改善のための資料となる。

2.健康診断の有用性
 行政により健診の実施が事業主と労働者に義務づけられるためには、上のように目的が明確なことに加えて、その有用性について確かな証拠が必要である。事業主や労働者の自主的な選択で受診の可否を判断する余地を与えず強制する以上、その健診を行うことが個々の労働者や労働者集団に利益になるという、証拠がなければならない。
 一般に健診により得られる利益は、疾病によって被る不利益の防止という直接的なもの(表1の<介入後>の太字部分)以外にも様々なレベルのものが考え得る(表1)。これに対し、健診が引き起こす可能性のある不利益は表2にまとめた。これらの利益が不利益を上回る場合、健診の実施が有用となる。しかし健診実施の有用性の判断が、利益と不利益の比較に基づくとはいっても、利益・不利益それぞれには十分な情報がない場合や、定量的な評価が困難なものも多い。

3.胸部レントゲン検査実施の利益と不利益
 本委員会の役割は労働安全衛生法66条で規定された一般定期健康診断における胸部レントゲン検査のあり方を考えることである。ここでは胸部レントゲン検査を実施することの有用性判断の前提として、比較的定量的な情報があるものについて整理を行った。すなわち検査の利益として、定期健診による結核発見率、検査の不利益として放射線によるがん死亡を算出した。
 まず、利益としては平成11年地域保健事業報告によると、職域の定期健診での結核発見率は0.007%、10万人あたりにすると7人である。これに対して胸部レントゲン間接撮影(120kV、3.2mAs、120cm)では、被曝線量が中心は0.26mGy、表面は0.82mGyとなる。国際放射線防護委員会(ICRP)1990勧告の「低線量、低線量率放射線被曝に伴うがん死亡の生涯リスク」は1Gyの被曝で10万人あたり500人ががんになるという数値を報告している。これを胸部レントゲン間接撮影による中心被曝の値に当てはめると、10万人あたり0.13人となる。すなわち現行の職域健康診断では、結核患者を54人見つけるために、1人のがん患者を作っていることになる。

4.結核以外の対象疾患発見の利益
 先に表1で示した、健診に伴って得られることが期待される利益は、特定の目的疾患を発見するための健診を考えた場合のものであるが、検査を行えば偶発的に別の疾患が発見され、その発見に伴う利益が得られる場合があることも否定できない。一般健康診断ハンドブックは、胸部エックス線検査の対象疾患として、5領域、30余の疾患や状態を挙げている(第一回委員会資料8)。しかし、多くの場合こうした偶発的発見は、以下のような問題がある。
 (1)対象を絞っていないため、受診者中の有病率(頻度)が少なく、健診の効率が悪い。
 (2)その疾患に応じた検査法でないため、得られる情報は不十分で誤判定が多い。
 (3)誤判定の結果、陽性検査適中度が低く、不要な精密検査を増加させる。
 このような問題のため、ともかく疑い例を発見することは利益であると、無条件に述べることはできない。それではいかなる条件下で健診が有用となるかが問題であるが、その条件については1968年に発表されたWHOのモノグラフ(表3)があり、1997年には英国のスクリーニングに関する委員会が追加の項目を提案している(表4)。これらを、健診の過程に沿って整理し直すと健診が有用となるためには、その健診の対象とする疾患、健診で行う検査、確定診断のための検査、確定診断後の治療・介入のそれぞれの段階に条件があり(表5)、それらがすべて満たされる必要があると考えられる。

5.検査の有用性条件から見た結核以外の疾患
 第1回委員会資料8で挙げられた対象疾患について、年一回自覚症状と無関係に胸部レントゲン間接撮影をすることの問題点を、表5の条件を用いて考えてみよう。企業の負担、症状の有無にかかわらず全労働者を対象、実施は強制、という条件から、偶発的に発見されることがあるというようなものは、もとより対象外である。

(1)対象集団の中で目的疾患の有病率が高い:
 悪性胸腺種は国立がんセンターでも年に3例程度しか症例がなく、健診の対象とはならない。
(2)目的疾患が慢性疾患で、潜伏期が長く、予後不良:
 急性肺炎の発見に年に1回か2回しか行わない健診は不向きである。
 肺気腫、慢性気管支炎、気管支拡張症は胸部レントゲン所見に覚症状が先行する。
 サルコイドーシスは自然治癒が多く、発見の利益が少ない。
(3)検査の費用・侵襲が大きくなく、受診の利便性が高い:
 放射線による発がんの可能性については上述した。これに加え放射線には生殖影響もある。またレントゲン車等装置が必要で、健診費用について零細企業などからの不満が増えており、健診未実施理由のひとつとなっている(労働者健康状況調査平成14年)。
(4)検査の有効性(感度・特異度)妥当性が高い:
 じん肺は間接撮影では検出感度が悪く、また別途じん肺法で高圧直接撮影による特殊健康診断が定められている。
 肺門部・胸膜・縦隔・横隔膜・心臓大血管病変について胸部レントゲン間接撮影検査は有効性(感度・特異度)が低い。
(5)健診有所見者に対して行われる精密検査の費用・侵襲が小さく、利便性が高い:
 肺がんの精密検査のための胸部らせんCTでは間接撮影の10倍から20倍の放射線被曝がある。通常の胸部CTではそれは70倍に達する。
(6)健診有所見者に対して行われる精密検査の有効性・妥当性が高い:
 肺がんについてのらせんCTの感度は十分高いが、特に微小がんが治療の対象かどうかについては議論があり、治療対象の肺がんの検出という意味での特異度は高くない可能性がある。
(7)疾患発見後の治療や保健指導により改善の可能性が有る:
 サルコイドーシスは治療により自然経過を変化させることができない。
 嚢胞肺は自覚症状がなければ、治療の必要なく、健診で発見する利益が少ない。
 治癒所見は発見することによる利益は乏しい。
(8)治療や保健指導の結果、防御率・治癒率・改善率が高い:
 胸膜悪性中皮腫は予後不良で治療の効果が小さい。

6.今後の職域健康診断における胸部レントゲン検査
 以上のように労働安全衛生法が規定する健康診断の目的と条件から考えて、結核以外の疾患をその対象疾患とすることは適切ではない。結核以外の疾患が健診で偶発的に発見されることはもちろんあるが、そのために全労働者のエックス線被曝を事業主の負担で強制するだけの利益が得られない事は、上に述べたとおりである。これに対し結核は慢性の経過をたどり、職域で感染が拡大する可能性があり、さらに健診で発見すれば有効な治療法があるため、健診を行うことの利益が高い疾患であった。しかし、今日結核の罹患率が下がり、わが国の結核の健診での発見率は既に諸外国がレントゲン撮影の広範な実施によるスクリーニング検査を中止したレベルをはるかに下回っている。そこで、結核に対する健診もその実施方法の見直しが必要となった。そのためすでに結核予防法の改正が行われ、一般住民に対する健診について、その対象や方法が大きく変わった。この改正にあたっての基本的な考え方は全員一律の健診を廃し、結核罹患率の高い高齢者などハイリスク群と、感染を拡大させる可能性の高い教師や介護施設職員などデンジャー群を集中的に検査するという考え方である。受診者や費用負担者の選択を認めず罰則を伴って義務化された労働安全衛生法による健診においては、より一層こうした合理化が必要で、同様の合理的判断に基づく具体的実施策が早急に定められるべきであろう。



第1回検討会資料8再掲

胸部エックス線検査の対象疾患


 肺内の病変
 肺結核、じん肺、肺気腫、慢性気管支炎、気管支拡張症、サルコイドーシス、肺がん、無気肺、肺炎、中葉症候群、肺膿瘍、嚢胞肺

 肺部門の病変
 肺門がん、サルコイドーシス、大動脈瘤

 胸膜の病変
 胸膜炎、(結核性、がん性等)、自然気胸、膿胸、胸膜中皮腫

 縦隔、横隔、胸壁の病変
 悪性胸腺種、皮様嚢腫、横隔ヘルニア

 心臓、大血管の病変、心膜炎、僧帽弁および大動脈弁の狭窄・閉鎖不全、心房および心室の中隔欠損、ボタロー管開存
 (治癒所見:石灰沈着、胸膜胼胝、手術痕、肋骨骨折治癒等)

(一般健康診断ハンドブックより抜粋)



表1. 健診により健診受診者が得る可能性のある利益

<一般的>
   健康に対する関心が高まる。
   ホーソン効果(よい結果を得ようとして健診前に飲酒を減らすなど)。
<直接の健診で>
   疾患がある(ない)可能性を知る。
   精密検査を受ける動機が与えられる。
<精密検査後>
   診断が確定する。
<診断確定後>
   介入が行われる。
<介入後>
   リスクが減少する。
   合併症が抑えられる。
   疾患の進行が抑制される。
   疾患が軽快する
   疾患が治癒する
   QOLが向上する
   死亡が回避される

(矢野EBM健康診断(第2版)4頁表3医学書院)


表2 健康診断に伴う損失

(1)身体的侵襲:レントゲン被曝をはじめ健診にともなう身体的侵襲、採血に伴う感ックス線検査は、学校保健では中学までは間接検査は全廃、高校1年では一度行う染等医療事故の危険は第一に考慮しなければならない損失である。このうち胸部エが、それ以外、直接撮影や必要なときに行うという体制にすでに移行している。職域健診では放射線取り扱い作業者に対し厳重な管理にがなされているが、定期健診での一律の胸部間接エックス線検査に伴う損失に対しての考慮は十分であろうか。
(2)見落としによる対処の遅れ:実際には疾患がありながら健康診断では発見されなかった場合(スクリーニングの偽陰性)、そのため健診を受けなかった場合よりかえって対処が遅れることがありうる。
(3)誤った診断による心身の負担:実際には疾患がないにもかかわらず、検査で陽性となったばあい(スクリーニングの偽陽性)、本人や家族は無用の不安や精神的負担(negative labeling effect)を持つとともに、無用の精密検査に伴う身体的負荷を受ける。
(4)受診中の労働時間の損失:今日特に民間企業においては従業員の生産性に非常に神経質で、健診のために従業員が生産現場から離れる時間についても、健診の費用に加えて考えることが多い。
(5)直接の健診の費用:健診の際行われる検査の費用や健診に従事する医療関係職員の賃金は、事業所にとって大きな負担であり、たとえ個別の事業所ではその負担がまかなえたとしても、健診の有用性が高くない場合、社会全体としては莫大な額の無駄となり、より有益に用いうる医療資源を圧迫している可能性もある。
(6)倫理・プライバシーの問題:わが国では、健診により発生する従業員の個人情報の保護管理が極めてルーズであった。今まであまり問題になってはいないとはいえ、個人の身体的状況についての情報が、刑法で守秘義務が課せられた医師の手を離れ、容易に人事判断等に組み込まれる可能性がある。ようやく最近就業前健診と採用時健診を峻別し、健診結果で就業機会を奪うことの無いよう、指導が始まったが、まだまだ不徹底である。また、健診でそれを見つけることの弊害の方が大きい職域での色覚検査が廃止されたのは、最近のことである。このように本来受診者の利益のため行われるはずの健診が、受診者の利益を損なっている可能性は大いにある。

(矢野 Evidence Based Medicine による健康診断 3頁表3、医学書院に一部追加)


表3 健診評価の基準
WHO モノグラフ

対象疾患は医療上(放置できない)重要性を持つ。
発見された疾患を持つ患者に対する治療は受け容れ可能なものである。
診断と治療のための方策が存在する。
検出可能な潜伏期または早期症状期が存在する。
適切な検査・診断方法が存在する。
検査は対象集団に受け容れ可能なものである。
潜伏期から疾患の確定診断までを含む疾患の自然史が十分に解明されている。
患者として治療すべき対象について政策合意が存在する。
診断と治療を含む患者発見のための費用は保健医療費全体の中で経済的に適正である。
症例発見は継続的な過程であり、「一度限り」のものではない。

(Wilson and Jungner 1968 WHO)


表4.英国スクリーニング研究暫定委員会の追加 (1997)

検査やその結果が引き起こす害が、検査-評価-治療で得られる利益に比べ小さい。
結果をいつ誰にどのように伝えればよいかについて合意した取り扱い基準がある。
人口、文化、医療、技術、目的疾患の疫学の変化に対応して、時々スクリーニングプログラムは見直される。
患者は均一ではないので、費用、利益、検査のリスク、評価、治療は層別化して人口や疾患型毎に検討される。



表5 健診が有用性を持つ条件

目的疾患
 (1)対象集団の中で目的疾患の有病率が高い
 (2)目的疾患が慢性疾患で、潜伏期が長く、予後不良
健診検査
 (3)検査の費用・侵襲が大きくなく、受診の利便性が高い
 (4)検査の有効性・妥当性が高い
精密検査
 (5)精密検査の費用・侵襲が大きくなく、利便性が高い
 (6)精密検査の有効性・妥当性が高い
治療・介入
 (7)治療や保健指導により改善の可能性が有る
 (8)治療や保健指導の結果、防御率・治癒率・改善率が高い

(矢野 EBM健康診断(第2版)10頁表5 医学書院)

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