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資料5


自立生活の基本理念とその歴史

中西正司(全国自立生活センター協議会 代表)

第1節 世界の自立生活センターの歴史

 1960年代、米国において黒人の公民権運動が激しく荒れた時代、障害者もマイノリティの一部として同じ公民権法の適用を望んでいた。米国の障害者運動は以降、公民権法の影響を強く受けることになる。
 1972年、カリフォルニア大学バークレー校を呼吸器付きの車椅子に乗ったポリオの障害者Ed Robertsが卒業しようとしていた。キャンパス内で得られた介助や住宅、車椅子修理、ピア・カウンセリングなどのサービスが使えなくなることから、同じ障害をもつ仲間と話し合い、家族や友人の協力も得て、地域の中に自立生活センター(以下、ILセンターと略す)をつくることになった。これが自立生活運動の創始である。米国以外では現実は理想とは逆の方向に進み、オランダでは障害者のコロニー政策がとられ大規模施設群ヘッドドルフが建設される。イギリスでは介助者付き集合住宅がつくられ障害者の集合住という方策が採られる。米国の自立生活運動とスウエーデンのフォーカスハウス(一般住宅への分散居住)を除いて世界はいまだに施設か集合住宅の域を出てはいなかった。
彼らが掲げた思想は、次の4つのものである。
(1) 障害者は「施設収容」ではなく「地域」で生活すべきである。
(2) 障害者は、治療を受けるべき患者でもないし、保護される子供でも、崇拝されるべき神でもない。
(3) 障害者は援助を管理すべき立場にある。
(4) 障害者は、「障害」そのものよりも社会の「偏見」の犠牲者になっている。
 これまで障害者はリハビリテーションという名の元に、健常者にできるだけ近づくことを一生の目的として科されてきた。例えば衣服の着脱に2時間かけても他人の手を借りずにすることがリハビリテーションでは評価されたが、自立生活の思想においては、介助を受けることは恥ずかしいことでも主体性を損なうものでもなく、自らの意志によって選択し、決定することが重要であることが高らかに宣言されている。リハビリテーションは期間を限った医療行為であり、障害者の生活を一生管理すべきものではない。
 バークレー自立生活センターの後を追って、同年(1972)ヒューストン、74年ボストンと急速に発展した。特に全米の障害者たちが一丸となって闘い勝ち取った1978年のリハビリテーション法の改正によって、連邦政府の援助が受けられるようになった。また、米国の若手の社会学Gerben DeJongがThe Movement for Independent Living(1979)を発表し、リハビリテーションとの対比でILセンターの有効性を学問的・理論的に位置づけた。
この2つの出来事によってILセンターは燎原の火の如く全米各地に広がった。カナダにおいては1980年より、オンタリオ州キッチナーでHenry Ennsが保護と管理を障害者に強いてくる「リハビリテーションからの脱却」をめざして、地道な草の根の障害者の組織化を始めている。この時代、世界的な状況は「自立」へと向かっていたのである。
 この30年間に自立生活センターが達成してきた成果は偉大である。米国においては1978年いち早くリハビリテーション法504号法案を強烈な運動の結果勝ち取り、自立生活センターを国に認めさせた。そして1990年世界で初めての障害者差別撤廃法ADA法を提案し成立させた。現在は政権の中枢に多くの障害者リーダー達が参加し、まさに国を動かし始めている。また国のメデイケアの介助サービスの委託を受ける自立生活センターが増えてきている。カナダでは1981年のDPIの成立後自立生活センターが生まれ、1989年に自己管理介助料直接支給法(セルフマネジドケア・ダイレクトファンディング)を各州で成立させている。イギリスではコミュニティケア法の中に介助料直接支給法(ダイレクトペイメント)を作らせ、自立生活センターがその地方自治体への普及事業を国に委託されている。スウェーデンでは当事者アセスメントによる自己管理型の介助サービスが介助利用者協同組合の支援によって行われてきて、既に14年になる。
 1999年9月21ー25日、ワシントンDCで世界50ヵ国から障害者のリーダー100人以上を集めて、歴史上初めての自立生活運動の世界会議が開催された。自立生活センターの世界連合がついに完成したのである。
註1)筆者:アメリカの自立生活運動に学ぶ、八代英太・富安芳和(編):障害をもつアメリカ人法−ADAの衝撃、pp.320-322、学苑社、


第2節 日本の当事者運動の歴史

 自立生活運動の系譜を辿ると70年代の神奈川を中心とした青い芝の運動とほぼ同時期に始まる府中療育センター闘争にいたる。
 70年5月横浜で2才になる障害児を母親が殺害するという事件が起こった。事件後すぐ町内会、障害児父母の会によって減刑嘆願運動が起こる。青い芝神奈川支部はこれに反対する運動をおこした。
 70年11月東京都府中療育センターにおける劣悪な処遇に反対して在所生のハンストが始まる。72年9月から都庁前にテントを張っての座り込みが始まり以降2年間に渡る闘争に発展する。その結果東京都では、施設の個室化を政策に掲げ、またセンターから地域へ出て暮らし始めた人たちのためには「重度脳性マヒ者介護人派遣事業」が創設され74年から実施される。75年に厚生省でもこの動きを受けて、重度障害者の「生活保護他人介護加算の特別基準」への適応を始めた。
 これらの制度が出揃ったことで重度障害者が地域で暮らす条件は一部では徐々に整ってきたと言える。
 1976年東京都にケアつき住宅検討委員会が開設される。東京青い芝、頚損連絡会が提起した施設ではない地域での介助付きの居住の場を探る試みであった。モデルとしてはイギリスの介助者付き集合住宅が選ばれる。地域での普通の暮らし、つまり自宅に介助者が派遣されてくるシステムを提唱したものもいたが、結局20名の集合住宅が選ばれ、独立住宅と介助者派遣の自立生活を提唱したものは去っていった。翌77年この委員会はケア付き住宅建設協議会に改組され、79年に建物が完成し、80年にスタートした。この運営方針を巡って運動の場を主張する青い芝の会と生活の場を主張するその他の人たちとの意見の相違から、ケア付き住宅の地域との連携は閉ざされ、第1号ができただけで、第2号はついに作られることはなかった。
 72年に仙台市で第1回くるまいす市民全国集会が開催される。この集会をきっかけに仙台市では道路の段差にスロープがつけられた。この集会は以降隔年に開催され、京都、名古屋、東京へと引き継がれ現地の実行委員会が若手の障害者を糾合し草の根の障害者団体の育成に寄与するとともに街づくり運動の端緒ともなった。
 73年このような動きに呼応して東京都に街づくり協議会がつくられ障害者委員が参加した。この頃、北区桐ケ丘に都営の車椅子住宅の第1号が建設された。街に出ようという動きは移動手段の改善の動きにつながり、77年に朝日新聞東京厚生文化事業団が外国製の電動車椅子50台を障害者に寄贈し、それをきっかけにして東京都に電動車椅子検討委員会が開設された。 自立生活運動が一般に伝えられたのは、1981年の国際障害者年のEd Robertsの来日に始まる。その後Judy Heumannなど多数の自立生活運動家が、全国を講演して回った。自立生活の理念については、実に熱意の迸しる議論が行われ、感動を呼ぶものであった。しかし理念について語られはしたものの、ILセンターのサービスについては何ら伝えられないままで終わった。
 日本で初めてのILセンターは1986年6月の東京・八王子のヒューマンケア協会の発足を待たねばならなかった。それまでの障害者運動は行政の施策に対するプロテストや要求、活動、権利擁護活動が中心であり、当事者がサービスを提供するという視点が全くなかったか、無自覚であった。ヒューマンケア協会はその発足の当初から「これまで福祉サービスの受け手であった障害者が福祉サービスの担い手となる」と明確にサービスの担い手になることを自覚して、ILセンターの組織作りをしている。
 サービスの対象は老人を含むハンディキャップ者総べてであり、自立生活運動の枠を越え社会変革の核となることを目指している。これまでの障害者運動が障害種類別(脳性マヒや視覚など)であったり、地域グループや仲間内の集まりであったのに反して、ヒューマンケア協会は職種に最適な人材を障害種別や地域枠を越えて集めた機能集団として意図的に作られたことが、特筆に価する。これも障害者運動の歴史上になかったことである。
1989年より、ヒューマンケア協会という第1号の自立生活センターをモデルとして、またその事務所で働いたり、研修した人たちもその経験を生かして、徐々に全国にILセンターができて来た。町田ヒューマンネットワーク、ハンズ世田谷、CIL 立川などが純粋にILセンターを指向して生まれた。以前からあった札幌いちご会、その組織を発展、改変させたAJU 自立の家、静岡障害者自立生活センターなどの組織でも、自立生活プログラムや介助サービス、ピア・カウンセリングを開始し、戦列に加わってきた。
 そこで1990年暮、全国自立生活センター協議会(JIL、以下JILと略す)の結成準備会を新宿で開き、翌1991年11月22日の「全国自立生活問題研究集会」の開催日前日、その設立式を行った。
 JIL内には、5つの小委員会が設けられている。自立生活プログラム小委員会、ピア・カウンセリング小委員会、`I`Lセンターの運営とその他のサービス小委員会、介助サービス小委員会、権利擁護小委員会など各小委員会は2ヵ月に1回程度全国委員会を開き、各委員会別に新入会員団体向けのガイド・マニュアルを作成している。所長セミナーも毎年開催し、運営技能の向上を目指し、社会の付託に足るILセンターの育成に努めている。2000年10月現在、JILには全国のILセンター95ヵ所が所属し、そのうち東京には25ヵ所がある。毎年約10ヵ所が新設されている。


第3節 自立生活とはなにか

 自立生活運動は1970年代にアメリカで、医療的なリハビリテーションが障害者を一生患者扱いし、自己決定権や自己選択権を与えてこなかったことに反対して、障害の自己肯定と自己尊厳の回復を、自らが福祉サービスの受け手から、提供者になることによって達成しようとし、大きな成果をあげてきた。この理念は、障害は克服しなければならぬものとの価値観をこれまで植えつけられてきた障害者にとって、180 度転換した思考方法を与え、福音となった。つまり、障害は個性であり、何ら更正する必要のないもの、変わるべきものは、車椅子者を配慮しない駅の階段や障害者を受け入れない学校や企業であり、人の心である。障害は社会が作り出したものであるとの発想の転換をしたのである。
 地域で障害者が暮らしていくために必要となる「力」には障害者に特有なものが多い。それも知識としてではなく体験や実行する中で獲得していく質のものが多い。介助を受ける立場から介助者を管理する力、調整能力、交渉能力が求められる。これはいわば従業員を5ー20名抱えた事業主の心境であろう。これを教えてくれる機関は自立生活センターの他にあるとは思えない。専門職の教育課程にはこのような科目は今のところない。
 自立生活センターでこれにあたるサービスが自立生活(以下IL)プログラムである。単なる生活力のスキルであれば一般的な専門家がリハセンターで教えても同じではないかと考えられるが、ところが経験や体験、実行から学ぶことは社会の中で突発的な事象が起こったり、偶然街で出会った人との関係性の中から生まれてくる。リハセンターのような閉鎖的空間の中でその体験をすることは不可能であろう。また白沢正和氏と対談したおりに「専門家は障害者に失敗をさせないようにケアマネジメントするのが良き専門家である」という。これは根本的な誤りではないか、人間は失敗しながら学んでいる。失敗できない施設の中で成長はない。自立生活センターのILプログラムは親元や施設にいて失敗を経験できなかった人に失敗をさせるためのプログラムだとも言える。危険回避とか責任の所在という陳腐な管理思想解き放ち、自己責任と自己管理という人間本来の権利を障害者に取り戻していくのが自立生活運動でもある。


第4節  自立生活センターとは何か

 米国ILセンターの資格要件、ILセンターが連邦政府の補助金を受けるための資格要件は、リハビリテーション改正法(1978年)によると、次のように規定された。
1 運営委員の51%は障害者であること
2 重要な決定を下す幹部の一人は障害者であること
3 職員の一人は障害者であることー
4 総合的なサービスを提供すること
5 そのサービス内容については、全米障害者評議会が1985年に規定した。ー情報提供と照会(介助者や住宅など)ーピア・カウンセリング(仲間の障害者によるカウンセリング)ー自立生活技能訓練ー権利擁護活動 これらのサービスは主要なものと考えられ、その他のサービスも奨励されている。また、サービス対象を一つの障害に限定せず2つ以上の障害とするなどILセンターの基準は年々厳しくなっていった。
 JILの規約は以下の通りであるが、米国の自立生活センター協議会(NICL)に見習うことが多い。(1)意志決定機関の構成員の過半数は障害者であること(2)意思決定機関の責任者又は実施責任機関の責任者が障害者であること(3)障害種類を問わず、サービスを提供していること(4)情報提供、権利擁護活動を基本サービスとして実施している上に、さらに次のサービスを行っていること ー自立生活プログラム ーピア・カウンセリング ー介助サービス ー住宅サービス そして2つ以上のサービスを行っているセンターを正会員、1つ以上のサービスを行っているセンターを準会員、いずれかのサービスを準備しILセンターの設立を目指しているセンターを未来会員とした。


第5節 サービス事業体としての自立生活センター

 自立生活センターは理念を持つ運動体でありかつ事業体であるべきである。事業体としての自立生活センターを追求していくと重度障害者のペースでやっていけないではないかという疑問が呈されている。この問題に答えながら自立生活センターの今後の向かうべき方向について提言したい。

1 理念について

 自立生活センターの目的は「どんな重度の障害を持っていても地域の中で普通に暮らせるようにすること」にある。そのために手足の利かない24時間介助の必要な最重度者で地域で暮らしているロールモデルは貴重である。自立生活センターの職員や利用者にこのような障害者がいて自立生活プログラムやピアカウンセリングをおこなえば、どんな障害者も自分も自立生活できるという確信が持てること。障害が重度であればあるだけ貴重な職員であると言うことは、これまでの資本主義の論理では有り得なかったことである。能力があって能率良く業務をこなすのが優秀だという世界から一番遠いのが障害者の世界である。
 自立生活センターを始める時にヒューマンケア協会の運営委員会で議論された最大の問題は、マックス・ウエーバーが言うように「資本主義者会が一旦スタートして巨大化の道をたどる時、誰もそれを止められない、それを止められるのは宗教なのか何なのか」という問いであり、その答えとして資本主義社会ではもっとも劣等な労働者である障害者から出てきた自立生活運動の理念、それが社会を変える理念になりうると確信したのである。そしてこの効率・能率・金銭至上主義の資本主義を逆手にとって、何もできないと思われていた最重度の障害者が最も優れた自立生活のロールモデルとしての能力を持ち、もっとも効率よくピアカウンセリングや自立生活プログラムで自立を支援できる存在であること。健常であり能力高い人の変わりはあるが、最重度障害者で自立生活をしリーダーになれる人の変わりはそうそういないという意味では、最も優れた職員足りうる。自立生活センターを訪問する人たちがここの雰囲気は何か心や安らぐゆったりとした何かがあるというのはそこに人々が求める新たな価値が創造されているということが言える。

2 事業体としての自立生活センター

 自立生活センターの特異な点は運動体でありかつ事業体であることにある。世の中にかってこのような組識が存在したことはなかった。資本主義社会の中で自立生活運動の理念を実現させる手段として意図的に私たちが考え出した組識である。特に障害者組識はこれまで障害別、地域別に立てられ、事業所を運営するために必要な人材を地域にも障害の種類にも係わらずに探し出して来て組織を作るという発想が皆無であった。介助サービスにおける3つの無制限つまり対象、内容、時間における無制限を実現すること。これを実現するためにはそのサービスの利用者に運営させる以外にない。資本主義の論理である最大の資本効率の追求から言えば、面倒で手間のかかる重度障害者の介助をするより手間のかからない軽度障害者でサービス時間が長くて儲かるもののみを対象にした方が良いに決まっている。事業体というものは常にこの方向に向かう危険性をはらんでいる。この方向性から逃れる唯一の方法は、24時間介助の必要な重度障害者へのサービスを各団体に義務づけ、その方向にいつも団体を舵とること。運営委員の51%と事業実施責任者が障害者であることである。このことによって明日の我が身のために、今日良いサービスを提供することが組識の中に自己目的化される。組織は一旦動き出すと善意だとか好意だといったことは一切期待できない。最重度障害者の権利を保障するためには、それをシステムの機構の中に最初から組み込んでおかなければならない。
 社会福祉事業法の改正によって2003年からは事業所を通さないとホームヘルプサービスは使えなくなるが、自立生活センターは積極的にこの事業所部門を関連組織として立ち上げ、利用者の要求に応えられるようにすべきである。事業費補助方式においてはサービスを提供すれば運営経費が収入として入るわけであるが、この収入を非採算部門である自立生活センターの運営費や新たに必要となる知的・精神・障害児・聴覚・視覚障害者へのサービスや福祉工房、移送サービスや新たに作られる国内外の自立生活センターへの立ち上げ資金として活用すべきである。決して介助サービス委託事業所の人件費や運営経費の肥大化のみに使ってはならない。それは資本主義の論理に取り込まれることであり、組識巨大化が自己目的化してしまうことになる。これはハワイのILサミットでも確認されたことである。オーストラリアの自立生活センターは権利擁護活動のみ、つまり運動のみを行いサービス提供に乗り出さなかったがために、職員も障害者も常勤で雇えず、週に1,2回来る職員のみに頼らなければならず弱体化してしまった。同じ轍を踏んではならない。
 このサービス組織の運営においても勿論運営の中核は障害者が担い、健常者スタッフや介助者の協力を得ながら進めていくことには変わりがない。そのためには健常者スタッフと障害者スタッフの間に運営の理念においての十分な合意と、共通の目的達成のための情報の共有化と役割分担の確認が欠かせない。
 自立生活センターはそれ自体が自己目的化することはない。障害が社会が生み出すものである限りいずれは消滅すべきものである。エレベータが駅にあれば足で歩く人も車椅子で移動する人にも対応できるように、最重度の障害者に対応できる介助サービスは誰にでも利用できる。そうなれば障害者は存在しても障害は社会の中に存在しなくなる。ただこれらのサービスや物が作られるためには障害者がサービスを運営し、行政にサービスの必要性を訴えていく運動以外に方法はない。自立生活プログラムもピアカウンセリング・プログラムも幼い時から統合された環境の中で育ち教育を受けることができるようになれば必要がなくなる過渡的に必要なものでしかない。
 今障害者はこれらの理念のもとに運動体として事業体として数多くの事業に取り掛からなければならず、それは少なからず重圧として各個人の肩に重くのしかかっている。しかし今これをやりぬく必要がある。次の世代の障害者が自立生活センターなど必要がなくなるために。

3.サービス事業体とは

 ILセンターを作る時には、これまで自分が属していた障害種別団体、地域別団体、ボランテイア団体、各種運動体、作業所等から身も心も解き放たれる必要がある。事業体とは1団体の利益のために働くものではなく、一般市民を顧客と考えてサービスを提供するものである。特定の団体に所属する人たちだけを優遇するようでは地域行政から信頼され事業委託を受けるようにはならないし、何よりも一般市民が利用したいとは思わないだろう。
 事業所とするには、定時(9時−5時)で事業が運営されること、依頼されたことが確実に実施されること、連絡を受けたことが担当者に正しく直ちに伝えられること、事務所が整理整頓され、きちんとした服装をし、丁寧な応対をすること、資料が整理され、報告書が期日に出ること、連絡調整のための定例会議が設定されていること、などが必要となる。
 これまで始業も終業も決めずに気ままにやってきた作業所や障害者団体が事業体に生まれ変わるためには相当な覚悟が必要になる。 そうはいっても、われわれは金もうけのための会社を作ろうとしているわけではない。行政にホームヘルパーの時間の増加を要求したりする運動体の部分が半分で、利益は目的とはしない。あらゆる重度の障害者が地域で暮していけるようにするために、24時間の介助サービスやILプログラムなどの生活支援のためのサービスを、障害当事者が中心になって提供する事業体組織を作ろうとしているのである。
 あらゆる消費物資もサービス産業もいかに消費者に喜ばれようと腐心している中で、福祉の世界だけが障害者が誰一人望まない施設を作り、他に地域サービスがないのでやむおえず皆が施設に入る(実際に地方では2000年の今も同じことが行われている)売り手市場であってはならない。さらに重要なことは、ILセンターの介助サービスは、これまでの義理人情のボランティア的介助の世界に有料介助制度を導入したことである。その結果これまで哀れみの対象であった障害者が、雇用者になり、障害者と介助者との関係を保護的なものから対等なものへと変えることができた。また介助の契約は障害者を入れた三者でおこなわれ、お互いに各々が責任を負える主体であると明確に規定した。これまで事故防止という名目の元に、いかに障害者は悲しい扱いを受けてきたことであろうか。ILセンターでは、日本の福祉の歴史上初めて障害当事者を責任の負える主体者であると規定した。
 事業をしていて給料を払う従業員がいれば、事業所登録はできる。これを無認可(非法人)の個人事業所という。これに対して非営利活動法人という制度が1998年にでき、ILセンターの内いくつかが取っている。
 これまでのボランティア団体と、事業体であるILセンターやNPO法人との違いはなにかというと、ボランティア組識ではあらゆる奉仕活動は無料でやるべきだという考えがあり、一方ILセンターでは職員が給料を取るのは当たり前で、これを無料ですることは継続性と責任を持ち、しかもサービスの質を高めていくという目的に反することでもあるという考えがある。NPO法人では、高給は取れなくても家族を養っていくほどには給料が取れるというのが理想であろう。
 ILセンターがNPO法人を取ることによって得られるメリットは、契約行為が団体名で出来ること、行政の委託事業が法制度上取りやすくなることが挙げられる。法人を取るときに注意すべきことは、役員(運営数)の3分の1以上が役員報酬を取ってはならないこと(但し、事務局の通常業務を行った事に対する給与は役員報酬とはみなされない)。総会を開催すること(総会の定足数は自由に定められる。総会の議決採決についても法上必要なものは定款変更、解散、合併の三つであり、その他は自由に定められる)である。書籍等の売上げで利益が出ると30%〜40%の課税をされるが、執筆経費等の必要経費の計上をキチンとすれば利益は上がらないはずである。売上げが3千万円を越える場合は消費税を支払うこと(但し、設立後2年間は免税措置がある)。複式、簡易簿記いずれかの正規の簿記形式に則った会計処理を行うこと。事業計画・報告を公開すること等が必要になる。

4.事業所と運動体

 これまでの障害者団体は脳性まひ、脊髄損傷等障害種別にその団体の利益を図るために行政交渉をしたり、運動をしたりするか、地域の障害者が集まりサロンを形成し、自分の団体の構成員の利益を図ることが多かった。これらの特徴は好きなときや必要なときに集まり、一緒になって何らかの作業や事業や運動を行うことである。
 運動体は要求運動を続ける限りは存続するが、目標が達成されたり、目標を放棄したときには解散される。事務局や責任体制は明確ではなく、事業計画や事業予算も必要がない。構成員も要求運動のたびごとに変わることがある。運動体は事業や運動が失敗に終わっても、だれも責任を問われることはない。運動体の社会的評価は下がるが、元のままの生活状況が続くに過ぎない。
 これに反して事業体の場合は、事業所の目的に沿った人材を集め、給料を払い、事務所に9時5時の時間で365日いつも変わることなく人が応対できることが必須条件である。そして誰に連絡しても情報が他の職員と共有されていて、事業所としての信頼感をもたれる必要がある。疲れたときも休むわけには行かない、事業所はいったん始めた限りは、勝手にやめるわけには行かない、社会的な責任を負った存在である。
 そのため事業計画をたて、3年後にこうありたいという目標を立て、その目標に沿って来年はここまで達していなければならないという事業計画を立て、それに必要な予算をつくる。新たな事業を展開しようとするときには、初年度に所内の意思統一をし、モデルとなるものを探し、見学し、資料を研究、検討、調査する。2年目には、ごく小規模な形でモデル事業を開始し、本格実施に向けての内部のシステムや必要書式等の準備を進めるとともに、行政等の外部に対しても実施能力のあることを事実として証明する。そして行政等に対して翌年度の本格実施のための人件費等の予算要求をする。その交渉の経過を横目に見ながら担当職員の発掘をする。3年目には本格実施し、職員を正式雇用し、事業を展開していく。これらのことは、事業体としては最低限必要なことである。

5.作業所と事業体

 作業所から自立生活センターに変身しようとする団体、自立生活センターを作りたいが、財政的な都合からとりあえず作業所の衣装をまとっている団体がある。作業所の運営のためには、補助金を取るために一定数の障害者を集めなければならない。人数が少なくなればそれだけ補助金が減るために障害者であれば誰でもよいから登録してもらおうという圧力が自然にかかる。
 自立生活センターにこれを変えようとするとき、すでに登録している障害者が職員となることはできない。収入が減ることを覚悟で登録をはずし、職員とするか、作業所の利用者にとどめるか決断を迫られる。指導員と呼ばれている健常者の職員が、所長、事務局長が障害者であると言うところでさらに継続して働けるかどうか。給料を取る職員と、作業所の通所者とに分離されることなどの問題が起こることが予想される。
 さて、以上の問題が解決したとして、実際に事業所をスタートするのに当たって問題になるのが事業所の雰囲気作りである。作業所の時には朝9時から始まると言っても10時、11時に出てくる者がいても、体調や都合が悪いのだろうとさして問題にされないし、それが運営に支障をきたすと言うことはない。事業所であれば、5時になると普通は終わるはずなのが、作業所ではそれからボランテイアの人たちが集まり始めて活気を呈し始める。
 責任のない利用者の立場でにぎやかに楽しく送れればよいというところから、責任のある有給の職員となったからには、8時間の勤務時間はきっちり働いてもらわなくてはいけないし、遅刻はもっての外である。作業所の通所者が職員になった場合に、電話をとったときにきちんとした対応ができるか、連絡や、依頼を受けたことについて責任ある処理ができるか。そのために必要な研修を受けたり、気持ちの切り替えをすることも必要である。気持ちの切り替えをするために、普段着で通っていた作業所に変えて、ビジネス用のスーツに着替えることで事業所の気分になれるということもある。

6.健常者職員と障害者職員との関係

 自立生活センターでは介助の必要な障害者が、健常者のコーデイネーターと同じ職場で働くことになる。職場に介助者が入るということはこれまで人類が経験したことのないことなので、どう介助者に対応するのか、それとも職員が手助けすべきなのか、悩むことであろう。介助者を職場に入れれば職員の負担が減ってよいではないかと思われるかもしれないが、それでは職員よりも介助者のほうが仕事の内容について精通してしまい、職場の守秘義務が守れない。そこで介助者を職員として雇うか、障害者職員の介助を健常者職員がすることになる。
 障害者職員の介助を健常者職員が嫌がらずにできるようになるためには、それなりの配慮や理念の共有が必要である。そのためには、新人職員が入社するときに、次の様なことについて説明をし、納得してもらってから働らいてもらうべきである。自立生活センターが当事者主体で運営されているからこそサービスの質が保てること、所長や事務局長には永久に健常者職員はなれないこと、それは利用者とともに一生障害者として同じ地域社会に生きて、同じ介助の利用者であることから来る利用者の信頼感を与えうるからであること。その障害者がいなければ、自立生活センターは成り立たないこと、その障害者職員の介助を職場ですることは意味のあることだということ、等を理解してもらう必要がある。
 職場で一緒に働く場合、会議で意見を交わしたりするかぎりは対等であってよい、しかし、障害者職員が棚の上にあるファイルが取れないとか床に落としたペンが取れないと言うときに、自分の仕事を中断しても直ちに手助けに行くべきである。そうしないと障害者職員は仕事が続けられないのだから、そうして初めて対等に仕事ができるのである。また障害者職員は、障害ゆえに体力がなかったり、健康維持のためにフルタイムでは働けない場合がある。そんな場合は、週3回とか4回に出勤日を短縮する配慮や、勤務時間の短縮も必要であることを理解してもらう。結果として健常者職員のみに残業や休日出勤が集中することにもなるが、そのことも仕事を始める前によく理解しておいてもらえば、後でトラブルにならなくてよい。職員を介助の経験者から選んでおくと、これらのことを説明する必要がなくなることと、泊りがけの出張に介助者兼で付いていってもらえるので有効である。
 そうは言っても、職員の立場に立てば負担の多いことである。常に理解してもらう努力が障害者職員には求められる。そのために、毎週行われる会議の折に、都道府県や市町村の行政の施策の中でどのように自立生活センターが意味ある活動をしているかを常に話して、健常者職員の仕事の意味を本人に納得してもらうことである。


第6節 介助サービス

 介助サービスは、無認可の事業所としての自立生活センターが行う場合とNPO法人を取って行政のホームヘルプ事業の委託を受ける場合とがある。前者では時給800 円から1,000 円、後者では1500−2000円程度の有償で提供される。利用者は介助者に時給を支払うことによって雇用者の立場に立つ。従来の福祉サービスは行政が施すものであったし、ボランティアの介助は与える者と受ける者の上下関係がどうしても避けられなかった。それを打破しようとする当事者サイドの要請から、有償で制度化された。
 サービスは利用者のニードに忠実に従って行われる。サービスの対象は老人、身体や視覚、聴覚、精神、知的、内部等の障害者、妊産婦、足を折った人などあらゆるハンディキャップ者であるべきである。行政が決めた年齢や障害手帳のあるなしで対象を決めるべきではない。介助利用者である障害者があらゆる人にサービスを提供することによって、社会の中での障害者の評価が高まってくる。
 介助の依頼があると事務局のコーディネーターが訪問し、依頼内容を掌握するとともに、公的介助サービス、住宅の改造、自助具の使用などの情報を伝え、有効に社会的資源を活用しつつ自立生活を援助する。利用者のニードに見合う介助者がリストより選定、紹介される。この際利用者は気に入った介助者を選べる。利用者の自己選択権を尊重すると、こうしたシステムになる。
 ILセンターにおいては介助の利用者は、責任の負える主体と考えられているので、寒い日に外出するという利用者はとめられたりはしない。センターは当人の意志を実現するサポーターに徹している。自由意志をもつことが自立の原点であり、それには自己責任が伴う。施設は安全第一であるが故に、自由は制限され、管理と保護が前面にでる。


第7節 ピア・カウンセリング

 生活技術面での自立も時間のかかる困難な過程であるが、それにも増して大変なのが心理面での自己確立や障害の需要である。もの心がついた頃から、「障害者だからやってはダメ」「結婚はできない」「外出すると人の迷惑になる」など自信を喪失させる言葉や尊厳を傷つけられる命令が続くと人間は、自分で何もできない存在、何の価値もない存在と思い込んでしまう。このような状況にまで追い込まれてしまった障害者が自己信頼を取り戻して行くためには、カウンセリングが必要である。そのカウンセリングは同じ障害をもつ者がカウンセラーおよびクライアントとなり、対等なピア(同士)としての関係で行われることが肝要である。
 心を開き、過去の傷から解き放たれることが自立への第一歩となる。ピア・カウンセリングでは、障害をもっていることは一つの「個性」でありそれ自体何も悪いことではないと伝えられる。ただ周りの社会がその受入れ体制を用意していないため、自分が悪いような気がしているだけで、社会の人の心の中の偏見や建築上の障壁を取り除くことによって、障害者は障害者でなくなるのである。
 「ピア」という言葉は、1970年代より米国のAA(アルコール中毒者の団体)の中で使われていたが、ピア・カウンセリングとして使われたのは日本では障害者の世界においである。これにカウンセラーとクライアントという上下関係を作らないコウ・カウンセリングの技法を取り入れたのは、ヒューマンケア協会にコウ・カウンセリングを習得した職員がいたためである。米国でも同様な方式でカウンセリング・プログラムを作っているところがある。
 障害者は自立生活の援助者としては誰よりも専門家であることを社会に知らしめていくためには、自分たちで「ピア・カウンセラー」の資格制度を作る他ないと考えたからである。それ故この名称を先ず意図的に広めようとした。幸いこの「ピア・カウンセラー」はマスコミや福祉業界に広まり、国も知的障害者の分野で最近この言葉を使い始めている。
ピアカウンセリングの何が有効なのか。障害を受容し克服していく過程でロールモデルの果たす役割については理解しやすい。しかしさらに重要なのは同じ地域に住み一生涯にわたり同じ障害者として見捨てることなく支援してくれる仲間が存在すると言う安心感だろう。この信頼感に裏打ちされてピアカウンセラーは他の支援者に比べ格段に重要な地位を占めるのである。
 2000年5月1日の福祉新聞によると授産施設で生活している障害者の`6割は町で暮らしたいといっているのに対して親の`8`4%はそれに反対している。この場合ピアカウンセラーは親や施設職員よりはるかに強く本人の支援者になれる。そして自立生活センターのあるところでは本人の不安感を自立生活体験室での体験的プログラムやピアカウンセリング・プログラム等の精神的エンパワープログラムによって徐々に取り除き、本人のペースに合わせた支援態勢を整えていく。最初は反対していた親も徐々に心を開いて行く、そして最後には本人の自立を心から受け入れるようになる。
 一方、自立生活センターのような当事者支援のシステムやプログラムや介助サービスをもたない孤立した障害者が福祉センターやリハセンターに雇われた見かけ上のピアカウンセラーの場合、国の身障相談員制度と同じ事が起こる。年に1ー2度しか相談が来ない、きても月に1回程度の相談日では聞くだけで支援にまでは程遠い。毎日障害者が常勤でいて相談に乗れなければ誰も信頼して相談しようとは思わない。市町村障害者生活支援事業はピアカウンセラーのいる自立生活センターでこそ行うべきなのである。


第8節 自立生活プログラム

 日本で始めて自立生活プログラムが行われたのはは1986年6月にヒューマンケア協会が通所センター「第一若駒の家」に通う障害者を対象に行ったのが最初である。施設や在宅の閉鎖的な場所で暮らしーきた障害者が社会の中で自立生活をしていく時に、対人関係のつくり方、介助者との接し方、住宅、性について、健康管理、トラブルの処理方法、金銭管理、調理、危機管理、社会資源の使い方、目標設定、など具体的な生活技能を先輩の障害者から学ぶためにつくられた、障害者文化の伝達の場ともいえるものである。個人別プログラム、グループ・プログラムの2種類があり、プログラムには3ー5回程度の短期プログラムと12―15回で3ヶ月以上かかる長期プログラムとがあり、参加対象者の生活経験や年齢、障害の種類などを考慮してさまざまな内容のものが企画されている。3年間の思考錯誤を経てつくられたプログラムの基本型が、1989年にヒューマンケア協会から発刊された「自立生活プログラム・マニュアル」である。このプログラムがモデルとなり、全国のILセンターで現在同様のクラス形式でプログラムが実施されている。米国でも自立生活技能コースが様々な形で試みられているようであるが、我々の文化に根ざした自立生活プログラムは独特なものが必要であった。自己主張(assertiveness )を美徳とみない日本でその必要性を伝え、しかも相手を説得する技術は誰にとっても難しいものであった。日本で蓄積した自立生活普及のためのそれらの技術は、同様の問題を抱えるアジアとも分かち合われるべく、1994年に英語版Independent Living Skill Training Manualとして同じく出版され使われている。
 2003年にはケアマネジメントが障害者にも適応される。その際セルフマネジドケアを自立生活センターの支援があればできるという人を増やしておく必要がある。


第9節 知的障害者、精神障害者の自立と聴覚、視覚障害者のサービス

 各自立生活センターにも知的障害者の介助依頼のニードが上がってくる。現在のところは、就学児の帰宅後の遊びや勉強の相手として、主に親からの引き離しと、親以外の介助者との人間関係作りのような依頼が多い。自立生活(IL)センターは障害当事者のための援助組織であり、親のレスパイトのみを目的とした依頼については親と当事者にその自立に向けての意識ずけをするように話し合うことにしている。また自閉や多動の場合誰でもが介助できるわけではないことと緊急性がそうないことを考え、熱意があって適切な人が現れるまで待機リストに載せ待ってもらうことにしている。また同じ人が介助に入る必要があるので、間欠的な依頼は受けず、月1回でも定期的な依頼にしてもらっている。
 都内の3ヵ所のILセンターでは既に3、4度の知的障害者の一人暮らしを支援している。この場合家事援助、身辺援助の介助者のコーディネーターはその事以外の相談を深夜、早朝に拘らず受けることになる。2000年4月からは国制度で知的障害者ガイドヘルパーが使えることになり、市町村では実施要綱の作成が始まっているところである。国の要綱で始めて社会参加が項目に書き加えられたが、この交渉の過程でピープル・ファースト等の当事者自身が直接その希望をぶつけていったことは大きな前進であった。本人の希望する生活を実現するために新たなILセンターの介助サービス・システムの構築を急ぐ必要がある。今、国は都道府県で知的障害者のケアガイドラインのモデル事業を展開しようとしている。ということは知的障害者のケアマネジメントが近々制度化されるということである。とすると知的障害者のケアマネジャーの育成は根幹を成す重要課題となる。 このモデル事業でコーディネーターとは別に相談専門員としてのサポーターの必要性が証明できれば、今後の展望は開けてくる。
 各地のピープル・ファーストなどの当事者組識がサポーターや自立生活センターや推進協会等の支援を受け自分たち自身の自立生活センターを作る日も近い。
 これまで精神障害者団体の中ではピアカウンセリングがおこなわれ、地域での自立生活が目標とされ、それを様々な方法で支えてこられた先駆的な活動があった。自立生活センターはその規約において、運営の委員の51%と運営責任者が障害者であることという当事者主体の理念を有する。またその組織は身体障害、精神障害、知的障害、視覚、聴覚障害、高齢者等の障害枠を超えていることとの要綱を持つ。精神障害者への介助サービスも手がけているが、まだそのための専門職員や専門介助者を養成するところまではどのセンターも至っていない。しかしながら地域の家族会の職員や精神当事者団体のサポートを受けながら相当なレベルにまでその技能を高めている自立生活センターも存在する。
精神障害者の当事者組識が地域福祉権利擁護センターを受託した。この延長上に精神障害者当事者が運営する自立生活センターが全国各地にできことを支援することがこの協会の目的でもある。
 聴覚障害者の手話通訳者の育成に関しては当事者参加が果たされているが、サービスの運営に関しては社会福祉協議会などに委託されており、これを今後当事者運営に変えていく必要がある。また職場での悩みや対人関係のトラブルなどを解決する手段が用意されていない。ピアカウンセリングが一部で受け入れられ始めているので当事者のリーダーが今後生まれることが期待される。
 視覚障害者のガイドヘルパーはやはり社会福祉協議会等に委託されていることが多く、用途制限や時間制限があって使いずらい。視覚障害当事者がガイドヘルパーのコーデイネーターをやり完全な社会参加を保障するサービスに変えていかなければならない。全ての障害者が自分たちのサービスを自分たちで管理できるようになることが推進協会の最終的な目的でもある。


第10節  ロールモデルと当事者支援の重要性

 施設や在宅で長く暮してきた障害者は情報と経験がないために自分に何ができるか、自分にも自立生活が可能かなどの問題について何ら自信を持てるようになるきっかけがない。重度の障害者はえてして自分が最重度で何の希望もないように思い込んでいることが多い。こんな時自分より明らかに重度の障害者が地域で自信にあふれて自立生活している姿をみると大きなショックを感じるとともに生きる希望を見出すことになる。これは専門家や健常者がいくら言ってもどうしようもないことで、ひと目見ること以外解決を見ない。これをロールモデルという。
 当事者である障害者でなければ、障害の理解と受容は伝えることもできないことであり、言語障害をもつものにとってコミュニケーションをどうとっていくかは、先輩の障害者がILプログラムの中で伝えてきたことである。
 福祉サービスの活用法はILセンターならではのノウハウの蓄積が既にある。障害者にとっての家事・家庭管理・育児等は、障害者がサポーターとなって教えている。たとえば、車椅子の女性の出産、子育てなどは、同じ障害をもつピアサポーターでなければできないことである。いかに熟練したPT,OTなど専門家でもこれはできえないことである。社会生活、職業生活を円滑に行う知恵は障害をもって生きてきた者の文化である。郵便局へ行ったり、掃除などの雑用のできない障害者の新入社員が会社の中でどのように人間関係を作っていくかは先輩に教わるのが一番である。


第11節  エンパワメントと運動

 わが国でも重度障害が地域で自立生活をすることが多くなり、それを支える自立生活センターが全国100ヵ所にも近く広がる等、2000年代の障害者の状況はそれ以前とは大きく異なる。障害当事者が福祉サービスの受け手から担い手になり、介助サービス、自立生活プログラム、ピア・カウンセリング等のサービスを提供することにより、サービスの受け手の立場とサービスの提供側の立場を同時に経験したことは、その政策提言や権利擁護活動がより現実的、具体的になり、だれをも納得させうるものになってきたことを意味する。
事実、自立生活センターの内十数箇所はすでに無認可団体であるにもかかわらず、国制度の市町村障害者支援事業の委託を受ける等、これまで社会福祉法人格のない団体がなしえなかったことを行い、しかも障害当事者のピア・カウンセラーをこの事業の担い手として国に認めさせることに成功し、当事者の持つ有効性をその`1`4年の実績をもって示してきたと言える。
 このような草の根レベルでの地道な活動の積み重ねの上に、自立生活センターの活動が社会に認められ、有効に機能し始めたと言える。毎日電動車椅子で通勤のため階段のある駅舎を駅の職員や通行人に運ばれ、多くの人にエレベーターのないことがどんなに障害者の社会参加を阻んでいるかを訴え続けた存在があったからこそ、エレベーター化指針が出たわけであろうし、身の危険も恐れず施設や在宅から飛び出してきた障害者の先輩がいたからこそ、ホームヘルパー制度がその実態に合わせるよう24時間対応を国としても進めるように代わってきたのである。自立生活センターの活動は常に実態を作りそれを元に要求し、改善を図っていくというスタイルを取ってきており、それは世界的に共通の方法であり、どこでも成功してきている方法である。
従来型の運動は実態のないところで、当人自身は実際の当事者でないところで、仮想の上に要求が続けられてきた。それは緊迫感のないゲームでしかなかったといっては言過ぎだろうか。自立生活センターは女性差別の問題においても先ず自らにその同性介助を常に考慮してきた。地域バランスも常に考慮してきた。特定の地域の利益が優先されることのないようにすることは重要である。
 人権は個々のメンバーや他の人の人権を尊重してこそ初めて自分の人権も尊重されるものである。自立生活センターは政策提言機関としてまた実効性ある当事者自身の運動団体として先駆的であるとともに、世界の潮流でもあり、今後の世界の福祉の先導役となるものである。またそれにとどまらず、行きずまった現代社会に対して、個人の主体性と自己確立という鍵になるテーマにおいて自立生活運動という回答を与えるものである。


第12節  障害者団体と行政

 これまでの福祉は、当事者のニードを踏まえて立案されてきたものではない。社会の不満を吸収する安全装置としての福祉施策であった。それ故恵みの福祉であり、その受給者はスティグマ(烙印)を貼られ、障害者と認定されて初めてそれと引き替えに受給権を得る。たとえば、施設は当事者の発想からは生まれるものではない。施設という箱ものを作れば、その管理が必要になり、職員を効率よく働かせるためには、利用者の生活は規則に縛られる。安全という名のもとの管理はこれを助長する。
 行政が政策立案し作るものは我々のニーズを反映したものではない。われわれ自身が政策立案過程に入っていって政策を作るのが自立生活センターの最終目標である。
これまで、福祉担当の市役所職員は2、3年交代で部局の配置転換があった。このような状況では福祉サービスの窓口で市民の問い合わせに十分答えることは不可能に近い。一方、ILセンターの職員は10年経っても福祉サービスの利用者であり、制度の専門家でもありうる。行政の職員にかわって我々自身が生活支援事業の職員となって窓口業務を担当する方が現実的である。それにはピアカウンセラーが最適である。障害当事者の制度の専門家を各自治体でも育てるべきである。
 福祉サービスは今後、手当、介助、施設、福祉機器等、ニーズ別の窓口で行うべきである。それと同時に、教育、住宅、建設等、市の全部局に福祉担当を置くべきである。箱もの予算はやめ、ニーズを基に予算を立てるべきである。入浴はデイセンターではなく自宅の風呂場を改造して介助者がくるのが当然のニードである。これを実現するような予算編成を行うべきである。グループホームの場合も、知的障害者の小グループがつくられてから、彼らの家を借りる住宅政策として予算化するのがあるべき施策である。グループホーム自体障害者が望むとは思えないが。
 福祉施策の進め方については、障害当事者と非営利の民間サービス提供団体を全ての福祉関係委員会に入れる。そうすることによってはじめて福祉が、当事者のためのものになるわけである。それ以外の方法は考えらない。計画の立案と実施に対する市民参加の保障と、住民によるサービスのチェック機構も必要である。地域福祉の目標は単にサービスを充実することではなく、偏見や差別を解消し、基本的な人権が保障される社会をつくることである。



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