本邦での生殖補助医療(Assisted Reproductive Technologies: ART)におけるエンブリオロジストの役割とその現状
IVF大阪クリニック副院長
福田愛作
はじめに
1978年に世界で初めての体外受精児ルイーズブラウン嬢が誕生した。この成功を成し遂げたのはパトリック・ステップトー博士(医師)とロバート・エドワーズ博士(生物学者)の共同作業であった。この成功は体外受精胚移植法という新しい技術、生殖補助医療(Assisted reproductive technology: ART)を不妊治療にもたらした。またそれと同時に医師以外の協力者なくしては出来ない医療の誕生という臨床医学では今までになかった状況を生み出したという点でも画期的な出来事である。すなわち卵子や精子、そして受精卵や胚をあつかうエンブリオロジスト(胚培養士)という新しい職種を生み出したのでる。本日はこのエンブリオロジスト(以後この名称を用います)について日本における現状を、現在世界の体外受精をリードしていると考えられるアメリカの実情と比較して解説します。
1.生殖補助医療(ART)の特殊性
従来の医療では医療機関、特に医師が対象として接する相手は患者、即ち男女どちらかの大人や子供であり、結果として求められるものは病気を治すということであった。医師を取り巻くコメディカルとして看護婦や検査技師などが存在した。そして医師や科学者(PhD)の集団が新しい技術の開発により医療を間接的にサポートするという協力体制であった。
生殖補助医療では大筋としての情況は変わらないが、対象とする相手は患者夫婦という大人の男女ペアと配偶子(精子と卵子)および受精卵や胚であるということです。そしてその結果病気を治したあかしとして新しい生命の誕生がある。患者夫婦に対しては従来どおりの対応で可能であるが、配偶子や受精卵に対してはそれを専門に扱う人々,即ちエンブリオロジストが必要となる。ARTと他の医療との最大の相違点は新しい命を扱うという点である。
2.エンブリオロジストの仕事
3.エンブリオロジストに要求されるもの
4.日本におけるARTの特殊性とその背景
日本では現在でもARTにおいてすべての事柄(臨床から培養にいたるまで)について医師が圧倒的な力を有している。その背景として、日本では歴史的に、医師が海外や国内で体外受精の技術を学び、患者診療から培養液の作成,精子や卵そして胚の培養のすべてを医師自身でおこなってきた。そして件数の増加にともない診療との両立が難しくなり、おもに検査技師にその業務を指導し行わせるようになり、現在に至っている。
海外ではまず生物学者(PhD)がヒト卵子の体外受精に着目し、言わば卵子採取のテクニシャンとして医師の協力を得て、この治療法を開発したという経緯がある。
アメリカでは不妊専門の医師でさえ培養関係の事柄についてはまったく知らないと言える。またアメリカでは多くのARTクリニックが大学と直接または間接に関係を有しているが、日本では多数の症例をおこなっているクリニックはすべて私的施設である。
アメリカの場合と比較し日本の現状を以下の表に示した。
体外受精の黎明期
アメリカ | 日本 | |
診療 | 不妊専門医(アメリカ不妊学会認定) | 産婦人科医師 |
体外受精 採卵 胚移植 |
不妊専門医(アメリカ不妊学会認定) | 産婦人科医師 |
培養液作成精子,卵,胚操作 | PhD. (主に生物系博士号取得者) 動物実験における基礎知識や技術をベースとして |
産婦人科医師 医師が海外で技術を研修 |
基礎研究学会発表 | PhD. (主に生物系博士号取得者) 妊娠率の向上と自身の名声のため |
産婦人科医師 学位論文のための研究として |
体外受精の現在
アメリカ | 日本 | |
診療 | 不妊専門医(アメリカ不妊学会認定) | 産婦人科医師 |
体外受精 採卵 胚移植 |
不妊専門医(アメリカ不妊学会認定) | 産婦人科医師 |
培養液作成精子,卵,胚操作 | PhD. HCLD. (主に生物学系博士かつアメリカバイオアナリスト協会 (ABB) 認定ラボラトリーディレクター取得者) テクニシャン(修士,学士,検査技師) |
産婦人科医師 エンブリオロジスト(主に検査技師、一部農学系博士、修士、学士、薬剤師、看護士) |
基礎研究学会発表 | PhD. HCLD. (主):妊娠率の向上と自身の地位、所得、名誉向上のため | 産婦人科医師(主) エンブリオロジスト |
現在では日本でもARTをおこなう医師の中に、培養室の仕事をまったく知らない場合も多い。しかし、培養室の仕事を顕微授精まで含め医師がおこなっている場合もある。
5.日本のエンブリオロジストとは
アメリカ | 日本 | |
資格認定 | HCLD (ラボディレクター: 培養室の管理職)、スーパーバイザーをABBが筆記試験により認定 | 胚培養士(日本哺乳動物卵子学会が講習と面接試験により認定)臨床エンブリオロジスト(臨床エンブリオロジスト研究会が実地研修参加回数により認定) |
認定資格の公的有効性 | HCLDにより州の免許取得 体外受精培養室の公的認可申請 |
なし |
認定資格の有用性 | 転職に有効(殆どの施設でHCLDがなければ室長として働けない) | 現時点では、なし |
エンブリオロジストの構成 | 培養室長:100%PhD. HCLD テクニシャン:修士,学士,検査技師 |
一部は産婦人科医師(顕微授精までおこなっている場合もあり) 90%が検査技師、一部農学系博士、修士、学士、薬剤師、看護士 |
エンブリオロジストの権限 | 培養関係では医師より強い 学術面では独立性あり |
非常に弱い |
エンブリオロジストの社会的地位と収入 | 殆どのPhDが大学の教職の地位(講師、准教授や教授職)を兼務しているためARTを辞めても生活可能。 高収入だが成績により解雇されることも。 |
私的施設勤務者は通常検査技師と差はない。ほんの一部を除いて検査技師の給与である。しかし、ARTの成績により解雇されることはない。 |
アメリカでは不妊関係の学会では発表者は殆どPhD,HCLDである。日本において名の知られたART関係の人物は殆どPhD,HCLDであり医師ではない。日本の学会での特別講演などで招待されているのもこのような人たちである。また体外受精関係の書籍の著者もすべてこのようなPhD,HCLDといって過言ではない。
6.日本におけるエンブリオロジストの将来像
平成14年4月27日28日に日本哺乳動物卵子学会による認定胚培養士の面接試験がおこなわれた。臨床エンブリオロジスト研究会(会員数約350名:殆どが臨床検査技師)による臨床エンブリオロジストの資格認定も既におこなわれているが、学会(日本哺乳動物卵子学会)が主体として試験おこない、他の学会(日本産婦人科学会,日本不妊学会、日本受精着床学会)が認める初めての資格認定である。いかなる認定方法が良いかは議論のあるところであるが、エンブリオロジストの資格認定がエンブリオロジストの質の向上とひいてはARTの成績向上につながることを期待するとともに、エンブリオロジストという職業の確立、さらには社会的地位の向上へ向けてのステップとなるために必要不可欠だと思われる。