平成13年度厚生科学研究
「生殖補助医療の適応及びその在り方に関する研究」
− 矢内原班・施設基準 −
分担研究者 | |
昭和大学名誉教授 | 矢内原 巧 |
研究協力者 | |
慶應義塾大学医学部産婦人科教授 | 吉村 泰典 |
昭和大学医学部産婦人科助教授 | 田原 隆三 |
同 助手 | 岩崎 信爾 |
自治医科大学産婦人科助教授 | 柴原 浩章 |
緒言
わが国で体外受精胚移植法による妊娠・出産例が初めて報告されてからすでに15年が経過し、本法による出生児数が毎年10000人、全出生の1%を数えるようになったことから考慮しても、本法は不妊症治療の中心的役割を担う位置を確立しつつあるといえる 。これまでわが国において体外受精施設の設備および人的資源の整備については、個々の施設の自主規制に任されてきた。このシステムがこれまで大過なく運営されてきた大きな理由は、日本産科婦人科学会がいち早く生殖補助医療の応用指針を公表したことの他に、体外受精法・顕微授精法が、ある程度確立した培養技術を用い、婚姻した夫婦間の成熟した配偶子(精子・卵子)のみを用いて施行されていたため、技術的・倫理的に問題となる点が少なかったことにある。
しかしながら近年の生殖科学の急速な発展により、着床前遺伝子診断技術、第三者の配偶子や子宮を利用した不妊治療、未成熟卵子・未成熟精子の利用、あるいは余剰胚を用いたクローン技術の応用による疾患の治療といった技術が実際に臨床応用可能となってきた。このような高次生殖補助医療技術は、胎児の選別、親子関係の変化、胚の細胞生物学的あるいは遺伝学的改変を来す可能性をも包含している。そのため臨床応用にあたっては高度な技術と共に高い倫理観に裏付けられた一定の規定に基づいて行われる必要があり、これらの技術を行う施設が備えるべき条件を明示することは緊急の課題となっている。従って着床前遺伝子診断、提供者の配偶子・胚を用いた治療、クローン技術を応用した臨床研究など高次生殖補助医療技術を行う施設が有すべき条件は、配偶子・胚に有害な影響を与えないための施設・設備といった、単にハード面のみにとどまらず、国・学会が定めた規定の遵守を目的とした有効な規制を可能とする、適正な専門資格の設定をその骨子とする従事者の資格面での整備がより重要である。
本研究班では、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ等の諸外国における生殖補助医療施設が有すべき条件を定めた複数の報告を参考とし、将来技術的に可能となってくると考えられる、前述した高次生殖補助医療技術を行う施設が備えるべき基準を検討した。
I 施設基準
生殖補助医療を行う施設においては、配偶子や胚に対して有害な影響を与えないための基準が設けられるべきである。この基準は配偶子や胚の提供による生殖補助医療を行う施設においても遵守されるべきである。
1) 体外受精培養室・前室 (= IVFラボ)
IVFラボとは採卵された卵子の観察、媒精、顕微授精手技,精子処理や胚操作等のいわゆるIVF−ET(体外受精―胚移植)の胚取扱室を指す。ART(生殖補助医療)において、安定した成績を収めるためにラボが果たす役割は非常に重要である。培養環境は配偶子、胚に直接影響を及ぼし、また運用に於る機能面からもラボの設計、配置には細やかな配慮が必要であり、さらに運用後のクオリティーコントロールも重要である。
<衛生環境>
培養環境は高温、多湿であり、培養液は栄養価が高く、細菌や真菌類が増殖しや すい。そのため無菌的操作が行える環境が必要である。
手術室並みの清浄度と無塵状態を保たなければならない。
培養室内では無菌衣、帽子、マスクを用意しておき、入室時には必ず着用する。
培養室・培養前室ともに不使用時には、紫外線を点灯し殺菌する。
定期的に手術室のクリーン度検定用の寒天培地シャーレを用いて、落下細菌試験を行い、空気の清潔度を確認することが望ましい。
少なくとも1週間に1回は定期的に清掃を行うべきである。清掃の際、洗剤は用いず、水で湿らせた布で床面を含めたすべての部分のふき掃除をする。
<空気>
施設を作る前に、ラボ内と外の揮発性有機化学物質の濃度を測定しておくべきである。
ラボ全体の空気を浄化する為、活性炭フィルターなどを使用することも考慮する。
外部からの雑菌の進入を防ぐため、除菌フィルターを設置し空気を流入させ内部を陽圧に保つ。通常、毎時7-15回の空気換気をしつつ陽圧(少なくとも0.10〜0.20 インチ水圧)とする方法がよい。
ラボ内の空気は密閉された供給源と環流管のもと、100%ラボ外の空気を化学的および物理的フィルターに通したものを用いるのが理想である。
<広さ>
採卵件数にもよるが、2名の胚培養士が平均1日1〜2症例のIVFを処理するならば、少なくとも15〜18 m2程度のスペースは確保すべきである。
ラボ゙は安全な労働環境とART研究室の手技のクオリティを保証するために、十分な広さと適切な環境を確保しなければならない。この基準はART手技を成功させるため必要な無菌環境を規定するだけでなく、従業者の労働環境を保証できる。
採卵する場所のできるだけ近くに設置する。採卵された卵は手術室と壁で隔てた位置にあるクリーンベンチ内の実体顕微鏡下で詳細かつ迅速に検鏡できるように設計することが望ましい。
器具類は全て培養室の壁面に沿って配置し、中央部分はフリースペースとするのが望ましい。
配管や機器の設置の際は、メインテナンスや修理作業をラボの外側で行えるような設計にして、極力業務の支障にならないように配慮する。
あらかじめ、避難経路が確保された設計にする。
<出入り口>
ラボの出入り口が採卵室(手術室を利用してれば手術室)と共有で1箇所の場合、不備を生じるので、できれば採卵室とは別にラボに出入り口があるほうが良い。
培養室前室にはエアカーテンを設置し二重扉とする。
ドアは施錠できるようにする。
<照明>
ラボの室内は自然光(太陽光)を避け、室内照明だけとすることが望ましい。
胚への影響をコントロールするため、自然光、蛍光灯、顕微鏡からの紫外線を遮断する。
顕微鏡には紫外線カットフィルターを取り付ける。
ハンドリングチェンバーや顕微授精装置のフードに紫外線カットフィルムを貼る。
室内光量は、顕微授精の針の取り付けや卵、胚の移動に支障がない程度に少し下げるべきである。
<温度・湿度>
室内の温度、湿度は、作業員が最も能率よく仕事ができる条件に設定する。
一般に卵,胚培養温度は37℃が用いられ、培養器から出し入れするディッシュも同様の環境が望ましいとの考えから、ラボの室温を30℃あるいはそれ以上に保つべきとする考えもあるが、これは作業能率の低下をもたらす危険があり、逆効果と考えられる。但し、必要に応じてラボ内の温度は30-35℃に、湿度は40%以下に調節可能であることが望ましい。
<振動,音響>
音響は(作業工事現場のようなものを別とすれば)なんら問題ない。
顕微授精を行う際には、除振台を設置する等の配慮が必要である。
クリニックが交通量の多い道路に隣接しているような場合には最初から強固な架台を用意しておく必要がある。
<その他>
<クリーンベンチ>
配偶子や胚の操作、培養液の調整などはすべてクリーンベンチ内で行う。
不使用時には70%アルコール消毒、UV照射を必ず行う。
チャンバー内に設置するものは必要最少限とし、実体顕微鏡、ウォームプレート、ヒートブロック以外はなるべく恒常的におかないようにする。
<インキュベーター>
使用者はあらかじめ使用説明書をよく読み、調節や補正の方法に習熟しておく必要がある。使用前に内側の棚を全て取り外し、その内部の構造をよく確認しておく。
必ず2台以上設置する。
インキュベーター内は雑菌が繁殖しやすい環境にあり、定期的に清掃、消毒が必要である。
温度、湿度、酸素濃度などを一定の時間を決めて毎日点検する。チェックリストはインキュベーターの扉に貼っておいて記入しやすくしておくことが望ましい。
年に1・2回は業者による徹底点検を行うようにするのが望ましい。
不慮の事故(故障、停電など)の際の対応のほか、胚発育の環境の面からも扉の開閉は最小限にすべきである。
ART症例の数:設置インキュベーターの数の比は一概にはいえないが、原則として、その比は最小限に抑えられるべきであり、1台のインキュベーターに対して4症例以下の比率になることが望ましい。
<倒立位相差顕微鏡・顕微授精用装置>
顕微授精を行うため、倒立位相差顕微鏡とマニピュレーターの設置が必要である。
テレビモニターシステムを付属すれば、モニターを見ながら操作することが出来るためなお良い。
<液体窒素容器>
火事や停電の時には液体窒素の場所をすぐに移動させなければならない。そのため、あらかじめ建物の出口の近くに液体窒素用の保存スペースを確保しておくべき。
あらかじめ液体窒素の運搬が比較的簡単にできるようにルートを設定して火事などに備える。
<その他>
実体顕微鏡、生物顕微鏡、凍結用プログラムフリーザーを配置する。
壁面からの揮発性物質をなくすため、床はビニール、壁はタイル、または非揮発性塗料で塗装する。
壁や天井は極力配管による貫通を少なくする。
2) 採卵・移植室、回復室
採卵室は手術室に準じた設備とする。
麻酔器、救急時の蘇生器、バイタルサイン確認のための酸素分圧モニター、心電図モニターを常備しておくことが必要である。
超音波装置、低圧吸引ポンプ、内視鏡診断設備などを設置する。
培養室の近傍に設置し卵や胚の受け渡しがスムースに行えるようにする。
3) 採精室・ プライベートを重視した清潔な環境が必要である。
採精室は音響遮断で広すぎないようにし、手洗い場を設置する。
どのように採精をするかわかるよう、部屋の中にわかりやすい指示書を置いておく。
採精室は調精室と受け渡し窓で結ばれ、ベルなどを準備し、患者が採精を終えてカップをドアの前においたことを知らせるようにする。そうすることにより、患者が精液を自分の手で持って行かずに済む。
4) 基礎研究室
ARTは発展途上の学問であり、未知領域の研究、実験には公的病院、大学研究施設、農学、畜産学など多くの研究者の協力が今後とも必要になってくる。したがって、大学病院など高次ART施設では、技術研修医や新人の技術訓練、あるいは研究施設として、臨床で用いるラボとは別に基礎実験用の研究室設備を持ち、ARTに於る先端施設としての役割を果たす義務がある。
基礎実験室内は無菌、無塵で安定した室温を保つことが重要で、直射日光、高温多湿、ほこりなどの立ちやすい場所、および振動や衝撃のある場所は避けるべきである。
主に必要な実験室内設備について(表1)に示した。臨床用ラボとの相違点として顕微授精用マイクロピペット作製装置、FISH用蛍光顕微鏡装置、PCR用装置一式などが挙げられる。
(表1) 基礎研究室内設備クリーンベンチ
5) 最小限必要な機器
クリーンベンチ
CO2(N2-O2-CO2)培養器
実体顕微鏡
生物顕微鏡
顕微授精装置一式
プログラムフリーザー
液体窒素容器
精子算定盤(またはコンピューター精液分析装置)
遠心分離器
冷蔵庫
ディスポーザブル器具(注射器など)
II 倫理委員会の設置
精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療を施行するために、医療機関は倫理委員会を設置することが必要である。医療機関において、生殖補助医療を受けるための不妊症夫婦の医学的適応や適切な手続の下にヒト精子・卵子・胚が提供されていることを保障するために、厳格な審査を行う倫理委員会を設置する。
<医療機関の倫理委員会は、次の各号に掲げる業務を行うものとする>
配偶子・胚提供による生殖補助医療について審査を行い、その適否、留意事項、改善事項等について、その医療機関の長に対し意見を提出するとともに、当該審査の過程の記録を作成し、これを保管すること。
生殖補助医療の進行状況及び結果について報告を受け、必要に応じて調査を行い、その留意事項、改善事項等について医療機関の長に対し意見を提出すること。
<医療機関の倫理委員会は次の各号に掲げる要件を満たすものとする>
生殖補助医療の医学的妥当性及び倫理的妥当性を総合的に審査できるよう、生物学、医学及び法律に関する専門家、カウンセラー、生命倫理に関する意見を述べるにふさわしい識見を有する者ならびに一般の国民の立場で意見を述べられる者から構成されていること。
委員会は10名前後で構成され、委員のうち二名以上は、医療機関の関係者以外の者が含まれていること。
委員のうち二名以上は、女性が含まれていること。
倫理委員会の活動の自由及び独立が保障されるよう適切な運営手続が定められているものであること。
倫理委員会の構成、組織及び運営ならびに議事の内容の公開その他生殖医療計画の審査に必要な手続に関する規則が定められ、公開されていること。
III 高次ART施設に必要なスタッフ
遺伝子診断、および配偶子提供等を含む高次の生殖補助医療を行う施設においては、患者および提供者の個人情報を厳重に保管し、治療の記録を厳重に保管し、配偶子および胚を適正かつ慎重に扱うという目的のため、責任者のみならず当該医療に従事する者全員が、高い倫理観と責任感を持つことが必須である。その上で、実際に高次生殖補助医療にたずさわる臨床医師、看護スタッフ、カウンセラー、そして実際に胚を取り扱う培養室スタッフのすべてが、下記に述べる一定以上の技術水準を満たしていなければならない。
1) 実施責任者(1名)
医師の資格を持つ責任者は、当該施設で施行される高次生殖医療技術にたずさわる全ての個人について、決められた書式に従って適当な機関に報告する義務があるとともに、変更があった場合には遅滞なく報告しなければならない。また責任者は下記の事に関して最終的な責任を負う。
a. | 当該施設で実際の高次生殖補助医療にたずさわるすべての従事者の倫理観、資格、経験が当該技術を行うのに適切な基準を満たしていること |
b. | 当該施設で行う高次生殖補助医療に必要な機具、器材を遅滞なく供給すること |
c. | 当該施設で取り扱う配偶子、胚の保存、破棄に関して適切な同意書を患者と取り交わし、また記録として保存すること |
d. | 当該施設で施行する高次生殖補助医療の水準を維持するために必要な研修を実際に当該医療にたずさわる従事者すべてに義務づけること |
e. | 当該施設および当該医療にたずさわる従事者すべてが、当該医療を施行するために条件を満たしていることを定期的に評価し、また報告すること |
2) 実施医師(数名)
実際の患者の治療にたずさわる実施医師は全て、その登録の際に日本産科婦人科学会認定医であるとともに、適切な生殖補助医療実施施設で通算5年以上実際の生殖補助医療に従事した経験を持つものとする。さらに、登録の時点で別に定める*生殖補助医療あるいは遺伝学に関する学会に5年以上在籍したものでなければならない。
実施医師は、国またはそれに準ずる機関が定める高次生殖補助医療にかかわる規定を誠実に遵守しなければならない。また実施医師は、新しい治療技術およびそれにかかわる倫理諸問題に対する高い知識を維持するため、定期的に関連学術集会に出席しなければならない。
*日本不妊学会、日本受精着床学会、日本哺乳動物卵子学会、日本産科婦人科学会、日本泌尿器科学会、臨床遺伝学会など
3) 配偶子・胚取り扱いにたずさわる技術者
高次生殖補助医療施設で実際の配偶子・胚の取り扱いを行う全ての技術者は、医師、看護婦、臨床検査技師、または胚培養士のいずれかの資格をもつもので、適当な生殖補助医療施設で1年間以上の実務経験のあるものに限る。
1.配偶子・胚取り扱い責任者
配偶子・胚取り扱い責任者はその登録にあたって、施設内における配偶子・胚の取り扱い(配偶子・胚の培養・保存、記録の保管)を適切に施行するために十分な期間の実務経験と、配偶子・胚提供・遺伝子検査の意義と重要性を理解できるために十分な知識をもつ必要があるため、胚培養士の資格*をもち、適切な生殖補助医療施設において3年間以上の実務経験を有するものとする。
配偶子・胚取り扱い責任者は、国またはそれに準ずる機関が定める高次生殖補助医療技術にかかわる規定を誠実に遵守しなければならない。また配偶子・胚取り扱い責任者は、新しい治療技術およびそれにかかわる倫理諸問題に対する高い知識を維持するため、定期的に関連学術集会に出席しなければならない。
*胚培養士認定(日本哺乳動物卵子学会認定生殖補助医療胚培養士資格審査)については別に示す。
2.配偶子・胚取り扱い協力者
高次生殖補助医療施設で実際の配偶子・胚の取り扱いを行う責任者以外の全ての技術者は、医師、看護婦、臨床検査技師、または胚培養士のいずれかの資格をもつもので、適切な生殖補助医療施設で1年間以上の実務経験があるものに限る。
4) その他
高次生殖補助医療に従事する看護従事者は、当該技術における個人情報の重要性、記録の重要性等について深い知識と高い倫理観を持っていなければならない。また高次生殖補助技術を行う施設では、必要に応じて精神治療の資格を持っている医師、臨床心理士、不妊カウンセラー、IVFコーディネーターなどに患者が速やかに助言を受けられるようにしなければならない。
i 厚生労働省監修。厚生労働白書、平成13年版、(株)ぎょうせい、東京、pp300