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資料2

要検討事項に対する各委員の御意見整理

要検討事項 案についての理由・反論 該当部分の議事録・
送っていただいた
御意見の抜粋
⇒「加齢により妊娠できない」
ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?
(p2)
(案1)
 医師の裁量とするが、自然閉経の平均年齢である50歳ぐらいを目安とし、それを超えて妊娠できない場合には、「加齢により妊娠できない」こととみなす旨の判定基準を国として示す。
(理由)
  • 早発閉経もあり、単に「閉経」と書くと誤解を招く。

  • 閉経の平均年齢である。

  • 具体的な数字を設定することでばらつきを生じない。

  • 曖昧な基準にならない。
     60才で産み、その結果、将来に、80才になった母親が10代や20代の子どもの面倒を見るようになる、というような状況は発生しない。

  • 児童福祉の観点からは、子育てに耐えうる年齢と言うことで、「50才まで」が適当である。

  • 現在のところ、60才で子どもを産んだ母親が将来どのような身体的リスクがあるのかといった医学的なデータがない。

  • 報告書の中で「加齢により妊娠できない夫婦は対象とならない」というのをわざわざ入れたのは、通常ではもう妊娠できない場合、例えばその人が60過ぎて妊娠できるような場合を認めないということを明らかにするためであり、その意義を明確にするような基準が必要である。

(反論)

  • 全ての人がが納得する年齢制限であるかが疑問である。

  • 閉経に近づいてくるとホルモン操作で月経を整調に持っていく人もいるので、閉経の基準を定めることは難しい。

  • 子宮の状態には非常に個人差が大きいので、具体的な年齢を設定するのは難しい。

  • 50才であれば、子どもが20才になったときに70才になっており、社会的に問題があるのではないか。

  • 40才ないし45才を過ぎると医学的にいろいろな合併症が出てくるという問題がある。
○私は事前にファクスで自然閉経の平均年齢である50歳から51歳という数字を出させていただきました。これを出した理由は、1つには「加齢により妊娠できない」という文言が、先ほど石井先生がおっしゃられたように、既に妊娠ができないはずの女性が妊娠してしまうということは避けるということがもともとあったのだろうということと、もう一つは、確かに早発閉経というのがありますので、単に「閉経」と書くと誤解を招くと思いましたので、ある程度の数字を出した方がいいのではないかと思ったからです。
 個人的には40歳ないし45歳を過ぎるといろいろな合併症が出てくるという問題がありますけれども、その辺で数値を区切るのは具体的には難しいので、一応閉経の平均年齢ということでこれくらいの数値がいいのではないかと思いました。

○例えば本当に60歳で産んでいいのだろうか、10代や20代を、80歳の母親が面倒を見るようでいいのだろうかという常識的なところを、もう一度確認する必要があると思います。そういう意味で私は50代ぐらいが上限で、特例で60歳で産みたいのだったらそれは個人の自由ということではないと思うのです。

○私は最高でも医学的に見て自然閉経、相良先生がおっしゃったように50歳が上限であろうと。50歳であれば、子どもが20歳になったときに70歳になっている。社会的な観点からまた難しい問題があると思いますが、医学的には50歳前後であろう。私は60歳でも産めるというような女性がたとえあらわれたとしても、これはその60歳の方が将来どういうふうになっていくかということについての医学的なデータを私たちは持ち合わせておりませんので、50歳前後でよろしいのではないかと私は思います。

○年齢制限ですが、先ほど高久先生がおっしゃいましたように、確かにどこかで決めておかないとばらつきが生じて困ることになるだろう。こちらは裁量で済ませるというわけにはいかない問題ではないかと思います。

○上限年齢を閉経期とするという高久委員の見解に賛成です。なお、premature ovarian failureの患者と生理的閉経者の境界が必ずしも明瞭でないことを考慮して、上限年齢を数値で示すことに賛成します。その場合の年齢は、平均閉経年齢もしくは平均閉経年齢+2倍標準偏差が妥当かもしれません。

○報告書の中で「加齢により妊娠できない夫婦は対象とならない」というのをわざわざ入れたのは、まさしく人からもらうことによって、通常ではもう妊娠できない、その人が60過ぎて妊娠できる。それがこの医療行為であるがゆえに、そういうものは認めませんよ。不妊治療として考えるのはそういうものではないということを明らかにするためにこの一文が入ったのだと私は思っているので、それがはっきりさせるような基準が必要。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○「加齢により妊娠できないものは対象としない」と法律で定め、指針で50才までとする。提供の状況によっては、40あるいは45・35才とする。年齢による優先順位も考える。
(案2)
 医師の裁量とするが、自然閉経を基準とし、自然閉経をもって、「加齢により妊娠できない」こととみなす旨の判定基準を国として示す。
(理由)
  • 皆が納得する年齢制限の設定というのは難しい。

  • 閉経する前であれば妊娠する可能性があるので、「閉経前」まででよい。

(反論)

  • 曖昧な基準になる。
     その結果、60才で産み、その結果、将来に、80才になった母親が10代や20代の子どもの面倒を見るようになる、というような状況が発生し得る。

  • 早発閉経もあり、単に「閉経」と書くと誤解を招く。

  • 具体的な数字を設定しないことによりばらつきを生じ得る。

  • 閉経に近づいてくるとホルモン操作で月経を整調に持っていく人もいるので、閉経の基準を定めることは難しい。

  • 報告書の中で「加齢により妊娠できない夫婦は対象とならない」というのをわざわざ入れたのは、通常ではもう妊娠できない場合、例えばその人が60過ぎて妊娠できるような場合を認めないということを明らかにするためであり、その意義を明確にするような基準が必要である。
○ある程度年齢を制限しておかないと現場のお医者さんが非常に困ると思うのですね。ですから非常に常識的なこととして「自然閉経」ということを提案したのですけれども、特に深い理由がなくて、ほかに皆さんが納得する年齢制限というのは難しいのかということで「自然閉経」と申し上げました。

○「閉経」ということで私はいいと思っております。というのは、これは年齢差がかなりございますので、閉経する前であれば妊娠する可能性があるわけで「閉経」という言葉でいいと思うのですね。

○私も50歳ぐらいでいいのではないかと思いますけれども、こういうものに出すときにはやはり「自然閉経」というのでよいと思います。
(案3)
 医師の裁量とする(国としては、「加齢により妊娠できない」という以上の具体的な判定基準は示さない。)。
(理由)
  • 20代で閉経する人もいれば、50代で閉経する人もいる

  • 閉経に近づいてくるとホルモン操作で月経を整調に持っていく人もいるので、閉経の基準を定めることは難しい。

  • 子宮の状態には非常に個人差が大きいので、具体的な年齢を設定するのは難しく、医師の裁量で判断するのが適当である

(反論)

  • 報告書の中で「加齢により妊娠できない夫婦は対象とならない」というのをわざわざ入れたのは、通常ではもう妊娠できない場合、例えばその人が60過ぎて妊娠できるような場合を認めないということを明らかにするためであり、その意義を明確にするような基準が必要である。

  • 具体的な数字を設定しないことによりばらつきを生じ得る。
○やはり何歳というふうに数字としてあらわすのは非常に難しいのではないかという気がするのですね。というのは「自然閉経」といっても、人によっては20代で閉経される方から50代まである。

○「自然閉経」という言葉は非常にいい言葉だとは思うのですけれども、閉経に近づいてくると、多くの女性の何人かはホルモン操作でまた月経を正調に持っていくことを希望します。そういうところから考えると、閉経の基準は非常に難しいと思います。そうすると先ほどの平山委員の意見もいいのかなと思っております。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)

○「加齢により妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか? 子宮の状態には非常に個人差が大きいので、「○○歳」と数値化してしまうのは難しいと思いますので、医師の裁量で判断するのが適当と考えます。ただし、その際、レシピエントに対して心理学的スクリーニングを実施し、高齢で出産、養育していくことの困難に耐えられるだけの方に限る必要があります。高齢で生んだからといってその親子が幸せになれないとは限りませんし、良い母子関係が築ける可能性もあるでしょう。また(第三者生殖全てに当てはまりますが)出産後の医学的、心理学的フォローも必要であると考えます。
⇒子の福祉の観点から、夫婦が子育てに耐えられるという要件も必要なのではないか?

(医師の裁量とするか?具体的な基準を設定するか?)
(p3)
(案1)
 医師の裁量とする(法律ガイドラインを含め、国として、上記のような基準は特に示さい。)
(理由)
  • 各個人で考え方は違うので、基準を作ることは非常に難しい。

  • 客観的な基準を作ることは非常に難しい。

  • 医師が、生殖補助医療を受ける夫婦に対して、育児能力の有無を判定するのはかなり乱暴。医師と患者の裁量内に留めておくべき。

(反論)

  • 生まれてくる子の福祉が担保されない可能性がある。

  • 社会的・心理的な要因が軽視されるおそれがある。

  • 夫婦が子育てに耐えられるという要件がチェックされない可能性がある。

  • 特別養子制度を参考にするべき。
○「子の福祉の観点から」というのは、これは法律の中に入れる必要はないと思います。といいますのは、そのおのおののお母さんで考え方が違うので、・・・ですから、それは個人個人考え方で、別に法に縛る必要は私はないと思っております。

○確かに夫婦が子育てに耐えられるという要件は非常に重要ですけれども、これを判断することは非常に難しい。何か客観的な基準をつくるといっても、そんなに簡単にはできないのではないか。もし客観的な基準をつくるなら、これはすべての家庭に応用したいぐらいでして、そこが本当に可能なのか。産婦人科の先生、医師の裁量といったときに、こういう要件を書いて困らないのかということを私はあえて申し上げます。

○「子の福祉の観点」という問題ですけれども、これは不妊治療に限らず自然に妊娠された方でも、ご夫婦が将来どうなるかというのはなかなか難しい問題ですし、これを客観的に判断するというのは非常に難しいことなのではないかと思います。以前に、吉村先生がAIDの追跡調査をされたときに、予想以上に非常に円満で、皆さん子育てに喜びを感じていらっしゃるという結果を聞いてひと安心したのですけれども、それを信頼して、このあたりは法的あるいはこういうガイドラインのようなもので決めるのは難しいというふうに判断した方がいいのではないかという気がしています。

○私はこれを公的な基準とするのは妥当ではないと思います。お医者さんが、おまえらには子どもを育てる能力がないからというのは、かなり乱暴なことだと思います。ここではカウンセリングをやるというのが前提ですから、これこそまさにお医者さんと患者さんの裁量の範囲内にとどめておくべきだろうと私は思います。
(案2)
 夫婦の年齢のみならず、健康状態、経済状況、精神的安定度などの子どもを安定して養育できるかを、提供された精子・卵子・胚による生殖補助医療の実施に関する全般的な基準として国が示す。
(理由)
  • 「子の福祉」を担保することが必要。

  • 社会的・心理的な要因は重要であるのではないか。

  • 子の福祉の観点から、夫婦が子育てに耐えられるという要件が必要ではないか。

  • 特別養子制度を参考にするべき。

(反論)

  • 各個人で考え方は違うので、基準を作ることは難しい。

  • 客観的な基準を作ることは非常に難しい。

  • 医師が、生殖補助医療を受ける夫婦に対して、育児能力の有無を判定するのはかなり乱暴。医師と患者の裁量内に留めておくべき。
○社会・心理的な要因というのは重大だと私も思っておりますので、例えば年齢要件だけでなく、健康上や経済的なこと、夫婦の精神的な安定度とか、子どもが20歳になるまで子育てが安定して行われる見通しがあるかどうかといったチェックリストみたいなものをつくって、ある程度医師がチェックリストをもとに、自分でそれを参考にしながら判断していただいた上で、医師の裁量というふうにしたらどうかという意見があるのですけれども。

○「子の福祉」ということは、年齢だけの問題ではなくて、全体すべての問題について、この医療を行うか行わないかの個別事例については必要な判断だろうと思っているのですが。

○特別養子とか普通養子の未成年養子の場合には家庭裁判所の関与とかそういうのがあるわけですから、それとパラレルに考えれば家裁の関与が必要か、あるいは個別の件に対して、あるカップルに対してこういった生殖補助医療をやるのだったら、そのカップルが子育てを行えるのかどうかというチェックが必要なのではないか。それは医療機関側に任せるのはおかしい話ではないかと思うのですね。

○子どもの福祉を担保するという問題が難しいことは確かだと思いますけれども、難しいからあきらめるというのはちょっと違うのではないかと思います。全て法律で定めるということはなじまないと思いますけれども、ある種のガイドライン的なものを定めるのは非常に重要だと思います。例えば当該夫婦が何年間か安定した結婚生活を送っているという実績も1つのデータになると思いますし、夫婦が将来にわたって子どもの養育に責任を持つということを誓約してくださるということも役立つと思いますし、優れたメンタルヘルスの臨床家がその夫婦にインタビューされますと夫婦についてかなりのことがわかると思いますので、決してこのことについてあきらめない方がいいと思います。

○とりあえず実施の可否の前提については、ドクターだけではなく児童福祉などの方も交えた上で判断していただきたいということを前提に置いています。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○子の福祉の観点から、夫婦が子育てに耐えられるという要件が必要。この場合、医師の裁量というより、専門家で作成された実施可能な夫婦の条件、チェックリストが必要ではないか。たとえば、年齢要件、健康のチェック、夫婦の精神的安定度、子どもが18歳になるまで子育てが安定して行われる見通しがあるか等々。その上での医師の裁量ということにしてはどうか。
⇒精子・卵子の提供を受けることができる者について優先順位を設けるか?
(無精子症、ターナー症候群・卵巣機能か?提供を受ける者の年齢や既に何人子どもを有しているかなどで優先順位を設けるのか?)
(p4)
(案1)
 法律やガイドラインを含め、国として基準は特に示さない
(理由)
  • 医学的な理由で優先順位を付けることは差別にあたるのではないか。

(反論)

  • 精子・卵子・胚が公平に配分されないおそれがある。
○不妊というのは社会的な問題として考えていかなければいけないと思うんです。ですから、私は医学的にどうだからということで、優先順位をつけることは、今度は差別に当たるのではないかと思います。ですから優先順位は原則としてつけない。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○精子・卵子の提供を受けることができる者について優先順位を設けるか?当面設けないでよいと思います。

○優先順位を設けるというのは、その基準をどうするかということを考えると難しいのではないかと思います。たとえば同じ無精子症の人であれば、妻の年齢が高い方からにするのか、不妊症治療経験の長い方からするのか、結局個々のケースに照らして決められるのが自然だと考えます。また、「優先順位」を国が規定するのもおかしい話で、まず当事者の希望が考慮されるべきであると考えます。

○精子・卵子および胚の提供条件や、生殖補助医療の実施の決定には、個々の背景や、提供され得るせいし・卵子および胚の数の問題などもあり、一概に優先順位がつけがたいと思う。そのため、複数の専門家または、異なる対応者(機関)との検討の上、決定されるのが望ましい。
(案2)
 法律やガイドラインで、国として義務的な基準は示さない。ただし、国が実施に当たっての準則となる考慮すべき基準を示す。
 具体的な考慮すべき基準としては、
(案2-1)
 待機期間を基準とする優先順位を示す(先着順)。
(理由)
  • 受付順に実施されるのが一番公平なやり方ではないか。

  • (他の方式だと)結婚1年目の夫婦のように、不妊期間の短い夫婦が方が何年も不妊で苦しんでいる夫婦より先に提供を受けることが可能になり、不公平ではないか。

  • 子どもを望む気持ちに優先順位を付けることはできない以上、受付順がよいのではないか。

(反論)

  • 評価基準が一元的である。最も望ましい人に提供していると言えるのか。

  • 自分の精子や卵子で子どもを持つのをあきらめて早く申し込みしないと提供を受けられなくなるという危険性がある。

  • 臓器移植の場合は、評価基準が一元的ではなくて、緊急度待機時間、成功率等を点数にして複合でもって決めており、横並びの制度にするべき。

  • 子どもを既に持っているかどうかも考慮すべき。
○私個人の意見としては受付順といいますか、受付順に希望した順に、登録された順にやっていくのが一番公平なやり方ではないかということで、私はターナー症候群の患者の団体の代表ですけれども、ターナー症候群を優先的にというのはちょっと違うのではないかということで、公平さがあるように、先着順というか受付順が望ましいのではないかと思います。

○では、それで結婚1年の方の方が先に精子もらえるとなると、その方たちが5年なりやってきた方にとってもちょっと納得いかないという気持ちも出てくるのではないかと思うのです、現実的な話として。そういう意味では申し込み順の方がよいのではないかと私は思っているのですが。

○結局この医療を求めておられる、お子さんが欲しいという思いの切実さというのは、この病名や疾患単位では量れないと思うのです。カウンセラーとしていつも話を伺っていますと、無精子症の人の方がこの治療を求める、あるいは子どもさんを望んでおられる本当に深い理由というのは優先順位はつけられないはずだと思うのです。個々のケースを照らし合わせてみなければそれがわからない以上、疾患単位で優先順位を設けることには余り意味がないのではないかと私は考えます。・・・はい。ですからそれこそ先ほどおっしゃったような申し込み順とかそのほかの方法というのを考えるしかないかと思います。あるいは先ほど加藤委員がおっしゃったように、一元的なものでなくてもいいということであれば、そういうのもポイント化するのか、スクリーニングやそのときの子どもを欲する理由あるいは望んでいる気持ちの強さというのをポイント化するのか、それは現実的ではないですけれども、そのようになるのかと思うんですね。その疾患単位も1つ優先順位というのの基準にするのであれば、そういうのも基準にすべきかもしれませんし、ただしもちろんするべきと言っているわけではありませんが。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○臓器移植と違い、不妊は命にかかわる問題ではない。その意味で優先順位はつけにくい。仮につけるとしたら、そこには文化的・社会的な価値観が入り込んでしまうだろう(ターナー女性と早発閉経の女性、無精子症と極度の乏精子症、どちらに優先権があるかなどという議論は不毛である)。「申し込み順」としたほうが公平で、よけいな価値観も入り込まないと思われる。
(案2-2)
 医学的理由(無精子症、ターナー症候群・早発閉経など)や待機期間、その他の理由(年齢、既に有している子どもの人数など)などを総合した優先順位を示す
(理由)
  • 提供された精子・卵子・肺は数が少ないことが予想されるので、一番望ましい人にあげるようにすべき。

  • 受付順にした場合、自分の精子や卵子で子どもを持つのをあきらめて早く申し込みしないと提供を受けられなくなるという危険性がある。

  • 臓器移植の場合は、評価基準が一元的ではなくて、緊急度待機時間、成功率等を点数にして複合でもって決めている。

  • 子どもを既に持っているかどうかも考慮すべき。

(反論)

  • 結婚1年目の夫婦のように、不妊期間の短い夫婦が方が何年も不妊で苦しんでいる夫婦より先に提供を受けることが可能になり、不公平ではないか。

  • 子どもを欲しい気持ちというものは果たして優先順位を付けることができるものなのか。

  • 医学的な理由で優先順位を付けることは差別にあたるのではないか。
○申し込み順だとすると、それこそ自分のはあきらめて早く申し込みしないともらえなくなっちゃいますよという話になる危険はありますし、私は一元管理がいいということは提案させていただいたのは公平性、数が多分少ないであろうから、一番望ましい人に与えた方がいいのではないかと思うから一元管理の方がいいと思っているのです

○大事なものから、精子に関しては無精子症ですね。それからターナー症候群、卵巣機能不全というのは、早発閉経を言われているだろうと思うんですけど、そういったものが優先的になるということは、これはやむを得ないとは思いますけれども、そのほかは非常に難しいのではないでしょうか。これはこういう順番でやっても医学的にはおかしくないと思いますけれども、こういったことを決めるというのは大変難しいと私は思いますけれども。

○臓器移植の場合には評価基準が一元的ではなくて、緊急度だとか待機時間だとか、成功率だとか、そういうのの点数にして複合でもって決めているのです。ですから順位を決める場合に一元的であるという前提で決める必要はないと思います。

○無精子症とかいうことが優先される理由が、私はまだ理解できないのですが。優先順位を考えるなら子どもを既に持っているかとかいうことの方がむしろ考えられるので、どうして医学的なことが優先されるのかちょっと私は理解できないのですけど。ご説明いただけたらと思います。

○申し込み順というと余りにもあれですから、臓器移植の場合には待機期間とか、要するに受持ちがこういう治療でないといけないというふうに判定してからの待機期間とか、そういうようなニュアンスで、私としては受付順というのは避けたい気持ちがあるのですけれども。・・・最初に申し上げたように、医師の裁量に全く任せた場合、個々の医療機関の中で判断されてしまって、医療としてしっかり定着させるには、我が国において生殖補助医療のばらつきをそんなに大きくしたくないという、私これは個人の考えで、国民の皆さんに理解を得るには、ある程度スタンダードみたいなのを置いておいた方がいいと思うんです。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○「加齢により妊娠できないものは対象としない」と法律で定め、指針で50才までとする。提供の状況によっては、40あるいは45・35才とする。年齢による優先順位も考える。
⇒「女性に体外受精を受ける医学上の理由がある」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?
 (医師の裁量とするか?具体的な疾患や必須の医学的検査とその結果などの具体的な判定基準を定めるか?)

⇒「精子の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?
 (AIDの場合と同じ。)
(p6、p7)
● 医師の裁量とする(法律やガイドラインで、国として義務的な基準は示さない。)。
 ただし、国が実施に当たっての準則となる考慮すべき基準を示す。
 具体的な基準については、・「精子の提供を受けなければ妊娠できない」ことについては、日本産科婦人科学会の会告(「非配偶者間人工授精と精子提供」に関する見解」1.及びその解説)に準ずる。(IDの場合と同じ。)
  • 「女性に体外受精を受ける医学上の理由がある」ことについては、(以下、要検討)
(案1)
 日本産科婦人科学会の会告(「体外受精・胚移植」に関する見解」
1.(※1)並びにその解説(※2)(p94))、及び、3.(※3並びにその解説(※4)に準ずる。
(理由)
  • 通常の体外受精においても、本当に体外受精が適応ですかと言われた場合、真の意味の適応かどうかということは(専門家から見ても)なかなか難しい。言えないというのが現状であり、「AIDの施行回数」等の基準を作成するのは難しいのが現状である。

  • 学会としては、AIDと精子を用いた体外受精はほぼ同一であると考えている。

  • 今までAIDに関して問題がなかったことから、具体的に細かいことまで決める必要はない。

  • 「○○を何回受けてからでないと提供は受けられない」とするのは、不妊夫婦をリスクのある検査・治療に追い込むだけではないか。

(反論)

○唯一データとしてあるのは、人工授精というのは妊娠するべき人は、妊娠できる方は5回から6回やるとほぼ90%がそこでプラトーに達するというデータはあります。ですから10回以上やっても、それが妊娠する確率は低いと、そういうデータはありますけれども、それ以外、現在通常のこういった精子・卵子・胚をもらう医療ではなくて、通常の体外受精においても、例えば本当に体外受精が適応ですかと言われた場合に、それは真の意味の適応かどうかということはなかなか難しい、言えないというのが現状です。例えば書くとしたらば、精子の提供で体外受精を受けなければならないカップルは、その前に、女性に体外受精を受ける原因がなければAIDを施行するとか、そういったことぐらいは書けますけれども、それ以上書くことはなかなか難しいのではないかと思います。

○吉村委員、具体的な異常とかはっきりした無精子症とかそういう場合は比較的簡単なんですけれども、機能不妊とか原因不明の場合はなかなか医学的に判定するのも大変難しいですし、それが絶対的な診断かどうかも疑わしいですよね。

○医療の裁量ということだけ投げ出されると、それは少し違うのではないかというのです。「裁量」という言葉はある範囲のものが決まっていてその中で裁量するというので、どこまでやるかも裁量だというのは全然意味をなさないので、そのことを申し上げているだけです。産科婦人科学会の会告に書かれているこの程度で、私は十分だろうと思います。

○学会としてはAIDと精子を用いた体外受精はほぼ同一であると考えております。したがって、今までAIDに関して問題がなかったわけですからこれに対して具体的に細かいところは決めておりません。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○精子・卵子の提供を受ける要件として、「○○を何回受けてからでないと提供は受けられないとするのも問題。この項および示されている検討課題は、不妊夫婦をリスクのある検査・治療に追い込むだけではないか。
(案2)
 日本産科婦人科学会の会告(「体外受精・胚移植」に関する見解」
1.(※1)並びにその解説(※2)(p94))、及び、3.(※3)並びにその解説(※4)に準ずる。ただし、「機能性不妊」や「原因不明不妊」、「AIDの施行回数」などの基準を別途示す。
(理由)

(反論)
  • 通常の体外受精においても、本当に体外受精が適応ですかと言われた場合、真の意味の適応かどうかということは(専門家から見ても)なかなか難しい。言えないというのが現状であり、「AIDの施行回数」等の基準を作成するのは難しいのが現状である。

  • 今までAIDに関して問題がなかったことから、具体的に細かいことまで決める必要はないのではないか。

  • 学会としては、AIDと精子を用いた体外受精はほぼ同一であると考えている。

  • 「○○を何回受けてからでないと提供は受けられない」とするのは、不妊夫婦をリスクのある検査・治療に追い込むだけではないか。
 
⇒「卵子の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?
(p8)
● 医師の裁量とする(法律やガイドラインで、国として義務的な基準は示さない。)。

(案1)
 ただし、国が実施に当たっての準則となる考慮すべき基準を示す。
具体的な基準については、
(案1-1)
 自己の卵子が存在しない場合のみならず、自己の卵子では、妊娠できない場合も対象とする(機能性不妊、原因不明不妊等の場合も対象とする。)。
 具体的な基準は?
(理由)
  • 「自己の卵子が存在しない場合に限る」とした場合、患者が選択肢を選ぶか選ばないかの前にいきなり「できないもの」としてカットしてしまうことになり、患者にとってはつらい状況になる。

  • 卵子がつくれるけれども妊娠に至らない卵子しか作れない(機能性妊娠)ということは、「卵子の提供を受けなければ妊娠できない」ことと同一であり、認めるべき。

  • 真性半陰陽や先天性のステロイド合成障というような疾患の人は、卵はあるけれども妊娠ができない。そういうグレーゾーンの病態が現にあるので、卵子の有無が基準となるのはおかしいのではないか。

(反論)

  • 学会の委員会では、女性にターナー症候群などの先天性卵巣欠損、卵巣性無月経、悪性腫瘍などによって両側即の卵巣摘出を行った症例、放射線あるいは抗ガン剤治療によって卵巣機能が欠落した症例という具体的なものはいいのではないかという合意ができている。

  • 実際には実施する医療機関や医師は指定されるわけだから、勝手な判断で実施するとは思えない。余り細かいことまで決めない方がよい。
○選択肢を選ぶか選ばないかはまた次の問題ですけれども、いきなりそこを「できないもの」としてカットされてしまうと患者さんにとってはつらい状況になると思うので、私個人として卵は採れないというだけではなく、妊娠できる状態にないということで判断をしていただくような基準づくりをしていただいた方がいいかと思うのですけれども。

○卵子の提供を受けなければ妊娠できないというのは、仮に卵はつくれて、しかし、それが妊娠できないような卵しかつくれないとしたらできないことと同じだと思うのですね。それから、できるけれども、妊娠に至らないような卵しかつくれない。ですから、それは全く同じですので、いちいちそういうことでガイドラインを作る必要はないと思います。ですからあくまでも医師の裁量とする。エイジングも含めてよろしいのではないかと思います。

○私自身、完全に加齢で卵がうまく妊娠できないというものを排除すべきかというところまで言い切れないのですが、優先的には卵のない人を優先にした方がいいのではないかという考えを持っているということが1つ。
 もう一つは、国として義務的な基準までは示す必要はないかもしれませんが、この前のときも申したかもしれませんが、吉村先生がおっしゃっていたように、お医者さんがというか、割に提供卵というものが乱用される危険がある。つまり卵がないわけではないけれども、妊娠できないので提供卵子を認めるとすれば、それに当たっての一定の基準みたいなものは医学的にある程度まで示していただいた方がいいのではないか。

○医師が判断するときに医師のいわゆる自由裁量に任せるのか、それをある程度外から基準を決めて、羈束裁量(法規裁量)といいますか、そういったものにするかという問題はきちんとすべきだと思うのです。あとニーズが増えるのか、それが可能なのかどうかというのはまた別の要素が入ってくるのでないか。別の要素というのは検討課題2及び検討課題3に大きく絡んでくると思うのです。
 ですから、ここの段階では、できるだけ医者の方の裁量に任せるけど、それの基準を決めるというくらいで決めておけばいいのではないかという気がするのですが。

○卵子提供に関しても、考慮すべき基準を示すということでよろしいのではないかと思います。ですから医師の裁量というよりは、ここに書いてあるとおりでよろしいのではないか。実施に当たっては、具体的に顕微授精をどのくらいしたら妊娠できないとか、顕微授精とか夫婦間でできるものであるならば、できる限りそういった子をつくってあげたいというのが私たちの希望ですし、精子提供と同じように卵子提供のある程度の基準をつくっていくことは必要だと思います。

○例えば真性半陰陽であるとか、先天性のステロイド合成障害というような疾患の人は、卵はあるけれども妊娠はできないそういう事例、いわばグレーゾーンの病態がありますので、卵があるかないかという分け方が果たしていいかという気がいたしますけれども。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○基本的には「妊娠可能な受精卵」ができない夫婦は、「自己の精子・卵子を得ることができい」状態と考え、提供を受けられるものとする
【精子】・・・【卵子】・・・【胚】・・・
 以上のような判断を、「医師の裁量」で行うのが適当でしょう。一見「何でもOK」と見えるもしれませんが、これを判断するには本当に世界的水準の知識と技術が必要であるため、それを満たす医師は実際それほどはおられず、またそのような医師であれば、やたらに範囲の拡大解釈をすることはないと信じています。
(案1-2)
 自己の卵子が存在しない場合に限る。
(理由)
  • 学会の委員会では、女性にターナー症候群などの先天性卵巣欠損、卵巣性無月経、悪性腫瘍などによって両側即の卵巣摘出を行った症例、放射線あるいは抗ガン剤治療によって卵巣機能が欠落した症例という具体的なものはいいのではないかという合意ができている。

(反論)

  • 真性半陰陽や先天性のステロイド合成障というような疾患の人は、卵はあるけれども妊娠ができない。そういうグレーゾーンの病態が現にあるので、卵子の有無が基準となるのはおかしいのではないか。

  • 「自己の卵子が存在しない場合に限る」とした場合、患者が選択肢を選ぶか選ばないかの前にいきなり「できないもの」としてカットしてしまうことになり、患者にとってはつらい状況になる。

  • 卵子がつくれるけれども妊娠に至らない卵子しか作れない(機能性妊娠)ということは、「卵子は、卵子の提供を受けなければ妊娠できない」ことと同一であり、認めるべき。

  • 実際には実施する医療機関や医師は指定されるわけだから、勝手な判断で実施するとは思えない。余り細かいことまで決めない方がよい。
○学会では案といたしましては、基準になりますかどうかわかりませんけれども、女性側に先天性卵巣欠損、例えばターナー症候群など、卵巣性無月経、悪性腫瘍などによって両側の卵摘出を行った症例、放射線あるいは抗がん剤治療によって卵巣機能が欠落した症例という具体的なものはいいのではないかというようなことは委員会では合意しているのですけど
(案2)
 実施に当たっての準則となる考慮すべき基準も国として特に示さない。
(理由)
  • 実際には実施する医療機関や医師は指定されるわけだから、勝手な判断で実施するとは思えない。余り細かいことまで決めない方がよい。

(反論)

  • 基準が全く示されていないと、提供された卵子が乱用されるおそれがある。
○今、吉村先生が「安易に」とおっしゃったのですけれども、実際には実施する医療機関や実施する医師も決まるわけですから、そんなに勝手な判断で実施するとは私は思えないのです。今の状況とはちょっと違ってくると思うので、余り細かいことまで決めないで、最終的には妊娠しない人という判断でよいのではないかと思います。

○「医師の裁量」といった場合になかなか医学的なファクターだけではならないのが現実で、総合的な判断という意味でも医師の裁量に期待するところが大きいのではないかと思いますが
⇒「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?
(p10)
(案1)
 提供胚の移植を認める。「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準は医師の裁量とする(法律やガイドラインで、国として義務的な基準は示さない。)。
 ただし、国が実施に当たっての準則となる考慮すべき基準を示す。
 具体的な基準は?
 医学的な基準以外の、子を安定して養育していけるか、生まれた子に対する真実告知(←(関連)生まれた子の出自を知る権利(検討課題1・3))などの基準については、
(案1-1)
 カウンセリングにおけるスクリーニングやインフォームド・コンセントで対応することとする。
(理由)
  • 精子・卵子・胚の提供に関しては、全てのケースで医学的社会学的、心理学的なカウンセリングが必要であり、また、それらの問題点は、カウンセリングである程度カバーできる。

(以下、提供胚の移植そのものの是非に関して)

  • 精子や卵子の提供で片親が遺伝的に違うのも、胚の提供で両親とも遺伝的に違うのも、遺伝的に違うという点では同じである。両親が遺伝的に違うというだけで反対するのはおかしい

  • 第3者に危害を与えない、商業主義的なことを排除するという点では、卵子提供よりも胚提供の方がむしろ問題が少ないだろう。

  • 遺伝的なつながりのある方が良いのは当然だが、卵子の提供がどうしてもない場合、仕方なく胚の提供を受けて産むということを、最終的に当事者夫婦の選択肢として残しておく方がよい。

  • 余剰胚はヒトの生命の萌芽であり、廃棄するとこの世に命として生まれてくることはなく終わってしまう。その余剰胚を生かすという意味でも胚の提供を認めるのがよい。

  • 養子制度とパラレルに考える必要がある。胚の提供は「受精卵養子」とも言え、実施可能である。

(反論)
(以下、提供胚の移植そのものの是非に関して)

  • 国民の意識調査では、両親のどちらとも血のつながりがない胚提供に関しては、認めて良いという意見が少ない。

  • 離婚するときに子どもをどうするのかとか、親子関係がうまくいかなくなったときにどうするのかということを考えると、どちらとも血のつながりのない子をつくるのは時期尚早である。

  • 異父兄弟、異母兄弟で一緒に何も言われなくて育っている普通の賢い子どもたちの中には、自分が生殖医療の子どもとして産まれるとすればそれは嫌で、はっきりと断ると大人の意見として言う子どもが多い。

  • 現在の日本社会は、遺伝的なつながりがない子どもが安心して暮らせるほどの、成熟したゆとりのある社会ではない。血のつながった両親が一生懸命育ててもうまくいかない状況がたくさんある社会である。

  • 普通の子ども達の常識や、一般国民の心情と共に歩む生殖医療というぐらいのテンポで十分だ。

  • 里親制度というものが定着していない日本で胚の提供を導入するのは、時期尚早である。

  • 胚の提供によって生まれた子どもが医学的に問題のある子どもだったり、両親に不幸があった場合にその子はどうなるのかというような問題があり、時期尚早である。

  • 障害を持った子供が産まれた場合、血がつながっていないことを理由に依頼者が子どもの引き取りを拒否するおそれがぬぐえない。

  • 胚の提供による子供を作ることより、養子をオープンに歓迎できる社会を築く努力をするほうが重要である。

  • 精子・卵子など配偶子の提供であれば、事実を知ったときにもまだ受け入れる余地はあると思うが、胚の場合、「実の両親から胚の段階で『いらない』と捨てられた、人に譲られた」という感情を持つ可能性がある。

  • 胚の提供により出生する子どもは、精子・卵子の提供により生まれる子どもに比べて、自己のidentityの問題や家族による保護体制の不備等から不幸となるより高いリスクを持つのではないか。
○今回議論している精子・卵子・胚の提供に関してはすべてのケースにおいてドナーやレシピエントに対して心理学的(もちろん医学的・社会学的なものも含め)、スクリーニングであるとかカウンセリングは必要であるという共通認識があると私は思っておりましたので、もし胚の提供が認められた場合にも当然心理学的なスクリーニング、それは養子も子どもを持たないことも、それからこの治療を受けることも同じ太さの道として選択できるよう、カウンセリングというのは絶対そういうふうにやっていくのですね。これをしなさいとは絶対言わない。ですからたとえこういう希望があって来てもそういうふうにやっていくのです。
 ですから、今、才村委員がおっしゃったような点に関しては、カウンセリングだけではもちろん不十分なのですが、ある程度のカバーはできるかと思います。

○1つは、妻が卵子がない場合には卵子提供を受けられる。夫が精子がなければ夫は精子をもらえると。たまたまた夫婦がそれぞれなかったら胚をもらうという形にするということを認めるという、その順序でいけば認められていいだろう。

○本当に遺伝的に両親とも違うのと、片親だけ違うのと、例えば先ほどお話にも出たのですが、子どもが親がどうだったかということはDNAを調べればすぐわかるような時代になってきて、同じことなのではないかということですね。・・・ それともう一個は、医療側から、私たち生殖医療をやっている人間から考えた場合に、第三者からいただいた配偶子、胚によって生殖医療をやる場合に一番問題になった点は、第三者に危害を与えてはいけないと。それが大前提になるわけであります。そして子の福祉ということも考えていかなければならない。これはどんな医療でも同じことでありまして、第三者に危害を与えない。いかにして商業主義的なことを排除できるだろうかと考えた場合に、卵子提供というのは大変難しさがあるだろうと。しかし、もしこういった胚というものが廃棄されるような胚であるとするならば、こういったものをいただいて不妊の患者さんに対して子どもを持てるようにすることは本当にいけないことだろうか。私は個人的にはこの胚の提供に関しても卵子提供よりいいのではないかと今も思っていますし、この専門委員会の答申書でも胚の提供については、私はある程度賛成をいたしました。それはどういうことかというと、卵子提供よりは問題が少ないだろうと思ったわけです。子どもについての問題点は、卵子提供も精子提供も胚提供も皆同じだと思うのですね。ですから、両親が遺伝的に違うからということだけで反対されているのは少しおかしいのではないかと私は思うのです・・・
(案1-2)
 個別の事例について、公的な第三者(公的管理運営機関?)の審査を行うこととする。
(理由)
  • 「生まれてくる子の福祉」との関連、また情報の一元管理という点から見ても、兄弟姉妹の提供に限らず、運営機関に申請した上で、審査の上実施する方が望ましい。

  • 生まれてくる子の人権と家族と地域社会の福祉を、社会的な見地から長期的展望にたち保障していく為にも、公的管理運営機関の審査を経るべきである。

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、(案1-1)の(理由)と同じ

(反論)

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、(案1-1)の(反論)と同じ。

 
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○現在の案では兄弟姉妹等からの提供に限って「公的管理運営機関への申請・審査が必要」となっているが、次項「生まれてくる子の福祉」との関連、また情報の一元管理という点から考えると、匿名の第三者からの提供であっても、今後はすべて(AIDも含めて)運営機関に申請し、審査のうえ実施するほうが望ましいと考える。

○複数の委員から再三、指摘されているように「生まれてくる子の福祉」をどのように担保するのか? これについてあいまいなまま“提供者の条件”や“判定基準”について議論するのは問題があると思う。委員内で最低限の原則を確認、ある程度の合意をもって議論をスタートすべきではないか。
⇒特に問題になるのは胚提供である。これを「受精卵養子」と表現する人もいるが、育てる両親と遺伝的なつながりがないという意味ではその通りであろう。産むという以外には養子と変わりない。通常の養子縁組(この場合は血縁のない未成年養子)であれば児童相談所が面接や訪問したり、委託期間を設けて親子関係の様子を見たり、最終的には家庭裁判所の許可で養子縁組が成立する。また、特別養子は家裁の「審判」が必要だ。これだけ煩雑な手続きと時間をかけ、家裁が関与するのも、子どもの福祉を可能な限り保障するためであるはずだ。提供を受けなければ妊娠できないかどうかの「医学的適応」の判断はもちろん医師の領分だが、実施するかどうかは、やはり児童福祉の専門家などを交えた審査で決定するほうが望ましい。そうでないと、養子制度との整合性もとれない。精子提供や卵子提供も、同様の側面がある。「生まれてくる子の福祉を優先する」という理念を遵守するなら、なぜ養子制度がこれだけの手続きを必要とするのか、いま一度考えてみるべきではないのか。

○(提供による生殖補助医療全般に対して)生殖補助医療が現在欧米先進国及び我が国で盛んに行われている現実に対し、生まれてくる子の人権と家族と地域社会の福祉を、社会的な見地から長期的展望にたち保障していく機能も備えた、公的な生殖補助医療管理運営機関の設置が必要であると考える。生殖医療の実施は、「医師の裁量」のみによるのではなく、その機関への申請・審査を経て行われるべきであると考える。
(案2)
 提供胚の移植は、(当分の間、)認めない。
(理由)
  • 国民の意識調査では、両親のどちらとも血のつながりがない胚提供に関しては、認めて良いという意見が少ない。

  • 離婚するときに子どもをどうするのかとか、親子関係がうまくいかなくなったときにどうするのかということを考えると、どちらとも血のつながりのない子をつくるのは時期尚早で
    ある。

  • 異父兄弟、異母兄弟で一緒に何も言われなくて育っている普通の賢い子どもたちの中には、自分が生殖医療の子どもとして産まれるとすればそれは嫌で、はっきりと断ると大人の意見として言う子どもが多い。

  • 現在の日本社会は、遺伝的なつながりがない子どもが安心して暮らせるほどの、成熟したゆとりのある社会ではない。血のつながった両親が一生懸命育ててもうまくいかない状況がたくさんある社会である。

  • 普通の子ども達の常識や、一般国民の心情と共に歩む生殖医療と言うぐらいのテンポで十分だ。

  • 里親制度というものが定着していない日本で胚の提供を導入するのは、時期尚早である。

  • 胚の提供によって生まれた子どもが医学的に問題のある子どもだったり、両親に不幸があった場合にその子はどうなるのかというような問題があり、時期尚早である。

  • 障害を持った子供が産まれた場合、血がつながっていないことを理由に依頼者が子どもの引き取りを拒否するおそれがぬぐえない。

  • 胚の提供による子供を作ることより、養子をオープンに歓迎できる社会を築く努力をするほうが重要である。

  • 精子・卵子など配偶子の提供であれば、事実を知ったときにもまだ受け入れる余地はあると思うが、胚の場合、「実の両親から胚の段階で『いらない』と捨てられた、人・ 胚の提供により出生する子どもは、精子・卵子の提供により生まれる子どもに比べて、自己のidentityの問題や家族による保護体制の不備等から不幸となるより高いリスクを持つのではないか。

(反論)

  • 精子や卵子の提供で片親が遺伝的に違うのも、胚の提供で両親とも遺伝的に違うのも、遺伝的に違うという点では同じである。両親が遺伝的に違うというだけで反対するのはおかしい

  • 第3者に危害を与えない、商業主義的なことを排除するという点では、卵子提供よりも胚提供の方がむしろ問題が少ないだろう。

  • 遺伝的なつながりのある方が良いのは当然だが、卵子の提供がどうしてもない場合、仕方なく胚の提供を受けて産むということを、最終的に当事者夫婦の選択肢として残しておく方がよい。

  • 余剰胚はヒトの生命の萌芽であり、廃棄するとこの世に命として生まれてくることはなく終わってしまう。その余剰胚を生かすという意味でも胚の提供を認めるのがよい。

  • 養子制度とパラレルに考える必要がある。胚の提供は「受精卵養子」とも言え、実施可能である。
○日弁連でずっと議論していて2000年3月に出した提言では、胚の移植についてはむしろ今の時点ではすべきではないというのが結論だったのですね。それは多分国民の意識調査の中でも、精子をもらう、卵子をもらうというのだったらどちらかと血のつながりがあると。だけど胚の場合には全く血のつながりのない、いわば特別養子の胚段階でのものだという形だったと思うのです。

○吉村先生がおっしゃったのは、胚に関してなぜそれだけ違うのかということですが、どうしても弁護士のところに来るのは、結婚するときに相談に来るわけでなくて離婚のときに相談に来るものですから、離婚するときに子どもをどうするのかとか、親子関係がうまくいかなくなったときにどうするかということを考えるものですから、そうするとどちらとも血のつながりのない子という形になった場合に、それを今の時点でそのまま実子という形、それは本当にフィクションだと思うのですが、そういったフィクションの形式の中に入れ込むというのは時期尚早ではないかということだったのですね。
 それでいろいろ検討していたときには、特別養子が一体どのぐらいあるか調査してみるとそんなに多くはないのです。かつて昭和62年に法律ができたときには年間 1,800人ぐらいオーケイになったのですが、今は 500人切っているのですね。そういう意味では精子提供によって生まれた子どもが年間二百数十人ということですから、弁護士の感覚だと第三者の精子・卵子を使う場合についても、裁判所の方の関与の方が必要なのかもしれないというような議論を今やり始めたところです。

○今の意見に私もほぼ賛成の意見かなと思うのですけれども、

○自分が生殖医療の子どもとして生まれるのだったらそれは嫌だ、はっきり断ると、その人たち自身が大人として発言しているのですね。それは自分の親を憎まなければいけないというすごく苦しいところに立たされ、その親が本当に苦しんだことを自分が了解できるまで40年、50年かかるというのですね。
 私は、特に胚の問題は遺伝的な形質がはっきり違うことは子どももわかりますから、これから先のDNA検査は子どものお小遣いやお年玉でできる時代になると思うのです。ですから、なぜ遺伝的なつながりが少しでもあった方がリスクが少ないかなどという、私たちが長年共有してきた現実の認識に立ち戻らないと、私たちの日本社会は遺伝的なつながりがない子どもが安心して暮らせるほどの、成熟したゆとりのある社会ではありません。遺伝的なつながりがあっても、両親が一生懸命育ててもうまくいかない状況がいっぱいある社会です。その辺の一般市民感情というのですか、生まれてくる子どもの、普通の子どもたちの常識からもう少し国民の心情とともに歩む生殖医療というぐらいのテンポで私は十分ではないかと思うのですね。

○私も福武委員のご意見に全面的に賛成です。里親制度というのが定着してない我が国で胚の提供を導入するのは、時期が早過ぎると思います。胚の提供を受けて生まれた子どもが仮に医学的に問題のある子どもだったり両親に不幸が合った場合にその子はどうなるのかというようなことや、渡辺委員が言及なさったような問題を横へ置いておいて先に進むのは少し時期が早いのではないかと思います。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○会としても「実質的には養子と変わらず、このようにしてまで生殖技術を実施する意味について、再度検討する必要がある」というコメントを提出している。私個人も、胚提供には反対。養子制度との整合性の問題と、障害を持った赤ちゃんが生まれた場合、血がつながってないことを理由に依頼者が子どもの引き取りを拒否する恐れもぬぐえない←法律でここまで担保できるか疑問。
 また、養子の場合、いまはできるだけ「真実告知」をする方向で指導されていると思う。胚提供による出産はまず告知されないと思われ、生まれている子をもらうなら真実告知、胚段階ならナイショという、「子ども」に対する2つの方針が同居しているのも(言ってみればダブルスタンダード)何かおかしい(特別養子に準じるならまた話は変わってくるが、その場合も障害の問題をどうクリアできるのかが不明)。「自分のおなかで産みたい」という欲求は十分に理解できるが、その欲求と子どもの福祉とどちらが優先されるのか、もう一度よく検討すべきである。養子の成立要件をゆるやかにし(現在は共働きだともらいにくいなどがある)、養子をオープンに歓迎できる社会を築く努力をするほうが重要と考える。
 「子どもの出自を知る権利」との関係もある。少なくとも自分が提供で生まれたのか否かを知ることができるという点については、この委員会でも合意の範疇だと思う。その場合、精子・卵子など配偶子の提供であれば、事実を知ったときにもまだ受け入れる余地はあると思うが、胚の場合、「実の両親から胚の段階で『いらない』と捨てられた、人に譲られた」という感情を持ちはしないか? 仮に胚提供の条件に子どもを成していることを加えた場合、「兄弟姉妹は実の両親のもとで育っている、じゃあ自分は何なのか」ということになり、よけい「見捨てられ感」が強まるのでは? 子どもが知ったときの衝撃の大きさ、混乱、嘆きや怒りを考えると、賛成できない。
 また、提供者が心理的・物理的に生まれた子どもを捜し求める(場合によっては引渡し要求など)こともあり得る(子どもが死亡したなど。自分たち夫婦に子がなければ、なおさら)。提供した夫婦のその後の心や人生を考えても、問題が大きすぎる。

○生殖補助医療技術を駆使した妊娠・出産は、親の身体的・精神的負担が大きいことから、より「子どもとその家族の福祉」に配慮されなければならないと思う。(1)精子または卵子の提供による生殖補助医療の実施と、提供胚によるものとは、区別をして考えていく必要がある。(私は、提供胚については賛成できない。)

○最も重要な問題は、不妊治療に関する狭義の医学的諸事項でなく、生まれてくる子供の幸福をどのように確保するかにあると考えます。血縁幻想が強い我が国においては、いずれの親とも遺伝的なつながりを持たない提供胚により出生する児は、提供精子、卵子により出生する児に比べて、自己のidentityの問題や家族による保護体制の不備等から不幸となるより高いリスクを持つことを委員会で確認していただきたいと思います。この前提の下では、精子、卵子提供に比し、胚提供はより高いハードルを必要とすることは言を待ちません。
⇒「卵子の提供を受けることが困難な場合」の具体的な判定基準をどのように設定するか?
 (実施医療施設の判断に委ねるか?全国的な卵子の提供状況を勘案して判断するか?
(p11)
(案1)
 「卵子の提供を受けなければ妊娠できない夫婦」も、卵子の提供を受けることが困難な場合には、提供された余剰胚の移植を受けることができることとする。その際の「卵子の提供を受ける」ことが困難であることの具体的な判定基準は?
(理由)
  • 遺伝的なつながりのある方が良いのは当然だが、卵子の提供がどうしてもない場合、仕方なく胚の提供を受けて産むということを、最終的に当事者夫婦の選択肢として残しておく方がよい。

  • 余剰胚の提供は、卵子の提供とは異なり、第3者に危害を与えない生殖補助医療である。

  • 余剰胚はヒトの生命の萌芽であり、廃棄するとこの世に命として生まれてくることはなく終わってしまう。その余剰胚を生かすという意味でも胚の提供を認めるのがよい。

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案1-1)の(理由)と同じ。

(反論)

  • 胚の提供を受けるのは、精子も卵子もなくてどうしても妊娠しない場合という原則が分かりやすい。

  • 卵子の提供を受けなければ妊娠できないという場合は胚で代割にやろうという考え方には、国民が納得しない。

  • 否定した代理懐胎では、遺伝的につながっているのに養子になり、胚提供により妊娠し、分娩しただけで遺伝的に異なる子どもが実子になるのはおかしい。

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案1-1)の(反論)と同じ。

○私は最終的にはあくまでもご本人の選択ということにしたらいいと思いますので、余り制限を設けるべきではないというのが基本的な立場です。ですからこの場合にしても、卵の提供はほとんどないと思う。でも余剰胚の提供ならある可能性があるわけです。しかし不妊のご夫婦としては、どちらかというと遺伝的な関係がある方がいいとお思いになると思うのですね。にもかかわらず卵の提供がどうしてもない。では仕方がないからということで胚の提供を受けて子どもを産むと。それはご本人がどうするかというのは最終的な選択として認めていく必要があると思います。ですから「胚の提供、卵の提供の代用とする」、これでよろしいかということについては、私はイエスと考えております。

○余剰胚というのは、他人を新たに傷つけることなく、現実にはその胚は今研究に利用するとかという話もいろいろ出てきていますけれども、この世に命として生まれてくることはなく終わってしまう、その余剰胚を生かす。この世に人の命として生まれてくることにつながるのだから、それなら認めてもいいのではないかという、かえって先まで言えば、提供卵のような第三者を傷つけることなくできることであるから認めてもいいのではないかというのがかなりあった、その2つ目の理由であり、養子とパラレルに考える。「受精卵養子」などという言い方も私もしたりするのですけれども、その点でいけば、確かにどちらともつながっていないのだから、慎重な手続が必要だという考え方、私もそれに半分賛成する面もあるのですけれども、これは実子を求める。自分たちの実子として子どもを得るための医療行為として考えるという観点で、既に生まれている子どもと親としてうまくいくかという観点、そこでの特別養子の判断とは違って、生まれたときからその人が親、まさしく産んだ人が母となって育てる、そういう親子関係ができるものという前提で進めるものとして考えるので、特別な手続をここの段階では特に提案せずに、普通の手続で提供胚の場合についても医療行為として行うことを認めていいのではないか。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○学会あるいは専門家集団で一応の基準を作っておいた方が良いと思います。

○実施医療施設の判断に委ねるのが妥当ではないでしょうか。卵の提供と胚の提供の医学的、心理学的相違について該当患者が理解し納得すれば卵子提供対象の患者が胚提供を受ける事も可能にしたほうが良いと思います。
(案2)
 「卵子の提供を受ければ妊娠できる夫婦」に対する提供された余剰胚の移植、(当分の間、)認めない。
(理由)
  • 胚の提供を受けるのは、精子も卵子もなくてどうしても妊娠しない場合という原則が分かりやすい。

  • 卵子の提供を受けなければ妊娠できないという場合は胚で代割にやろうという考え方には、国民が納得しない。

  • 否定した代理懐胎では、遺伝的につながっているのに養子になり、胚提供により妊娠し、分娩しただけで遺伝的に異なる子どもが実子になるのはおかしい。

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案2)の(理由)と同じ。

(反論)

  • 遺伝的なつながりのある方が良いのは当然だが、卵子の提供がどうしてもない場合、仕方なく胚の提供を受けて産むということを、最終的に当事者夫婦の選択肢として残しておく方がよい。

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案2)の(反論)と同じ。

○この胚の提供を受ける場合、精子も卵子もなくてどうしても妊娠しないという場合の理論の方が分かりやすいと思います。卵子の提供を受けなければ妊娠できないという場合は卵子の提供がないから胚で代わりにやろうという考え方で、国民は納得するでしょうか。もしそうなってきますと、また血縁の話になってしまうのですが、遺伝子的に全くつながってない親子、それは10カ月間妊娠して分娩しただけで実子であり、するともう一方で、代理懐胎というのを否定したわけですが、これは遺伝子がつながっているけれど産んではいないから養子だということになります。何か逆になるような気がするのですが。
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○前述のような理由で胚提供にはそもそも反対。

○「卵子提供を受けることが困難な場合における余剰胚の提供」・「余剰胚提供を受けることが困難な場合における卵子・精子の提供」・「兄弟姉妹からの提供」・「卵子のシェアリング」については、提供を受けることが困難であるかどうかを見るため、当分の間(2〜3年)認めない。
⇒「余剰胚の提供を受けることが困難な場合」の具体的な判定基準をどのように設定するか?全国的な卵子の提供状況を勘案して判断するか?)
(p12)
(案1)
 「胚の提供を受けなければ妊娠できなの提供によって得られた胚の移植を受けることができることとする。
 その際の「余剰胚の提供を受ける」ことが困難であることの具体的な判定基準は?

(理由)

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案1-1)の(理由)と同じ。

(反論)

  • 産まれてくる子どもが事実を知ったときに、アイデンティティの混乱が他のケースよりも生じる可能性があるのではないか。

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案1-1)の(反論)と同じ。

 
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○学会あるいは専門家集団で一応の基準を作っておいた方が良いと思います。

○この方式の提供が行われる為には、まず精子、卵子ドナーの同意が非常に重要となると思われます。ドナー希望者が、自分の配偶子がレシピエントでない全く他人の配偶子と受精され提供されるということの意味を理解し、同意されることが前提です。また産まれてくる子のことを考えると、事実を知ったときにアイデンティティの混乱が他のケースよりも生じる可能性があるのではないかと危惧します。ただ、それを覚悟の上でレシピエントが希望し、長期的な医学、心理学的フォローが保証されるのであれば可能としてよいと考えます。
(案2)
 「胚の提供を受ければ妊娠できる夫婦」に対する精子・卵子両方の提供によって得られた胚の移植は、(当分の間、)認めない。

(理由)

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案2)の(理由)と同じ。

(反論)

○ 提供胚の移植そのものの是非に関しては、「「胚の提供を受けなければ妊娠できない」ことの具体的な判定基準はどのように設定するか?」の(案2)の(反論)と同じ。

 
(以下、各委員より事務局に書面で送っていただいた御意見)
○これを認めるのは、会としても反対。個人的にも絶対に反対。胚提供以上に、子どもが事実を知ったときの衝撃、混乱が大きすぎる。まったく無関係の、顔を合わせたこともない男女の間にできた子という事実は、人の心が受け入れられる範囲を超えているのではないか。「子どもの福祉を優先する」というのであれば、知ったときにどうなるかも考えるべき。どうせ親は告知しないのだから……という前提で考えるべきではない。パブリックコメントでもこの件に対する反対意見は多く、もう一度よく検討すべき。

○「卵子提供を受けることが困難な場合における余剰胚の提供」・「余剰胚提供を受けることが困難な場合における卵子・精子の提供」・「兄弟姉妹からの提供」・「卵子のシェアリング」については、提供を受けることが困難であるかどうかを見るため、当分の間(2〜3年)認めない


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